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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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山全体でいうとアンナプルナで壁だけでいうとマカルー西壁が最強  マカルー西壁やナンガパルバットルパール壁アンナプルナ南壁

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マカルー 西壁
デスゾーン手前から山頂付近まで垂直の岩壁~オーバーハングが続くという人類の限界を超えたルート。 世界の一流クライマーが挑んだが全て敗退している。

マカルー西壁はデスゾーンでハードルがあがっちゃうからキツイね
ウエリシュティックでも無理だろ

1996年に満を持して挑んだものの、「フリーで登るのは不可能、多量のギアを持てばスピードが落ちてリスクが上がる」というジレンマの通り落石の直撃を受けて負傷し核心部に至らず敗退。 

「どのようなトレーニングを積めばいいのか判らない」と難しさを語っている。

これからも登頂が難しいのは今まで何回も挑戦されてるけど誰も登頂してないナンガパルバット冬季登頂
それと、あの山野井さんが「どうやって登ればいいのかわからない」と言わしめたマカルー西壁
この二つはなかなか登頂されないだろ

マカルー西壁、極限のクライミングを記録に残す意味。

――山野井さんはこれだけ世界的に注目される登山をしながら、あまりドキュメンタリー撮影などでクライミングしている姿を映像に残していませんよね。でも、「ヒマラヤに残された最後の課題」ともいわれるマカルー西壁(8463m)へのアタックでは、テレビの取材を受け入れましたね。これはやっぱり特別な挑戦だったんでしょうか。

 自分のやっていることを見せたいと思ったんです。というのも、メディアに流れる情報が、大きな隊によるエベレスト登頂や七大陸最高峰制覇といった方向に偏っていたのが気になっていたからです。登山にはそれとは違う世界があること、神秘的な山、困難な岩壁で、極限に挑戦しているクライマーがいるんだということを、ひとりでも多くの人に見てもらいたいという気持ちがあった。だから、べつに僕が主人公じゃなくてもよかったんです。

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 結果は頭に落石を受けて敗退。登頂を撮影することはできませんでした。その後もお話はありましたけど、基本的にはぜんぶお断りしました。そもそも8000m級の山で壁にしがみついている表情なんて撮れるわけがないということも分かった。

――野球やサッカーのような競技スポーツだったら、放っておいてもメディアに取り上げられますけど、登山の場合、自分から報告しないと誰にも分かってもらえない。そういう意味でも難しいスポーツですよね。

 僕の場合、だからといって自分の冒険を大げさに伝えるようなことは嫌だったんです。子供の頃からこの世界が大好きだから、正しく報告しなきゃいけないなということをすごく感じてました。それに自分がやってきたクライミングで、人に向かって本当に「やったぞ!」と言えるものはそれほどない。今までずいぶんいろんなところに書いてもらったし、自分でも書いたので、もう充分だと思ってます。

 むしろ、見せなくてもいい世界があるんだと思うようになりましたね。全部を世の中の人に知ってもらわなくてもいいじゃないかと。いずれにしても、経験したことそのものに比べれば、記録されたものは、残りかすみたいなものです。それは僕自身の文章もそうです。


アンナプルナは別格だけど
ナンガパルバット、K2,カンチェンジュンガ、ガウラギリ、マカルー
このへんの危険度は同じくらいでは?
壁によってはマカルーやダウラギリが一番危険だったりする

2009年のデータ発見しました ^^V
アンナプルナがとび抜けて、次にK2って感じみたいです。

以下 14座の挑戦者数、死亡者数、死亡率です(標高順)

エベレスト     5104 219  4.29%
K2         302  80 26.49%  
カンチェンジュンガ  243  40 16.46%
ローツェ       396  12  3.03%
マカルー       323  29  8.98%
チョ・オユー    2790  43  1.54%
ダウラギリ      417  62 14.87%
マナスル       297  58 19.53%
ナンガパルバット   326  68 20.86%
アンナプルナ     157  60 38.22%
ガッシャーブルムⅠ  298  26  8.72%
ブロードピーク    358  20  5.59%
ガッシャーブルムⅡ  872  20  2.29%
シシャパンマ     285  24  8.42%

エベレストは挑戦者5万くらいで死亡者千人の4㌫
アンナプルナは挑戦者5百人くらいで死亡者200人の40%

標高(8611m 世界第2位)
死亡率(アンナプルナに次ぐ2位)
冬季未踏峰(14座ではK2とナンガパルバットのみ)
不安定な気候
急峻な傾斜
人里から離れているためアプローチが難しい

以上の点から K2がもっとも危険な山と思われる。

世界初の14サミッターメスナー ローツェ南壁敗退
世界2番目の14サミッターククチカ ローツェ南壁にて死亡


ローツェ南壁を真冬に完登した田辺治は、ダウラギリノーマルルートで雪崩にやられた
表層雪崩なら避けられても、はるか高所のセラックが崩れたら予知も回避もできない

そんなこと言ったらきりないだろ
じゃあ誰も登頂してないマカルー西壁はどうなんだ?
まだ日本人女性が誰も登頂してないカンチェンジュンガやアンナプルナはどうなんだ?
一部分だけみて判断するのはどうかな?

14サミッター竹内洋岳のアンナプルナ評

とにかく怖かった
後にも先にもあそこまで追い込まれたのはあの時だけ
弾倉に弾丸が半分入ってるロシアンルーレットのようなもの
もう二度と登れない

あの竹内氏が言うんだからアンナプルナ超ヤバイんじゃね?





1995年のマカルー登頂から足かけ18年……数々の試練を乗り越えて
ついに日本人初の8000m峰14座登頂に成功した竹内洋岳。
ダウラギリの頂上に立ったそのとき、何を感じたのか?
下山したばかりの彼に、その思いを語ってもらった。
 世界に14座ある、8000m峰。

とにかくダウラギリの存在感はハンパない
回りの山が低くて丸っこい山の中で真っ白で馬鹿でかく鋭利な山がそびえ立ってる
将棋でいえば王将がドーンと立ちはだかってるような感じ
見た瞬間にこんな山絶対登れるはずがないと思うような山
しかし、テレビで竹内さんがすいすいと登頂したのを見てこれまた衝撃を受けてしまった

8000m峰危険度ランク

Sランク
アンナプルナ

Aランク
カンチェンジュンガ、ナンガパルパット、ダウラギリ、K2

Bランク
マカルー、ローツェ、エバレスト

Cランク
マナスル、ブロードピーク、チョオーユー、シシャマンマ、ガッシャブルムⅠ峰Ⅱ峰

女性登山家のワンダがアンナプルナ登頂したときにK2よりはるかに厳しかったって言ってた
そのワンダもカンチェンジュンガで滑落して死んでしまった


8000メートル峰の中では
最も難しいのがK2、最も危険なのがアンナプルナ


SS アンナプルナ、K2
S  ナンガパルバット
A  カンチェンジュンガ、ダウラギリ
B  マカルー、ローツェ
C  エベレスト、シシャパンマ、チョ・オユー、マナスル、ブロードピーク
   ガッシャーブルムⅠ峰、ガッシャーブルムⅡ峰

K2
おそらく世界で最も難しい頂。
標高が高い。雪崩の危険が高く、天候はよく悪化する。技術的に難しく、簡単なルートが無い。
北側の稜線はやや難度が下がるが、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響が厳しくなる。

アンナプルナ
14座の中で最も危険。北側のノーマルルートは技術的に難しくはないが雪崩の巣。
南側は技術的に極めて難しく、多くの危険がある。

ナンガパルバット
ノーマルルートは技術的に極めて難しいというほどではないが、長く、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響を受ける。
天候が悪いことで有名で、用心しなければならない場所が多い。難しい山の一つ。

K2の難所 頂上直下のボトルネック。
頭上のセラックやばすぎw
これがいつ崩壊するか分からんとかどんなムリゲーだよ

竹内さんは死の一歩手前だったガッシャブルムやエベレストよりアンナプルナの恐怖のほうが印象強かった
マジに死の恐怖に直面したらしい


K2、ガッシャーブルム、ブロードピークはほぼ同じ位置にあって
アプローチの難しさは同じ

カンチェンジュンガはかなり難易度高い
標高も高いしかなりの難易度、ナンガパルパットやK2と同じくらいのレベル
マナスルはアンナプルナまではいかないけど雪崩が多い
雪崩さえ気をつければ難易度は巨峰の中でも下のほう
イモトのときは雪崩がなかったから大量登頂できた
ダウラギリはルートによって難易度がまったく違う山
ここも雪崩が多く有名登山家ではシャンタルや田辺さんなどが亡くなってる

14座登頂した竹内さんが危険度NO1はぶっちぎりでアンナプルナって言うんだからアンナプルナなんだろ

メスナーはK2を山の中の山と評しているが、アンナプルナは特に評していない
ちなみに、メスナーが危機を感じたのはカンチェンジュンカとナンガパルバット

14座無酸素
マリオ・パンツェーリ(Mario Panzeri、イタリア)エベレスト3回を含む完全無酸素8000m峰14座制覇。
ゲルリンデ・カルテンブルンナー(オーストリア)女性として初めて8000m峰14座制覇の無酸素登頂に成功(2011年)


アンナプルナⅠ峰南壁
クリス・ボニントン(イギリス) エベレスト遠征のエキスパート、アンナプルナⅠ峰南壁初登頂


日本人の活躍
山野井泰史 K2南南東稜単独無酸素最速登頂の記録を持つソロクライマー
八木原圀明 エベレスト冬季南西壁初登頂
長谷川恒男 史上初のアルプス三大北壁冬季単独完登



マッキンリーは6000m峰だけど比高は世界一だし高緯度のため
高山病の危険が非情に高い山。
危険度で言うとエベレストよりは上だと思う。

冬富士は荒れれば生きて帰ってこれないぐらい危険だがアプローチが簡単で車から天候を読んで安定した1日で登れ、雪山中級なら誰でも登れると思う。

北アルプス、特に劔や槍穂高の稜線は違う。
アプローチに数日かかって急激に低気圧が発達したら身動きがとれず数日ビバーグもありえる。
しかも世界有数の豪雪地。
ドカ雪の日は夜も昼も寝れない。
1時間おきに雪かきしないと埋まっちゃうから。
ラッセルも半端ない。劔なんて厳冬期に入るパーティーなんてまずいないから
全てラッセル。
深いところは胸まで沈む。
気温はマイナス20と風速20mが重なれば体感温度はマイナス40度に達する。
特に上の動画の奥穂高岳から西穂高への縦走はまともなビバーグ地点すらない。
もちろんエスケープルートもない。
北アルプスは一度核心部まで突っ込んだら行くも地獄、退くも地獄。
やめといた方がいいよ。結構死んでる。
秋に奥穂から西穂縦走したけどすれ違ったおじさん翌日のニュースで亡くなってた。
一応一般道だけど大キレットと西奥縦走、妙義縦走は未経験者はやめたほうがいい。

ガチランキング

1 K2、アンナプルナ
2 ナンガパルバット
3 カンチェンジュンガ
4 ダウラギリ、ミニヤコンカ、ギャチュンカン
5 梅里雪山
6 マナスル
7 マカルー
8 エベレスト、ローツェ

SSS ギャチュンカン K2
SS  ナンガパルバット アンナプルナ ガンケルプンズム
S   カンチェンジュンガ ミニヤコンカ ウルタルⅡ峰
A   ダウラギリ 梅里雪山
B   マカルー カメット
C   エベレスト ブロードピーク ローツェ マナスル

日本人エベレスト登頂者のべ200人
日本人K2登頂者50人

K2登頂した主な女性
ワンダ、ガリンダ、ジュリー、シャンタル、小松由香

ガリンダはエベレストも登頂してるが他は全員エベレスト敗退してるな
記憶違いでワンダは登頂してるかもしれないが
とくにシャンタルはK2一回目の挑戦で登頂したけどエベレストは5回くらい敗退したはず
一概にK2のほうが難しいとは言えない


 そのすべてに登頂した、初めての日本人がプロ登山家の竹内洋岳だ。

 5月26日、14座の掉尾を飾る、ダウラギリI峰(8167m)の登頂に成功。1995年のマカルー登頂以来、足かけ18年に及んだ挑戦に区切りをつけた。

 カトマンズで羽を休める竹内に、今の心境を訊いてみたい。受話器から聞こえてくる声は、軽やかに弾んでいた。

――改めておめでとうございます。快挙達成のニュースに日本中が沸きましたよ。

竹内 そうですか。いや、なんかね、こっちにいるとよくわからなくて。ヒマラヤには私以外にも14座のサミッターは普通にいて、珍しくないんですよ。

――世界で29番目とも言われる、14座完登者になりました。ダウラギリの山頂に立った瞬間は、何を思いましたか。

竹内 今回に限らずいつも思うのは、もう登らなくて良いんだってこと。そこから先は空しかないですからね。もちろん、今回が14座目の完登に間違いないんですけど、14座完登よりも、14座目の山に登れてうれしかった。ダウラギリに登れて良かったなあ、という思いの方が強かったです。



――遠征に同行したカメラマンの中島ケンロウさんが体調不良でリタイア。単独でのサミットプッシュになりました。山頂で竹内さんが撮られた写真を見て驚いたんですが、一番上にあんな大きな岩があるんですね。

竹内 実物はたいして大きくないんですけど、あの岩がダウラギリの頂上です。とにかく風が強くて、岩の上には乗っかったんですけど、立ってガッツポーズするなんてとんでもない。四つん這いになって、一番高いところに手をかけた。そんな感じでした。

――すると、喜びにひたれたのはBC(4600m地点にあるベースキャンプ)に下りてきてからですか。

竹内 まずBCに降りてきた時は「ただいまー」という感じで嬉しかったですね。それからBCを撤収して、車や飛行機を乗り継ぎながら、ようやくここカトマンズまで帰ってきたわけですけど、もうBCを離れた時からなんとなく「次はどこに行こうかな」という気持ちになっていたように思います。

14座を登っただけで山の神髄を究めたとは思えない。

――そんなに早く次の山に関心が移っちゃうんですか。なんだか、もったいない。

竹内 ハハハッ。でも、いつもそうなんですよ。たとえば一生に一度の記念でエベレストに登るとかだと喜びのピークがあるのかもしれないですけど、私はやっぱり毎年のように登山を続けてきて、好きな山をどれだけ続けていけるかということを考えてますので。

 14座というのは確かに山田昇さん('88年秋の時点で9座の頂に立った日本を代表する超高所登山家)を始め、偉大な先人たちが綿々と受け継いできてくれた魂の系譜で、それを結びつけられたことは本当に嬉しいし、誇りに思うんですけど、一方でこれだけ無数に山があって、14座を登っただけでとても山の神髄を究めたとは思えないわけですね。まだまだ他にも登りたい山はたくさんありますし、登った山でも別のルートから登ってみたい。だから爆発的な喜びや達成感を、あまり感じられないのかもしれません。

ビバーク中、地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。

 14座の頂は、宇宙に近い。

 標高が8000mを超えると、酸素は平地の3分の1ほど。雪崩や強風、寒さによる低体温化など、試練は次々に襲ってくる。

 竹内の登山スタイルは、酸素ボンベやシェルパの力に頼らない速攻登山。生身で生きて還る能力こそが、試される世界だ。

――下山時、大きな試練に直面しました。途中で日が沈み、C3(最終キャンプ)へのルートを見失ったと聞いています。

竹内 天気は良かったんですけど、風が強くて。予想以上に登頂までに時間がかかってしまいました。予定では14時に着くはずが、実際に頂上に立ったのは17時半でした。

――水なし、テントなし。酸素ボンベもない。それでも7536m地点でのビバークを選択しましたね。

竹内 ビバークというと、冬眠中の熊のようにじっとしているイメージがあるんですけど、そこは吹きっさらしの岩の上で、寒くてですね、じっとなんてしてられないんですよ。腰を下ろしてウトウトしても、パッと目が覚めて。体をさすったり、また少し歩いて別の場所を探したりと、休むというよりは明るくなるのをひたすら待っている状況でした。たまに地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。ハハハハッ。叫んでましたね。

うおお!バン・ニーキルク世界新!!400m43秒03ておい!!100mを10秒75でいく計算!

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陸上界の新たなスター、ウェイド・バンニーキルク!

100m9秒台 200m19秒台 400m43.03←世界記録

8レーンの配置が好記録につながったのか、シードレーン(4~6レーン)だったら42秒台は達成されたのか!陸上はタラレバがつくスポーツですが、42秒台が現実的になった物凄いレースでした!

リオオリンピックでマイケル・ジョンソンの永久不滅と言われた世界記録を破り、43秒03という驚異的な世界記録で金メダルを取った南アフリカ共和国の「ウェイド・バンニーキルク」選手。

日本のテレビではあまり大きく取り上げられませんでしたが、陸上関係者(特に400mスプリンターの皆さん)の間では、まさに衝撃的ニュースとなりました。

個人的にはウサイン・ボルト選手の9秒58並に衝撃の記録だったと感じているのですが、いかがでしょうか?


世界の他の400m選手と比べても、短い距離でのPB記録が圧倒的に速く、世界で唯一9秒台、19秒台、43秒台を達成した選手です。

これは2016年現在現役である選手だけが対象でなく、これまでの陸上史の中で見ても彼しかなし得ていない大偉業となります。

あのマイケル・ジョンソンですら100m9秒台は持っていませんし、世界最速のボルトですらなし得ていないことです。

それだけ圧倒的優位なスピードを持っているバンニーキルク選手ですが、ただ短い距離が速いだけでも43秒03という記録を出すことはできません。

バンニーキルク選手は9レーンという不利なレーンでのレースの中、序盤から自身のスピードを活かして積極的に攻めていきます。

300m地点では一度メリット選手やキラニ選手と並びかけますが、前半あれだけ飛ばしたにも関わらず、ラスト100mで他の選手をさらに引き離していきます。

ラスト100m、バンニーキルク選手を追うメリット選手とキラニ選手は一生懸命腕を大きく振って前に進もうとしますが、それが逆に力みとなり、思ったように前に進んでいません。

一方のバンニーキルク選手、ラスト100mの粘る場面になっても腕の振り方はコンパクトなまま、リズミカルにうまく重心を移動させて大きく前に進んでいっています。

最初飛ばして後半もスピードが落ちない、非常に理想的なレース展開ですね。



このレース展開に関して、バンニーキルク選手はかなり緻密にレースプランを研究したと思われます。

スピード型400m選手らしい、実に理想的なレース展開。

このレースプランを普段の練習からしっかり意識しているため、前半はスピード型の「パー」の腕振り、加速局面を過ぎてからはエコに走ることができる「グー」の腕振りを自然に行っているのだと思われます。

非常に小さな違いですが、こういった小さな違いを普段から意識しているからこそ、オリンピック本番であれだけ素晴らしいレースを行うことができるのでしょう。



スーパークライマーを目指せ  ウーリー・ステック 「スイスマシーン」

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ウーリー・ステック(Ueli Steck、1976年10月4日 - )は、スイスの登山家。
アルプス三大北壁の最速登頂記録を持つ[1]。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から、「スイスマシーン」の異名をとる。名前はウエリ・シュテックと表記されることもある。

主な登頂記録[編集]
2001年 プモリ西壁初登頂
アイガー北壁"The Young Spider"初登頂
2006年 ガッシャーブルムII峰北壁初登頂
2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録・2時間47分33秒
グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録・2時間21分
2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録・1時間56分
2011年 シシャパンマ南西壁ソロ 10時間30分
2013年 アンナプルナ南壁ソロ
2015年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録更新・2時間22分50秒[2][3]



2008年2月13日、ほとんどのクライマーがチームを組んで、二日はかけて登頂するアイガー北壁(高さ1800m)に、単独、命綱無しで、わずか2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂した。
2008年5月、アンナプルナを登山中にスペイン人登山家イニャキ・オチョア・デ・オルサ隊の遭難事故が発生した際には、自らのチャレンジを捨て遭難現場に急行。二人のうち一人は救助の甲斐なく死亡したものの、ウーリーの迅速な対応により一名は生還を果たした[4]。この救出活動は後に映画化され、日本でも2014年9月に公開された(「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」)[5]。この活躍が評価され、チームメイトのシモン・アンターマッテンとともに「プリ・クラージュ(Prix Courage)賞」を受賞した。
2012年5月にはエベレストの無酸素登頂に挑戦。登頂予定日には異常高温によるルート崩壊で待機していた登山家の大渋滞に巻き込まれ、デスゾーンで予定外の待機を余儀なくされるアクシデントが発生。同行のシェルパが力尽き撤退する状況の中、ウーリーは登頂に成功して生還を果たした[6]。
2013年4月、エベレストでシモーネ・モロ、ジョナサン・グリフィスと共にシェルパと乱闘事件を起こし、登頂を中止し下山することになった[7]。



トレイルランニング、スカイランニング、あるいはマウンテンランニング。いや、この際呼び名はどうでもいい。山という舞台におけるスピード志向の人たちのあいだで、全世界的にその名を轟かせる人物がいる。



 ウーリー・ステック、39歳(写真=永易量行)。
 あえて肩書を記すならば、ウーリー自身は自らを「アルピニスト」と名乗っている。そしてアルピニズムの世界では当代最強の人物と目されている。だが、そのスタイルは20世紀的なアルピニズムからするとかなりの「異端」だ。ウーリーのスタイルはスピード登山などと呼ばれており、例えば……。

 アイガー北壁。標高4000m近くの高所で、標高差は1800m。マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁と並ぶヨーロッパ三大北壁のひとつで、初登攀までに8人もの命を呑みこんだ難関として知られる。1938年に初登攀された際は、都合4人がかりで3日もかかった。それをウーリーは昨年、2時間22分50秒で駆け登った。命綱なしのソロスタイルで。もちろん最速記録である。

 繰り返しになるが、十分な装備を持った登山家がパーティを組み、時間をかけて臨んだとしても、一歩間違えれば命を落とす危険な壁だ。そこをアルパインクライミングの常識からすると圧倒的に少ない装備とウェアで挑む。当然、比類なきテクニックとスピードがなければ成しえない。ピンと来ない人は、Youtubeなどの動画を見てほしい。ウーリーの凄さは、山の素人が見てもすぐ感じ取れる。



 垂直スピードは750m/時を超す。これはトレイルランの登りに遜色のないハイスピード。この速さで、雪と氷に覆われた岩壁を攀じ登るのだ。



「アイガーには今までに40回以上登っています。自分の裏庭のようなもので、遊び場です。昨年の記録達成時は、いちおう記録を狙ってはいましたが、大きなリスクは負わないと決めていましたし、心拍数も最大で165、平均で155ほどでした。しっかり調整して、天候にも恵まれれば、2時間を切れる感覚もあります。
 でも、私は各々の挑戦や達成にランクを付けて、優劣を比べるようなことはしません。例えば去年は他に『82サミッツ』の最短記録を成功させました。これはヨーロッパの4000m峰すべてを、歩き・クライミング・自転車・パラグライダーなど人力移動のみで一筆書きするチャレンジです。このような大きなプロジェクトも、近所のランニングも、そう変わりません。各々で何を感じ、楽しんで、ハッピーになれるかが大事なのです」



「もちろんハードなトレーニングは不可欠です。真剣に準備しますが、どこかでfoolishにもなることが大事です。シリアスになりすぎない、と言えばいいでしょうか。私個人の挑戦が成功しようが失敗に終わろうが、“世界”は変わりませんし、地球は回り続けます。成功しても失敗しても学べることがあります。このような姿勢が困難な挑戦を助けるんです。私は自分の中で一番強いフィジカルパーツは“脳みそ”だと思ってるんですよ(笑)」


 主だった岩壁の初登や名峰のピークはとうの昔に攻め落とされているし、より困難なルート、バリエーションルートからの登攀も、あらかた終わっている。では、現代を生きるクライマーに残された挑戦、冒険は何になるのか。その一つの答えが「スピード」という切り口になるのかもしれない。
 それは、スピーディに山を楽しむアクティビティ=トレイルランニングシーンの盛り上がりとどことなく通じ合うのではないだろうか。実際、ウーリーは2015年にUTMBの姉妹レースのひとつ、OCCの50kmを22位で完走している。欧州のメジャーレース「アイガーウルトラトレイル」ではアンバサダーを務めてもいる。



「トレーニングではトレイルランニングなどの有酸素運動も重視しています。もちろんクライミングスキルを磨くことも重要ですが、近年はランに割く割合を増やしています」と語るが、彼のように「走る」ことを本格的に取り入れているアルピニスト、クライマーは欧米でも少数派だ。でも、それがウーリーのスタイルを支えている。
 そしてあのキリアン・ジョルネとも友人で、モンブランやマッターホルンなどの山に一緒に入る仲だという。

「彼とは気の置けない友人です。麓から一緒に走って、谷を駆け上がり、北壁をクライミングして、また降りてくる、といった遊びをしたりしています。彼にはより優れたランの力があり、私にはより優れたクライミングのスキルがあります。だからお互い刺激し合えますし、年齢は離れていますがシンパシーを感じるんですよ」



ウーリー・ステック
1976年、スイス生まれ。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から”スイスマシーン”の異名をとる。08年にアイガー北壁ソロを2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂し、一躍注目を集める。同年~翌年にかけてヨーロッパ三大北壁すべてでのソロ登攀最速記録を樹立。近年はエベレストやアンナプルナなど高峰でも活躍。14年、ピオレドール受賞。



Gerlinde Kaltenbrunner、女性初の無酸素で8000m峰全山登頂

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オーストリアの Gerlinde Kaltenbrunner が 8月 23日に北陵から K2 に無酸素で登頂し、女性として初めて全ての 8000m峰に無酸素で登頂した女性になりました。彼女は竹内洋岳さんとも過去に何度か登っています。


また、今回は 4人パーティで登っていますが、他の 3名、Vassily Pivtsov、Maxut Zumayev、Darek Zalusk も無酸素での 8000m峰全山登頂を達成しており、これにより 8000m峰全山登頂者は 26名になりました。このうち半分の 13名が無酸素で達成しています。

彼女は K2 へは 4回目のトライとなり、昨年の遠征ではツアーメンバーを亡くしています。ちなみに旦那の Ralf Dujmovits も 8000m峰全山登頂を達成しています。
関連リンク

ゲルリンデ・カルテンブルンナーはオーストリアの登山家。女性として初めて8000メートル峰全14座の無酸素登頂に成功した。酸素ボンベ使用下での8000メートル峰全14座の登頂者としても、2人目の女性登山家となる。名前はガリンダ・カールセンブラウナーと表記されることもある。 ウィキペディア
生年月日: 1970年12月13日 (46歳)
生まれ: オーストリア キルヒドルフ・アン・デア・クレムス

2017.04.02 桜祭りと新雪模様 積雪80センチはつぼ足で厳しかった 蛭ケ岳まで届かず

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2016
年末現在

 2566塔ノ岳2582

 1381丹沢山1396

 1216蛭ヶ岳1230

  634姫 次647

  157青根159

    6平丸7

  423焼 山431

  419焼山登山口427

  406三ケ木414

  291橋本駅北口291

   37大山38

    3大山三峰4



 【ファシズムの初期症候】

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●強力且つ継続的なナショナリズム 
     → ネトサポの台頭、「日本スゴイ」教の流布等
●人権の軽視         
     → 共謀罪、マイナンバーに見るとおり
●団結の目的のために敵国を設定 
     → 中国、北朝鮮を異常に敵視
●軍事の優先     
     → 安保改定、駆けつけ警護の付与、武器輸出原則放棄
●性差別の横行
     → 明治以降に作られた”新しい伝統”の押し付け、女性の軽視
●マスメディアのコントロール
     → 所謂アンコン、マスコミ各社幹部との幾多の会食
●国家の治安に対する異常な執着
     → NSC、特定秘密保護法、共謀罪、緊急事態法
●宗教と政治の癒着
     → 日本会議、神道政治連盟、生長の家、統一教会、創価学会...
●企業の保護
     → 法人税減税、タックスヘイブン放置、円安政策等による大企業ファースト
●労働者の抑圧
     → ホワイトカラーエグゼンプション、残業代ゼロ法案
●学問と芸術の軽視
     → 憲法(法学)の軽視、経済学無視、クールジャパンの押し付け、外資優遇し国内芸術産業壊滅
●犯罪の厳罰化への執着
     → 共謀罪、NSC、FEMA、国民監視システム
●身びいきの横行と汚職
     → 森友、加計学園事件に見る同族優遇と汚職、甘利/ドリル小渕汚職
●不正選挙
      → ムサシ




皆様にもよく考えていただきたいのですが、もし自民、維新、こころが本当に保守政党であり、日本の文化と伝統を重んじ、日本国民の生命と財産を守り抜くと言うのであれば、外国人に国富を切り売りするようなことはしないはずです。

日本国民の生命と財産を危機にさらすようなことはしないはずですよね?

郵政民営化、TPP、カジノ法、国家戦略特区、財政出動のない金融緩和、内需無視した金融市場優遇、株価至上主義、エジプトでのISへの宣戦布告、パチンコの合法認定、種子法の廃止、水道法の改定、駆けつけ警護を是とした安保改定と南スーダンへの着任、竹島放置、慰安婦の強制連行是認、北方領土のロシア主権是認などなど…。

これら全てが外国人への利益供与であり、日本国民の生命と財産を危機にさらす売国そのものであり、これらの政策を嬉々として進めてきたのが自民、維新、こころとなります。


自民維新のようなニセモノが保守を気取り、「日本のことを考えている」などと嘘八百を撒き散らす行為には鉄槌を下さなくてはならないでしょう。
このような売国奴どもに二度と「我々は保守だ」などと語らせてはなりません。

森友、加計事件や豊洲市場問題を介して、多くの人が自民や維新、小池知事が、いかにして国富をお友達の民間や外国人に売り渡すのか、そのスキームを知りえただろうと思いますが、これは民主主義の危機です。

彼らは、自由化だ、民営化だ、規制緩和だ、国家戦略特区だと叫びながら、その実、国富を売り飛ばし、日本国民の生命と財産まで危険にさらしているのです。

自民、維新、日本会議などの長州カルト教団は、解体しなければならないのではないでしょうか。

続 南アルプス山行記

続々南アルプス山行記


続々........南アルプス山行記

竹内洋岳 田辺治 

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ローツェは世界最高峰エベレスト(8848m)の直ぐ隣に聳えている。
世界第4位の高峰でありながらエベレストの隣にある為、あまり注目されない山だが、その山の南面である南壁は麓から3300mの高度差で頂上まで突き上げている。その壁の巨大さと8000m以上での岩壁登攀の困難さから、かつて8000m峰14座全山登頂を世界で初めて成し遂げたラインホルト・メスナーは「ヒマラヤの21世紀の課題」と言った。その壁が初めて登られたのが1990年の旧ソ連隊によってだった。その後の挑戦も続いたが、なかなか登れる壁ではなかった。同じく1990年にスロベニアの登山家 トモ・チェセンが単独登頂に成功したとの知らせもあったが、その後に事実の信憑性からこの登攀は疑惑の登攀(登っていなかった)と言われ、正式な記録として認定はされていない。

登山でその山の同じルートをコンディションのいい時期とそうでない時期に登るのとでは、困難の度合いに大きな差がある。
最大に困難なのは厳冬期(12月から1月)だ。ヒマラヤでは11月後半から高層のジェット・ストリームが降りてくる。その風速は高度8000m以上で風速50m以上、気温は-50℃以下で、
その条件下で登山をするとなると体感温度は-100℃以下になり。空気中の酸素は平地の3分の1、薄い酸素と寒気で油断をすればすぐ手・足が凍傷になってしまう。
強風の為に岩壁に付いている雪が飛ばされて、岩がむき出しになり、アイゼンを使った登攀がしにくくなる。
また寒気から身体を守る為に、ウエア等の装備も重装備になる。更に冬期により日照時間が短くなるので、昼間の行動時間が短くなる。
等、厳冬期でのヒマラヤ8000m峰登山は最大限に困難な登山となる。

日本の厳冬期8000m峰のバリエーション・ルートでの登山は群馬県山岳連盟が1987年12月にアンナプルナⅠ峰(8091m)や1993年12月に世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁での世界初の厳冬期初登頂に成功している。(バリエーション・ルート登山は一番登りやすい通常ルートではなくて、より困難な難しいルートより登頂する事。)
世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁の高度差は2200m、ローツェ(8511m)南壁は3300m。山の高さはエベレストより低いが、壁の高さは約1.5倍。
これを厳冬期に登るとすると両者で同等の困難さになると予想された。

日本の登山界にとって群馬岳連の厳冬期エベレスト南西壁以来久々の快挙だと思っていた。
田辺さんは厳冬期エベレスト南西壁にも参加して、2次隊で見事に登頂している。
ローツェ南壁と合わせて、その実力は今の日本でも最高のヒマラヤニストの1人だと私は思う。

厳冬期ローツェ南壁初登攀の快挙に対して、日本の新聞・マスコミは「頂上に登れなかったから、登山は失敗」というニュアンスで報道した。

田辺 治は、日本の登山家。元日本ヒマラヤ協会理事。元日本山岳会東海支部長。 ウィキペディア
生年月日: 1961年1月4日
生まれ: 愛知県 名古屋市
死没: 2010年9月28日
 JAC東海支部でローツェ南壁を初登攀した田辺治さんがダウラギリで雪崩に遭った、との報道に驚く。これまで困難な登攀を危なげなくパスしてきたアルピニストだけになぜ?と思う。
 雪崩に遭ってもしばらくは生きているものらしい。しかし高度が高いだけにわずかな呼吸困難でも窒息するかもしれない。場所が場所だけに救助活動も思うに任せないだろう。
 奇跡を信じたい。いやーご心配をおかけしました、と帰ってきて欲しい。関係者のみなさんがそう思っている。何も協力できないが祈るしかない。

東京新聞からコピー

ヒマラヤ遭難、現地と捜索協議 登山家3人の家族や協会
2010年9月30日 12時55分

 ネパール・ヒマラヤの高峰ダウラギリ(8167メートル)で雪崩に巻き込まれた日本人登山家3人が行方不明になった山岳遭難で、パーティーの隊長を務める名古屋市中区の田辺治さん(49)が所属する日本プロガイド協会(愛知県刈谷市)や家族は29日夜から30日にかけ、今後の捜索活動について現地と連絡を取り合うなど対応に追われた。

 同協会によると、自力で脱出し無事だった兵庫県芦屋市の島田和昭さん(37)がベースキャンプに滞在。同協会は島田さんと協議し、捜索活動などについてネパール当局と検討する。

 協会事務所がある登山用品店「穂高」には、行方不明になっている長野県白馬村の本田大輔さん(32)の両親らが集まり、現地からの情報を待った。島田さんから29日夜、衛星電話で「自分は無事。田辺さんたちの捜索に加わる」と連絡があったという。



厳冬期、困難なルートを選びながらも「人を死なさない隊長」として知られていたが、ダウラギリのノーマルルートの下部キャンプ移動中に雪崩の直撃を受けて遭難。 遺体は未だに発見されていない。

全14座制覇の竹内洋岳氏が薫陶を受けた先輩。

竹内さんが初めて登頂した8000m峰は1995年、マカルー北東稜西稜初登攀でしたが、当時中堅登山家だった田辺治さんもその登山隊の隊員でした。竹内さんにとって田辺さんはヒマラヤの先輩に当たる人です。






今の気持ちはテンペスト魂で   みほたいら⇒高瀬橋⇒鴨池人道橋の桜路

北アルプス山行記 セレクト

南アルプス山行記 セレクト

いろいろ

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呼吸をすると同様に易々とウソをつく彼氏、宗主国の無謀な攻撃を支持している。
小泉首相発言「大統領は(戦争開始の判断は)正しかったと発言している。イラクが大量破壊兵器がないと証明すれば、戦争は起こらなかった」の再現。

シリアが化学兵器を使っていないと証明するのは「悪魔の証明」だろう。
土地疑惑渦中の組織に寄付していないと証明するのは「悪魔の証明」だといった人物が、ご主人のためなら、平然とウソをつく。

9/11偽旗テロ後、難癖をつけ、アフガニスタンを攻撃し、イラクを攻撃した暴虐の再現。誰が、世界最大のテロ国家か、良く示す出来事。
しかも、習首席の訪米中というタイミングを狙っている。

大本営広報部バラエティー番組の幇間・売女、宗主国のまったく理不尽な攻撃を、淡々とつたえるのみ。それがお仕事。
報道番組、春の人事入れ換えをしても、タレントや人気アナウンサー総出の大本営広報部呆導番組のまま。

日本マスコミが日本がおかれている危機をほとんど理解していないのは常態だ。

東京の慈善の仮面は、はげ落ちつつあり、本当の顔である強欲と悪の面を現しつつある。この顔こそ、でっちあげられた“北朝鮮の脅威”より遥かに恐ろしい。より多数の日本人がこれに気づけば、熱核戦争の脅威は、ワシントン帝国と東京の傀儡とともに崩壊するだろう。

かつては「天皇の命令」なるもので、戦地に赴かされ、靖国神社にまつられた。
今後は「宗主国支配層の命令」を忖度する属国の傀儡に、侵略戦争に赴かされる。
そういう無理を可能にすべく、70余年、日本人の洗脳・改造が推進されてきた。
秘密法案、戦争法案、憲法破壊、そして、共謀罪。

陰の政府のプロパガンダ馬車に飛び乗って、リベラル/進歩派/左翼は、ハルマゲドンに向かう行進に共謀している。

一体、何処の国が我が国に「正面切って喧嘩を」吹っ掛けてくると言うのだ?愚かにも軍産複合体の「偽旗」「戦争キャンペーンに乗らない限り」は私たちを責め滅ぼそうと考える国は無い。「私たちを滅ぼすなら」相手は「軍事衝突以外の手法」を使うだろう。水道事業民営化、「移民」による「事実上の侵略」、食品兵器、遺伝子組換え作物、種子法改正などだ。今の自民党が成す大半の政策と言って過言無いだろう(笑)、「敵は国内にい
た」中東から帰還した米兵の言った言葉を「心に刻め!」。


同じ統制を、ありとあらゆる国民に広げる道具が共謀罪。侵略戦争に反対する人々、組織の根絶が目的に決まっている。侵略戦争参戦と共謀罪は二つで一組。

日本は、北朝鮮のほんの一歩手前。
宗主国、「日本を脅し、基地を永久化し、戦闘機、ミサイル、オスプレイを買わせるのに役立つ」大切な鉄砲玉北朝鮮を潰すつもり皆無だろう。大切なお宝。

日本収奪を狙うハゲタカ外資と、それに手を貸す政治家、財界人、官僚、メディア。金融資産のみならず、農業から医療、雇用、国土と環境、伝統、文化まで、あらゆる国民の「富」が危機...

株式運用で年金資金5兆円が損失し、TPPでは巨大資本が日本市場を狙っている。現在の「国富流出」の危機を明かし警鐘を鳴らす。

ことごとく前言を翻す宗主国大統領、
当選直後にあわててかけつけた属国首相と馬があって当然。
いずれも、呼吸するようにウソをつく能力に極めて富んでいる。

北朝鮮のミサイルにサリンを搭載する可能性まで傀儡は言い立てる。

北朝鮮ミサイルよりもなによりも、自滅党、治安維持法でトップ二人を逮捕されたのに、共謀罪を推進するカルト宗教政党、異神の怪たちによる支配、連中の走狗大本営広報のほうがはるかに恐ろしい。



タブロイド紙の「真央引退の真相」という見出しを見た瞬間、「土地疑獄隠しに絶好の話題として、官邸が機密費を支払って依頼した」と続きに書いてあるのではと妄想した。大本営広報部大政翼賛会のあきれるほどの洪水呆導。

宗主国走狗議員離党会見で「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」という言葉を思い出した。
一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人はそれを真実のこととして広めてしまうということのたとえ。とデジタル大辞泉にある。

言い分にいかにも理があるように、大本営広報部大政翼賛会は扱っている。

いみじくも、自民党東京都支部連合会会長が早速ラブコール。

ご本人は「都民ファースト」にラブコール?
個人的には、あの党には、離党して欲しい議員、他にも多数おられる。

公明が「都民ファースト」と組み、自民が「都民ファースト」と戦う構図は茶番。
「都民ファースト」党首は自民党員。自民党をぶちこわす小泉改革の再現にすぎまい。
本当に都民のためを思う政党や、話題を潰すためのめくらまし。「都民ファースト」がいくら増えても、支配体制には痛くもかゆくもない。大阪異神の怪が良い例。

「都民ファースト」そもそも大阪の弁護士を演者に呼ぼうとしていたくらいだ。

「自民ファースト」だと思って眺めている。


メルトスルーした核燃料は、人類滅亡の日まで永久に放射能を環境、海洋に垂れ流し続け海を殺すだろう

3人でハイ・ペースで大倉バス停→橋本駅北口213回目 14.11/08(土)の記録

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ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第四番の第一楽章の導入部の旋律の様に

厳かに.......。

ニューフェイスのOさんを挟んで「K野さん」と三人で

三ケ木までは三人一緒に

とっても、記憶に残る橋本駅コースになりました



大倉バス停6:58:00-堀山ノ家7:42:22-8:15:23塔ノ岳8:21:03-丹沢山8:47:06-9:25:43蛭ヶ岳9:32:16-10:04:38姫次10:10:02-焼山10:39:46-11:05:33焼山登山口バス停11:15:23-三ケ木11:50:55-JR橋本駅北口12:43:20( 5:45:20)



とっても素晴らしい気候コンディションにも恵まれて


道路コンディションにも恵まれて


三人でハイ・ペースで押しながら


このペースで蛭ヶ岳まで行っても


今、現役の中で丹沢主脈をやらせたらNO.1のスピードだと思われるS野さんが

10分詰めて来て

蛭ヶ岳頂上で追いつかれちゃいました

完全に白旗です!!

その後のS野さんは、檜洞丸経由ユーシン~塔ノ岳で渋沢駅までとなっています





今日はいつもより

蛭ヶ岳からの下りも軽快に


特に

焼山の下りについては

Oさんに先導して貰ったら

私にとっても

焼山→焼山登山口まで自己ベストとなりました



そして

国道413号線のロードは

三ケ木までは自重して

大沢交差点手前から

「K野さん」がトップ引きに変わり

途端にペース・アップ

最後まで

並走シーンで

思い出に残るロード走となり、

久しぶりの好タイムでの橋本駅ゴールとなりました!!


ベートーヴェンの交響曲の様に重厚にやるのにも

好い季節になりました
























丹沢グルリ(蛭ケ岳周回)ヴァーチカル5000 13.04/13(土)の記録 

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大倉バス停6:50:00-8:16:44塔ノ岳8:20:11-尊仏の土平8:47:55-ユーシン・ロッジ9:24:26-大石山10:05:56-10:46:27同角ノ頭10:52:09-11:36:10檜洞丸11:39:18-神ノ川12:28:32-風巻ノ頭13:15:36-13:58:45袖平山14:08:45-姫次14:14:34-ハンの木丸14:34:28-15:13:04早戸川観光センター15:17:57-16:19:04本間ノ頭16:26:04-17:13:59丹沢山17:17:51-17:42:33塔ノ岳17:48:03-堀山ノ家18:12:41-大倉ロッジ峠18:55:02( 12:05:02)



今日は本当に素晴らしい好き一日となりました!!

いつもは橋本駅コースなのですが

今日に限って

この一度はやりたかった丹沢グルリ(蛭ケ岳周回)コースを

強豪三人衆が大倉一番バスで出走するということが分かっていたので

それに便乗した形となり

でも、強豪三人衆との同時スタートでは初っ端の大倉尾根の入りから高レベルで大変なので

どうしてもその前にスタートをしてユーシン・ロッジ辺りで追い着かれようと

ハンデを作り

大倉バス停は一番バスより前のスタートで

朝は早起きをして渋沢駅に6:21に着いたので

渋沢駅発6:25発の秦野行きに乗り、大倉入口にて下車して

大倉バス停では、一番バスより15分は早く6:50スタートでした

予想では強豪三人衆が20分遅れで追いかけてくるので

大倉尾根の序盤はゆったりと入り

好い緊張感を保ちながら

予定通り、温存策で朝一の塔ノ岳頂上へ

今朝は冷え込んで霜柱も立っています

ロングをやるには好い条件のような気がします

結局

一番バスの前に臨時は出なかったのか

強豪三人衆のうちの一人が一番バスの乗車に乗りこめなくなり

二番バスの乗車に成り

強豪三人衆は結局30分遅れのスタート時間となりました

尊仏土平→熊木ダムまでの林道は落石ゴロゴロで通過が大変でした

熊木ダムからは好い林道です

なぜ、強豪三人衆は怖いのかと言うと

山の下りがとても強いのです

塔ノ岳→尊仏ノ土平までの下りが速すぎて付いては無理

下りなのに登りのような苦しさを体感します

ここを一人でマイ・ペースで降りたかった

タイム差10分ありますから

それは大変な差です

そう言う訳で一人旅で先行しました



ユーシン・ロッジで追い着かれる予定が

上記の事もあり、強豪三人衆は現れませんでした

それで

同角ノ頭まで急登をマイ・ペースで登ることが出来て

温存に成りました

しかし

石棚山稜分岐付近に着いてからは後方が気になり

まだ来ないかなと思いながら

ツツジ新道分岐上の木道で後方を見ると気配がして

なんと30分差を詰めて参りました

檜洞丸の頂上ベンチで一度は一緒に成りましたが

ここから同時スタートになると

熊笹ノ峰から神ノ川への下りが劇的に弱いので先にスタートして逃げました

そしたらなかなか追いついて来てくれません

神ノ川の橋を渡り

急峻な尾根に取り着き

風巻ノ頭手前で強豪三人衆のうちの一人が

駆け登って抜き去って行きます

このお方が

この丹沢グルリコースの生みの親なので

当然と言えばそのままですが

風巻ノ頭から袖平山まではペースが上がらすに

後ろから来る二人が気になった

そして

スタートしてから7:08:45後にして

一番恐れていたことが

袖平山頂上で4人が一同に会し

一緒に姫次→早戸川の下りをしなければなりません

だが

ハンの木丸からの下りが柔らかくて助かりました

難なく林道へ降りたち

ラストの4本目の登りになります

今日の登りはこれが最後なので

早戸川の本間橋の脇にある早戸川観光センターからが登り口

最初の沢沿いと鹿柵沿いまでが蟻地獄のような滑る急登でした

鹿柵が終わると少し楽になる

ここから本間ノ頭までは楽しかった

本間ノ頭頂上ベンチで休憩します

しかし

時間が押していて

あまりのんびりはしてられません

丹沢山までを少し早くして

大倉尾根を半分は明るいうちに降りたいので

円山木ノ頭を過ぎると風が強くなり体感温度が急降下

後ろから強豪三人衆がピタリと

リモート・コントロールされてるようで

一番後ろに下がったらヤバイので先頭で行きました

そして

丹沢山頂上へ

なんか帰って来たなあという気がします

本当は、みやま山荘でカップメンの予定でしたが

泊まり客で賑わっていたのでパス

丹沢山→塔ノ岳は24分台で行きました

後ろからプッシユされてる感じです


尊仏山荘でカップメンの誘惑もありましたが

堀山ノ家までは明るいうちに通過したいのと

真っ暗な中、ライトの灯りだと時間がかかるので

そのまま行きました


皆、ここで食糧がなくなったようで

空腹を感じながら


私は下りがヘボなので

なんとか先頭で駒止階段下のフラット地まで

でも

ここで強豪三人衆が本領発揮して

ここから夜道一人旅となりました

大分、下で待って貰ったと思いますが

メンバーの内の一人が車だったので

お陰で大倉ロッジ峠から車に同乗させて頂き、暖房で快適に渋沢駅まで送迎して頂きました

お腹が空き空きだったので箱根そばで休憩してから帰りました


この日帰りコースは累積標高差5000mで総延長50kmでした

丹沢山塊の盟主「蛭ケ岳」の廻りを周回させています

このコースでの唯一の心残りは、蛭ヶ岳を経由しないということです

連休明け強行採決 共謀罪成立でもう後戻りはできなくなる

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北朝鮮からミサイルだ、戦争だ、と散々煽る一方で、
北朝鮮から一番近い玄海原発を再稼働させるという、
アベ政権のアベコベさは完全に理解不能だ。

核燃工場廃止に8千億円 国民負担 ! 


官僚の中で一番悪いのは岸信介だ! 

北朝鮮が核爆弾撃ってきたら、会社休みになるかな?とかいうツイートを見たが、東日本大震災の翌日でも、福島原発がぶっ飛んでも通勤ラッシュが毎日続いたんだぞ。核爆弾ごときで会社が休みになるとかどんだけ頭弱いんだよ。


日本はもはやそんなにすごい国ではありません。日本が豊かだったのはせいぜい1990年代初頭までの話です。それ以降は経済的にも文化的にも日本の存在感は低下する一方で、どんどん世界から相手にされない孤独な国に落ちぶれようとしています。

 ヘルシンキやタリンでアジア人を見かけても、彼らはたいていは中国からの旅行客で、日本人であることは稀です。北欧まで遊びに来る余裕がある日本人はもうそんなにいないでしょうねえ。

 いわゆる「ガラパゴス化」が極度に進行してしまった日本の家電なんてとっくの昔に中国や韓国のメーカーに駆逐されてしまっていて(カメラとプリンターを除く)、ヨーロッパのデパートではほとんど見ることができません。

 日本のアニメや漫画、TVゲームといったサブカルチャーに接している人はヨーロッパにもいますが、あくまで一部のマニアックな層に過ぎず、日本人が考えているほどには流行していません。「Cool Japan」なんて言葉を知っている人はいません。

 「日本礼賛番組」に出てくる、「日本の技術は最高だよね。文化も素晴らしいし、人々は礼儀正しいし、憧れの国だよ!」とひたすら日本を褒めちぎってくれる外国人は、TVの中にしか存在しません。無理矢理な演出と、「どうせ何を言っているか視聴者にはわからないんだから」と適当につけられたテロップによる産物に過ぎません。

 「日本で働くことを夢見る外国人」も、非常に限られた人たちです。日本の労働環境の劣悪さは海外でもよく知られていますし、英語を話せる人が少ないこと、賃金が高くないこと、そもそも排他的な国民性であることも多くの人が知っているので、高度な技能を持つ人ほどわざわざ日本で働こうとはしません。これからも日本の経済は縮小を続け、いっそう貧しい国になることが確定しているわけですから、そんな国にあえて移住しようという人はそうそういません。

 しかし、地上波で毎週何本も放送される「日本礼賛番組」を鵜呑みにしている人たちは、そんなことは夢にも考えないことでしょう。「日本は世界最高の工業技術を持つ先進国で、日本のオタク文化は世界を席巻、日本人の慎ましやかな国民性は国際的に大絶賛されている。日本に生まれてよかった、日本に生まれた自分は幸せだ!!」と信じて疑わないはずです。

 ……となると、こういった「日本礼賛番組」の流行現象って、一種の「ポスト真実」による世論形成なんじゃないですか。


この馬鹿親子は、日本を崩壊する、ことに政治の目的があるようです。

オヤジは、郵貯、解体。

バカ息子は、TPP推進で、農林中金 解体。

生産者の顔が見える。とか、やれオーガニックだ、ヘチマだタワシだと言った所で既に空気と水が汚染されている事実には眼が向かない。
中国、インド、インドネシア、モンゴルから飛来するPM2.5ナノスケール粉塵。国内で発生する車の排気ガス、ブレーキダスト、タイヤ粉塵。劣化した光触媒酸化チタン。
上記のいずれも粉塵粒径サイズはウィルス同等ないしそれ以下。電子顕微鏡下でなければ測定不能にして重力の影響受けず延々と滞留し続ける。吸い込まれたナノスケール粉塵は肺胞を通り抜け血流に乗り心臓から全身に送られ細胞に取り込まれミトコンドリアに沈着し、あるいは、鼻粘膜から嗅覚神経細胞に乗って脳に蓄積していることが昨年科学誌に発表された。
染み皺隠しのファンデーション、塗料、タイヤ、医薬品、合成洗剤その他ナノマテリアル商品1600種類が出回っている。
一旦環境に放出されたナノスケール粉塵は下水処理をすり抜け、エアーフィルターをすり抜け、現時点回収の手立て無く、生態系を破壊し続ける。2006年日本の生産高で100万トンを超えている。
ちなみに太平洋戦争でアメリカが対日空爆で使った爆弾総量は16万トン。

食の安全以前に空気の安全、飲水の安全が危機に瀕している。



体臭と関連した病気を簡単にまとめてみました[4]。

甘酸っぱい臭い → 糖尿病
小便の臭い → 腎臓病
便の腐敗臭 → 便秘、自律神経の乱れ
ドブやカビの臭い → 肝臓病、肝機能低下
卵の腐敗臭 → 胃炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍
脂臭い → 皮膚病、脂漏性皮膚炎
生臭い → 肺、大腸の病気
汗臭い → 多汗症、甲状腺機能亢進症、 脳梗塞、末梢神経障害
魚臭い → 魚臭症(トリメチルアミン尿症)

放射能被ばくにより生じる疾患ばかりです。被ばくが原因と見てほぼ間違いないでしょう。

内臓から来るものですから、お風呂に入っていくら洗ってもだめ。
デオドラント・制汗剤も効かない。

アメリカが日本国民を監視するための費用を日本側が負担し、「最強のスパイシステム」を日本側にも提供!

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恐らく小泉政権の頃(ネオコンによって9.11が引き起こされた頃)より、自民党内でもアメリカに物を言う政治家が無力化し始め、今や現在の安倍政権では完全なる隷米(厳密に言うと、アメリカの内部に寄生している「ネオコン・グローバリスト」の傀儡)勢力が日本国内で絶対的な力を持つに至ってしまったと見るのがよさそうだ。



そして、その見返りに、CIAネオコンが開発した「最強のスパイシステム」を日本に提供した…というわけか。



共謀罪が施行されると、この”最強スパイシステム”がフル稼働して、「1億総監視社会」が完成することに
 

この機密文書に対して、現時点で日本の防衛省は一切のコメントを控えている状況だけど、実際に安倍政権が共謀罪を強行的にスタートさせると、まさにこのスパイシステムがフル稼働して、私たちは徹底的に監視・傍受されることになりそうね。

(中略)…安倍政権がすでに大々的なネット監視を行なってきていることは、ボクが前から言ってきたとおりだけど、もはやアメリカと同じレベルにまで、そのネット監視が非常に高い精度で行なわれていることが今回の文書で分かったね。

つまり、すでに、サイトの訪問歴やショッピングの履歴はもちろん、電子メールのやり取りの収集も、スカイプやラインなどの傍受も、安倍政権は全てが思いのままに出来てしまっている可能性があるということだ。

管理人さんが前から警告してきたとおり、やっぱり共謀罪は、半ば合法的に「1億総監視社会」を完成させるための、グローバリストによる「新世界秩序」の一環だったってことね。

これで憲法を改正してしまえば、いよいよ完全に合法的にあらゆる監視が出来てしまうわ。


GWに偽総理はロシア、イギリスへ?

いよいよ命乞いですか?


偽総理はサイコパスとして、諸外国の油ダポチ首脳クラスの中でも見劣りがする

日本の中央集権は下っ端から上層部まで徹底した冷酷主義。


純粋培養された筋金入りのサイコパスなら、人もうらやむ幸せな家族を演じる。

愛妻家で子煩悩。

女性の地位向上や社会進出に手厚い支援を行う人格者。



その一方で大量殺戮兵器ビジネスに麻薬カルテル。

相手が某独裁国家の首領なら、即座に相手の知的レベルに合致したトークを展開。

必要ならば介入し、味方につけ、それなりの見返りを約束するが、目的を達成したら切り捨てる。


偽総理がロシアやイギリスで何をするのか知らないが、既にロシアもイギリスも次元跳躍存在の支配下である。

これは既に全世界的な動き。



それでも偽総理は日本(三次元限定朝鮮代理勢力)の延命を求めるのか?

とんでもないトンチンカン。



この議事録をご覧下さい。日本の放射能汚染渦の原因を作ったのはこの人間たち。必ず原因があって結果があります。

第023回国会 科学技術振興対策特別委員会 第4号 昭和三十年十二月十三日(火曜日)

中曽根康弘「超党派性をもってこの政策を運用して、政争の圏外に置く」

被爆国でありながら「原子力の平和利用」などとよく言ったものです。


日本では、あいかわらず放射能汚染国レベル7という前提がなくなったかのように、汚染地域でやってはまずいことばかりがニュースになって流れています。スポーツだって、川の釣りだって、観光だって、本来成立しないはずなのに驚かされます。

この世界の放射能汚染地図をずっと見ています。ブログの設定でこれ以上大きく鮮明にできなくてすみません。
核実験、原発がない地域は、そう簡単には移住などできないような場所です。紛争地域で治安が悪く、放射能とはまた別の危険が存在するところもあります。

旅行代理店などは、世界の「光」の部分しか見せません。本当に重要なのはこの「影」の部分。世界はこんなに核で汚染されています。

海に核のゴミを捨てるような国を私は好きになれません。ご覧ください。日本の周りの海も核のゴミだらけです。

放射性廃棄物の海洋投棄(1946~93年)

ソ連   45.1%
英国   41.24%
スイス  5.19%
米国   3.46%
ベルギー 2.49%
フランス 0.42%
オランダ 0.4%
日本   0.12%

土も海も空気ももう汚れきっているのです。世界中。もちろん「まし」なところはあります。しかし、これからその「まし」を保てるかどうかの保証はありません。

海の底の生き物まで有毒化学物質で汚染され、世界中の海岸には、大型のシャチやクジラ、イルカが集団で死んで打ち上げられています。複合汚染が疑われます。

クジラの胃の中には大量のプラスチック。それでも人間は自分の暮らしをあらためることはありません。どれだけブログで電子廃棄物やプラスチックゴミの状況を伝えても、ペットボトルもテレビもスマホもパソコンも「やめた」という人がいません。スマホをやめられないように仕向けられているからです。

電気代も再生可能エネルギーの普及のために上がります。 電気代に上乗せされた再エネ賦課金は、売電した人間を富ませるものです。
自然破壊のソーラーパネルに反対してる人や、貧しくてそんなものを家に設置できない人からも、再エネ賦課金をむしり取って、買取費用として売電業者や売電個人に回すのです。
はじめから原発を止める気はないのに嘘をついて、そんな仕組みを作ってやっているのです。

再生可能エネルギーには、いろんな発電方法があるため、「~よりまし」という単純な論法で、周辺の反対住民を再エネの各論にもっていき、CO2地球温暖化の虚構により、すべて囲い込んで潰してしまうことが可能です。離島には風力、メガソーラー、蓄電池など全部設置。里山にはバイオマス、過疎の田舎には風力もメガソーラーもどちらも設置といった異常事態となっています。

ソーラーパネルが、原発と同様に膨大な石油を消費しなければ作れないということがわからない愚かな利権者ばかり。再エネ工業製品はまさに石油の塊みたいなものなのに。

被曝を回避し、努力して生き延びることは、もちろん大事なことです。しかし「自分の被曝だけを徹底回避すればいい、ほかの知らない人のことや社会をよくするなんて考えなくていい」という主張をする人がいましたが、私はそれには全く賛同できません。恐ろしいと思いました。結局それでは被曝回避自体もエゴじゃないでしょうか。そういうエゴからくる被曝回避ではだめなんです。

そのエゴが日本をレベル7の放射能汚染の国にしてしまったんです。

私は思います。日本に住む人は覚悟を決めて、日本社会を変えなければ、世界全体に対しても、次世代に対しても無責任になってしまう。世界一放射能汚染された国に住んで、原発もやめずに電気を浪費して、なんでもオール電化、スマート化して贅沢をしまくるなんて間違いです。そんな社会を望むことを諦めなければ。そしてそんな国策をやめさせなければ。

確かに市民も馬鹿でした。8時だよ全員集合やひょうきん族やごっつええ感じやみなさんのおかげですなどのお笑い番組を、何十年も見てる間に、日本中に原発が54基もつくられてしまったのですから。チェルノブイリ原発事故やJCO事故があってもまだ気づかないのですから。もう市民は愚民化されてどうしようもないレベルになっています。

原発作業者が年一回行われる原発の定検工事や、フクイチ事故現場の作業などで、毎日、毎日、被曝しながら支えているということを忘れて、あるいは知らずに、市民はエンタメにうつつを抜かしているのですから。

原子力発電で病気の元をばら撒いて環境汚染(放射性物質+化学物質の複合汚染)

市民が病気

環境汚染の結果の「後始末」のための医療技術、薬を開発(病人がすがる)

病気⇒貧困で生活できなくなって自衛隊

戦争準備をし、武器を作り儲ける(再エネ、ドローン、ロボット、ロケットに税金が回るのは戦争のため)・・・イマココ



原発ムラ=医療ムラ=兵器ムラのつくった巨大マッチポンプ

さらに 原発ムラ=再エネムラ=兵器ムラなので



CO2地球温暖化の嘘

原子力ムラが再エネを国策化する準備、根回し

福島第一原発事故の日に 再エネが国策化
再エネ特措法が閣議決定された日の午後に東日本大震災⇒福島原発事故⇒放射能汚染国レベル7の日本へ 

放射能汚染国の日本で、再エネによる日本列島の自然破壊が進む・・・イマココ



となっています。このからくりを分かってて、確信犯で生きる人、刹那的に生きる人、わかってなくて生きる人、これから、みんなまるごと放射能汚染渦⇒戦争に飲み込まれていきます。

病死人が増え、カルトが蔓延するでしょう。

ゴミを燃やす焼却炉、工業生産に使う炉、雑多な工業製品が燃える火災、産廃火災は、すべて有毒なPM2.5を発生させる大気汚染の源です。

土や水、空気を汚染し、人間や動物を病気にし、死に至らしめる。それが工業文明です。

そこから想像すれば、どういう国、どういう文明を目指せば、本当に持続可能なのかわかると思います。

いま「持続可能」と言われているもの=再生可能エネルギーは、原子力ムラが作り出した嘘のストーリー。

私たちは、あらゆるゴミの問題を直視して、この真逆をやること☟それがヒントだと思います。

憧れの のまダッシュさんとロードは並走 思い出の 大倉バス停⇒橋本駅北口261回目 15.12/23(水)

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大倉バス停7:06:37-堀山ノ家7:56:42-8:35:46塔ノ岳8:39:52-9:11:27みやま山荘9:20:33-9:56:18蛭ケ岳10:00:02-姫次10:28:15-焼山10:55:46-11:22:32焼山登山口バス停11:27:29-三ケ木11:58:36-JR橋本駅北口12:58:31( 5:51:54)

今日はサプライズ

みやま山荘の扉を開けて外へ出たら

目の前を

トレイル師匠が

三ケ木までご一緒させていただきました

とっても好い時間となりました

「K野さん」も一緒で三人でのロード走は最高でした

丹沢山⇒三ケ木の区間タイムが上がって

ゴールタイムも今季最高タイムとなりました!!



今思えば、これが6H切りのラストランになったかもしれません


これからはトレランはなしで登山へ転向です

いろいろなコースを巡って行きたいです



 「非情の山」ともいわれるK2 青木 達哉 小松 由佳

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 2006年8月1日16時50分。待ちに待ったその瞬間、東海大学K2登山隊ベースキャンプは歓喜と安堵に包まれた。東海大学K2登山隊の小松由佳隊員と青木達哉隊員というアタック隊が、世界の精鋭登山家にもっとも険しいと恐れられるK2の山頂を極めたのだ。
 しかもこの登頂は記録ずくめとなった。小松由佳隊員は「日本人女性初登頂(世界でも8人目)」、21歳10か月の青木達哉隊員は「世界最年少登頂」を成し遂げたのだ。
 登頂に成功したその瞬間を小松由佳隊員はこう振り返る。
「午前2時半にアタックを開始して、膝まで埋まるような雪や難度の高い岩場を超え、半日以上経った頃ようやく他の高みが見えない、ゆるやかな頂が見えてきたんです。それまでいくつかのピークを越えてきましたが、その頂が見えた瞬間、『ここがK2の山頂だ』と確信めいたものがあったんです。そのとき、先を行っていた青木が『先に行ってください』と気遣ってくれたんですが、もうそのまま行かせちゃいました」
 その山頂目前のやりとりを、青木達哉隊員は克明に覚えているという。
「ちょうど山頂まであと数歩――2mくらいのところだったと思います。自分でもどうして『どうぞ』って先に行ってもらおうとしたのかよく思い出せないんです。いろんな山で指導してくれた尊敬する先輩という気持ちがそうさせたんだとは思うんですが、山頂を目の前にしての達成感や、その反面『もう終わっちゃうのか』という寂しさ……。いろんなものがこみ上げてきたんです。ただ先に行ってもらおうと思ったら、『いいよ、行きな』って……。鼻をすするような音が聞こえてきたから、もしかして泣き顔を見られたくないのかなとも思いました」
 山頂に先にたどり着いた青木隊員は、最後の数歩を踏みしめるたび、脳裏にそれまでのことが次から次によぎっていた。現地スタッフや他国の登山隊の顔ぶれが浮かんでは消える。そして最後の一歩を登った瞬間、空と一体になって頭が真っ白になったという。アイスバイルをついて、無線でベースキャンプに連絡を入れた。デジカメで記録写真を撮影した。しかし、その時点で小松隊員は違うことを考えていた。
「私も登頂する瞬間は、サポートしてくれた方々への感謝の気持ちが大きくわき上がりましたね。青木と同じように、走馬燈のようにいろんなことが頭を駆けめぐりました。ただ、登頂前の本当に数秒だったと思います。登頂した実感も正直あまりなかったですね。むしろ『どう降りるか』ということに気を取られていたような気がします」
 山頂にいたのは1時間足らず。既にアタック開始から15時間以上が経過している。酸素の減りは予定よりも早く、下降中に切れそうだった。下山前に頂から下を見たとき、「数千メートルも下にすっぱり切れ落ちた斜面は底のない穴のように見えた」と小松隊員は言う。
 そして登頂報告の無線を最後に2人からベースキャンプへの連絡は途絶えた。




そもそも東海大学の登山隊がK2という山を目指すことになったのは、2006年が同大学の山岳部創部50年という区切りの年だったことも、その理由だった。それまでも、2001年にはクーラカンリ、2004年には中国・カラコンロンと6000~7000mクラスの山へ遠征し、実績を積んでいた。そして満を持して2006年、K2へのアタックとなったのだ。東海大学K2登山隊の出利葉義次隊長は、その経緯をこう語る。
「当初は世界最高峰のエベレストという話も出ていたんです。数字を求めるだけなら世界最高峰を目指すという選択肢もあったかもしれません。ただ、山岳の世界ではもっとも難しい山はK2だと言われている。ならば、登山家として、より高い目標を目指すべきではないかということになったんです」
 だが、決定したあとも不安はよぎる。相手は、世界の精鋭登山家たちが命を落としたK2という最難峰。登頂できるのか、いやそれどころか生きて帰れるのか……。だが、より大きな困難を乗り越えたときほど、達成感や喜びは大きくなる。目標は、登山家なら誰もが憧れるK2に定められた。
「しかし、東海大の山岳部は他の大学の山岳部に比べて歴史も浅い。足りない経験を補うための万全の準備が大前提となります。例えば、登るルートひとつとっても、どんなルートを選ぶか、そのルートは登山隊や隊員のスキルに適したものか……。他にも医療スタッフや通信手段、気象情報の収集手段など、考えるべきことは無限にあります。登山というのは、自然との闘い。強大すぎるほどの相手だからこそ、十分すぎるほど情報を集めなければならない。ベースキャンプという5000mを超える高所での根幹を担うのが発電機。全幅の信頼がおけるものでなければ選ぶことはできません」(出利葉隊長)
 2001年のクーラカンリ登頂以来、東海大学山岳部はHondaポータブル発電機に全幅の信頼を寄せている。文字通り、生死を賭した危険な挑戦だからこそ、Honda『EU9i』は、東海大学K2登山隊のベースキャンプにまで随行する唯一のポータブル発電機となったのだ。 


東海大学山岳部のターゲットはK2に定まった。現役・OB他、登山隊員8名がK2への道を目指すこととなった。そしてK2のような高峰を目指すにあたり、まず初期段階での重要な作業はルートの策定となる。ルート次第で登山の成否は決まると言っても過言ではない。
「ルートは、単に傾斜のきつさだけで決めるのではありません。例えば、他の登山隊が多く登ったルートでは、先行した登山隊が残していったロープをあてにして登ることもあります。しかし時間が経過してゆるんでいたりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることもある。さらに、他の登山隊がすぐ前を先行しているときには、それに伴う落石も考えられる。自分たちが先行している場合には岩を落とさないよう、気を遣わなければならない。比較的登りやすいルートは、他国の隊も集中する。それより、山と隊が真っ向から対峙できるルートを選ぼうということになったんです」(出利葉隊長)
 検討に検討を重ねた結果、出利葉隊長率いる東海大学K2登山隊は南南東から登るルートを選択した。急な岩場や、氷と雪で固く締まった壁に覆われた難ルートである。
「南南東リブから入るルートは、確かに難ルートではあります。しかし、氷雪壁の登はんとなれば、日本の雪山で鍛えられた東海大学登山隊が得意とするところ。もちろんルートを決めた時点では、まだアタック隊はおろか、どんな人選で隊を組むかも決めていませんでした」(同)
 だがその段階でも、やるべきことはいくらでもあった。
「『EU9i』があれば電力は確保できる。となれば、登山に必要な情報テクノロジー用の電源はすべて網羅することができるのはわかっていました。ですから、まず最大限に情報を集め、解析できる体制作りから手をつけることにしたのです。まず、大学内の情報技術センターに支援を依頼し、ヨーロッパの気象衛星METEOSAT5号の衛星画像を加工・補正してもらい、パキスタン北部地域を網羅した衛星画像が送信される体制を整えました。さらに、この衛星画像をもとに、学内の気象学の専門家に予想天気図を作成してもらうことにもなりました」(同)
 すべての電気の源を司る『EU9i』については、2001年のクーラカンリ遠征と同様、オールホンダ販売に依頼し、メインジェットを高地用にチューニングした。電源を要としたハード面、そして日本からの情報支援については目算が立った。だが、出利葉隊長の目の前には問題が山積みとなっていた。

 ハード面では『EU9i』含め、可能な限り最高の準備の目算が立った東海大学K2登山隊だったが、何より最大の問題が控えていた。当然ながら、登山とは人が山を登るもの。だが、肝心の隊員の編成が最大の問題だった。
「大学登山隊は、基本的に現役で山岳部に所属する学生と、OBで編成されることになります。そこで中核となるのは、やはり経験豊富なOB隊員。ただし、ほとんどのOBは企業勤めをする会社員。休みの調整なども必要ですが、家庭や仕事の事情で断念せざるを得ない隊員もいるので、中核を担うOBの存在は本当に貴重なのですが……」(出利葉隊長)
 しかし、自然を相手に研鑽を積む以上、危険とは常に隣り合わせ。そんななか、出利葉隊長にとって頭を悩ませる事故が起きた。
「主力にカウントしていた中堅の隊員が2005年にヒマラヤで凍傷にかかってしまい、両手足の指を切断することになってしまった。隊の中核を担うには、回復までの時間が足りなかった。他の隊員も日程を調整し、学内からだけでなく学外からの支援も受けている一大プロジェクト。日程はどうにも動かせなかったんです」(同)
 戦力ダウンを埋めるため、山で荷運びをする高所ポーターを手配することになった。だが、ポーターはあくまでも隊を補助する存在。K2の山頂を目指す隊員の質の向上が急務となった。
「コンディションがよければ、アタック隊として山頂を目指せる人材を増やすことが急務でした。時間が限られているなか、学生ならば集中的に鍛えることができ、伸びしろも期待できたんです」(同)
 といっても、10名程度の学生のうち、K2にチャレンジできる力量までの伸びが期待できるのはある程度のキャリアがある上級生のみ。しかし、上級生ともなると就職活動も本格化する。そんななか、K2という最高峰に挑むための過酷なトレーニングに身を投じる者はほとんどいなかった。隊に参加した数少ない一人は、その動機をこう語る。
「いやー、僕は消防士になろうと思ってたんで。単位も間に合ってたから、『もうちょっと山に登ろうかな』と思って。K2なんて、滅多に行ける場所じゃありませんし」
 K2世界最年少登頂を達成した、青木達哉隊員が隊に参加することを決意したのは、そんな気軽な動機からだった。

K2登山隊への参加を決めた青木隊員だったが、K2へ向かうためのトレーニングは過酷を極めた。標高4000m相当の低圧・低酸素室で高所順応トレーニングを行った。週に4回、1回につき6時間。プロのアスリートよりも過酷なトレーニングともいえる。
「もともと体を動かすのは好きだったんです。山岳部に入ったのは、新人勧誘で『ロッククライミングができるよ』って誘われたから。なんだか楽しそうだと思ったら、入部早々登った雪山がすごく過酷で『なんで、こんなことしてるんだろう』ともう苦しいったらありませんでした。でも、山頂まで登ったら今まで知らなかった爽快感を味わうことができた。それからすっかりハマることになっちゃいましたね」(青木隊員)
 以来、山の魅力に惹かれ、国内の山を次々に登った。2年生の時にはカラコンロン山脈へと赴いた。
「そのカラコンロンで、先輩の小松さんたちと同じ宿になって、いろいろ話す機会を持つことができたんです」(同)
「小松さん」というのは、K2アタック隊でコンビを組んだ小松由佳隊員のこと。当の小松由佳隊員は当時のことをこう振り返る。
「青木君に限らずですが、彼らの代の子たちとはいろいろ話はしましたよ。詳しくは差し障りがあるので言えませんが、それこそ話し合いの過程で殴り合い寸前になったことも(笑)。私の代も彼らの代も人数は少なかったから、似たような苦労もしているんですよね」
 小松隊員は、高校時代から山岳部で競技登山を行っていた。
「インターハイや国体での競技登山は、あくまでも点数を競うもの。山という雄大なフィールドの中なのに、誰が何秒早く到達するかという競い合いになる。向き合うべきは、山のはずなのに……。ルールに縛られるのではなく、純粋に山と向き合いたいと思ったんです。もっとも、根っからの冒険好きでインディージョーンズみたいな世界観を味わいたいな、考古学も学びたいな、と思っていたら、最先端の登山はパソコンや衛星通信も使っていた。驚きましたね」(小松隊員)
 現代の登山シーンにおいては、『EU9i』のようなポータブル発電機は、もはや必携アイテムになっていたのだ

高校時代から数えて、もう10年山に登っているという小松隊員だが、2006年にK2に挑む直前には、登山を続けるかどうか悩んだこともあったという。
「山は基本的に男社会。もちろんどんなに鍛えても、筋力ではかなわない。女性がリーダーとして隊を統率するのは難しい面もあるんです。他にもいろいろな悩みが積み重なり、2005年頃には『もう山をやめようかな』と悩んでしまっていた。それまでは、生活の90%が“山”だっただけに、抜け殻みたいになっていたんです。そんな頃でした。出利葉さんから『K2に行かないか』と誘われたのは」(小松隊員)
 険しい山になればなるほど隊は大編成となり、チームワークも必要とされる。そんなチームを率いるには、個人として山に向かうのとはまた異なる資質が必要になる。その資質は、“山男”なら誰もが持っている資質というわけではない。個人それぞれが山と向き合うことと、チームとして山と対峙することは根本的に異質なもの。その双方を兼ね備えたリーダーは決して多くはない。様々な経験を重ねたが故に、当時の小松隊員は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。そんな彼女を救ったのが、出利葉隊長からのK2への誘いだった。
「誘いを受けた後、大学に出向いて何回も話をして『この人がリーダーのチームなら、きっとまた登れる』と思えたんです。世界中に数ある登山隊には、リーダーが独善的だったり自分の考え方を押しつけるような隊もあるんですが、出利葉さんは、チームを意思統一できるリーダーとしての厳しさはありながらも、隊員ひとりひとりの考え方も受け止めてくれる。私が考える登山隊像に合っていたんです。声をかけてくれたのが出利葉さんだったから、『また登ろう』とやる気になれたんです」(同)
 小松・青木両隊員だけではない。東海大学K2登山隊に参加したメンバーの数だけドラマがあった。そして、2006年6月5日、先発隊として出利葉隊長以下、小松・青木の両隊員が成田を発った。3か月前に船便で出発した『EU9i』をはじめとした、荷物が待ち受ける大陸へと向かって。

先発隊の3人がパキスタンに入った数日後には、医師や看護師なども含め、隊に参加する全員が集まり、6月14日にはキャンプ地を目指し行軍を開始した。だが、初夏のパキスタンは厳しい暑さでも知られる。地域によっては平均気温が8月よりも高くなり、最高気温が40℃を超えることもしばしば。行軍は、早朝の涼しいうちに開始され、現地のポーターたちと合わせ約20名のチームはベースキャンプ(BC)へと向かった。行軍の様子を出利葉隊長はこう語る。
「猛暑のなかで1トン以上の荷物を背負っての行軍でしたが、BCまではほぼ順調に行程をこなすことができました。途中、ポーターに一人50ルピーのチップを出すと伝えると、もの凄い勢いで進んでいったのが印象的でした(笑)」
 6月20日にはBCに到着。その後、約1か月をかけて、C0、C1、C2と設営していった。昼はキャンプの設営、夜は機材の整備などに追われた。
「BCでの食事は現地のコックが作る料理と、日本から持ち込んだフリーズドライの食品が中心でしたが、現地のコックが作るのは当然パキスタン料理。何を作っても全部カレー味。補助的な食品として、現地でクッキーを買い込みましたが、さすがにカレー味のクッキーは不評でした(笑)」
 出利葉隊長は、笑い話としてBCでの様子を話すが、ほとんどの日程で設営は夜にまで至った。連日、登はんが終了するまでの18時から21時までの間、Hondaポータブル発電機『EU9i』はフル稼働していた。医師として隊に参加しながら、発電機のメンテナンス担当となった小林利毅隊員はその様子をこう語る。
「BCでの1か月半、ほぼすべての電源を発電機から供給していましたね。持ち込んだガソリンには限りがあるので、1日数時間しか稼働させられない。その間にすべての電源を確保する必要がある。『EU9i』を一次電源として、車載用の大容量バッテリーや汎用電池パック、パソコン、デジタル音楽プレーヤーなどの充電まで行っていました。もちろん、夜間の照明等の電源にも使用しましたが、最後までトラブルもなく快調でした。むしろ、他国の隊が使っていた他メーカーの発電機のメンテナンスに追われることの方が多かったかもしれません(笑)」
 海外のガソリンは地域によっては、高品質とは限らない。ゴミなどの不純物の混入を避けるため、給油は婦人用のストッキングをネット代わりに濾過して行われた。出利葉隊長は、そんな小林医師の様子をこう振り返る。
「二足のわらじというか、ほとんどエンジニアのようでしたね。私を始め、他の隊員から『小林モータース、今日もロシア隊に出張してるなぁ』なんてからかわれていました(笑)」
 そうしてEU9iがフル稼働している間に、C0~C2までの設営は着々と進んでいった。



 C0~C2までの設営が着々と進むなか、同時にアタック日の選定が慎重に行われた。ヨーロッパの気象衛星からの情報の解析結果が日本の東海大学を通じてBCに送られ、その情報をもとに、アタックの詳細が決定された。そのアタック隊に選ばれたのは、1978年生まれの蔵元学士隊員、1982年生まれの小松由佳隊員、そして現役の学生である1984年生まれの青木達哉隊員という3名。その決定理由を出利葉隊長はこう語る。
「衛星通信を介しての情報をもとに、慎重に検討した結果、8月1日頃の天候がいいと予測できた。パソコンや衛星回線を介して、あらゆる情報を検討できたからこそ、精度の高い予測ができたんです。K2では、毎年遭難者が少なからず出ていますが、やはり天候などの情報を得ずにアタックする隊は遭難の率が高い。しかし、どんなに万全の準備でのぞんでもK2という山は甘くない。比較的若い隊員を選んだのは、不測の事態が起きたとき、体力・気力の充実が欠かせないと考えたのです。他の山ならば、私も一緒に登りたいところですが、K2相手となれば、わずかな隙が命取りになりかねません。私が登るという選択肢はありませんでした」(出利葉隊長)
 そして、7月29日の未明、アタック隊として選ばれた蔵元、小松、青木隊員が第一回目のアタックを目指し、BCを出発した。
 ところが、アタック隊はBC出発直後にアクシデントに見舞われる。アタック隊のリーダー格でもあった蔵元隊員が激しい腹痛に見舞われ、隊からの離脱を余儀なくされたのだ。腹痛の原因は急性の虫垂炎だったという。
「BC出発から数時間後のことで、まだC1にもたどりついていない頃でした。本人は無念だったでしょうが、我々が見たのは脂汗を流しながら体を『く』の字に曲げて降りてくる蔵元の姿。本人は無念だったでしょうが、我々も『なぜこんなときに……』と無念の思いでした。それまでは、常に先頭に立ってルートを切り開き、アタックキャンプになるC3予定地にも最初に到達した。高所経験も豊富で、彼がいたからこそ小松、青木と3人でのアタック隊を編成したんですが……」(同)
 予定通り、7月29日に小松、青木両隊員はC1に、翌30日にはC2に入った。そしてその夜、出利葉隊長はC2にいる2人と無線で話し合いを持った。
「アタック目前の彼らは、当然『行きたい』という。蔵元が降りていく後ろ姿に感じるものもあったのでしょう。ただし若く、高所の経験が豊富ではない彼らだけで行かせていいのかという不安もありました。迷いましたが『絶対に無理はしない』という約束をさせた上で一度だけチャンスを与えることにしたんです。とはいえ、実は勝算もあった。あの2人は、どんな山でも山をナメるということをしない。国内の山でもどんな登山者よりも早くに出発し、どんな簡単な場所でも基本に忠実に登っていく。だから後ろからの登山者にどんどん抜かれるんですが、登山とは他者との競争ではなく、『生きて帰ってくること』こそが登山だということをよくわかっている。だからこそ、行かせることにしたんです」(同)
 そしてアタック日は8月1日に決定した。


8月1日午前2時30分。前日の7月31日にはC2からアタックキャンプであるC3へと入っていた小松、青木両隊員はアタックを開始した。朝食は紅茶と堅いパウンドケーキ。小松隊員の「後悔のないようやれるだけやろう。最高の一日にしよう」との問いかけに短く「はい」と答える青木隊員。初めての8000mラインへの挑戦が始まった。
「下の方を見ると、小さな光が暗闇にぽつんと浮かんでいる。BCのみんなが激励のために、たき火を焚いていてくれたんです。あぁ、登っているのは2人だけじゃない。みんなで登っているんだと胸が熱くなりました」(小松隊員)
 何も聞こえない無音の世界のなか、聞こえるのは、自分たちの息づかいと雪を踏みしめる足音のみ。世界のなかで自分だけがぽっかりと浮かんでいるような不思議な感覚に2人はとらわれた。膝まで埋まるような新雪の急斜面かと思えば、ガチガチの固い氷が露出した氷壁もある。足下の変化を一歩ずつ感じ取りながら、慎重に進まなければならない。8000mという高度による疲労も容赦なく2人を襲う。
「4歩歩いて一休み、の連続でした。以前カラコンロンのときに6000mを体験し、今回7000mのC2で高度障害を起こして、高所の恐ろしさは知っていたつもりだったんですが、8000mは一気に体が重くなってくる。あのヤバさは別物でしたね」(青木隊員)
 午前2時半にC3を出発し、あっという間に12時間以上が経過した。当初、午後3時になっても到達できなければ引き返そうと決めていたが、その頃にはもう山頂が目の前に見えていた。山に魅せられた者が、山頂を目の前にして引き返すことなどできるわけがない。
「8000mには7000mまでには気づかなかった“空気の匂い”がありました。単純に鼻で感じる匂いというより、頭というか体全体で匂いを感じるような感覚。太陽の光、雲、風……。すべてがダイナミックでギラギラして体にダイレクトに突き刺さるような感覚。すべての感覚がすごく鋭敏になった記憶があります」(小松隊員)
 とはいえ、そうした感覚にばかり溺れるわけにはいかない。午前3時半にBCに報告の無線を入れて以来、無線を入れようとしても圏外をあらわす音が鳴るばかりでBCとの交信も途絶えていた。繰り返し交信を試みるが、いっこうにつながる様子はない。そのときのBCの様子を出利葉隊長はこう語る。
「BCで待機している我々は、まったく状況がわからない。登頂したのかもしれないし、万が一ということもあり得る。16時を回り、不安が頭をもたげ始めた16時50分、無線が入ったんです」
 一瞬にしてBC内の空気が変わった。緊張で息をのむBCの隊員たちの耳に聞こえてきたのは、『BC聞こえますか! 私たちは今、ついにK2の山頂に到達しました!』という小松隊員の声だった。一瞬の静寂の後、BC内は歓声で埋め尽くされた。言葉がわからないはずの現地スタッフたちも喜びを爆発させる。無線でしかつながっていないはずのK2の山頂にもその感動は伝わっていた。
「出利葉さんの『よくやった!』と興奮する声と、BCの緊張と興奮が無線を通じても痛いほどに伝わってきました。感無量でしたが、心配かけて申し訳なかったなという思いや喜び、そして下りへ向かう緊張感。様々な気持ちがないまぜになっていました」(小松隊員)
「無線では何を話していいかわからなくて、最初に『青木です』と言った後は、ひたすら『よくやった!』『ありがとうございます』という会話を繰り返していました(笑)。K2の山頂はまるで天空にいるような不思議な感覚でした」(青木隊員)
 周囲を見回しても、ここより高い場所は見えない。8068mのガッシャーブルムも8047mのブロードピークも眼下に見える。そんな世界で2番目に高い場所に2人は約1時間、たたずんでいた。



 遂にK2山頂にたどり着いた2人だったが、山頂から下を見ると、数千メートル下まですっぱりと切れ落ちた底のないような穴に見えた。
「『ここを降りるのか』と改めて、今、自分たちがいかに危険な場所にいるかを再認識して『とにかく生きて帰るんだ』と気を引き締めました」(小松隊員)
 登りで時間がかかった分、酸素ボンベの残量も限られていた。下りる間に、酸素ボンベの流入量を毎分2Lから1Lに、さらには0.5Lに切り替えた。「下りこそが危険」というのは、山の常識でもある。登りは2人同時に登った箇所も、下りでは片方が確保を取り、ロープでつながれたもう一人が下りるという、より安全なやり方を採用した。
「スピードが安全につながるという面もあるのですが、とにかく生きて帰ることだけを考えたら慎重に進まざるを得なかったんです。ただ時間の感覚がどうにもおかしくなっていて、21時頃かと思ったら、あっという間に翌日の午前2時半になっていました」(小松隊員)
 頂上アタックを開始してから、もう丸1日行動し続けていた。興奮状態で、疲労を感じにくくなっているとはいえ、2人の体力は限界に近づいていた。
「高度障害に疲労、そして酸素不足もあって、下りは本当にしんどかったですね。ボクがロープを確保して小松さんが下りてくるのを待っているときに立ったまま、まぶたが落ちてしまったこともありました」(青木隊員)
 立ったまま、寝たり起きたりを繰り返した。空の酸素ボンベやヘッドランプも手につかない。手から滑り落ちたそれらは、あっという間に視界から消えていく。
「疲労が極限に達し、ビバークを決意しました。8200mという高所でビバークするか、このまま下り続けることのどちらが危険かと考えたとき、ビバークを選択せざるを得ないような状況でした」(小松隊員)
 もう酸素は残っていない。凍った斜面をアイスバイルのブレードで削り、2人がようやく腰を下ろせるだけのスペースを作った。午前3時、確保を取りながら、手持ちのものをすべて着込んだ。さらにその上からシートをかぶり、2人はつかの間の眠りについた。「寝たら、もう目が覚めないなんてことはありませんよね?」との青木隊員の問いに、小松隊員は「大丈夫」と答えたが、小松自身8000mを超える高所でのビバークは初めてだった。




朝になってもC3に姿を見せない2人に、出利葉隊長をはじめとしたBCは焦りを感じ始めていた。
「夜間ということもあり、頂上からアタックキャンプのC3まで下りてくるのに約5~6時間かかると見ていました。ところが17時50分の無線連絡以降、またも無線が不通になり消息がしれないまま夜明けを迎えてしまった。スコープで覗いてもC3に姿も見えない。無線も通じない2人を案じながらも、すべての可能性を考え、午前10時の段階で日本の大学に連絡を取りました」(出利葉隊長)
 山ではどんな悲劇が起きても不思議ではない。明るくなっても無線は入らず、BCから目視できるはずのC3にも2人の姿が見えない。最悪の事態が脳裏をよぎった。
「『遭難の可能性あり』と、何時の時点で判断し、どのタイミングで発表するかも含め、大学側との協議を開始しました。単に下山が遅れている可能性も考慮しましたが、万が一の可能性もある。ただし、日本時間の夕方に発表してしまうと、夕方の報道番組や夜のニュースで流れてしまう。混乱のさなか、マスコミから家族に伝わるという最悪のケースは避けなければならない。協議を繰り返した結果、パキスタン時間の15時、つまり日本時間の19時までに2人を確認できなければ、まず大学側から家族に一報を入れようということになりました。マスコミへの発表はその後ということに。ただ、大学の広報はメディアからは『いつコメントは出せるのか』、『いつ帰国するのか』という問い合わせが殺到する裏で、こちらとのやりとりも行うという本当に大変な状況だったようです」(出利葉隊長)
「遭難の可能性あり」と判断を下すまで、残り3時間となる現地時間の12時になっても2人は戻らない。出利葉隊長は、パキスタン軍にヘリコプターの出動を要請した。午後に要請すると、手続き上ヘリコプターの現地到着が2日後になってしまうからだ。翌日にヘリコプターを現地に入れるためには、昼までに当局に出動要請を行う必要があったのだ。
 午後になっても2人の姿は見えない。焦燥の色が濃くなっていくBC。そんな午後12時30分、BCの無線機が鳴った。「いまC3に戻りました。2人とも元気です!」との小松隊員の声が無線機に流れ出した。登頂時をも凌駕する歓声がBCを包んだ。誰もが声にならない声を上げ、ボロボロと歓喜の涙を流していた。







 その数時間前、小松隊員はほほに強烈な光を感じて、目を開けた。時計は午前6時を指していた。眼下に雲の海が広がり、彼方から昇る太陽は見たことがないほど美しかった。
「まるで『生きなさい』と言われているかのような美しさでした」(小松隊員)
 1時間ほど日の光を浴びて体を温めた後、2人は再び下降を始めた。BCが心配しているだろうことは痛いほど想像できたが、無線はつながらない。仕方なくそのまま下降を続ける2人だったが、眠気は去ったものの今度は襲い来る落石の恐怖との闘いとなった。
「ロープにぶら下がっていて避けようのない状態で、1メートルクラスの落石がすごいスピードで体のすぐ横を通過し、奈落へと落ちていく。しかも、岩肌でこすれたのか、焦げたような匂いまで漂ってくる。当たらなかったのは、本当に幸運でした」(青木隊員)
 8200mという高所で無酸素状態でのビバークを経て、体力を使い切った2人がC3に戻ったのは午後12時30分。C3の緑色のテントが見えたときには、前日の未明に出発したとは思えないほど、時間が経過しているように感じたという。BCに無事を伝える無線を入れ、凍傷のチェック、水分などの栄養補給をすると2人は体を横たえた。疲労の極限にあった2人は、その日は体力回復のためC3にて一晩を過ごすことにした。そしてその日の午後と夜の2回、“訪問客”があったという。
「テントの中で休んでいると、下の方からザクッザクッという足音が近づいてきて、テントの近くで何やら話している。そのときは疲れていて外を覗く気にもなれませんでしたが、あとで外に出ても、足跡ひとつないんです。最初は自分の聞き違いかとも思ったんですが、青木に確認しても同じタイミングで同じ声を聞いている。正直ゾッとしました」(小松隊員)
 東海大学K2登山隊がC3を設営した近くには、雪に埋もれたテントに過去の遭難者の遺体が何体も眠っているという。
第十一章 精霊の訪問 「ボクも男性の声と足音は、はっきり聞きました。ただ、小松さんと違って怖いという感覚はありませんでしたね。むしろ伝説のクライマーがK2の精霊となって会いに来てくれたのかもしれないと、うれしさすら感じました。後で、出利葉さんには『幻聴じゃないのか?』と笑い飛ばされましたが、確かにそこにいたんです」(青木隊員)
“精霊”に触れた2人は、その晩泥のように眠った。そして翌日早朝、登山隊のメンバーが待つBCへ向けて出発した。



8月3日の早朝にC3を出た2人がBCへ戻ることができたのは、4日の深夜0時を回った頃だった。遠くに見えるBCのテントの外にヘッドランプの光がちらちらと見えた。隊員が出迎えてくれていたのだ。「やっと帰ってきた」という思いで近づくほどに早足になる。
 BCで爆発する歓喜、そして嵐のような抱擁と握手が2人を待っていた。
「BCで調理を担当してくれた現地のコックさんに至っては、2人の肩を抱きながら『ウワァーン』と声を上げての号泣とともに迎えてくれたんです。何も言わず、骨が折れそうなほど強く手をギュッと握りしめてくれた隊員もいれば、ひたすら『よかった』を繰り返す人もいた。表現は違うものの、誰もが万感の思いで出迎えてくれたのを痛感しました。同時に仲間って本当に温かい存在なんだと、ありがたさと申し訳なさで改めて胸が熱くなりました」(小松隊員)
「振り返ってみればたった数日でしたが、すごく久しぶりに小松さん以外の人の声を聞いたような気がして、『やっと生死の狭間から帰ってきたんだ』という安心感でいっぱいでした。みんなと抱き合って、握手して、笑い合った。頂上よりも素晴らしい場所があることを知った瞬間でした」(青木隊員)
 それから数日間は、休養に充てられた。PCを使ってのHPの更新作業は急ピッチで進められた。食堂テントではDVDで映画を見たり、小松は持ち込んだデジタル音楽プレーヤーで好きなエンヤを愉しんだりもした。
「それらすべての電源の源はすべて『EU9i』でした。以前のクーラカンリのときもそうでしたが、現代の登山において電源はすべての根幹です。アタック日の選定ひとつとっても、学内の総力を結集して得た情報を衛星回線で手に入れられるから、風のない日を選んでアタックできた。8200mでのビバークやC3から無事帰還できたのも、天候のよさに救われたという面もある。他にも、アタック前後に彼らが口にした堅いパウンドケーキは、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん率いるミウラ・ドルフィンズから差し入れていただいた手作りのもの。ナッツ類や香辛料も豊富でカロリー補給という面からも本当に助けられました。他にも、各方面から様々なサポートをいただいたからこそ、K2登頂をなしえることができた。隊員として名を連ねた者だけでなく誰ひとり、持って行った何ひとつ欠けても、今回のK2登頂はなしえなかったはずです」(出利葉隊長)
 2006年の東海大学K2登山隊の挑戦は、記録ずくめの偉業となった。そしてその偉業は、チームを中心とした、そこに関わるすべてのものの偉業でもある。
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