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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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山全体でいうとアンナプルナで壁だけでいうとマカルー西壁が最強  マカルー西壁やナンガパルバットルパール壁アンナプルナ南壁

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ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20160208/ddm/005/070/028000c#csidxd16745d67e97242ab1ee130133628b6
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女性アルパインクライマーとして世界中の山を舞台に活躍する谷口ケイさん。小柄ながらも底知れぬ体力と精神 力で世界の高嶺を次々と制覇し、栄誉ある「ピオレ・ドール(金のピッケル)賞」を日本人として、女性として初めてノミネート・受賞した。学生時代から何事にも全力で取り組み、後に続く人たちへの確かな道を切り拓いてきた。

山と友達になって恐怖心を克服
 何が起こるか分からないのが自然の世界。ルート上が氷壁かもしれないし、クレバスが大きな口を開けているかもしれない。そういう山に登っているから大きい人だと思われるけど、会ってみたら「凄く小さいね」とよく言われる。本当は小さい方が無駄なカロリーを消費しないから、ヒマラヤみたいな高い山では最終的には生き延びるんですけどね(笑)。

 正直、山に対してはいつも恐怖心を抱いています。でも、登り始めると恐怖心はなくなるんです。人間関係と似ていて、初対面の人には一歩引いて接していても、挨拶を交わして話しをするうちに打ち解けますよね。同じことが山と自分の間でも起こるんです。山と対話をするとお互いの距離が縮んでいく。こうして山と友達になると、恐怖心はなくなるんですよ。


07年、エベレスト登頂。この時、谷口さんがブログに記した手記が印象に残る。「初めてのチョモランマ(エベレスト・チベット側)そして、きっと二度と来ないはず」との書き出しだった。高所の薄い酸素の中で平常心を失っていた別の隊のイタリア人に酸素を吸わせ、命綱を付けずに下山していたオーストリア人女性に「死にたくなかったらカラビナ(登山用金具)ちゃんとロープに掛けなさい」と厳しく注意するなど多くの登山者の面倒をみた様子がつづられていた。近年、エベレスト登山の主流となっている公募隊。メンバーの技量が違い、気持ちも通じあっていないことが多い現状を嘆き、その異様さに警鐘を鳴らしていた。

 09年、世界の優れた登山家に贈られるフランスの「ピオレ・ドール(黄金のピッケル)賞」を女性として初受賞。行方不明となったのは昨年12月21日、大雪山系黒岳の山頂付近。翌日、発見され死亡が確認された。登山家の田部井淳子さんは「男性と対等に登れる体力と技術を持った女性登山家の星だった」と早すぎる死を悼んだ。誰よりも危険性を知っていた雪山で亡くなるなんて……。最近は学生向けの登山研修会に講師として積極的に参加していた。後進たちの安全登山を見守り続けてほしい。

女性クライマーの星 谷口(たにぐち)けいさん=滑落による脳挫傷のため、2015年12月22日死去・43歳
 2006年、アルピニストの野口健さんが主宰したネパール・マナスル峰(8163メートル)の清掃登山隊に参加し、谷口さんは自身初の8000メートル峰登頂を果たす。その時、私は標高約4800メートルのベースキャンプまで同行取材した。5歳年上の谷口さんは当時33歳で「面倒見のいいお姉さん」だった。日焼けした顔でネパール人シェルパに和気あいあいと接し、譲れないことは主張した。芯の強さと柔軟さを持ち合わせた人だった。



2001年 マッキンリー(6,193m/アメリカ)登頂。2日連続登頂。
2004年 ゴールデンピーク[北西稜](未踏ルート/7,027m/パキスタン)初登頂。
2004年 ライラピーク[東壁](未踏ルート/6,200m/パキスタン)初登頂
2005年 ムスターグアタ[東稜](7,569m/新彊ウイグル自治区)登頂。
2005年 シブリン[北壁](未踏ルート/6,543m/インド)初登頂。
2006年 マナスル(8,163m/ネパール)登頂。
2007年 エベレスト[北壁](8,848m/チベット)登頂。
2008年 カメット[南東壁](未踏ルート/7,756m/インド)初登攀。
2011年 フランシス峰[南西稜](3,185m/アメリカカヒルトナ氷河)登頂。
2011年 カヒルトナクイーン[西壁](3,773m/アメリカカヒルトナ氷河)登頂。
2011年 マッキンリー[ウエストバットレス](6,194m/アメリカ)登頂。
2011年 ナニムニ[南東壁](7,694m/チベット)登頂。
2012年 アネト山(3,404m/フランス)登頂。
2014年 ムスタンマンセイル峰(未踏峰/6,242m/ネパール)登頂。

また、「女性だからできない」と言われるのがとにかく嫌い。先輩に無理だと言われた片道300kmを走る自転車のロードレースに女性として初めて参加もしました。いま考えると頑張りすぎた気がしますが、自分に続いてきた後輩たちもたくさんいましたし、そうした 努力があって今の自分が形成されたのだと思います。いまでも時々「女性だから」って声を耳にするけど、他が何と言おうと自分がやりたいと思えば、努力してやればいい。ただシンプルにそう考えています。

自分で限界を設けないで
 じつは初めての海外遠征でマッキンリーに登った際、パートナーのトラブルなどがあり、結局、二日続けて2回の登頂を果たしました。その時、「あれ?自分って思っている以上にもっとできるのでは?」と新たな可能性が見えたんです。山の世界は極限の状況でいつも死が隣り合わせ。だから身の安全がもっとも大切だけど、一歩踏み込んで挑戦するか、踏み出さないで安全な域にずっといるかで自分のキャパシティはどんどん変わってくるものです。だから学生のみなさんも、自ら限界を作らないでほしい。自分の可能性が無限であることを見つける旅、それが人生なのだから。

Profile of Kei Taniguchi
初めての海外遠征で北米大陸最高峰のマッキンリー峰の登頂成功に始まり、2004年パキスタン・ゴールデンピーク(7027m)、06年ネパール・マナスル(8163m)、07年エベレスト(8848m)など世界中の高峰を制覇。08年インド・カメット峰未踏の南東壁に初登攀。これに対して、日本人として、女性としても初のピオレ・ドール(金のピッケル)が贈られ、日本を代表する女性アルパインクライマーとして注目される。1972年生まれ。和歌山県出身。


マカルー 西壁
デスゾーン手前から山頂付近まで垂直の岩壁~オーバーハングが続くという人類の限界を超えたルート。 世界の一流クライマーが挑んだが全て敗退している。

マカルー西壁はデスゾーンでハードルがあがっちゃうからキツイね
ウエリシュティックでも無理だろ

1996年に満を持して挑んだものの、「フリーで登るのは不可能、多量のギアを持てばスピードが落ちてリスクが上がる」というジレンマの通り落石の直撃を受けて負傷し核心部に至らず敗退。 

「どのようなトレーニングを積めばいいのか判らない」と難しさを語っている。

これからも登頂が難しいのは今まで何回も挑戦されてるけど誰も登頂してないナンガパルバット冬季登頂
それと、あの山野井さんが「どうやって登ればいいのかわからない」と言わしめたマカルー西壁
この二つはなかなか登頂されないだろ

マカルー西壁、極限のクライミングを記録に残す意味。

――山野井さんはこれだけ世界的に注目される登山をしながら、あまりドキュメンタリー撮影などでクライミングしている姿を映像に残していませんよね。でも、「ヒマラヤに残された最後の課題」ともいわれるマカルー西壁(8463m)へのアタックでは、テレビの取材を受け入れましたね。これはやっぱり特別な挑戦だったんでしょうか。

 自分のやっていることを見せたいと思ったんです。というのも、メディアに流れる情報が、大きな隊によるエベレスト登頂や七大陸最高峰制覇といった方向に偏っていたのが気になっていたからです。登山にはそれとは違う世界があること、神秘的な山、困難な岩壁で、極限に挑戦しているクライマーがいるんだということを、ひとりでも多くの人に見てもらいたいという気持ちがあった。だから、べつに僕が主人公じゃなくてもよかったんです。

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 結果は頭に落石を受けて敗退。登頂を撮影することはできませんでした。その後もお話はありましたけど、基本的にはぜんぶお断りしました。そもそも8000m級の山で壁にしがみついている表情なんて撮れるわけがないということも分かった。

――野球やサッカーのような競技スポーツだったら、放っておいてもメディアに取り上げられますけど、登山の場合、自分から報告しないと誰にも分かってもらえない。そういう意味でも難しいスポーツですよね。

 僕の場合、だからといって自分の冒険を大げさに伝えるようなことは嫌だったんです。子供の頃からこの世界が大好きだから、正しく報告しなきゃいけないなということをすごく感じてました。それに自分がやってきたクライミングで、人に向かって本当に「やったぞ!」と言えるものはそれほどない。今までずいぶんいろんなところに書いてもらったし、自分でも書いたので、もう充分だと思ってます。

 むしろ、見せなくてもいい世界があるんだと思うようになりましたね。全部を世の中の人に知ってもらわなくてもいいじゃないかと。いずれにしても、経験したことそのものに比べれば、記録されたものは、残りかすみたいなものです。それは僕自身の文章もそうです。


アンナプルナは別格だけど
ナンガパルバット、K2,カンチェンジュンガ、ガウラギリ、マカルー
このへんの危険度は同じくらいでは?
壁によってはマカルーやダウラギリが一番危険だったりする

2009年のデータ発見しました ^^V
アンナプルナがとび抜けて、次にK2って感じみたいです。

以下 14座の挑戦者数、死亡者数、死亡率です(標高順)

エベレスト     5104 219  4.29%
K2         302  80 26.49%  
カンチェンジュンガ  243  40 16.46%
ローツェ       396  12  3.03%
マカルー       323  29  8.98%
チョ・オユー    2790  43  1.54%
ダウラギリ      417  62 14.87%
マナスル       297  58 19.53%
ナンガパルバット   326  68 20.86%
アンナプルナ     157  60 38.22%
ガッシャーブルムⅠ  298  26  8.72%
ブロードピーク    358  20  5.59%
ガッシャーブルムⅡ  872  20  2.29%
シシャパンマ     285  24  8.42%

エベレストは挑戦者5万くらいで死亡者千人の4㌫
アンナプルナは挑戦者5百人くらいで死亡者200人の40%

標高(8611m 世界第2位)
死亡率(アンナプルナに次ぐ2位)
冬季未踏峰(14座ではK2とナンガパルバットのみ)
不安定な気候
急峻な傾斜
人里から離れているためアプローチが難しい

以上の点から K2がもっとも危険な山と思われる。

世界初の14サミッターメスナー ローツェ南壁敗退
世界2番目の14サミッターククチカ ローツェ南壁にて死亡


ローツェ南壁を真冬に完登した田辺治は、ダウラギリノーマルルートで雪崩にやられた
表層雪崩なら避けられても、はるか高所のセラックが崩れたら予知も回避もできない

そんなこと言ったらきりないだろ
じゃあ誰も登頂してないマカルー西壁はどうなんだ?
まだ日本人女性が誰も登頂してないカンチェンジュンガやアンナプルナはどうなんだ?
一部分だけみて判断するのはどうかな?

14サミッター竹内洋岳のアンナプルナ評

とにかく怖かった
後にも先にもあそこまで追い込まれたのはあの時だけ
弾倉に弾丸が半分入ってるロシアンルーレットのようなもの
もう二度と登れない

あの竹内氏が言うんだからアンナプルナ超ヤバイんじゃね?





1995年のマカルー登頂から足かけ18年……数々の試練を乗り越えて
ついに日本人初の8000m峰14座登頂に成功した竹内洋岳。
ダウラギリの頂上に立ったそのとき、何を感じたのか?
下山したばかりの彼に、その思いを語ってもらった。
 世界に14座ある、8000m峰。

とにかくダウラギリの存在感はハンパない
回りの山が低くて丸っこい山の中で真っ白で馬鹿でかく鋭利な山がそびえ立ってる
将棋でいえば王将がドーンと立ちはだかってるような感じ
見た瞬間にこんな山絶対登れるはずがないと思うような山
しかし、テレビで竹内さんがすいすいと登頂したのを見てこれまた衝撃を受けてしまった

8000m峰危険度ランク

Sランク
アンナプルナ

Aランク
カンチェンジュンガ、ナンガパルパット、ダウラギリ、K2

Bランク
マカルー、ローツェ、エバレスト

Cランク
マナスル、ブロードピーク、チョオーユー、シシャマンマ、ガッシャブルムⅠ峰Ⅱ峰

女性登山家のワンダがアンナプルナ登頂したときにK2よりはるかに厳しかったって言ってた
そのワンダもカンチェンジュンガで滑落して死んでしまった


8000メートル峰の中では
最も難しいのがK2、最も危険なのがアンナプルナ


SS アンナプルナ、K2
S  ナンガパルバット
A  カンチェンジュンガ、ダウラギリ
B  マカルー、ローツェ
C  エベレスト、シシャパンマ、チョ・オユー、マナスル、ブロードピーク
   ガッシャーブルムⅠ峰、ガッシャーブルムⅡ峰

K2
おそらく世界で最も難しい頂。
標高が高い。雪崩の危険が高く、天候はよく悪化する。技術的に難しく、簡単なルートが無い。
北側の稜線はやや難度が下がるが、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響が厳しくなる。

アンナプルナ
14座の中で最も危険。北側のノーマルルートは技術的に難しくはないが雪崩の巣。
南側は技術的に極めて難しく、多くの危険がある。

ナンガパルバット
ノーマルルートは技術的に極めて難しいというほどではないが、長く、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響を受ける。
天候が悪いことで有名で、用心しなければならない場所が多い。難しい山の一つ。

K2の難所 頂上直下のボトルネック。
頭上のセラックやばすぎw
これがいつ崩壊するか分からんとかどんなムリゲーだよ

竹内さんは死の一歩手前だったガッシャブルムやエベレストよりアンナプルナの恐怖のほうが印象強かった
マジに死の恐怖に直面したらしい


K2、ガッシャーブルム、ブロードピークはほぼ同じ位置にあって
アプローチの難しさは同じ

カンチェンジュンガはかなり難易度高い
標高も高いしかなりの難易度、ナンガパルパットやK2と同じくらいのレベル
マナスルはアンナプルナまではいかないけど雪崩が多い
雪崩さえ気をつければ難易度は巨峰の中でも下のほう
イモトのときは雪崩がなかったから大量登頂できた
ダウラギリはルートによって難易度がまったく違う山
ここも雪崩が多く有名登山家ではシャンタルや田辺さんなどが亡くなってる

14座登頂した竹内さんが危険度NO1はぶっちぎりでアンナプルナって言うんだからアンナプルナなんだろ

メスナーはK2を山の中の山と評しているが、アンナプルナは特に評していない
ちなみに、メスナーが危機を感じたのはカンチェンジュンカとナンガパルバット

14座無酸素
マリオ・パンツェーリ(Mario Panzeri、イタリア)エベレスト3回を含む完全無酸素8000m峰14座制覇。
ゲルリンデ・カルテンブルンナー(オーストリア)女性として初めて8000m峰14座制覇の無酸素登頂に成功(2011年)


アンナプルナⅠ峰南壁
クリス・ボニントン(イギリス) エベレスト遠征のエキスパート、アンナプルナⅠ峰南壁初登頂


日本人の活躍
山野井泰史 K2南南東稜単独無酸素最速登頂の記録を持つソロクライマー
八木原圀明 エベレスト冬季南西壁初登頂
長谷川恒男 史上初のアルプス三大北壁冬季単独完登



マッキンリーは6000m峰だけど比高は世界一だし高緯度のため
高山病の危険が非情に高い山。
危険度で言うとエベレストよりは上だと思う。

冬富士は荒れれば生きて帰ってこれないぐらい危険だがアプローチが簡単で車から天候を読んで安定した1日で登れ、雪山中級なら誰でも登れると思う。

北アルプス、特に劔や槍穂高の稜線は違う。
アプローチに数日かかって急激に低気圧が発達したら身動きがとれず数日ビバーグもありえる。
しかも世界有数の豪雪地。
ドカ雪の日は夜も昼も寝れない。
1時間おきに雪かきしないと埋まっちゃうから。
ラッセルも半端ない。劔なんて厳冬期に入るパーティーなんてまずいないから
全てラッセル。
深いところは胸まで沈む。
気温はマイナス20と風速20mが重なれば体感温度はマイナス40度に達する。
特に上の動画の奥穂高岳から西穂高への縦走はまともなビバーグ地点すらない。
もちろんエスケープルートもない。
北アルプスは一度核心部まで突っ込んだら行くも地獄、退くも地獄。
やめといた方がいいよ。結構死んでる。
秋に奥穂から西穂縦走したけどすれ違ったおじさん翌日のニュースで亡くなってた。
一応一般道だけど大キレットと西奥縦走、妙義縦走は未経験者はやめたほうがいい。

ガチランキング

1 K2、アンナプルナ
2 ナンガパルバット
3 カンチェンジュンガ
4 ダウラギリ、ミニヤコンカ、ギャチュンカン
5 梅里雪山
6 マナスル
7 マカルー
8 エベレスト、ローツェ

SSS ギャチュンカン K2
SS  ナンガパルバット アンナプルナ ガンケルプンズム
S   カンチェンジュンガ ミニヤコンカ ウルタルⅡ峰
A   ダウラギリ 梅里雪山
B   マカルー カメット
C   エベレスト ブロードピーク ローツェ マナスル

日本人エベレスト登頂者のべ200人
日本人K2登頂者50人

K2登頂した主な女性
ワンダ、ガリンダ、ジュリー、シャンタル、小松由香

ガリンダはエベレストも登頂してるが他は全員エベレスト敗退してるな
記憶違いでワンダは登頂してるかもしれないが
とくにシャンタルはK2一回目の挑戦で登頂したけどエベレストは5回くらい敗退したはず
一概にK2のほうが難しいとは言えない


 そのすべてに登頂した、初めての日本人がプロ登山家の竹内洋岳だ。

 5月26日、14座の掉尾を飾る、ダウラギリI峰(8167m)の登頂に成功。1995年のマカルー登頂以来、足かけ18年に及んだ挑戦に区切りをつけた。

 カトマンズで羽を休める竹内に、今の心境を訊いてみたい。受話器から聞こえてくる声は、軽やかに弾んでいた。

――改めておめでとうございます。快挙達成のニュースに日本中が沸きましたよ。

竹内 そうですか。いや、なんかね、こっちにいるとよくわからなくて。ヒマラヤには私以外にも14座のサミッターは普通にいて、珍しくないんですよ。

――世界で29番目とも言われる、14座完登者になりました。ダウラギリの山頂に立った瞬間は、何を思いましたか。

竹内 今回に限らずいつも思うのは、もう登らなくて良いんだってこと。そこから先は空しかないですからね。もちろん、今回が14座目の完登に間違いないんですけど、14座完登よりも、14座目の山に登れてうれしかった。ダウラギリに登れて良かったなあ、という思いの方が強かったです。



――遠征に同行したカメラマンの中島ケンロウさんが体調不良でリタイア。単独でのサミットプッシュになりました。山頂で竹内さんが撮られた写真を見て驚いたんですが、一番上にあんな大きな岩があるんですね。

竹内 実物はたいして大きくないんですけど、あの岩がダウラギリの頂上です。とにかく風が強くて、岩の上には乗っかったんですけど、立ってガッツポーズするなんてとんでもない。四つん這いになって、一番高いところに手をかけた。そんな感じでした。

――すると、喜びにひたれたのはBC(4600m地点にあるベースキャンプ)に下りてきてからですか。

竹内 まずBCに降りてきた時は「ただいまー」という感じで嬉しかったですね。それからBCを撤収して、車や飛行機を乗り継ぎながら、ようやくここカトマンズまで帰ってきたわけですけど、もうBCを離れた時からなんとなく「次はどこに行こうかな」という気持ちになっていたように思います。

14座を登っただけで山の神髄を究めたとは思えない。

――そんなに早く次の山に関心が移っちゃうんですか。なんだか、もったいない。

竹内 ハハハッ。でも、いつもそうなんですよ。たとえば一生に一度の記念でエベレストに登るとかだと喜びのピークがあるのかもしれないですけど、私はやっぱり毎年のように登山を続けてきて、好きな山をどれだけ続けていけるかということを考えてますので。

 14座というのは確かに山田昇さん('88年秋の時点で9座の頂に立った日本を代表する超高所登山家)を始め、偉大な先人たちが綿々と受け継いできてくれた魂の系譜で、それを結びつけられたことは本当に嬉しいし、誇りに思うんですけど、一方でこれだけ無数に山があって、14座を登っただけでとても山の神髄を究めたとは思えないわけですね。まだまだ他にも登りたい山はたくさんありますし、登った山でも別のルートから登ってみたい。だから爆発的な喜びや達成感を、あまり感じられないのかもしれません。

ビバーク中、地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。

 14座の頂は、宇宙に近い。

 標高が8000mを超えると、酸素は平地の3分の1ほど。雪崩や強風、寒さによる低体温化など、試練は次々に襲ってくる。

 竹内の登山スタイルは、酸素ボンベやシェルパの力に頼らない速攻登山。生身で生きて還る能力こそが、試される世界だ。

――下山時、大きな試練に直面しました。途中で日が沈み、C3(最終キャンプ)へのルートを見失ったと聞いています。

竹内 天気は良かったんですけど、風が強くて。予想以上に登頂までに時間がかかってしまいました。予定では14時に着くはずが、実際に頂上に立ったのは17時半でした。

――水なし、テントなし。酸素ボンベもない。それでも7536m地点でのビバークを選択しましたね。

竹内 ビバークというと、冬眠中の熊のようにじっとしているイメージがあるんですけど、そこは吹きっさらしの岩の上で、寒くてですね、じっとなんてしてられないんですよ。腰を下ろしてウトウトしても、パッと目が覚めて。体をさすったり、また少し歩いて別の場所を探したりと、休むというよりは明るくなるのをひたすら待っている状況でした。たまに地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。ハハハハッ。叫んでましたね。

若きトレランたちへ! 大倉-橋本駅コース: 山羊、のまダッシュ、甘栗、三強に挑戦! 目指せ自己ベスト!

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大倉→橋本駅のベスト4記録を比較してみました。

トレイル区間(丹沢主脈)だけの記録だともっと速い記録が存在するかもしれませんが
現在知っている範囲で比較してみました。

上の表は通過タイムで下は区間タイム



※山羊さんの記録は初見でのタイム

サブ5で走るためにはやはりトレイル区間を3時間30分以内
ロード区間を90分以内というのが目安になりそうです。

区間の記録を見ると蛭ヶ岳までの登り基調の区間は山羊さんが速く、
蛭ヶ岳からの下り区間+ロードが甘栗さんが速い。

特に甘栗さんの焼山からの下りがかなり速いです。
あの激下りを飛ばすと直後のロードが辛くなりそうですが
ロード区間の入りがさらに速いのが凄い。

いつかまた挑戦したいけどまだ当分先かな。



2012年10月27日 (土)

挑戦!大倉‐橋本コース

秋~冬の丹沢の雰囲気が好きでちょくちょく訪れていて、このシーズンの1回目。コースはまだロングをやるには体調に不安があるので、塔ノ岳さんが良く走っておられる大倉-橋本駅コースにチャレンジすることにした。正直ロードは苦手だが、このコースならトレイルは25kmで、ロードは疲れてもバスにも乗れる。6時間を目安にしてあまり調子悪いようならバス、行ければタイムを短縮していこうと考えた。電車での山は久しぶりで、着替えも必要だがコンパクトにするよう心掛け、いつもと大差ないボリュームで済んだ。

大倉ビジターセンター(8:14)
塔ノ岳 1:13:20
丹沢山 1:35:55
蛭ヶ岳 2:09:48-2:11:18
姫次 2:38:22
焼山 3:03:37
焼山登山口バス停 3:29:10-3:33:00
三ヶ木 4:06:59
橋本駅 5:07:16(13:21)





渋沢ではちょうどバスが来ていたので乗る。超満員だった。大倉で準備を整え8:14出発。すぐ先でO川さんに会い、今ホットなUTMFのことなどちょっと話す。最初はやはり呼吸が苦しいが、急登になっても脚に乳酸が溜まらないので、脚はリフレッシュしているようだ。混雑しているのでペースを調節しながら73分で塔ノ岳。タイムトライアル+5分だから悪くない。残念ながらガスの中で寒いので休まず進む。時々咳込んでしまうが、脚が楽でペースがいいのは感じ取れる。蛭ヶ岳から先はタイムを意識しつつ、地蔵平から姫次までは幻想的な紅葉の中を駆け抜ける。3時間半でロードに出れば残り18kmキロ5分で5時間ジャストで、それは可能かと思われたが甘かった。ロードはキロ5分をちょっとオーバーするペースが精いっぱいで本当に長く感じられた。

比較してみるとロードの区間は塔ノ岳さんに全く及ばず、今日実際走ってみてその強さに感服した。ロードはなんとなく行けそうでは通用せず、練習の賜物だということを痛感した。逆に言えば、まだまだやれば伸ばせるところがあるということが今日の発見だった。下山後ロードが走れるようになると、コースのバリエーションもぐっと増やせる。次チャレンジする時は気持よく橋本駅まで走って、4時間台を目指したい。今日は今日でよく頑張った。






初めてでサラッとこのタイムはさすがです!
次回は4時間台になりそうですね。
蛭ヶ岳の2:10以内は目標にしているタイムなので
良い刺激をいただきました^^
投稿: のま | 2012年10月29日 (月) 17時48分

過去の記録を追ってみると、のまさんに1分及ばなかったみたいで、
いえ、たとえ分かっていても最後はもう余力なしでした。。
しかも途中の経過もほとんど同じだったようで、
もし一緒に走っていたら常に視界に入る壮絶なレースになっていたことでしょう。
こんな楽しみ方もいいですね。


投稿: 山羊 | 2012年10月29日 (月) 22時17分





 新穂高温泉バス停7:10-穂高平7:33-槍平8:43-千丈乗越分岐9:28-飛騨乗越10:05-10:10槍岳山荘10:41-千丈乗越11:00-樅沢岳12:21-12:33双六小屋12:54-13:45鏡平13:57-ワサビ平15:05-新穂高温泉バス停15:29(2007.8.27)

 竹宇駒ケ岳神社5:06-笹ノ平5:55-五合目小屋6:47-七丈小屋7:08-本八合目7:32-8:00甲斐駒ケ岳8:30-五合目小屋9:33-竹宇駒ケ岳神社10:58(2007.6.12)


竹宇駒ケ岳神社4:56-笹ノ平5:47-五合目小屋6:38-七丈小屋7:00-本八合目7:22-7:47甲斐駒ケ岳8:13-五合目小屋9:14-竹宇駒ケ岳神社10:42(2009.6.27)



 早川第一発電所5:10-6:37大門沢小屋6:42-8:10大門沢下降点8:27-8:50農鳥岳8:52-9:31農鳥小屋9:35-10:20間ノ岳10:30-11:51北岳12:21-13:29白根御池13:47-広河原山荘14:32(2007.8.30)


 広河原山荘9:00-大樺沢二俣9:54-八本歯ノコル10:44-11:15北岳山荘11:20-12:09間ノ岳12:12-12:40農鳥小屋12:45-13:32農鳥岳13:36-13:53大門沢下降点14:03-15:03大門沢小屋15:18-奈良田バス停16:40(2007.9.4)


 七倉6:12-8:12船窪小屋8:23-8:30七倉岳8:34-10:53不動岳11:01-11:44南沢岳11:50-12:29烏帽子小屋13:16-高瀬ダム14:47-七倉15:19(2007.9.22)



 蓮華温泉6:54-瀬戸川7:31-鉱山事務所跡8:16-塩谷精錬所跡8:51-国境稜線9:27-三国境10:00-10:20白馬岳10:45-12:00白馬大池12:05-蓮華温泉13:11
(2007.10.3)

 大倉4:28-7:21蛭ケ岳7:29-8:46檜洞丸8:52-10:31大室山10:33-11:50モロクボ沢の頭11:57-13:16菰釣山13:24-14:56高指山14:59-平野15:17-旭日丘15:39
(2007.5.20)


大倉ロッジ峠5:03-堀山ノ家5:55-6:31塔ノ岳6:44-堀山ノ家7:06-大倉ロッジ峠7:34
大倉ロッジ峠7:41-堀山ノ家8:23-8:55塔ノ岳9:14堀山ノ家9:34大倉ロッジ峠9:56
大倉ロッジ峠10:09-堀山ノ家10:54-11:29塔ノ岳11:49-堀山ノ家12:12大倉ロッジ峠12:42
大倉ロッジ峠12:58-堀山ノ家13:45-14:22塔ノ岳14:39-堀山ノ家15:02大倉ロッジ峠15:31 (2007.2.27)




 大倉バス停7:13-9:37蛭ケ岳9:40-焼山10:45-11:14焼山登山口バス停11:21-三ケ木バス停11:57-橋本駅北口12:58(2009.4.19)



 大倉ロッジ峠4:14-6:51蛭ケ岳6:56-8:07檜洞丸8:19-9:39ユーシンロッジ9:44-雨山峠10:16-11:28塔ノ岳11:31-大倉ロッジ峠12:25(2007.5.27)


 

 女神茶屋3:48-蓼科山4:52-北横岳6:46-縞枯山7:22-8:07麦草峠8:17-東天狗岳9:52-12:06赤岳12:07-権現岳13:18-14:01編笠山14:02-14:52観音平15:03-小淵沢駅16:18(1987.6.26)


千畳敷8:16-檜尾岳9:49-木曾殿小屋11:13-11:56空木岳12:07-大地獄13:08-13:39池山水場13:46-林道終点14:12-菅ノ台14:35(2007.6.30)


蓮華温泉6:36-7:27天狗ノ庭7:32-8:04白馬大池8:09-10:02白馬岳10:25-11:46雪倉岳11:53-13:33朝日岳13:43-青ザク14:41-花園三角点14:52-15:18白高地沢15:31-16:03瀬戸川16:07-兵馬ノ平16:28-蓮華温泉16:56(2006.8.7)


扇沢橋7:20-種池山荘8:37-9:33新越山荘9:45-10:30赤沢岳10:35-11:51針ノ木岳12:05-針ノ木峠12:25-13:00蓮華岳13:10-13:37針ノ木峠14:06-大沢小屋15:12-扇沢橋15:45(2007.9.13)

西穂高口7:27-7:58西穂山荘8:03-9:11西穂高岳9:25-10:02間ノ岳10:07-10:45天狗ノコル10:52-ジャンダルム11:47-12:35奥穂高岳12:52-13:08穂高岳山荘13:28-14:13涸沢小屋14:22-15:53横尾5:18-8:36槍岳山荘8:54-11:28双六小屋11:52-12:58鏡平13:43-新穂高温泉バス停15:40(2007.8.10~11)

太郎坊5:30-七合目日の出館7:35-八合赤岩館8:23-9:20剣ケ峰日本最高点9:30-10:00御殿場口頂上10:20-太郎坊11:45(2008.7.30)


あるき沢橋6:15-7:27池山御池小屋7:33-城峰7:58-森林限界8:39-9:01ボーコン沢ノ頭9:11-八本歯ノ頭9:40-八本歯ノコル9:47-10:17北岳10:30-肩ノ小屋10:43-11:28大樺沢二俣11:33-広河原山荘12:28(2008.8.12)


 扇沢橋5:10-種池山荘6:40-7:09爺ケ岳中峰7:19-冷池山荘7:50-8:53鹿島槍ケ岳9:10-9:56キレット小屋10:06-北尾根ノ頭10:51-11:49五竜岳12:03-12:23五竜山荘12:44-大遠見山13:34-アルプス平14:35(2006.8.3)


天狗平5:39-ホテル立山6:00-新室堂乗越6:40-7:36奥大日岳7:44-8:50大日岳9:09-大日小屋9:15-10:09大日平小屋10:16-牛ノ首10:40-登山口11:07(2005.8.27)


三股7:00-森林限界8:43-前常念岳9:21-10:00常念岳10:15-11:56蝶槍12:15-12:36蝶ケ岳ヒュッテ13:35-まめうち平14:21-力水14:43-三股15:00(2005.10.11)


河童橋6:18-7:50横尾8:01-9:36涸沢小屋9:56-11:32穂高岳山荘12:00-白出大滝13:26-白出小屋14:15-穂高平14:38-新穂高温泉バス停15:05(2005.10.18)


扇沢5:08-大沢小屋5:55-7:27針ノ木峠7:46-針ノ木谷出合8:55-平ノ渡し11:00-12:46奥黒部ヒュッテ5:19-口元ノタル沢7:38-9:02薬師見平9:28-10:12姿見平10:26-赤牛沢11:27-12:00夢ノ平12:12-12:28露天風呂13:30-13:42高天原山荘5:39-7:35岩苔乗越8:12-8:42水晶小屋8:48-9:12水晶岳9:32-11:21赤牛岳12:54-15:08奥黒部ヒュッテ6:00-黒部ダム11:00(1988.7.30~8.2)


富士吉田市役所0:00-中の茶屋33:38-馬返し56:17-佐藤小屋1:44:23-七合目2:13:27-本八合目3:00:46-九合目3:17:27-頂上3:26:42(1988.7.25)


七倉5:46-船窪小屋8:09-8:18七倉岳8:45-9:34北葛岳9:45-11:13蓮華岳11:30-11:53針ノ木峠13:03-大沢小屋13:49-14:28扇沢14:40-17:09種池山荘4:26-8:25針ノ木岳8:40-9:18針ノ木峠11:48-大沢小屋12:22-扇沢13:08(1988.7.3~4)



老平5:45-広河原6:41-山ノ神7:04-造林小屋7:41-檜横手山8:11-布引山9:13-9:53笊ケ岳10:36-布引山11:12-12:35広河原12:37-老平13:15(1988.11.3)


七倉6:00-湯俣9:39-14:40北鎌沢右俣出合5:00-6:10北鎌沢コル6:20-7:45独標8:05-9:10北鎌平9:25-9:51槍ケ岳10:24-11:36南岳11:40-15:00北穂高岳6:18-7:53奥穂高岳8:07-9:05天狗ノコル9:25-10:35西穂高岳11:26-12:24西穂山荘13:00-河童橋14:07(1988.9.8~10)


平野3:42-切通峠4:06-高指山4:17-大棚ノ頭分岐4:45-5:50菰釣山5:55-城ケ尾峠6:36-大界木山6:48-7:07モロクボ沢ノ頭7:18-白石峠8:00-加入道山8:10-8:45大室山8:46-9:16犬越路9:25-10:30檜洞丸10:36-臼ケ岳11:22-12:06蛭ケ岳12:15-13:06丹沢山13:54-14:30塔ノ岳14:44-三ノ塔15:47-水場16:24-ヤビツ峠16:37-17:38大山17:44-大山ケーブル下18:39(1988.5.29)


 平野4:02-山伏峠4:45-大棚ノ頭5:05-6:09菰釣山6:16-城ケ尾峠6:58-大界木山7:10-モロクボ沢ノ頭7:28-白石峠8:17-大室山9:05-9:35犬越路9:40-10:52檜洞丸10:55-12:30蛭ケ岳12:36-13:21丹沢山14:00-塔ノ岳14:34-三ノ塔15:35-ヤビツ峠16:18-17:03大山17:07-大山ケーブル下17:50(1987.5.24)

2010.11.07
大倉バス停 → 橋本駅タイムトライアル (3)
カテゴリ:カテゴリ未分類
4週連続の丹沢。

今日は大倉バス停 → 橋本駅のタイムトライアル。
大倉バス停から焼山登山口バス停までの登山道はノンストップで駆け抜けた。

大倉バス停 7:03 スタート
走り始めは脹脛の疲労感と張りがすごくて破裂しそう(^^;
これは30分我慢すれば落ち着くのは先週確認しているので我慢して進む。

堀山の家 0:43:12

堀山の家通過は自己ベストペース。
先週はここからいい感じだったけど今週は思ったほどペースは上がらず
塔ノ岳山頂までの区間タイムは先週と同じ。

塔ノ岳 1:13:26

前半の貯金で一年半ぶりの自己ベスト更新となった。

丹沢山 1:37:01

稜線から見下ろす渓谷の紅葉がきれいだった。
ユーシンに降りるのは(先週じゃなくて)今日の方が良かったな。。。

蛭ヶ岳 2:10:56

大倉バス停 → 蛭ヶ岳の自己ベストも更新した。
2:10切りも狙ったけど僅かに届かず。
珍しく団体さん多い。

蛭ヶ岳から先はいつもだとほとんど人と会わないのですが
今日は学生の部活風の団体が多かった。(5人程度のグループ×4~5)

姫次 2:38:22
焼山 3:04:26

展望塔の上にはもちろん上っていません(笑)

焼山登山口バス停 3:28:57 (発3:34:13)

ここで初めて休憩(5分)自販機のジュースとバームクーヘン

三ヶ木 4:09:54

ここから一気に足が重くなり、ペースは落ちたけどひたすら耐える。
30kmペース走のしんどさに比べれば(比べるのが間違いか)となんとか踏ん張る。

ロードではサイクリング部の合宿風の団体(5人程度のグループ×4~5)と前後しながら進む。
今でも大鍋を積んで走ってるんですね。懐かしい。

橋本駅周辺の高層マンションを駅の目印にしているので
あれが見えてくるとほっとします。

橋本駅 5:06:29

自己ベスト更新でした(^^)v



2012年12月2日
丹沢主脈縦走 大倉バス停⇒橋本駅
単独


塔ノ岳さんのお薦めコースである大倉to橋本を初挑戦してきました。
丹沢主脈:大倉バス停⇒焼山登山口バス停(25㎞)
ロード:焼山登山口バス停⇒橋本駅(18㎞)

平丸分岐から焼山登山口まで歩いたことがなかったのと最近流行っているのでチャレンジしてきました。
苦手なロード区間が18㎞あるので敬遠していました。

今日は大倉まで電車とバスで来たのでバス停スタート。
ロッジ峠までジョグした時点で脹脛がパンパンで息もゼエゼエでした。
慣れないことするとこうなるんですね。

だましだまし登って塔ノ岳には1:28ほど。
頂上はガスガスでした。


蛭ヶ岳でコーラ休憩。
姫次までは階段が整備されていて歩きやすくなっていました。
確かに目がおかしくなりそうでした。

姫次から先はキタタンでしか通ったことが無く、平丸分岐から先は初めてでした。
個人的には姫次から焼山までの道はあんまり好きじゃないです。
走るのには快適なのですが、傾斜が緩やかなのでスピードを出せるほどの走力がありません…。

焼山登山口バス停には大倉バス停から予定通り4:12で到着。
密かにサブ6を狙っていたので、残りのロード18kmをキロ6で丁度サブ6なのでちょっとやる気がでました。

三ヶ木までのロードは車で良く通るので把握していました。
ロードの入りを頑張って強めにして、三ヶ木にはキロ6を切るペースで到着することができ、サブ6を勝手にほぼ確信(!?)
ここから橋本駅までのロードが全然わからなく、残りの距離もわからないのでかなり中だるみしてしまいました。
橋本駅周辺が見え始めてからヤバいと思いペースアップ。
下調べもほとんどしていなかったので橋本駅周辺で少し迷子になりつつも、最後は時計とにらめっこしながらなんとか南口に到着。
時間も5:59:53でギリギリ目標達成。

レース以外でロードを18㎞も走ったのは初めてでした。
しばらくロードは走りたくないです(笑)

大倉バス停 6:59
塔ノ岳 8:27
丹沢山 8:53
蛭ヶ岳 9:33~9:39
姫次 10:10
焼山 10:45
焼山登山口バス停 11:11~11:13
三ヶ木 11:51
橋本駅南口 12:59

塔ノ岳から橋本駅北口へ 2009.11/28(土)の記録
2009-11-28 15:05:53 | 日記

 
 大倉バス停7:04-一本松7:33-駒止7:41-堀山ノ家7:50-花立山荘8:10-鍋割分岐8:17-塔ノ岳8:25-日高ノ峰8:36-竜ケ馬場8:43-丹沢山8:54-不動ノ峰9:13-鬼が岩9:24-9:37蛭ケ岳9:46-10:20姫次10:26-平丸分岐10:47-焼山10:57-西沢分岐11:09-西野々分岐11:23-11:29焼山登山口バス停11:38-梶野交差点11:52-地蔵前バス停12:03-青山交差点12:12-12:17三ケ木交差点12:19-日赤病院12:34-城山高校前12:49-原宿交差点13:02-二本松交差点13:08-橋本駅北口13:21(6:16:44)


塔ノ岳から橋本駅北口へ 2009.11/23(月)の記録
2009-11-23 16:05:42 | 日記

 

大倉バス停7:19-塔ノ岳8:39-9:52蛭ケ岳9:57-10:31姫次10:40-11:07焼山11:10-11:42焼山登山口バス停11:51-三ケ木交差点12:30-城山高校12:59-二本松交差点13:19-橋本駅北口13:31 (6:12:53)

塔ノ岳から大石山へ 2009.11.21(土)の記録
2009-11-21 19:58:02 | 日記


思い切り、何処か遠くの山へ日帰りしたかった!
今日も定番の大倉2番バスで行く。

 大倉バス停7:13-8:36塔ノ岳8:38-9:51蛭ケ岳9:58-11:19檜洞丸11:25-12:02同角ノ頭12:03-12:33大石山12:37-12:56ユーシン・ロッジ13:06-13:34雨山峠13:36-14:14鍋割山14:17-14:48塔ノ岳14:51-大倉バス停15:45 (8:32:16)


塔ノ岳から橋本駅北口へ 2009.10/17(土)の記録
2009-10-17 18:20:27 | 日記

 

大倉バス停8:37-一本松9:07-堀山ノ家9:24-花立山荘9:43-塔ノ岳9:58-日高ノ峰10:08-竜ケ馬場10:15-丹沢山10:25-不動ノ峰10:44-鬼が岩10:56-11:08蛭ケ岳11:12-地蔵平11:34-11:47姫次11:51-平丸分岐12:13-12:22焼山12:28-西野々分岐12:52-12:58焼山登山口バス停13:07-三ケ木交差点13:46-日赤病院前14:02-城山高校前14:16-二本松交差点14:36-橋本駅北口14:49 (6:12:09)

出足の大倉尾根はもっと突っ込む予定だったが、丹沢名物の海からの湿った空気で大変に蒸し暑くなり、自重する。結果、塔ノ岳から蛭ケ岳までは良いぺースで行けた。大倉バス停から蛭ケ岳までを2H30Mを目安にしている!!

蛭ケ岳777回目から橋本駅北口へ 09.10/04(日)の記録  
2009-10-04 17:26:06 | 日記

 
大倉バス停7:15- 一本松7:42-駒止7:49-堀山ノ家7:58-花立山荘8:17-8:31塔ノ岳8:32-丹沢山9:01-9:44蛭ケ岳9:47-10:22姫次10:26-10:56焼山11:00-11:30焼山登山口バス停11:39-三ケ木12:17-城山高校前12:50-二本松交差点13:10-橋本駅北口13:23(6:08:47)




塔ノ岳3本/1日の我慢の日々 12月~3月まで
2009-06-25 21:32:17 | 日記

 塔ノ岳大倉尾根1日3本を、ひたすら繰り返してました
毎年12月から3月末までは、丹沢主脈の稜線はマイナス10度の体感で路は凍りついて歩きの練習になりません。
 よって、南側斜面で冬でも暖かい大倉尾根を54本往復しました
発狂しそうになりますが、ほかに歩けるコースがないのと、大倉ロッジ峠に車を停めておき、山頂の尊仏山荘でコーヒーを54杯飲んで繰り返しました
 

冬のシーズン塔ノ岳54本のいったりきたりの記録


大倉ロッジ峠5:05-堀山ノ家5:58-6:35塔ノ岳6:50-堀山ノ家7:15-大倉ロッジ峠7:46
大倉ロッジ峠8:01-堀山ノ家8:46-9:19塔ノ岳9:37-堀山ノ家10:02-大倉ロッジ峠10:35
大倉ロッジ峠10:47-堀山ノ家11:34-12:10塔ノ岳12:26-堀山ノ家12:53-大倉ロッジ峠13:33(8:27:37) 2008.12.06(土) 1.2.3

大倉ロッジ峠4:47-堀山ノ家5:43-6:22塔ノ岳6:36-堀山ノ家6:59-大倉ロッジ峠7:31
大倉ロッジ峠7:50-堀山ノ家8:33-9:06塔ノ岳9:20-堀山ノ家9:44-大倉ロッジ峠10:18
大倉ロッジ峠10:32-堀山ノ家11:18-11:54塔ノ岳12:09-堀山ノ家12:35-大倉ロッジ峠13:16(8:29:48) 2008.12.13(土) 4.5.6


大倉ロッジ峠5:39-堀山ノ家6:32-7:09塔ノ岳7:29-堀山ノ家7:53-大倉ロッジ峠8:25
大倉ロッジ峠8:44-堀山ノ家9:30-10:04塔ノ岳10:16-堀山ノ家10:40-大倉ロッジ峠11:11
大倉ロッジ峠11:28-堀山ノ家12:09-12:44塔ノ岳13:01-堀山ノ家13:27-大倉ロッジ峠14:04(8:24:46)2008.12.18(木) 7.8.9

大倉ロッジ峠5:57-堀山ノ家6:46-7:21塔ノ岳7:36-堀山ノ家8:00-大倉ロッジ峠8:31
大倉ロッジ峠8:44-堀山ノ家9:28-10:02塔ノ岳10:13-堀山ノ家10:37-大倉ロッジ峠11:10 
大倉ロッジ峠11:28-堀山ノ家12:11-12:49塔ノ岳13:01-堀山ノ家13:26-大倉ロッジ峠14:03(8:06:23)2008.12.23(火) 10.11.12


大倉ロッジ峠6:09-堀山ノ家6:57-7:32塔ノ岳7:41-堀山ノ家8:03-大倉ロッジ峠8:34
大倉ロッジ峠8:48-堀山ノ家9:35-10:11塔ノ岳10:25-堀山ノ家10:49-大倉ロッジ峠11:24
大倉ロッジ峠11:39-堀山ノ家12:25-13:00塔ノ岳13:21-堀山ノ家13:46-大倉ロッジ峠14:21(8:12:48)2008.12.27(土) 13.14.15

大倉ロッジ峠5:47-堀山ノ家6:38-7:15塔ノ岳7:28-堀山ノ家7:53-大倉ロッジ峠8:26
大倉ロッジ峠8:44-堀山ノ家9:29-10:03塔ノ岳10:17-堀山ノ家10:42-大倉ロッジ峠11:14
大倉ロッジ峠11:27-堀山ノ家12:12-12:47塔ノ岳13:02-堀山ノ家13:29-大倉ロッジ峠14:05(8:18:15) 2008.12.30(火) 16.17.18

大倉ロッジ峠6:24-堀山ノ家7:11-7:47塔ノ岳7:58-堀山ノ家8:24-大倉ロッジ峠9:00
大倉ロッジ峠9:12-堀山ノ家9:56-10:31塔ノ岳10:40-堀山ノ家11:05-大倉ロッジ峠11:40
大倉ロッジ峠11:52-堀山ノ家12:39-13:16塔ノ岳13:29-堀山ノ家13:53-大倉ロッジ峠14:25 (8:01:07)2009.01.11(日) 19.20.21

大倉ロッジ峠6:25-堀山ノ家7:13-7:49塔ノ岳8:02-堀山ノ家8:24-大倉ロッジ峠8:55
大倉ロッジ峠9:08-堀山ノ家9:50-10:23塔ノ岳10:37-堀山ノ家10:58-大倉ロッジ峠11:29
大倉ロッジ峠11:40-堀山ノ家12:23-12:56塔ノ岳13:04-堀山ノ家13:26-大倉ロッジ峠13:54 (7:29:55)2009.01.18(日) 22.23.24

大倉ロッジ峠6:08-堀山ノ家6:59-7:34塔ノ岳7:53-堀山ノ家8:15-大倉ロッジ峠8:46
大倉ロッジ峠9:00-堀山ノ家9:40-10:12塔ノ岳10:24-堀山ノ家10:47-大倉ロッジ峠11:20
大倉ロッジ峠11:28-堀山ノ家12:14-12:48塔ノ岳13:03-堀山ノ家13:26-大倉ロッジ峠13:58(7:50:46) 2009.01.24(土) 25.26.27

大倉ロッジ峠6:08-堀山ノ家6:55-7:30塔ノ岳7:41-堀山ノ家8:03-大倉ロッジ峠8:32
大倉ロッジ峠8:45-堀山ノ家9:24-9:56塔ノ岳10:05-堀山ノ家10:27-大倉ロッジ峠10:57
大倉ロッジ峠1:06-堀山ノ家11:49-12:22塔ノ岳12:30-堀山ノ家12:51-大倉ロッジ峠13:19(7:10:45) 2009.02.01(日) 28.29.30

大倉ロッジ峠5:38-堀山ノ家6:26-7:00塔ノ岳7:12-堀山ノ家7:33-大倉ロッジ峠8:02
大倉ロッジ峠8:13-堀山ノ家8:52-9:24塔ノ岳9:36-堀山ノ家9:57-大倉ロッジ峠10:27
大倉ロッジ峠10:38-堀山ノ家11:22-11:56塔ノ岳12:06-堀山ノ家12:28-大倉ロッジ峠12:56(7:18:00)2009.02.07(土) 31.32.33

大倉ロッジ峠6:01-堀山ノ家6:49-7:24塔ノ岳7:37-堀山ノ家7:59-大倉ロッジ峠8:32
大倉ロッジ峠8:46-堀山ノ家9:27-10:00塔ノ岳10:12-堀山ノ家10:36-大倉ロッジ峠11:08
大倉ロッジ峠11:20-堀山ノ家12:02-12:35塔ノ岳12:53-堀山ノ家13:18-大倉ロッジ峠13:53(7:51:32)2009.02.11(水) 34.35.36

大倉ロッジ峠5:23-堀山ノ家6:12-6:46塔ノ岳6:59-堀山ノ家7:20-大倉ロッジ峠7:48
大倉ロッジ峠8:03-堀山ノ家8:43-9:15塔ノ岳9:26-堀山ノ家9:47-大倉ロッジ峠10:17
大倉ロッジ峠10:29-堀山ノ家11:10-11:42塔ノ岳11:53-堀山ノ家12:15-大倉ロッジ峠12:47(7:23:53)2009.02.15(日) 37.38.39

大倉ロッジ峠5:18-堀山ノ家6:06-6:42塔ノ岳6:50-堀山ノ家7:14-大倉ロッジ峠7:45
大倉ロッジ峠8:00-堀山ノ家8:41-9:14塔ノ岳9:26-堀山ノ家9:50-大倉ロッジ峠10:20
大倉ロッジ峠10:35-堀山ノ家11:16-11:50塔ノ岳12:07-堀山ノ家12:33-大倉ロッジ峠13:08(7:49:52) 2009.02.22(日) 40.41.42


大倉ロッジ峠5:06-堀山ノ家5:55-6:32塔ノ岳6:45-堀山ノ家7:08-大倉ロッジ峠7:36
大倉ロッジ峠7:47-堀山ノ家8:26-8:57塔ノ岳9:08-堀山ノ家9:30-大倉ロッジ峠10:00
大倉ロッジ峠10:17-堀山ノ家10:58-11:32塔ノ岳11:52-堀山ノ家12:15-大倉ロッジ峠12:46(7:40:47) 2009.03.01(日) 43.44.45

大倉ロッジ峠5:30-堀山ノ家6:19-6:55塔ノ岳7:11-堀山ノ家7:37-大倉ロッジ峠8:09
大倉ロッジ峠8:22-堀山ノ家9:03-9:36塔ノ岳9:46-堀山ノ家10:10-大倉ロッジ峠10:42
大倉ロッジ峠10:57-堀山ノ家11:39-12:13塔ノ岳12:29-堀山ノ家12:55-大倉ロッジ峠13:27(7:57:09) 2009.03.07(土) 46.47.48

大倉ロッジ峠5:37-堀山ノ家6:22-6:56塔ノ岳7:08-堀山ノ家7:32-大倉ロッジ峠8:02
大倉ロッジ峠8:13-堀山ノ家8:53-9:26塔ノ岳9:38-堀山ノ家10:02-大倉ロッジ峠10:32
大倉ロッジ峠10:43-堀山ノ家11:27-12:02塔ノ岳12:12-堀山ノ家12:31-大倉ロッジ峠12:56(7:18:41) 2009.04.04(土) 49.50.51


大倉ロッジ峠4:40-堀山ノ家5:24-5:58塔ノ岳6:12-堀山ノ家6:34-大倉ロッジ峠7:03
大倉ロッジ峠7:13-堀山ノ家7:54-8:27塔ノ岳8:38-堀山ノ家8:59-大倉ロッジ峠9:29
大倉ロッジ峠9:38-堀山ノ家10:19-10:53塔ノ岳11:07-堀山ノ家11:28-大倉ロッジ峠11:56(7:16:30) 2009.04.26(日) 52.53.54






自己ベスト!!大倉バス停→橋本駅北口109回目 12.11/03(土)



大倉バス停7:10:55-堀山ノ家7:55:31-8:29:09塔ノ岳8:31:09-丹沢山8:58:16-9:36:32蛭ケ岳9:39:42-10:08:53姫次10:10:26-焼山10:38:39-11:05:56焼山登山口バス停11:12:50-三ケ木交差点11:46:12-城山高校バス停12:14:14-JR橋本駅北口12:43:21( 5:32:26)





自己タイ!! 大倉バス停→橋本駅北口 115回目 12.12/08(土)



大倉バス停7:40:05-堀山ノ家8:23:51-塔ノ岳8:57:21-丹沢山9:24:21-10:04:19蛭ケ岳10:06:49-10:38:48姫次10:40:24-焼山11:10:10-11:37:22焼山登山口バス停11:42:11-三ケ木交差点12:15:20-城山高校バス停12:42:49-JR橋本駅北口13:11:56( 5:31:51)





011.04.26 楽天プロフィール XML
第5回塔ノ岳カップ(塔ノ岳TT) (3)
カテゴリ:カテゴリ未分類
4/24はウェルさん企画の「第5回塔ノ岳カップ」に参加しました。

レースではなくて個人的な塔ノ岳TTをみんなでやろうという企画。
山頂9時到着するように各自目標タイムから逆算してスタートする形式。

自宅からいつもの始発電車に乗って小田急を乗り継いで渋沢に向かう。
空いているので座っていくのですがふと前の席を見ると夜明けのランナーさんが座っていた^^
(大山方面に行かれるそうで伊勢原で下車されました)

渋沢駅からはバスで大倉まで行くことが多いのですが
今日はTTということでアップを兼ねて走りました。4kmちょっと。

バスロータリー脇のベンチで待っているとバスやランで続々と参加者集合。
塔ノ岳さんの姿を見つけたのでTTに参加していただきました。

TT参加者
・ウェルさん
・おいちゃさん
・ヤマジャンさん
・とよっちさん
・あきやまひろみさん
・リキさん
・G3さん
・塔ノ岳さん
・ELBさん(「漆黒」チームからの刺客^^)
・のま
(10名)

その他
・衛生兵さん
・O川さん(女子強豪)


私の目標タイムは80分としました。
先週までそれなりに頑張っても86~90分くらいだったので80分切れれば上出来です。
逆算して8:40に一人でスタートにしました。

90分スタートの誰かに追いつけることを密かに狙う。
特にひろみさんね^^まだ山走っているとこ見た事ないので。
追っ手は塔ノ岳さん、ウェルさん、ELBさんです。
(この企画の記録ホルダーである藍パパさんは残念ながら急用でDNS)

この日は塔ノ岳TTの後も10時間程度走る予定だったので
食料等で軽量化はあまりできませんでしたが水は塔ノ岳の水場で汲めるので
ハイドレーションパックは空にして500mlのペットボトルだけにしました。

水を減らすだけでも大分違いますね。スタートから意外に走れました。
見晴茶屋からの登りで緑のウェアのランナーに抜かれるorz
実はスタートの準備をしている時に1、2分前にスタートするのをチェックしていました。
私は最短コースでしたがおそらくこの方は大倉高原山の家のコースを回っていて
そこで入れ替わったのだと思う。
このブログを見ていただいているようでハンドル名を呼ばれてびっくりしました。
急な階段も軽快に走られてかなり強い方だと思われます。(私は歩き&滝汗)
名前聞いておけば良かったなあ。

そこからは少しずつ離されていく緑ウェアの方を目で追いながら進んだら
なんと堀山の家の通過タイムは自己ベストの時の通過タイム(0:43:14)より1分速かった。

0:42:14 堀山の家

もしかしてベストが出せるかもと思ったりしたけどやっぱり突っ込み過ぎでした(笑)
その後緩やかに失速してゴールタイムは自己ベストより1分遅れとなった。

1:14:38 塔ノ岳

思っていたよりは頑張れましたが成長は全く感じられないですね。
いかに良かった時の状態に戻せるかという感じになってきている最近の私。。。

リキさん、ひろみさんとは30秒程度の差だったようで
そこだけはもう少し頑張れば良かったなーと思います(笑)

緑ウェアの方は最後の木階段区間ですれ違いました。
他の方の目撃情報でも「走っていた」らしいので相当強いですね。
山の家経由で余裕を持って走られて70分前後?スゴイです。

他の方の結果はこちら

山頂はガスっていてちょっと寒かった。
最終のGさん到着を待ってすぐ解散。
参加された皆さんお疲れ様でした。

解散後はそれぞれ表尾根→大山、蛭ヶ岳→焼山登山口、丹沢山→宮ヶ瀬へ行かれたようです。
私は塔ノ岳さんとユーシンに下り、檜洞丸、神ノ川、姫次へと丹沢3ピークコース。
とりあえず姫次に向かいそこから先は余力を見て考えることにした。

塔ノ岳直下の水場で1.5L水を入れる。(+粉末のスポドリ)
鍋割沢までの下りでは今日も登ってくる人と会った。
ユーシンロッジ辺りでテント泊したのかな?
前日が大雨だったので枯れていることが多い鍋割沢も水が流れていた。
ジャンプでギリギリ渡れた。

1:39:28 尊仏ノ土平(塔ノ岳山頂滞在中は時計停止)

ユーシンロッジ入り口の橋の横から水が出ているのを教えてもらうが
この日はちょろちょろで質もいまいちだった。一応ペットボトルに汲んで行くが・・・

2:10:50 ユーシンロッジ

トイレに行きたかったのだけどユーシンロッジのトイレは鍵がかかっていた。
水道も閉められていた。
ユーシン沢で水を汲む。(500ml)
今まで飲めると思ってなかったんだけどここの水はおいしかった。

大石山への登りは何度登ってもきつい。アキレス腱にきます(><)

2:43:37 大石山

晴れてきたので富士山、蛭ヶ岳を見ながら進む。
大石山から同角ノ頭までもきつい。

3:17:53 同角ノ頭

同角ノ頭から先頭交代で後からついていく。
檜洞丸までに一度大きく下ってから登らされるのが辛いです。

3:57:05 檜洞丸

檜洞丸山頂は登山者いっぱい。
大鍋でカレーを作っているグループがいていいにおいが漂っていた。
頭の中がカレーに支配される。私も山でカレー作りたい^^
ここからの下りは再び先頭で進む。
檜洞丸からの下りは大パノラマだった。途中で写真も撮りながら進む。

4:14:31 熊笹ノ峰

一気に神ノ川まで下ってからV字上昇です。

4:48:28 神ノ川(橋への降り口)

トイレに寄りたいけど神ノ川ヒュッテのトイレまでちょっと離れているので我慢。

5:28:37 風巻ノ頭

塔ノ岳さんがちょっと遅れたので山頂で待つ。
名前の通り?風の通りが良い山頂でした。
暑かったので風が心地よかった。
ここから塔ノ岳さん先頭(ゴールまで)。
塔ノ岳TTが効いてきたのか袖平山への登りはヘロヘロになってしまいました。

6:13:37 袖平山

蛭ヶ岳がきれいでした。
このコースは蛭ヶ岳山頂は通らないけどいろいろな方向から蛭ヶ岳が見れるのが良いです。

6:21:39 姫次

富士山は見えなくなっていた。
ここからの予定は焼山登山口に下ることにした。
水が切れそうだったのとやっぱり塔ノ岳TTで消耗していて辛かった。
この日は東丹沢トレイルレースが行われていたので姫次から下は
前日の雨+レースでグチャグチャか?と思っていたけど大丈夫だった。

6:56:51 焼山

焼山で水が無くなる。

7:30:20 焼山登山口バス停

トイレで軽量化し、コーラ飲んで生き返る^^

7:45:17 バス停発

8:26:49 三ヶ木

ロードはずっと塔ノ岳さんに引っ張ってもらったけど
めちゃくちゃきつかった。一人だとダレてましたね。
牛丼食べてバス乗車パターンにしたかった(笑)

それにしても塔ノ岳さんは焼山登山口から橋本まで給水無し。
(一口私のボトルを回し飲みしただけ)
滝汗の私にはありえません^^;

9:29:14 橋本駅北口(この日は踏み切りに掛かったのでそこでゴール)

塔ノ岳さんとは駅で解散。
私は空腹が我慢できずラーメンを食べてから帰りました。
お付き合いいただきありがとうございました。


■塔ノ岳TT
次回は70分切りを狙えるようにしたいですが相当鍛えないと無理そうです。
もっと走れる区間を広げていかないと駄目ですね。
私はいつも堀山の家で前半、後半に分けて考えていて
後半を30分というのを目安にしています。
ウェルさんのタイム(0:29:22)から考えても
70分切りは後半はこのタイムで十分だと考えています。
問題は前半で40分以内というのがかなり遠い感じです。

ウェルさんの鬼ラストスパートはいいもの見せていただきました。

■3つの登り
この日の3ピークでどれが一番楽かというと大倉尾根ですね。
一部ガレ場もあるけど基本的には階段登りなので楽です。
やっぱりきついのは同角山稜への登り。まったくステップが無い急勾配(><)
袖平山は勾配はきついけど岩等をステップとして使えるのでまだ楽。
あと登りに目が行きがちですが登った分は下らないといけないのでそっちもきついです。
先週の大倉→山中湖ではほとんど筋肉痛は無かったですが
激下りを含むコースは筋肉痛が酷いです。。。

2011.04.16 楽天プロフィール XML
目指せ山中湖 (6)
カテゴリ:カテゴリ未分類
2007年に初めて塔ノ岳さんに会った時に聞いてから
いつかはやってみたいと思っていた。大倉→山中湖に挑戦してきました。

結果は無事完走です。タイムはともかく・・・



0:00:00 大倉バス停
0:49:54 堀山の家
1:26:37 塔ノ岳
1:53:55 丹沢山
2:37:48 蛭ヶ岳
3:12:24 臼ヶ岳
3:59:54 檜洞丸
4:48 32 犬越路
5:32:16 大室山
6:01:59 加入道山
6:51:12 モロクボ沢の頭
8:04:55 菰釣山
9:04:05 山伏峠分岐
9:26:44 高指山
9:45:50 平野
10:16:26 旭日丘バス停

スントt6cによると累積標高は4400mということになっていますがそんなにあったかな?
細かいアップダウンはうんざりするほどありましたけど・・・


・見晴茶屋の先の階段で塔ノ岳さんに追いこされるが付いていけず。
・登りで離されてランと下りで追いつくという感じで塔ノ岳まで。
・丹沢山を過ぎると霧が晴れて景色が楽しめたけど次第に暑くなる。









・蛭ヶ岳までちょっと速すぎだったかも。
 橋本駅コースの塔ノ岳さんとはここでお別れ。
・その後失速。。。檜洞丸の登りは死んだな。
・水分補給が不足していたようで早くも手の指がむくむ。
・犬越路への下りは2007年以来。物凄く怖かったイメージがあったけどそうでもなかった。



・すれ違った登山者から大倉5時スタートで山中湖を目指しているランナーがいることを聞いた。
 姿は見えないけどだいぶ励まされた。
・水はコーラ、お茶を含めてスタート時に3L持ったので
 先週までの消費量から考えて余裕だと思っていたら暑さで消費が早く
 節約モードに・
・大室山の登りもカメ。
・モロクボ沢の頭の手前で痛恨のロスト(ちょっと恥ずかしい・・・油断大敵ですね)
 気持ちが切れて温存していたコーラをついつい開けてしまう(笑)
・2週間前までボトルが凍るのを心配していたのに今日はぬるいコーラ。。。
・菰釣山の登りが一応ラスボスになるのかな・・・でも
 それよりも細かいアップダウンの方がやっかい。
・道志村トレイルの試走をしていたたーこさんとバッタリ。
 道志村トレイルの情報をしばらく立ち話。
・その後も試走者一人すれ違う。
・水分をけちっていたのでパンが喉を通らず。エネルギー切れも何度か。。。




・高指山を下り始めたら前にランナーが見えた。
 大倉→山中湖に挑戦されていたKAZUさんでした。
・平野交差点のコンビニまでKAZUさんといっしょに進んでゴール。



・ガリガリ君、ライフガードを買ってバス停に向かう。
 水はここで丁度切れた。ギリギリの節約をしてギリギリ。




・最後はのんびり写真を撮ったり歩きを入れながらバス停について終了。



・山中湖は行くのはいいけど帰るのが大変ですね。家まで4時間以上かかりました(><)


2011.04.13 楽天プロフィール XML
蛭ヶ岳周回 (2)
カテゴリ:カテゴリ未分類
3回目の挑戦でやっと蛭ヶ岳周回コース完走しました^^

大倉バス停→塔ノ岳→尊仏ノ土平→ユーシンロッジ→大石山
→同角ノ頭→檜洞丸→熊笹ノ峰→神ノ川園地→風巻ノ頭→袖平山→姫次
→榛ノ木丸→伝道→本間橋→本間ノ頭→丹沢山→塔ノ岳→大倉バス停


0:00:00 大倉バス停
1:30:48 塔ノ岳
1:56:00(0:25:12) 尊仏ノ土平
2:19:26(0:23:26) ユーシンロッジ
2:56:19(0:36:53) 大石山
3:33:31(0:37:12) 同角ノ頭
4:08:48(0:35:16) 檜洞丸
4:54:40(0:45:52) 神ノ川(橋への降り口)
5:36:53(0:42:13) 風巻ノ頭
6:15:25(0:38:31) 袖平山
6:20:50(0:06:20) 姫次
7:11:25(0:50:35) 本間橋
8:22:43(1:11:17) 本間ノ頭
9:14:13(0:51:30) 丹沢山
9:56:31(0:27:44) 塔ノ岳
10:52:22(0:55:50) 大倉バス停

累積標高 5138m

塔ノ岳9時間56分の時点で累積標高5098mなので
10時間5000mアップの目標も達成(祝)

・渋沢駅でウェルさん、衛生兵さんとバッタリ。
 大倉まで走られるとのことなのでそこでお別れ。
・バスはほぼ満員。
・大倉バス停に着くと小雨。
 走ってきたウェルさん達にまた会ったが先が長いので
 お先にスタートさせてもらう。
・金曜日の疲れか、先週の疲れか、塔ノ岳までが辛くてまたまた90分オーバー。
 今日は完走狙いとして焦らず進む。
・下り始めてすぐ水を汲み上げている方(小屋の関係者?)とすれ違う
 先週は水場ですれ違ったのでちょっと遅れている^^
・ユーシンまでの林道は落石が多いので注意しながら進む。
 1ケ所大きく崩れているところがある(崩れたのは昨年)
・林道で1人とすれ違う。先週も1人すれ違った。
 ユーシンロッジの周辺でテント泊する人が多い(多いとは言わないか)ようだ。
・塔ノ岳まで無理しなかったのが良かったのか
 その後の区間タイムは先週のタイムを上回り檜洞丸で逆転した。
・同角山稜では誰にも会わない。先週もそうだった。鹿の足跡しか無い。
・檜洞丸山頂付近で数人の登山者。
・檜洞丸から熊笹ノ峰に向かう下りはやわらかい土が流れて荒れている。
 ぬかるみも酷い。
・雪はかなり解けた。来週はまったく問題にならないでしょう。
・神ノ川園地でやっと雨が止んだ。
・風巻ノ頭への登りは失速。
・袖平山への崩壊地あたりで白い大きな犬を連れた人(ハルミさん)が下ってきた。
 もしやぴれきち?と思ったらやっぱりそうでした。
 M藤さんが後からきているかも知れないと聞いてちょっとだけ急ぐ。
・姫次東から伝道へ下る道はマークが増えてわかりやすくなっていた。
・本間橋の登山道入り口が相変わらず不明。
 何かの施設(昔は丹沢観光センターだった?)の上にある広場の階段から
 給水施設?の脇を通り沢沿いに進むと何種類かのテープが巻いてあるので
 それを追ってアバウトに登っていくと標識が現れた。
・本間の頭への登りスゴイ。どMな登りだった。
 上から降りてくる人がいて「この道すごいですよね」とお互い苦笑。
・丹沢三峰のアップダウンを過ぎて丹沢山への登りが始まると
 少し雪が残っていたが傾斜が緩いので問題なく登れた。
・みやま山荘でカップ麺休憩15分。
 カレーを頼もうとしたけど「ちょっと時間がかかります~」
 と言われたのでカップ麺。
・丹沢山~塔ノ岳は誰にも会わず。夕方になるとまだまだ寒い。
・大倉尾根はゆっくり下り始めたけど途中からビルドアップして
 最後は久しぶりの全力ダウンヒル。
・なんとか明るいうちに下山。
 丁度バスが止まっていたのでそのままバスに乗った。

うおお!バン・ニーキルク世界新!!400m43秒03ておい!!100mを10秒75でいく計算!

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陸上界の新たなスター、ウェイド・バンニーキルク!

100m9秒台 200m19秒台 400m43.03←世界記録

8レーンの配置が好記録につながったのか、シードレーン(4~6レーン)だったら42秒台は達成されたのか!陸上はタラレバがつくスポーツですが、42秒台が現実的になった物凄いレースでした!

リオオリンピックでマイケル・ジョンソンの永久不滅と言われた世界記録を破り、43秒03という驚異的な世界記録で金メダルを取った南アフリカ共和国の「ウェイド・バンニーキルク」選手。

日本のテレビではあまり大きく取り上げられませんでしたが、陸上関係者(特に400mスプリンターの皆さん)の間では、まさに衝撃的ニュースとなりました。

個人的にはウサイン・ボルト選手の9秒58並に衝撃の記録だったと感じているのですが、いかがでしょうか?


世界の他の400m選手と比べても、短い距離でのPB記録が圧倒的に速く、世界で唯一9秒台、19秒台、43秒台を達成した選手です。

これは2016年現在現役である選手だけが対象でなく、これまでの陸上史の中で見ても彼しかなし得ていない大偉業となります。

あのマイケル・ジョンソンですら100m9秒台は持っていませんし、世界最速のボルトですらなし得ていないことです。

それだけ圧倒的優位なスピードを持っているバンニーキルク選手ですが、ただ短い距離が速いだけでも43秒03という記録を出すことはできません。

バンニーキルク選手は9レーンという不利なレーンでのレースの中、序盤から自身のスピードを活かして積極的に攻めていきます。

300m地点では一度メリット選手やキラニ選手と並びかけますが、前半あれだけ飛ばしたにも関わらず、ラスト100mで他の選手をさらに引き離していきます。

ラスト100m、バンニーキルク選手を追うメリット選手とキラニ選手は一生懸命腕を大きく振って前に進もうとしますが、それが逆に力みとなり、思ったように前に進んでいません。

一方のバンニーキルク選手、ラスト100mの粘る場面になっても腕の振り方はコンパクトなまま、リズミカルにうまく重心を移動させて大きく前に進んでいっています。

最初飛ばして後半もスピードが落ちない、非常に理想的なレース展開ですね。



このレース展開に関して、バンニーキルク選手はかなり緻密にレースプランを研究したと思われます。

スピード型400m選手らしい、実に理想的なレース展開。

このレースプランを普段の練習からしっかり意識しているため、前半はスピード型の「パー」の腕振り、加速局面を過ぎてからはエコに走ることができる「グー」の腕振りを自然に行っているのだと思われます。

非常に小さな違いですが、こういった小さな違いを普段から意識しているからこそ、オリンピック本番であれだけ素晴らしいレースを行うことができるのでしょう。



山全体でいうとアンナプルナで壁だけでいうとマカルー西壁が最強  マカルー西壁やナンガパルバットルパール壁アンナプルナ南壁

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ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20160208/ddm/005/070/028000c#csidxd16745d67e97242ab1ee130133628b6
Copyright 毎日新聞



女性アルパインクライマーとして世界中の山を舞台に活躍する谷口ケイさん。小柄ながらも底知れぬ体力と精神 力で世界の高嶺を次々と制覇し、栄誉ある「ピオレ・ドール(金のピッケル)賞」を日本人として、女性として初めてノミネート・受賞した。学生時代から何事にも全力で取り組み、後に続く人たちへの確かな道を切り拓いてきた。

山と友達になって恐怖心を克服
 何が起こるか分からないのが自然の世界。ルート上が氷壁かもしれないし、クレバスが大きな口を開けているかもしれない。そういう山に登っているから大きい人だと思われるけど、会ってみたら「凄く小さいね」とよく言われる。本当は小さい方が無駄なカロリーを消費しないから、ヒマラヤみたいな高い山では最終的には生き延びるんですけどね(笑)。

 正直、山に対してはいつも恐怖心を抱いています。でも、登り始めると恐怖心はなくなるんです。人間関係と似ていて、初対面の人には一歩引いて接していても、挨拶を交わして話しをするうちに打ち解けますよね。同じことが山と自分の間でも起こるんです。山と対話をするとお互いの距離が縮んでいく。こうして山と友達になると、恐怖心はなくなるんですよ。


07年、エベレスト登頂。この時、谷口さんがブログに記した手記が印象に残る。「初めてのチョモランマ(エベレスト・チベット側)そして、きっと二度と来ないはず」との書き出しだった。高所の薄い酸素の中で平常心を失っていた別の隊のイタリア人に酸素を吸わせ、命綱を付けずに下山していたオーストリア人女性に「死にたくなかったらカラビナ(登山用金具)ちゃんとロープに掛けなさい」と厳しく注意するなど多くの登山者の面倒をみた様子がつづられていた。近年、エベレスト登山の主流となっている公募隊。メンバーの技量が違い、気持ちも通じあっていないことが多い現状を嘆き、その異様さに警鐘を鳴らしていた。

 09年、世界の優れた登山家に贈られるフランスの「ピオレ・ドール(黄金のピッケル)賞」を女性として初受賞。行方不明となったのは昨年12月21日、大雪山系黒岳の山頂付近。翌日、発見され死亡が確認された。登山家の田部井淳子さんは「男性と対等に登れる体力と技術を持った女性登山家の星だった」と早すぎる死を悼んだ。誰よりも危険性を知っていた雪山で亡くなるなんて……。最近は学生向けの登山研修会に講師として積極的に参加していた。後進たちの安全登山を見守り続けてほしい。

女性クライマーの星 谷口(たにぐち)けいさん=滑落による脳挫傷のため、2015年12月22日死去・43歳
 2006年、アルピニストの野口健さんが主宰したネパール・マナスル峰(8163メートル)の清掃登山隊に参加し、谷口さんは自身初の8000メートル峰登頂を果たす。その時、私は標高約4800メートルのベースキャンプまで同行取材した。5歳年上の谷口さんは当時33歳で「面倒見のいいお姉さん」だった。日焼けした顔でネパール人シェルパに和気あいあいと接し、譲れないことは主張した。芯の強さと柔軟さを持ち合わせた人だった。



2001年 マッキンリー(6,193m/アメリカ)登頂。2日連続登頂。
2004年 ゴールデンピーク[北西稜](未踏ルート/7,027m/パキスタン)初登頂。
2004年 ライラピーク[東壁](未踏ルート/6,200m/パキスタン)初登頂
2005年 ムスターグアタ[東稜](7,569m/新彊ウイグル自治区)登頂。
2005年 シブリン[北壁](未踏ルート/6,543m/インド)初登頂。
2006年 マナスル(8,163m/ネパール)登頂。
2007年 エベレスト[北壁](8,848m/チベット)登頂。
2008年 カメット[南東壁](未踏ルート/7,756m/インド)初登攀。
2011年 フランシス峰[南西稜](3,185m/アメリカカヒルトナ氷河)登頂。
2011年 カヒルトナクイーン[西壁](3,773m/アメリカカヒルトナ氷河)登頂。
2011年 マッキンリー[ウエストバットレス](6,194m/アメリカ)登頂。
2011年 ナニムニ[南東壁](7,694m/チベット)登頂。
2012年 アネト山(3,404m/フランス)登頂。
2014年 ムスタンマンセイル峰(未踏峰/6,242m/ネパール)登頂。

また、「女性だからできない」と言われるのがとにかく嫌い。先輩に無理だと言われた片道300kmを走る自転車のロードレースに女性として初めて参加もしました。いま考えると頑張りすぎた気がしますが、自分に続いてきた後輩たちもたくさんいましたし、そうした 努力があって今の自分が形成されたのだと思います。いまでも時々「女性だから」って声を耳にするけど、他が何と言おうと自分がやりたいと思えば、努力してやればいい。ただシンプルにそう考えています。

自分で限界を設けないで
 じつは初めての海外遠征でマッキンリーに登った際、パートナーのトラブルなどがあり、結局、二日続けて2回の登頂を果たしました。その時、「あれ?自分って思っている以上にもっとできるのでは?」と新たな可能性が見えたんです。山の世界は極限の状況でいつも死が隣り合わせ。だから身の安全がもっとも大切だけど、一歩踏み込んで挑戦するか、踏み出さないで安全な域にずっといるかで自分のキャパシティはどんどん変わってくるものです。だから学生のみなさんも、自ら限界を作らないでほしい。自分の可能性が無限であることを見つける旅、それが人生なのだから。

Profile of Kei Taniguchi
初めての海外遠征で北米大陸最高峰のマッキンリー峰の登頂成功に始まり、2004年パキスタン・ゴールデンピーク(7027m)、06年ネパール・マナスル(8163m)、07年エベレスト(8848m)など世界中の高峰を制覇。08年インド・カメット峰未踏の南東壁に初登攀。これに対して、日本人として、女性としても初のピオレ・ドール(金のピッケル)が贈られ、日本を代表する女性アルパインクライマーとして注目される。1972年生まれ。和歌山県出身。


マカルー 西壁
デスゾーン手前から山頂付近まで垂直の岩壁~オーバーハングが続くという人類の限界を超えたルート。 世界の一流クライマーが挑んだが全て敗退している。

マカルー西壁はデスゾーンでハードルがあがっちゃうからキツイね
ウエリシュティックでも無理だろ

1996年に満を持して挑んだものの、「フリーで登るのは不可能、多量のギアを持てばスピードが落ちてリスクが上がる」というジレンマの通り落石の直撃を受けて負傷し核心部に至らず敗退。 

「どのようなトレーニングを積めばいいのか判らない」と難しさを語っている。

これからも登頂が難しいのは今まで何回も挑戦されてるけど誰も登頂してないナンガパルバット冬季登頂
それと、あの山野井さんが「どうやって登ればいいのかわからない」と言わしめたマカルー西壁
この二つはなかなか登頂されないだろ

マカルー西壁、極限のクライミングを記録に残す意味。

――山野井さんはこれだけ世界的に注目される登山をしながら、あまりドキュメンタリー撮影などでクライミングしている姿を映像に残していませんよね。でも、「ヒマラヤに残された最後の課題」ともいわれるマカルー西壁(8463m)へのアタックでは、テレビの取材を受け入れましたね。これはやっぱり特別な挑戦だったんでしょうか。

 自分のやっていることを見せたいと思ったんです。というのも、メディアに流れる情報が、大きな隊によるエベレスト登頂や七大陸最高峰制覇といった方向に偏っていたのが気になっていたからです。登山にはそれとは違う世界があること、神秘的な山、困難な岩壁で、極限に挑戦しているクライマーがいるんだということを、ひとりでも多くの人に見てもらいたいという気持ちがあった。だから、べつに僕が主人公じゃなくてもよかったんです。

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 結果は頭に落石を受けて敗退。登頂を撮影することはできませんでした。その後もお話はありましたけど、基本的にはぜんぶお断りしました。そもそも8000m級の山で壁にしがみついている表情なんて撮れるわけがないということも分かった。

――野球やサッカーのような競技スポーツだったら、放っておいてもメディアに取り上げられますけど、登山の場合、自分から報告しないと誰にも分かってもらえない。そういう意味でも難しいスポーツですよね。

 僕の場合、だからといって自分の冒険を大げさに伝えるようなことは嫌だったんです。子供の頃からこの世界が大好きだから、正しく報告しなきゃいけないなということをすごく感じてました。それに自分がやってきたクライミングで、人に向かって本当に「やったぞ!」と言えるものはそれほどない。今までずいぶんいろんなところに書いてもらったし、自分でも書いたので、もう充分だと思ってます。

 むしろ、見せなくてもいい世界があるんだと思うようになりましたね。全部を世の中の人に知ってもらわなくてもいいじゃないかと。いずれにしても、経験したことそのものに比べれば、記録されたものは、残りかすみたいなものです。それは僕自身の文章もそうです。


アンナプルナは別格だけど
ナンガパルバット、K2,カンチェンジュンガ、ガウラギリ、マカルー
このへんの危険度は同じくらいでは?
壁によってはマカルーやダウラギリが一番危険だったりする

2009年のデータ発見しました ^^V
アンナプルナがとび抜けて、次にK2って感じみたいです。

以下 14座の挑戦者数、死亡者数、死亡率です(標高順)

エベレスト     5104 219  4.29%
K2         302  80 26.49%  
カンチェンジュンガ  243  40 16.46%
ローツェ       396  12  3.03%
マカルー       323  29  8.98%
チョ・オユー    2790  43  1.54%
ダウラギリ      417  62 14.87%
マナスル       297  58 19.53%
ナンガパルバット   326  68 20.86%
アンナプルナ     157  60 38.22%
ガッシャーブルムⅠ  298  26  8.72%
ブロードピーク    358  20  5.59%
ガッシャーブルムⅡ  872  20  2.29%
シシャパンマ     285  24  8.42%

エベレストは挑戦者5万くらいで死亡者千人の4㌫
アンナプルナは挑戦者5百人くらいで死亡者200人の40%

標高(8611m 世界第2位)
死亡率(アンナプルナに次ぐ2位)
冬季未踏峰(14座ではK2とナンガパルバットのみ)
不安定な気候
急峻な傾斜
人里から離れているためアプローチが難しい

以上の点から K2がもっとも危険な山と思われる。

世界初の14サミッターメスナー ローツェ南壁敗退
世界2番目の14サミッターククチカ ローツェ南壁にて死亡


ローツェ南壁を真冬に完登した田辺治は、ダウラギリノーマルルートで雪崩にやられた
表層雪崩なら避けられても、はるか高所のセラックが崩れたら予知も回避もできない

そんなこと言ったらきりないだろ
じゃあ誰も登頂してないマカルー西壁はどうなんだ?
まだ日本人女性が誰も登頂してないカンチェンジュンガやアンナプルナはどうなんだ?
一部分だけみて判断するのはどうかな?

14サミッター竹内洋岳のアンナプルナ評

とにかく怖かった
後にも先にもあそこまで追い込まれたのはあの時だけ
弾倉に弾丸が半分入ってるロシアンルーレットのようなもの
もう二度と登れない

あの竹内氏が言うんだからアンナプルナ超ヤバイんじゃね?





1995年のマカルー登頂から足かけ18年……数々の試練を乗り越えて
ついに日本人初の8000m峰14座登頂に成功した竹内洋岳。
ダウラギリの頂上に立ったそのとき、何を感じたのか?
下山したばかりの彼に、その思いを語ってもらった。
 世界に14座ある、8000m峰。

とにかくダウラギリの存在感はハンパない
回りの山が低くて丸っこい山の中で真っ白で馬鹿でかく鋭利な山がそびえ立ってる
将棋でいえば王将がドーンと立ちはだかってるような感じ
見た瞬間にこんな山絶対登れるはずがないと思うような山
しかし、テレビで竹内さんがすいすいと登頂したのを見てこれまた衝撃を受けてしまった

8000m峰危険度ランク

Sランク
アンナプルナ

Aランク
カンチェンジュンガ、ナンガパルパット、ダウラギリ、K2

Bランク
マカルー、ローツェ、エバレスト

Cランク
マナスル、ブロードピーク、チョオーユー、シシャマンマ、ガッシャブルムⅠ峰Ⅱ峰

女性登山家のワンダがアンナプルナ登頂したときにK2よりはるかに厳しかったって言ってた
そのワンダもカンチェンジュンガで滑落して死んでしまった


8000メートル峰の中では
最も難しいのがK2、最も危険なのがアンナプルナ


SS アンナプルナ、K2
S  ナンガパルバット
A  カンチェンジュンガ、ダウラギリ
B  マカルー、ローツェ
C  エベレスト、シシャパンマ、チョ・オユー、マナスル、ブロードピーク
   ガッシャーブルムⅠ峰、ガッシャーブルムⅡ峰

K2
おそらく世界で最も難しい頂。
標高が高い。雪崩の危険が高く、天候はよく悪化する。技術的に難しく、簡単なルートが無い。
北側の稜線はやや難度が下がるが、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響が厳しくなる。

アンナプルナ
14座の中で最も危険。北側のノーマルルートは技術的に難しくはないが雪崩の巣。
南側は技術的に極めて難しく、多くの危険がある。

ナンガパルバット
ノーマルルートは技術的に極めて難しいというほどではないが、長く、自然要因(嵐・雪崩・強風)の影響を受ける。
天候が悪いことで有名で、用心しなければならない場所が多い。難しい山の一つ。

K2の難所 頂上直下のボトルネック。
頭上のセラックやばすぎw
これがいつ崩壊するか分からんとかどんなムリゲーだよ

竹内さんは死の一歩手前だったガッシャブルムやエベレストよりアンナプルナの恐怖のほうが印象強かった
マジに死の恐怖に直面したらしい


K2、ガッシャーブルム、ブロードピークはほぼ同じ位置にあって
アプローチの難しさは同じ

カンチェンジュンガはかなり難易度高い
標高も高いしかなりの難易度、ナンガパルパットやK2と同じくらいのレベル
マナスルはアンナプルナまではいかないけど雪崩が多い
雪崩さえ気をつければ難易度は巨峰の中でも下のほう
イモトのときは雪崩がなかったから大量登頂できた
ダウラギリはルートによって難易度がまったく違う山
ここも雪崩が多く有名登山家ではシャンタルや田辺さんなどが亡くなってる

14座登頂した竹内さんが危険度NO1はぶっちぎりでアンナプルナって言うんだからアンナプルナなんだろ

メスナーはK2を山の中の山と評しているが、アンナプルナは特に評していない
ちなみに、メスナーが危機を感じたのはカンチェンジュンカとナンガパルバット

14座無酸素
マリオ・パンツェーリ(Mario Panzeri、イタリア)エベレスト3回を含む完全無酸素8000m峰14座制覇。
ゲルリンデ・カルテンブルンナー(オーストリア)女性として初めて8000m峰14座制覇の無酸素登頂に成功(2011年)


アンナプルナⅠ峰南壁
クリス・ボニントン(イギリス) エベレスト遠征のエキスパート、アンナプルナⅠ峰南壁初登頂


日本人の活躍
山野井泰史 K2南南東稜単独無酸素最速登頂の記録を持つソロクライマー
八木原圀明 エベレスト冬季南西壁初登頂
長谷川恒男 史上初のアルプス三大北壁冬季単独完登



マッキンリーは6000m峰だけど比高は世界一だし高緯度のため
高山病の危険が非情に高い山。
危険度で言うとエベレストよりは上だと思う。

冬富士は荒れれば生きて帰ってこれないぐらい危険だがアプローチが簡単で車から天候を読んで安定した1日で登れ、雪山中級なら誰でも登れると思う。

北アルプス、特に劔や槍穂高の稜線は違う。
アプローチに数日かかって急激に低気圧が発達したら身動きがとれず数日ビバーグもありえる。
しかも世界有数の豪雪地。
ドカ雪の日は夜も昼も寝れない。
1時間おきに雪かきしないと埋まっちゃうから。
ラッセルも半端ない。劔なんて厳冬期に入るパーティーなんてまずいないから
全てラッセル。
深いところは胸まで沈む。
気温はマイナス20と風速20mが重なれば体感温度はマイナス40度に達する。
特に上の動画の奥穂高岳から西穂高への縦走はまともなビバーグ地点すらない。
もちろんエスケープルートもない。
北アルプスは一度核心部まで突っ込んだら行くも地獄、退くも地獄。
やめといた方がいいよ。結構死んでる。
秋に奥穂から西穂縦走したけどすれ違ったおじさん翌日のニュースで亡くなってた。
一応一般道だけど大キレットと西奥縦走、妙義縦走は未経験者はやめたほうがいい。

ガチランキング

1 K2、アンナプルナ
2 ナンガパルバット
3 カンチェンジュンガ
4 ダウラギリ、ミニヤコンカ、ギャチュンカン
5 梅里雪山
6 マナスル
7 マカルー
8 エベレスト、ローツェ

SSS ギャチュンカン K2
SS  ナンガパルバット アンナプルナ ガンケルプンズム
S   カンチェンジュンガ ミニヤコンカ ウルタルⅡ峰
A   ダウラギリ 梅里雪山
B   マカルー カメット
C   エベレスト ブロードピーク ローツェ マナスル

日本人エベレスト登頂者のべ200人
日本人K2登頂者50人

K2登頂した主な女性
ワンダ、ガリンダ、ジュリー、シャンタル、小松由香

ガリンダはエベレストも登頂してるが他は全員エベレスト敗退してるな
記憶違いでワンダは登頂してるかもしれないが
とくにシャンタルはK2一回目の挑戦で登頂したけどエベレストは5回くらい敗退したはず
一概にK2のほうが難しいとは言えない


 そのすべてに登頂した、初めての日本人がプロ登山家の竹内洋岳だ。

 5月26日、14座の掉尾を飾る、ダウラギリI峰(8167m)の登頂に成功。1995年のマカルー登頂以来、足かけ18年に及んだ挑戦に区切りをつけた。

 カトマンズで羽を休める竹内に、今の心境を訊いてみたい。受話器から聞こえてくる声は、軽やかに弾んでいた。

――改めておめでとうございます。快挙達成のニュースに日本中が沸きましたよ。

竹内 そうですか。いや、なんかね、こっちにいるとよくわからなくて。ヒマラヤには私以外にも14座のサミッターは普通にいて、珍しくないんですよ。

――世界で29番目とも言われる、14座完登者になりました。ダウラギリの山頂に立った瞬間は、何を思いましたか。

竹内 今回に限らずいつも思うのは、もう登らなくて良いんだってこと。そこから先は空しかないですからね。もちろん、今回が14座目の完登に間違いないんですけど、14座完登よりも、14座目の山に登れてうれしかった。ダウラギリに登れて良かったなあ、という思いの方が強かったです。



――遠征に同行したカメラマンの中島ケンロウさんが体調不良でリタイア。単独でのサミットプッシュになりました。山頂で竹内さんが撮られた写真を見て驚いたんですが、一番上にあんな大きな岩があるんですね。

竹内 実物はたいして大きくないんですけど、あの岩がダウラギリの頂上です。とにかく風が強くて、岩の上には乗っかったんですけど、立ってガッツポーズするなんてとんでもない。四つん這いになって、一番高いところに手をかけた。そんな感じでした。

――すると、喜びにひたれたのはBC(4600m地点にあるベースキャンプ)に下りてきてからですか。

竹内 まずBCに降りてきた時は「ただいまー」という感じで嬉しかったですね。それからBCを撤収して、車や飛行機を乗り継ぎながら、ようやくここカトマンズまで帰ってきたわけですけど、もうBCを離れた時からなんとなく「次はどこに行こうかな」という気持ちになっていたように思います。

14座を登っただけで山の神髄を究めたとは思えない。

――そんなに早く次の山に関心が移っちゃうんですか。なんだか、もったいない。

竹内 ハハハッ。でも、いつもそうなんですよ。たとえば一生に一度の記念でエベレストに登るとかだと喜びのピークがあるのかもしれないですけど、私はやっぱり毎年のように登山を続けてきて、好きな山をどれだけ続けていけるかということを考えてますので。

 14座というのは確かに山田昇さん('88年秋の時点で9座の頂に立った日本を代表する超高所登山家)を始め、偉大な先人たちが綿々と受け継いできてくれた魂の系譜で、それを結びつけられたことは本当に嬉しいし、誇りに思うんですけど、一方でこれだけ無数に山があって、14座を登っただけでとても山の神髄を究めたとは思えないわけですね。まだまだ他にも登りたい山はたくさんありますし、登った山でも別のルートから登ってみたい。だから爆発的な喜びや達成感を、あまり感じられないのかもしれません。

ビバーク中、地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。

 14座の頂は、宇宙に近い。

 標高が8000mを超えると、酸素は平地の3分の1ほど。雪崩や強風、寒さによる低体温化など、試練は次々に襲ってくる。

 竹内の登山スタイルは、酸素ボンベやシェルパの力に頼らない速攻登山。生身で生きて還る能力こそが、試される世界だ。

――下山時、大きな試練に直面しました。途中で日が沈み、C3(最終キャンプ)へのルートを見失ったと聞いています。

竹内 天気は良かったんですけど、風が強くて。予想以上に登頂までに時間がかかってしまいました。予定では14時に着くはずが、実際に頂上に立ったのは17時半でした。

――水なし、テントなし。酸素ボンベもない。それでも7536m地点でのビバークを選択しましたね。

竹内 ビバークというと、冬眠中の熊のようにじっとしているイメージがあるんですけど、そこは吹きっさらしの岩の上で、寒くてですね、じっとなんてしてられないんですよ。腰を下ろしてウトウトしても、パッと目が覚めて。体をさすったり、また少し歩いて別の場所を探したりと、休むというよりは明るくなるのをひたすら待っている状況でした。たまに地吹雪のような風が吹くと、「バカヤロー!」って。ハハハハッ。叫んでましたね。

都民ファーストは第二自民党というより、自民党から抵抗勢力を排除した売国ファースト 小泉・竹中・ジャパンハンドラー・シオニスト・ネオコン・ネオリベラル・軍産・多国籍企業の利益が第一です。

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小泉フィーバーの再現を狙って、自民党清和会所属で、第一次安倍内閣の内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)で、降伏の化学に支援されて防衛大臣になり、改憲派で、1000万人移民政策を進め、TPP推進で経済特区を進めようとしている、カジノ推進派の小池百合子

相当な富裕層以外、自公政権の恩恵は受けられません。


スガハゲ「検察は動かないし、事実でも否定すれば疑惑で終わりだから・・・」

 百合子ババアが狙っているのは、都議選で過半数を取るなんて穏やかなものではありません。 角栄が刑事被告人になったときは日本中が喝采しましたが、新自由主義に取り込められ属国化がより進む契機にもなってしまいました。 

 どっちが早いかですが、自分の見立てはやや悲観的ですね。 百合子と小鼠が保守政党を乗っ取ってグローバル主義の新自由主義政権ができるのではなかろうか。

安倍の”命乞い”だ。
絶対に許さない,収監/断首です。

A級戦犯;岸信介が、”命乞い”し許したのが、この有様。

この歴史を繰り返しては、いけませんね。

けじめが必要なんです。

『政敵の抹殺なら共謀罪よりも遥かに使い勝手が良い性犯罪の厳罰化(110年ぶりの刑法改正)』

小泉竹中による数十兆円もの国富の簒奪を告発したら警察に付け回された挙句に怪しげた破廉恥罪で逮捕され有罪となった経済学者の植草一秀の悪しき前例があるように、政敵を貶めて政治生命を奪う最も効果的なやり方は、たぶん共謀罪では無くて同じ日に成立した性犯罪の厳罰化である。
(なぜ、こんな簡単なことに誰も気が付かないのだろうか。あるいは何故誰一人も心配しないのだろうか。実に不思議だ)
もしも、本当に『警察の暴走が怖い』と思ったなら共謀罪だけではなくて性犯罪の厳罰化(刑法改正)にも絶対に反対するべきだ。逆に『警察は信用できる』と思っているなら(自分の論理の一貫性を保つためには)共謀罪も賛成するべきだ。
(共謀罪も性犯罪も、扱うのはまったく同一の組織『日本国の警察』なのすよ。それなら一方が断固反対なら、必ずもう一方も大反対でないと辻褄が合わない)
真実はまったく相反する二つの中間で、警察は日頃は一般市民の視線を気にして法律を守る。ところが時々(公安警察は常に)、国家権力の番犬として悪事を働く(あるいは見込み捜査が外れて冤罪を生む)ので、日ごろの監視活動が重要なのである。



安倍政権のさらなる炎上を防ぐため、僕たちの年金が毎日160億円投入されて株価が維持されている。実はこれ、めちゃくちゃ最悪なこと。なぜなら、株価が下がっても年金で買った株は売却できない。つまり、溶けていくのを見守っていくだけになる。そうなるのは時間の問題。マジで安倍は最悪なんだよ。


北朝鮮からミサイルが飛んできたら、頭を抱えてしゃがんでろと言う政府
これほどの馬鹿が政権をとってる日本国民は不孝だ
戦時中、焼夷弾爆撃にバケツで消化しろと言った軍部政権と同じ
ミサイル防衛システムの有効高度は20Km
今朝飛んできたミサイルの高度は2500Km
Jアラート鳴らず

これで死ぬほど戦争の好きな米共和党軍需産業が驚喜して北朝鮮への軍事行動を開始するのだろう
過去、アメリカによる軍事行動の共通する特徴は、真珠湾でもトンキン湾でも、必ず最初にアメリカ艦船を攻撃させて被害を生じさせ、怒りで米国民を説得するという仕組みである
米艦船へミサイルを撃たせる


下衆の勘繰り?
小池百合子と野田数の関係はどこまでおよんどるのだろう?
当選した都民ファシストの面々は馬脚を現し間もなく雲散霧消し猿知恵の働く抜け目のない奴だけが自民党に吸収されるだけ
属国根性満開の日本社会を歴史と伝統に培われた節度ある社会に復活させるためにはアメリカからの脱却を考える骨のある政治家を選択する国民の理性と覚悟が必要売国傀儡の安倍晋三への批判が自民と同根の都民ファシストに流れるだけとは東京都民も相変わらずゆでガエルだな
日米安保
日米地位協定
をまず破棄して日本が真の独立国になることだ
国の安全は日本人が考えること
日本人をバカにするな
日本人は痩せても枯れても外国の軍隊に依存する腰抜け国民ではないという気概を示す必要がある
そうすれば国際社会で中国のような合理的な独自の行動が出来
諸外国から一定の評価をされるようになる
まず中国に追いつくことから始めなければならない
シャープの次に東芝をぼろぼろにした安倍晋三政権
金融緩和しているのに救済しないとは?
国民は売国傀儡政権の日本の優良企業を外国に安く買わせるための詐術に騙されるな

最終章 何時まで続けるられるのか.....。

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「毎日、自分の足に感謝する。練習が終わったら足に『きょうもありがとう』と話しかけて感謝する」

「こういうことはいつかは来る。ここで終わりじゃない」

 「2013年にけがをしてしまって、ダッシュ練習が一切できなくて、スタートもできないぐらい腰を痛めた。12秒しか出ない自分に悔しい思いをしているときに『陸上をやっていていいのか?』と思った。

結果を残せない時期が一番悩みでもあった。そのときにも支えがあって今がある」と、少し目を潤ませながら周囲のサポートに感謝した。

 同日に行われた女子200メートル予選は自己ベストの23秒39をマークし、全体トップで25日の決勝に進んだ。今夏のロンドン世界陸上参加標準記録の23秒10に迫り「200メートルで自己ベストを出したのが一番うれしかった。チャンスがあれば狙っていきたい」と、100メートルとの2冠を見据えた。

 サニブラウンについては「強いの一言に尽きる。予選、準決勝、決勝と一定の高いレベルの記録で余力を持って通過した。世界で決勝に行くためには非常に重要。(ウサイン)ボルト選手やカール・ルイス選手のように60~70メートルまでメンタルを安定させて走れるのが強み。レース勘にたけている」と評価した。


日本陸連の伊東浩司・強化委員長(47)は、2万700人の観衆を集めた男子100メートルを総括し「決勝はもっと高い次元の記録になると思ったが、天候にだいぶ左右された。昨日(23日)と同じ条件なら(9秒台は)出ていたと思う」と恨めしそうだった。




2016
年末現在

 2566塔ノ岳2595

 1381丹沢山1408

 1216蛭ヶ岳1243

  634姫 次660

  157青根159

    6平丸8

  423焼 山438

  419焼山登山口435

  406三ケ木420

  291橋本駅北口294

  160檜洞丸162

   18本間ノ頭19

   67三ノ塔73

   37大山47
   
   8 高取山 10

    3大山三峰5


ミトコンドリアがお休みしたら、身体は動かない。

言うならば電池切れ・・・状態。

這々の体で日陰に逃げ込む。

水分をとり身体の回復(バッテリーチャージ)を待つ。



近況は




経年劣化なのか

膝が痛い

痛みを庇うのか

歩幅が狭くなる、脚力も弱る

左ハムストリングスも痛めてからはロード走も駄目

アスファルトは無理なので

二の塔尾根を下ることが多くなっている


日向薬師バス停から大山頂上へ

そして南尾根で鶴巻温泉駅が分相応のようです


焼山登山口からロードは無理

姫次からは足が終わっている


3000m級は厳しそうです



竹内洋岳 田辺治 

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ローツェは世界最高峰エベレスト(8848m)の直ぐ隣に聳えている。
世界第4位の高峰でありながらエベレストの隣にある為、あまり注目されない山だが、その山の南面である南壁は麓から3300mの高度差で頂上まで突き上げている。その壁の巨大さと8000m以上での岩壁登攀の困難さから、かつて8000m峰14座全山登頂を世界で初めて成し遂げたラインホルト・メスナーは「ヒマラヤの21世紀の課題」と言った。その壁が初めて登られたのが1990年の旧ソ連隊によってだった。その後の挑戦も続いたが、なかなか登れる壁ではなかった。同じく1990年にスロベニアの登山家 トモ・チェセンが単独登頂に成功したとの知らせもあったが、その後に事実の信憑性からこの登攀は疑惑の登攀(登っていなかった)と言われ、正式な記録として認定はされていない。

登山でその山の同じルートをコンディションのいい時期とそうでない時期に登るのとでは、困難の度合いに大きな差がある。
最大に困難なのは厳冬期(12月から1月)だ。ヒマラヤでは11月後半から高層のジェット・ストリームが降りてくる。その風速は高度8000m以上で風速50m以上、気温は-50℃以下で、
その条件下で登山をするとなると体感温度は-100℃以下になり。空気中の酸素は平地の3分の1、薄い酸素と寒気で油断をすればすぐ手・足が凍傷になってしまう。
強風の為に岩壁に付いている雪が飛ばされて、岩がむき出しになり、アイゼンを使った登攀がしにくくなる。
また寒気から身体を守る為に、ウエア等の装備も重装備になる。更に冬期により日照時間が短くなるので、昼間の行動時間が短くなる。
等、厳冬期でのヒマラヤ8000m峰登山は最大限に困難な登山となる。

日本の厳冬期8000m峰のバリエーション・ルートでの登山は群馬県山岳連盟が1987年12月にアンナプルナⅠ峰(8091m)や1993年12月に世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁での世界初の厳冬期初登頂に成功している。(バリエーション・ルート登山は一番登りやすい通常ルートではなくて、より困難な難しいルートより登頂する事。)
世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁の高度差は2200m、ローツェ(8511m)南壁は3300m。山の高さはエベレストより低いが、壁の高さは約1.5倍。
これを厳冬期に登るとすると両者で同等の困難さになると予想された。

日本の登山界にとって群馬岳連の厳冬期エベレスト南西壁以来久々の快挙だと思っていた。
田辺さんは厳冬期エベレスト南西壁にも参加して、2次隊で見事に登頂している。
ローツェ南壁と合わせて、その実力は今の日本でも最高のヒマラヤニストの1人だと私は思う。

厳冬期ローツェ南壁初登攀の快挙に対して、日本の新聞・マスコミは「頂上に登れなかったから、登山は失敗」というニュアンスで報道した。

田辺 治は、日本の登山家。元日本ヒマラヤ協会理事。元日本山岳会東海支部長。 ウィキペディア
生年月日: 1961年1月4日
生まれ: 愛知県 名古屋市
死没: 2010年9月28日
 JAC東海支部でローツェ南壁を初登攀した田辺治さんがダウラギリで雪崩に遭った、との報道に驚く。これまで困難な登攀を危なげなくパスしてきたアルピニストだけになぜ?と思う。
 雪崩に遭ってもしばらくは生きているものらしい。しかし高度が高いだけにわずかな呼吸困難でも窒息するかもしれない。場所が場所だけに救助活動も思うに任せないだろう。
 奇跡を信じたい。いやーご心配をおかけしました、と帰ってきて欲しい。関係者のみなさんがそう思っている。何も協力できないが祈るしかない。

東京新聞からコピー

ヒマラヤ遭難、現地と捜索協議 登山家3人の家族や協会
2010年9月30日 12時55分

 ネパール・ヒマラヤの高峰ダウラギリ(8167メートル)で雪崩に巻き込まれた日本人登山家3人が行方不明になった山岳遭難で、パーティーの隊長を務める名古屋市中区の田辺治さん(49)が所属する日本プロガイド協会(愛知県刈谷市)や家族は29日夜から30日にかけ、今後の捜索活動について現地と連絡を取り合うなど対応に追われた。

 同協会によると、自力で脱出し無事だった兵庫県芦屋市の島田和昭さん(37)がベースキャンプに滞在。同協会は島田さんと協議し、捜索活動などについてネパール当局と検討する。

 協会事務所がある登山用品店「穂高」には、行方不明になっている長野県白馬村の本田大輔さん(32)の両親らが集まり、現地からの情報を待った。島田さんから29日夜、衛星電話で「自分は無事。田辺さんたちの捜索に加わる」と連絡があったという。



厳冬期、困難なルートを選びながらも「人を死なさない隊長」として知られていたが、ダウラギリのノーマルルートの下部キャンプ移動中に雪崩の直撃を受けて遭難。 遺体は未だに発見されていない。

全14座制覇の竹内洋岳氏が薫陶を受けた先輩。

竹内さんが初めて登頂した8000m峰は1995年、マカルー北東稜西稜初登攀でしたが、当時中堅登山家だった田辺治さんもその登山隊の隊員でした。竹内さんにとって田辺さんはヒマラヤの先輩に当たる人です。






私の敬愛するヒマラヤニスト その1 山田昇氏

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山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。

1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)

1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂

この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀

現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。

私が尊敬するヒマラヤ登山家に山田昇という人がいる。未だにあこがれている。故人となってしまったが。
1989年2月に他の2名の日本人登山家とアラスカのマッキンリーに登山中に遭難、3名とも遺体で収容された。
登頂後の下山中に5200mのデナリ・パス付近で強風で飛ばされて滑落したものと思われる。
その6年前の1983年2月に冒険家・植村直巳さんもここで消息を絶ち、未だに不明のままだ。
北米大陸の最高峰マッキンリーは6000m少しの標高だが、厳冬期になると風速60m/秒を超える強風が吹き、北極に近い高緯度にある事が重なり、
その厳しさが厳冬期エベレストと同等か、それ以上と云われる。日本が世界に誇る冒険家・植村さんと、日本最強の登山家と云われた山田さんが奇しくも
同じ山で帰らぬ人となった。


 「非情の山」ともいわれるK2 青木 達哉 小松 由佳

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 2006年8月1日16時50分。待ちに待ったその瞬間、東海大学K2登山隊ベースキャンプは歓喜と安堵に包まれた。東海大学K2登山隊の小松由佳隊員と青木達哉隊員というアタック隊が、世界の精鋭登山家にもっとも険しいと恐れられるK2の山頂を極めたのだ。
 しかもこの登頂は記録ずくめとなった。小松由佳隊員は「日本人女性初登頂(世界でも8人目)」、21歳10か月の青木達哉隊員は「世界最年少登頂」を成し遂げたのだ。
 登頂に成功したその瞬間を小松由佳隊員はこう振り返る。
「午前2時半にアタックを開始して、膝まで埋まるような雪や難度の高い岩場を超え、半日以上経った頃ようやく他の高みが見えない、ゆるやかな頂が見えてきたんです。それまでいくつかのピークを越えてきましたが、その頂が見えた瞬間、『ここがK2の山頂だ』と確信めいたものがあったんです。そのとき、先を行っていた青木が『先に行ってください』と気遣ってくれたんですが、もうそのまま行かせちゃいました」
 その山頂目前のやりとりを、青木達哉隊員は克明に覚えているという。
「ちょうど山頂まであと数歩――2mくらいのところだったと思います。自分でもどうして『どうぞ』って先に行ってもらおうとしたのかよく思い出せないんです。いろんな山で指導してくれた尊敬する先輩という気持ちがそうさせたんだとは思うんですが、山頂を目の前にしての達成感や、その反面『もう終わっちゃうのか』という寂しさ……。いろんなものがこみ上げてきたんです。ただ先に行ってもらおうと思ったら、『いいよ、行きな』って……。鼻をすするような音が聞こえてきたから、もしかして泣き顔を見られたくないのかなとも思いました」
 山頂に先にたどり着いた青木隊員は、最後の数歩を踏みしめるたび、脳裏にそれまでのことが次から次によぎっていた。現地スタッフや他国の登山隊の顔ぶれが浮かんでは消える。そして最後の一歩を登った瞬間、空と一体になって頭が真っ白になったという。アイスバイルをついて、無線でベースキャンプに連絡を入れた。デジカメで記録写真を撮影した。しかし、その時点で小松隊員は違うことを考えていた。
「私も登頂する瞬間は、サポートしてくれた方々への感謝の気持ちが大きくわき上がりましたね。青木と同じように、走馬燈のようにいろんなことが頭を駆けめぐりました。ただ、登頂前の本当に数秒だったと思います。登頂した実感も正直あまりなかったですね。むしろ『どう降りるか』ということに気を取られていたような気がします」
 山頂にいたのは1時間足らず。既にアタック開始から15時間以上が経過している。酸素の減りは予定よりも早く、下降中に切れそうだった。下山前に頂から下を見たとき、「数千メートルも下にすっぱり切れ落ちた斜面は底のない穴のように見えた」と小松隊員は言う。
 そして登頂報告の無線を最後に2人からベースキャンプへの連絡は途絶えた。




そもそも東海大学の登山隊がK2という山を目指すことになったのは、2006年が同大学の山岳部創部50年という区切りの年だったことも、その理由だった。それまでも、2001年にはクーラカンリ、2004年には中国・カラコンロンと6000~7000mクラスの山へ遠征し、実績を積んでいた。そして満を持して2006年、K2へのアタックとなったのだ。東海大学K2登山隊の出利葉義次隊長は、その経緯をこう語る。
「当初は世界最高峰のエベレストという話も出ていたんです。数字を求めるだけなら世界最高峰を目指すという選択肢もあったかもしれません。ただ、山岳の世界ではもっとも難しい山はK2だと言われている。ならば、登山家として、より高い目標を目指すべきではないかということになったんです」
 だが、決定したあとも不安はよぎる。相手は、世界の精鋭登山家たちが命を落としたK2という最難峰。登頂できるのか、いやそれどころか生きて帰れるのか……。だが、より大きな困難を乗り越えたときほど、達成感や喜びは大きくなる。目標は、登山家なら誰もが憧れるK2に定められた。
「しかし、東海大の山岳部は他の大学の山岳部に比べて歴史も浅い。足りない経験を補うための万全の準備が大前提となります。例えば、登るルートひとつとっても、どんなルートを選ぶか、そのルートは登山隊や隊員のスキルに適したものか……。他にも医療スタッフや通信手段、気象情報の収集手段など、考えるべきことは無限にあります。登山というのは、自然との闘い。強大すぎるほどの相手だからこそ、十分すぎるほど情報を集めなければならない。ベースキャンプという5000mを超える高所での根幹を担うのが発電機。全幅の信頼がおけるものでなければ選ぶことはできません」(出利葉隊長)
 2001年のクーラカンリ登頂以来、東海大学山岳部はHondaポータブル発電機に全幅の信頼を寄せている。文字通り、生死を賭した危険な挑戦だからこそ、Honda『EU9i』は、東海大学K2登山隊のベースキャンプにまで随行する唯一のポータブル発電機となったのだ。 


東海大学山岳部のターゲットはK2に定まった。現役・OB他、登山隊員8名がK2への道を目指すこととなった。そしてK2のような高峰を目指すにあたり、まず初期段階での重要な作業はルートの策定となる。ルート次第で登山の成否は決まると言っても過言ではない。
「ルートは、単に傾斜のきつさだけで決めるのではありません。例えば、他の登山隊が多く登ったルートでは、先行した登山隊が残していったロープをあてにして登ることもあります。しかし時間が経過してゆるんでいたりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることもある。さらに、他の登山隊がすぐ前を先行しているときには、それに伴う落石も考えられる。自分たちが先行している場合には岩を落とさないよう、気を遣わなければならない。比較的登りやすいルートは、他国の隊も集中する。それより、山と隊が真っ向から対峙できるルートを選ぼうということになったんです」(出利葉隊長)
 検討に検討を重ねた結果、出利葉隊長率いる東海大学K2登山隊は南南東から登るルートを選択した。急な岩場や、氷と雪で固く締まった壁に覆われた難ルートである。
「南南東リブから入るルートは、確かに難ルートではあります。しかし、氷雪壁の登はんとなれば、日本の雪山で鍛えられた東海大学登山隊が得意とするところ。もちろんルートを決めた時点では、まだアタック隊はおろか、どんな人選で隊を組むかも決めていませんでした」(同)
 だがその段階でも、やるべきことはいくらでもあった。
「『EU9i』があれば電力は確保できる。となれば、登山に必要な情報テクノロジー用の電源はすべて網羅することができるのはわかっていました。ですから、まず最大限に情報を集め、解析できる体制作りから手をつけることにしたのです。まず、大学内の情報技術センターに支援を依頼し、ヨーロッパの気象衛星METEOSAT5号の衛星画像を加工・補正してもらい、パキスタン北部地域を網羅した衛星画像が送信される体制を整えました。さらに、この衛星画像をもとに、学内の気象学の専門家に予想天気図を作成してもらうことにもなりました」(同)
 すべての電気の源を司る『EU9i』については、2001年のクーラカンリ遠征と同様、オールホンダ販売に依頼し、メインジェットを高地用にチューニングした。電源を要としたハード面、そして日本からの情報支援については目算が立った。だが、出利葉隊長の目の前には問題が山積みとなっていた。

 ハード面では『EU9i』含め、可能な限り最高の準備の目算が立った東海大学K2登山隊だったが、何より最大の問題が控えていた。当然ながら、登山とは人が山を登るもの。だが、肝心の隊員の編成が最大の問題だった。
「大学登山隊は、基本的に現役で山岳部に所属する学生と、OBで編成されることになります。そこで中核となるのは、やはり経験豊富なOB隊員。ただし、ほとんどのOBは企業勤めをする会社員。休みの調整なども必要ですが、家庭や仕事の事情で断念せざるを得ない隊員もいるので、中核を担うOBの存在は本当に貴重なのですが……」(出利葉隊長)
 しかし、自然を相手に研鑽を積む以上、危険とは常に隣り合わせ。そんななか、出利葉隊長にとって頭を悩ませる事故が起きた。
「主力にカウントしていた中堅の隊員が2005年にヒマラヤで凍傷にかかってしまい、両手足の指を切断することになってしまった。隊の中核を担うには、回復までの時間が足りなかった。他の隊員も日程を調整し、学内からだけでなく学外からの支援も受けている一大プロジェクト。日程はどうにも動かせなかったんです」(同)
 戦力ダウンを埋めるため、山で荷運びをする高所ポーターを手配することになった。だが、ポーターはあくまでも隊を補助する存在。K2の山頂を目指す隊員の質の向上が急務となった。
「コンディションがよければ、アタック隊として山頂を目指せる人材を増やすことが急務でした。時間が限られているなか、学生ならば集中的に鍛えることができ、伸びしろも期待できたんです」(同)
 といっても、10名程度の学生のうち、K2にチャレンジできる力量までの伸びが期待できるのはある程度のキャリアがある上級生のみ。しかし、上級生ともなると就職活動も本格化する。そんななか、K2という最高峰に挑むための過酷なトレーニングに身を投じる者はほとんどいなかった。隊に参加した数少ない一人は、その動機をこう語る。
「いやー、僕は消防士になろうと思ってたんで。単位も間に合ってたから、『もうちょっと山に登ろうかな』と思って。K2なんて、滅多に行ける場所じゃありませんし」
 K2世界最年少登頂を達成した、青木達哉隊員が隊に参加することを決意したのは、そんな気軽な動機からだった。

K2登山隊への参加を決めた青木隊員だったが、K2へ向かうためのトレーニングは過酷を極めた。標高4000m相当の低圧・低酸素室で高所順応トレーニングを行った。週に4回、1回につき6時間。プロのアスリートよりも過酷なトレーニングともいえる。
「もともと体を動かすのは好きだったんです。山岳部に入ったのは、新人勧誘で『ロッククライミングができるよ』って誘われたから。なんだか楽しそうだと思ったら、入部早々登った雪山がすごく過酷で『なんで、こんなことしてるんだろう』ともう苦しいったらありませんでした。でも、山頂まで登ったら今まで知らなかった爽快感を味わうことができた。それからすっかりハマることになっちゃいましたね」(青木隊員)
 以来、山の魅力に惹かれ、国内の山を次々に登った。2年生の時にはカラコンロン山脈へと赴いた。
「そのカラコンロンで、先輩の小松さんたちと同じ宿になって、いろいろ話す機会を持つことができたんです」(同)
「小松さん」というのは、K2アタック隊でコンビを組んだ小松由佳隊員のこと。当の小松由佳隊員は当時のことをこう振り返る。
「青木君に限らずですが、彼らの代の子たちとはいろいろ話はしましたよ。詳しくは差し障りがあるので言えませんが、それこそ話し合いの過程で殴り合い寸前になったことも(笑)。私の代も彼らの代も人数は少なかったから、似たような苦労もしているんですよね」
 小松隊員は、高校時代から山岳部で競技登山を行っていた。
「インターハイや国体での競技登山は、あくまでも点数を競うもの。山という雄大なフィールドの中なのに、誰が何秒早く到達するかという競い合いになる。向き合うべきは、山のはずなのに……。ルールに縛られるのではなく、純粋に山と向き合いたいと思ったんです。もっとも、根っからの冒険好きでインディージョーンズみたいな世界観を味わいたいな、考古学も学びたいな、と思っていたら、最先端の登山はパソコンや衛星通信も使っていた。驚きましたね」(小松隊員)
 現代の登山シーンにおいては、『EU9i』のようなポータブル発電機は、もはや必携アイテムになっていたのだ

高校時代から数えて、もう10年山に登っているという小松隊員だが、2006年にK2に挑む直前には、登山を続けるかどうか悩んだこともあったという。
「山は基本的に男社会。もちろんどんなに鍛えても、筋力ではかなわない。女性がリーダーとして隊を統率するのは難しい面もあるんです。他にもいろいろな悩みが積み重なり、2005年頃には『もう山をやめようかな』と悩んでしまっていた。それまでは、生活の90%が“山”だっただけに、抜け殻みたいになっていたんです。そんな頃でした。出利葉さんから『K2に行かないか』と誘われたのは」(小松隊員)
 険しい山になればなるほど隊は大編成となり、チームワークも必要とされる。そんなチームを率いるには、個人として山に向かうのとはまた異なる資質が必要になる。その資質は、“山男”なら誰もが持っている資質というわけではない。個人それぞれが山と向き合うことと、チームとして山と対峙することは根本的に異質なもの。その双方を兼ね備えたリーダーは決して多くはない。様々な経験を重ねたが故に、当時の小松隊員は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。そんな彼女を救ったのが、出利葉隊長からのK2への誘いだった。
「誘いを受けた後、大学に出向いて何回も話をして『この人がリーダーのチームなら、きっとまた登れる』と思えたんです。世界中に数ある登山隊には、リーダーが独善的だったり自分の考え方を押しつけるような隊もあるんですが、出利葉さんは、チームを意思統一できるリーダーとしての厳しさはありながらも、隊員ひとりひとりの考え方も受け止めてくれる。私が考える登山隊像に合っていたんです。声をかけてくれたのが出利葉さんだったから、『また登ろう』とやる気になれたんです」(同)
 小松・青木両隊員だけではない。東海大学K2登山隊に参加したメンバーの数だけドラマがあった。そして、2006年6月5日、先発隊として出利葉隊長以下、小松・青木の両隊員が成田を発った。3か月前に船便で出発した『EU9i』をはじめとした、荷物が待ち受ける大陸へと向かって。

先発隊の3人がパキスタンに入った数日後には、医師や看護師なども含め、隊に参加する全員が集まり、6月14日にはキャンプ地を目指し行軍を開始した。だが、初夏のパキスタンは厳しい暑さでも知られる。地域によっては平均気温が8月よりも高くなり、最高気温が40℃を超えることもしばしば。行軍は、早朝の涼しいうちに開始され、現地のポーターたちと合わせ約20名のチームはベースキャンプ(BC)へと向かった。行軍の様子を出利葉隊長はこう語る。
「猛暑のなかで1トン以上の荷物を背負っての行軍でしたが、BCまではほぼ順調に行程をこなすことができました。途中、ポーターに一人50ルピーのチップを出すと伝えると、もの凄い勢いで進んでいったのが印象的でした(笑)」
 6月20日にはBCに到着。その後、約1か月をかけて、C0、C1、C2と設営していった。昼はキャンプの設営、夜は機材の整備などに追われた。
「BCでの食事は現地のコックが作る料理と、日本から持ち込んだフリーズドライの食品が中心でしたが、現地のコックが作るのは当然パキスタン料理。何を作っても全部カレー味。補助的な食品として、現地でクッキーを買い込みましたが、さすがにカレー味のクッキーは不評でした(笑)」
 出利葉隊長は、笑い話としてBCでの様子を話すが、ほとんどの日程で設営は夜にまで至った。連日、登はんが終了するまでの18時から21時までの間、Hondaポータブル発電機『EU9i』はフル稼働していた。医師として隊に参加しながら、発電機のメンテナンス担当となった小林利毅隊員はその様子をこう語る。
「BCでの1か月半、ほぼすべての電源を発電機から供給していましたね。持ち込んだガソリンには限りがあるので、1日数時間しか稼働させられない。その間にすべての電源を確保する必要がある。『EU9i』を一次電源として、車載用の大容量バッテリーや汎用電池パック、パソコン、デジタル音楽プレーヤーなどの充電まで行っていました。もちろん、夜間の照明等の電源にも使用しましたが、最後までトラブルもなく快調でした。むしろ、他国の隊が使っていた他メーカーの発電機のメンテナンスに追われることの方が多かったかもしれません(笑)」
 海外のガソリンは地域によっては、高品質とは限らない。ゴミなどの不純物の混入を避けるため、給油は婦人用のストッキングをネット代わりに濾過して行われた。出利葉隊長は、そんな小林医師の様子をこう振り返る。
「二足のわらじというか、ほとんどエンジニアのようでしたね。私を始め、他の隊員から『小林モータース、今日もロシア隊に出張してるなぁ』なんてからかわれていました(笑)」
 そうしてEU9iがフル稼働している間に、C0~C2までの設営は着々と進んでいった。



 C0~C2までの設営が着々と進むなか、同時にアタック日の選定が慎重に行われた。ヨーロッパの気象衛星からの情報の解析結果が日本の東海大学を通じてBCに送られ、その情報をもとに、アタックの詳細が決定された。そのアタック隊に選ばれたのは、1978年生まれの蔵元学士隊員、1982年生まれの小松由佳隊員、そして現役の学生である1984年生まれの青木達哉隊員という3名。その決定理由を出利葉隊長はこう語る。
「衛星通信を介しての情報をもとに、慎重に検討した結果、8月1日頃の天候がいいと予測できた。パソコンや衛星回線を介して、あらゆる情報を検討できたからこそ、精度の高い予測ができたんです。K2では、毎年遭難者が少なからず出ていますが、やはり天候などの情報を得ずにアタックする隊は遭難の率が高い。しかし、どんなに万全の準備でのぞんでもK2という山は甘くない。比較的若い隊員を選んだのは、不測の事態が起きたとき、体力・気力の充実が欠かせないと考えたのです。他の山ならば、私も一緒に登りたいところですが、K2相手となれば、わずかな隙が命取りになりかねません。私が登るという選択肢はありませんでした」(出利葉隊長)
 そして、7月29日の未明、アタック隊として選ばれた蔵元、小松、青木隊員が第一回目のアタックを目指し、BCを出発した。
 ところが、アタック隊はBC出発直後にアクシデントに見舞われる。アタック隊のリーダー格でもあった蔵元隊員が激しい腹痛に見舞われ、隊からの離脱を余儀なくされたのだ。腹痛の原因は急性の虫垂炎だったという。
「BC出発から数時間後のことで、まだC1にもたどりついていない頃でした。本人は無念だったでしょうが、我々が見たのは脂汗を流しながら体を『く』の字に曲げて降りてくる蔵元の姿。本人は無念だったでしょうが、我々も『なぜこんなときに……』と無念の思いでした。それまでは、常に先頭に立ってルートを切り開き、アタックキャンプになるC3予定地にも最初に到達した。高所経験も豊富で、彼がいたからこそ小松、青木と3人でのアタック隊を編成したんですが……」(同)
 予定通り、7月29日に小松、青木両隊員はC1に、翌30日にはC2に入った。そしてその夜、出利葉隊長はC2にいる2人と無線で話し合いを持った。
「アタック目前の彼らは、当然『行きたい』という。蔵元が降りていく後ろ姿に感じるものもあったのでしょう。ただし若く、高所の経験が豊富ではない彼らだけで行かせていいのかという不安もありました。迷いましたが『絶対に無理はしない』という約束をさせた上で一度だけチャンスを与えることにしたんです。とはいえ、実は勝算もあった。あの2人は、どんな山でも山をナメるということをしない。国内の山でもどんな登山者よりも早くに出発し、どんな簡単な場所でも基本に忠実に登っていく。だから後ろからの登山者にどんどん抜かれるんですが、登山とは他者との競争ではなく、『生きて帰ってくること』こそが登山だということをよくわかっている。だからこそ、行かせることにしたんです」(同)
 そしてアタック日は8月1日に決定した。


8月1日午前2時30分。前日の7月31日にはC2からアタックキャンプであるC3へと入っていた小松、青木両隊員はアタックを開始した。朝食は紅茶と堅いパウンドケーキ。小松隊員の「後悔のないようやれるだけやろう。最高の一日にしよう」との問いかけに短く「はい」と答える青木隊員。初めての8000mラインへの挑戦が始まった。
「下の方を見ると、小さな光が暗闇にぽつんと浮かんでいる。BCのみんなが激励のために、たき火を焚いていてくれたんです。あぁ、登っているのは2人だけじゃない。みんなで登っているんだと胸が熱くなりました」(小松隊員)
 何も聞こえない無音の世界のなか、聞こえるのは、自分たちの息づかいと雪を踏みしめる足音のみ。世界のなかで自分だけがぽっかりと浮かんでいるような不思議な感覚に2人はとらわれた。膝まで埋まるような新雪の急斜面かと思えば、ガチガチの固い氷が露出した氷壁もある。足下の変化を一歩ずつ感じ取りながら、慎重に進まなければならない。8000mという高度による疲労も容赦なく2人を襲う。
「4歩歩いて一休み、の連続でした。以前カラコンロンのときに6000mを体験し、今回7000mのC2で高度障害を起こして、高所の恐ろしさは知っていたつもりだったんですが、8000mは一気に体が重くなってくる。あのヤバさは別物でしたね」(青木隊員)
 午前2時半にC3を出発し、あっという間に12時間以上が経過した。当初、午後3時になっても到達できなければ引き返そうと決めていたが、その頃にはもう山頂が目の前に見えていた。山に魅せられた者が、山頂を目の前にして引き返すことなどできるわけがない。
「8000mには7000mまでには気づかなかった“空気の匂い”がありました。単純に鼻で感じる匂いというより、頭というか体全体で匂いを感じるような感覚。太陽の光、雲、風……。すべてがダイナミックでギラギラして体にダイレクトに突き刺さるような感覚。すべての感覚がすごく鋭敏になった記憶があります」(小松隊員)
 とはいえ、そうした感覚にばかり溺れるわけにはいかない。午前3時半にBCに報告の無線を入れて以来、無線を入れようとしても圏外をあらわす音が鳴るばかりでBCとの交信も途絶えていた。繰り返し交信を試みるが、いっこうにつながる様子はない。そのときのBCの様子を出利葉隊長はこう語る。
「BCで待機している我々は、まったく状況がわからない。登頂したのかもしれないし、万が一ということもあり得る。16時を回り、不安が頭をもたげ始めた16時50分、無線が入ったんです」
 一瞬にしてBC内の空気が変わった。緊張で息をのむBCの隊員たちの耳に聞こえてきたのは、『BC聞こえますか! 私たちは今、ついにK2の山頂に到達しました!』という小松隊員の声だった。一瞬の静寂の後、BC内は歓声で埋め尽くされた。言葉がわからないはずの現地スタッフたちも喜びを爆発させる。無線でしかつながっていないはずのK2の山頂にもその感動は伝わっていた。
「出利葉さんの『よくやった!』と興奮する声と、BCの緊張と興奮が無線を通じても痛いほどに伝わってきました。感無量でしたが、心配かけて申し訳なかったなという思いや喜び、そして下りへ向かう緊張感。様々な気持ちがないまぜになっていました」(小松隊員)
「無線では何を話していいかわからなくて、最初に『青木です』と言った後は、ひたすら『よくやった!』『ありがとうございます』という会話を繰り返していました(笑)。K2の山頂はまるで天空にいるような不思議な感覚でした」(青木隊員)
 周囲を見回しても、ここより高い場所は見えない。8068mのガッシャーブルムも8047mのブロードピークも眼下に見える。そんな世界で2番目に高い場所に2人は約1時間、たたずんでいた。



 遂にK2山頂にたどり着いた2人だったが、山頂から下を見ると、数千メートル下まですっぱりと切れ落ちた底のないような穴に見えた。
「『ここを降りるのか』と改めて、今、自分たちがいかに危険な場所にいるかを再認識して『とにかく生きて帰るんだ』と気を引き締めました」(小松隊員)
 登りで時間がかかった分、酸素ボンベの残量も限られていた。下りる間に、酸素ボンベの流入量を毎分2Lから1Lに、さらには0.5Lに切り替えた。「下りこそが危険」というのは、山の常識でもある。登りは2人同時に登った箇所も、下りでは片方が確保を取り、ロープでつながれたもう一人が下りるという、より安全なやり方を採用した。
「スピードが安全につながるという面もあるのですが、とにかく生きて帰ることだけを考えたら慎重に進まざるを得なかったんです。ただ時間の感覚がどうにもおかしくなっていて、21時頃かと思ったら、あっという間に翌日の午前2時半になっていました」(小松隊員)
 頂上アタックを開始してから、もう丸1日行動し続けていた。興奮状態で、疲労を感じにくくなっているとはいえ、2人の体力は限界に近づいていた。
「高度障害に疲労、そして酸素不足もあって、下りは本当にしんどかったですね。ボクがロープを確保して小松さんが下りてくるのを待っているときに立ったまま、まぶたが落ちてしまったこともありました」(青木隊員)
 立ったまま、寝たり起きたりを繰り返した。空の酸素ボンベやヘッドランプも手につかない。手から滑り落ちたそれらは、あっという間に視界から消えていく。
「疲労が極限に達し、ビバークを決意しました。8200mという高所でビバークするか、このまま下り続けることのどちらが危険かと考えたとき、ビバークを選択せざるを得ないような状況でした」(小松隊員)
 もう酸素は残っていない。凍った斜面をアイスバイルのブレードで削り、2人がようやく腰を下ろせるだけのスペースを作った。午前3時、確保を取りながら、手持ちのものをすべて着込んだ。さらにその上からシートをかぶり、2人はつかの間の眠りについた。「寝たら、もう目が覚めないなんてことはありませんよね?」との青木隊員の問いに、小松隊員は「大丈夫」と答えたが、小松自身8000mを超える高所でのビバークは初めてだった。




朝になってもC3に姿を見せない2人に、出利葉隊長をはじめとしたBCは焦りを感じ始めていた。
「夜間ということもあり、頂上からアタックキャンプのC3まで下りてくるのに約5~6時間かかると見ていました。ところが17時50分の無線連絡以降、またも無線が不通になり消息がしれないまま夜明けを迎えてしまった。スコープで覗いてもC3に姿も見えない。無線も通じない2人を案じながらも、すべての可能性を考え、午前10時の段階で日本の大学に連絡を取りました」(出利葉隊長)
 山ではどんな悲劇が起きても不思議ではない。明るくなっても無線は入らず、BCから目視できるはずのC3にも2人の姿が見えない。最悪の事態が脳裏をよぎった。
「『遭難の可能性あり』と、何時の時点で判断し、どのタイミングで発表するかも含め、大学側との協議を開始しました。単に下山が遅れている可能性も考慮しましたが、万が一の可能性もある。ただし、日本時間の夕方に発表してしまうと、夕方の報道番組や夜のニュースで流れてしまう。混乱のさなか、マスコミから家族に伝わるという最悪のケースは避けなければならない。協議を繰り返した結果、パキスタン時間の15時、つまり日本時間の19時までに2人を確認できなければ、まず大学側から家族に一報を入れようということになりました。マスコミへの発表はその後ということに。ただ、大学の広報はメディアからは『いつコメントは出せるのか』、『いつ帰国するのか』という問い合わせが殺到する裏で、こちらとのやりとりも行うという本当に大変な状況だったようです」(出利葉隊長)
「遭難の可能性あり」と判断を下すまで、残り3時間となる現地時間の12時になっても2人は戻らない。出利葉隊長は、パキスタン軍にヘリコプターの出動を要請した。午後に要請すると、手続き上ヘリコプターの現地到着が2日後になってしまうからだ。翌日にヘリコプターを現地に入れるためには、昼までに当局に出動要請を行う必要があったのだ。
 午後になっても2人の姿は見えない。焦燥の色が濃くなっていくBC。そんな午後12時30分、BCの無線機が鳴った。「いまC3に戻りました。2人とも元気です!」との小松隊員の声が無線機に流れ出した。登頂時をも凌駕する歓声がBCを包んだ。誰もが声にならない声を上げ、ボロボロと歓喜の涙を流していた。







 その数時間前、小松隊員はほほに強烈な光を感じて、目を開けた。時計は午前6時を指していた。眼下に雲の海が広がり、彼方から昇る太陽は見たことがないほど美しかった。
「まるで『生きなさい』と言われているかのような美しさでした」(小松隊員)
 1時間ほど日の光を浴びて体を温めた後、2人は再び下降を始めた。BCが心配しているだろうことは痛いほど想像できたが、無線はつながらない。仕方なくそのまま下降を続ける2人だったが、眠気は去ったものの今度は襲い来る落石の恐怖との闘いとなった。
「ロープにぶら下がっていて避けようのない状態で、1メートルクラスの落石がすごいスピードで体のすぐ横を通過し、奈落へと落ちていく。しかも、岩肌でこすれたのか、焦げたような匂いまで漂ってくる。当たらなかったのは、本当に幸運でした」(青木隊員)
 8200mという高所で無酸素状態でのビバークを経て、体力を使い切った2人がC3に戻ったのは午後12時30分。C3の緑色のテントが見えたときには、前日の未明に出発したとは思えないほど、時間が経過しているように感じたという。BCに無事を伝える無線を入れ、凍傷のチェック、水分などの栄養補給をすると2人は体を横たえた。疲労の極限にあった2人は、その日は体力回復のためC3にて一晩を過ごすことにした。そしてその日の午後と夜の2回、“訪問客”があったという。
「テントの中で休んでいると、下の方からザクッザクッという足音が近づいてきて、テントの近くで何やら話している。そのときは疲れていて外を覗く気にもなれませんでしたが、あとで外に出ても、足跡ひとつないんです。最初は自分の聞き違いかとも思ったんですが、青木に確認しても同じタイミングで同じ声を聞いている。正直ゾッとしました」(小松隊員)
 東海大学K2登山隊がC3を設営した近くには、雪に埋もれたテントに過去の遭難者の遺体が何体も眠っているという。
第十一章 精霊の訪問 「ボクも男性の声と足音は、はっきり聞きました。ただ、小松さんと違って怖いという感覚はありませんでしたね。むしろ伝説のクライマーがK2の精霊となって会いに来てくれたのかもしれないと、うれしさすら感じました。後で、出利葉さんには『幻聴じゃないのか?』と笑い飛ばされましたが、確かにそこにいたんです」(青木隊員)
“精霊”に触れた2人は、その晩泥のように眠った。そして翌日早朝、登山隊のメンバーが待つBCへ向けて出発した。



8月3日の早朝にC3を出た2人がBCへ戻ることができたのは、4日の深夜0時を回った頃だった。遠くに見えるBCのテントの外にヘッドランプの光がちらちらと見えた。隊員が出迎えてくれていたのだ。「やっと帰ってきた」という思いで近づくほどに早足になる。
 BCで爆発する歓喜、そして嵐のような抱擁と握手が2人を待っていた。
「BCで調理を担当してくれた現地のコックさんに至っては、2人の肩を抱きながら『ウワァーン』と声を上げての号泣とともに迎えてくれたんです。何も言わず、骨が折れそうなほど強く手をギュッと握りしめてくれた隊員もいれば、ひたすら『よかった』を繰り返す人もいた。表現は違うものの、誰もが万感の思いで出迎えてくれたのを痛感しました。同時に仲間って本当に温かい存在なんだと、ありがたさと申し訳なさで改めて胸が熱くなりました」(小松隊員)
「振り返ってみればたった数日でしたが、すごく久しぶりに小松さん以外の人の声を聞いたような気がして、『やっと生死の狭間から帰ってきたんだ』という安心感でいっぱいでした。みんなと抱き合って、握手して、笑い合った。頂上よりも素晴らしい場所があることを知った瞬間でした」(青木隊員)
 それから数日間は、休養に充てられた。PCを使ってのHPの更新作業は急ピッチで進められた。食堂テントではDVDで映画を見たり、小松は持ち込んだデジタル音楽プレーヤーで好きなエンヤを愉しんだりもした。
「それらすべての電源の源はすべて『EU9i』でした。以前のクーラカンリのときもそうでしたが、現代の登山において電源はすべての根幹です。アタック日の選定ひとつとっても、学内の総力を結集して得た情報を衛星回線で手に入れられるから、風のない日を選んでアタックできた。8200mでのビバークやC3から無事帰還できたのも、天候のよさに救われたという面もある。他にも、アタック前後に彼らが口にした堅いパウンドケーキは、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん率いるミウラ・ドルフィンズから差し入れていただいた手作りのもの。ナッツ類や香辛料も豊富でカロリー補給という面からも本当に助けられました。他にも、各方面から様々なサポートをいただいたからこそ、K2登頂をなしえることができた。隊員として名を連ねた者だけでなく誰ひとり、持って行った何ひとつ欠けても、今回のK2登頂はなしえなかったはずです」(出利葉隊長)
 2006年の東海大学K2登山隊の挑戦は、記録ずくめの偉業となった。そしてその偉業は、チームを中心とした、そこに関わるすべてのものの偉業でもある。

大山詣で  2017.8.13 

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日本人の適正血圧は、その昔「年齢プラス90」と言われていました。
 20歳なら110、40歳なら130、60歳なら150です。この計算式は高齢者にも適用され、80歳なら170です。よって、高血圧症とされる患者数はわずかなものでした。
 それが、従前は基準値が160であったものを2000年に140と改定され、更に2004年には老人以外は130に改定されました。この改定は、どう考えたって医師会と製薬会社が結託した“患者の大量生産”以外の何物でもありません。
 その昔、40歳の適正血圧であった130が、今では基準値いっぱいいっぱいの扱いにされてしまい、その昔、老人の適正血圧(70歳160、80歳170)であったのが、皆、基準を大きくオーバーしてしまったのだからです。
 “血圧が160、170ともなると、これはいかにも高すぎる。やはりこれは高血圧だ。”と、誰しも考えるようになってしまった今日です。これも、洗脳されているからです。

 「適正血圧は年齢プラス90」が正しいことを説明しましょう。
 (もっとも、これは文明社会のことでして、毎日よく動き、過食しない狩猟採集民にあっては、老いも若きも皆、血圧は110程度のものですし、文明社会にあっても、類似した生活をしている方は、それに近いものとなりますが、ここでは、それを除外します。)
 「適正血圧は年齢プラス90」には、ちゃんとした根拠があります。


米朝が戦わないのは、戦ったらすぐに終わってしまうからw 終わらないで、準備だけを延々とやっているのが、一番儲かるからw 北朝鮮がなくってしまったら、中国の人民解放軍と対峙するのを嫌って、米軍は朝鮮半島そのものから撤退する。その、無様な姿を見たら、日本人の意識も変わる。米軍はイザとなったら、役に立たない。米軍基地要らないんじゃないか? という世論を抑えられなくなってしまう。アメリカにとっては、今までのままの形が、最も望ましいのだ。

アメリカが何より恐れているのは、『北朝鮮がなくなってしまう』事ですw 直接、人民解放軍と対峙しなきゃならないw

表面上は派手にプロレスしながら、裏でコッソリ協議していたという米朝なんだが、そらそうだw むしろ、交渉しているからこそ、ミサイルも飛ばすし、脅し文句も垂れ流す。交渉してないのに勝手にミサイル飛ばしたり、罵ったりしていたら、その方が怖いわw

天皇財閥から日本人を守れ  「安倍総理から日本を守ろう」/政界地獄耳

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■鳩山由紀夫氏「お説教をする立場ではないが…」


 鳩山由紀夫氏

安倍総理大臣、私も総理として大変に稚拙だったと反省する身ですので、あなたに大きな顔をしてお説教をする立場ではないことを良く心得ています。ですが、せっかく機会をいただきましたので、国のあるべき姿について私見を述べさせていただきます。

安倍総理、あなたは昨年の総選挙で大勝利を収めました。勝ったのだから、自分の思い通りの法律を創るのだと力んでおられるようです。私は2009年民主党が大勝利し政権交代直後に、最もやりたかったのは、国家権力を強めるのではなく、一人ひとりの命を大切にする政治でした。安倍総理、あなたはなぜ今、時代に逆行して国家権力を強めようとされるのでしょうか。「国会運営は『国会は野党のためにある』の気持ちで」と竹下登元総理がいつも話されていたように、数を頼みに力で押し切るのではなく、野党や国民の声に耳を傾けることを心掛けることが大切ではないでしょうか。今、国民の多くが「戦争が出来る国」になることを心配しています。そして、安保法制の法案が今国会で成立することに反対しています。総理自身も「国民の理解が進んでいない」ことを認めておられますが、「国民の理解が進んでいない」というより、「国民の理解が進むほど反対が増える」と理解するべきでしょう。

なぜなら、総理の説明を伺うほどに、時代認識の誤りや矛盾に、国民は気が付き始めているからです。総理はことある毎に、「安保環境が大きく変わる中で」と枕詞のように話されます。世界情勢が緊張感を増してきているかのように聞こえますし、メディアもそのように報道します。総理は4、50年前の状況と比べておられるようですが、その時代には米ソ冷戦が激化し、キューバ危機やベトナム戦争がありました。今よりはるかに物騒な時代でした。現在の米ロが戦端を開くことはあり得ませんし、米中も戦争はしません。あまり報道されませんでしたが、昨年オバマ大統領が来日した際の記者会見で、「小さな岩のことで中国と争うのは愚の骨頂」と諌めた通りです。安保環境が悪化しているならまだしも、その時よりはるかに良くなっているにも拘らず、「戦争に参加するための法案」を、なぜ今更議論するのでしょうか。

総理は集団的自衛権を分かりやすく説明するつもりで、アメリカ本国や離れが火事の時に日本が火消しをすることだと例示されましたが、火事と戦争はまるで違います。火事は消せば済みますが、戦争は協力すれば、敵が攻撃する可能性が生まれるからです。後方支援は直接的な武力行使ではないと言い張っても、敵は兵砧を断つ戦略に出るのが鉄則ですから、真っ先に狙われます。逃げれば全滅でしょう。

また、総理はホルムズ海峡が封鎖されたら、日本に原油が来なくなる。だからホルムズ海峡に敷設された機雷の除去の手伝いをする必要性があると、しばしば例として挙げますが、これこそ時代認識の大きな誤りでしょう。総理は特定の国を想定していないと逃げていますが、イランを念頭においておられることは明らかです。かつて私がイランを訪問した際、国内から大きな非難を浴びましたが、そのときに私がアフマディネジャド大統領に申し上げたのは、原子力の平和利用に徹するとしても理解されるには時間がかかるので、日本を見習って辛抱強く対話路線で交渉してほしいということでした。その後、イランは辛抱強く対話を続けてくれたと思います。そして漸く6か国との協議が最終合意にまで到達しました。イランとアメリカやイスラエルとの間の不信感が完全に拭えたとは思いませんが、少なくともホルムズ海峡に機雷が敷設されるような環境では全くないことだけは明白です。総理は適切な具体的な例が見つからないので、このような例を挙げられたのだと推察いたしますが、具体的な例がないということは、法案に今日的な必要性がない証左でしょう。

総理、そもそも集団的自衛権を限定的であれ行使できるようにするには、憲法改正が必要です。どうしても行使すると言うのなら、憲法改正を堂々と行ってからです。国の安全保障の根本に関わる議論を変更するのですから、表玄関から正直に入らなければ、生涯禍根を残すでしょう。ただ、私はアメリカに媚を売るような形で集団的自衛権の行使をすることには反対です。それはアメリカの決めた戦争に唯々諾々と参加せざるを得なくなることが明らかだからです。また、日米安保一体化の一環として、普天間飛行場の辺野古移設を強引に推し進めておられますが、これ以上強行されると、沖縄の人びととの間に流血の惨事が起きかねません。この件では、私が大きな責任を有していますし、辺野古に決めてしまったことを沖縄県民にお詫びいたします。ただ、翁長知事を筆頭に沖縄のみなさんは覚悟を決めておられます。辺野古は無理です。総理には民主主義を守っていただき、あらゆる可能性を、沖縄を含めアメリカ政府と検討していただきたいと願います。少なくとも私が総理のときにはアメリカには柔軟なところがありました。柔軟でなかったのは、むしろ日本の外務省と防衛省でした。北海道のある駐屯地では司令がすべての自衛隊員に遺書を書くことを命じました。こんな形で自衛隊員に苦しみを与えて良いと思われますか。

私は日本を「戦争のできる普通の国」にするのではなく、隣人と平和で仲良く暮らすにはどうすれば良いかを真剣に模索する「戦争のできない珍しい国」にするべきと思います。私が総理のときに訴えました「東アジア共同体」構想を、中国の習近平主席が唱え始めています。中国と韓国は自由貿易で結ばれていきます。アセアンも今年中に経済共同体が作られます。日本こそ、そして沖縄こそ、その結節点として立ち上がる時を迎えているのではないでしょうか。「戦争への国造り」から、「平和への国造り」へ総理の英断を求めます。

私の敬愛するヒマラヤニスト その1 山田昇氏

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山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。

1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)

1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂

この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀

現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。

私が尊敬するヒマラヤ登山家に山田昇という人がいる。未だにあこがれている。故人となってしまったが。
1989年2月に他の2名の日本人登山家とアラスカのマッキンリーに登山中に遭難、3名とも遺体で収容された。
登頂後の下山中に5200mのデナリ・パス付近で強風で飛ばされて滑落したものと思われる。
その6年前の1983年2月に冒険家・植村直巳さんもここで消息を絶ち、未だに不明のままだ。
北米大陸の最高峰マッキンリーは6000m少しの標高だが、厳冬期になると風速60m/秒を超える強風が吹き、北極に近い高緯度にある事が重なり、
その厳しさが厳冬期エベレストと同等か、それ以上と云われる。日本が世界に誇る冒険家・植村さんと、日本最強の登山家と云われた山田さんが奇しくも
同じ山で帰らぬ人となった。

いろいろ またいきたいと思います。

私の敬愛するヒマラヤニスト その1 山田昇氏

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山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。

1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)

1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂

この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀

現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。

私が尊敬するヒマラヤ登山家に山田昇という人がいる。未だにあこがれている。故人となってしまったが。
1989年2月に他の2名の日本人登山家とアラスカのマッキンリーに登山中に遭難、3名とも遺体で収容された。
登頂後の下山中に5200mのデナリ・パス付近で強風で飛ばされて滑落したものと思われる。
その6年前の1983年2月に冒険家・植村直巳さんもここで消息を絶ち、未だに不明のままだ。
北米大陸の最高峰マッキンリーは6000m少しの標高だが、厳冬期になると風速60m/秒を超える強風が吹き、北極に近い高緯度にある事が重なり、
その厳しさが厳冬期エベレストと同等か、それ以上と云われる。日本が世界に誇る冒険家・植村さんと、日本最強の登山家と云われた山田さんが奇しくも
同じ山で帰らぬ人となった。

大山詣り  17.12.17

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  37大山63
   
   8 高取山20

   3大山三峰5



2018 大倉バス停から蛭ケ岳経由で三ケ木へ 

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特に最終到達回数等々.......目標ありませんが

橋本駅まで300回はやりたいです。

2018は57歳になり

残された時間もカウントダウンになりました

初めて蛭ケ岳に登ったのは1980.1.20で19歳のときでした

歴代の小屋番や蛭ケ岳の常連さんたちへの思いも馳せながら

これからの一回、一回を大切にしたい

増本さん、山本さん、薄井さん、植村さん、小島さん

私の心の中に刻まれています

1984.3, 1998.1, 2014.2 この三度が2m超えの積雪を記録しました

1984.1は塔ノ岳で氷点下18,蛭ケ岳で氷点下27がありました 山中湖,河口湖全面結氷の最後でした

そしてトレランの皆さんと橋本駅までの6H切りは貴重な財産です

大倉一番バスで大倉to山中湖まで発展させられたこと


これからは身の丈に合った内容で続けていきます




2017
年末現在

 2625塔ノ岳2625

 1435丹沢山1435

 1270蛭ヶ岳1270

  687姫 次687
   
  461焼 山461

  459焼山登山口459

  444三ケ木444

  294橋本駅北口294

   162檜洞丸162

   19本間ノ頭19

   76三ノ塔76

   8葛葉の泉8

 159青根159


2018 箱根駅伝 往路 予想

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2018は

1,2区に各校のエースが出揃う

例年、1区の出遅れで致命的なハンデを抱えていた

順大と山学がチームのエース格を順番に並べた

それに神奈川大の1,2区が予想通り、2区を終えたところでトップにいられれば面白い

4連覇を目指す青学は3区の大砲がどこまで威力を発揮できるのか

往路が終わってトップから1分差が総合優勝への条件になる

花の2区での

学生長距離NO.1の鈴木健吾選手と学生トラックNO.1の塩尻和也選手とドミニク・ニャイロ選手の先頭争いが見たい

東海大学がどこまでやれるのかも楽しみです

予想は逃げる神奈川大学に対抗は青学と東海大学になるのかで順当すぎるほど順当な予想になりました

今のところ気候コンディションがベストなようなので好いレースを期待してます

1区が団子になるのか実力勝負になるのか予想は難しいです

失うもののない中央大学あたりが果敢に引っ張ってほしいと思います

王座奪還「その一秒をけずりだせ」 2区にスーパーエース出現 相澤 晃 で突き放す

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 文化放送で解説を務めた東洋大OBで、現役時代は山上りの5区で活躍した“山の神”柏原竜二氏(28)は、「山を制するものは箱根を制するといわれているように、山の結果がいいと自然と前にくるし、悪いとシード圏外に落ちてしまう」と分析。4位の拓大、5位の法大、6位の城西大が5区(20・8キロ)で躍進する一方、神奈川大が15位に沈んだことに驚いていた。

4年ぶりの総合優勝が懸かる復路に向けては、「青学大さんとは35秒差で、早大さんともタイム差がなく混戦になる。優勝争いもミスがあればどうなるかわからないし、トップ3からも落ちてしまう展開になる。うちは6区にスペシャリストがいないが、復路もしっかりトータルで戦いたい」と気を引き締めた。

2位につけた青学大は2、3年時に8区で区間賞の下田裕太(4年)は補欠登録となったが、今回も8区での起用が濃厚。箱根のキーポイントとなる山には、2年連続で山下りに起用されている小野田勇次(3年)がおり、復路にも強力なメンバーが残る。瀬古氏は「下田くんを残していますからね。そこが大きい」と王者の巻き返しを予想していた。

第94回東京箱根間往復大学駅伝競走 区間エントリー
1月2(火)~3日(水) 開催予定

1区 21.3㎞ 西山和弥(総1=東農大二)
2区 23.1㎞ 相澤晃(済2=学法石川)
3区 21.4㎞ 中村駆(済2=西京)
4区 20.9㎞ 吉川洋次(ラ1=那須拓陽)
5区 20.8㎞ 田中龍誠(済1=遊学館)
6区 20.8㎞ 今西駿介(済2=小林)
7区 21.3㎞ 渡邉奏太(済2=吉原工)
8区 21.4㎞ 浅井崚雅(済1=一関学院)
9区 23.1㎞ 小早川健(済4=武蔵越生)
10区 23.0㎞ 中村拳梧(済3=八戸学院光星)

補欠
小笹椋(済3=埼玉栄)
山本修二(済3=遊学館)
定方駿(工2=川棚)
土壁和希(総2=つるぎ)
大澤駿(済1=山形中央)
野口英希(工1=松山)

 エースの山本や駅伝経験者の小笹が補欠に控えており、当日どの区間に配置されるのか注目だ。「後続の選手がリラックスして走れるように走りでサポートしたい」(山本)、「チームに勢い付けられるような走りをしていきたい」(小笹)と意気込む二人。箱根未経験の下級生のために上級生がしっかりとチームを導いていくことは必須となる。

 「この中から必ずヒーローが出る」と話した酒井監督。目標の10年連続3位以内を確実なものにし、王座奪還を目指す。そして東洋大の第2期黄金期の幕を開けるニューヒーローは誰なのか。大勝負の箱根で新たな東洋大の歴史が築かれる。

2018 .1.6 大倉バス停から蛭ケ岳経由で三ケ木へ 

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今日は

山岳パノラマビューで

特に「不老山」に注目していました

滝子山、大谷ケ丸

石老山、高尾山

笊ケ岳

菰釣山

丹沢三峰

不老山は大きな山だったんですネ

これだけ通っていて

今まで気にしていませんでした

丹沢グルリの山々が良く見えていました!






特に最終到達回数等々.......目標ありませんが

橋本駅まで300回はやりたいです。

2018は57歳になり

残された時間もカウントダウンになりました

初めて蛭ケ岳に登ったのは1980.1.20で19歳のときでした

歴代の小屋番や蛭ケ岳の常連さんたちへの思いも馳せながら

これからの一回、一回を大切にしたい

増本さん、山本さん、薄井さん、植村さん、小島さん

私の心の中に刻まれています

1984.3, 1998.1, 2014.2 この三度が2m超えの積雪を記録しました

1984.1は塔ノ岳で氷点下18,蛭ケ岳で氷点下27がありました 山中湖,河口湖全面結氷の最後でした

そしてトレランの皆さんと橋本駅までの6H切りは貴重な財産です

大倉一番バスで大倉to山中湖まで発展させられたこと


これからは身の丈に合った内容で続けていきます
2017
年末現在

 2625塔ノ岳2627

 1435丹沢山1437

 1270蛭ヶ岳1272

  687姫 次689
   
  461焼 山463

  459焼山登山口461

  444三ケ木446

  294橋本駅北口294

   162檜洞丸162

   19本間ノ頭19

   76三ノ塔76

   8葛葉の泉8

 159青根159


箱根駅伝 エースの称号

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