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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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毒にまみれた現代人の一日

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朝、けたたましい目覚ましの音で一日がスタート。

朝は食欲がないけれど、とりあえず

ハム(発ガン性の添加物たっぷり)エッグ(抗生物質入り)と

食パン(ポストハーベスト小麦粉入り)に

マーガリン(トランス脂肪酸ガンのもと)を付けて。

飲み物は健康のために牛乳(加工過程で激しく酸化した)を一杯。

そのあとハミガキと洗顔(科学薬品で必要な脂まで根こそぎ落とす)

髪を整え、メイク(石油製品を顔に塗る)して、会社へ。

満員電車(電磁波の嵐)に揺られ、会社到着。

インスタントコーヒー(コーヒー味の液体薬品)片手に仕事に勤しむ。

よく利用する会社のウォーターサーバーは、100%純粋な水

(自然界にありえない構造)だから、とても安心なんだ。



お昼休憩。昼はコンビニで買ったサンドイッチ(添加物の嵐)と

午後の紅茶(砂糖の塊)。最近肌荒れがひどいので

サプリメント(栄養より添加物の方が多い)も摂っておこう。

歯磨き代わりにガム(味の付いたプラスティック)を噛んで

午後の仕事をこなす。就業後、同僚と焼き肉を食べに行くことに。



食べ放題焼き肉(成長促進剤やホルモン剤漬けで病的に育った牛)や、

フルーツやサラダ(ポストハーベスト、塩素漂白剤漬け)

も沢山食べてお腹いっぱい。そして帰宅後

お風呂を溜めてる間に、プリンになってきた髪を

買っておいた市販の毛染め液(殺虫剤の400倍の毒性)で

染め直し。今日は疲れが取れる入浴剤

(化学薬品が全身の皮膚から吸収される)も入れて、

シャワー(世界一塩素濃度の高い漂白剤のような水道水)を浴びて

メイク落とし、シャンプー(台所洗剤と同じ洗浄成分配合)して、

蒸気(塩素が気化した有害なもの)に包まれていい気分。

お風呂から出たら、すぐ化粧水や乳液(化学薬品)を付けなきゃ。

プラセンタやヒアルロン酸(毎日付け続けることで

肌の再生能力を弱らせる)配合だからお肌に良いんだー。

少し小腹が空いたから、カップ麺(コート剤(環境ホルモン)が融解)

でも食べようかな・・あっ、やっぱり健康を考えて

野菜ジュース(還元濃縮の処理でビタミンの大半が壊れた)にしよっと。

今日は焼き肉食べたから、歯磨き後は

モンダミン(化学薬品が口の粘膜から吸収される)もしておこう。

寝る前にPC(脳を覚醒させる光)でメールチェック。

枕元にケータイ(脳に影響を及ぼす電磁波)を置いて就寝。

一日が終了。




おおげさに見えるかもしれませんが、

現代人の生活の実態って、だいたいこんな感じですよね。

これだけ添加物や薬品にまみれた生活を

長年続けていたら、そりゃガンや生活習慣病になるのも

当然です。しかしほとんどの人は気にもとめていませんし

ましてやガンの原因だなんて思ってもみません。

「年を取れば病気になるのは当然」

誰もがそう思っているかもしれませんが、

人は本来、自然に即した生き方をしていれば

病気になることはありません。

「添加物も水道水も日本のものは全部安全」

「顔の脂は汚いから落とさなければいけない」

等も政府や企業による刷り込みです。

手放しでなんでも信用して後で泣きを見るのは自分です。

後で有害なものだと分っても、誰も責任なんて取ってくれません。

自分の身は自分で守るしかないのです。


----------<引用終了>----------



今日、乳がんの方の話をきいていたのですが、自分の体が痛くなるほどぞっとしました。
病気は怖いです。



なにもかも全部安全なものをというのは難しいですが、できるだけ気をつけたいものです。



よく聞くのが、「安全なものをと思ったら、何も食べれなくなるから、気にしない」


多くの人がこういいます。100パーセントできないなら、まったく気をつけないというのはおかしい話です。



まずは30パーセント気をつけて、そのうち、慣れてきて、それが50パーセント、つぎは快感になってきて、80パーセント・・・という具合になってくるともかぎりませんから・・・^^

5-25 【保存版】病院に行くべき症状12選

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テレサ・テンの歌。「別れの予感」に 心が反応したので
書いてみる。僕流に分析的にサラッと書いてみる。
この感情は人生のうちに一度は感じるのではないか。
まず、予感とは、直感ではないだろうか。
それを感じる人の中に既に疑問が渦巻き、
魂が正しい返答を懇願している。
そして、その人の潜在意識が予感という手段で
答えをもたらす。
潜在意識はその人自身が望む全ての
願いを叶えてくれる
強力な力を持っている。
だから、別れの予感というものは
天から湧くのでは無く
その人自身の魂から来ている
意志ではないのか。

別れの予感とは、既にその人の魂が出した答えのような気がする。
全ての人は魂の片われを待っている。
時には、愛する対象が現れても
多くの場合、プラトニック、片思いで終わることもある。
相手が魂の片われである事の証明は、精神的、肉体的な面で
結ばれる運命にあるということではないか。
二人の魂の寄り添いの際にこの二つの条件が
存在しない場合は愛は流産する。
だから、別れの予感を感じる時は
魂の導き役の潜在意識が返答を与えたのだと思う。
その予感自身が答えなのだと思う





西洋医学は対症療法であり、風邪をひいたぐらいで病院に行ったりむやみに薬を服用することは無意味かつ危険な行為であること

西洋医学が必要な病態


①心筋梗塞(心臓の血管が詰まって起こる病気)、脳梗塞(脳の血管が詰まって起こる病気)など梗塞性疾患の急性期(症状・徴候が急激で生命の危機にある状態の期間)


②くも膜下出血(脳を覆う髄膜に出血が生じた状態)、潰瘍出血(胃潰瘍や十二指腸潰瘍によって潰瘍から出血が生じた状態)、ガンからの出血など、出血の急性期


③肺炎、胆肝炎(胆管の炎症)、髄膜炎(脳や脊髄を包む膜の炎症)などの重症感染症


④交通事故、外傷、熱傷、骨折などに伴う救急医学的処置


⑤誤嚥(食べ物や異物を誤って飲み込んでしまうこと)による窒息、溺水、低体温などの救急医学的処置


⑥腸閉塞(腸管の中が通じなくなる病気)、無尿(尿がほとんど出なくなる状態)など、排泄にかかわるものへの救急医学的処置


⑦胎盤剥離(通常、出産後にはがれる胎盤が妊娠中にはがれること)、臍帯捻転(母体と胎児を結ぶ臍帯がねじれること)、臍帯巻絡(分娩時に臍帯が胎児の体の一部に巻きつくこと)など、産婦人科の救急医学的処置


⑧失明、聴覚喪失などに関する救急医学的処置


⑨薬物中毒症や毒性物質の暴露に対する処置


⑩染色体や遺伝などの異常が100%わかっている疾患への対応


⑪低体重時の管理


⑫サイトカイン・ストーム(細胞から放出される細胞間情報伝達物質の過剰生産)など、重症の免疫異常状態への処置



現代西洋医学が扱うべきものは、次の3つです。


西洋医学が扱うべき病態


①放っておけば死ぬもの


②放っておけば死にそうになるもの


③放っておけば体の機能を喪失するもの



つまりこれらに当てはまらない場合は病院に行く必要はないということだ。

日本は年間およそ35兆円の医療費を消費している。

国民が本来必要のない病院通いや薬の服用をやめれば、ムダな医療費をなくすことが出来る。

医療費に使うお金は、無農薬野菜や良質な油や米を買うお金に使ったほうがよっぽど賢いお金の使い道だ。

未来の自分の健康な体を手に入れるための自己投資にもなるしまさに一石二鳥。

病院に行くか迷った時の参考にしてください。




3. まるこ 2016年12月06日 16:54
幼い子どもにすーぐ抗生物質出しちゃう病院、多いですよ(;ω;)hahaさん、良い病院でお子さんを診てもらって、それはとってもラッキーだった!と思うくらい。
抗生物質を処方された子はやっぱりお腹を下します。そしていつもはお昼寝を嫌がって逃げる子でもバタッと寝ます。薬が効いてる♪ではないと思うんです。相当体力を奪われるんだなぁー。って。
少し調子が悪いくらいの時は薬など飲まずに食事も取らずに温かくして寝るのが一番だと思います(^-^)
(医療従事者ではないので統計的に見て〜です。)
2. haha 2016年12月06日 15:24
家猫が体調を崩し、それこそ抗生剤とステロイド・・・etc。
薬のオンパレードです。
うちの息子も幼いころ風邪で病院にかかって
抗生剤をとお願いしても抗生剤は
おなかの良い菌まで殺してしまうので、
出せませんと医者は出してくれませんでした。

ワクチンでもなんでも薬は良くないと、これだけ
言われていますので、人を頼らずに自己管理と
身体の治癒力に頼るしかないです。
1. ぼくちゃん 2016年12月06日 07:48
風がなかなか治らないので大学病院に行きました 「念の為抗生物質出しときます」薬局でもらい飲み始めるが・・・あれ?抗生物質って胃薬とセットじゃなかったっけ?でものみ続けると胃の調子がおかしくなってきた やがて顔がげっそりし始めた もしかして?と思い抗生物質やめて朝鮮の紅参の栄養剤を飲み始めた・・・
一週間後やっと回復 あの医師若かったけど・・・病院には注意が必要だなと感じた出来事でした

子供向けでも油断出来ない危険な食品、日用品10選

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子供向けでも油断出来ない危険な食品、日用品10選
ビスコ
アンパンマンのカップ麺
マミー
赤ウインナー
たべっ子どうぶつ
冷凍食品全般
ヤクルト
ファンタ
子供用歯磨き粉
ベビー用おしりふき

1.ビスコ
昔からある子供用ビスケットとして有名なビスコ。
乳酸菌が豊富でいかにも子供の健康を考えた商品に見えるが、トランス脂肪酸を含むショートニングや化学調味料が使われている。
乳幼児はおろか、大人だって食べないに越したことはない。

2.アンパンマンのカップ麺
パッケージにアンパンマンの絵が書いてある子供向けカップ麺。
これには添加物ではなく食品として分類されるたんぱく加水分解物と化学調味料が使われている。合成保存料、合成着色料は不使用と書いてあるが、ちゃっかり危険な成分は使っている。
たんぱく加水分解物はおもに塩酸を使ってたんぱく質を加水分解して作られるうまみのもとである。
化学調味料とセットで使われることが多く、味覚がバカになる。
成長期の子供には出来れば与えたくない。

3.マミー
子供用飲料として人気のマミー。
これには果糖ブドウ糖液糖、安定剤、カラメル色素など、添加物が大量に使われているが最も心配なのは人工甘味料のアセスルファムK。
アセスルファムKは、2000年に誕生した比較的新しい甘味料で砂糖の200倍の甘みをもつ。安全性についてはまだ研究段階にあり、動物実験では肝臓障害が出ている。

4.赤ウインナー
ほとんどのウインナー、ソーセージ、ハムなどにはソルビン酸K、亜硝酸Naなど発ガン性のある食品添加物が使われていますが、赤ウインナーの場合は着色料の赤102、赤3などのタール色素が使われている。
この着色料は発ガン性だけじゃなく染色体異常を引き起こす可能性が高い極めて危険な添加物である。

5.たべっ子どうぶつ
これも子供向けお菓子の代表だがマーガリンとショートニングが使われている。
さらにパーム油が使われており、パーム油には酸化防止剤としてBHAという発ガン性物質が含まれている。

6.冷凍食品全般
お弁当にいれたり、時間がない時などに重宝する冷凍食品ですが、冷凍食品に使われている食材はほとんどが輸入ものの粗悪品。
また多くの冷凍食品にたんぱく加水分解物、化学調味料、リン酸塩、増粘多糖類、乳化剤、酸味料、ph調整剤、ソルビトールなどの添加物が大量に使われているのは、添加物を加えないとそのままの味で勝負出来ないから使うのである。
本来冷凍という保存手段をとっているなら、味つけはもっとシンプルに出来るはず。

7.ヤクルト
乳酸菌シロタ株を売りにした健康飲料のイメージがあるが、実際はブドウ糖果糖液糖、砂糖、脱脂粉乳、香料という砂糖と添加物のかたまりである。
飲まない方がマシ。

8.ファンタ
ファンタには保存料として安息香酸Naが使われていますが、ビタミンCと結合すると発ガン性物質が生まれる。
また甘味料のステビアは生殖機能に障害をきたす。

9.子供用歯磨き粉
キャラクターの絵が書かれた子供用歯磨き粉にも石油由来の界面活性剤が使われている。
界面活性剤は発ガン性、肝臓障害、アレルギーを引き起こす可能性があり。

10.ベビー用おしりふき
赤ちゃんに使うおしりふき。これにも界面活性剤が使われている。赤ちゃんは皮膚が薄くバリアー機能も未発達なため経皮吸収しやすい状態にあると言える。おしりふりは、プロピレングリコール(PG)、安息香酸Na、EDTA-2Naなどは腎臓機能に悪影響を及ぼす可能性がある。

おわりに
子供向けに作られたものは、企業がきちんと配慮して作っているだろうと思いがちですが、そんなことはないのです。
子供に与えがちな食品、たとえば飲食店のお子様セットも見た目の可愛さに騙されてはいけません。
幼い子供は、親が選んで与えたものしか食べることが出来ないのです。

ミーコママ (id:loveandhate007) 1年前




<転載終了>

竹内洋岳 ヒマラヤ8000メートル峰全14座を登りきる 

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2012年5月26日、夕暮れの迫る17時30分。竹内洋岳は標高8167メートルのダウラギリ山頂に辿り着いた。1995年に24歳で8463メートルのマカルーの頂に立ってから17年の年月をかけて、ヒマラヤ山脈の8000メートル峰14座すべてを登りきった瞬間。世界では14座の登頂は30人近くが達成しているが、日本では最強の登山家と言われた山田昇も9座目に登った後で遭難死、この志を継いだ名塚秀二も10座目のアンナプルナで命を落とすなど、これまで10座の壁に阻まれてきた日本の山岳界にとっても呪縛から解放された瞬間だった。

2017.02.25 焼山登山口⇒蛭ケ岳⇒大倉バス停14:26着

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膝が痛いのと


裏丹沢は凍結の道

蛭⇒塔は田圃道

大倉尾根は足が残っていない



2016
年末現在

 2566塔ノ岳2579

 1381丹沢山1393

 1216蛭ヶ岳1228

  634姫 次645

  157青根159

    6平丸7

  423焼 山429

  419焼山登山口425

  406三ケ木412

  291橋本駅北口291

   37大山38

    3大山三峰4



Gerlinde Kaltenbrunner、女性初の無酸素で8000m峰全山登頂

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オーストリアの Gerlinde Kaltenbrunner が 8月 23日に北陵から K2 に無酸素で登頂し、女性として初めて全ての 8000m峰に無酸素で登頂した女性になりました。彼女は竹内洋岳さんとも過去に何度か登っています。


また、今回は 4人パーティで登っていますが、他の 3名、Vassily Pivtsov、Maxut Zumayev、Darek Zalusk も無酸素での 8000m峰全山登頂を達成しており、これにより 8000m峰全山登頂者は 26名になりました。このうち半分の 13名が無酸素で達成しています。

彼女は K2 へは 4回目のトライとなり、昨年の遠征ではツアーメンバーを亡くしています。ちなみに旦那の Ralf Dujmovits も 8000m峰全山登頂を達成しています。
関連リンク

ゲルリンデ・カルテンブルンナーはオーストリアの登山家。女性として初めて8000メートル峰全14座の無酸素登頂に成功した。酸素ボンベ使用下での8000メートル峰全14座の登頂者としても、2人目の女性登山家となる。名前はガリンダ・カールセンブラウナーと表記されることもある。 ウィキペディア
生年月日: 1970年12月13日 (46歳)
生まれ: オーストリア キルヒドルフ・アン・デア・クレムス

 「非情の山」ともいわれるK2 青木 達哉 小松 由佳

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 2006年8月1日16時50分。待ちに待ったその瞬間、東海大学K2登山隊ベースキャンプは歓喜と安堵に包まれた。東海大学K2登山隊の小松由佳隊員と青木達哉隊員というアタック隊が、世界の精鋭登山家にもっとも険しいと恐れられるK2の山頂を極めたのだ。
 しかもこの登頂は記録ずくめとなった。小松由佳隊員は「日本人女性初登頂(世界でも8人目)」、21歳10か月の青木達哉隊員は「世界最年少登頂」を成し遂げたのだ。
 登頂に成功したその瞬間を小松由佳隊員はこう振り返る。
「午前2時半にアタックを開始して、膝まで埋まるような雪や難度の高い岩場を超え、半日以上経った頃ようやく他の高みが見えない、ゆるやかな頂が見えてきたんです。それまでいくつかのピークを越えてきましたが、その頂が見えた瞬間、『ここがK2の山頂だ』と確信めいたものがあったんです。そのとき、先を行っていた青木が『先に行ってください』と気遣ってくれたんですが、もうそのまま行かせちゃいました」
 その山頂目前のやりとりを、青木達哉隊員は克明に覚えているという。
「ちょうど山頂まであと数歩――2mくらいのところだったと思います。自分でもどうして『どうぞ』って先に行ってもらおうとしたのかよく思い出せないんです。いろんな山で指導してくれた尊敬する先輩という気持ちがそうさせたんだとは思うんですが、山頂を目の前にしての達成感や、その反面『もう終わっちゃうのか』という寂しさ……。いろんなものがこみ上げてきたんです。ただ先に行ってもらおうと思ったら、『いいよ、行きな』って……。鼻をすするような音が聞こえてきたから、もしかして泣き顔を見られたくないのかなとも思いました」
 山頂に先にたどり着いた青木隊員は、最後の数歩を踏みしめるたび、脳裏にそれまでのことが次から次によぎっていた。現地スタッフや他国の登山隊の顔ぶれが浮かんでは消える。そして最後の一歩を登った瞬間、空と一体になって頭が真っ白になったという。アイスバイルをついて、無線でベースキャンプに連絡を入れた。デジカメで記録写真を撮影した。しかし、その時点で小松隊員は違うことを考えていた。
「私も登頂する瞬間は、サポートしてくれた方々への感謝の気持ちが大きくわき上がりましたね。青木と同じように、走馬燈のようにいろんなことが頭を駆けめぐりました。ただ、登頂前の本当に数秒だったと思います。登頂した実感も正直あまりなかったですね。むしろ『どう降りるか』ということに気を取られていたような気がします」
 山頂にいたのは1時間足らず。既にアタック開始から15時間以上が経過している。酸素の減りは予定よりも早く、下降中に切れそうだった。下山前に頂から下を見たとき、「数千メートルも下にすっぱり切れ落ちた斜面は底のない穴のように見えた」と小松隊員は言う。
 そして登頂報告の無線を最後に2人からベースキャンプへの連絡は途絶えた。




そもそも東海大学の登山隊がK2という山を目指すことになったのは、2006年が同大学の山岳部創部50年という区切りの年だったことも、その理由だった。それまでも、2001年にはクーラカンリ、2004年には中国・カラコンロンと6000~7000mクラスの山へ遠征し、実績を積んでいた。そして満を持して2006年、K2へのアタックとなったのだ。東海大学K2登山隊の出利葉義次隊長は、その経緯をこう語る。
「当初は世界最高峰のエベレストという話も出ていたんです。数字を求めるだけなら世界最高峰を目指すという選択肢もあったかもしれません。ただ、山岳の世界ではもっとも難しい山はK2だと言われている。ならば、登山家として、より高い目標を目指すべきではないかということになったんです」
 だが、決定したあとも不安はよぎる。相手は、世界の精鋭登山家たちが命を落としたK2という最難峰。登頂できるのか、いやそれどころか生きて帰れるのか……。だが、より大きな困難を乗り越えたときほど、達成感や喜びは大きくなる。目標は、登山家なら誰もが憧れるK2に定められた。
「しかし、東海大の山岳部は他の大学の山岳部に比べて歴史も浅い。足りない経験を補うための万全の準備が大前提となります。例えば、登るルートひとつとっても、どんなルートを選ぶか、そのルートは登山隊や隊員のスキルに適したものか……。他にも医療スタッフや通信手段、気象情報の収集手段など、考えるべきことは無限にあります。登山というのは、自然との闘い。強大すぎるほどの相手だからこそ、十分すぎるほど情報を集めなければならない。ベースキャンプという5000mを超える高所での根幹を担うのが発電機。全幅の信頼がおけるものでなければ選ぶことはできません」(出利葉隊長)
 2001年のクーラカンリ登頂以来、東海大学山岳部はHondaポータブル発電機に全幅の信頼を寄せている。文字通り、生死を賭した危険な挑戦だからこそ、Honda『EU9i』は、東海大学K2登山隊のベースキャンプにまで随行する唯一のポータブル発電機となったのだ。 


東海大学山岳部のターゲットはK2に定まった。現役・OB他、登山隊員8名がK2への道を目指すこととなった。そしてK2のような高峰を目指すにあたり、まず初期段階での重要な作業はルートの策定となる。ルート次第で登山の成否は決まると言っても過言ではない。
「ルートは、単に傾斜のきつさだけで決めるのではありません。例えば、他の登山隊が多く登ったルートでは、先行した登山隊が残していったロープをあてにして登ることもあります。しかし時間が経過してゆるんでいたりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることもある。さらに、他の登山隊がすぐ前を先行しているときには、それに伴う落石も考えられる。自分たちが先行している場合には岩を落とさないよう、気を遣わなければならない。比較的登りやすいルートは、他国の隊も集中する。それより、山と隊が真っ向から対峙できるルートを選ぼうということになったんです」(出利葉隊長)
 検討に検討を重ねた結果、出利葉隊長率いる東海大学K2登山隊は南南東から登るルートを選択した。急な岩場や、氷と雪で固く締まった壁に覆われた難ルートである。
「南南東リブから入るルートは、確かに難ルートではあります。しかし、氷雪壁の登はんとなれば、日本の雪山で鍛えられた東海大学登山隊が得意とするところ。もちろんルートを決めた時点では、まだアタック隊はおろか、どんな人選で隊を組むかも決めていませんでした」(同)
 だがその段階でも、やるべきことはいくらでもあった。
「『EU9i』があれば電力は確保できる。となれば、登山に必要な情報テクノロジー用の電源はすべて網羅することができるのはわかっていました。ですから、まず最大限に情報を集め、解析できる体制作りから手をつけることにしたのです。まず、大学内の情報技術センターに支援を依頼し、ヨーロッパの気象衛星METEOSAT5号の衛星画像を加工・補正してもらい、パキスタン北部地域を網羅した衛星画像が送信される体制を整えました。さらに、この衛星画像をもとに、学内の気象学の専門家に予想天気図を作成してもらうことにもなりました」(同)
 すべての電気の源を司る『EU9i』については、2001年のクーラカンリ遠征と同様、オールホンダ販売に依頼し、メインジェットを高地用にチューニングした。電源を要としたハード面、そして日本からの情報支援については目算が立った。だが、出利葉隊長の目の前には問題が山積みとなっていた。

 ハード面では『EU9i』含め、可能な限り最高の準備の目算が立った東海大学K2登山隊だったが、何より最大の問題が控えていた。当然ながら、登山とは人が山を登るもの。だが、肝心の隊員の編成が最大の問題だった。
「大学登山隊は、基本的に現役で山岳部に所属する学生と、OBで編成されることになります。そこで中核となるのは、やはり経験豊富なOB隊員。ただし、ほとんどのOBは企業勤めをする会社員。休みの調整なども必要ですが、家庭や仕事の事情で断念せざるを得ない隊員もいるので、中核を担うOBの存在は本当に貴重なのですが……」(出利葉隊長)
 しかし、自然を相手に研鑽を積む以上、危険とは常に隣り合わせ。そんななか、出利葉隊長にとって頭を悩ませる事故が起きた。
「主力にカウントしていた中堅の隊員が2005年にヒマラヤで凍傷にかかってしまい、両手足の指を切断することになってしまった。隊の中核を担うには、回復までの時間が足りなかった。他の隊員も日程を調整し、学内からだけでなく学外からの支援も受けている一大プロジェクト。日程はどうにも動かせなかったんです」(同)
 戦力ダウンを埋めるため、山で荷運びをする高所ポーターを手配することになった。だが、ポーターはあくまでも隊を補助する存在。K2の山頂を目指す隊員の質の向上が急務となった。
「コンディションがよければ、アタック隊として山頂を目指せる人材を増やすことが急務でした。時間が限られているなか、学生ならば集中的に鍛えることができ、伸びしろも期待できたんです」(同)
 といっても、10名程度の学生のうち、K2にチャレンジできる力量までの伸びが期待できるのはある程度のキャリアがある上級生のみ。しかし、上級生ともなると就職活動も本格化する。そんななか、K2という最高峰に挑むための過酷なトレーニングに身を投じる者はほとんどいなかった。隊に参加した数少ない一人は、その動機をこう語る。
「いやー、僕は消防士になろうと思ってたんで。単位も間に合ってたから、『もうちょっと山に登ろうかな』と思って。K2なんて、滅多に行ける場所じゃありませんし」
 K2世界最年少登頂を達成した、青木達哉隊員が隊に参加することを決意したのは、そんな気軽な動機からだった。

K2登山隊への参加を決めた青木隊員だったが、K2へ向かうためのトレーニングは過酷を極めた。標高4000m相当の低圧・低酸素室で高所順応トレーニングを行った。週に4回、1回につき6時間。プロのアスリートよりも過酷なトレーニングともいえる。
「もともと体を動かすのは好きだったんです。山岳部に入ったのは、新人勧誘で『ロッククライミングができるよ』って誘われたから。なんだか楽しそうだと思ったら、入部早々登った雪山がすごく過酷で『なんで、こんなことしてるんだろう』ともう苦しいったらありませんでした。でも、山頂まで登ったら今まで知らなかった爽快感を味わうことができた。それからすっかりハマることになっちゃいましたね」(青木隊員)
 以来、山の魅力に惹かれ、国内の山を次々に登った。2年生の時にはカラコンロン山脈へと赴いた。
「そのカラコンロンで、先輩の小松さんたちと同じ宿になって、いろいろ話す機会を持つことができたんです」(同)
「小松さん」というのは、K2アタック隊でコンビを組んだ小松由佳隊員のこと。当の小松由佳隊員は当時のことをこう振り返る。
「青木君に限らずですが、彼らの代の子たちとはいろいろ話はしましたよ。詳しくは差し障りがあるので言えませんが、それこそ話し合いの過程で殴り合い寸前になったことも(笑)。私の代も彼らの代も人数は少なかったから、似たような苦労もしているんですよね」
 小松隊員は、高校時代から山岳部で競技登山を行っていた。
「インターハイや国体での競技登山は、あくまでも点数を競うもの。山という雄大なフィールドの中なのに、誰が何秒早く到達するかという競い合いになる。向き合うべきは、山のはずなのに……。ルールに縛られるのではなく、純粋に山と向き合いたいと思ったんです。もっとも、根っからの冒険好きでインディージョーンズみたいな世界観を味わいたいな、考古学も学びたいな、と思っていたら、最先端の登山はパソコンや衛星通信も使っていた。驚きましたね」(小松隊員)
 現代の登山シーンにおいては、『EU9i』のようなポータブル発電機は、もはや必携アイテムになっていたのだ

高校時代から数えて、もう10年山に登っているという小松隊員だが、2006年にK2に挑む直前には、登山を続けるかどうか悩んだこともあったという。
「山は基本的に男社会。もちろんどんなに鍛えても、筋力ではかなわない。女性がリーダーとして隊を統率するのは難しい面もあるんです。他にもいろいろな悩みが積み重なり、2005年頃には『もう山をやめようかな』と悩んでしまっていた。それまでは、生活の90%が“山”だっただけに、抜け殻みたいになっていたんです。そんな頃でした。出利葉さんから『K2に行かないか』と誘われたのは」(小松隊員)
 険しい山になればなるほど隊は大編成となり、チームワークも必要とされる。そんなチームを率いるには、個人として山に向かうのとはまた異なる資質が必要になる。その資質は、“山男”なら誰もが持っている資質というわけではない。個人それぞれが山と向き合うことと、チームとして山と対峙することは根本的に異質なもの。その双方を兼ね備えたリーダーは決して多くはない。様々な経験を重ねたが故に、当時の小松隊員は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。そんな彼女を救ったのが、出利葉隊長からのK2への誘いだった。
「誘いを受けた後、大学に出向いて何回も話をして『この人がリーダーのチームなら、きっとまた登れる』と思えたんです。世界中に数ある登山隊には、リーダーが独善的だったり自分の考え方を押しつけるような隊もあるんですが、出利葉さんは、チームを意思統一できるリーダーとしての厳しさはありながらも、隊員ひとりひとりの考え方も受け止めてくれる。私が考える登山隊像に合っていたんです。声をかけてくれたのが出利葉さんだったから、『また登ろう』とやる気になれたんです」(同)
 小松・青木両隊員だけではない。東海大学K2登山隊に参加したメンバーの数だけドラマがあった。そして、2006年6月5日、先発隊として出利葉隊長以下、小松・青木の両隊員が成田を発った。3か月前に船便で出発した『EU9i』をはじめとした、荷物が待ち受ける大陸へと向かって。

先発隊の3人がパキスタンに入った数日後には、医師や看護師なども含め、隊に参加する全員が集まり、6月14日にはキャンプ地を目指し行軍を開始した。だが、初夏のパキスタンは厳しい暑さでも知られる。地域によっては平均気温が8月よりも高くなり、最高気温が40℃を超えることもしばしば。行軍は、早朝の涼しいうちに開始され、現地のポーターたちと合わせ約20名のチームはベースキャンプ(BC)へと向かった。行軍の様子を出利葉隊長はこう語る。
「猛暑のなかで1トン以上の荷物を背負っての行軍でしたが、BCまではほぼ順調に行程をこなすことができました。途中、ポーターに一人50ルピーのチップを出すと伝えると、もの凄い勢いで進んでいったのが印象的でした(笑)」
 6月20日にはBCに到着。その後、約1か月をかけて、C0、C1、C2と設営していった。昼はキャンプの設営、夜は機材の整備などに追われた。
「BCでの食事は現地のコックが作る料理と、日本から持ち込んだフリーズドライの食品が中心でしたが、現地のコックが作るのは当然パキスタン料理。何を作っても全部カレー味。補助的な食品として、現地でクッキーを買い込みましたが、さすがにカレー味のクッキーは不評でした(笑)」
 出利葉隊長は、笑い話としてBCでの様子を話すが、ほとんどの日程で設営は夜にまで至った。連日、登はんが終了するまでの18時から21時までの間、Hondaポータブル発電機『EU9i』はフル稼働していた。医師として隊に参加しながら、発電機のメンテナンス担当となった小林利毅隊員はその様子をこう語る。
「BCでの1か月半、ほぼすべての電源を発電機から供給していましたね。持ち込んだガソリンには限りがあるので、1日数時間しか稼働させられない。その間にすべての電源を確保する必要がある。『EU9i』を一次電源として、車載用の大容量バッテリーや汎用電池パック、パソコン、デジタル音楽プレーヤーなどの充電まで行っていました。もちろん、夜間の照明等の電源にも使用しましたが、最後までトラブルもなく快調でした。むしろ、他国の隊が使っていた他メーカーの発電機のメンテナンスに追われることの方が多かったかもしれません(笑)」
 海外のガソリンは地域によっては、高品質とは限らない。ゴミなどの不純物の混入を避けるため、給油は婦人用のストッキングをネット代わりに濾過して行われた。出利葉隊長は、そんな小林医師の様子をこう振り返る。
「二足のわらじというか、ほとんどエンジニアのようでしたね。私を始め、他の隊員から『小林モータース、今日もロシア隊に出張してるなぁ』なんてからかわれていました(笑)」
 そうしてEU9iがフル稼働している間に、C0~C2までの設営は着々と進んでいった。



 C0~C2までの設営が着々と進むなか、同時にアタック日の選定が慎重に行われた。ヨーロッパの気象衛星からの情報の解析結果が日本の東海大学を通じてBCに送られ、その情報をもとに、アタックの詳細が決定された。そのアタック隊に選ばれたのは、1978年生まれの蔵元学士隊員、1982年生まれの小松由佳隊員、そして現役の学生である1984年生まれの青木達哉隊員という3名。その決定理由を出利葉隊長はこう語る。
「衛星通信を介しての情報をもとに、慎重に検討した結果、8月1日頃の天候がいいと予測できた。パソコンや衛星回線を介して、あらゆる情報を検討できたからこそ、精度の高い予測ができたんです。K2では、毎年遭難者が少なからず出ていますが、やはり天候などの情報を得ずにアタックする隊は遭難の率が高い。しかし、どんなに万全の準備でのぞんでもK2という山は甘くない。比較的若い隊員を選んだのは、不測の事態が起きたとき、体力・気力の充実が欠かせないと考えたのです。他の山ならば、私も一緒に登りたいところですが、K2相手となれば、わずかな隙が命取りになりかねません。私が登るという選択肢はありませんでした」(出利葉隊長)
 そして、7月29日の未明、アタック隊として選ばれた蔵元、小松、青木隊員が第一回目のアタックを目指し、BCを出発した。
 ところが、アタック隊はBC出発直後にアクシデントに見舞われる。アタック隊のリーダー格でもあった蔵元隊員が激しい腹痛に見舞われ、隊からの離脱を余儀なくされたのだ。腹痛の原因は急性の虫垂炎だったという。
「BC出発から数時間後のことで、まだC1にもたどりついていない頃でした。本人は無念だったでしょうが、我々が見たのは脂汗を流しながら体を『く』の字に曲げて降りてくる蔵元の姿。本人は無念だったでしょうが、我々も『なぜこんなときに……』と無念の思いでした。それまでは、常に先頭に立ってルートを切り開き、アタックキャンプになるC3予定地にも最初に到達した。高所経験も豊富で、彼がいたからこそ小松、青木と3人でのアタック隊を編成したんですが……」(同)
 予定通り、7月29日に小松、青木両隊員はC1に、翌30日にはC2に入った。そしてその夜、出利葉隊長はC2にいる2人と無線で話し合いを持った。
「アタック目前の彼らは、当然『行きたい』という。蔵元が降りていく後ろ姿に感じるものもあったのでしょう。ただし若く、高所の経験が豊富ではない彼らだけで行かせていいのかという不安もありました。迷いましたが『絶対に無理はしない』という約束をさせた上で一度だけチャンスを与えることにしたんです。とはいえ、実は勝算もあった。あの2人は、どんな山でも山をナメるということをしない。国内の山でもどんな登山者よりも早くに出発し、どんな簡単な場所でも基本に忠実に登っていく。だから後ろからの登山者にどんどん抜かれるんですが、登山とは他者との競争ではなく、『生きて帰ってくること』こそが登山だということをよくわかっている。だからこそ、行かせることにしたんです」(同)
 そしてアタック日は8月1日に決定した。


8月1日午前2時30分。前日の7月31日にはC2からアタックキャンプであるC3へと入っていた小松、青木両隊員はアタックを開始した。朝食は紅茶と堅いパウンドケーキ。小松隊員の「後悔のないようやれるだけやろう。最高の一日にしよう」との問いかけに短く「はい」と答える青木隊員。初めての8000mラインへの挑戦が始まった。
「下の方を見ると、小さな光が暗闇にぽつんと浮かんでいる。BCのみんなが激励のために、たき火を焚いていてくれたんです。あぁ、登っているのは2人だけじゃない。みんなで登っているんだと胸が熱くなりました」(小松隊員)
 何も聞こえない無音の世界のなか、聞こえるのは、自分たちの息づかいと雪を踏みしめる足音のみ。世界のなかで自分だけがぽっかりと浮かんでいるような不思議な感覚に2人はとらわれた。膝まで埋まるような新雪の急斜面かと思えば、ガチガチの固い氷が露出した氷壁もある。足下の変化を一歩ずつ感じ取りながら、慎重に進まなければならない。8000mという高度による疲労も容赦なく2人を襲う。
「4歩歩いて一休み、の連続でした。以前カラコンロンのときに6000mを体験し、今回7000mのC2で高度障害を起こして、高所の恐ろしさは知っていたつもりだったんですが、8000mは一気に体が重くなってくる。あのヤバさは別物でしたね」(青木隊員)
 午前2時半にC3を出発し、あっという間に12時間以上が経過した。当初、午後3時になっても到達できなければ引き返そうと決めていたが、その頃にはもう山頂が目の前に見えていた。山に魅せられた者が、山頂を目の前にして引き返すことなどできるわけがない。
「8000mには7000mまでには気づかなかった“空気の匂い”がありました。単純に鼻で感じる匂いというより、頭というか体全体で匂いを感じるような感覚。太陽の光、雲、風……。すべてがダイナミックでギラギラして体にダイレクトに突き刺さるような感覚。すべての感覚がすごく鋭敏になった記憶があります」(小松隊員)
 とはいえ、そうした感覚にばかり溺れるわけにはいかない。午前3時半にBCに報告の無線を入れて以来、無線を入れようとしても圏外をあらわす音が鳴るばかりでBCとの交信も途絶えていた。繰り返し交信を試みるが、いっこうにつながる様子はない。そのときのBCの様子を出利葉隊長はこう語る。
「BCで待機している我々は、まったく状況がわからない。登頂したのかもしれないし、万が一ということもあり得る。16時を回り、不安が頭をもたげ始めた16時50分、無線が入ったんです」
 一瞬にしてBC内の空気が変わった。緊張で息をのむBCの隊員たちの耳に聞こえてきたのは、『BC聞こえますか! 私たちは今、ついにK2の山頂に到達しました!』という小松隊員の声だった。一瞬の静寂の後、BC内は歓声で埋め尽くされた。言葉がわからないはずの現地スタッフたちも喜びを爆発させる。無線でしかつながっていないはずのK2の山頂にもその感動は伝わっていた。
「出利葉さんの『よくやった!』と興奮する声と、BCの緊張と興奮が無線を通じても痛いほどに伝わってきました。感無量でしたが、心配かけて申し訳なかったなという思いや喜び、そして下りへ向かう緊張感。様々な気持ちがないまぜになっていました」(小松隊員)
「無線では何を話していいかわからなくて、最初に『青木です』と言った後は、ひたすら『よくやった!』『ありがとうございます』という会話を繰り返していました(笑)。K2の山頂はまるで天空にいるような不思議な感覚でした」(青木隊員)
 周囲を見回しても、ここより高い場所は見えない。8068mのガッシャーブルムも8047mのブロードピークも眼下に見える。そんな世界で2番目に高い場所に2人は約1時間、たたずんでいた。



 遂にK2山頂にたどり着いた2人だったが、山頂から下を見ると、数千メートル下まですっぱりと切れ落ちた底のないような穴に見えた。
「『ここを降りるのか』と改めて、今、自分たちがいかに危険な場所にいるかを再認識して『とにかく生きて帰るんだ』と気を引き締めました」(小松隊員)
 登りで時間がかかった分、酸素ボンベの残量も限られていた。下りる間に、酸素ボンベの流入量を毎分2Lから1Lに、さらには0.5Lに切り替えた。「下りこそが危険」というのは、山の常識でもある。登りは2人同時に登った箇所も、下りでは片方が確保を取り、ロープでつながれたもう一人が下りるという、より安全なやり方を採用した。
「スピードが安全につながるという面もあるのですが、とにかく生きて帰ることだけを考えたら慎重に進まざるを得なかったんです。ただ時間の感覚がどうにもおかしくなっていて、21時頃かと思ったら、あっという間に翌日の午前2時半になっていました」(小松隊員)
 頂上アタックを開始してから、もう丸1日行動し続けていた。興奮状態で、疲労を感じにくくなっているとはいえ、2人の体力は限界に近づいていた。
「高度障害に疲労、そして酸素不足もあって、下りは本当にしんどかったですね。ボクがロープを確保して小松さんが下りてくるのを待っているときに立ったまま、まぶたが落ちてしまったこともありました」(青木隊員)
 立ったまま、寝たり起きたりを繰り返した。空の酸素ボンベやヘッドランプも手につかない。手から滑り落ちたそれらは、あっという間に視界から消えていく。
「疲労が極限に達し、ビバークを決意しました。8200mという高所でビバークするか、このまま下り続けることのどちらが危険かと考えたとき、ビバークを選択せざるを得ないような状況でした」(小松隊員)
 もう酸素は残っていない。凍った斜面をアイスバイルのブレードで削り、2人がようやく腰を下ろせるだけのスペースを作った。午前3時、確保を取りながら、手持ちのものをすべて着込んだ。さらにその上からシートをかぶり、2人はつかの間の眠りについた。「寝たら、もう目が覚めないなんてことはありませんよね?」との青木隊員の問いに、小松隊員は「大丈夫」と答えたが、小松自身8000mを超える高所でのビバークは初めてだった。




朝になってもC3に姿を見せない2人に、出利葉隊長をはじめとしたBCは焦りを感じ始めていた。
「夜間ということもあり、頂上からアタックキャンプのC3まで下りてくるのに約5~6時間かかると見ていました。ところが17時50分の無線連絡以降、またも無線が不通になり消息がしれないまま夜明けを迎えてしまった。スコープで覗いてもC3に姿も見えない。無線も通じない2人を案じながらも、すべての可能性を考え、午前10時の段階で日本の大学に連絡を取りました」(出利葉隊長)
 山ではどんな悲劇が起きても不思議ではない。明るくなっても無線は入らず、BCから目視できるはずのC3にも2人の姿が見えない。最悪の事態が脳裏をよぎった。
「『遭難の可能性あり』と、何時の時点で判断し、どのタイミングで発表するかも含め、大学側との協議を開始しました。単に下山が遅れている可能性も考慮しましたが、万が一の可能性もある。ただし、日本時間の夕方に発表してしまうと、夕方の報道番組や夜のニュースで流れてしまう。混乱のさなか、マスコミから家族に伝わるという最悪のケースは避けなければならない。協議を繰り返した結果、パキスタン時間の15時、つまり日本時間の19時までに2人を確認できなければ、まず大学側から家族に一報を入れようということになりました。マスコミへの発表はその後ということに。ただ、大学の広報はメディアからは『いつコメントは出せるのか』、『いつ帰国するのか』という問い合わせが殺到する裏で、こちらとのやりとりも行うという本当に大変な状況だったようです」(出利葉隊長)
「遭難の可能性あり」と判断を下すまで、残り3時間となる現地時間の12時になっても2人は戻らない。出利葉隊長は、パキスタン軍にヘリコプターの出動を要請した。午後に要請すると、手続き上ヘリコプターの現地到着が2日後になってしまうからだ。翌日にヘリコプターを現地に入れるためには、昼までに当局に出動要請を行う必要があったのだ。
 午後になっても2人の姿は見えない。焦燥の色が濃くなっていくBC。そんな午後12時30分、BCの無線機が鳴った。「いまC3に戻りました。2人とも元気です!」との小松隊員の声が無線機に流れ出した。登頂時をも凌駕する歓声がBCを包んだ。誰もが声にならない声を上げ、ボロボロと歓喜の涙を流していた。







 その数時間前、小松隊員はほほに強烈な光を感じて、目を開けた。時計は午前6時を指していた。眼下に雲の海が広がり、彼方から昇る太陽は見たことがないほど美しかった。
「まるで『生きなさい』と言われているかのような美しさでした」(小松隊員)
 1時間ほど日の光を浴びて体を温めた後、2人は再び下降を始めた。BCが心配しているだろうことは痛いほど想像できたが、無線はつながらない。仕方なくそのまま下降を続ける2人だったが、眠気は去ったものの今度は襲い来る落石の恐怖との闘いとなった。
「ロープにぶら下がっていて避けようのない状態で、1メートルクラスの落石がすごいスピードで体のすぐ横を通過し、奈落へと落ちていく。しかも、岩肌でこすれたのか、焦げたような匂いまで漂ってくる。当たらなかったのは、本当に幸運でした」(青木隊員)
 8200mという高所で無酸素状態でのビバークを経て、体力を使い切った2人がC3に戻ったのは午後12時30分。C3の緑色のテントが見えたときには、前日の未明に出発したとは思えないほど、時間が経過しているように感じたという。BCに無事を伝える無線を入れ、凍傷のチェック、水分などの栄養補給をすると2人は体を横たえた。疲労の極限にあった2人は、その日は体力回復のためC3にて一晩を過ごすことにした。そしてその日の午後と夜の2回、“訪問客”があったという。
「テントの中で休んでいると、下の方からザクッザクッという足音が近づいてきて、テントの近くで何やら話している。そのときは疲れていて外を覗く気にもなれませんでしたが、あとで外に出ても、足跡ひとつないんです。最初は自分の聞き違いかとも思ったんですが、青木に確認しても同じタイミングで同じ声を聞いている。正直ゾッとしました」(小松隊員)
 東海大学K2登山隊がC3を設営した近くには、雪に埋もれたテントに過去の遭難者の遺体が何体も眠っているという。
第十一章 精霊の訪問 「ボクも男性の声と足音は、はっきり聞きました。ただ、小松さんと違って怖いという感覚はありませんでしたね。むしろ伝説のクライマーがK2の精霊となって会いに来てくれたのかもしれないと、うれしさすら感じました。後で、出利葉さんには『幻聴じゃないのか?』と笑い飛ばされましたが、確かにそこにいたんです」(青木隊員)
“精霊”に触れた2人は、その晩泥のように眠った。そして翌日早朝、登山隊のメンバーが待つBCへ向けて出発した。



8月3日の早朝にC3を出た2人がBCへ戻ることができたのは、4日の深夜0時を回った頃だった。遠くに見えるBCのテントの外にヘッドランプの光がちらちらと見えた。隊員が出迎えてくれていたのだ。「やっと帰ってきた」という思いで近づくほどに早足になる。
 BCで爆発する歓喜、そして嵐のような抱擁と握手が2人を待っていた。
「BCで調理を担当してくれた現地のコックさんに至っては、2人の肩を抱きながら『ウワァーン』と声を上げての号泣とともに迎えてくれたんです。何も言わず、骨が折れそうなほど強く手をギュッと握りしめてくれた隊員もいれば、ひたすら『よかった』を繰り返す人もいた。表現は違うものの、誰もが万感の思いで出迎えてくれたのを痛感しました。同時に仲間って本当に温かい存在なんだと、ありがたさと申し訳なさで改めて胸が熱くなりました」(小松隊員)
「振り返ってみればたった数日でしたが、すごく久しぶりに小松さん以外の人の声を聞いたような気がして、『やっと生死の狭間から帰ってきたんだ』という安心感でいっぱいでした。みんなと抱き合って、握手して、笑い合った。頂上よりも素晴らしい場所があることを知った瞬間でした」(青木隊員)
 それから数日間は、休養に充てられた。PCを使ってのHPの更新作業は急ピッチで進められた。食堂テントではDVDで映画を見たり、小松は持ち込んだデジタル音楽プレーヤーで好きなエンヤを愉しんだりもした。
「それらすべての電源の源はすべて『EU9i』でした。以前のクーラカンリのときもそうでしたが、現代の登山において電源はすべての根幹です。アタック日の選定ひとつとっても、学内の総力を結集して得た情報を衛星回線で手に入れられるから、風のない日を選んでアタックできた。8200mでのビバークやC3から無事帰還できたのも、天候のよさに救われたという面もある。他にも、アタック前後に彼らが口にした堅いパウンドケーキは、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん率いるミウラ・ドルフィンズから差し入れていただいた手作りのもの。ナッツ類や香辛料も豊富でカロリー補給という面からも本当に助けられました。他にも、各方面から様々なサポートをいただいたからこそ、K2登頂をなしえることができた。隊員として名を連ねた者だけでなく誰ひとり、持って行った何ひとつ欠けても、今回のK2登頂はなしえなかったはずです」(出利葉隊長)
 2006年の東海大学K2登山隊の挑戦は、記録ずくめの偉業となった。そしてその偉業は、チームを中心とした、そこに関わるすべてのものの偉業でもある。

【放射能警報】 恐ろしい事実。。。。これを日本にやらせているのは、アメリカです。東海地方が3月7日より、 トリチウム汚染地域になります!

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1945年3月10日の東京大空襲から72年。38万発の爆弾で東京は火の海と化した。当日の天気図を見ると冬型の気圧配置が強まり、東京では北西の季節風が吹き荒れていた。米軍は火災が広がりやすい気象条件を予測し、空襲を決定したと言われる。

東京空襲へのレクイエム(鎮魂歌) 2017年03月10日 19:03
東京空襲について。
カダフィ大統領が国連での演説で、国連創設後に国連保障理事会国の利害関係で引き起こされた65回のもの戦争を再調査するよう要請していた。そのうちのベトナム戦争では12日間で、4年間続いた第二次世界対戦以上の爆弾が落とされた。(65回の戦争はその後、エジプトのスエズ運河戦争、パナマ戦争、グレナダ・・・と続いた)。そしてそれらに対して賠償金を請求。東京空襲は戦前だが、時が来たら再調査、さらに上訴がなされるべき。亡くなった方々の霊を鎮める為にも必要。(それには、広島、長崎・・・・と多く続ずく)



周りに気付かれない様に静かに進められ、県内外、地元ですら認知度が異常に低い。今になって、放射性物質の安全管理などに不安を抱く母親たちからの反対が強まっている。こんなにたくさんの配管が有るので、その一つ一つが少しでもおかしくなれば、もんじゅ以上の大事故を起こす可能性もある。

福島原発の廃炉、もんじゅの廃炉も計画が立たないのに、また危険な実験を始めたとは。

ここでは、放射性物質トリチウムが、1回で4億2920万ベクレルも発生。もし、万が一、地震や火災などが起きたらどうなるのか。



※放射性物質トリチウムの処理方法が7頁めに記載されていますが、トリチウムを含んだ水の回収方法は、日本アイソトープ協会がこの水を回収し、茨城県まで運び、人体に影響のない低い濃度のものだから、そのまま海に流すという。

・核融合は原発のような核分裂の10倍以上のエネルギーを発生する。よって発散される放射性物質も10倍。理屈では一旦事故が起こればフクイチの10倍以上の放射能被害を周辺に及ぼすという事になる。土岐市は日本のほぼ中央。日本人は一致団結してこの研究を阻止すべきです。



・素粒子物理でノーベル化学賞受賞の小柴教授が十数年前に、その誘致の無意味と危険性を指摘した。



・カナダ~「ピッカリング重水原子炉」周辺ではトリチウムを年間2,500兆bq(ベクレル)放出していますが、周辺の都市では80%増ものダウン症候群の赤ん坊の出産がはやっています。

また中枢神経系統に異状のある赤ん坊の出産も明らかにされています(カナダ原子力委員会報告)



・巨額を投じた施設から、高奇形率を誘発する物質が大気に! 高速中性子の発生は、実験棟容器を猛烈に損傷する。 しかも、ここで出た廃棄水素をわざわざ千葉県内迄、陸送! 夢のエネルギーなどになるわけない。まさに危険きわまりない実験です!!

万が一、茨城まで高速道路などの陸送の途中で交通事故などが起きたらば、恐ろしいことこのうえない。



・名目上は「発電」だが、原理が同じなので「水爆」に転用可能。最近、岐阜で微動地震が観測されていますが、濃尾地震の再来かもとも言われています。プラントの写真を見ると耐震設計がかなり甘いので心配ですね。


・1985年の御巣鷹日航機123便 は、米空軍の小型空対空中性子爆弾で撃墜させられたという噂も? 中性子がどんどん出てくる核融合は、 目に見えず計測が難しい中性子による核転換。



ジムストーンの記事の要旨

日本はイスラエルの敵であるイランにウラン濃縮を申し出た
ただちにイスラエルはセキュリティ会社の偽装をつくり、日本の原発との契約を取り付けた
MAGNA BSPと呼ばれる監視カメラを偽装した核爆弾を原発に設置
4ヵ月後Dimona Dozenが福島原発の心臓部に無制限にアクセスできることを証明
原発の機材にウィルス感染させて無制限にリモートアクセス可能な状態にした
Stuxnetと核を仕込んだあと
イスラエルは津波爆弾を隠すことができる自然災害が発生するのを待っていた
海中の爆弾をVLF通信で爆破
津波が原発に押し寄せたときに発電機を止める、操作員には正常に見えるように制御
イスラエル首相がイランを助けたお返しだと日本の首相に電話
日本沿岸に5つ以上の核爆弾を設置したことを告げる
福島第一を爆破することを告げる
原発のバルブをすべて閉鎖して、原発をメルトダウンさせる
操作員には正常に見えるように操作、メルトダウン後に3号機の核爆弾を爆破
この話の顛末ががウィキリークスで見つかった。

スターライトのブログ さんより

岐阜が危ない!シェア・拡散 よろしくお願いします
http://ameblo.jp/moonpin/entry-12248517592.html

<一部引用>

恐ろしい事実。。。。

それは
3/7より岐阜県の土岐市
核融合実験が開始されるとのこと




これによって土は汚染されて
水源にもあたるので
水も汚染される

こんな身近なところでの実験。。。
ホントに怖くてたまらない

もし万が一のことが起きれば
わたしの住んでるところは
もちろんのこと
もはや日本には住めないと
思ってます。。。

東北の震災をみてる限り
国から何の補償もありません

今できることは
声をあげ行動にうつすこと!!
1人でも多くの人に知ってもらうこと!!

もう起きないでしょ~
たぶん大丈夫でしょ~
じゃなくて
起きてからでは遅いんです!!


岐阜だけの問題ではなく
東海地方だけの問題でもなく
日本全体の問題です!!!!!!


今できること

市民東海地方が福島の二の舞になるかもしれません。

土岐市の核融合科学研究所の核融合の実験が
3/7〜7/7の4ヶ月間もの火曜〜金曜の9〜18:00、
15分おきにあり、
発ガン性の高いトリチウムが出るそうです。


①実験により放射性物質のトリチウムが
大気に放出されます。
拡散され薄まると言っていますが、
雨や雪が降ったら地上に落ちてきますよね。

②最初土岐川に流すと言っていたトリチウム水は
アイソトープという回収業者に引き取ってもらうそうです。
しかし、その回収業者はどこを通ってどこに保管するのか?
途中で事故や災害にあったらどうするのか?


③実験施設のコンクリート壁は
放射能により傷が付き、
放射能を含んでしまい、
その壁を一ヶ月に一回換えるそうです。

同じくそのがれきはどの様な経路でどこに保管されるのでしょうか。


<引用終わり>
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岐阜県土岐市のトリチウムと重水素の実験は
核ミサイルのブースティング機能の研究か?
http://ameblo.jp/64152966/entry-11459078172.html

核融合「D-D実験」では、
中性子線 と トリチウム (弱いベータ線を出す放射性物質)が発生する。

色々とこの実験の意義を講釈していますが、あくまでも建前論。
早い話、トリチウムが大量に欲しいのでしょう。
このトリチウムを水爆に使うと、その爆発力は、
原爆の何千倍もの破壊力をもった爆弾 になるそうです。

それによって、核ミサイルもより小型化出来ますし、
機動性に優れ、すさまじく高性能の核ミサイルシステムを構築出来る訳です。

トリチウムと重水素を添加すれば、水爆は飛躍的に爆発力が上がる。
これをブースティング機能 といいます。
現在のアメリカの核ミサイルには、
ほとんど全て、このブースティング機能がついています。
同時に、今や、核技術最先端開発競争の最重要アイテムになっています。

聡明な皆さんには、もうお分かりでしょう。
これを日本にやらせているのは、アメリカです。

岐阜県土岐市で生産されたトリチウムは、
千葉県柏市に集積されるそうです。
集積地の千葉から、米軍基地に送られる可能性が大です。
空路だと、大方、横田軍用飛行場か厚木米海軍飛行場でしょう。
海路で運ぶなら、横須賀米海軍基地から搬送されることになります。

行き先は、無論、アメリカ軍事基地です。
大体、日本は米軍の為の核ミサイル用プルトニュウム製造工場と云われています。
原発の近くには、必ず、米軍基地があるでしょ。

核爆弾の原料も、そして、ブースティング機能のトリチウムも
日本が米国に作るように命令されてやらされているのは明白です。
難しい学術専門用語ばかりに、目を奪われていては駄目です。
真相は、到ってシンプルです。



DNA の中に入ると危険
http://tabemono.info/report/former/genpatu5.html

トリチウムは、弱いベータ線を出します。
このベータ線は細胞内では1ミクロン(1000分の1mm)ぐらいしか飛ばないので、
血液として全身をめぐっている間は、遺伝子DNA をほとんど攻撃しません。
ところが、トリチウムが細胞に取り込まれ、 さらに核の中に入るとDNA までの
距離が近くなるので、 ここからは、放射性セシウムや放射性ストロンチウムと
同じようにDNA を攻撃するようになります。

トリチウムには、この先があります。

化学的性質が水素と同じなので、水素と入れ替わることができるのです。
DNAの構造には、水素がたくさん入っていて、トリチウムがここに入っても、
DNAは正常に作用します。

問題は、放射線を出したときで、トリチウムはヘリウムに変わります。
そうなると、放射線で遺伝子を傷つけるのに加えて、ヘリウムに変わった部分の
DNA が壊れて、遺伝子が「故障」することになります。

この故障がリスクに加わるので、トリチウムはガン発生確率が高くなるのです。
遺伝子が故障した細胞は生き残りやすいので、ガン発生率が高いとも考えています。

そのことを裏付けるような訴訟がアメリカで起きています。
シカゴ郊外で100 人以上の 赤ちゃんや子どもがガンにかかった(先月号p6)のは、
事故を起こした原発から放射能が出たことが原因ではありません。

正常に運転されている原発から出ているトリチウムが、飲み水を汚染し、
放射能の影響を受けやすい赤ちゃんや子どもにガンを発生させたとして、
訴訟が起きているのです。



■ 子供達の命を奪ったのは誰?
http://www.sting-wl.com/yagasakikatsuma11.html

2011年12月28日に放送されたNHKの報道ドキメンタリー番組
『追跡!真相ファイル』
の「低線量被ばく 揺らぐ国際基準」の中から
トリチウム が取り上げられた部分だけを一部引用します。
以下が一部引用です。

世界一の原発大国、アメリカ。
ここでは、より影響を受けやすい子供達に深刻な問題が起きていました。
イリノイ州シカゴ郊外。

周辺に3つの原発が集中しています。
原発から排出される汚水には放射性トリチウムが含まれていますが、
アメリカ政府は国際基準以下なので影響はないとしてきました。





しかし近くの街では、子供達が癌などの難病で亡くなっていました。
6年前に建てられた慰霊碑。

足元のレンガには、これまでに亡くなった100人の名前が刻まれています。

これが亡くなった息子の写真です。
この痛みは誰にも伝えずに抱えてきました。

住民を代表し、被害を訴えている親子がいます。
シンシア・ソウヤーさんと、その娘セーラさんです。
セーラさんは10年前…突然、脳腫瘍を患いました。
治療の後遺症で18歳になった今も、身長は140センチほどしかありません。


セーラさん
「みんな死んでしまったのに、
私だけが生きていて悲しいです」




セーラさんが脳腫瘍になったのは、この街に引っ越してきて4年目の事でした。
シンシア・ソウヤーさん「セーラはあの井戸の水をまいて遊び食事をしていたんです。
病気になってからは、シカゴから水を取り寄せるようになりました。
怖かったので、その水で料理をし、皿を洗い、歯を磨かせていました」

ソウヤーさん夫妻は、癌と原発との関係を証明するため
州政府からあるデータを取り寄せました。
過去20年間、全住民1200万人がどんな病気にかかったかを記した記録です。
小児科医の夫、ジョセフさんが分析したところ。

原発周辺の地域だけが
脳腫瘍や白血病が30%以上も増加。

中でも小児がんはおよそ2倍に増えていました。
ソウヤーさん夫妻は全住民の徹底した健康調査を国に求めました。

しかし国は「井戸水による被ばく量は年間1マイクロシーベルトと微量で、
健康を脅かすことはない」と、回答してきました。

シンシア・ソウヤーさん「あまりに多くのものがセーラから奪われてしまいました。
低線量の被ばくが何をもたらすのか知ってほしいのです」

治療の後遺症で右手が麻痺し、今も思うように動かすことができません。
被ばくから健康を守るための基準があるのに、
自分のような被害が後を絶たない事にやりきれない思いを感じています。

セーラさん
「科学者には、私たちが単なる統計の数値でないことを知ってほしい。
私たちは生きています。空気と水をきれいにしてください。
たくさんの苦しみを味わいました。誰にも同じ思いをしてほしくはありません」






試運転中の六ヶ所再処理工場で大量のトリチウムを放出している
というけど、試運転って一体何をやっているのか、本当のところは
国民に知らされません。

なのに、
岐阜で生産して大量排出したらどうなるの!?

六ヶ所再処理工場の青森は一体どうなったか!?


都道府県別ガン発生率
http://ameblo.jp/64152966/entry-12091311616.html

国立がん研究センターによると、2014年の都道府県別のがん死亡率
(人口10万人あたり何人ががんで死亡したか)で最も高かったのは
青森県で、2004年から 11年連続でのワースト となりました。




【死せる水トリチウム】
三重水素の恐怖の正体とは?矢ヶ崎克馬教授
http://www.sting-wl.com/yagasakikatsuma11.html

<概略>

トリチウムの放射線のエネルギーは小さいですが、しかし、
エネルギーの高いベータ線より相互作用が強く、
電離の密度が10倍ほどにもなります。

電離とは分子切断のことで、DNA~遺伝子を構成するタンパク質の
分子を破壊することを意味します。
その力が、他のベータ線よりも10倍強い訳です。

トリチウムは空気中の水蒸気、又は降雨、海水に溶け込んでおり、
水道から、呼吸から、海産物から摂取され、体内が被曝するのです。

その放射線量は、プルトニウム、ストロンチウム、ウランよりは
少ないのかもしれませんが、身体は「水」と判断し、対外に排出されず、
細胞内にまで入り込みDNAを破壊します。







<転載終了>

ジミン党偽政権はここまでのあらゆる事実を大々的に公表し、日本国民に突きつけたら、 それでも尚、安倍内閣を支持する国民は果たして存在するのでしょうか???

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[愛国心を詐称して公共をワタクシ、巨額のゼネコン還流マネーを受ける]ジミン党のような枠組みは最低最悪。

戦後70年、巨額の海外投資、ODA、円借款などなど、すべからく還流マネーとセット。

早い話、特別会計から出て、特別会計に戻るカネの一部が中抜きされて、国家資産が目減りするだけの話。



それがジミン党を潤し、潤沢な資金に引き寄せられた自称愛国者がサイコパスのコロニーをつくった。

日本会議もそのひとつ。

だが、もっとえげつない公共資金の環流が日常的に(予算連動)で動いてナンボの中央集権。

天下り根絶が不可能なのは、現金で裏金を貰えない役人に決められた配当を支払うためのである。

ま、原発についても再稼働ありきなのは同じ理由。


今はこんな世の中。

何でもあり。

巨人が国会に現れて犯罪議員をメッタ切りにしても不思議ではない。

海外の原子力発電プラントを経由して濃縮ウランを生産するにも、ウェスティングハウスの子会社の原発建設会社S&Wは、直近で5基の原発プラントを稼働する予定だが、、冒頭の三菱重工社の訴訟問題を受けて、事故後のリスクを負うS&Wは、訴訟を起こして、その責任を親会社のウェスティングハウスが負うべきと勝訴した。



この事態を受けて、東芝は完全に行き詰まった。



この事態を乗り越えるには、日本の原発が濃縮ウランの製造プラントであることを公表するしかないだろう。



トランプ大統領の登場によって、グローバリズムからナショナリズムへの政治転換が行われている中で、過去の政治的背景を一切無視するトランプは、日本の原発での濃縮ウラン生産を隠すことはないだろう。

だから、昨年末に、安部はあわててトランプに会いにいったのだ。

過去の自民党の嘘まみれの政治が明るみになるのを恐れたのだ。



〈引用終わり〉



ジミン党偽政権は核の平和利用、発電事業で突っ張り通してきた。

しかし、実態は誰が見ても核兵器原料の製造。


「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」

これによって何が起きるかというと・・・
返済不可能な日本国の借金が、更に、天文学的に膨らむことを意味します。
その先に待っているのは、自己破産ならぬ日本国破産です。

国家財政破綻まで秒読みに入ったのだと・・・
しかも、安倍政権はそれを阻止するどころか後押ししているのだそうです。
当然でしょう。
日銀総裁も日本国総理も、世界金融資本の代理人なのですから。

政府の日銀出資金は55%。
残りの大部分は、世界金融資本。

国家財政破綻までいくと、日銀は大変な批判に見舞われることになります。
政府の日銀出資金は没収され、完全に世界金融資本の私物化された日銀になります。

つまり、破産した日本国の債権を一手に所有するのは、
ロスチャイルドを筆頭にした世界金融資本ということになります。
早い話、日本国は世界金融資本の管理下に落ちることになる訳です。
無論、日本の主要インフラのほとんども彼らのものになります。

この計画が、今現在、進行中です。
問題は、その時期が・・いつになるかだけの話です。





フクイチ直撃 縦揺れ 震度5弱 M5.6
 放射能飛散に警戒を! 測定器を持ってる人は開始を

昨日の福島第一原発から35KmのM5.6 フクイチで震度5強(のはず)地震で飛散した放射性物質が、そろそろ関東全域で検出できる頃です
手持ちの線量計で分かるレベルに達するかは分かりませんが、測定は必要、1時間ごとに10分間の平均線量を記録しましょう
10分の標準偏差内を使う

原発がミシッと事故を起こせばミサイルなんて目じゃない被害。

わざわざ戦争を起こすまでもなく日本壊滅は簡単。



1号機・2号機・3号機 のデブリが、もし、地下で合流して合体することに
なったら、恐ろしい未来が見えます。

① 1号機と2号機のデブリが合体。
② 2号機と3号機のデブリが合体。
③ 1号機・2号機・3号機 の3つのデブリが合体。

これが、私が最も恐れているシナリオです。
その場合には、その影響が地下に、地上に顕著に表れるでしょう。
そこまでの事態になったら、世界に気づかれます。

地下の巨大水源と合流したら、水蒸気爆発から触発性低レベル核爆発が起こり、
それこそ、打ち上げ花火よろしく、膨大な放射能を大気に放出する事態になります。
これは、この原理は、実際に3号機で起こっているので、皆さんの多くが
目にしていると思います。

今は、地下で冷やされながら、核反応と収束を繰り返しています。
なので、予測は極めて困難です。
しかも、巨大水源の前に分厚い岩盤の層が立ちふさがっています。
今は、その岩盤で止まっている可能性があります。
しかし、いつまで持つか誰にも分かりません。

3号機で起こったことが、その何十倍もの規模で、地下で起こるのです。
世界が、それをだまって見過ごすことは決してありません。
世界中が汚染されることになるからです。

考えられるのは・・・
核爆弾を使って、巨大化したデブリを一瞬にして散らすことです。
これによって、日本は終焉を迎えることになりますが、
世界は、被害を最小限に食い止めることが出来ます。

皆さんは、これを絵空事の架空の話だと思っていませんか?
とんでもない話です。


ジョンタイターの日本地図
530sv/時という数値を盗電が出してきても、パニックすら起きないこの国はある意味「神って」ますね。
わざと凍土壁という役に立たない対策を打って、地下水をどんどん流し込み、冷却しても問題はどんどん悪化する一方…やはり、ジョンタイターの日本地図が現実化しそうです。
無理矢理日本を分断するためには、戒厳令を出すぐらいのことはしなければならないでしょうから、そのきっかけ作りに妖怪あべこべは全力をあげてくるでしょう。
それは、半島有事か、日中紛争か、日本の核保有に対しての国連の敵国条項の適応かは分かりませんが…
ジョンタイターの予言に、アメリカが国を二分しての内戦状態になる、というのがありました。そして一方を応援するためにロシアが核ミサイルを使用してWW3が始まるのだということも。トランプ大統領は、99%の被支配層の味方でも、反グローバリズムでもありません。世界を一度二分して、WW3を引き起こし、破壊の後に世界を再構築するエージェントなのでしょう。

福島原発事故はイスラエルのやったこと
安倍政権は支持してませんが、福島原発事故を起こしたのはイスラエルのモサドですよ。検索すればわかります。
アメリカも当然知ってるはずです。

地球規模・世界地図で見れば日本など‥‥ 取るに足らない小さな国。。

原爆投下による事態収拾しかないと各国首脳が判断したら‥‥ 確かに、有り得ないとはいえない‥??。。

そのために、日本国民に諦めてもらうために、ケムトレイルやワクチン害、放射能汚染放置=病人・突然死大量発生中なんですかね。。


地球上のトップが組織的犯罪者集団のボスなのかも知れませんね?
日本国民を虐待したい?滅びた国の王族達の吹き溜まりのような国に成ってしまったのかも知れませんね?

日本国のトップが地産地消の日本国民では無い悲劇なのでshowか?

WiFiは、特に若い女の子の卵巣にダメージを与える可能性があり、

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WiFi機器からの周波数による歯に充填されたアマルガムからの水銀流出について

歯の治療に使われるアマルガムには、
約50%水銀が含まれています。

アマルガム自体が人体に有害とされ、
すでに使用禁止の国も多くなってきました。

アマルガムの充填物からは、ごく微量の水銀が口腔内に溶け出し、
毎日それを体内に吸収しています。

水銀の身体に対する影響は
多くの研究で明らかにされています。


今回の実験では
口腔内の環境に近いように
アマルガムを37℃に加温した生理食塩水の中に入れて
実験しています。

その結果、
WiFiは、アマルガムからの水銀が溶け出すのを明確に増幅することがわかりました。


これは小さなことかもしれません。

でも
重金属は極微量でも生体内に大きな影響を及ぼす場合があることが
最近理解され始めています。




WiFi
いまや誰もが利用する便利なものですが、
その一方で
WiFiには、有害性があることは誰もが知っていること。

研究報告が多くなるにつれて、
WiFiは、従来考えられているよりも、
はるかに有害である可能性が高いことがわかってきました。


英国の科学者で元英国軍でマイクロ波電波を使った兵器の専門家は、
「若い人が低レベルのマイクロ波を長時間曝露すると将来遺伝子障害を起こす可能性がある。
驚くことに、
冷戦時の兵器とまったく同じ出力と周波数のものが学校のWiFiで使われている。
WiFiは、特に若い女の子の卵巣にダメージを与える可能性があり、
そのため、次世代にまで影響を与え、未来にリスクをもたらすでしょう。」
と警告しています。

もう止められないグローバルワクチンマネーの実態

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海外のワクチンマネー状況を見れば一目瞭然です。これだけ効かないインフルエンザワクチンでも、米国の2016ー2017年のワクチン投薬見込み数は昨年より約3000万回を上回る1億7000万回!と言われています。

ワクチン製造業者は、2017年は約40億ドル(4000億円以上!)のインフルエンザワクチン市場になっています。

ワクチン製造メーカーの最大手である米国サノフィパスツール社は、6,500万回以上の投薬量を供給しており、オーストラリアのCSL社は5,400万回までの投薬量、グラクソ・スミスクライン社(GlaxoSmithKline)が、最大3,800万回投与となっています。

日本ではこれらの外資メーカーのワクチン輸入が60%くらいで、国内産が40%ほどです。国内産のワクチンメーカーですと代表的な会社がアステラス製薬、田辺三菱製薬、武田薬品工業などがあげられます。毎年、およそ100億~300億円規模のワクチン売上が期待されています。

よく、医者は予防接種でボロ儲けのイメージが強いですが、実は医者はそれ程儲かるわけではなく、一番儲かるのは、国内外のワクチン製造メーカーなんですね。これはもう止められるわけがない‥。

インフルエンザによる重症化などというのは、予防接種は関係なく老人(あるいは乳幼児)のように自分の免疫力が弱い時に重篤化するのです。それはワクチン接種した場合も一緒で、副作用で重篤化して死亡するのも免疫力のない老人(あるいは乳幼児)が多いのです。

ですので、予防接種を当たり前のように行っている人たちは、全くもって無意味な行為なのですが、、それは絶対に認めてはならない、正当化してはならない世の中の仕組みとなっているのですね。

恐ろしい異物のワクチンを体内に入れるより、インフルエンザをものともしない強靭な肉体、免疫力を身につける食事や体作り、健康生活を送ることがどれだけ当たり前に必要なことか。

こんなお粗末すぎる真実を知る人が増えない限り、“世界の予防接種当たり前システム” が、世の中の主流になり続けるのです。

竹内洋岳 田辺治 

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田辺 治は、日本の登山家。元日本ヒマラヤ協会理事。元日本山岳会東海支部長。 ウィキペディア
生年月日: 1961年1月4日
生まれ: 愛知県 名古屋市
死没: 2010年9月28日
 JAC東海支部でローツェ南壁を初登攀した田辺治さんがダウラギリで雪崩に遭った、との報道に驚く。これまで困難な登攀を危なげなくパスしてきたアルピニストだけになぜ?と思う。
 雪崩に遭ってもしばらくは生きているものらしい。しかし高度が高いだけにわずかな呼吸困難でも窒息するかもしれない。場所が場所だけに救助活動も思うに任せないだろう。
 奇跡を信じたい。いやーご心配をおかけしました、と帰ってきて欲しい。関係者のみなさんがそう思っている。何も協力できないが祈るしかない。

東京新聞からコピー

ヒマラヤ遭難、現地と捜索協議 登山家3人の家族や協会
2010年9月30日 12時55分

 ネパール・ヒマラヤの高峰ダウラギリ(8167メートル)で雪崩に巻き込まれた日本人登山家3人が行方不明になった山岳遭難で、パーティーの隊長を務める名古屋市中区の田辺治さん(49)が所属する日本プロガイド協会(愛知県刈谷市)や家族は29日夜から30日にかけ、今後の捜索活動について現地と連絡を取り合うなど対応に追われた。

 同協会によると、自力で脱出し無事だった兵庫県芦屋市の島田和昭さん(37)がベースキャンプに滞在。同協会は島田さんと協議し、捜索活動などについてネパール当局と検討する。

 協会事務所がある登山用品店「穂高」には、行方不明になっている長野県白馬村の本田大輔さん(32)の両親らが集まり、現地からの情報を待った。島田さんから29日夜、衛星電話で「自分は無事。田辺さんたちの捜索に加わる」と連絡があったという。



厳冬期、困難なルートを選びながらも「人を死なさない隊長」として知られていたが、ダウラギリのノーマルルートの下部キャンプ移動中に雪崩の直撃を受けて遭難。 遺体は未だに発見されていない。

全14座制覇の竹内洋岳氏が薫陶を受けた先輩。

竹内さんが初めて登頂した8000m峰は1995年、マカルー北東稜西稜初登攀でしたが、当時中堅登山家だった田辺治さんもその登山隊の隊員でした。竹内さんにとって田辺さんはヒマラヤの先輩に当たる人です。






人類が作った処理することのできない猛毒「PCB」は、国土を汚染し、人体を蝕んでいます!!

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猛毒「 PCB」が、密かに不法投棄されている!!

地震でも起こって、トランスが落下し破壊すれば「PCB」が大気に放出されてしまい第二次被害が発生します!!



 現在、日本列島には「電力会社」が野積みしているPCB入りトランスが約900万台もあり、放置期間の長いトランスからは「PCB」が、大地に流れ出していますが電力会社は知らん顔しています。

管理者が、知らないで「PCB」が漏れていれば過失であるが、わざと漏らしているのは「犯罪」である。

20年も野積みしていれば、容器は鋳物ですから錆びて破損し中の「PCB」は容器から流出して大地に吸い込まれてしまい地下水と交わり、地下水を汚染して水源地に混入して、人々の体内に入り癌などの病気を引き起こしてしまいます。

 そして、保管してあるPCBの20%が毎年、闇に消えているのです・・・!!

また3.11では、大量のPCBが流されて大地を汚染していますが、「電力会社」や「行政」は知らん顔しています!!





PCBの毒性について
脂肪に溶けやすいという性質から、慢性的な摂取により体内に徐々に蓄積し、様々な症状を引き起こすことが報告されています。


PCBが大きくとりあげられる契機となった事件として、カネミ油症事件があります。この事件は、米ぬか油(ライスオイル)中に、脱臭工程の熱媒体として用いられたPCB等が混入したことが原因で、昭和43年10月、西日本を中心に広域にわたって、米ぬか油による食中毒が発生しました。当時の患者数は約1万3千名に上ったと言われています。
一般にPCBによる中毒症状として、目やに、爪や口腔粘膜の色素沈着などから始まり、ついで、座瘡様皮疹(塩素ニキビ)、爪の変形、まぶたや関節のはれなどが報告されています。



PCBとダイオキシンについて
ダイオキシン類の主な発生源は、ごみ焼却などの燃焼によって発生することが一般に知られていますが、その他製鋼用電気炉、たばこの煙、自動車の排気ガスなど様々な発生源があり、いずれも意図的に製造したものではなく、非意図的に生成されたといえます。 一方、コプラナーPCBが環境中に存在している要因としては、ごみ焼却によって発生することが判明しているほか、トランス、コンデンサ等の紛失・不明による機器内に含有していたPCBの流出が指摘されています。

日本の要所に「核」を仕掛けておいて、「占領」を続けるアメリカは、

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 日本の「政治経済」を取り仕切っており、日本には何の「拒否権」もないと承知しているのに世界に向けては「日本が第一の標的」などと公言する・・・!!

 内閣改造をして、人選するときには候補者名簿を「ワシントンDC」に送り決済を仰いで決済が下りた後、内閣改造を発表するのです。

そして、国民は戦場に駆り出されるのです!!

 アメリカにとって、日本国民は「消耗品」と成り果てているのです!!

 国防で、侵略者と闘わずに他国を攻めるとは異な!!

上院の公聴会で、

「米国の農産物輸出を増やす市場として、日本は第一のターゲットになる」

とかたり、日本側に市場開放を促す意向を示した。

 劇薬を使用したり、遺伝子操作作物が氾濫するアメリカの「農作物」を引き受ける国が少ないために日本に買わせようという魂胆なのだ!!

このうえアメリカの「劇毒農産物」を、日本の家庭の食卓に乗せてしまうと日本人は健康を害して「病人」ばかりに成ってしまうというのに・・・・。

 アメリカは、徹底して日本人を苛み「富」を奪い去るつもりなのだ!‼

 これに反対する安倍晋三を失脚させて、アホの麻生太郎に総理大臣をすげ変えてしまいアメリカのやりたい放題にしようというのだ!!

正常な国体を取り戻し、日本国民が「安心」して、「安全」で、「豊」に暮らすためには国内から「侵略者」と「不穏分子」を放逐しなければ、この日本国という国家に明日はない!!

 國とは、「土地」と「民」を戈で守るという事であるが、國は「土地」と「民」を守ってはいない!!

 泥沼化する自由民主党は、「売国奴」だが、選んだのは国民であるから、ややこしい!!

スーパークライマーを目指せ  ウーリー・ステック 「スイスマシーン」

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ウーリー・ステック(Ueli Steck、1976年10月4日 - )は、スイスの登山家。
アルプス三大北壁の最速登頂記録を持つ[1]。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から、「スイスマシーン」の異名をとる。名前はウエリ・シュテックと表記されることもある。

主な登頂記録[編集]
2001年 プモリ西壁初登頂
アイガー北壁"The Young Spider"初登頂
2006年 ガッシャーブルムII峰北壁初登頂
2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録・2時間47分33秒
グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録・2時間21分
2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録・1時間56分
2011年 シシャパンマ南西壁ソロ 10時間30分
2013年 アンナプルナ南壁ソロ
2015年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録更新・2時間22分50秒[2][3]



2008年2月13日、ほとんどのクライマーがチームを組んで、二日はかけて登頂するアイガー北壁(高さ1800m)に、単独、命綱無しで、わずか2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂した。
2008年5月、アンナプルナを登山中にスペイン人登山家イニャキ・オチョア・デ・オルサ隊の遭難事故が発生した際には、自らのチャレンジを捨て遭難現場に急行。二人のうち一人は救助の甲斐なく死亡したものの、ウーリーの迅速な対応により一名は生還を果たした[4]。この救出活動は後に映画化され、日本でも2014年9月に公開された(「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」)[5]。この活躍が評価され、チームメイトのシモン・アンターマッテンとともに「プリ・クラージュ(Prix Courage)賞」を受賞した。
2012年5月にはエベレストの無酸素登頂に挑戦。登頂予定日には異常高温によるルート崩壊で待機していた登山家の大渋滞に巻き込まれ、デスゾーンで予定外の待機を余儀なくされるアクシデントが発生。同行のシェルパが力尽き撤退する状況の中、ウーリーは登頂に成功して生還を果たした[6]。
2013年4月、エベレストでシモーネ・モロ、ジョナサン・グリフィスと共にシェルパと乱闘事件を起こし、登頂を中止し下山することになった[7]。



トレイルランニング、スカイランニング、あるいはマウンテンランニング。いや、この際呼び名はどうでもいい。山という舞台におけるスピード志向の人たちのあいだで、全世界的にその名を轟かせる人物がいる。



 ウーリー・ステック、39歳(写真=永易量行)。
 あえて肩書を記すならば、ウーリー自身は自らを「アルピニスト」と名乗っている。そしてアルピニズムの世界では当代最強の人物と目されている。だが、そのスタイルは20世紀的なアルピニズムからするとかなりの「異端」だ。ウーリーのスタイルはスピード登山などと呼ばれており、例えば……。

 アイガー北壁。標高4000m近くの高所で、標高差は1800m。マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁と並ぶヨーロッパ三大北壁のひとつで、初登攀までに8人もの命を呑みこんだ難関として知られる。1938年に初登攀された際は、都合4人がかりで3日もかかった。それをウーリーは昨年、2時間22分50秒で駆け登った。命綱なしのソロスタイルで。もちろん最速記録である。

 繰り返しになるが、十分な装備を持った登山家がパーティを組み、時間をかけて臨んだとしても、一歩間違えれば命を落とす危険な壁だ。そこをアルパインクライミングの常識からすると圧倒的に少ない装備とウェアで挑む。当然、比類なきテクニックとスピードがなければ成しえない。ピンと来ない人は、Youtubeなどの動画を見てほしい。ウーリーの凄さは、山の素人が見てもすぐ感じ取れる。



 垂直スピードは750m/時を超す。これはトレイルランの登りに遜色のないハイスピード。この速さで、雪と氷に覆われた岩壁を攀じ登るのだ。



「アイガーには今までに40回以上登っています。自分の裏庭のようなもので、遊び場です。昨年の記録達成時は、いちおう記録を狙ってはいましたが、大きなリスクは負わないと決めていましたし、心拍数も最大で165、平均で155ほどでした。しっかり調整して、天候にも恵まれれば、2時間を切れる感覚もあります。
 でも、私は各々の挑戦や達成にランクを付けて、優劣を比べるようなことはしません。例えば去年は他に『82サミッツ』の最短記録を成功させました。これはヨーロッパの4000m峰すべてを、歩き・クライミング・自転車・パラグライダーなど人力移動のみで一筆書きするチャレンジです。このような大きなプロジェクトも、近所のランニングも、そう変わりません。各々で何を感じ、楽しんで、ハッピーになれるかが大事なのです」



「もちろんハードなトレーニングは不可欠です。真剣に準備しますが、どこかでfoolishにもなることが大事です。シリアスになりすぎない、と言えばいいでしょうか。私個人の挑戦が成功しようが失敗に終わろうが、“世界”は変わりませんし、地球は回り続けます。成功しても失敗しても学べることがあります。このような姿勢が困難な挑戦を助けるんです。私は自分の中で一番強いフィジカルパーツは“脳みそ”だと思ってるんですよ(笑)」


 主だった岩壁の初登や名峰のピークはとうの昔に攻め落とされているし、より困難なルート、バリエーションルートからの登攀も、あらかた終わっている。では、現代を生きるクライマーに残された挑戦、冒険は何になるのか。その一つの答えが「スピード」という切り口になるのかもしれない。
 それは、スピーディに山を楽しむアクティビティ=トレイルランニングシーンの盛り上がりとどことなく通じ合うのではないだろうか。実際、ウーリーは2015年にUTMBの姉妹レースのひとつ、OCCの50kmを22位で完走している。欧州のメジャーレース「アイガーウルトラトレイル」ではアンバサダーを務めてもいる。



「トレーニングではトレイルランニングなどの有酸素運動も重視しています。もちろんクライミングスキルを磨くことも重要ですが、近年はランに割く割合を増やしています」と語るが、彼のように「走る」ことを本格的に取り入れているアルピニスト、クライマーは欧米でも少数派だ。でも、それがウーリーのスタイルを支えている。
 そしてあのキリアン・ジョルネとも友人で、モンブランやマッターホルンなどの山に一緒に入る仲だという。

「彼とは気の置けない友人です。麓から一緒に走って、谷を駆け上がり、北壁をクライミングして、また降りてくる、といった遊びをしたりしています。彼にはより優れたランの力があり、私にはより優れたクライミングのスキルがあります。だからお互い刺激し合えますし、年齢は離れていますがシンパシーを感じるんですよ」



ウーリー・ステック
1976年、スイス生まれ。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から”スイスマシーン”の異名をとる。08年にアイガー北壁ソロを2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂し、一躍注目を集める。同年~翌年にかけてヨーロッパ三大北壁すべてでのソロ登攀最速記録を樹立。近年はエベレストやアンナプルナなど高峰でも活躍。14年、ピオレドール受賞。




2017.02.25 焼山登山口⇒蛭ケ岳⇒大倉バス停14:26着

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膝が痛いのと


裏丹沢は凍結の道

蛭⇒塔は田圃道

大倉尾根は足が残っていない



2016
年末現在

 2566塔ノ岳2579

 1381丹沢山1393

 1216蛭ヶ岳1228

  634姫 次645

  157青根159

    6平丸7

  423焼 山429

  419焼山登山口425

  406三ケ木412

  291橋本駅北口291

   37大山38

    3大山三峰4



Gerlinde Kaltenbrunner、女性初の無酸素で8000m峰全山登頂

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オーストリアの Gerlinde Kaltenbrunner が 8月 23日に北陵から K2 に無酸素で登頂し、女性として初めて全ての 8000m峰に無酸素で登頂した女性になりました。彼女は竹内洋岳さんとも過去に何度か登っています。


また、今回は 4人パーティで登っていますが、他の 3名、Vassily Pivtsov、Maxut Zumayev、Darek Zalusk も無酸素での 8000m峰全山登頂を達成しており、これにより 8000m峰全山登頂者は 26名になりました。このうち半分の 13名が無酸素で達成しています。

彼女は K2 へは 4回目のトライとなり、昨年の遠征ではツアーメンバーを亡くしています。ちなみに旦那の Ralf Dujmovits も 8000m峰全山登頂を達成しています。
関連リンク

ゲルリンデ・カルテンブルンナーはオーストリアの登山家。女性として初めて8000メートル峰全14座の無酸素登頂に成功した。酸素ボンベ使用下での8000メートル峰全14座の登頂者としても、2人目の女性登山家となる。名前はガリンダ・カールセンブラウナーと表記されることもある。 ウィキペディア
生年月日: 1970年12月13日 (46歳)
生まれ: オーストリア キルヒドルフ・アン・デア・クレムス

私の敬愛するヒマラヤニスト その1 山田昇氏

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山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。

1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)

1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂

この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀

現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。

私が尊敬するヒマラヤ登山家に山田昇という人がいる。未だにあこがれている。故人となってしまったが。
1989年2月に他の2名の日本人登山家とアラスカのマッキンリーに登山中に遭難、3名とも遺体で収容された。
登頂後の下山中に5200mのデナリ・パス付近で強風で飛ばされて滑落したものと思われる。
その6年前の1983年2月に冒険家・植村直巳さんもここで消息を絶ち、未だに不明のままだ。
北米大陸の最高峰マッキンリーは6000m少しの標高だが、厳冬期になると風速60m/秒を超える強風が吹き、北極に近い高緯度にある事が重なり、
その厳しさが厳冬期エベレストと同等か、それ以上と云われる。日本が世界に誇る冒険家・植村さんと、日本最強の登山家と云われた山田さんが奇しくも
同じ山で帰らぬ人となった。

 「非情の山」ともいわれるK2 青木 達哉 小松 由佳

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 2006年8月1日16時50分。待ちに待ったその瞬間、東海大学K2登山隊ベースキャンプは歓喜と安堵に包まれた。東海大学K2登山隊の小松由佳隊員と青木達哉隊員というアタック隊が、世界の精鋭登山家にもっとも険しいと恐れられるK2の山頂を極めたのだ。
 しかもこの登頂は記録ずくめとなった。小松由佳隊員は「日本人女性初登頂(世界でも8人目)」、21歳10か月の青木達哉隊員は「世界最年少登頂」を成し遂げたのだ。
 登頂に成功したその瞬間を小松由佳隊員はこう振り返る。
「午前2時半にアタックを開始して、膝まで埋まるような雪や難度の高い岩場を超え、半日以上経った頃ようやく他の高みが見えない、ゆるやかな頂が見えてきたんです。それまでいくつかのピークを越えてきましたが、その頂が見えた瞬間、『ここがK2の山頂だ』と確信めいたものがあったんです。そのとき、先を行っていた青木が『先に行ってください』と気遣ってくれたんですが、もうそのまま行かせちゃいました」
 その山頂目前のやりとりを、青木達哉隊員は克明に覚えているという。
「ちょうど山頂まであと数歩――2mくらいのところだったと思います。自分でもどうして『どうぞ』って先に行ってもらおうとしたのかよく思い出せないんです。いろんな山で指導してくれた尊敬する先輩という気持ちがそうさせたんだとは思うんですが、山頂を目の前にしての達成感や、その反面『もう終わっちゃうのか』という寂しさ……。いろんなものがこみ上げてきたんです。ただ先に行ってもらおうと思ったら、『いいよ、行きな』って……。鼻をすするような音が聞こえてきたから、もしかして泣き顔を見られたくないのかなとも思いました」
 山頂に先にたどり着いた青木隊員は、最後の数歩を踏みしめるたび、脳裏にそれまでのことが次から次によぎっていた。現地スタッフや他国の登山隊の顔ぶれが浮かんでは消える。そして最後の一歩を登った瞬間、空と一体になって頭が真っ白になったという。アイスバイルをついて、無線でベースキャンプに連絡を入れた。デジカメで記録写真を撮影した。しかし、その時点で小松隊員は違うことを考えていた。
「私も登頂する瞬間は、サポートしてくれた方々への感謝の気持ちが大きくわき上がりましたね。青木と同じように、走馬燈のようにいろんなことが頭を駆けめぐりました。ただ、登頂前の本当に数秒だったと思います。登頂した実感も正直あまりなかったですね。むしろ『どう降りるか』ということに気を取られていたような気がします」
 山頂にいたのは1時間足らず。既にアタック開始から15時間以上が経過している。酸素の減りは予定よりも早く、下降中に切れそうだった。下山前に頂から下を見たとき、「数千メートルも下にすっぱり切れ落ちた斜面は底のない穴のように見えた」と小松隊員は言う。
 そして登頂報告の無線を最後に2人からベースキャンプへの連絡は途絶えた。




そもそも東海大学の登山隊がK2という山を目指すことになったのは、2006年が同大学の山岳部創部50年という区切りの年だったことも、その理由だった。それまでも、2001年にはクーラカンリ、2004年には中国・カラコンロンと6000~7000mクラスの山へ遠征し、実績を積んでいた。そして満を持して2006年、K2へのアタックとなったのだ。東海大学K2登山隊の出利葉義次隊長は、その経緯をこう語る。
「当初は世界最高峰のエベレストという話も出ていたんです。数字を求めるだけなら世界最高峰を目指すという選択肢もあったかもしれません。ただ、山岳の世界ではもっとも難しい山はK2だと言われている。ならば、登山家として、より高い目標を目指すべきではないかということになったんです」
 だが、決定したあとも不安はよぎる。相手は、世界の精鋭登山家たちが命を落としたK2という最難峰。登頂できるのか、いやそれどころか生きて帰れるのか……。だが、より大きな困難を乗り越えたときほど、達成感や喜びは大きくなる。目標は、登山家なら誰もが憧れるK2に定められた。
「しかし、東海大の山岳部は他の大学の山岳部に比べて歴史も浅い。足りない経験を補うための万全の準備が大前提となります。例えば、登るルートひとつとっても、どんなルートを選ぶか、そのルートは登山隊や隊員のスキルに適したものか……。他にも医療スタッフや通信手段、気象情報の収集手段など、考えるべきことは無限にあります。登山というのは、自然との闘い。強大すぎるほどの相手だからこそ、十分すぎるほど情報を集めなければならない。ベースキャンプという5000mを超える高所での根幹を担うのが発電機。全幅の信頼がおけるものでなければ選ぶことはできません」(出利葉隊長)
 2001年のクーラカンリ登頂以来、東海大学山岳部はHondaポータブル発電機に全幅の信頼を寄せている。文字通り、生死を賭した危険な挑戦だからこそ、Honda『EU9i』は、東海大学K2登山隊のベースキャンプにまで随行する唯一のポータブル発電機となったのだ。 


東海大学山岳部のターゲットはK2に定まった。現役・OB他、登山隊員8名がK2への道を目指すこととなった。そしてK2のような高峰を目指すにあたり、まず初期段階での重要な作業はルートの策定となる。ルート次第で登山の成否は決まると言っても過言ではない。
「ルートは、単に傾斜のきつさだけで決めるのではありません。例えば、他の登山隊が多く登ったルートでは、先行した登山隊が残していったロープをあてにして登ることもあります。しかし時間が経過してゆるんでいたりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることもある。さらに、他の登山隊がすぐ前を先行しているときには、それに伴う落石も考えられる。自分たちが先行している場合には岩を落とさないよう、気を遣わなければならない。比較的登りやすいルートは、他国の隊も集中する。それより、山と隊が真っ向から対峙できるルートを選ぼうということになったんです」(出利葉隊長)
 検討に検討を重ねた結果、出利葉隊長率いる東海大学K2登山隊は南南東から登るルートを選択した。急な岩場や、氷と雪で固く締まった壁に覆われた難ルートである。
「南南東リブから入るルートは、確かに難ルートではあります。しかし、氷雪壁の登はんとなれば、日本の雪山で鍛えられた東海大学登山隊が得意とするところ。もちろんルートを決めた時点では、まだアタック隊はおろか、どんな人選で隊を組むかも決めていませんでした」(同)
 だがその段階でも、やるべきことはいくらでもあった。
「『EU9i』があれば電力は確保できる。となれば、登山に必要な情報テクノロジー用の電源はすべて網羅することができるのはわかっていました。ですから、まず最大限に情報を集め、解析できる体制作りから手をつけることにしたのです。まず、大学内の情報技術センターに支援を依頼し、ヨーロッパの気象衛星METEOSAT5号の衛星画像を加工・補正してもらい、パキスタン北部地域を網羅した衛星画像が送信される体制を整えました。さらに、この衛星画像をもとに、学内の気象学の専門家に予想天気図を作成してもらうことにもなりました」(同)
 すべての電気の源を司る『EU9i』については、2001年のクーラカンリ遠征と同様、オールホンダ販売に依頼し、メインジェットを高地用にチューニングした。電源を要としたハード面、そして日本からの情報支援については目算が立った。だが、出利葉隊長の目の前には問題が山積みとなっていた。

 ハード面では『EU9i』含め、可能な限り最高の準備の目算が立った東海大学K2登山隊だったが、何より最大の問題が控えていた。当然ながら、登山とは人が山を登るもの。だが、肝心の隊員の編成が最大の問題だった。
「大学登山隊は、基本的に現役で山岳部に所属する学生と、OBで編成されることになります。そこで中核となるのは、やはり経験豊富なOB隊員。ただし、ほとんどのOBは企業勤めをする会社員。休みの調整なども必要ですが、家庭や仕事の事情で断念せざるを得ない隊員もいるので、中核を担うOBの存在は本当に貴重なのですが……」(出利葉隊長)
 しかし、自然を相手に研鑽を積む以上、危険とは常に隣り合わせ。そんななか、出利葉隊長にとって頭を悩ませる事故が起きた。
「主力にカウントしていた中堅の隊員が2005年にヒマラヤで凍傷にかかってしまい、両手足の指を切断することになってしまった。隊の中核を担うには、回復までの時間が足りなかった。他の隊員も日程を調整し、学内からだけでなく学外からの支援も受けている一大プロジェクト。日程はどうにも動かせなかったんです」(同)
 戦力ダウンを埋めるため、山で荷運びをする高所ポーターを手配することになった。だが、ポーターはあくまでも隊を補助する存在。K2の山頂を目指す隊員の質の向上が急務となった。
「コンディションがよければ、アタック隊として山頂を目指せる人材を増やすことが急務でした。時間が限られているなか、学生ならば集中的に鍛えることができ、伸びしろも期待できたんです」(同)
 といっても、10名程度の学生のうち、K2にチャレンジできる力量までの伸びが期待できるのはある程度のキャリアがある上級生のみ。しかし、上級生ともなると就職活動も本格化する。そんななか、K2という最高峰に挑むための過酷なトレーニングに身を投じる者はほとんどいなかった。隊に参加した数少ない一人は、その動機をこう語る。
「いやー、僕は消防士になろうと思ってたんで。単位も間に合ってたから、『もうちょっと山に登ろうかな』と思って。K2なんて、滅多に行ける場所じゃありませんし」
 K2世界最年少登頂を達成した、青木達哉隊員が隊に参加することを決意したのは、そんな気軽な動機からだった。

K2登山隊への参加を決めた青木隊員だったが、K2へ向かうためのトレーニングは過酷を極めた。標高4000m相当の低圧・低酸素室で高所順応トレーニングを行った。週に4回、1回につき6時間。プロのアスリートよりも過酷なトレーニングともいえる。
「もともと体を動かすのは好きだったんです。山岳部に入ったのは、新人勧誘で『ロッククライミングができるよ』って誘われたから。なんだか楽しそうだと思ったら、入部早々登った雪山がすごく過酷で『なんで、こんなことしてるんだろう』ともう苦しいったらありませんでした。でも、山頂まで登ったら今まで知らなかった爽快感を味わうことができた。それからすっかりハマることになっちゃいましたね」(青木隊員)
 以来、山の魅力に惹かれ、国内の山を次々に登った。2年生の時にはカラコンロン山脈へと赴いた。
「そのカラコンロンで、先輩の小松さんたちと同じ宿になって、いろいろ話す機会を持つことができたんです」(同)
「小松さん」というのは、K2アタック隊でコンビを組んだ小松由佳隊員のこと。当の小松由佳隊員は当時のことをこう振り返る。
「青木君に限らずですが、彼らの代の子たちとはいろいろ話はしましたよ。詳しくは差し障りがあるので言えませんが、それこそ話し合いの過程で殴り合い寸前になったことも(笑)。私の代も彼らの代も人数は少なかったから、似たような苦労もしているんですよね」
 小松隊員は、高校時代から山岳部で競技登山を行っていた。
「インターハイや国体での競技登山は、あくまでも点数を競うもの。山という雄大なフィールドの中なのに、誰が何秒早く到達するかという競い合いになる。向き合うべきは、山のはずなのに……。ルールに縛られるのではなく、純粋に山と向き合いたいと思ったんです。もっとも、根っからの冒険好きでインディージョーンズみたいな世界観を味わいたいな、考古学も学びたいな、と思っていたら、最先端の登山はパソコンや衛星通信も使っていた。驚きましたね」(小松隊員)
 現代の登山シーンにおいては、『EU9i』のようなポータブル発電機は、もはや必携アイテムになっていたのだ

高校時代から数えて、もう10年山に登っているという小松隊員だが、2006年にK2に挑む直前には、登山を続けるかどうか悩んだこともあったという。
「山は基本的に男社会。もちろんどんなに鍛えても、筋力ではかなわない。女性がリーダーとして隊を統率するのは難しい面もあるんです。他にもいろいろな悩みが積み重なり、2005年頃には『もう山をやめようかな』と悩んでしまっていた。それまでは、生活の90%が“山”だっただけに、抜け殻みたいになっていたんです。そんな頃でした。出利葉さんから『K2に行かないか』と誘われたのは」(小松隊員)
 険しい山になればなるほど隊は大編成となり、チームワークも必要とされる。そんなチームを率いるには、個人として山に向かうのとはまた異なる資質が必要になる。その資質は、“山男”なら誰もが持っている資質というわけではない。個人それぞれが山と向き合うことと、チームとして山と対峙することは根本的に異質なもの。その双方を兼ね備えたリーダーは決して多くはない。様々な経験を重ねたが故に、当時の小松隊員は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。そんな彼女を救ったのが、出利葉隊長からのK2への誘いだった。
「誘いを受けた後、大学に出向いて何回も話をして『この人がリーダーのチームなら、きっとまた登れる』と思えたんです。世界中に数ある登山隊には、リーダーが独善的だったり自分の考え方を押しつけるような隊もあるんですが、出利葉さんは、チームを意思統一できるリーダーとしての厳しさはありながらも、隊員ひとりひとりの考え方も受け止めてくれる。私が考える登山隊像に合っていたんです。声をかけてくれたのが出利葉さんだったから、『また登ろう』とやる気になれたんです」(同)
 小松・青木両隊員だけではない。東海大学K2登山隊に参加したメンバーの数だけドラマがあった。そして、2006年6月5日、先発隊として出利葉隊長以下、小松・青木の両隊員が成田を発った。3か月前に船便で出発した『EU9i』をはじめとした、荷物が待ち受ける大陸へと向かって。

先発隊の3人がパキスタンに入った数日後には、医師や看護師なども含め、隊に参加する全員が集まり、6月14日にはキャンプ地を目指し行軍を開始した。だが、初夏のパキスタンは厳しい暑さでも知られる。地域によっては平均気温が8月よりも高くなり、最高気温が40℃を超えることもしばしば。行軍は、早朝の涼しいうちに開始され、現地のポーターたちと合わせ約20名のチームはベースキャンプ(BC)へと向かった。行軍の様子を出利葉隊長はこう語る。
「猛暑のなかで1トン以上の荷物を背負っての行軍でしたが、BCまではほぼ順調に行程をこなすことができました。途中、ポーターに一人50ルピーのチップを出すと伝えると、もの凄い勢いで進んでいったのが印象的でした(笑)」
 6月20日にはBCに到着。その後、約1か月をかけて、C0、C1、C2と設営していった。昼はキャンプの設営、夜は機材の整備などに追われた。
「BCでの食事は現地のコックが作る料理と、日本から持ち込んだフリーズドライの食品が中心でしたが、現地のコックが作るのは当然パキスタン料理。何を作っても全部カレー味。補助的な食品として、現地でクッキーを買い込みましたが、さすがにカレー味のクッキーは不評でした(笑)」
 出利葉隊長は、笑い話としてBCでの様子を話すが、ほとんどの日程で設営は夜にまで至った。連日、登はんが終了するまでの18時から21時までの間、Hondaポータブル発電機『EU9i』はフル稼働していた。医師として隊に参加しながら、発電機のメンテナンス担当となった小林利毅隊員はその様子をこう語る。
「BCでの1か月半、ほぼすべての電源を発電機から供給していましたね。持ち込んだガソリンには限りがあるので、1日数時間しか稼働させられない。その間にすべての電源を確保する必要がある。『EU9i』を一次電源として、車載用の大容量バッテリーや汎用電池パック、パソコン、デジタル音楽プレーヤーなどの充電まで行っていました。もちろん、夜間の照明等の電源にも使用しましたが、最後までトラブルもなく快調でした。むしろ、他国の隊が使っていた他メーカーの発電機のメンテナンスに追われることの方が多かったかもしれません(笑)」
 海外のガソリンは地域によっては、高品質とは限らない。ゴミなどの不純物の混入を避けるため、給油は婦人用のストッキングをネット代わりに濾過して行われた。出利葉隊長は、そんな小林医師の様子をこう振り返る。
「二足のわらじというか、ほとんどエンジニアのようでしたね。私を始め、他の隊員から『小林モータース、今日もロシア隊に出張してるなぁ』なんてからかわれていました(笑)」
 そうしてEU9iがフル稼働している間に、C0~C2までの設営は着々と進んでいった。



 C0~C2までの設営が着々と進むなか、同時にアタック日の選定が慎重に行われた。ヨーロッパの気象衛星からの情報の解析結果が日本の東海大学を通じてBCに送られ、その情報をもとに、アタックの詳細が決定された。そのアタック隊に選ばれたのは、1978年生まれの蔵元学士隊員、1982年生まれの小松由佳隊員、そして現役の学生である1984年生まれの青木達哉隊員という3名。その決定理由を出利葉隊長はこう語る。
「衛星通信を介しての情報をもとに、慎重に検討した結果、8月1日頃の天候がいいと予測できた。パソコンや衛星回線を介して、あらゆる情報を検討できたからこそ、精度の高い予測ができたんです。K2では、毎年遭難者が少なからず出ていますが、やはり天候などの情報を得ずにアタックする隊は遭難の率が高い。しかし、どんなに万全の準備でのぞんでもK2という山は甘くない。比較的若い隊員を選んだのは、不測の事態が起きたとき、体力・気力の充実が欠かせないと考えたのです。他の山ならば、私も一緒に登りたいところですが、K2相手となれば、わずかな隙が命取りになりかねません。私が登るという選択肢はありませんでした」(出利葉隊長)
 そして、7月29日の未明、アタック隊として選ばれた蔵元、小松、青木隊員が第一回目のアタックを目指し、BCを出発した。
 ところが、アタック隊はBC出発直後にアクシデントに見舞われる。アタック隊のリーダー格でもあった蔵元隊員が激しい腹痛に見舞われ、隊からの離脱を余儀なくされたのだ。腹痛の原因は急性の虫垂炎だったという。
「BC出発から数時間後のことで、まだC1にもたどりついていない頃でした。本人は無念だったでしょうが、我々が見たのは脂汗を流しながら体を『く』の字に曲げて降りてくる蔵元の姿。本人は無念だったでしょうが、我々も『なぜこんなときに……』と無念の思いでした。それまでは、常に先頭に立ってルートを切り開き、アタックキャンプになるC3予定地にも最初に到達した。高所経験も豊富で、彼がいたからこそ小松、青木と3人でのアタック隊を編成したんですが……」(同)
 予定通り、7月29日に小松、青木両隊員はC1に、翌30日にはC2に入った。そしてその夜、出利葉隊長はC2にいる2人と無線で話し合いを持った。
「アタック目前の彼らは、当然『行きたい』という。蔵元が降りていく後ろ姿に感じるものもあったのでしょう。ただし若く、高所の経験が豊富ではない彼らだけで行かせていいのかという不安もありました。迷いましたが『絶対に無理はしない』という約束をさせた上で一度だけチャンスを与えることにしたんです。とはいえ、実は勝算もあった。あの2人は、どんな山でも山をナメるということをしない。国内の山でもどんな登山者よりも早くに出発し、どんな簡単な場所でも基本に忠実に登っていく。だから後ろからの登山者にどんどん抜かれるんですが、登山とは他者との競争ではなく、『生きて帰ってくること』こそが登山だということをよくわかっている。だからこそ、行かせることにしたんです」(同)
 そしてアタック日は8月1日に決定した。


8月1日午前2時30分。前日の7月31日にはC2からアタックキャンプであるC3へと入っていた小松、青木両隊員はアタックを開始した。朝食は紅茶と堅いパウンドケーキ。小松隊員の「後悔のないようやれるだけやろう。最高の一日にしよう」との問いかけに短く「はい」と答える青木隊員。初めての8000mラインへの挑戦が始まった。
「下の方を見ると、小さな光が暗闇にぽつんと浮かんでいる。BCのみんなが激励のために、たき火を焚いていてくれたんです。あぁ、登っているのは2人だけじゃない。みんなで登っているんだと胸が熱くなりました」(小松隊員)
 何も聞こえない無音の世界のなか、聞こえるのは、自分たちの息づかいと雪を踏みしめる足音のみ。世界のなかで自分だけがぽっかりと浮かんでいるような不思議な感覚に2人はとらわれた。膝まで埋まるような新雪の急斜面かと思えば、ガチガチの固い氷が露出した氷壁もある。足下の変化を一歩ずつ感じ取りながら、慎重に進まなければならない。8000mという高度による疲労も容赦なく2人を襲う。
「4歩歩いて一休み、の連続でした。以前カラコンロンのときに6000mを体験し、今回7000mのC2で高度障害を起こして、高所の恐ろしさは知っていたつもりだったんですが、8000mは一気に体が重くなってくる。あのヤバさは別物でしたね」(青木隊員)
 午前2時半にC3を出発し、あっという間に12時間以上が経過した。当初、午後3時になっても到達できなければ引き返そうと決めていたが、その頃にはもう山頂が目の前に見えていた。山に魅せられた者が、山頂を目の前にして引き返すことなどできるわけがない。
「8000mには7000mまでには気づかなかった“空気の匂い”がありました。単純に鼻で感じる匂いというより、頭というか体全体で匂いを感じるような感覚。太陽の光、雲、風……。すべてがダイナミックでギラギラして体にダイレクトに突き刺さるような感覚。すべての感覚がすごく鋭敏になった記憶があります」(小松隊員)
 とはいえ、そうした感覚にばかり溺れるわけにはいかない。午前3時半にBCに報告の無線を入れて以来、無線を入れようとしても圏外をあらわす音が鳴るばかりでBCとの交信も途絶えていた。繰り返し交信を試みるが、いっこうにつながる様子はない。そのときのBCの様子を出利葉隊長はこう語る。
「BCで待機している我々は、まったく状況がわからない。登頂したのかもしれないし、万が一ということもあり得る。16時を回り、不安が頭をもたげ始めた16時50分、無線が入ったんです」
 一瞬にしてBC内の空気が変わった。緊張で息をのむBCの隊員たちの耳に聞こえてきたのは、『BC聞こえますか! 私たちは今、ついにK2の山頂に到達しました!』という小松隊員の声だった。一瞬の静寂の後、BC内は歓声で埋め尽くされた。言葉がわからないはずの現地スタッフたちも喜びを爆発させる。無線でしかつながっていないはずのK2の山頂にもその感動は伝わっていた。
「出利葉さんの『よくやった!』と興奮する声と、BCの緊張と興奮が無線を通じても痛いほどに伝わってきました。感無量でしたが、心配かけて申し訳なかったなという思いや喜び、そして下りへ向かう緊張感。様々な気持ちがないまぜになっていました」(小松隊員)
「無線では何を話していいかわからなくて、最初に『青木です』と言った後は、ひたすら『よくやった!』『ありがとうございます』という会話を繰り返していました(笑)。K2の山頂はまるで天空にいるような不思議な感覚でした」(青木隊員)
 周囲を見回しても、ここより高い場所は見えない。8068mのガッシャーブルムも8047mのブロードピークも眼下に見える。そんな世界で2番目に高い場所に2人は約1時間、たたずんでいた。



 遂にK2山頂にたどり着いた2人だったが、山頂から下を見ると、数千メートル下まですっぱりと切れ落ちた底のないような穴に見えた。
「『ここを降りるのか』と改めて、今、自分たちがいかに危険な場所にいるかを再認識して『とにかく生きて帰るんだ』と気を引き締めました」(小松隊員)
 登りで時間がかかった分、酸素ボンベの残量も限られていた。下りる間に、酸素ボンベの流入量を毎分2Lから1Lに、さらには0.5Lに切り替えた。「下りこそが危険」というのは、山の常識でもある。登りは2人同時に登った箇所も、下りでは片方が確保を取り、ロープでつながれたもう一人が下りるという、より安全なやり方を採用した。
「スピードが安全につながるという面もあるのですが、とにかく生きて帰ることだけを考えたら慎重に進まざるを得なかったんです。ただ時間の感覚がどうにもおかしくなっていて、21時頃かと思ったら、あっという間に翌日の午前2時半になっていました」(小松隊員)
 頂上アタックを開始してから、もう丸1日行動し続けていた。興奮状態で、疲労を感じにくくなっているとはいえ、2人の体力は限界に近づいていた。
「高度障害に疲労、そして酸素不足もあって、下りは本当にしんどかったですね。ボクがロープを確保して小松さんが下りてくるのを待っているときに立ったまま、まぶたが落ちてしまったこともありました」(青木隊員)
 立ったまま、寝たり起きたりを繰り返した。空の酸素ボンベやヘッドランプも手につかない。手から滑り落ちたそれらは、あっという間に視界から消えていく。
「疲労が極限に達し、ビバークを決意しました。8200mという高所でビバークするか、このまま下り続けることのどちらが危険かと考えたとき、ビバークを選択せざるを得ないような状況でした」(小松隊員)
 もう酸素は残っていない。凍った斜面をアイスバイルのブレードで削り、2人がようやく腰を下ろせるだけのスペースを作った。午前3時、確保を取りながら、手持ちのものをすべて着込んだ。さらにその上からシートをかぶり、2人はつかの間の眠りについた。「寝たら、もう目が覚めないなんてことはありませんよね?」との青木隊員の問いに、小松隊員は「大丈夫」と答えたが、小松自身8000mを超える高所でのビバークは初めてだった。




朝になってもC3に姿を見せない2人に、出利葉隊長をはじめとしたBCは焦りを感じ始めていた。
「夜間ということもあり、頂上からアタックキャンプのC3まで下りてくるのに約5~6時間かかると見ていました。ところが17時50分の無線連絡以降、またも無線が不通になり消息がしれないまま夜明けを迎えてしまった。スコープで覗いてもC3に姿も見えない。無線も通じない2人を案じながらも、すべての可能性を考え、午前10時の段階で日本の大学に連絡を取りました」(出利葉隊長)
 山ではどんな悲劇が起きても不思議ではない。明るくなっても無線は入らず、BCから目視できるはずのC3にも2人の姿が見えない。最悪の事態が脳裏をよぎった。
「『遭難の可能性あり』と、何時の時点で判断し、どのタイミングで発表するかも含め、大学側との協議を開始しました。単に下山が遅れている可能性も考慮しましたが、万が一の可能性もある。ただし、日本時間の夕方に発表してしまうと、夕方の報道番組や夜のニュースで流れてしまう。混乱のさなか、マスコミから家族に伝わるという最悪のケースは避けなければならない。協議を繰り返した結果、パキスタン時間の15時、つまり日本時間の19時までに2人を確認できなければ、まず大学側から家族に一報を入れようということになりました。マスコミへの発表はその後ということに。ただ、大学の広報はメディアからは『いつコメントは出せるのか』、『いつ帰国するのか』という問い合わせが殺到する裏で、こちらとのやりとりも行うという本当に大変な状況だったようです」(出利葉隊長)
「遭難の可能性あり」と判断を下すまで、残り3時間となる現地時間の12時になっても2人は戻らない。出利葉隊長は、パキスタン軍にヘリコプターの出動を要請した。午後に要請すると、手続き上ヘリコプターの現地到着が2日後になってしまうからだ。翌日にヘリコプターを現地に入れるためには、昼までに当局に出動要請を行う必要があったのだ。
 午後になっても2人の姿は見えない。焦燥の色が濃くなっていくBC。そんな午後12時30分、BCの無線機が鳴った。「いまC3に戻りました。2人とも元気です!」との小松隊員の声が無線機に流れ出した。登頂時をも凌駕する歓声がBCを包んだ。誰もが声にならない声を上げ、ボロボロと歓喜の涙を流していた。







 その数時間前、小松隊員はほほに強烈な光を感じて、目を開けた。時計は午前6時を指していた。眼下に雲の海が広がり、彼方から昇る太陽は見たことがないほど美しかった。
「まるで『生きなさい』と言われているかのような美しさでした」(小松隊員)
 1時間ほど日の光を浴びて体を温めた後、2人は再び下降を始めた。BCが心配しているだろうことは痛いほど想像できたが、無線はつながらない。仕方なくそのまま下降を続ける2人だったが、眠気は去ったものの今度は襲い来る落石の恐怖との闘いとなった。
「ロープにぶら下がっていて避けようのない状態で、1メートルクラスの落石がすごいスピードで体のすぐ横を通過し、奈落へと落ちていく。しかも、岩肌でこすれたのか、焦げたような匂いまで漂ってくる。当たらなかったのは、本当に幸運でした」(青木隊員)
 8200mという高所で無酸素状態でのビバークを経て、体力を使い切った2人がC3に戻ったのは午後12時30分。C3の緑色のテントが見えたときには、前日の未明に出発したとは思えないほど、時間が経過しているように感じたという。BCに無事を伝える無線を入れ、凍傷のチェック、水分などの栄養補給をすると2人は体を横たえた。疲労の極限にあった2人は、その日は体力回復のためC3にて一晩を過ごすことにした。そしてその日の午後と夜の2回、“訪問客”があったという。
「テントの中で休んでいると、下の方からザクッザクッという足音が近づいてきて、テントの近くで何やら話している。そのときは疲れていて外を覗く気にもなれませんでしたが、あとで外に出ても、足跡ひとつないんです。最初は自分の聞き違いかとも思ったんですが、青木に確認しても同じタイミングで同じ声を聞いている。正直ゾッとしました」(小松隊員)
 東海大学K2登山隊がC3を設営した近くには、雪に埋もれたテントに過去の遭難者の遺体が何体も眠っているという。
第十一章 精霊の訪問 「ボクも男性の声と足音は、はっきり聞きました。ただ、小松さんと違って怖いという感覚はありませんでしたね。むしろ伝説のクライマーがK2の精霊となって会いに来てくれたのかもしれないと、うれしさすら感じました。後で、出利葉さんには『幻聴じゃないのか?』と笑い飛ばされましたが、確かにそこにいたんです」(青木隊員)
“精霊”に触れた2人は、その晩泥のように眠った。そして翌日早朝、登山隊のメンバーが待つBCへ向けて出発した。



8月3日の早朝にC3を出た2人がBCへ戻ることができたのは、4日の深夜0時を回った頃だった。遠くに見えるBCのテントの外にヘッドランプの光がちらちらと見えた。隊員が出迎えてくれていたのだ。「やっと帰ってきた」という思いで近づくほどに早足になる。
 BCで爆発する歓喜、そして嵐のような抱擁と握手が2人を待っていた。
「BCで調理を担当してくれた現地のコックさんに至っては、2人の肩を抱きながら『ウワァーン』と声を上げての号泣とともに迎えてくれたんです。何も言わず、骨が折れそうなほど強く手をギュッと握りしめてくれた隊員もいれば、ひたすら『よかった』を繰り返す人もいた。表現は違うものの、誰もが万感の思いで出迎えてくれたのを痛感しました。同時に仲間って本当に温かい存在なんだと、ありがたさと申し訳なさで改めて胸が熱くなりました」(小松隊員)
「振り返ってみればたった数日でしたが、すごく久しぶりに小松さん以外の人の声を聞いたような気がして、『やっと生死の狭間から帰ってきたんだ』という安心感でいっぱいでした。みんなと抱き合って、握手して、笑い合った。頂上よりも素晴らしい場所があることを知った瞬間でした」(青木隊員)
 それから数日間は、休養に充てられた。PCを使ってのHPの更新作業は急ピッチで進められた。食堂テントではDVDで映画を見たり、小松は持ち込んだデジタル音楽プレーヤーで好きなエンヤを愉しんだりもした。
「それらすべての電源の源はすべて『EU9i』でした。以前のクーラカンリのときもそうでしたが、現代の登山において電源はすべての根幹です。アタック日の選定ひとつとっても、学内の総力を結集して得た情報を衛星回線で手に入れられるから、風のない日を選んでアタックできた。8200mでのビバークやC3から無事帰還できたのも、天候のよさに救われたという面もある。他にも、アタック前後に彼らが口にした堅いパウンドケーキは、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん率いるミウラ・ドルフィンズから差し入れていただいた手作りのもの。ナッツ類や香辛料も豊富でカロリー補給という面からも本当に助けられました。他にも、各方面から様々なサポートをいただいたからこそ、K2登頂をなしえることができた。隊員として名を連ねた者だけでなく誰ひとり、持って行った何ひとつ欠けても、今回のK2登頂はなしえなかったはずです」(出利葉隊長)
 2006年の東海大学K2登山隊の挑戦は、記録ずくめの偉業となった。そしてその偉業は、チームを中心とした、そこに関わるすべてのものの偉業でもある。

スーパーヤマガール みなみやまりん

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