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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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12/30 大倉バス停⇒焼山登山口⇒三ケ木14:12着

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2015
年末現在

 2484塔ノ岳2566

 1302丹沢山1381

 1138蛭ヶ岳1216

  558姫 次634

  364焼 山423

  361焼山登山口419

  350三ケ木406

  263橋本駅北口291




明日このコース取りで日帰りされる方へ

馬の背の一部

塔ノ岳北面、丹沢山つるべ落とし、蛭ケ岳北面

ランニングシューズにチェーン・スパイクあった方が神経衰弱にならずにすみます

意外と白いものがあり

人が好く入っているのか圧雪されています

私は寒さで両膝が痛くなり、時間がかかりました

コンドロイチンやセサミンも摂取しないと駄目かもしれません

階段の登りが痛い、焼山の下りで痛い方の足を庇う

ロードの下りはゆっくりでないと駄目

2016.6までは完璧でしたが、肉離れから膝に来てしまった2016の総括でした




2017 元旦  大倉バス停⇒焼山登山口⇒三ケ木12:56着

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一年の幕開けに相応しい素晴らしく穏やかな晴天でした

新年の最初に聴く音楽はシューマンのユモレスクと献呈は河村尚子の盤で

なんとなく2017はシューマンで幕開けです

ブレンデルのシューマンピアノ協奏曲と幻想曲作品17と続きます


そして夜の楽しみはニューイヤーコンサートはウインナーワルツで

昨晩の内山高志選手と総合格闘技は好かったです

そして、今日の山は

好い出会いもあり、足の切れが好く、楽でした

ポイント練習区間も1:21:45,35:16

2016
年末現在

 2566塔ノ岳2567

 1381丹沢山1382

 1216蛭ヶ岳1217

  634姫 次635

  423焼 山424

  419焼山登山口420

  406三ケ木407

  291橋本駅北口291



スーパークライマーを目指せ  ウーリー・ステック 「スイスマシーン」

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ウーリー・ステック(Ueli Steck、1976年10月4日 - )は、スイスの登山家。
アルプス三大北壁の最速登頂記録を持つ[1]。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から、「スイスマシーン」の異名をとる。名前はウエリ・シュテックと表記されることもある。

主な登頂記録[編集]
2001年 プモリ西壁初登頂
アイガー北壁"The Young Spider"初登頂
2006年 ガッシャーブルムII峰北壁初登頂
2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録・2時間47分33秒
グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録・2時間21分
2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録・1時間56分
2011年 シシャパンマ南西壁ソロ 10時間30分
2013年 アンナプルナ南壁ソロ
2015年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録更新・2時間22分50秒[2][3]



2008年2月13日、ほとんどのクライマーがチームを組んで、二日はかけて登頂するアイガー北壁(高さ1800m)に、単独、命綱無しで、わずか2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂した。
2008年5月、アンナプルナを登山中にスペイン人登山家イニャキ・オチョア・デ・オルサ隊の遭難事故が発生した際には、自らのチャレンジを捨て遭難現場に急行。二人のうち一人は救助の甲斐なく死亡したものの、ウーリーの迅速な対応により一名は生還を果たした[4]。この救出活動は後に映画化され、日本でも2014年9月に公開された(「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」)[5]。この活躍が評価され、チームメイトのシモン・アンターマッテンとともに「プリ・クラージュ(Prix Courage)賞」を受賞した。
2012年5月にはエベレストの無酸素登頂に挑戦。登頂予定日には異常高温によるルート崩壊で待機していた登山家の大渋滞に巻き込まれ、デスゾーンで予定外の待機を余儀なくされるアクシデントが発生。同行のシェルパが力尽き撤退する状況の中、ウーリーは登頂に成功して生還を果たした[6]。
2013年4月、エベレストでシモーネ・モロ、ジョナサン・グリフィスと共にシェルパと乱闘事件を起こし、登頂を中止し下山することになった[7]。



トレイルランニング、スカイランニング、あるいはマウンテンランニング。いや、この際呼び名はどうでもいい。山という舞台におけるスピード志向の人たちのあいだで、全世界的にその名を轟かせる人物がいる。



 ウーリー・ステック、39歳(写真=永易量行)。
 あえて肩書を記すならば、ウーリー自身は自らを「アルピニスト」と名乗っている。そしてアルピニズムの世界では当代最強の人物と目されている。だが、そのスタイルは20世紀的なアルピニズムからするとかなりの「異端」だ。ウーリーのスタイルはスピード登山などと呼ばれており、例えば……。

 アイガー北壁。標高4000m近くの高所で、標高差は1800m。マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁と並ぶヨーロッパ三大北壁のひとつで、初登攀までに8人もの命を呑みこんだ難関として知られる。1938年に初登攀された際は、都合4人がかりで3日もかかった。それをウーリーは昨年、2時間22分50秒で駆け登った。命綱なしのソロスタイルで。もちろん最速記録である。

 繰り返しになるが、十分な装備を持った登山家がパーティを組み、時間をかけて臨んだとしても、一歩間違えれば命を落とす危険な壁だ。そこをアルパインクライミングの常識からすると圧倒的に少ない装備とウェアで挑む。当然、比類なきテクニックとスピードがなければ成しえない。ピンと来ない人は、Youtubeなどの動画を見てほしい。ウーリーの凄さは、山の素人が見てもすぐ感じ取れる。



 垂直スピードは750m/時を超す。これはトレイルランの登りに遜色のないハイスピード。この速さで、雪と氷に覆われた岩壁を攀じ登るのだ。



「アイガーには今までに40回以上登っています。自分の裏庭のようなもので、遊び場です。昨年の記録達成時は、いちおう記録を狙ってはいましたが、大きなリスクは負わないと決めていましたし、心拍数も最大で165、平均で155ほどでした。しっかり調整して、天候にも恵まれれば、2時間を切れる感覚もあります。
 でも、私は各々の挑戦や達成にランクを付けて、優劣を比べるようなことはしません。例えば去年は他に『82サミッツ』の最短記録を成功させました。これはヨーロッパの4000m峰すべてを、歩き・クライミング・自転車・パラグライダーなど人力移動のみで一筆書きするチャレンジです。このような大きなプロジェクトも、近所のランニングも、そう変わりません。各々で何を感じ、楽しんで、ハッピーになれるかが大事なのです」



「もちろんハードなトレーニングは不可欠です。真剣に準備しますが、どこかでfoolishにもなることが大事です。シリアスになりすぎない、と言えばいいでしょうか。私個人の挑戦が成功しようが失敗に終わろうが、“世界”は変わりませんし、地球は回り続けます。成功しても失敗しても学べることがあります。このような姿勢が困難な挑戦を助けるんです。私は自分の中で一番強いフィジカルパーツは“脳みそ”だと思ってるんですよ(笑)」


 主だった岩壁の初登や名峰のピークはとうの昔に攻め落とされているし、より困難なルート、バリエーションルートからの登攀も、あらかた終わっている。では、現代を生きるクライマーに残された挑戦、冒険は何になるのか。その一つの答えが「スピード」という切り口になるのかもしれない。
 それは、スピーディに山を楽しむアクティビティ=トレイルランニングシーンの盛り上がりとどことなく通じ合うのではないだろうか。実際、ウーリーは2015年にUTMBの姉妹レースのひとつ、OCCの50kmを22位で完走している。欧州のメジャーレース「アイガーウルトラトレイル」ではアンバサダーを務めてもいる。



「トレーニングではトレイルランニングなどの有酸素運動も重視しています。もちろんクライミングスキルを磨くことも重要ですが、近年はランに割く割合を増やしています」と語るが、彼のように「走る」ことを本格的に取り入れているアルピニスト、クライマーは欧米でも少数派だ。でも、それがウーリーのスタイルを支えている。
 そしてあのキリアン・ジョルネとも友人で、モンブランやマッターホルンなどの山に一緒に入る仲だという。

「彼とは気の置けない友人です。麓から一緒に走って、谷を駆け上がり、北壁をクライミングして、また降りてくる、といった遊びをしたりしています。彼にはより優れたランの力があり、私にはより優れたクライミングのスキルがあります。だからお互い刺激し合えますし、年齢は離れていますがシンパシーを感じるんですよ」



ウーリー・ステック
1976年、スイス生まれ。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から”スイスマシーン”の異名をとる。08年にアイガー北壁ソロを2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂し、一躍注目を集める。同年~翌年にかけてヨーロッパ三大北壁すべてでのソロ登攀最速記録を樹立。近年はエベレストやアンナプルナなど高峰でも活躍。14年、ピオレドール受賞。



竹内 洋岳(たけうち ひろたか、1971年1月8日 – )は、日本の登山家で、世界で29人目

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 世界8000m峰完登者一覧
 全ての8000m峰の登頂に成功した最初の人物はラインホルト・メスナーで、1986年10月16日に達成した。その1年後、イイジ・ククチカが2人目の達成者となった。日本人では2012年5月26日、竹内洋岳が世界で29人目の日本人初の達成者となった。
名前 達成年 国籍
1 ラインホルト・メスナー 1970-1986 イタリア
2 イイジ・ククチカ 1979-1987 ポーランド
3 エアハルト・ロレタン 1982-1995 スイス
4 カルロス・カルソリオ 1985-1996 メキシコ
5 クシストフ・ヴィエリツキ 1980-1996 ポーランド
6 フアニート・オヤルサバル 1985-1999 スペイン
7 セルジオ・マルティーニ 1976-2000 イタリア
8 朴英碩(パク・ヨンソク) 1993-2001 韓国
9 厳弘吉(オム・ホンギル) 1988-2001 韓国
10 アルベルト・イニュラテギ 1991-2002 スペイン
11 韓王龍(ハン・ワンヨン) 1994-2003 韓国
12 エド・ベスターズ 1989-2005 アメリカ
13 シルビオ・モンディネッリ 1993-2007 イタリア
14 イバン・バレーホ 1997-2008 エクアドル
15 デニス・ウルブコ 2000-2009 カザフスタン
16 ラルフ・ドゥイモビッツ 1990-2009 ドイツ
17 ベイカー・グスタフソン 1993-2009 フィンランド
18 アンドリュー・ロック 1993-2009 オーストラリア
19 Jo?o Garcia 1993-2010 ポルトガル
20 Piotr Pustelnik 1990-2010 ポーランド
21 エドゥルネ・パサバン 2001-2010 スペイン
22 Abele Blanc 1992-2011 イタリア
23 Mingma Sherpa 2000-2011 ネパール
24 ゲルリンデ・カルテンブルンナー 1998-2011 オーストリア
25 Vassily Pivtsov 2001-2011 カザフスタン
26 Maxut Zhumayev 2001-2011 カザフスタン
27 Jae-Soo Kim 2000-2011 韓国
28 マリオ・パンツェリ 1988-2012 イタリア
29 竹内洋岳 1995-2012 日本
30 金昌浩(キム・チャンホ) 2005-2013 韓国
31 ラデック・ヤロス 1998-2014 チェコ
<参考>
 代表的な日本人登山家
 ・山田昇   8000m峰9座に延べ12度登頂
 ・名塚秀二 8000m峰9座登頂
 ・田辺治   8000m峰9座登頂
 ・小西浩文 8000m峰のうち6座を無酸素登頂
 ・戸高雅史 8000m峰のうち5座を無酸素登頂



14座登頂の意味

――14座完全登頂というのは、やはり大きな意味を持っていますか?
記録としては、すでに「いまさら」のものです。イタリア人のラインホルト・メスナーが14座完全登頂を初めて果たしたのは、いまから25年近く前の1986年です。世界中で30人近い登山家が達成していて、記録としての珍しさもない。私自身、14座を達成した登山家を、何人も間近で見てきました。私はすべて無酸素での登頂ではありませんし、記録としては平凡です。
1989年に亡くなられた山田昇さん※が達成していたら、年代的におそらく世界で3、4人目になっていたと思います。私の記録より、もっと大きな意味があったはずです。しかし、すでに多くの人が達成しているいまでは、日本人初という意味さえあまり感じません。すべて人間がやることなんですから、国籍をどうこう言うようなものでもない気がします。
しかし、日本人にとってはすごく、すごく特別な記録であることは確かです。世界的には「いまさら」な記録を、日本人がいまだに達成していないのはそもそも大問題で、私はそれが悔しくてしかたがなかった。マナスルを初登頂したのは日本隊なのに。14座に挑戦できる環境に身をおいているゆえに、本当に悔しかったのです。

いまとなっては、山田さんや名塚秀二さん※らの14座を目ざして命を落とした皆さんのことも、忘れられてしまうような気がしていました。命を賭けるというのは、崇高なことだと私は思います。山田さんや名塚さんの功績が忘れられ、それどころか日本人が14座を達成していないことから目を背けるような様子が、私には悔しくして腹立たしくてしかたがなかったんです。ならば私が、と思ったのは事実です。

※山田昇…1950年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に12回登頂。1989年に冬季マッキンリー登攀中に遭難死。
※名塚秀二…1956年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に登頂。2004年、10座目となるアンナプルナⅠ峰に挑戦中、雪崩により死亡。
――最初から14座を目指していたわけではなかったのですね?
最初から、ではありません。違いました。ドイツ人のラルフとオーストリア人のガリンダというパートナーに出会い、「3人で14座達成しよう」と決めたときに、日本人初の14座サミッターになり、山田さん、名塚さんらの先人の功績が少しでも振り返られる状況を作りたい、と。そういうことも含めて、14座というのは、私にとってすごく大切な、特別なものです。それが、やっと、終わりました。

――2007年にガッシャブルムⅡ峰で、雪崩に巻き込まれて背骨を折る大ケガを負いました。それでも14座への挑戦を続けた原動力とは?
いや、特別な原動力はあまりないですよ。本当なら私はガッシュブルムで死んでいたわけです。たまたまそこにいた多くの人たちが助けてくれたから、いまもこうしてここにいる。私の命は、彼らに新しくもらったもの。山でもらった命です。だから、山で使い切っていいと思うんですよ。

――それにしても、再び山と立ち向かう際に、恐怖心はなかったのですか?
いやあ、ないですね。人間ですからどこかにあったかもしれませんが、それを上回るぐらいに登りたい意思があったと思います。自分で登って降りてこないと、山登りにならない。ガッシャブルムは、自分で降りてきていない。私が考える登山になっていなくて、それが気持ち悪くて腹立たしかった。
自分なりの勝手な決着のつけ方ですが、せめて事故があったところまで行って、自力で降りてこないと、どうにも納得がいかなかったんですね。それをしないで生きていくのはおかしい、と。それだけに、ガッシャブルムを登り直した際には、得も言われぬ感情が沸き起こってきました。

――どんな感情が爆発しましたか?
泣きました。涙が出た理由はひとつではなく、悲しい、痛い、悔しい、嬉しいといった感情の発露として泣いたわけでもなく、いっぱいになった頭のなかを整理するために、泣くという行為をしたのかしれません。

――ケガからほぼ1年後の登頂は、「奇跡的な回復」とメディアに伝えられました。
それは大げさです(笑)。翌年にもう一度ガッシャブルムへ行くとなると、必然的に時期は決まります。登山ができる時期は、限られていますから。リハビリが間に合わなくても、日本を出ちゃおうと思っていました。1年でパーフェクトな身体になるとは思っていなかったですし、這ってでも行くつもりでしたので。
まずはとにかく、ベースキャンプまで辿り着く。ベースキャンプへ着いたら、次はキャンプ1を、その次はキャンプ2を目ざす。山頂への過程も含めて、リハビリという理解でした。
事故のダメージがちゃんと抜けたのは、去年ぐらいでしょうか。ただ、事故前の身体とは違います。日常生活に支障はなく、山でも特別な問題はありませんが、指先まで神経が通っている感覚は、右足と左足では異なります。背骨の骨折とは別に、肋骨が変形治癒しているのもありまして……(といってシャツをめくり、右手で肋骨を示す)。

――あっ、左側の肋骨がポッコリと浮き上がっていますね。
飛び出しているような感じでしょう? 息が荒くなると痛んでくるんです。事故翌年のガッシャブルムではあまり気にならなかったんですが、09年のローツェは標高がガッシャブルムより500mほど高いので、どうしも呼吸が乱れるんです。そうすると、痛くて、痛くて。手で抑えて胸が開かないようにしたら、余計に苦しくなったり(笑)。

――苦しみという意味では、今回のダウラギリではビバークをしましたね。下山時に日が沈み、キャンプ3へ戻るルートが見つけられなかったそうで。
キャンプ3から頂上を目ざしているときから、たとえ遅くなっても今日のうちに山頂へ行き、帰りはビバークも有り得ると覚悟を決めました。ですから、登る途中でビバークできそうなところをいくつか探しておきました。山登りは想像のスポーツで、色々なことを想像して楽しむんですね。いかに他方向に、多重に想像できるかを山のなかで競い合う。いっぱい想像した者が、いっぱい楽しめる。
大きくいえば、あの山のあのルートを、あんなふうにして登りたい、という想像からすべてが始まっているのかもしれません。誰も登っていない山の、誰も登っていないルートを、誰も登っていない方法で登る。それを思い描けた者が、実際に行ける。想像力を競争している、ともいえるでしょう。

日本の登山は14座の呪縛から自由に


ダウラギリのC2、6600m付近。撮影:中島ケンロウ


――これからの目標も、すでに描いているのでしょうか?
どこまで登山を続けていけるのかに、私は挑戦しています。そのなかにきっと、14座があったんです。死なずに続けられたからこそ14座に到達したのであって、14座を登り切ったとは思っていない。地球上には無数の山があるわけで、裏返せばまだその14コしか登っていません。登り切ったとは、とてもじゃないですが言えないですよ。いままでも好きな山に登ってきたので、これからも好きな山に登るのかなあ。いずれにしても、ここから先は新しい登山のスタートです。

――と、いいますと?
14座をやり残してきたがゆえに、日本には“古い登山”が残ってしまっていたと私は考えています。古いものが混じった増築の登山ではなく、これからは新しい登山、新しい14座がスタートしていいでしょう。
たとえば、私はマカルー、エベレスト、K2で酸素を使っていますから、次はすべて無酸素の14座に挑むとか、ノーマルノートではなくバリエーションルートで14座を目ざすとか、そういうことをやってみたいと思う人が出てきたらいいですね。
私はこれで、過去の人間になっていきます。古い時代は終わりました。「竹内洋岳」ではなく、14座とかヒマラヤが、人々のなかに残っていけばいい。地図帳でしかみたことのなかったヒマラヤに行ってみたい、せめてカトマンズの街まで行ってみたい、できたら自分も登山をしてみたい、といった人が少しでも増えてくれたら、というのが私の願いです。
今回こうして取材を受けているのも、私がヒマラヤの話をすることで、8000mの山々を立体的に感じる人がいるかもしれない。私は幸運にも14座への挑戦を続けることができました。恵まれた環境にいるわけですから、これは義務でも使命でもなく、続けられた者がなすべき役割だと思っています。

――そうした啓蒙的な活動と並行して、登山も続けていくわけですよね?
組織に属していないといけない、お金がないと行けないというのが、1990年代までの古い登山でした。でも、実際には来週行くことだってできるんです。サッカーだって、国内を飛び出して世界でプレーしている選手がいるじゃないですか? あれと同じです。現代の登山は、ずっとずっと自由です。だからこそ、どんどん行ってほしいと僕は思っています。
ベースキャンプなんて、壮大な秘密基地ごっこですよ。何を持っていこう、何をして遊ぼう、テーブルクロスは何色にしようかなあ、どんな絵を飾ろうかなあ、なんて考えるのは、最高に楽しいじゃないですか!






――14座登ることはどういった意味を持つのですか?

竹内: 意味はない。

 ただ、意味がないことが積み重なって、意味を持ってきた。私は14座のうち3座は酸素ボンベを使っている。現在はこういうのは無酸素でやるのが常識になってきている。なので記録的には、あまり大した意味はない。

 もともとただの地球の出っ張りであった山に、8000メートルというカテゴリーが誕生し、14座という数字ができて、人がそこに向かっていく。いろいろな国の人達が登山し、エベレストだって世界最高峰になったから、みんながよってたかって登っている。そこにいろいろな歴史が生まれて、ドラマが生まれてくる。……そうすると、ただの地球の出っ張りが個性を持ち始める。そこに人は惹きつけられて、登山をし始める。

 例えばエベレストだと、いろいろな人がいろいろな事をやっていて、さまざまなルートで登っている。ある人が「1970年代の誰それの登山はすごかったな。同じルートで登ってみたいな」と思ったりしたとする。そうすると自然と人間が、登山というもので結びつく。

 記録という意味では今更なものだが、歴史を振り返ってみると、関わった人など、そのドラマには価値があると思う。私が14座登り切れたのは、山田さん(筆者注:山田昇。14座中9座に登頂。1989年冬期マッキンリー挑戦中に死亡)や名塚さん(筆者注:名塚秀二。14座中9座に登頂。2004年にアンナプルナで雪崩に巻き込まれ死亡)などから、ヒマラヤやエベレスト登山を受け継いできたから。そして通り過ぎていく。受け継いでいなかったら、ヒマラヤには行ってないだろうし、14座も続けていなかったと思う。

 自然と人が登山というもので結びついたがゆえに、意味がないものが私にとって意味を持ち始めた。それが登山の魅力だと思う。記録として意味はあるのかと言われると意味はない。でも、想いはある。



14座制覇の女性登山家
ゲルリンデ・カルテンブルンナー

ゲルリンデ・カルテンブルンナーは、標高8000メートルを超える14の山をすべて無酸素で登頂した史上初の女性登山家。オーストリア出身、42歳の元看護師。極めて危険な状況に直面しても、ほとんどの場合「まだまだ安全」と感じるという。

――なぜ山に登るのですか?

 最小限の装備だけ持って山に入ると、本当の自分になれます。完全に集中している瞬間に、自由を感じます。ただ登ること以外、何も存在しないんです。

――肌身離さず持っているものはありますか?

 チベットで手に入れたブレスレットです。パワーとエネルギー、成功、健康を象徴する石がついているのよ。

――これまでで最も恐ろしかった瞬間は?

 2007年のある朝、ネパールのダウラギリで雪崩に遭い、テントごとさらわれました。流れが止まった時は真っ暗で、どっちが空で、どっちが地面なのかわかりませんでした。でも思ったんです。「息をしているから、大丈夫」ってね。いつも携帯している小さなナイフでテントに穴を開け、少しずつ外に抜け出しました。近くのテントにいたはずのスペイン人登山家を探しましたが、3人のうち2人は死んでいました。その瞬間、初めて山から逃げ出したくなったんです。

――そんな体験からどうやって立ち直ったんですか?

 同じ登山家である夫と話すことで救われました。あの悲劇をなかったことにする方法はないと悟りました。自分が山に登らずにはいられないこともね。1年後、私は同じ場所に戻りました。そうしたら、見たこともないほど美しい朝日が昇ったんです。喜びと悲しみって、時にはすぐ近くにあるものなんですね。

――同じ夢をもつ若者に、何かアドバイスをお願いします。

 一番大事なのは情熱。他人の言うことが、あなたにとってベストとは限らない。自分の魂、肉体、本能の声を聞いて。本当に好きなら、夢をつかむ方法は見つかるはず。でも情熱がなければ、方法が見つかっても無意味だわ。


祝 竹内洋岳氏8000m峰14座登頂

 ヨーロッパでは登山は一流のスポーツとして認められていて、スター級の登山家は英雄的存在であり、またたくさんのスポンサーがついていて大金持ちであったりして、たとえばラインホルト・メスナーは大きな城に住んでいる。
 しかし日本では登山は趣味の延長くらいの位置にしかなく、登山で飯を食っているプロは、ガイド業を除いては竹内洋岳氏、ただ一人しかいない。

 その竹内洋岳氏は、ヒマラヤ8000m越えの山(ジャイアンツ)14座の登頂に挑戦中であったわけで、私も去年そのことについて読書評を書き、「残すはあと2座のみ。栄光の日はいつ訪れることになるのか」と結んだのだが、それを書いて1年もたたぬうち、5月26日偉業達成となった。

 登山の行為のうち、この14座登頂がいかに偉業かというと、それはあのローツェ南壁登攀の次くらいの難易度といえばその凄さが容易に分かると思う。…分からんか。

 8000mを越える高さは、「デスゾーン」と呼ばれ、酸素濃度は平地の3分の1だし、低温、気候等、とうてい人間はおろか生物の存在できるところではない。
 それでも、先鋭的登山家は自然の摂理を無視して、デスゾーンを突破して8000m級の山の登頂に立つ。
 当然に危険極まる行為であり、死の危険が高い。
 8000m級の山に挑戦したさいの死亡率は、wikipediaに詳しくのっているけど、(→ここ)、登山術が発達した1990年以後の記録では、死亡率の高い順に、カンチェジュンガ 22% アンナプルナ 19.7% K2 19.7% と5人に1人が亡くなるというハード極まる山が並ぶ。近年観光化されフィックスロープが張り巡らされたエベレストでも4.4%の死亡率だ。
 確率計算でいえば、14座登って、命を失わずに下山できる可能性は約20%。10人トライして、2人しか成功しないという低い確率。しかもここでの失敗は、すなわち死ということであり、あらゆるスポーツでも死亡率80%なんて無茶な競技はこの「ジャイアンツ14座登頂」くらいなものである。しかもそれに挑む者はトップレベルのクライマーばかりなのであり、その10人のうちの2人しか成功できないというのは、とんでもない難事業なのであって、これを達成できたことは、すなわち国家表彰レベル、国民栄誉賞を与えていいくらいの偉業なのである。
 じっさい、竹内氏のパートナーで一足先に14座登頂を達成したラルフ・ドゥイモビッツ氏は表彰を受けている。

 ところで、竹内氏は日本人初のジャイアンツ14峰登頂者である。
 マナスルの初登頂が1956年の日本隊であることから分かるように、日本の登山の歴史は古く、実力ある登山者も多いのに、竹内氏が初めてであったのは、不幸な歴史がある。
 14座を狙っていた日本のクライマーには、山田昇、田辺治といった世界に誇るモンスター級の登山家がいた。山田昇は「史上最強の登山家」が代名詞であったし、田辺治はローツェ南壁の登攀成功者である。彼らは14座登頂の十分な資格者だったはずなのだが、残念なことに9座登ったところで、遭難死を遂げてしまった。
 9座というのは、日本の山岳会にとって嫌なジンクスとなり、この二人に加え、9座を登った名塚秀二も、9座登ったところで遭難死しており、そして竹内氏も10座目に狙ったガッシャブルムII峰登山中に雪崩に会い、瀕死の目にあっている。
 しかし氏は、破裂骨折した脊椎にボルトを埋め、懸命のリハビリを行い、1年後に同峰登頂のリベンジに成功している。まさに不屈の精神の持ち主だ。

 8000mを越える山の世界では、猛威を振るう大自然の前に、人間などほんとうにちっぽけな存在である。大自然のほんの気まぐれで、あっさりと人間は死んでしまう。じつに過酷な世界だ。
 けれども、それを当然のこととし、それでも己の精神と肉体を鍛えに鍛え、その神々の領域の世界に挑み、そして神の世界に届くような難行を成し遂げる人間がいる。

 極端な登山の世界をナンセンスと思う意見もあるだろうが、人類の歴史とは、ずっと自然へ挑戦を続けてきた歴史であり、そして、こういうジャイアント14座挑戦のような険しい挑戦と成功こそ、人類の力強さ、可能性を改めて知ることができる、大いなる「人間賛歌」であろう。

 その「人間賛歌」を聞くことができた、今回のニュースはたいへん嬉しいものであった。


2007年、10座目となるガッシャーブルム2峰の7000メートル地点で雪崩に巻き込まれ300メートル落下。腰椎と片肺がつぶれ、肋骨も5本折れた。生還したのは奇跡といわれた。この当時のブログは終わったと思える事態でした…

そこからの復活!

そして

竹内洋岳の8千メートル14座完登の道のり
1 マカルー1峰(8463メートル) 1995年

エベレスト山群の南東に位置し、世界で5番目に高い山。
2 エベレスト(8848メートル) 1996年

インド測量局長官であったイギリス人のジョージ・エベレストが世界最高峰であると測量したことから英名・エベレストがつけられた。チベット名のチョモランマはチベット語で「大地の母」、ネパール名のサガルマータはサンスクリット語で「世界の頂上」の意味。
3 K2(8611メートル) 1996年

インドの測量局が1856年からカラコルムの測量をはじめた際に、無名の山にカラコルムのKをとって順にK1、K2、K3、K4、K5と測量番号を付けた。K2以外の山については名前がつけられたり、現地の名前が採用されたりしたが、K2だけは測量番号がそのまま山名に残った。
4 ナンガパルバット(8125メートル) 2001年

カシミール語で「裸の山」を意味する。初登頂までに多くの遭難者を出したことから「魔の山」と恐れられていた。無酸素登頂。
5 アンナプルナ1峰(8091メートル) 2004年

人類が初めて登頂に成功した8000メートル峰。無酸素登頂。
6 ガッシャーブルム1峰(8068メートル) 2004年

カラコルム山域にある山で、氷河をかなり登った後でないと見えないので「ヒドゥン・ピーク(Hidden Peak=隠れた峰)」とも呼ばれる。無酸素登頂。
7 シシャパンマ(8027メートル) 2005年

チベット側の呼び名「シシャパンマ」は「牧草が茂る草原にそびえる山」。長い間、ネパール語で「聖者の住居」を意味する「ゴサインタン」と呼ばれていた。中国が外国登山隊を排除していたため、初登頂が遅れた。無酸素登頂。
8 カンチェンジュンガ(8586メートル) 2006年

ネパール東部とインド国境にあるシッキム・ヒマラヤの中心をなす山群の主峰。山名はチベット語で「偉大な雪の5つの宝庫」を意味する。1954年にエベレストが最高峰とされるまで、世界一高い山とされていた。無酸素登頂。
9 マナスル(8163メートル) 2007年

山名はサンスクリット語で「精霊の山」を意味するManasaから付けられた。8000メートル級で日本隊が初登頂した唯一の山。無酸素登頂。
10 ガッシャーブルム2峰(8035メートル) 2008年

中国とパキスタンの国境のカラコルム山脈・ガッシャーブルム山塊にある山。2007年に雪崩の事故に遭うも、翌年にリベンジを果たす。無酸素登頂。
11 ブロードピーク(8051メートル) 2008年

山頂の幅が広いことから「広い頂」を意味する「ブロード・ピーク」の名前が付けられた。無酸素登頂。
12 ローツェ(8516メートル) 2009年

ヒマラヤ山脈のエベレストの南に連なる世界で4番目に高い山。西壁は「ローツェ・フェース」として知られ、鞍部を通りエベレストへと向かうには高さ1125メートルに及ぶ氷壁を登らなければならない。南壁は標高差が3300メートルあり世界屈指の大岩壁で知られ、登攀は極めて難しい。ラインホルト・メスナーら世界の名だたるアルピニスト達の挑戦を退け、イイジ・ククチカやニコラ・ジャジェールらのクライマーが、ここに眠っている。無酸素登頂。
13 チョー・オユー(8201メートル) 2011年

所在地:ネパール・中国
シェルパ語でトルコ石の女神の意味。2001年には元F1レーサーの片山右京さんが登頂。無酸素登頂。
14 ダウラギリ(8167メートル) 2012年

サンスクリット語で「白い山」という意味。1808年に初めてヨーロッパで知られるようになり、カンチェンジュンガの存在が知られるまでの約30年間、世界一高い山と考えられていた。2012年5月26日午後5時30分ごろ(日本時間同日午後8時45分ごろ)、無酸素登頂。

2017.02.25 焼山登山口⇒蛭ケ岳⇒大倉バス停14:26着

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膝が痛いのと


裏丹沢は凍結の道

蛭⇒塔は田圃道

大倉尾根は足が残っていない



2016
年末現在

 2566塔ノ岳2579

 1381丹沢山1393

 1216蛭ヶ岳1228

  634姫 次645

  157青根159

    6平丸7

  423焼 山429

  419焼山登山口425

  406三ケ木412

  291橋本駅北口291

   37大山38

    3大山三峰4



運命の登山家 みなやまりん

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 谷口さんが登山を始めるきっかけとなった冒険家、植村直己は1984年2月、米アラスカ州のマッキンリー山中で行方不明となったが、遭難死に至るまでの詳しい経緯は30年以上たった今も明らかになっていない。自分の限界を追求する登山家の最期は概してそのようなものである。天から授かった「享年」はともに43。人間の生涯としては悔やまれるが、登山家としては決して短かったわけではない。合掌。

内氏の登攀スタイルは、
シェルパなどに食料などの荷役をさせないで、
また、
高度8000m級の山の酸素濃度は地上の25%くらいになってしまうが、
酸素ボンベ無しで高峰に挑む。

この登攀スタイルは、
アルパインスタイルと言われ、
食料などの備蓄がとぼしいこともあって速攻、短期攻略で頂上をめざす。

竹内氏は、
14座中10座をこのアルパインスタイルで登頂した。


14座登頂には偶然とは言いがたい、不思議なジンクスがある。
10座目の登頂をめざしているときに、
多くの登山家が命を落としているのだ。
2桁直前の「9」は、
不吉なプレッシャーを与える数字なのだろう。

14座登頂を果たした竹内氏も、
2007年、10座目のガッシャーブルムⅡ峰の登攀時に、
雪崩に遭って300m転落して再起不能になりかねない大けがをしている。



日本人で8000m峰14座中最多の記録を持っている登山家は最多で9座だ。
なぜか、この9座の記録を持っている登山家が4名もいる。

山田昇、名塚秀二、田辺治、近藤和美氏で、
すでにそのうち3名は故人で全員が10座を目の前にして山で遭難死している。

 山田昇は、名実ともにまさしく「山だ!昇る!」を体現した登山家だ。
 くったくのない朴訥とした明るさで誰にも好かれ、
 極限状況にあっても他者へのやさしさを忘れない希有な登山家だったようだ。
 しかし、
 登山の自慢話が嫌いで、
 山行の記録をあまり残さなかったのでマスコミにはあまり出なかったので一般の知名度は低い。


山田さんはまさに「ヒマラヤを駆け抜ける男」だった。群馬県沼田市のリンゴ農家に生まれ、高校山岳部時代から登山を始めて、社会人になって上京した後も故郷の群馬県沼田市にある
沼田山岳会で活動した。やがてずば抜けた登山のセンスと誰からも慕われる人間性から、群馬県山岳連盟への入会を勧められた。
当時の群馬県山岳界は直ぐ近くに岩壁登攀のメッカである谷川岳が控えていながらヒマラヤ登山では他県に比べて遅れていた。
その群馬県でも1970年以降ヒマラヤ登山への気運が高まり、群馬県山岳連盟の中に「海外登山研究会」が作られた。
若手のホープだった山田さんもその1員となった。

山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。

1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)

1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂

この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀

現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。

ドキュメンタリー作家 故 佐瀬稔氏著 「ヒマラヤを駆け抜ける男 山田昇と青春譜」
現 群馬県山岳連盟副会長の八木原圀明氏著 「8000mの勇者たち 山田昇とその仲間の足跡」
これらには山田さんの人生、ヒマラヤ登山、そして冬のマッキンリーで消息を経つまでの事が書かれている。

山田さんがこれほどの山歴を持ちながら、日本のマスコミに注目されなかったのは、その人柄からだった。
自分の登山歴を決して人に誇る事がなく、自分のヒマラヤ登山を黙々と実践し、楽しんだ。それ故に多くの登山仲間から慕われ、
その為に、多くのヒマラヤ登山隊から誘われて参加した。
これを書いている私も含めてそうだが、人はとかく自分のした事に対して、人に話したがったり、自慢したがったりするものだ。
まして命がけのヒマラヤ登山の様な冒険なら尚更そういうものだ。
現在もたいした登山をしていないのに、それをマスコミに売ってテレビ出演している残念な登山家がいる。
日本のマスコミもそのような登山家を受け入れている。本物の登山家はまだ多くいるはずなのに。

山田さんは気が付いたら日本人初のヒマラヤ8000m峰14座全山登頂への記録に近づいていた。
全山登頂へのチャレンジを登山の先輩や仲間から後押しされ、
やっと本人もその気になった感じだった。
1988年5月5日に日本テレビがチョモランマ(エベレスト)の頂上から生中継に成功した。
その時は山田さんがチョモランマ(エベレスト)南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)に成功した時だ。頂上撮影隊に先行して山田さんたち
縦走隊が中国側から頂上を経由して、ネパール側に縦走した。テレビはその一部始終を放送していた。
私はこの生放送をテレビで見ていた。山田昇という登山家をこの時初めて知った。正直、格好いいと思った。
その時から山田さんと群馬県山岳連盟のファンになった。

しかしそれから間もなくして山田さんは冬期5大陸最高峰登頂の記録を賭けて登った冬のマッキンリーに消えた。
本気で8000m峰全山登頂に心を燃やし始めた矢先だった。
私が山田さんの多くを知ったのはそれからだった。
山の清涼な空気を感じさせると言われたその人柄も含めて、ぜひともこの不世出の登山家に会いたかったと思います。

アルピニスト 極限を目指す人たち  今は昔

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K2(ケーツー)は、カラコルム山脈にある山。標高は8,611mで、エベレストに次ぐ世界第2位の高さである。パキスタンのギルギット・バルティスタン州( .... 1982年8月14日 - 日本山岳協会合同登山隊(登攀隊長・小西政継)の坂下直枝、吉野寛、柳沢幸弘が、中国側の北壁からの登頂に初めて成功。

977年8月8日 - 日本山岳協会登山隊の第二次アタック隊員・重広恒夫、中村省爾、高塚武由が日本人初登頂。 ... 2011年8月23日 - オーストリアの女性登山家ゲルリンデ・カルテンブルンナーが、北稜を無酸素登頂し14座制覇を達成。





坂下直枝さんが2012年岳人8月号に書かれた「30年後」、というエッセイについて書く失礼を、まずご本人にお詫びしなければならない。承諾も得ていないが、感想文だと思ってご容赦願いたい。
ヒマラヤ8000m峰の頂きが全て登られた三十数年前、イギリス、ポーランドなど世界の先鋭的登山家たちは、ヒマラヤの冬季登攀や、困難なバリエーションルートからの登頂を目指すようになった。この新しい流れは「ヒマラヤ鉄の時代」と呼ばれ、日本の登山家たちもまたその戦列に加わった。坂下直枝はその中にあって活躍した人だ。この時代、大勢が困難な未知のルートから高峰を目指した。そして少なからぬ人たちが命を落とした。
「30年後」は植村直己、中村進、大谷映芳などと同じ時代にヒマラヤに青春を賭け、困難な登攀に挑んできた坂下直枝の、1982年のチョゴリ(K2)遠征から今日に至るまでの心の軌跡を綴ったものだ。植村さんは1984年2月、冬のデナリで消息を絶ち、中村進さんは2008年にクーラ・カンリの雪崩で死んだ。
「終わった山について語ることは命の燃えかすを語るようなものだ。」文中の言葉通り、坂下さんは過去の登山について多くを語ってこなかった。苛烈な戦争体験を兵士が語らないように、登山家もまた多くを語らない。「記憶は残像に過ぎない。」戦いに生き残った人は思いを反芻しながら黙々と生きる。生が尊いものだということを、心の奥底が知っているからだ。

登山家として優れた業績を残した坂下さんは、経営者としても成功を収めた。坂下直枝はクライミング用品の輸入商社、ロストアローの代表だ。穏やかで誠実な人柄と優れた経営手腕が信頼を高め、ビジネスを成功させてきた。坂下直枝はまた日本を代表する登山家として、世界の登山家との交流を深める役割を果たしてきた。
8000mを超える高所で人は生きられない。平地の3分の1に満たない薄い空気、強烈な太陽反射と寒冷、それらが人間の生命を蝕む。高所登山は人間が自らの意思で行う最も過酷な行為だ。そこに登り、生きて還るためには何が必要なのだろうか。それよりもなぜそのような所へ行こうとするのだろうか。坂下直枝はこれに挑み、多くの過酷な状況を乗り越えてきた人だ。
氏の気持ちを推し量ることなどできない。しかし「30年後」を読んで、私はほんの少しだけ坂下直枝の気持ちが理解できたように思った。この原稿は同じ時代に生き、死んでいった人たちへの鎮魂の祈りとも呼べるものだ。「生きている限り、それらの記憶は消えることなく灰として積層していく。それでは死んだ友が残したはずの深い灰の層はどこに浮遊しているのだろうか。」
1985年冬、坂下直枝はパタゴニアのイボン・シュイナードとともにニセコの我が家を訪ねてくれた。札幌秀岳荘の金井社長が連れてきてくれた。その年、坂下直枝はアマダブラムで一人の友を失っていた。
ニセコに来た目的はテレマークスキーをするためだ。坂下さんにとってはスキーをすること自体が初めてだった。アンヌプリ山頂北斜面の氷化した斜面をテレマーク姿勢で滑る坂下さんの下を、私は転倒したら飛びついて止めようと一緒に滑った。坂下直枝は転ばなかった。シュイナード氏はニセコのパウダーが気に入ったようだ。イボン・シュイナードは朝から日が暮れるまで森の中を滑っていた。そして宿帳に「ベター・ザン・コロラド・スノー」と記した。
イボンはその後も何度かニセコを訪れた。坂下直枝は翌春、単独で北アルプスのどこかをテレマークスキーで縦走したという。しかし後になってもうスキーはしないと言ったのを聞いた覚えがある。栄光と伝統の山学同志会会員の坂下直枝にとって、スキーとはやはり不らちで無駄なものだったのだろう。
この時代、私もまた極限を目指す若者の一人だった。1986年にネパールヒマラヤ、チャムラン遠征の準備をしていた私は、坂下さんに助言を求めた。私たちが目指していたのは当時の先鋭的な登山とは程遠い、時代遅れのオーソドックスなものだった。またアプローチのキャラバンもモンスーンの東ネパールを横断するという、いささか時代錯誤の遠征だった。しかし物事には順序というものがある。当時の私は先人の辿った道から学び、やがては自分たちの力による8000m峰へと夢を膨らませていた。
坂下さんは親切にアドバイスしてくれた。そして自分は必ずしも高所に強い方ではないこと、酸欠を避けるためにテントの入口を開けて寝ることなどを教えてくれた。また単独で登った冬のアンナプルナでヒドンクレバスを2枚突き破って墜落し、奇跡的に生還したことや、ヒマラヤ登山の危険の数々を話してくれた。イボン・シュイナードは私たちの話に興味を持って聞き入っていた。そして私の計画がアルン川上流のホングー谷の山だということを知ると、「それはチャムランか」と、目標とする山の名前を言い当てた。チャムランを知る人は少ない。イボンは以前にバルン氷河からアンブラプチャを越えたことがあるという。私はイボンの知識と経験に驚嘆した。
イボン・シュイナードはヨセミテ開拓期の優れたクライマーだ。彼は集まってくるクライマーに自作のピトンを売って生計をたて、また頑丈なスタンダップ・ショーツなる半ズボンを作って成功し、今日のパタゴニア社の創始者となった。
坂下さんはイボンに「高所登山は続けると必ず死ぬからもうやめろ」とよく言われると話していた。1982年のチョゴリ遠征の後で、イボン・シュイナードは坂下直枝をパートナーとして、ダイヤモンドCのロゴで有名な登攀用品の日本進出を始めた。
1976年、山学同志会はジャヌー北壁へと遠征し、16人の登頂者を出した。また1980年のカンチェンジュンガ北壁では無酸素で7名が登頂した。この時代の山学同志会は日本でもっとも優れた登山家集団だった。これはひとえに会を率いた小西政継の強烈な個性と、卓越したリーダーシップによるものだ。そしてそれは坂下直枝をはじめとする山学同志会の優れた登山家が支えたからこそ成し得たものだ。
1982年、日本でもっとも強い登山家たちが小西正継を登攀隊長としてチョゴリ(K2)を目指す。坂下直枝は常に先頭に立ってルートを開き、チョゴリ北稜の初登攀を果たして山頂に立った。しかし登頂後の8000mを超える高所でのビバークの翌日、共に山頂に立った柳沢幸弘隊員が遭難死した。更に坂下はこの遠征で長年共に歩んだ盟友、医師の坂野俊孝までも失ってしまう。原稿の中で氏は柳沢と、遅れて登頂した吉野寛の二人を残して一人下降したことを悔いる。そして自問自答する。しかしその評価は誰も下せない。生き残った者だけがその事実を反芻し続ける。
1983年、山学同志会は秋のエベレスト南西壁を目指す。しかしこの時、戦術面で小西正継と対立した坂下は小西と袂を分かち、遠征への参加を取りやめる。坂下直枝はチョゴリの反省を踏まえ、本来あるべき登山の姿をエベレストで実践することを小西正継に主張した。それは無酸素、アルパインスタイルという、当時、世界の先鋭的登山家の中での潮流となりつつあったスタイルだった。しかし確実な成功を得ようとする小西はそれを否定した。前年のチョゴリで坂下、柳沢とともに頂上に立った吉野寛と、同じく遠征に参加した禿博信はこのエベレスト遠征に参加した。そして無酸素で山頂に立った後に遭難死した。
1985年、坂下直枝は山学同志会の若い登山家たちとクンブー合宿を行う。それは東ネパールの秀峰、チョラツエ、タウジェ、アマダブラムを小グループに分散してシンプルに登るというものだ。この遠征で坂下直枝はクライミングとは関係のないすべて、つまり大がかりな準備や装備、シェルパや固定ロープあるいは酸素、そして高所キャンプといった、つまり遠征という言葉にまつわる全てを排そうとした。だから遠征とは呼ばず、日本国内の山行と同じという意味で合宿という言葉を用いた。計画は順調に進み、全ての課題が成功裏に終わろうとしていた。しかしアマダブラム登頂後の南西稜の下降で、石橋真が転落死してしまう。石橋は坂下直枝が最も信頼し、期待していた後輩だった。
2011年5月、日本で最もヒマラヤ経験が豊富な尾崎隆がエベレスト南東稜で遭難死した。尾崎もまた、1982年チョゴリ北稜遠征の坂下の盟友だった。1996年のマナスルの小西さんの死に続き、尾崎さんまでもが鬼籍に入ってしまった。坂下直枝の胸に去来したものは何だっただろうか。
「ふと、この青い滔々とした流れが、タリム盆地を横断するタリム川の支流であることを思い出す。この大河は、タクラマカン砂漠を東へ東へと遥か数千キロ流れて次第に熱砂の中に吸い込まれ、やがてロプノール湖に達した後に消えてしまうという事実に気づいたとき、何か啓示にも似た感慨に襲われ、彼ら二人の運命がこの川の流れのようにも感じられて、深い畏敬の念に打たれた。」坂下直枝はチョゴリで死んだ友を想い、帰途のキャラバンでの印象をこのように綴っている。
坂下は登山という行為が日常、非日常の区別なく人間の業に根ざす、「諸行無常」なものと感じたのかもしれない。死は全ての希望を奪い去る。生かされてきたことを知った時、人はその幸運に感謝し畏怖する。同時にそれまでの無知を恥じる。坂下さんが自らの思いを反芻し、それを昇華させるのに30年という年月を費やしたことに私は感動した。
今日、時を経てアルピニズムは変質したかに見える。しかし30年前に坂下直枝や大勢の登山家が求めた流れは今も滔々と流れ、次世代に受け継がれている。彼らは真摯に山に向き合い、困難なクライミングに情熱を傾けている。最近、和歌山の那智の滝を登って捕まった人がいるという。神聖を冒涜する行為に思いが至らなかった無知は恥じなければならない。しかし萎縮してはならない。戦時中がそうだったように、いつの時代も登山は時に反社会的行為と看做される。そして正義を語る人たちによって糾弾される。
那智の滝の登攀は天に唾することかもしれない。しかしカイラスを巡礼する盗賊のように無知を恥じて詫びれば良い。「昔、3人の天狗が恐れ多くも滝に手をかけ、バチが当たりそうになった。しかし赦されて峰々を攀じる修行に励んだ。」やがて彼らは天狗になぞらえられるかもしれない。私は場所がどこであれ、そこを登ろうとする精神に反対しない。登山とはそもそも神々が坐す峰々を攀じる行為なのだ。
私は20年以上も山の世界から遠ざかり、日々の暮らしに追われて昨今の状況に疎い。私と山との関わりは、生活の場であるニセコで人々を雪崩事故に遭わせないようにすることだけだ。私はそこに住む者の責任としてこれを続けている。
事故の多くは過信が引き起こす。そして過信は無知ゆえに生まれる。無知は罪だ。私は自由の尊重と他者への配慮が大切と考えている。それが知慧と慈悲の心なのだと思う。
現代は多様な価値観という言葉で、本当に価値あるものが退けられる時代のように思う。価値あるものはそう多くはない。やるに値することを探し当て、生を全うすることは、砂漠で針を探すほどに困難なことだ。アルピニズムとは、その数少ない価値あるものなのだ。ガラパゴス化という言葉があるそうだ。その地域にしか通用しない進化を否定的に指す経済用語だという。私の辿った道もまたガラパゴス化と呼べなくもない。他の知識や技術との互換性がないからだ。しかしそうすることで私は生きてきた。日本のアルピニストも独自の進化を遂げれば良い。経済原理だけが真理ではない。
私は次の冬に若者が再び真摯に雪山に向き合うことを願う。その時に坂下さんが書いたことをぜひ思い出してほしい。坂下直枝はこう書いている。「自分の若い時代に行った多くの山行に、不細工ながらもそれぞれの小さな結晶を添えることができるとすれば、それぞれの登山は自分の記憶の中で、より輝きを増すのかもしれない。」坂下直枝は登山の記憶が灰となって凝縮し、思考という熱と圧力によってやがてダイヤのような結晶になるのではないかと、「30年後」の最後に綴っている。



中国側(北側)からアプローチするのは困難なため、ほとんどの登山者はパキスタン側からアプローチをする[1]。登頂の難しさでは世界最高峰のエベレスト(標高8848m)よりも上で、世界一登ることが難しい山とも言われる。その理由として、人が住む集落から離れていることによるアプローチの困難さ、エベレストよりも厳しい気候条件、急峻な山容による雪崩、滑落の危険性などが挙げられる。K2登山に関しては一般的なルートでさえ、エベレストのバリエーションルートに匹敵するといわれる。これらの困難さから、冬季における登頂が未だ達成されていない唯一の8000m峰となっている。遭難者の数も多く、2012年3月までの時点で登頂者数306人に対し、死亡者数は81人に達する[3](その時点でのエベレスト登頂者数は5656人[3])。チャールズ・ハウストン、ロバート・ベイツ共著の書籍のタイトルから「非情の山」とも呼ばれる[1]。

2017 東京マラソン  


Gerlinde Kaltenbrunner、女性初の無酸素で8000m峰全山登頂

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オーストリアの Gerlinde Kaltenbrunner が 8月 23日に北陵から K2 に無酸素で登頂し、女性として初めて全ての 8000m峰に無酸素で登頂した女性になりました。彼女は竹内洋岳さんとも過去に何度か登っています。


また、今回は 4人パーティで登っていますが、他の 3名、Vassily Pivtsov、Maxut Zumayev、Darek Zalusk も無酸素での 8000m峰全山登頂を達成しており、これにより 8000m峰全山登頂者は 26名になりました。このうち半分の 13名が無酸素で達成しています。

彼女は K2 へは 4回目のトライとなり、昨年の遠征ではツアーメンバーを亡くしています。ちなみに旦那の Ralf Dujmovits も 8000m峰全山登頂を達成しています。
関連リンク

ゲルリンデ・カルテンブルンナーはオーストリアの登山家。女性として初めて8000メートル峰全14座の無酸素登頂に成功した。酸素ボンベ使用下での8000メートル峰全14座の登頂者としても、2人目の女性登山家となる。名前はガリンダ・カールセンブラウナーと表記されることもある。 ウィキペディア
生年月日: 1970年12月13日 (46歳)
生まれ: オーストリア キルヒドルフ・アン・デア・クレムス

高尾駅⇒6号路⇒南高尾山稜⇒城山高校前⇒橋本駅北口11:36着

【放射能警報】 東海地方が3月7日より、 トリチウム汚染地域になります!

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スターライトのブログ さんより

岐阜が危ない!シェア・拡散 よろしくお願いします
http://ameblo.jp/moonpin/entry-12248517592.html

<一部引用>

恐ろしい事実。。。。

それは
3/7より岐阜県の土岐市
核融合実験が開始されるとのこと




これによって土は汚染されて
水源にもあたるので
水も汚染される

こんな身近なところでの実験。。。
ホントに怖くてたまらない

もし万が一のことが起きれば
わたしの住んでるところは
もちろんのこと
もはや日本には住めないと
思ってます。。。

東北の震災をみてる限り
国から何の補償もありません

今できることは
声をあげ行動にうつすこと!!
1人でも多くの人に知ってもらうこと!!

もう起きないでしょ~
たぶん大丈夫でしょ~
じゃなくて
起きてからでは遅いんです!!


岐阜だけの問題ではなく
東海地方だけの問題でもなく
日本全体の問題です!!!!!!


今できること

市民東海地方が福島の二の舞になるかもしれません。

土岐市の核融合科学研究所の核融合の実験が
3/7〜7/7の4ヶ月間もの火曜〜金曜の9〜18:00、
15分おきにあり、
発ガン性の高いトリチウムが出るそうです。


①実験により放射性物質のトリチウムが
大気に放出されます。
拡散され薄まると言っていますが、
雨や雪が降ったら地上に落ちてきますよね。

②最初土岐川に流すと言っていたトリチウム水は
アイソトープという回収業者に引き取ってもらうそうです。
しかし、その回収業者はどこを通ってどこに保管するのか?
途中で事故や災害にあったらどうするのか?


③実験施設のコンクリート壁は
放射能により傷が付き、
放射能を含んでしまい、
その壁を一ヶ月に一回換えるそうです。

同じくそのがれきはどの様な経路でどこに保管されるのでしょうか。


<引用終わり>
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岐阜県土岐市のトリチウムと重水素の実験は
核ミサイルのブースティング機能の研究か?
http://ameblo.jp/64152966/entry-11459078172.html

核融合「D-D実験」では、
中性子線 と トリチウム (弱いベータ線を出す放射性物質)が発生する。

色々とこの実験の意義を講釈していますが、あくまでも建前論。
早い話、トリチウムが大量に欲しいのでしょう。
このトリチウムを水爆に使うと、その爆発力は、
原爆の何千倍もの破壊力をもった爆弾 になるそうです。

それによって、核ミサイルもより小型化出来ますし、
機動性に優れ、すさまじく高性能の核ミサイルシステムを構築出来る訳です。

トリチウムと重水素を添加すれば、水爆は飛躍的に爆発力が上がる。
これをブースティング機能 といいます。
現在のアメリカの核ミサイルには、
ほとんど全て、このブースティング機能がついています。
同時に、今や、核技術最先端開発競争の最重要アイテムになっています。

聡明な皆さんには、もうお分かりでしょう。
これを日本にやらせているのは、アメリカです。

岐阜県土岐市で生産されたトリチウムは、
千葉県柏市に集積されるそうです。
集積地の千葉から、米軍基地に送られる可能性が大です。
空路だと、大方、横田軍用飛行場か厚木米海軍飛行場でしょう。
海路で運ぶなら、横須賀米海軍基地から搬送されることになります。

行き先は、無論、アメリカ軍事基地です。
大体、日本は米軍の為の核ミサイル用プルトニュウム製造工場と云われています。
原発の近くには、必ず、米軍基地があるでしょ。

核爆弾の原料も、そして、ブースティング機能のトリチウムも
日本が米国に作るように命令されてやらされているのは明白です。
難しい学術専門用語ばかりに、目を奪われていては駄目です。
真相は、到ってシンプルです。



DNA の中に入ると危険
http://tabemono.info/report/former/genpatu5.html

トリチウムは、弱いベータ線を出します。
このベータ線は細胞内では1ミクロン(1000分の1mm)ぐらいしか飛ばないので、
血液として全身をめぐっている間は、遺伝子DNA をほとんど攻撃しません。
ところが、トリチウムが細胞に取り込まれ、 さらに核の中に入るとDNA までの
距離が近くなるので、 ここからは、放射性セシウムや放射性ストロンチウムと
同じようにDNA を攻撃するようになります。

トリチウムには、この先があります。

化学的性質が水素と同じなので、水素と入れ替わることができるのです。
DNAの構造には、水素がたくさん入っていて、トリチウムがここに入っても、
DNAは正常に作用します。

問題は、放射線を出したときで、トリチウムはヘリウムに変わります。
そうなると、放射線で遺伝子を傷つけるのに加えて、ヘリウムに変わった部分の
DNA が壊れて、遺伝子が「故障」することになります。

この故障がリスクに加わるので、トリチウムはガン発生確率が高くなるのです。
遺伝子が故障した細胞は生き残りやすいので、ガン発生率が高いとも考えています。

そのことを裏付けるような訴訟がアメリカで起きています。
シカゴ郊外で100 人以上の 赤ちゃんや子どもがガンにかかった(先月号p6)のは、
事故を起こした原発から放射能が出たことが原因ではありません。

正常に運転されている原発から出ているトリチウムが、飲み水を汚染し、
放射能の影響を受けやすい赤ちゃんや子どもにガンを発生させたとして、
訴訟が起きているのです。



■ 子供達の命を奪ったのは誰?
http://www.sting-wl.com/yagasakikatsuma11.html

2011年12月28日に放送されたNHKの報道ドキメンタリー番組
『追跡!真相ファイル』
の「低線量被ばく 揺らぐ国際基準」の中から
トリチウム が取り上げられた部分だけを一部引用します。
以下が一部引用です。

世界一の原発大国、アメリカ。
ここでは、より影響を受けやすい子供達に深刻な問題が起きていました。
イリノイ州シカゴ郊外。

周辺に3つの原発が集中しています。
原発から排出される汚水には放射性トリチウムが含まれていますが、
アメリカ政府は国際基準以下なので影響はないとしてきました。





しかし近くの街では、子供達が癌などの難病で亡くなっていました。
6年前に建てられた慰霊碑。

足元のレンガには、これまでに亡くなった100人の名前が刻まれています。

これが亡くなった息子の写真です。
この痛みは誰にも伝えずに抱えてきました。

住民を代表し、被害を訴えている親子がいます。
シンシア・ソウヤーさんと、その娘セーラさんです。
セーラさんは10年前…突然、脳腫瘍を患いました。
治療の後遺症で18歳になった今も、身長は140センチほどしかありません。


セーラさん
「みんな死んでしまったのに、
私だけが生きていて悲しいです」




セーラさんが脳腫瘍になったのは、この街に引っ越してきて4年目の事でした。
シンシア・ソウヤーさん「セーラはあの井戸の水をまいて遊び食事をしていたんです。
病気になってからは、シカゴから水を取り寄せるようになりました。
怖かったので、その水で料理をし、皿を洗い、歯を磨かせていました」

ソウヤーさん夫妻は、癌と原発との関係を証明するため
州政府からあるデータを取り寄せました。
過去20年間、全住民1200万人がどんな病気にかかったかを記した記録です。
小児科医の夫、ジョセフさんが分析したところ。

原発周辺の地域だけが
脳腫瘍や白血病が30%以上も増加。

中でも小児がんはおよそ2倍に増えていました。
ソウヤーさん夫妻は全住民の徹底した健康調査を国に求めました。

しかし国は「井戸水による被ばく量は年間1マイクロシーベルトと微量で、
健康を脅かすことはない」と、回答してきました。

シンシア・ソウヤーさん「あまりに多くのものがセーラから奪われてしまいました。
低線量の被ばくが何をもたらすのか知ってほしいのです」

治療の後遺症で右手が麻痺し、今も思うように動かすことができません。
被ばくから健康を守るための基準があるのに、
自分のような被害が後を絶たない事にやりきれない思いを感じています。

セーラさん
「科学者には、私たちが単なる統計の数値でないことを知ってほしい。
私たちは生きています。空気と水をきれいにしてください。
たくさんの苦しみを味わいました。誰にも同じ思いをしてほしくはありません」






試運転中の六ヶ所再処理工場で大量のトリチウムを放出している
というけど、試運転って一体何をやっているのか、本当のところは
国民に知らされません。

なのに、
岐阜で生産して大量排出したらどうなるの!?

六ヶ所再処理工場の青森は一体どうなったか!?


都道府県別ガン発生率
http://ameblo.jp/64152966/entry-12091311616.html

国立がん研究センターによると、2014年の都道府県別のがん死亡率
(人口10万人あたり何人ががんで死亡したか)で最も高かったのは
青森県で、2004年から 11年連続でのワースト となりました。




【死せる水トリチウム】
三重水素の恐怖の正体とは?矢ヶ崎克馬教授
http://www.sting-wl.com/yagasakikatsuma11.html

<概略>

トリチウムの放射線のエネルギーは小さいですが、しかし、
エネルギーの高いベータ線より相互作用が強く、
電離の密度が10倍ほどにもなります。

電離とは分子切断のことで、DNA~遺伝子を構成するタンパク質の
分子を破壊することを意味します。
その力が、他のベータ線よりも10倍強い訳です。

トリチウムは空気中の水蒸気、又は降雨、海水に溶け込んでおり、
水道から、呼吸から、海産物から摂取され、体内が被曝するのです。

その放射線量は、プルトニウム、ストロンチウム、ウランよりは
少ないのかもしれませんが、身体は「水」と判断し、対外に排出されず、
細胞内にまで入り込みDNAを破壊します。







<転載終了>

いつまでアメリカにシッポ振り続けるんだ? 売国奴の安倍晋三が、命乞いで差し出したカネが100兆円w 100兆円の命乞いw

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世界の投資家 ジム・ロジャーズが安倍に成績を付けるとすればF(落第)
・安倍氏は大惨事を起こした人物として歴史に名を残すことになるでしょう
・これから20年後に振り返った時に、彼が日本を崩壊させた人物だと皆が気付くことになるでしょう
・アベノミクスは3本の矢がありますが3本目の矢は日本の背中に向かってくるでしょう
日本を崩壊させることになるでしょう
・紙幣を刷る事と通貨価値を下げることで経済を回復させることは絶対できない
http://i.imgur.com/L0ha7g2.jpg

ヒトラー支持され、20年後、総スカン
安倍支持され、20年後、総スカンとなるでしょう
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安倍第二次政権以降、バラ撒いてきた金の総額は
官民併せて54兆円らしいww
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日本が投資

日本のゼネコンが工事を受注

アメリカ人労働者雇用

でウィンウィン

1兆ドルじゃ全然足りないんだが、トランプのやることはちょっと無理だと思うよ。
この人倒産して踏み倒しの名人だから同じことをしようとしているんだろうが
国家間の取り決めはそんな単純じゃないぞ、官僚は東芝とは違うぞw
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2017「年金大虐殺」
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わかった。
日本が持つ米国債を大量売却してカネを貸し付けたらいいのだ。
問題あるまい。
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アメリカに安倍晋三記念大学が建ちそうだな
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返って来るときは100円くらいになる予感。
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ロス米商務長官 「100兆円を出せ!今出せ!すぐ出せ!もっと出せ!」

・・・どこの押し込み強盗やねん。。。カネカネキンコと変わらん。
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東芝みたいになるんだねw
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クソワロタ
ダウは超天井でバブル同然なのにここからアメリカの株を買えとか本当に最悪だな
俺マジで将来日本から出てくわ
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ちゃんとオアフ島くらいは、担保に入れとけよ。
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そりゃ役所に鍵かけさせるわけだ
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売国ってこういうのじゃね?
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国内はもうそんな余裕無いのに、国内をどうにかすべく
投資してよ
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完全にアメリカの植民地になったのか・・・
与党も野党も外国の犬、国民の権利を侵害するクズばかり
本当にこの国は民主主義なのか?
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すでに年金でアメ株買って史上最高値を更新してるだろ
これは年金で米人所有のアメ株を引き受けてるんだよ
米人が高値で売り尽くしたら買い手がいなくなって暴落
差額はアメリカの儲けだよな
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アメリカ政府「安倍首相がんばれー!安倍首相がんばれー!」(ATMを)
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日本政府の年金基金は 「破綻寸前」です。
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なぜ?超健全財政で史上空前の財政黒字を出しているドイツに言わないのか? フェアじゃない。
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↑ドイツには安倍がいないからね
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日本国内じゃクズが保育所すら満足に建てない現実は見ず、
こういった難癖にはホイホイと金を出すのが自民の現実なわけだが
腐れネトサポは100回死んでも、株さえちょっと高ければ満足なのだろう
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一、 日本人および日本国内を"充実化"させる政策は死んでも絶対に実行しない
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二、  外国人への依存を前提とした"効率化"の政策ばかりを猛推進する。 無自覚の依存心の塊。
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こんな有難い申し出はないのに、ざっと見たら批判ばかりでワロタ
アメリカがデフォルトするわけもないので貸出先としても良いし
金余りで、簡単に円高になりやすい日本には円高防止にもなる
最高の提案、否定する理由は何もない。
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三回も破産している「踏み倒しの名人」に100兆円w 笑い話にもならないw

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安倍「5000億ドルって言ったじゃないですかあっ!」
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引き上げる自由があるなら別にいいかなって気がする。
問題なのは引き上げようとした段階でアメリカに圧をかけられて
結局そのままになりそうな点。

やめといた方が無難なのは確か。
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日本が搾り取られるだけ搾り取られて鶏ガラになったところに

さっそうと笑顔で中国が登場して
更なる莫大な投資をアメリカに提案して
米中ニコニコというシナリオが見えてくるような見えてこないような。。。
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ゆうちょ逃げて~
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今現在日本の年金は外国に52兆円投資してるわけだが
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なおネトウヨは無職なので最初から年金払ってません
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AIIBから借りれば?
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1兆ドルも投資すればドル高円安になる
投資がうまくいっているうちはいいが、都合が悪くなったところで
為替操作国認定というところだろう
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トランプが公約してる財政出動額の全額分じゃんw
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金利いいから最高!
とか言っても為替であぼーんじゃないの?
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円建てとか言ったらアメちゃん怒るかなw
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年金ドロボー国と国有地ドロボー首相のコンビは最強だなwwww
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安倍・・・売国奴そのまんまじゃん
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中国も韓国も北朝鮮もロシアも
アメの極東アジア戦略に協力させられてるだけなのにw

安全保障を米国に委ねているからしょうがないって...
どんだけおめでたい思考してるのか...
このままじゃ中国や北朝鮮にやられる前にwアメにやられるだろw
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ほんとコレ
日本に資金出させ、日本国内空洞化させてまで中国を富ませたのは
アメリカの命令。
それで中国が富んで国防に金をかけ出したら
日本に中国脅威論を持ちだしてアメリカの武器販売。
そもそも中国の装備もイスラエル経由ロンダリングで米国の技術とかw
戦争プロレスで人口調整はもう犯罪。
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トランプ政権は大崩れする。
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110兆円かよ。これを実行したら安部内閣は倒れるだろうな。
インフラだから長期間だし、いったん関与したら抜けるのは不可能。とんでもないことになる
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どれくらいの期間かけるか知らんけど
さすがに100兆もぶっこんだら為替に影響するだろw
円安マンセーやめるのか?
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安倍なら日本人を追い込みたい一心で年金ぶっ込みかねないな。
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朝鮮ファースト自民党
日本の年寄りには金は出さないが、
外国の為ならいくらでも出します
日本人はSHINE
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代わりにグアムちょーだい
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トランプ政権の財政政策が見えてきたね。
・法人税と所得税の大幅減税
・国防費の増強
 (その代わりに、非国防費を削減)
・1兆ドルのインフラ投資
 (すべて財政出動ではなく民間資金)
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トランプからアベジョンイルに接待の請求書が届きましたね
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アメリカ人は個人でさえ借りたもん勝ち人生楽しんだもん勝ちの気質だからね踏み倒すことばっかり考えてる
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あかんあかんあかんあかんあかん
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世界一の核ミサイルと軍事力で守られてるアメリカに投資するのを嫌うのって、
たぶん、中韓の手先だろ。
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↑アメ公が戦わんかったら、この世に南朝鮮はあらへんからな
゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○
朝鮮人がアメ公好きなのはようわかるで
神国日本の日本人にとってアメ公は占領国であり敵国や
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「優良な投資先としてなら全く構わない(キリッ)」とか書いてるバカに聞きたいんだけど、
砂漠に立ってる壁を作ったとして、
1.そこからどうやって運用益を得るのか
2.現金を壁に変えちゃったのにどうやって元本の回収ができるのか
解ってて書いてるのか?
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安倍さんに名誉アメリカ人の称号
をあげよう
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めんどくせえから
日銀が直接アメ国債買えるようにしろ
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↑アメリカも日本の国債かってくれたら永久機関の完成だな
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日本の米国債はアメリカ様の金庫保管で
アメリカ様の承諾無しには売れないって知ってる? 
米国債大量に購入してから橋本内閣の時に強引に決められたんだぜw
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百万回くらい言われてるだろうけど無リスクで儲かる投資ならアメリカ自身が投資してるわけだからな
ハイリスク・ローリターンでアメでは誰もやらないのを日本の年金にやらせる
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よその国の税金に手をつけるって、泥棒だろ
アメリカってろくな事しないな
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移民受け入れず自由貿易も否定する米国への投資は、優先度として今までより三段階は下がる。
基軸通貨としてのドルの立場が危うくなる方向性だろ、ついていってはいけない。
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安倍は日本経済捨てたんだよ
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確定申告に今から行こうとしてた奴、
行く気なくなっただろうな
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やっぱり首脳会談で年金が俎上に上がってたんだな。
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なになに?ゴルフしながら100兆円あげる約束して帰ってきたの?
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どんな国でも絶対やらない、国民の命である年金を簒奪市場に売り渡す気か?
そうしないと日本はユダヤ勢力によって破壊されると脅されてるのか?
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ひと月前に年金つぎ込むスレ立った時は飛ばし記事かと思ってたら本当だったのか
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売国だけはブレないw これがあるから、経産省にも鍵をかけて、マスコミが入れないようにした。これからは国民に知られないようにコッソリ、100兆円をアメリカに貢ぎますw まぁ、それくらい貢いでおいたら、辞めてもアメリカに亡命出来るかも知れないねw
コメント(2)

アベって、国はどこ? | 2017年3月 5日 06:33 | 返信
森友だの、カケだの、国有地をタダ同然でお友達に差し上げたり、
61兆どころか100兆円も無担保でアメリカ借金国家へ差しだすって

どう考えても、健全で豊かだった日本を破たんさせることしかやってないんだけど、最大与党の自民トのミナサン、生きてますか、
自分のアタマで考えてますか、メ、覚めてますかー、

認知症発症してませんかー、今日は西暦何年何月何日?即答できますかー、

猫吉 | 2017年3月 5日 06:47 | 返信
事の始まりは二月二日付の日本経済新聞朝刊のトップ記事。「公的年金、米インフラに投資 首脳会談で提案へ」。躍る見出しに驚いたのは首相、そして菅義偉官房長官や麻生太郎副総理兼財務相らも「腰を抜かした」(官邸筋)。ただし世耕氏ひとりを除いて、である。
(中略)
「あれはチビだから、すぐできもしないことを持ち出して、背伸びしたがるんだ。全く、しょうがねえ奴だなあ……」。日経新聞が報道した後、こんな毒舌を周辺に吐いたのは、そう、あの麻生氏である。財政を担う自分のあずかり知らぬ所で、誰かが「悪巧み」して勝手に大切な公的年金を米国への投資に注ぎ込もうとしていると察知したからだ。それが世耕氏だと突き止めて「チビの背伸び」発言が飛び出したのである。
(中略)
A四判数枚からなる「日米成長雇用イニシアチブ」と題した横書きの「原案」を入手すると、「GPIFの資金を活用する」と明記されていた。出所を調べたところ、経産省が文書作成で使う特有の言い回しや固有名詞を複数含んでいたことから、経産省の「犯行」と特定された。ペーパーの出所は世耕氏の取り巻き、そして彼に近い国際協力銀行(JBIC)の前田匡史副総裁周辺とされる。こんなお粗末な中身をメディアに吹聴し、国民の理解を得られると誤解していたとすれば、世俗からの遊離も甚だしい。
(中略)
GPIFが海外インフラに投資すること自体は可能だ。
(中略)
だが世耕氏の動きからは、首相がトランプ氏との蜜月関係を演出するための道具として、本来の趣旨と無関係に年金積立金を使おうとしたきな臭さが漂う。そうであれば、国民への背信行為とのそしりは免れない。

スーパークライマーを目指せ  ウーリー・ステック 「スイスマシーン」

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ウーリー・ステック(Ueli Steck、1976年10月4日 - )は、スイスの登山家。
アルプス三大北壁の最速登頂記録を持つ[1]。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から、「スイスマシーン」の異名をとる。名前はウエリ・シュテックと表記されることもある。

主な登頂記録[編集]
2001年 プモリ西壁初登頂
アイガー北壁"The Young Spider"初登頂
2006年 ガッシャーブルムII峰北壁初登頂
2008年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録・2時間47分33秒
グランドジョラス北壁ソロ 最速登頂記録・2時間21分
2009年 マッターホルン北壁ソロ 最速登頂記録・1時間56分
2011年 シシャパンマ南西壁ソロ 10時間30分
2013年 アンナプルナ南壁ソロ
2015年 アイガー北壁ソロ 最速登頂記録更新・2時間22分50秒[2][3]



2008年2月13日、ほとんどのクライマーがチームを組んで、二日はかけて登頂するアイガー北壁(高さ1800m)に、単独、命綱無しで、わずか2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂した。
2008年5月、アンナプルナを登山中にスペイン人登山家イニャキ・オチョア・デ・オルサ隊の遭難事故が発生した際には、自らのチャレンジを捨て遭難現場に急行。二人のうち一人は救助の甲斐なく死亡したものの、ウーリーの迅速な対応により一名は生還を果たした[4]。この救出活動は後に映画化され、日本でも2014年9月に公開された(「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」)[5]。この活躍が評価され、チームメイトのシモン・アンターマッテンとともに「プリ・クラージュ(Prix Courage)賞」を受賞した。
2012年5月にはエベレストの無酸素登頂に挑戦。登頂予定日には異常高温によるルート崩壊で待機していた登山家の大渋滞に巻き込まれ、デスゾーンで予定外の待機を余儀なくされるアクシデントが発生。同行のシェルパが力尽き撤退する状況の中、ウーリーは登頂に成功して生還を果たした[6]。
2013年4月、エベレストでシモーネ・モロ、ジョナサン・グリフィスと共にシェルパと乱闘事件を起こし、登頂を中止し下山することになった[7]。



トレイルランニング、スカイランニング、あるいはマウンテンランニング。いや、この際呼び名はどうでもいい。山という舞台におけるスピード志向の人たちのあいだで、全世界的にその名を轟かせる人物がいる。



 ウーリー・ステック、39歳(写真=永易量行)。
 あえて肩書を記すならば、ウーリー自身は自らを「アルピニスト」と名乗っている。そしてアルピニズムの世界では当代最強の人物と目されている。だが、そのスタイルは20世紀的なアルピニズムからするとかなりの「異端」だ。ウーリーのスタイルはスピード登山などと呼ばれており、例えば……。

 アイガー北壁。標高4000m近くの高所で、標高差は1800m。マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁と並ぶヨーロッパ三大北壁のひとつで、初登攀までに8人もの命を呑みこんだ難関として知られる。1938年に初登攀された際は、都合4人がかりで3日もかかった。それをウーリーは昨年、2時間22分50秒で駆け登った。命綱なしのソロスタイルで。もちろん最速記録である。

 繰り返しになるが、十分な装備を持った登山家がパーティを組み、時間をかけて臨んだとしても、一歩間違えれば命を落とす危険な壁だ。そこをアルパインクライミングの常識からすると圧倒的に少ない装備とウェアで挑む。当然、比類なきテクニックとスピードがなければ成しえない。ピンと来ない人は、Youtubeなどの動画を見てほしい。ウーリーの凄さは、山の素人が見てもすぐ感じ取れる。



 垂直スピードは750m/時を超す。これはトレイルランの登りに遜色のないハイスピード。この速さで、雪と氷に覆われた岩壁を攀じ登るのだ。



「アイガーには今までに40回以上登っています。自分の裏庭のようなもので、遊び場です。昨年の記録達成時は、いちおう記録を狙ってはいましたが、大きなリスクは負わないと決めていましたし、心拍数も最大で165、平均で155ほどでした。しっかり調整して、天候にも恵まれれば、2時間を切れる感覚もあります。
 でも、私は各々の挑戦や達成にランクを付けて、優劣を比べるようなことはしません。例えば去年は他に『82サミッツ』の最短記録を成功させました。これはヨーロッパの4000m峰すべてを、歩き・クライミング・自転車・パラグライダーなど人力移動のみで一筆書きするチャレンジです。このような大きなプロジェクトも、近所のランニングも、そう変わりません。各々で何を感じ、楽しんで、ハッピーになれるかが大事なのです」



「もちろんハードなトレーニングは不可欠です。真剣に準備しますが、どこかでfoolishにもなることが大事です。シリアスになりすぎない、と言えばいいでしょうか。私個人の挑戦が成功しようが失敗に終わろうが、“世界”は変わりませんし、地球は回り続けます。成功しても失敗しても学べることがあります。このような姿勢が困難な挑戦を助けるんです。私は自分の中で一番強いフィジカルパーツは“脳みそ”だと思ってるんですよ(笑)」


 主だった岩壁の初登や名峰のピークはとうの昔に攻め落とされているし、より困難なルート、バリエーションルートからの登攀も、あらかた終わっている。では、現代を生きるクライマーに残された挑戦、冒険は何になるのか。その一つの答えが「スピード」という切り口になるのかもしれない。
 それは、スピーディに山を楽しむアクティビティ=トレイルランニングシーンの盛り上がりとどことなく通じ合うのではないだろうか。実際、ウーリーは2015年にUTMBの姉妹レースのひとつ、OCCの50kmを22位で完走している。欧州のメジャーレース「アイガーウルトラトレイル」ではアンバサダーを務めてもいる。



「トレーニングではトレイルランニングなどの有酸素運動も重視しています。もちろんクライミングスキルを磨くことも重要ですが、近年はランに割く割合を増やしています」と語るが、彼のように「走る」ことを本格的に取り入れているアルピニスト、クライマーは欧米でも少数派だ。でも、それがウーリーのスタイルを支えている。
 そしてあのキリアン・ジョルネとも友人で、モンブランやマッターホルンなどの山に一緒に入る仲だという。

「彼とは気の置けない友人です。麓から一緒に走って、谷を駆け上がり、北壁をクライミングして、また降りてくる、といった遊びをしたりしています。彼にはより優れたランの力があり、私にはより優れたクライミングのスキルがあります。だからお互い刺激し合えますし、年齢は離れていますがシンパシーを感じるんですよ」



ウーリー・ステック
1976年、スイス生まれ。卓越した登攀技術と常人離れした高所耐性から”スイスマシーン”の異名をとる。08年にアイガー北壁ソロを2時間47分33秒という驚異的なスピードで登頂し、一躍注目を集める。同年~翌年にかけてヨーロッパ三大北壁すべてでのソロ登攀最速記録を樹立。近年はエベレストやアンナプルナなど高峰でも活躍。14年、ピオレドール受賞。



 「非情の山」ともいわれるK2 青木 達哉 小松 由佳

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 2006年8月1日16時50分。待ちに待ったその瞬間、東海大学K2登山隊ベースキャンプは歓喜と安堵に包まれた。東海大学K2登山隊の小松由佳隊員と青木達哉隊員というアタック隊が、世界の精鋭登山家にもっとも険しいと恐れられるK2の山頂を極めたのだ。
 しかもこの登頂は記録ずくめとなった。小松由佳隊員は「日本人女性初登頂(世界でも8人目)」、21歳10か月の青木達哉隊員は「世界最年少登頂」を成し遂げたのだ。
 登頂に成功したその瞬間を小松由佳隊員はこう振り返る。
「午前2時半にアタックを開始して、膝まで埋まるような雪や難度の高い岩場を超え、半日以上経った頃ようやく他の高みが見えない、ゆるやかな頂が見えてきたんです。それまでいくつかのピークを越えてきましたが、その頂が見えた瞬間、『ここがK2の山頂だ』と確信めいたものがあったんです。そのとき、先を行っていた青木が『先に行ってください』と気遣ってくれたんですが、もうそのまま行かせちゃいました」
 その山頂目前のやりとりを、青木達哉隊員は克明に覚えているという。
「ちょうど山頂まであと数歩――2mくらいのところだったと思います。自分でもどうして『どうぞ』って先に行ってもらおうとしたのかよく思い出せないんです。いろんな山で指導してくれた尊敬する先輩という気持ちがそうさせたんだとは思うんですが、山頂を目の前にしての達成感や、その反面『もう終わっちゃうのか』という寂しさ……。いろんなものがこみ上げてきたんです。ただ先に行ってもらおうと思ったら、『いいよ、行きな』って……。鼻をすするような音が聞こえてきたから、もしかして泣き顔を見られたくないのかなとも思いました」
 山頂に先にたどり着いた青木隊員は、最後の数歩を踏みしめるたび、脳裏にそれまでのことが次から次によぎっていた。現地スタッフや他国の登山隊の顔ぶれが浮かんでは消える。そして最後の一歩を登った瞬間、空と一体になって頭が真っ白になったという。アイスバイルをついて、無線でベースキャンプに連絡を入れた。デジカメで記録写真を撮影した。しかし、その時点で小松隊員は違うことを考えていた。
「私も登頂する瞬間は、サポートしてくれた方々への感謝の気持ちが大きくわき上がりましたね。青木と同じように、走馬燈のようにいろんなことが頭を駆けめぐりました。ただ、登頂前の本当に数秒だったと思います。登頂した実感も正直あまりなかったですね。むしろ『どう降りるか』ということに気を取られていたような気がします」
 山頂にいたのは1時間足らず。既にアタック開始から15時間以上が経過している。酸素の減りは予定よりも早く、下降中に切れそうだった。下山前に頂から下を見たとき、「数千メートルも下にすっぱり切れ落ちた斜面は底のない穴のように見えた」と小松隊員は言う。
 そして登頂報告の無線を最後に2人からベースキャンプへの連絡は途絶えた。




そもそも東海大学の登山隊がK2という山を目指すことになったのは、2006年が同大学の山岳部創部50年という区切りの年だったことも、その理由だった。それまでも、2001年にはクーラカンリ、2004年には中国・カラコンロンと6000~7000mクラスの山へ遠征し、実績を積んでいた。そして満を持して2006年、K2へのアタックとなったのだ。東海大学K2登山隊の出利葉義次隊長は、その経緯をこう語る。
「当初は世界最高峰のエベレストという話も出ていたんです。数字を求めるだけなら世界最高峰を目指すという選択肢もあったかもしれません。ただ、山岳の世界ではもっとも難しい山はK2だと言われている。ならば、登山家として、より高い目標を目指すべきではないかということになったんです」
 だが、決定したあとも不安はよぎる。相手は、世界の精鋭登山家たちが命を落としたK2という最難峰。登頂できるのか、いやそれどころか生きて帰れるのか……。だが、より大きな困難を乗り越えたときほど、達成感や喜びは大きくなる。目標は、登山家なら誰もが憧れるK2に定められた。
「しかし、東海大の山岳部は他の大学の山岳部に比べて歴史も浅い。足りない経験を補うための万全の準備が大前提となります。例えば、登るルートひとつとっても、どんなルートを選ぶか、そのルートは登山隊や隊員のスキルに適したものか……。他にも医療スタッフや通信手段、気象情報の収集手段など、考えるべきことは無限にあります。登山というのは、自然との闘い。強大すぎるほどの相手だからこそ、十分すぎるほど情報を集めなければならない。ベースキャンプという5000mを超える高所での根幹を担うのが発電機。全幅の信頼がおけるものでなければ選ぶことはできません」(出利葉隊長)
 2001年のクーラカンリ登頂以来、東海大学山岳部はHondaポータブル発電機に全幅の信頼を寄せている。文字通り、生死を賭した危険な挑戦だからこそ、Honda『EU9i』は、東海大学K2登山隊のベースキャンプにまで随行する唯一のポータブル発電機となったのだ。 


東海大学山岳部のターゲットはK2に定まった。現役・OB他、登山隊員8名がK2への道を目指すこととなった。そしてK2のような高峰を目指すにあたり、まず初期段階での重要な作業はルートの策定となる。ルート次第で登山の成否は決まると言っても過言ではない。
「ルートは、単に傾斜のきつさだけで決めるのではありません。例えば、他の登山隊が多く登ったルートでは、先行した登山隊が残していったロープをあてにして登ることもあります。しかし時間が経過してゆるんでいたりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることもある。さらに、他の登山隊がすぐ前を先行しているときには、それに伴う落石も考えられる。自分たちが先行している場合には岩を落とさないよう、気を遣わなければならない。比較的登りやすいルートは、他国の隊も集中する。それより、山と隊が真っ向から対峙できるルートを選ぼうということになったんです」(出利葉隊長)
 検討に検討を重ねた結果、出利葉隊長率いる東海大学K2登山隊は南南東から登るルートを選択した。急な岩場や、氷と雪で固く締まった壁に覆われた難ルートである。
「南南東リブから入るルートは、確かに難ルートではあります。しかし、氷雪壁の登はんとなれば、日本の雪山で鍛えられた東海大学登山隊が得意とするところ。もちろんルートを決めた時点では、まだアタック隊はおろか、どんな人選で隊を組むかも決めていませんでした」(同)
 だがその段階でも、やるべきことはいくらでもあった。
「『EU9i』があれば電力は確保できる。となれば、登山に必要な情報テクノロジー用の電源はすべて網羅することができるのはわかっていました。ですから、まず最大限に情報を集め、解析できる体制作りから手をつけることにしたのです。まず、大学内の情報技術センターに支援を依頼し、ヨーロッパの気象衛星METEOSAT5号の衛星画像を加工・補正してもらい、パキスタン北部地域を網羅した衛星画像が送信される体制を整えました。さらに、この衛星画像をもとに、学内の気象学の専門家に予想天気図を作成してもらうことにもなりました」(同)
 すべての電気の源を司る『EU9i』については、2001年のクーラカンリ遠征と同様、オールホンダ販売に依頼し、メインジェットを高地用にチューニングした。電源を要としたハード面、そして日本からの情報支援については目算が立った。だが、出利葉隊長の目の前には問題が山積みとなっていた。

 ハード面では『EU9i』含め、可能な限り最高の準備の目算が立った東海大学K2登山隊だったが、何より最大の問題が控えていた。当然ながら、登山とは人が山を登るもの。だが、肝心の隊員の編成が最大の問題だった。
「大学登山隊は、基本的に現役で山岳部に所属する学生と、OBで編成されることになります。そこで中核となるのは、やはり経験豊富なOB隊員。ただし、ほとんどのOBは企業勤めをする会社員。休みの調整なども必要ですが、家庭や仕事の事情で断念せざるを得ない隊員もいるので、中核を担うOBの存在は本当に貴重なのですが……」(出利葉隊長)
 しかし、自然を相手に研鑽を積む以上、危険とは常に隣り合わせ。そんななか、出利葉隊長にとって頭を悩ませる事故が起きた。
「主力にカウントしていた中堅の隊員が2005年にヒマラヤで凍傷にかかってしまい、両手足の指を切断することになってしまった。隊の中核を担うには、回復までの時間が足りなかった。他の隊員も日程を調整し、学内からだけでなく学外からの支援も受けている一大プロジェクト。日程はどうにも動かせなかったんです」(同)
 戦力ダウンを埋めるため、山で荷運びをする高所ポーターを手配することになった。だが、ポーターはあくまでも隊を補助する存在。K2の山頂を目指す隊員の質の向上が急務となった。
「コンディションがよければ、アタック隊として山頂を目指せる人材を増やすことが急務でした。時間が限られているなか、学生ならば集中的に鍛えることができ、伸びしろも期待できたんです」(同)
 といっても、10名程度の学生のうち、K2にチャレンジできる力量までの伸びが期待できるのはある程度のキャリアがある上級生のみ。しかし、上級生ともなると就職活動も本格化する。そんななか、K2という最高峰に挑むための過酷なトレーニングに身を投じる者はほとんどいなかった。隊に参加した数少ない一人は、その動機をこう語る。
「いやー、僕は消防士になろうと思ってたんで。単位も間に合ってたから、『もうちょっと山に登ろうかな』と思って。K2なんて、滅多に行ける場所じゃありませんし」
 K2世界最年少登頂を達成した、青木達哉隊員が隊に参加することを決意したのは、そんな気軽な動機からだった。

K2登山隊への参加を決めた青木隊員だったが、K2へ向かうためのトレーニングは過酷を極めた。標高4000m相当の低圧・低酸素室で高所順応トレーニングを行った。週に4回、1回につき6時間。プロのアスリートよりも過酷なトレーニングともいえる。
「もともと体を動かすのは好きだったんです。山岳部に入ったのは、新人勧誘で『ロッククライミングができるよ』って誘われたから。なんだか楽しそうだと思ったら、入部早々登った雪山がすごく過酷で『なんで、こんなことしてるんだろう』ともう苦しいったらありませんでした。でも、山頂まで登ったら今まで知らなかった爽快感を味わうことができた。それからすっかりハマることになっちゃいましたね」(青木隊員)
 以来、山の魅力に惹かれ、国内の山を次々に登った。2年生の時にはカラコンロン山脈へと赴いた。
「そのカラコンロンで、先輩の小松さんたちと同じ宿になって、いろいろ話す機会を持つことができたんです」(同)
「小松さん」というのは、K2アタック隊でコンビを組んだ小松由佳隊員のこと。当の小松由佳隊員は当時のことをこう振り返る。
「青木君に限らずですが、彼らの代の子たちとはいろいろ話はしましたよ。詳しくは差し障りがあるので言えませんが、それこそ話し合いの過程で殴り合い寸前になったことも(笑)。私の代も彼らの代も人数は少なかったから、似たような苦労もしているんですよね」
 小松隊員は、高校時代から山岳部で競技登山を行っていた。
「インターハイや国体での競技登山は、あくまでも点数を競うもの。山という雄大なフィールドの中なのに、誰が何秒早く到達するかという競い合いになる。向き合うべきは、山のはずなのに……。ルールに縛られるのではなく、純粋に山と向き合いたいと思ったんです。もっとも、根っからの冒険好きでインディージョーンズみたいな世界観を味わいたいな、考古学も学びたいな、と思っていたら、最先端の登山はパソコンや衛星通信も使っていた。驚きましたね」(小松隊員)
 現代の登山シーンにおいては、『EU9i』のようなポータブル発電機は、もはや必携アイテムになっていたのだ

高校時代から数えて、もう10年山に登っているという小松隊員だが、2006年にK2に挑む直前には、登山を続けるかどうか悩んだこともあったという。
「山は基本的に男社会。もちろんどんなに鍛えても、筋力ではかなわない。女性がリーダーとして隊を統率するのは難しい面もあるんです。他にもいろいろな悩みが積み重なり、2005年頃には『もう山をやめようかな』と悩んでしまっていた。それまでは、生活の90%が“山”だっただけに、抜け殻みたいになっていたんです。そんな頃でした。出利葉さんから『K2に行かないか』と誘われたのは」(小松隊員)
 険しい山になればなるほど隊は大編成となり、チームワークも必要とされる。そんなチームを率いるには、個人として山に向かうのとはまた異なる資質が必要になる。その資質は、“山男”なら誰もが持っている資質というわけではない。個人それぞれが山と向き合うことと、チームとして山と対峙することは根本的に異質なもの。その双方を兼ね備えたリーダーは決して多くはない。様々な経験を重ねたが故に、当時の小松隊員は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。そんな彼女を救ったのが、出利葉隊長からのK2への誘いだった。
「誘いを受けた後、大学に出向いて何回も話をして『この人がリーダーのチームなら、きっとまた登れる』と思えたんです。世界中に数ある登山隊には、リーダーが独善的だったり自分の考え方を押しつけるような隊もあるんですが、出利葉さんは、チームを意思統一できるリーダーとしての厳しさはありながらも、隊員ひとりひとりの考え方も受け止めてくれる。私が考える登山隊像に合っていたんです。声をかけてくれたのが出利葉さんだったから、『また登ろう』とやる気になれたんです」(同)
 小松・青木両隊員だけではない。東海大学K2登山隊に参加したメンバーの数だけドラマがあった。そして、2006年6月5日、先発隊として出利葉隊長以下、小松・青木の両隊員が成田を発った。3か月前に船便で出発した『EU9i』をはじめとした、荷物が待ち受ける大陸へと向かって。

先発隊の3人がパキスタンに入った数日後には、医師や看護師なども含め、隊に参加する全員が集まり、6月14日にはキャンプ地を目指し行軍を開始した。だが、初夏のパキスタンは厳しい暑さでも知られる。地域によっては平均気温が8月よりも高くなり、最高気温が40℃を超えることもしばしば。行軍は、早朝の涼しいうちに開始され、現地のポーターたちと合わせ約20名のチームはベースキャンプ(BC)へと向かった。行軍の様子を出利葉隊長はこう語る。
「猛暑のなかで1トン以上の荷物を背負っての行軍でしたが、BCまではほぼ順調に行程をこなすことができました。途中、ポーターに一人50ルピーのチップを出すと伝えると、もの凄い勢いで進んでいったのが印象的でした(笑)」
 6月20日にはBCに到着。その後、約1か月をかけて、C0、C1、C2と設営していった。昼はキャンプの設営、夜は機材の整備などに追われた。
「BCでの食事は現地のコックが作る料理と、日本から持ち込んだフリーズドライの食品が中心でしたが、現地のコックが作るのは当然パキスタン料理。何を作っても全部カレー味。補助的な食品として、現地でクッキーを買い込みましたが、さすがにカレー味のクッキーは不評でした(笑)」
 出利葉隊長は、笑い話としてBCでの様子を話すが、ほとんどの日程で設営は夜にまで至った。連日、登はんが終了するまでの18時から21時までの間、Hondaポータブル発電機『EU9i』はフル稼働していた。医師として隊に参加しながら、発電機のメンテナンス担当となった小林利毅隊員はその様子をこう語る。
「BCでの1か月半、ほぼすべての電源を発電機から供給していましたね。持ち込んだガソリンには限りがあるので、1日数時間しか稼働させられない。その間にすべての電源を確保する必要がある。『EU9i』を一次電源として、車載用の大容量バッテリーや汎用電池パック、パソコン、デジタル音楽プレーヤーなどの充電まで行っていました。もちろん、夜間の照明等の電源にも使用しましたが、最後までトラブルもなく快調でした。むしろ、他国の隊が使っていた他メーカーの発電機のメンテナンスに追われることの方が多かったかもしれません(笑)」
 海外のガソリンは地域によっては、高品質とは限らない。ゴミなどの不純物の混入を避けるため、給油は婦人用のストッキングをネット代わりに濾過して行われた。出利葉隊長は、そんな小林医師の様子をこう振り返る。
「二足のわらじというか、ほとんどエンジニアのようでしたね。私を始め、他の隊員から『小林モータース、今日もロシア隊に出張してるなぁ』なんてからかわれていました(笑)」
 そうしてEU9iがフル稼働している間に、C0~C2までの設営は着々と進んでいった。



 C0~C2までの設営が着々と進むなか、同時にアタック日の選定が慎重に行われた。ヨーロッパの気象衛星からの情報の解析結果が日本の東海大学を通じてBCに送られ、その情報をもとに、アタックの詳細が決定された。そのアタック隊に選ばれたのは、1978年生まれの蔵元学士隊員、1982年生まれの小松由佳隊員、そして現役の学生である1984年生まれの青木達哉隊員という3名。その決定理由を出利葉隊長はこう語る。
「衛星通信を介しての情報をもとに、慎重に検討した結果、8月1日頃の天候がいいと予測できた。パソコンや衛星回線を介して、あらゆる情報を検討できたからこそ、精度の高い予測ができたんです。K2では、毎年遭難者が少なからず出ていますが、やはり天候などの情報を得ずにアタックする隊は遭難の率が高い。しかし、どんなに万全の準備でのぞんでもK2という山は甘くない。比較的若い隊員を選んだのは、不測の事態が起きたとき、体力・気力の充実が欠かせないと考えたのです。他の山ならば、私も一緒に登りたいところですが、K2相手となれば、わずかな隙が命取りになりかねません。私が登るという選択肢はありませんでした」(出利葉隊長)
 そして、7月29日の未明、アタック隊として選ばれた蔵元、小松、青木隊員が第一回目のアタックを目指し、BCを出発した。
 ところが、アタック隊はBC出発直後にアクシデントに見舞われる。アタック隊のリーダー格でもあった蔵元隊員が激しい腹痛に見舞われ、隊からの離脱を余儀なくされたのだ。腹痛の原因は急性の虫垂炎だったという。
「BC出発から数時間後のことで、まだC1にもたどりついていない頃でした。本人は無念だったでしょうが、我々が見たのは脂汗を流しながら体を『く』の字に曲げて降りてくる蔵元の姿。本人は無念だったでしょうが、我々も『なぜこんなときに……』と無念の思いでした。それまでは、常に先頭に立ってルートを切り開き、アタックキャンプになるC3予定地にも最初に到達した。高所経験も豊富で、彼がいたからこそ小松、青木と3人でのアタック隊を編成したんですが……」(同)
 予定通り、7月29日に小松、青木両隊員はC1に、翌30日にはC2に入った。そしてその夜、出利葉隊長はC2にいる2人と無線で話し合いを持った。
「アタック目前の彼らは、当然『行きたい』という。蔵元が降りていく後ろ姿に感じるものもあったのでしょう。ただし若く、高所の経験が豊富ではない彼らだけで行かせていいのかという不安もありました。迷いましたが『絶対に無理はしない』という約束をさせた上で一度だけチャンスを与えることにしたんです。とはいえ、実は勝算もあった。あの2人は、どんな山でも山をナメるということをしない。国内の山でもどんな登山者よりも早くに出発し、どんな簡単な場所でも基本に忠実に登っていく。だから後ろからの登山者にどんどん抜かれるんですが、登山とは他者との競争ではなく、『生きて帰ってくること』こそが登山だということをよくわかっている。だからこそ、行かせることにしたんです」(同)
 そしてアタック日は8月1日に決定した。


8月1日午前2時30分。前日の7月31日にはC2からアタックキャンプであるC3へと入っていた小松、青木両隊員はアタックを開始した。朝食は紅茶と堅いパウンドケーキ。小松隊員の「後悔のないようやれるだけやろう。最高の一日にしよう」との問いかけに短く「はい」と答える青木隊員。初めての8000mラインへの挑戦が始まった。
「下の方を見ると、小さな光が暗闇にぽつんと浮かんでいる。BCのみんなが激励のために、たき火を焚いていてくれたんです。あぁ、登っているのは2人だけじゃない。みんなで登っているんだと胸が熱くなりました」(小松隊員)
 何も聞こえない無音の世界のなか、聞こえるのは、自分たちの息づかいと雪を踏みしめる足音のみ。世界のなかで自分だけがぽっかりと浮かんでいるような不思議な感覚に2人はとらわれた。膝まで埋まるような新雪の急斜面かと思えば、ガチガチの固い氷が露出した氷壁もある。足下の変化を一歩ずつ感じ取りながら、慎重に進まなければならない。8000mという高度による疲労も容赦なく2人を襲う。
「4歩歩いて一休み、の連続でした。以前カラコンロンのときに6000mを体験し、今回7000mのC2で高度障害を起こして、高所の恐ろしさは知っていたつもりだったんですが、8000mは一気に体が重くなってくる。あのヤバさは別物でしたね」(青木隊員)
 午前2時半にC3を出発し、あっという間に12時間以上が経過した。当初、午後3時になっても到達できなければ引き返そうと決めていたが、その頃にはもう山頂が目の前に見えていた。山に魅せられた者が、山頂を目の前にして引き返すことなどできるわけがない。
「8000mには7000mまでには気づかなかった“空気の匂い”がありました。単純に鼻で感じる匂いというより、頭というか体全体で匂いを感じるような感覚。太陽の光、雲、風……。すべてがダイナミックでギラギラして体にダイレクトに突き刺さるような感覚。すべての感覚がすごく鋭敏になった記憶があります」(小松隊員)
 とはいえ、そうした感覚にばかり溺れるわけにはいかない。午前3時半にBCに報告の無線を入れて以来、無線を入れようとしても圏外をあらわす音が鳴るばかりでBCとの交信も途絶えていた。繰り返し交信を試みるが、いっこうにつながる様子はない。そのときのBCの様子を出利葉隊長はこう語る。
「BCで待機している我々は、まったく状況がわからない。登頂したのかもしれないし、万が一ということもあり得る。16時を回り、不安が頭をもたげ始めた16時50分、無線が入ったんです」
 一瞬にしてBC内の空気が変わった。緊張で息をのむBCの隊員たちの耳に聞こえてきたのは、『BC聞こえますか! 私たちは今、ついにK2の山頂に到達しました!』という小松隊員の声だった。一瞬の静寂の後、BC内は歓声で埋め尽くされた。言葉がわからないはずの現地スタッフたちも喜びを爆発させる。無線でしかつながっていないはずのK2の山頂にもその感動は伝わっていた。
「出利葉さんの『よくやった!』と興奮する声と、BCの緊張と興奮が無線を通じても痛いほどに伝わってきました。感無量でしたが、心配かけて申し訳なかったなという思いや喜び、そして下りへ向かう緊張感。様々な気持ちがないまぜになっていました」(小松隊員)
「無線では何を話していいかわからなくて、最初に『青木です』と言った後は、ひたすら『よくやった!』『ありがとうございます』という会話を繰り返していました(笑)。K2の山頂はまるで天空にいるような不思議な感覚でした」(青木隊員)
 周囲を見回しても、ここより高い場所は見えない。8068mのガッシャーブルムも8047mのブロードピークも眼下に見える。そんな世界で2番目に高い場所に2人は約1時間、たたずんでいた。



 遂にK2山頂にたどり着いた2人だったが、山頂から下を見ると、数千メートル下まですっぱりと切れ落ちた底のないような穴に見えた。
「『ここを降りるのか』と改めて、今、自分たちがいかに危険な場所にいるかを再認識して『とにかく生きて帰るんだ』と気を引き締めました」(小松隊員)
 登りで時間がかかった分、酸素ボンベの残量も限られていた。下りる間に、酸素ボンベの流入量を毎分2Lから1Lに、さらには0.5Lに切り替えた。「下りこそが危険」というのは、山の常識でもある。登りは2人同時に登った箇所も、下りでは片方が確保を取り、ロープでつながれたもう一人が下りるという、より安全なやり方を採用した。
「スピードが安全につながるという面もあるのですが、とにかく生きて帰ることだけを考えたら慎重に進まざるを得なかったんです。ただ時間の感覚がどうにもおかしくなっていて、21時頃かと思ったら、あっという間に翌日の午前2時半になっていました」(小松隊員)
 頂上アタックを開始してから、もう丸1日行動し続けていた。興奮状態で、疲労を感じにくくなっているとはいえ、2人の体力は限界に近づいていた。
「高度障害に疲労、そして酸素不足もあって、下りは本当にしんどかったですね。ボクがロープを確保して小松さんが下りてくるのを待っているときに立ったまま、まぶたが落ちてしまったこともありました」(青木隊員)
 立ったまま、寝たり起きたりを繰り返した。空の酸素ボンベやヘッドランプも手につかない。手から滑り落ちたそれらは、あっという間に視界から消えていく。
「疲労が極限に達し、ビバークを決意しました。8200mという高所でビバークするか、このまま下り続けることのどちらが危険かと考えたとき、ビバークを選択せざるを得ないような状況でした」(小松隊員)
 もう酸素は残っていない。凍った斜面をアイスバイルのブレードで削り、2人がようやく腰を下ろせるだけのスペースを作った。午前3時、確保を取りながら、手持ちのものをすべて着込んだ。さらにその上からシートをかぶり、2人はつかの間の眠りについた。「寝たら、もう目が覚めないなんてことはありませんよね?」との青木隊員の問いに、小松隊員は「大丈夫」と答えたが、小松自身8000mを超える高所でのビバークは初めてだった。




朝になってもC3に姿を見せない2人に、出利葉隊長をはじめとしたBCは焦りを感じ始めていた。
「夜間ということもあり、頂上からアタックキャンプのC3まで下りてくるのに約5~6時間かかると見ていました。ところが17時50分の無線連絡以降、またも無線が不通になり消息がしれないまま夜明けを迎えてしまった。スコープで覗いてもC3に姿も見えない。無線も通じない2人を案じながらも、すべての可能性を考え、午前10時の段階で日本の大学に連絡を取りました」(出利葉隊長)
 山ではどんな悲劇が起きても不思議ではない。明るくなっても無線は入らず、BCから目視できるはずのC3にも2人の姿が見えない。最悪の事態が脳裏をよぎった。
「『遭難の可能性あり』と、何時の時点で判断し、どのタイミングで発表するかも含め、大学側との協議を開始しました。単に下山が遅れている可能性も考慮しましたが、万が一の可能性もある。ただし、日本時間の夕方に発表してしまうと、夕方の報道番組や夜のニュースで流れてしまう。混乱のさなか、マスコミから家族に伝わるという最悪のケースは避けなければならない。協議を繰り返した結果、パキスタン時間の15時、つまり日本時間の19時までに2人を確認できなければ、まず大学側から家族に一報を入れようということになりました。マスコミへの発表はその後ということに。ただ、大学の広報はメディアからは『いつコメントは出せるのか』、『いつ帰国するのか』という問い合わせが殺到する裏で、こちらとのやりとりも行うという本当に大変な状況だったようです」(出利葉隊長)
「遭難の可能性あり」と判断を下すまで、残り3時間となる現地時間の12時になっても2人は戻らない。出利葉隊長は、パキスタン軍にヘリコプターの出動を要請した。午後に要請すると、手続き上ヘリコプターの現地到着が2日後になってしまうからだ。翌日にヘリコプターを現地に入れるためには、昼までに当局に出動要請を行う必要があったのだ。
 午後になっても2人の姿は見えない。焦燥の色が濃くなっていくBC。そんな午後12時30分、BCの無線機が鳴った。「いまC3に戻りました。2人とも元気です!」との小松隊員の声が無線機に流れ出した。登頂時をも凌駕する歓声がBCを包んだ。誰もが声にならない声を上げ、ボロボロと歓喜の涙を流していた。







 その数時間前、小松隊員はほほに強烈な光を感じて、目を開けた。時計は午前6時を指していた。眼下に雲の海が広がり、彼方から昇る太陽は見たことがないほど美しかった。
「まるで『生きなさい』と言われているかのような美しさでした」(小松隊員)
 1時間ほど日の光を浴びて体を温めた後、2人は再び下降を始めた。BCが心配しているだろうことは痛いほど想像できたが、無線はつながらない。仕方なくそのまま下降を続ける2人だったが、眠気は去ったものの今度は襲い来る落石の恐怖との闘いとなった。
「ロープにぶら下がっていて避けようのない状態で、1メートルクラスの落石がすごいスピードで体のすぐ横を通過し、奈落へと落ちていく。しかも、岩肌でこすれたのか、焦げたような匂いまで漂ってくる。当たらなかったのは、本当に幸運でした」(青木隊員)
 8200mという高所で無酸素状態でのビバークを経て、体力を使い切った2人がC3に戻ったのは午後12時30分。C3の緑色のテントが見えたときには、前日の未明に出発したとは思えないほど、時間が経過しているように感じたという。BCに無事を伝える無線を入れ、凍傷のチェック、水分などの栄養補給をすると2人は体を横たえた。疲労の極限にあった2人は、その日は体力回復のためC3にて一晩を過ごすことにした。そしてその日の午後と夜の2回、“訪問客”があったという。
「テントの中で休んでいると、下の方からザクッザクッという足音が近づいてきて、テントの近くで何やら話している。そのときは疲れていて外を覗く気にもなれませんでしたが、あとで外に出ても、足跡ひとつないんです。最初は自分の聞き違いかとも思ったんですが、青木に確認しても同じタイミングで同じ声を聞いている。正直ゾッとしました」(小松隊員)
 東海大学K2登山隊がC3を設営した近くには、雪に埋もれたテントに過去の遭難者の遺体が何体も眠っているという。
第十一章 精霊の訪問 「ボクも男性の声と足音は、はっきり聞きました。ただ、小松さんと違って怖いという感覚はありませんでしたね。むしろ伝説のクライマーがK2の精霊となって会いに来てくれたのかもしれないと、うれしさすら感じました。後で、出利葉さんには『幻聴じゃないのか?』と笑い飛ばされましたが、確かにそこにいたんです」(青木隊員)
“精霊”に触れた2人は、その晩泥のように眠った。そして翌日早朝、登山隊のメンバーが待つBCへ向けて出発した。



8月3日の早朝にC3を出た2人がBCへ戻ることができたのは、4日の深夜0時を回った頃だった。遠くに見えるBCのテントの外にヘッドランプの光がちらちらと見えた。隊員が出迎えてくれていたのだ。「やっと帰ってきた」という思いで近づくほどに早足になる。
 BCで爆発する歓喜、そして嵐のような抱擁と握手が2人を待っていた。
「BCで調理を担当してくれた現地のコックさんに至っては、2人の肩を抱きながら『ウワァーン』と声を上げての号泣とともに迎えてくれたんです。何も言わず、骨が折れそうなほど強く手をギュッと握りしめてくれた隊員もいれば、ひたすら『よかった』を繰り返す人もいた。表現は違うものの、誰もが万感の思いで出迎えてくれたのを痛感しました。同時に仲間って本当に温かい存在なんだと、ありがたさと申し訳なさで改めて胸が熱くなりました」(小松隊員)
「振り返ってみればたった数日でしたが、すごく久しぶりに小松さん以外の人の声を聞いたような気がして、『やっと生死の狭間から帰ってきたんだ』という安心感でいっぱいでした。みんなと抱き合って、握手して、笑い合った。頂上よりも素晴らしい場所があることを知った瞬間でした」(青木隊員)
 それから数日間は、休養に充てられた。PCを使ってのHPの更新作業は急ピッチで進められた。食堂テントではDVDで映画を見たり、小松は持ち込んだデジタル音楽プレーヤーで好きなエンヤを愉しんだりもした。
「それらすべての電源の源はすべて『EU9i』でした。以前のクーラカンリのときもそうでしたが、現代の登山において電源はすべての根幹です。アタック日の選定ひとつとっても、学内の総力を結集して得た情報を衛星回線で手に入れられるから、風のない日を選んでアタックできた。8200mでのビバークやC3から無事帰還できたのも、天候のよさに救われたという面もある。他にも、アタック前後に彼らが口にした堅いパウンドケーキは、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん率いるミウラ・ドルフィンズから差し入れていただいた手作りのもの。ナッツ類や香辛料も豊富でカロリー補給という面からも本当に助けられました。他にも、各方面から様々なサポートをいただいたからこそ、K2登頂をなしえることができた。隊員として名を連ねた者だけでなく誰ひとり、持って行った何ひとつ欠けても、今回のK2登頂はなしえなかったはずです」(出利葉隊長)
 2006年の東海大学K2登山隊の挑戦は、記録ずくめの偉業となった。そしてその偉業は、チームを中心とした、そこに関わるすべてのものの偉業でもある。

トリチウムが雹の原因になるのは大気中核実験の1960年代に判明していた 税金と社会保険料で手取りはマイナスなんだけど?

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サウジ国王の来日は1971年のファイサル国王以来、46年ぶり。日本政府が公式実務訪問賓客として招待する
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG10H3H_Q7A310C1CR0000/ …
日本政府の招待なので、費用は日本国民の血税から支払われる
千名の滞在費は、一人平均30万円としても3億円 たぶんこれでもすまない





現在いる未成年者の8割は40歳まで生きることが不可能
バズビー博士
そこまでひどくはないと思う。寿命は一般的に20年程縮まると思う。つまり被曝している人たちは80歳が60歳、70歳が50歳で死ぬなどということになる
あらゆる種類の疾病率が上がるが主には心臓病が増えるでしょう


おまえらの「国策」で汚染させといて、「故郷を捨てる」とか「戻れ」とか、一体何様?

それと、本来、誰がどこに住もうが自由。日本は無闇に税金が高いだけで、国民に殆ど還元されない。政治家や官僚など権力側のやりたい放題。そんな国は落ちぶれて当然。


冷酷すぎる! 安倍首相の3.11会見打ち切りで露わになった政権の東日本大震災“被災地”切り捨ての姿勢

「フクイチ」周辺のモニタリング・ポストが異常な線量スパイクを検出するなか、安倍首相が「3・11会見」、打ち切り! / 3号機、夜は青紫色!

ヘレン・コルディコット女史が「フクイチの廃炉は不可能と、ほとんど確信」「廃炉が出来るなんて絵空事(ファンタジー)と言明
アーニー・グンダーセン
震度7以上の地震に襲われたら、フクイチ2号機は倒壊
北半球全域を放射能で汚染しかねない

元衆議院議員 徳田毅氏のブログより

2011.3.12の水素爆発
2㎞離れた双葉町まで破片や小石が飛んできたという

爆発直後
原発の周辺から病院へ逃れてきた人々の放射線量を調べると
十数人の人が10万cpmを超えガイガーが振り切れ

それは人から人へ二次被曝するほどの高い数値


春闘とかベアとか言うんだが、しょせん給料とか人件費とかいうのも競争原理の中で決まるのが資本主義、特に、今みたいに成長が見込めない、未来のない時代には、とりあえず目先の同業他社との比較の中でしか動かない。とりあえず今はまだ、「新人を養成して10年後のベテランを育てる」なんて考える会社はない。団塊世代が定年退職し、まだ元気なので、そういうのが安く使える。仕事はベテランだし、給料は安い。年金貰いながらの仕事になるので、パートやバイト並みの人件費で最高級クラスの労働者が雇える。コイツらが引退しない限り、本格的な賃金上昇はないだろう。

それに、春闘とかベアとか、正社員の世界の話です。今は、派遣、非正規の時代。派遣や非正規には、春闘もベアもない。社員としての経験の蓄積や向上心の要らない単なる「労働力」としての人数計算の世界では、「ずっと同じ仕事してるんだから昇給要らないでしょ」という事になる。労働力と割り切れば、いくらでも代替の効くモノでしかないので、わざわざ世間相場より高い賃金払う会社はありません。

大企業がこれだもん
地方や中小なんて、賃上げなんて夢のまた夢
派遣だけは着実に増えてるし、少子高齢化も着実に進んでる
もう終わってるんだよ、株だけが日銀マネーと年金で高いだけ
株バブルが飛んだ時のダメージは考えただけでも震えるね、何人死ぬんだか・・・

アメリカじゃ自動車組み立て工員の最低賃金が時間4000円
8時間勤務で32000円で月20日間勤務だと640000円
最低賃金の人でこれです。
トヨタもホンダも日産もスバルをアメリカでは普通に支払ってる。
日本では会社に金が無いと嘘付いて本国人を安く使ってる現状。
全て日本の労組が気持ち悪い変な団体に変わった結果です。

1000円てふざけてんのか
日本は不正規と正規の給料格差がありすぎる
正規の例えば40歳時の平均所得は他の先進国とたいして変わらないけど
バイト含めた非正規の時給が低すぎる

団塊世代が、賃金的に恵まれているというので、ネットでは若い人の怨嗟の対象となっているんだが、逆に言えば、給料が高くて、年金もたくさん貰えるわけで、その分、世間的には迷惑にはならない。氷河期世代の連中は、賃金が安く、非正規で、年金もロクに貰えない。その連中が労働市場から抜けて、社会保障の対象として食わせて貰う立場になったら、さぁ、大変だw 断続的な非正規雇用なので、年金も安い。結婚も出来なかったので、養ってくれる子供もいない。社会のお荷物w 正社員の積み上げた経験もないので、ホントに安い労働力としてしか需要がない。このまま行けば、氷河期世代以降はすべて、似たような未来しかない。それこそベーシック・インカムでも導入しないと、社会が保たないと思う。


田舎暮らし、というんだが、「田舎に住みたくても、雇ってくれる会社がない」というのが定番のヤリトリになるんだが、山の中に会社なんてないので、仕事は自分で作って下さいw というわけで、若者たちがオクシズに入って、薪炒り番茶を作ってます。オクシズというのは、奥静岡。静岡市の北部から本川根とか、あのあたり一帯を指す言葉なんだが、物凄い勢いで人口減少が進み、過疎化が激しい。耕作放棄された茶畑がいくらでもある。頼めばタダで刈らせてくれる。場合によっては、政府から補助金だって出る。そうやって刈ってきた茶を、薪で炒る。薪も、間伐作業やってるところに行くと、タダで貰えたりする。ただし薪割りは自前でw 買っても、産地だから安い。今までなかった産業です。自分のアタマで考え、自分の足で歩き、自分の手で働く。それが出来る人間だけが、田舎で生きられる。

移住すれば天国に行ける幻想

それでタイ、フィリピンに移住した奴らのblogをみるが、「悪夢」みたいよ。
日本じゃ考えられないsecurityに金がかかる。治安の良いエリアに住む為には金がかかる。
歩けないから車も買うが、これまた中古なのにバカ高い関税を払わされる。
メイドも嫁一族もドロボーや強盗ばかり。
日本の田舎は監視社会。近所にCIA以上の見張りばかり、全てを把握されてる。

歴史をさぐると言っても、学校で習う歴史や一般常識で耳にする歴史は、単なる「ひとつの説」
また「ひとつの見方」に過ぎません。しかし、歴史上の出来事にはいろいろな見方があります。

例をあげると、「明治維新」
一般には、幕末の侍が、倒幕側と幕府側の敵味方に分かれて戦い、最終的には手を結び、
近代化した今の日本の礎を作ったという美談。壮大なドラマになっています。

しかし、よく調べてみると、維新の背後には大勢の外国人や外国製武器の存在があります。
これら外国の存在なしに維新は起きなかった、といえます。

「明治維新」は、日本人だけで成し遂げたことでは、なかったのです!

どうやら、私たちには、自国の偉人を美化したい気持ちのあまり、自分自身のことが冷静に見えてないところが、あるようです。この時代を舞台にしたドラマが流行り、そのストーリーが真実であるとされがちですが、事実を大局的にとらえるには、あまりにも視野が狭いと感じます。


お金です。

お金は世界のすべてに関わっています。前述した「国内の不景気・円高・国家財政赤字・世界の経済不況」これらは、すべてお金の問題です。

また戦争にもお金が深く関係しています。戦争は一見すると、「政治・民族・宗教・国家間の問題」にみえますが、戦争を始めるには、大量の武器と兵隊を用意しなければなりませんから、大量のお金が必要です。

逆にお金がなければ、戦争をしたくても、戦争そのものが起こせません。

また一見無関係の環境問題でさえ、二酸化炭素排出権というお金の取引の問題です。これについては、また後ほど話します。

つまり、世界の問題はすべて、「お金」の問題なんですね。

そこでお金の流れから世界を探ってみます。すると複雑にみえる世界の諸問題の原因が、不思議なくらい簡単に浮かび上がってくるのです。


貴族となった銀行家は、さらに大きな権力をもち、手持ちの「金」よりずっと多くの紙幣を発行する権利を国王に認めてもらいます。

つまり、何の価値の裏づけもない紙切れに価値をつけて、人々にどんどん貸し出す権利を手に入れたわけです。

ただの「紙切れ」を貸す代わりに、人々からは家、お店、車、貴金属、宝石、家畜など価値のあるものなら何でも担保に取っていきます。それらは全て銀行家の財産になっていきます。

これが現在でも行われている「紙幣」と「銀行」の仕組みです。

この「お金の仕組み」がわかると、今の「世界の仕組み」と「本当の支配者」が理解できます。

そして、この現実の世界で、「紙切れの貸付、利子と担保の取り上げ」によって、世界中の富を手中に収めている代表的な銀行家が、「ロスチャイルド家」です。

ロスチャイルド家のことを簡単に説明します。

中世ヨーロッパの銀行家の中でも国王より、はるかに大きな権力を手に入れたロスチャイルド一族。初代マイヤー・アムシェルは1764年、ドイツでロスチャイルド商会を創設します。1800年代に入ると5人の息子をヨーロッパ諸国に派遣し、各国で銀行を創設させます。

固い結束で結ばれた5人の兄弟は、ヨーロッパ中を特製の二重底の馬車と高速艇で行き来し、世界一素早い情報のネットワークを確立し、現在の国際銀行の基礎を築き、ヨーロッパの金融を支配します。

中でも注目すべきは、イギリスに渡った三男のネイサン・ロスチャイルド。
彼は、1810年にロンドン証券取引所の支配者となり、「世界一の金融王」として君臨。
ヨーロッパ中の同盟国を相手に貸付をするまでになります。
さらに驚くことに、その5年後の1815年、イギリス連合軍とナポレオン率いるフランス軍との戦いに出資して、当時の財産300万ドルをさらに2500倍の75億ドルに一気に増やします。
戦果の情報をいち早く手に入れたネイサンは、他の投資家を出し抜き、一人勝ちしたのです。

これで、ほとんどのイギリスの大金持ちや名家を破産させ、ヨーロッパの金融を独占し、今のロスチャイルド財閥の世界支配の礎を築きました。

わずか100万円持っていただけでも2500倍したら、25億円にもなります。すでに世界一の金融王が、その財産をさらに2500倍に殖やしたのですから……。

今の金額で、想像もつかないくらいですが、いずれにせよ、彼はロスチャイルド財閥の礎を築いただけでなく、今に続く一族の世界支配権を確実なものにしたことは間違いありません。

つまり、世界の未来は、200年前のこのときすでに決まっていたのかもしれません。


有り余る富を手にしたロスチャイルド一族は世界最大の財閥を形成し、自分たちの強力な代理人であるJ・P・モルガンとJ・シフを支援し、アメリカに巨大なモルガン財閥、シフ財閥を形成します。さらに彼らから支援を受けたJ・D・ロックフェラーは石油王、ハリマンは鉄道王となり、それぞれ巨大財閥を形成します。

なかでも注目すべきは、J・D・ロックフェラー。彼は1882年にはアメリカの石油をほぼ独占して、そこを元手にアメリカ最大の財閥を築きあげました。

ここで大事なのは……

ヨーロッパを代表するロスチャイルド財閥とアメリカを代表するロックフェラー財閥。
世界の2大財閥です。

彼らについてよく知る専門家・研究家によれば、

「今は、力を増したアメリカのロックフェラーが世界を支配している」

「いや、今でも世界を実質、支配しているのは本家のロスチャイルドだ」

「彼らはいま敵対している」

「いや、本当は上の方で、手を組んで世界を支配している」

など諸説ありますが、いずれにせよ、世界のすべてが、彼ら世界の2大財閥の意向で動いていることは変わりません。さて、話はロスチャイルド家に戻りますが、彼らの持つ権力の中で一番大きな力が「お金を発行する権利」です。

みなさんは、「お金」は国が作っているもので、国の持ち物だと思っているかもしれません。

しかし、実際は、このお金を刷る権利は政府のものでは ありません 。
ロスチャイルド一族のものなのです。

先ほどの絵で説明した「中世ヨーロッパのお金の歴史」は作り話ではなく今も続いている現実です。 国には、中央銀行があります。中央銀行は国の通貨を発行し、利子をつけて政府に貸し付けます。

ロスチャイルド一族は、1815年にイングランド銀行を支配下に置き、1913年には、アメリカ連邦準備制度(FRB)、つまりアメリカの中央銀行をその支配下に置いています。

世界の基軸通貨ドルを発行する権利は、ロスチャイルド一族のもの(一部ロックフェラー家・モルガン家が所有)であり、アメリカ政府のものではありません。

これほど大きな力を持つロスチャイルド一族ですから、もちろん日本も大きな影響を受けています。日本の中央銀行である日本銀行は、持ち株の55%は政府が所有することになっていますが、残りの45%の株式の所有者は非公開となっています。うちロスチャイルド家が20%から40%(それ以上という説もある)は所有していると推測されます。

たとえば、ケネディ大統領は、1963年6月に通貨発行権を取り戻し、政府発行紙幣を流通させますが、半年後には暗殺され、政府紙幣は即座に回収されました。
それ以降、通貨発行権を取り戻そうとする大統領は出てきていません。
ことの真相はわかりませんが、いずれにせよ通貨発行権は世界の根幹に関わることに間違いなさそうです。

ロスチャイルド一族は、世界中の多分野の巨大企業を所有しています。ここにあるものは、その中で代表的な一部です。
専門分野である銀行業、保険業など金融関係はもちろんのこと、資源、エネルギー産業、マスメディア、工業分野、エンターテイメント、食品、薬品産業まで、その分野は生活に関わるほぼ全てといっても過言ではありません。

また、戦争に必要とされる「お金・石油・原子力・武器・世論形成に必要なメディア関連企業」なども所有しているということです。中でも「ロッキード・マーチン社」は航空機の会社として有名ですが、軍需産業分野で売上世界一の会社でもあります。

一方、こちらはロックフェラー財閥系列の巨大企業の代表的な一部です。

こちらもあらゆる分野の巨大企業を所有しています。

石油分野はもちろんのこと金融関係でも巨大企業を所有しています。数が少なく見えるかもしれませんが、最近の経営統合で巨大になったメガバンクです。「メリル・リンチ」は現在、ロスチャイルド系の「バンク・オブ・アメリカ」に吸収されています。

ロスチャイルド財閥同様、ロックフェラー財閥も戦争に必要な「お金・石油・武器・世論形成に必要なメディア関連企業」すべてを所有しています。また、ボーイング社も航空機の会社として有名ですが、軍需産業の売上で世界トップ3に入る企業です。

戦争を起こすときに欠かせない軍需産業は、空母やジェット戦闘機、高性能爆弾などの他戦闘に必要なすべてのものを供給しています。
世界のナンバー1,2がロスチャイルド財閥とロックフェラー財閥の企業であることは注目に値します。

次に見ていただきたいのは、アメリカの軍需産業の実態です。この動画は、2005年サンダンス映画祭グランプリ受賞作である映画「なぜアメリカは戦争を続けるのか」(原題:WHY WE FIGHT)から抜粋したものです。冒頭で語られる「ロッキード・マーティン、マクダネル・ダグラス、ボーイングの3社」とありますが、マクダネル・ダグラス社は現在ボーイング社に吸収されているので、ロッキードとボーイングの2社のことになります。

近代に起きた世界中の戦争はすべて、彼女の言葉通り、彼女の息子たちが支配する国際金融権力によって、立案され、計画されました。当事国に必要な「資金と武器」の供給にいたるまで全ての支援を受け、意向を受けた政治家が両国に配されます。戦争は、用意周到に意図的に起こされてきました。

これほどまでに巨大な力を持つロスチャイルド一族は、欧米ばかりでなく日本にも大きな影響を与えてきました。それでは、次に「日本の近代の歴史」を振り返っていきましょう。

明治維新をロスチャイルド家の視点からみてみるとこうなります。

初め、日本と貿易を始めたロスチャイルド家の代理人(グラバー)は幕府の体制が古いため、なかなか効率よく取引ができません。

そこで地方の若者(この場合、薩摩藩・長州藩の下級武士)に資金と武器を提供し、クーデターを起こさせます。

自分たちが教育し、支援した若者たちが政府を転覆し国を乗っ取ります。
彼らを通じて日本を支配し、有利な関係を結びます。
明治新政府はこのように創設されました。

しかし、所詮イギリスの後押しでできた傀儡政権ですから、その明治新政府に不満を持つ者も多く出てきます。

そこで、内戦が起きます。

戊辰戦争は、まず新政府軍 V.S 幕府軍の主導権争いの京都「鳥羽・伏見の戦い」 に始まり、次は「東北戦争」、さらに北上して、旧幕府軍の最後の抵抗となる「箱館戦争」で幕を下ろしました。

当初、京都の戦いでは両軍の兵力は、新政府軍の約5000人に対し、 旧幕府軍が15000人。旧幕府軍側が3倍ほど数で上回っていました。

しかし、朝廷が薩長軍を官軍と認定し、錦の御旗(みはた)の使用許可を与えると形勢が逆転します。この錦の御旗は、下級公家であった岩倉具視が密造したものでしたが、朝廷の許可を得て戦地で掲げると、「天皇には逆らえない」と旧幕府軍の戦意は低下します。慶喜が軍を捨てて京都から江戸に逃走したことも重なり、新政府軍の圧勝に終わります。

これにより、地方の下級武士と下級公家によるクーデターは完遂したのです。

また江戸では、新政府軍の司令官である西郷隆盛と幕府側代表の勝海舟の話し合いにより、幕府側から新政府側に江戸城が明け渡されました。争うことなく、無血開城した江戸城でしたが、その裏には、後の貿易への支障を恐れたイギリス側から、新政府軍に「江戸城は攻撃するな」という指示がありました。

この幕末から明治維新にかけて、日本の背後では、イギリスが薩長倒幕勢力を通じて南方からの日本支配をもくろんでおり、フランスは幕府を通じて日本の支配をもくろんでいたのです。
またさらにその上には、それぞれ英・ロスチャイルド家と仏・ロスチャイルド家の存在がありました。


戊辰戦争を振り返って見ると、以上のようになります。

英のロスチャイルド家と仏のロスチャイルド家が二手に別れ、薩長倒幕勢力と江戸幕府の両方を資金と武器で支援します。その後、両者を戦わせて、どちらが勝っても支配権と利益を手に入れます。

さらにこの後、明治政府を作らせた後に今度は、外国と戦わせます。

日露戦争です。
小国の日本が大国ロシアを相手に戦いました。
この戦争は、有色人種が白人相手に勝利した初めての戦争ということもあり、 当時の日本国民はおろか、白人の支配下にあった東南アジアをはじめとする植民地の国々は狂喜乱舞しました。

当時の日本は、この戦争の戦費を調達するために、増税に次ぐ増税を国民に 課しました 。

それでも足りず、ひいては国債まで強制的に国民に買わせる始末で、市町村は係員に一戸一戸、訪問させていたほどです。

買わない者は、国家への忠誠心を問われる雰囲気だったそうです。この頃の日本は軍事国家街道をまっしぐらで国家予算のうちの軍事費の占める割合が51%を超え、世界一になっていました。

さらなる戦費の調達に困っていた当時の日本銀行副総裁、高橋是清は日本の国債を外国に買ってもらうために、イギリス・アメリカへと渡ります。

アメリカでは、ロスチャイルド家と血縁関係のある大銀行家ジェイコブ・シフから500万ポンドの国債を買ってもらいました。

国債を買ってもらうということは、後で利子をつけて返す、つまりお金を借りることと同じです。

同様にイギリスではロスチャイルド支配下の銀行団から500万ポンド、後にロスチャイルド本家からもさらなる融資を受けます。

このように戦費を調達した日本は、ロスチャイルド系列の軍需企業から主力戦艦・三笠(英・ヴィッカーズ社製:当時のお金で88万ポンド)などを購入し、ロシアと戦争をします。

日露戦争もロスチャイルド家の視点からみると、イギリスやアメリカのように、まだ支配下にない大国ロシアを、育て上げた日本と戦わせ、封じ込めるための戦争だったのです。

そのために日本に戦費を貸し付け、自分たちの会社の武器を買わせ、ロシアと戦わせ、ロシアを叩いた上で日本からも巨額の利子を取り上げるという構図です。

形として、戦争には勝ったものの戦勝国の利権である賠償金はロシアから一切もらえませんでした。その結果、政府はロスチャイルド家とシフ家に高い利子と元金を払い続ける羽目になりました。おかげで、国家財政は火の車、不満を持った国民が東京で暴動を起こし、戒厳令が敷かれたほどです。

ロシアは戦争に負け、日本は経済的な大打撃を受けるだけに終わり、結局この戦争で勝ったのは、ロスチャイルド家だけだったのです。

当時すでに中国と戦い、戦況も泥沼化していた日本が、さらにアメリカとも戦争を始めます。一度に二つの大国と戦うという無謀極まりない戦争で、大敗します。この戦争については、「侵略戦争」だった、または「自衛のために仕方なく起こした戦争」だった、もしくはその両方の面があるなど、いろいろな見方があります。

いずれにせよ、日本に一番の衝撃を与え、いまだその影響を与え続けている出来事であることは間違いありません。

開戦当時、ロスチャイルド・ロックフェラー・モルガン一族などの一部の国際金融権力者だけで世界の富の80%を所有していたと推測されます。

つまり、彼らはその膨大な富を使い、政治家を操り、武器を売り、世界中のどの国でも戦争をさせることが可能でした。

事実、彼らはヨーロッパにおいては、イギリス・アメリカ連合国の敵国であるドイツのナチス党に裏側で資金を提供し、支援して大きく育て上げ、戦争を起こすことに成功していました。ヒトラーを支援したのは、ロスチャイルド家から意向を受けたアメリカの財閥でした。細かく言えば、ロックフェラー財閥のスタンダードオイル社が石油を提供し、資金を提供していたのはブッシュ元大統領の祖父・プレスコット・ブッシュ氏です。

ヨーロッパで第二次世界大戦を勃発させた後は、アジアにその火種を広める準備が着々と整っていました。

それは、真珠湾攻撃から始まりました。

日本軍が突然の奇襲攻撃でハワイのパールハーバーの米・太平洋艦隊と米軍基地に先制攻撃を仕掛けました。この奇襲攻撃に全米国民が怒ります。「姑息な日本人!やっつけてしまえ!」これを機にアメリカとの全面決戦に突入しました。

しかし、これが本当に日本軍の奇襲だったかというとそうではありません。

当時のアメリカ軍は日本軍の暗号をすべて解読しており、アメリカ側は日本軍の攻撃の予定も熟知していました。しかし、日本との戦争をのぞんでいたため、知らないふりをしたのです。

当時の米大統領ルーズベルトは、不景気だったアメリカをニューディール政策で持ち直すことができず、経済不況を打開するには戦争しかないと考えていました。また、戦争に反対だったアメリカ国民を戦争に駆り立てるためには、日本からの先制攻撃がどうしても必要だったのです。

そのため、彼は、日本軍の奇襲計画を傍受した部下から数々の報告を受けてもすべて無視しました。また、 ソ連のスパイでもあった近衛首相の側近・尾崎 秀実(ほつみ)からの通報で、12月上旬の開戦を知っていたともいわれます。またハワイに太平洋艦隊を集結させておくことに反対したリチャードソン太平洋艦隊司令長官を更迭、後に事情を知らないキンメル提督を任命するなど、先制攻撃を誘い込むような動きを見せています。
「私は宣戦しない。戦争を作るのだ。」は彼の言葉です。

また、日本側の真珠湾攻撃の首謀者は山本五十六・連合艦隊司令長官でした。彼こそは、日本の軍人というイメージがありますが、実は大の親米派でした。
過去にハーバード大学に留学し、ほか駐米武官などの滞米経験も豊富であり、当時の日米の国力の差が10倍以上あることなど、誰よりもアメリカの国内事情に精通していた人でした。

また軍内で、戦争を可能に見せるため会議に提出するアメリカのデータを過少に書き換えることまでしていたのです。その後、軍上層部全員が反対する中、真珠湾攻撃を立案、決行します。しかも決定打を打たずに退却という不審な行動。その動きは悉くすべてアメリカの利益になるようなものばかりでした。その真意はまったく謎です。

一説には完全なスパイそのものだったとも言われています。彼は戦前当時、近衛首相に、「初めの半年や1年の間は暴れてみせます。しかし、2年3年となれば全く確信は持てません。だから、できれば日米開戦は回避してほしい。」と伝えている反面、自分の指揮で開戦した後は「短期決戦・早期和平」を目指していたようですが、結果として日本は悲惨な結末を迎えます。

「このまま戦争が続けば米軍側にさらに犠牲者が出るから、あれは仕方がなかった。」
また、「姑息な奇襲攻撃で先制を仕掛けた日本には、これぐらいやって当然!」

「リメンバー・パールハーバー!」

真珠湾攻撃の復讐をされて当然、という論法で、国際社会では、いまだに正当化されている広島・長崎の原爆投下。

当時の日本はすでに惨敗状態で、とても戦えるような状態にありませんでした。1945年3月に和平協定も申入れましたが、却下されています。

ここで考えてほしいのは、なぜ日本に原爆の投下が必要だったのか?それも2回もです。さらに広島に投下されたものと長崎に投下されたものは異なる2種類の原子爆弾でした。

まず、原子爆弾の開発にはロスチャイルド・ロックフェラー両財閥の大きな力が働いていました。原子爆弾の開発に必要な20兆円にも上るといわれる莫大な資金は両財閥から提供されていました。それはすべて、大戦後に「核の脅威」を用いて世界を支配するために、核がどれほど凄まじい威力をもった兵器かを国際社会に見せつけておく必要があったからです。つまり、広島・長崎は核の威力を世界に知らしめるための人体実験であったといえないでしょうか。

このような世界中を巻き込む悲劇が二度と起きないようにと戦後の1945年、世界平和のために国際連合が創立されました。

国連本部ビルは米・ニューヨークにあります。これは、ロックフェラー財閥が寄贈した土地に建てられました。また主要ポストはロスチャイルド財閥の人脈(血縁者)とロックフェラー財閥関係者で占められました。いまでも国連の主要ポストは両財閥の関係者で占められています。

つまり、振り返ってみると、「第二次大戦の勃発から、原爆の開発と使用、そして、戦後の国連の創設に至るまで」、すべてが両財閥の計画だったのです。

原子爆弾に必要な原料であるウランは、戦前からロスチャイルド家所有のアフリカのウラン鉱山から採掘され始めていました。またH・L・メンケン氏は、その著書『アメリカン・ランゲージ』の中で「国際連合」という名称は、日本による真珠湾攻撃の前からアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の間で決定されていた、と述べています。


さて、みなさんは「国際連合」といえば、学校で習ったり、一般常識で知っているとおり、世界平和のための公益法人の組織であると理解されているかと思います。

実際にそのような側面もありますが、現実には、世界約200か国をまとめて支配するために、
一部の財閥が出資してできた私的機関という側面も強いのが現実です。
常任理事国であるアメリカ・ロシア・中国・イギリス・フランスのみが拒否権を持ち、他の国は持ちません。

日本は国連にアメリカ(4億9000万ドル・2007年)に次ぐ第二位の財政負担(3億3000万ドル)をしており、この額は残りの常任理事国4カ国の財政負担額の合計と同額です。にもかかわらず、日本には何の決定権も与えられていません。


ここで、国連と核兵器の関係について話しておきます。

大戦後の核の拡散について。世界にどのように核兵器が広まっていったかの経緯です。
表向きには、一部の科学者がアメリカの核独占(一極集中)の危険性に危惧し、良心からソ連に技術を持ち出したとされていますが……、実際には、意図的に行われた行為でした。つまり世界支配と利益のためです。

ソ連の核開発には、アメリカのロックフェラー財閥配下にある外交問題評議会(CFR)のメンバーであり、またルーズベルト政権では大統領主席補佐官を務めたハリー・ホプキンスが、意図的にソ連に原爆技術を移転したという、レーシー・ジョーダン少佐のアメリカ議会委員会での宣誓供述があります。

このようにまず初めにアメリカからソ連に核開発の技術が輸出され、次にイギリスとフランスへ、そしてソ連から中国へと5大常任理事国に核が計画的に分配され、世界中の約200の中小国すべてが核を持つ常任理事国の支配下に置かれるという構図です。

その後、核開発技術は中国からインドとパキスタンへ。またアメリカからイスラエルへと輸出されていきました。さらに、水爆までもが、ひととおりこれらの5大国に配備されました。


国連の常任理事国に原爆・水爆がひととおり完備された後、1970年にある条約が締結されます。核拡散防止条約(NPT)です。
この条約は、常任理事国以外の国には核保有を禁止するものです。

表向きは、核廃絶を訴える国と平和運動団体によって核廃絶を目的に制定されたことになっていますが、その真意は、この条約を根拠に「国連非加盟国」を「核を持とうとしている国」などとして批判し、場合によっては国際世論を味方につけて、攻撃できるという体制を整えることです。

最近、この条約と国連誘導の国際世論の攻撃の的にされているのが、「アフガニスタン」「イラク」「イラン」です。

これらの国は、「テロの温床」また「テロリストを匿う危険な国」とされたり、「核を持っている疑いがある国」という容疑をかけられ、国際社会から非難されています。

その実態はといえば、これらの国々にはロスチャイルド財閥の支配する「中央銀行がない国」ということなのです。

「核武装疑惑・テロリスト国家」=「両財閥の世界支配にとって都合の悪い国」ということなのです。
そして、彼らを一気にまとめて総攻撃するきっかけとなったのが、あの「9.11テロ事件」です。 

全世界を震撼させた大規模テロ攻撃です。この事件をきっかけに世界は一変しました。

このあと、世界は「イスラムの過激派テロリスト」におびえ、彼らをつぶすためには、とことん戦わなければならないという幻想にとらわれることになったのです。

ツインタワーは、航空機の衝突後、わずか1~2時間後に完全に崩壊しています。

あまりにも速いスピードで、大爆発とともに真下に崩れたのです。このビル自体は外壁に網の目の鉄板が配され、旅客機何台分もの衝撃に十分耐えられるように設計されていたと、このビルの建設プロジェクト責任者であるフランク・マルティニ氏が証言しています。

さらにあまりにも速いスピードで、大爆発とともに真下に崩壊し、事前に階下での爆発音を聞いた多くの一般市民や消防士の証言もあります。またビル崩壊時の映像を再生してみると、崩壊するより早く階下で爆発している箇所がいくつも確認できます。

アメリカ国内で外国人組織が同時に4機ハイジャックすることでさえ難しいはずなのに、ビルを解体するくらい強力な爆発物を事前に多数、仕掛けておくなど、これほど大規模なことが、アラブの一テロリスト組織に可能でしょうか?

さらに、アメリカ国防省ビル(ペンタゴン)の激突現場に残された穴は、大型旅客機が突っ込んだ穴にしては小さすぎるという指摘があります。

建物が、主翼の幅に相当する損害をまったく受けていないのです。(※写真の飛行機は合成イメージ)そして、機体のほとんどは蒸発してしまったとされ、遺体も一つも見つかっていません。

同様に、ユナイテッド93号機の墜落事故現場においても機体のほとんどが蒸発したとされ、機体の大部分が見つかっておらず、遺体もひとつもありません。機体がほとんど蒸発し、遺体が一つも見つからないような旅客機墜落事故は、前代未聞であり珍事件です。それが二つも同時に起きたとなると、そもそも本当に航空機自体がこれらの事故現場に墜落していたのかと問いただしたくなります。

これほどまでに疑わしいアメリカの政府発表ですから、日本の国会でも追及した人がいました。


2008年1月の参院外交防衛委員会で民主党参議院議員の藤田幸久氏が、先ほどあげた疑惑以外にも、ハイジャックに使用された航空機の会社(ユナイテッドとアメリカンエアライン)の株取引が9月11日寸前までに、まるで事故を知っていたかのような不可解な売買が大規模に行われ、莫大な利益を手にした人がいることにも言及しています。

9.11テロ以来、世界の目の敵となったアフガニスタンとイラク。
とくにイラクはアメリカ主導の国連加盟国の連合軍による一方的な攻撃により、瞬く間に壊滅、占領されました。いまでも治安が安定しない現地では、連合軍の軍隊が駐留し続けています。

当時のアメリカのブッシュ大統領と日本の小泉首相は、大の仲良しで、ともに「対テロ戦争」をスローガンに一致協力しました。

日本政府は、テロ対策特別措置法を制定し、2001年から2010年1月15日まで海上自衛隊の補給艦と護衛艦をインド洋に派遣し、米英をはじめとする国連・多国籍軍の艦船に対して、洋上補給(給油)を行なって支援してきました。

もともとこの法律に基づく給油は、アフガニスタンにおけるアメリカの活動支援が目的であるとされていましたが、実際にはほとんど(8割以上)の燃料がイラク戦争のために使われていたことが米海軍の情報で明らかにされました。つまり、日本はイラク攻撃に大きく関与していたのです。

これは「9.11テロからつながるイラク戦争への流れ」を動画 でまとめたもので、映画「なぜアメリカは戦争を続けるのか」(原題:WHY WE FIGHT)からの抜粋です。
ちなみにこの「イラク攻撃」は、9.11テロのわずか4日後に議会で発案されていました。

最後にブッシュ大統領は、「9.11テロとフセインは、まったく関係なかった」と発言しています。
つまり「大量破壊兵器」も「アルカイダとの関係」も始めから「まったくの根拠ない嘘」だったわけです。

2007年には国連安全保障理事会が、満場一致でイラン核活動に対する制裁決議を可決しました。つまり、「核兵器を作る恐れがある国家」として、世界中がイランを非難することになったのです。国連安保理は、これ以降4度もイランに対して、制裁決議を行っています。

国連は全加盟国にも同様の経済制裁を要請し、EUは続く2008年にイランが核開発の停止を拒んでいるとして、関係者及び企業の大手銀行の資産を凍結するなど経済制裁を始めました。 

アメリカは、2007年以来、ことあるごとに同様の経済制裁を行い、2010年に入ってからも新たに追加制裁を行う動きです。同様に日本政府も、2007年からイラン対して経済制裁を実施しています。イランは相次ぐ、世界からの貿易停止措置と海外資産の凍結などの経済制裁で窮地に立たされています。

また戦争に向けて軍事訓練も開始して準備を整えています。イラン戦争は、いつ始まってもおかしくないという状態が続いているのです。戦争になれば、瞬く間にイランは侵攻され占領されてしまうのはいうまでもありません。


映画「なぜアメリカは戦争を続けるのか」(原題:WHY WE FIGHT)からの抜粋

アメリカは、自国の覇権のために世界中の戦争に介入してきました。その裏側には、アメリカという国家でさえも自由に操り、自分たちの世界支配のコマとしている人たちがいるのです。

さて、ここで幕末・明治以降の日本を振り返り、いま現在、私たちはどこに位置しているのかをみてみます。

左が「日本における出来事」右が「支配者から見た計画」で、大局的にみるために支配者からの視点でみていきます。

幕末に、日本の端に反乱分子を育て上げ、明治維新で彼らに幕府を転覆させ、支配しやすい明治政府を創設します。

次に、その明治政府に資金と武器と提供し、外国と戦わせ、疲弊させます。疲弊しきったところに、直属の国家であるアメリカを侵攻させます。その後、占領統治し、経済国家として繁栄させます。経済が豊かになったところで、金融崩壊(バブル崩壊)を起こし、国家としての国際競争力を削ぎ落します。この後の計画では、競争力の落ちた日本を中国主導の地域統合体である「アジア連合」へと誘導していきます。

そして、今の私たちのいる位置は、「金融崩壊が引き金となって起きる国家破壊」の段階です。その前触れとして起きているのは、90年代から続く不景気であり、外資による日本企業の買収です。さらに本格的に、今後起きてくる金融崩壊にはどのようなものがあるのか、その可能性を探ってみました。

迫りくる本格的な金融崩壊のなかで、最も注意しておくものにアメリカの「ドルの崩壊」があります。何の裏づけもなく、無尽蔵にドル札を刷ってきたアメリカは国家破綻寸前です。

そして、日本はそのアメリカから国債を800兆円ほど購入しています。つまり、アメリカは日本に800兆円あまりの借金があるのです。この多額の借金から逃げるためにアメリカは、ドルの価値を10分の一ほどに暴落させ、帳消しにしてしまうという計画を持っています。これが「クラッシュプログラム」。文字通り「ドル崩壊計画」です。

しかし、これはイラン戦争などを誘発して、石油価格を暴騰させた後、その結果、自然に起きた物価上昇対策として仕方なく行われる政策のように演出される可能性も大きいため、注意して世界情勢をみておく必要があります。

また、ドル崩壊後の準備として、アメリカ政府内では、すでに新通貨が作られているという情報があります。



国家が破産すると、国連の機関であるIMF(国際通貨基金)が介入してきます。つまり、破産した国家に手を差し伸べるという形で、高い金利の付いた融資が行われるのです。その結果、IMFに介入された国家の経済は、再建がさらに難しくなる立場に追い込まれます。

現実に、日本は過去にも2度、国家破産しています。明治後期から大正にかけての第1期と大戦中の第2期です。

ここで、国家が破産したらどのような事態が起きるのかを過去の例から予測してみます。

昭和21年の「金融緊急措置令」が実施されたときには、

・預金封鎖(生活費・会社の事業費以外の銀行預金の払出し禁止)
・手持ちの財産を一定額以上は銀行に強制預金させられる(財産の取り上げ)
・財産税の創設(財産に高率の税金が課せられる)
・国債は紙切れに・・・・・・
さらに、郵便貯金は10年間の引出し禁止、実質戻ってこなかったということがありました。

そして、アメリカ政府内では、日本の国家破産時の対応に関して、「日本経済再建計画」を始めとする報告書がいくつも書かれています。中でも注目すべきは、「ネバダ・レポート」と呼ばれる
IMF(国際通貨基金)の破産処理計画です。

2002年の国会では、民主党の五十嵐文彦議員が、この「ネバダ・レポート」について触れています。その内容は、

① 公務員の総数の30%カットおよび給料の30%カット。ボーナスはすべてカット。
② 公務員の退職金は100%すべてカット。
③ 年金は一律30%カット。
④ 国債の利払いは5~10年間停止=事実上無価値にする。
⑤ 消費税を15%引き上げて20%へ。
⑥ 課税最低限度の年収100万円まで引き下げる。
⑦ 資産税を導入する。不動産は公示価格の5%を課税。債券・社債は5~15%の課税。株式は取得金額の1%を課税。
⑧ 預金は一律、ペイオフを実施するとともに、第2段階は預金額の30~40%を財産税として没収する。

このように日本の国家破産後のシナリオはすでに用意されているのです。



さて、これまで振りかえってきたように、世界の歴史も日本の歴史も、また今後の未来まで含むすべてが、一部の支配者の計画によって作られてきたものだということが理解できたかと思います。

また、ここで強調したいのですが、誤解してほしくないことがあります。 みなさんに、この世界の支配者である「彼ら」を敵や悪者として、とらえてほしいわけではありません。

彼らが、世界中の戦争や金融危機を意図的に演出していることは事実です。

「お金」と「武器」と「情報」のすべてを握る一部の人と、一般市民との間には埋めようのないギャップがあります。” コントロールする者 ” と ” コントロールされる者 ” 、また ” 操作する者 ” と ” 操作される者 ” というように。あまりにも彼らの住む世界との間に大きなギャップがあるため、私たちには「世界で本当に何が起きていて、何が起きていないのか」毎日の生活のなかで、知りようがないというのが現状です。

その結果として起きる一番の悲劇は、「戦争」です。


戦争が起きて、現場で加害者になるのも犠牲者になるもの私たち一般市民です。支配者が実際に手を下すことも、その犠牲者になることもありません。

血の気の荒い人々が「対テロ」「自由」「平和」「民主主義」で踊らされ、その他の国民も「世界平和のための国際協力」として殺人の片棒を担がされる現実があります。

しかし、ここでよく考えてみてほしいのは、彼らの計画を止めることは不可能とはいえ、それを実行しているのは私たちですから、もし、みんなが真実を見抜き、殺し合いの一切を拒否したら……。

戦争は完全になくなります。

世界中のニュースは独占され、情報操作されています。
全米を中心に世界121カ国を網羅するAP通信は、約5000のテレビ・ラジオ局と約1700の新聞社を含む通信網を持っています。

また世界のニュースを独占する「ロイター通信」(現トムソン・ロイター)は、イギリスに本拠地を置き世界150カ国に支局を持つ世界最大の通信会社です。現在主要マスコミのほとんどはロイターと契約し、そこから情報を得て、一般に流しています。

そして、現在このAP通信とロイター通信の2社でほぼ世界のニュースを独占している状態です。そして、いうまでもなくAP通信はロックフェラー財閥の企業であり、ロイターはロスチャイルド財閥の企業です。

また、残念なことに明治以来、英米の強力支配にある日本は、欧米より厳しい情報統制下にあるため、先進国にも関わらず、教養人でさえ世界情勢の裏側を知る人が大変少ない状況にあります。

本当の現実を知るにはテレビや新聞はほとんど当てになりませんから、世界情勢を詳しく知るには、自らインターネットや本、質の高い定期刊行物などから積極的に幅広い情報をいれ、照らし合わせ、自分の頭で考えていくことより他に道はありません。


ニュースは伝えてきます。

「テロリストが攻撃してくる」「北朝鮮が攻めてくる」「温暖化で地球が沈んでしまう」「イランが核爆弾を作っている」など。

しかし、よく考えてください。
テロリストや北朝鮮に武器を売ったり、資金を提供しているのは誰でしょう?
CO2による地球の温暖化が事実だと宣伝しているのは誰でしょう?
またイランが持っているかもしれない核の原料であるウランはどこから来るのでしょう?
アフリカのウラン鉱山はすべてロスチャイルド財閥が所有しているはずです。

ここまで、世界が危ない、地球が危ないと毎日のニュースで連呼する理由は何でしょう?
彼らは私たちにお互いに警戒しあい、戦ってほしいのです。殺し合ってほしいのです。
互いに愛し合ってほしいとは露ほども願っていません。

彼らの免疫力は最強。 まかり間違ってもアレルギーなどあり得ない。

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多くの日本人がアレルギーで苦しんでいる。

無理もない、衛生観念が逆さまである。



彼らは当たり前の常識を無視して、サイコパスの言うことを忠実に守る。

マスゴミや人殺し企業の宣伝文句にコロッと騙される。

その扱いやすさはまるでカルト信者。



除菌殺菌環境は最も不潔。

除菌殺菌が衛生的とはヘソで茶が沸くお話なのだが・・・。



家中のバイ菌を駆除できると本気で信じるのか?

カビは?

ダニや目に見えないサイズの生き物は?

完璧な駆除は不可能。



それどころか、酸性環境に強い微生物界のサイコパスを純粋培養しているようなもの。



なんとなれば無菌室で暮らす?

でも、二度とそこから外界には出られない。

それでは死んでいるのと同じ。













フィリピンの山村には、およそ半世紀前の日本が残っていた。

それは子どもの暮らしを見るとよく分かる。



どんな遊びをしているか。

どんなものを食べているか?

家族や兄弟、親戚やコミュニティーの様子。



もちろん、裕福な家族もいればかなりギリギリの家族もいる。

ずっとそこに住んでいる人もいれば、別の場所から流れてきた家族もいる。



マニラ首都圏から南へ百数十キロ。

都市化の波がちょうど停滞するボーダー上に位置する。



普通の日本人の感覚でいえば、恐怖を感じるレベルの衛生環境(かも知れない)。

もちろん、これも個人差があり、東京の人は尻込みするが地方の人は当たり前。

丹波篠山から来た若い女子大生は初めてにも関わらず、まったく躊躇なく地元の子どもと遊びだす。

水牛や豚は普通に泥水のプールでご休憩。

周囲の泥水は糞尿まみれ。

もちろんケモノの匂いがプンプン。







乾期は粘土質の砂埃が舞う。

雨期は膝まで泥沼。



午後二時頃、早速、酒盛りを始めるオヤジ連中の足下には犬、猫、鷄が屯する。

酒の肴をポイポイ捨てるので、そのご相伴にあずかりにくる。



なんてお行儀の悪い、なんてモノの見方は菅監房腸管。

「そのご指摘は当らない」。

残った食べ滓もみな、ポイ捨てするがトカゲや昆虫が片付ける。

それを目当てに鳥や肉食昆虫がやってくる。

翌朝、その場所はキレイに片付いている。



朝早くから農作業。

学校へ行かない子どもが一番キツい仕事をしている。

糞尿まみれの土ぼこりを吸って午前中一杯ヒーヒー言って働く。

終われば飯がたらふく喰えて、こずかいが貰える。



心得たもので彼らは井戸水でキレイに身体を洗い、先に洗って小枝に干しておいた生乾きのボロボロのTシャツを着る。

みな痩せているが、引き締まったいい身体をしている。



草刈り、防除のための野焼き、水まき、家畜の世話・・・。

どれもこれも実際やれば分かるが、相当な重労働である。



彼らの免疫力は最強。

まかり間違ってもアレルギーなどあり得ない。


自分さえ良ければ他人はどうなってもいいサイコパスは、役に立たない人間に苦しみを与える。



道具には事欠かない。

インフラ依存、農業を汚染し、都市をバイ菌の天国に改造。



そして、お手軽なバイ菌信仰を広める道具のひとつが化学合成洗剤。

花王、ライオン、その他モロモロの化学合成企業がグングン成長した。



アレルギー、アトピーがビジネスになる。

当然の帰結、何処で免疫力を鍛えればいいのか?



田んぼは農薬、畑は除草剤、山川は危険が一杯、海も汚染されている。

治療と称して、むしろ症状を悪化させるマッチポンプ。



学校と塾と家庭、室内遊びが子どもの世界?

衛生的な食品には緩慢な毒殺因子が混ぜ込まれている。

免疫力を阻害する要因には事欠かない上に加えてワクチンまで・・・。w



ま、それ以外の成人病も似たようなものだが、肝心要の免疫力が脆弱なら、何をやっても体調が優れなくて当然である。



除菌殺菌はサイコパス発想。

これに順応した人間はサイコパスの下僕。

まさに植民地奴隷の鏡の人生を送るハメになる。



中性洗剤は使わない。

ファブリーズ?

以ての外。



頭の黒いサイコパスを退治したいなら、遠回りなようでも足下からライフスタイルを見直すことである。



免疫力は子ども時代に培われる。

泥遊び、川遊び、海や山の野外キャンプ。



ところがどっこい、今の日本、おいそれとそれが出来ない環境に囲まれている。

これを何とかするのが大人の仕事(生命環境の再生)である。

中央集権は「純粋悪」である。 絶対容赦しない。 必ず滅ぼす!

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東芝を見るまでもなく、現状維持にすがりついても潰れる時は呆気ない。

執行責任者がサイコパスなら、どのみち社員の未来はお先真っ暗である。



なぜなら、アメリカのトランプ大統領はアメリカ社会に潜む「純粋悪」を排除すると公約したのである。

その影響は遅かれ早かれ日本にも伝播する。



それができない組織は座して死を待つのみ。



早い話、社会人になる前の若者にしか、世の中の仕組みの根幹は任せられないのである。

社会人1年生でも、早い人は踏み絵を踏んでいる。



官僚(中央も地方も)に至っては、採用段階で既に絞り込んでいる。

残念だがいくら入省1年目でも信用できない。

そのくらいドラスティックに向き合わないと「純粋悪」とは対峙できない。



毒入りの加工食品がとぶように売れた時代を過去のモノにする。

合成洗剤を環境に流さないために米ぬかや米のとぎ汁を利用する。

自ずと米は農家から玄米で購入するようになる。

精米機は需要期を迎えるが、何となれば手作業で突いてもいいのである。



そんな変化を横目に種子法なんて冗談じゃない。

水道の民営化なんてあり得ない。

現在生きているほとんどの人間は、すでに感染している可能性がある。

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学校・教育関係者の皆さんは、学校給食に、ハンバーグやミートボールを
出していませんか?
放射能汚染食材を積極的に取り入れ、「食べて応援」に協力するだけでは飽き足らず、
米国にも「食べて応援」する訳ですね・・・BSE疑惑牛肉を。
学校で、あなた達、一体何を教えているんですか?
未来ある子供たちに、早く死ぬ方法でも伝授しているのですか?


世界に表示されているBSE検出の統計は、氷山の一角。
実際には、その何百倍もあると疑ったほうがいい。
皆さん、この事を是非、頭に入れておいて下さい。
家畜業者も、少しでもBSEの疑いのある牛は、秘密裏に処分し、
闇市場に流して損益を出さないようにするのは常識の範疇。


2010年の春から夏にかけて、日本では、日本の宮崎県南部を中心に
口蹄疫の流行したのは記憶に新しい。
そして、韓国では、2010年の11月から翌年にかけて、韓国全土で
口蹄疫が大流行した。

日本と韓国に共通するのは、米国からのBSE規制緩和への圧力に
激しく抵抗していた点である。
不思議な事に、世界でこの2国に、集中的に口蹄疫が大流行した。
米国からのBSE規制緩和への圧力に、素直に応じていれば、
口蹄疫も両国で蔓延しなかったのではないかと噂されています。

そうそう、もう一つ共通点があった。
日本も韓国も、米国の準植民地であるという一点。
やはり、逆らっちゃぁ~いけないんだね、宗主国に。
くわばら・・くわばら・・・




狂牛病が世間に明るみに出たのは、ごく最近のことである。
それまで、狂牛病という病気自体がほとんど認識されていなかったので、
「立てないのは足の関節の欠陥」と診断され、そのまま処理されて肉に
なってしまっていた。
しかも、そのような例は「よくあること」と認識されており、
特に対策も講じられていなかった。

また、脳や神経組織などは、すりつぶして安物のソーセージに増粘剤として加えられたり、
他の臓器と一緒にミンチにして、ハンバーガーの中に挟まっている肉になったりして
いたのである。
最近、狂牛病騒ぎでそのようなことはなくなったが、
近頃までごく当たり前に行われていたことである。
イギリスでは未だに平然と行われている。

CJDは、感染までに十年と言われているが、病原体を摂取する量によって、
発症までの期間が増減する。
近年、突然痴呆症のようになってしまう症例がたびたび報告されているが、
昔はこのような症例はほとんどなかったとされている。
CJDに関連するものである可能性も示唆されている。


◆ 政府の安全宣言は本当に信じてもよいのだろうか。

「狂牛病の病原体は、脳・神経組織・腸・リンパなどの臓器に
集中しており、肉は大丈夫」と発表された。

専門家に言わせると、それは「真っ赤なウソ」である。
おそらく、少し知識のある人ならば、間違いであることを指摘するであろう。

病原体は、発症するまでほとんどの器官に存在する。
ただ、発症する頃には、脳・神経組織などの器官に病原体が多数存在し、
そこに集中しているような状態になっている、というだけである。

また、リンパの毛細管は血管のように体内をほとんど網羅しており、
当然普通の肉の中にも含まれている。
それを手作業で切り分けるのは絶対に無理である。

また、神経組織も同様である。神経組織は束になっていれば目に見えるが、
普通は1本1本が分かれた状態で筋肉上に存在する。
神経1本1本をすべて除去するなど、獣医にも無理な話である。
今では検査されているため、「検査済み」ステッカーが貼ってある肉を
食べるなら大丈夫である。

財閥企業は、これらの政治家と持ちつ持たれつ死ながら悪事に手を染めて勢力を拡大してきました。

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病院というものが『医療工場』に成り果ててしまっており、しかもそこでは健康など生み出されてはいないからだ。この工場では、患者は健康を改善しにきた人間とはみなされない。患者は医療工場の経営を改善するための材料とみなされるだけである。


ロックフェラー財団の意に添う考えは、補助金が与えられ、大きくなる。

意に沿わない者は、もちろん補助金など与えられずに抹殺される。

こんなことが続いたらどうなるでしょうか?
想像して頂ければわかると思います。

さらに、テレビやラジオが出てきたら、もちろんテレビのスポンサーになって、テレビ・マスコミによって西洋医学のことを大々的に伝え、洗脳し、東洋医学についてはほとんど伝えない。

ということを行います。
このことによって、今の洗脳社会が誕生したのです。


トランプ大統領は製薬業界の闇について十分承知しているようです。以前もワクチンの問題点を指摘していました。トランプ政権の製薬業界に対する新たな政策により、米製薬業界が人々を騙して富を貪るようなことが駅亡くなればよいのですが。。。
日本にも米大手製薬会社の薬やワクチンが入ってきていますから、日本人もそれらの被害に遭っているということです。日本政府は米政府や製薬会社の要求通りに、危険な薬であろうとワクチンであろうと、それらを輸入してきたのでしょうから、米製薬業界に規制がかかれば日本人にとっても良いことです。
日本人、特に高齢者は薬漬けの毎日です。薬に頼る生活を続けて得をするのは、製薬業界だけです。

世界中の人々の健康のために、今後は、既存のワクチンや薬の厳しいチェックだけでなく、ケムトレイルの完全停止、遺伝子組み換え穀物や種、そしてラウンドアップと呼ばれるそれに付随した農薬の生産販売禁止をトランプ政権にはお願いしたいですね。アメリカの多国籍企業が潰れてもアメリカの経済にはそれほど影響が出ないでしょう。彼らは米国民を豊かにしていないと思います。


製薬業界は多くのロビーイストを使って活発にロビー活動を行ってきた。彼らは絶大な権力を持っている。

巨大になった「日本医師会」と「中央社会保険医療協議会」は、「治療」よりも「病人製造」に血道をあげて暴走している!!

50兆円産業と化した医療業界は、モンスターとなり「人々」を喰らい(殺し)続けて飽きることなく今も尚、巨大化を続けている!!

「日本医師会」と「中央社会保険医療協議会」は、「製薬会社」とリンクしており「厚生労働省」の役人の天下り先を決めているので、厚生労働省の役人たちは「日本医師会」と「中央社会保険医療協議会」と「製薬会社」のアンドロイドと化している。

ゆえに世界に類を見ない「高額医療」と、「検査」と、「人体への放射能照射」を続ける「日本医師会」と「中央社会保険医療協議会」は、製薬会社が製造する「習慣性治療薬」を患者たちに投与して「薬中毒患者」を製造し、病人を激増させて繁盛している!!

また高性能の「殺人病院」を次々と建設し、おぞましい「検体ビジネス」でも、猛威を振るっている!!

「人工削減」でもしているかのような「死者」の数である!!


全ては、権力と金です。

彼らは明治維新以降、ロスチャイルドに作られた在日、新興勢力なのです。
財閥企業は、これらの政治家と持ちつ持たれつ死ながら悪事に手を染めて勢力を拡大してきました。


同族が政治とビジネスに分かれて、互いに利用しながらロスチャイルドの命で「日本支配」をしています。

明治維新以降から発生した新興勢力の世襲制議員、閥族議員を日本から放追しなければ「日本再生」はあり得ません!!

薬も抗がん剤もロックフェラーの石油産業という狂ったビジネスでしかないんです。

今まで、色々科学的な理由をつけたり、権威やマスコミを使って信じこませてきたわけですが、

それが効かないことがバレてきちゃった。。。

アメリカではもう全然信じられていないそうです。

信じてるのは馬鹿な日本人ぐらいで、アメリカ人のちゃんとした人は、ありゃ駄目だ^^;ってもう信じてないんです。


だから、いまさら「抗がん剤で治るかな?」とか
「薬って効くよね?」って言ってるようじゃ駄目ってことなんです。

ほんとに騙されてきたんですね。
日本人もアメリカ人も。

これも洗脳の賜物ってやつですか。


中央集権は犯罪者組織。
納税は犯罪者への供与。
抗がん剤投与医師は逮捕すべし。
罪状は言わずと知れた殺人罪。

医者が居なくなったら困る?
えっ~、人殺しだよ。
駆除は世のため人のため。
間違いなく世界の趨勢は殺人医療抹殺にシフトする。
と、いうか、欧米ではそれがずっと前から始まっている。

日本では有名な歌舞伎俳優の奥さんがついこの間抗がん剤治療を受けている。
猛烈な副作用で表情が変わった写真を見たが、それを堂々と医療行為として施術する人殺しが息をしているのである。

それでなくとも緩慢な毒殺に覚せい剤、加えて放射能である。
一日も早く殺人組織、そして日本民族に対する暴力装置、中央集権を処分すべきである。

死因はいろいろあろうが、少なくともこの半世紀、もっとも多くの殺人を犯しているのは中央集権である。
交通事故の比ではない。
間接的には柴生者の割りは中央集権に殺されているのである。

蛇足ながら・・・。
医者は居なくて結構。

あらゆる病気を治しているのは自然治癒力である。
変な医療がない方が健康度は高まる。

野生動物は瀕死の痛手を負うと、じっとうずくまって動かない。
生命力が勝れば立ち直る。
そうでなければ死を受け入れる。

人間も基本変わりない。

誰しも天寿を全うしたいのである。
過去半世紀、日本人の大多数は医療殺人制度のもと、天寿を全うできずに殺されている。
これは霊界にとっても痛手である。

死は次元上昇である。
だが、それには自然死でなければいけない。

殺された魂は死を受け入れらず、それなりの期間、中字界に留まる。
あるいは、地上世界から抜けきれずにもがき苦しむ。

中字界が異常に膨らめば、霊界全体のバランス上、面倒なことになるし、地上世界へも悪い波動が及ぶ。
医者に人間の意識が残っているなら、宇宙的犯罪に加担する取り返しのつかない罪に思いを致して欲しい。
ま、そんな想像力があれば現在の医療を平然と続けられないはずなので、言うだけ無駄か・・・。w





風邪を引いても医者には行くべきではない。医者はたいてい抗生物質を投与するが、抗生物質は風邪やインフルエンザにはほとんど効かず、それどころか、薬が原因で風邪をこじらせてしまい、病状がさらに悪化する

ファスティング(断食)に関しては、以下の利点があります。

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1.寿命が延びる 2.脳細胞損傷を抑える 3.精神疾患が治る 4.頭脳明晰になる 5.脈拍、血圧が下がる

6.ストレスに強くなる 7.新陳代謝が促進 8.免疫力が向上 9.体温が上がる 10.睡眠時間が短くなる

11.視力が回復する 12.体重が減る 13.小じわ、シミが消える 14.五感が回復 15.消化力が回復

16.心肺機能がアップ 17.心臓病が治る 18.糖尿病が完治 19.腎臓病が治る 20.癌を防ぎだす

21.精力が若返る

個人でやると、問題が起きたりしますので専門家の意見を取り入れて実践することです!!
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