モーリス・ラヴェルは1875年生 まれのバスク系のフランスの 作曲家で、同じ印象派のドビュッシーと双子のようにいつも一緒に論じられます。この二人、確かにお互い愛し 合ってたのかもしれませんが、私が霊視してみるに、魂は別人です。しかしラヴェルの人生を思うと、伝記を読んだだけなのに ちょっぴりさみしくなります。彼の最期を知っているでしょうか。乗ったタクシーが起こした事故の後失語症になり(1)、思考と感情は明晰なまま何も表現できなく なったのです。脳に関する障害で、筆記もま まならなかったといいます。肉体の牢獄に自らを閉じ込めるのは我々が普段やっていることですが、さらにそれを 他者から隔離するのは何を学ぼうとする人の状況でしょうか。
晩年のラヴェルは頭の中に曲が出来上がっても書き留めることができず、何を見ても空しく、無関心になってしまった といいます。バルコニーで肘 掛け椅子に座っているとき、「何をしているの?」と尋ねると、「待ってる」と答えたそうです。以前は控え目に感情を 隠して生きてきた男に対して、痛手を癒そうとそれはそれは多くの友情の手が 差しのべられたようです。様々な試みが行 われました。自分の別荘に迎えたり、字を書かせたり、和音を弾かせたり。彼を慰めるために訪問する者は後を絶た ず、友人のジャック・ド・ゾゲップは毎日「雨が降ろうが、風が吹こうが、雪が降ろうが」夕方になるとラヴェルの 家へ行きました。ベルを鳴らすとラヴェルは門のところまで飛んで来て、不自由になった手でかんぬきを開けようと さんざん苦闘して、無事に迎え入れられると目から大きな好意がこぼれ落ちたといいます。(2)
ラヴェルは生涯独身でした。音楽家 は何でもゲイだと考えられて いるようですが、ゲイも普通の人だと思うと同時に彼がそうだとは思いません。(3) まわりの証言によると、強度の不眠症だったラヴェルは夜な夜な遊んでいたようです。深夜に友人と会いたがり、断られると悲しそうに帰ったとか、まるでグレ ン・グールドが真夜中に電話してくるような話です。(4) 大勢のとりまきの中にあっても、こういう人は自分がつくり出した孤独に追い詰められているのです。つくり出す? どうやって。モンフォール=ラモリーの彼の自宅にはニセモノばかり山ほど蒐集した応接間があったそうです。細々とし た日本の骨董品やルノワールの絵まで様々だったようですが、今で言えば中国製のローレックスを集めるようなもので しょうか。それで誰かが素晴らしいと褒めると大喜び。
「ところがね、これ、にせ物なんですよ」
それから、だらしない恰好は絶対に嫌で、一人のときでも家ではスーツを着て絹の胸ハンカチに合ったネクタイを締 め、壁際に寄せたテーブルに壁に向かって鼻をくっつけそうなほど近づいて座って食事をしていたのだそうです。いつも 最新流行のモードに身を包み、自らの感情は決して口にしません。皮肉の名人であり、そのいかにも彼らしい語録はあち こちで紹介されていますから割愛しますが、非常に紳士的に、慎重に言い回された、相手への配慮なのか攻撃なのかわか らなくなるような巧妙な表現で、ウィットに富みながらも頑として拒否するのです。多くの人が真意を計りかね、近づけ なかったといいます。彼を愛していたエレーヌ・ジョルダン・モランジュならそういう態度ですらラヴェルの謙遜なので あって、彼一流のやさしさの現れだと言ったでしょうが、彼女は皮肉屋の奥底の輝きをありのままに見てあげていたと言 える一方で、周囲の人たちは別の意見だったに違いありません。思うに、決して人を入れない、心のドアを開けない何か があるのです。
最大公約数的に言えば怖れ、でしょう。つまり、本当の自分は受け入れられないんだという観念をどこかに持っている のです。具体的にはそれはどんなことに関係するのか。自分でそれに気がつくということが私たちにはときどき大変むつ かしい場合があります。本当は外せるのでしょうが、怖れに何重にもロックがかかっているように思えるのは、無意識と いう便利な蓋付きの箱の奥にそれを押し込んでいるからでしょう。本人が押し込んでいる以上、誰も蓋を開けてくれませ ん。本人が忘れている以上、誰も思い出してくれません。人ごとではなく胸が痛みます。
そんな孤独感が漂うのが彼がつむぎだすメロディーです。ラヴェルの音楽にはいくつもの彼らしい特徴があります。そ のうちの技術的なものを解説しようとすると、彼ほどの緻密な技法を身につけた「時計職人」についてそれを行うのは作 曲家なみの知識がないと無理でしょう。しかし心の表れに関することはすぐに思い浮かびます。情熱の中断やそらし、 うっとりした人を冷笑するようなフレーズ、期待される展開をあえて外す戯れといった、彼の生活態度とも一致する皮肉 な一面は、ある程度音楽の構造がわかれば目につくかもしれません。この一面は皮肉というものが心理的に何を目指して いるかを考えればいっそう興味深いものです。ラヴェルの置かれた状況には、一度ついた嘘がそれを本物に見せかけるた めにさらなる嘘を必要とするような複雑な隠蔽構造が見え隠れします。しかし今はそれとも関連した、孤独感のことにつ いて言いたいのです。
話を簡単にするために二つに絞りましょう。ラヴェルの楽曲に表れる心理的特徴、その中でもとくに魅力となり得る二 つのうちの一つは、このうえなく美しい、感情に訴えてくる静かなメロディーにあります。暗い部屋の中から五月の窓の 外を見るように、丘の上から輝く遠い街を眺めるように、それは美しいのに満たされていません。理解されることと愛さ れることを遠い未来の手の届かないところに置き、いつも憧れていて「ここ」にいない人の歌です。ハロー・ダークネ ス・マイ・オールド・フレンド。それがまた何という魅惑でしょう。
ト長調のピアノ協奏曲の 第二楽章の、あのピアノ の定型的な伴奏が霧のようなトレモロに変わり、突如としてフルートが哀しくも希望と諦めに彩られた風を呼び込むとこ ろ、それがオーボエに受け渡され、クラリネットに引き継がれるところのあの締めつけられるような美しさはどうでしょ うか。二小節ずつ、そ れはもう死ぬような思いをして書いたんですって? それはあなたの気の毒な脳の病気のことでしょうけど、中身の話を しているのですよ、モーリス。クープランの墓のおどけたようなフォルラーヌに顔を出す正直な展開部と、あの澄んだ水 の中のようなメヌエットに抵抗できるでしょうか。
ラヴェルは音楽の中でだけ心情を吐露できたのです。どんなに涙が流れても、五線譜の中では平気なの。だって作曲家 ですもの。ドビュッシーにも「月の光」や「小組曲」、「夢」といった大変美しいメロディーがあります。しかし双子の 兄弟とは少し色合いが違うのではないでしょうか。哲学者のジャンケレヴィッチのように長7度に対しての平行7度、平 行9度、増5度の好みの違いだなどと言うことはできませんが、こうした叙情的な旋律のなかで、ラヴェルは人恋しげに 訴えています。「絡まってしまった糸をほぐすのを手伝ってほしい」と。何もないふりをしてみせていた彼の日常の言葉 にだまされてはいけません。マジックミラーのように音楽の側からは透けて見えるものを、それとも彼は隠したつもりな のでしょうか。たとえどんなに隠す人でも、どこかに救難サインを出すものです。
二つあるラヴェルの心理的特徴の、これがひとつだと言いました。しかし見かけの二面性は内部でひとつに結ばれてい ます。ラヴェルの心の声に関するもうひとつの特徴は、よく言われるように「カタストロフィー」ではないでしょうか。 怒りの爆発のような感情の激発のことです。辞書によるとカタストロフィーとは、突然の大変動とか破局、悲劇の大詰 め、などとありますが、これについてはジャンケレヴィッチが「狼の怒り」と呼んで有名になりました。ゴダール映画の 前口上のように、フランスの知識人らしい、抽象句の言い換えを多発する難解な本でしたが (5) 、そのカタストロフィはこの 論者によると「諧謔家の野性味のいか にも独特な奥底を剥き出しにすること」であり、「だしぬけの激しさ、狼のようにいきなり現れる怒り」なのです。
有名な「ボレロ」で は、ずっと同じ旋律が繰り返 し繰り返し様々な楽器に引き継がれながら延々と続いて行き、最後に転調とともに下降旋律に変わって崩れ落ちます。こ の破局というか大詰めの狂気を聞いてラヴェルに取り憑かれる人はけっこういると思います。私もそうでした。それがラ ヴェルのカタストロフィーです。この爆発はいったい何を語っているのでしょうか。同じような例は他にいくつもあるの です。「ラ・ヴァルス」と対比して反対のように描写する意見もありますが、たとえばピアノ曲である「優雅で感傷的なワルツ」(1911) にすらその小さな萌芽はみられないでしょうか。
ボレロとよく比較されるオーケストラ曲の「ラ・ヴァルス」(ザ・ ワルツ)では、1855年頃の皇帝の宮廷の、華やかな舞踏会の会場が描かれています。「私はこの曲をウィンナ・ワル ツの大詰めのようなものとして頭に描いた。それは私の頭の中で、幻想的で宿命的な、渦巻く水流の印象と混じり合って いる」とラヴェル自身が語っています。着飾った男女がはじめ優雅にとりすまして踊っていますが、徐々にワルツのリズ ムがうねり、何度も旋回の興奮を繰り返しながら最後には狂ったような金管の咆哮をともない、なんとも破壊的な結末を 迎えます。
「ヴァイオリンとピアノのためのソナ タ」にも同じ ような破滅の音が聞こえます。この曲には本来ヴァイオリン・ソナタが持っているべき二つの楽器のハーモニーという大 前提をあえて崩すような計略があります。「(ヴァイオリンとピアノという)二つは互いに相容れない楽器であるが、こ こでは、その均衡をとるどころか、不両立性そのものを強調しているのである」と作曲者自身が語っています。いつもの ラヴェルの皮肉が顔を出しているともとれますが、第三楽章の始まりなどとくに、ピアノとヴァイオリンが同時に和音を 奏でるのではなく、交互にお互いを模倣したまま追いかけっこをして混じり合いません。うろ覚えで言ってはいけません が、評論家の吉田秀和氏が昔、フォーレは優しいけどラヴェルはこういうところが冷たくて嫌いだ、というようなことを どこかに書いておられました。お金につられて気に入らない演奏家を褒めたりはしない見識を持った人ですから、本当に 不愉快だったに 違いありません。好みというものはあります。そのとき私は、この音楽評論家がラヴェルの心を理解したくはないのだな と思い、なんだか自分が嫌われたように感じたものです。しかし自分の中にないものには反発すらできません。吉田氏は 敏感な人だったがゆえに、案外ラヴェルの苦境が見え過ぎてつらかったのかもしれません。冷たい皮肉な態度は痛みを隠 しています。そしてこの問題に向き合うには心の力が要ります。安易に近づけばこちらが傷つくのです。このときの吉田 秀和氏と同じで、今の自分もときにラヴェルを聞くことがちょっとしんどいと感じるときがあります。
そしてヴァイオリン・ソナタは皮肉な仮面をつけたままどんどんと緊張を強め、蜂の羽音のようなせわしない音を立て ながら目くるめく興奮を高めて、やはり破裂するように終わります。さらに付け加えるならば、「左手のためのピアノ協 奏曲」のフィナーレも、まったく同じカタストロフィの性質を持っています。
狼の怒り、ラヴェル的カタストロフィ、呼び名は色々とあります。狂ったような興奮の高まりと、その後の破壊 ----これは衝動が描く軌跡ではないでしょうか。緊張を解消しようとする無意識の試みなのであって、ガス抜きをし て自らが狂わないようにしている防衛装置なのです。そしてカタストロフィはカタルシスでもあります。カタルシスとい うのはアリストテレスが言ったことだそうですが、悲劇による感情浄化のことです。ラヴェルのこのカタトニック(緊張 病的)な痙攣は、美しくも孤独なメロディーと根でつながっています。受け入れられないことへの怖れと悲しみは、とき に怒りに姿を変えて蓄積され、狼となって解放されるチャンスを窺っていたのです。
衝動の爆発と緊張の解放という、このとらえ方は私の発明ではありません。しかし人を裁けば裁かれます。それは自分 が裁く相手と同じ水準の現実を生きることになるということでしょう。自分の感情を極端に他人に隠したラヴェルの若き 日々と、晩年の苦しみとの間にさも関係があるかのようにほのめかしている私は裁いているのかもしれません。ラヴェル の音楽に引きつけられる人は多数派ではないにせよ、世界中にたくさんいます。私もその一人としてそこで喚起された自分の問題を次のテーマへと 進めて行ければと思います。しかし、このように音楽を心理分析へと還元することの無意味もわかっているつもりです。 人のありのままを表すのが芸術であり、傷ついている有り様も普遍的な姿でしょう。では、傷ついたありのままをそれと 認めて楽しめるでしょうか。できると思います。それが音楽の素晴らしいところで、苦しみの表現はそこからの解放のた めのツールにもなり得ます。ただ、作曲者と同じ心になって入り込むのはつらいときもあるでしょう。少し距離をとって 自分のなかにある怖れを認めてあげるとき、自由がやってくるかもしれません。複雑な魅力のあるラヴェルの音楽、楽し みましょう。
ラヴェルのピアノ曲
「クープランの墓」 (Le tombeau de Couperin) の「墓」は Le tombeau の直訳で、この表現は「偉大な個人の栄光にささげた文学」という意味を持っているのだそうです。したがって意訳は「故クープランをたたえて」ともなるよう です。ラヴェルは第一次大戦が勃発したとき、友人たちが「芸術家はその才能を活かすことで国に奉仕すればいいのだ」 と説 得するなか、自ら志願して兵役に就きました。しかし面白いことに航空隊からは拒否され、トラック運転手になったもの の二度も体を壊して前線には赴かず、そうこうしているうちに除隊になりました。そして死んで行った戦友たちの思い出 としてこの曲を作曲することになったのです。各楽章は一人ずつ戦友に捧げられています。母の死の痛手から逃れるよう に曲作りに専念し始めた頃の作品ですから、「戦友たち」は口実に過ぎないだろうなどという発言も聞かれますが、作曲 意図がなんであれ、この曲集ではラヴェルの孤独に満ちた美しい メロディーを聞くことができます。
「クープランの墓」に限らず、ラヴェルのピアノ曲は彼の作品群のなかでも魅力のあるものです。「ソナティヌ」(ソナチネ)の 二曲目のメヌエットなどはゆっくり弾き過ぎてはいけない曲ですが、先日レストランで食事をした際、音大生をアルバイ トで雇っているのか、生演奏をしてくれている中に小田和正の曲と並んでこの曲も入っていて、なかなか抑制の効いたき れいな演奏で楽しめました。他にも、「亡 き王女のためのパヴァーヌ」など はあちこちでBGMのように取りあげられる美しいメロディです。
ラヴェル・ピアノ曲集 ジャック・ル ヴィエ盤
カリオペから出ているジャック・ルヴィエ盤はラヴェル演奏のひとつの基準だろうと思います。この人は、その演奏だ けでなく容姿と狼研究(本物の!)でも今世間を騒がせているエレーヌ・グリモーの師でもあり、フランスのピアノ界で はすでに大御所になっているようです。ラヴェルに直接習ったヴラド・ペルルミュテールにも教えを受けていますので、 作曲家本人の弾き方への見解も踏まえていると思います。たとえばショパン演奏のように極端なルバートを用いたりしな いところなどです。叙情的な部分でも耽美的に遅く弾かない節度を持っているのも素晴らしいところで、それもロマン ティック過ぎる表現を嫌がっていたラヴェルにふさわしいと思います。「おや、そんなところにフェルマータがついてい ますか?」と言われなくて済みます。こういう部分は直弟子の演奏と比較してみるのもいいかもしれません。また、分析 的にならずに音譜の構成を分解的に見せてくれるような音のずらしとテンポ設定など、この人独特のセンスが光ります。 この後ラヴェル弾きとして何人もの演奏者が出ましたが、このルヴィエの感覚と見識を超えるのはむつかしかったように 思います。75年に ADF ディスク大賞というのを取っています。カリオペの録音はしっとりとしていてあまりきらびやかさはないですが、潤いと深みを持った好録音だと思います。使用 しているピアノはおそらくスタインウェイなのでしょうが、ちょっとベヒシュタインにも似た独特の艶を持った音にとれ ていて、水晶の玉を連ねたような、他にはない味わいがあります。
ラ ヴェル・ピアノ曲集 ポール・クロス リー盤
同じくラヴェルのピアノ曲集です。ルヴィエと同様、この二枚組でラヴェルのほとんどのピアノ作品が聞けます。この 人のコンサートに行きましたが、日本の気候が合わなかったのか運悪く体調を崩しており、頭痛がひどいと言って三分の 二ほどのメニューをこなしたところで休憩してしまい、そのまま打ち切りになってしまいました。後から主催者を通じて 謝りの手紙のコピーが送られてきましたが、そんな調子の悪さにもかかわらず、スタインウェイの音色の変化は大きく、 途中までは素晴らしい演奏でした。イギリスの人ですがラヴェルは得意とするレパートリーらしく、この日は通好みな オール・ラヴェルのプログラムでした。CDも手に入れてみましたが、ルヴィエ以外のフランス勢があまり好みでなかっ た中、この人の演奏にはひかれるものがあります。経歴を見ると現代ものを得意とする人のようで、ブックレットにはラ ヴェルの楽曲に対する大変学問的な解説が本人の言葉で述べられています。ルヴィエ同様節度を持った解釈をする一方 で、左手の隠された旋律を突如として流れるように浮き上がらせたり、楽曲構造の新たな発見をさせ てくれるような独特の運びの部分もあり、感覚の喜びに従いながらも大変創造的で知的なアプローチだと思います。スタ インウェイらしい冷たい輝きを見せる優れた録音です。
ボレロ対決
ボレロという曲はご存知のとおり、最後の最後まで同じ旋律を何度も繰り返して行くという、極めて稀な曲です。最初 はバレリーナのイダ・ルビンシュテイン夫人がアルベニスの「イベリア」を編曲するようにラヴェルに頼んでいたのです が、すでにスペインの作曲家アルボスによって編曲がされていて出版社が版権を持っていることを知ったラヴェルが新た な曲として作ったものです。彼は「このテーマには強烈なものがあると思いませんか? 私はこれを全然展開せずに何度 も繰り返そうと思っています。オーケストラを精一杯大きくして行きながらね」とピアノで弾きながら言ったそうです。 出来上がった作品では実際に二小節のリズムを169 回繰り返しています。ラヴェルもさすがにこの繰り返しには聴衆もついてこれないだろうと考えたようで、これがバレエとして踊られるから舞台装置や照明の変 化も加わって我慢してもらえるだろうものの、「日曜コンサートではやらないだろう!」と言っていました。しかし実際 はバレエの方が不評で、コンサートが成功したのでした。地下鉄の中でもビアホールでも口笛で吹かれてそのメロディー は広まって行きました。しかし初演の日にはある老婦人が座席にかじりついて、「気違い! 気違い! 気違い!」とわ めき立てた場面もあったようで、それを聞いたラヴェルは、「その人だ、その人にはわかったんだ!」と言ったそうで す。
同じ旋律を繰り返すといっても毎度楽器が変わり、その組合せが変わりで、音色には変化があります。太鼓と管楽器の 小さな音で始まった後、最初の大きな変化は弦楽器群の登場です。そして最後の転調後には全金管楽器が張り裂けるので すが、そこまでの間徐々に大きなクレッシェンドを形成して行きます。----曲全体がひとつのクレッシェンドだなん て、あり得るでしょうか!----そしてただひたすらにフィナーレを目指して進んで行くのですが、最後の崩落へ向け て興奮が徐々に高まって行くという曲の構成からか、ほとんどすべての演奏がテンポを途中から速くして行きます。人間 興奮すればアドレナリも分泌され、敵から走って逃げる準備をするわけですから動きも速くなるのです。それが自然とい うものですが、そこをあえてメトロノームのようにテンポを変えずにクレッシェンドして行くとどうなるでしょうか。そ う、不気味な迫力が出てきます。ちょっと自慢話調ですが、それこそがラヴェルの狙ったものではないかと思っていたと ころ、作曲者自身がいかなるアッチェレランド(だんだん速くするすること)も許さないと発言していたことを知りまし た。しかも遅いテンポを望んでいたようで、トスカニーニが速いテンポで演奏したときに慇懃に注意したというのも有名 な話です。もちろん指揮棒を折るほどの癇癪持ちのマエストロが素直に従ったわけはありません。ラヴェル自身はこの曲 の指揮をする際、普段はよくテンポがよろめいていたにもかかわらず、このときばかりはきっちりとやったようです。皮 肉で自分の心を隠す彼のことですから、遅く一定にすると心の叫びが表せるからだとは言わなかったのですが。
しかし、終わりに向けてスピードアップしない演奏はと言えば、これがブーレーズの盤と、前記のサイモン・ラトルと、チェリビダッケぐらいなのです。厳密に はただインテンポで アッチェレランドしない(速くならない)というだけなら他にもあるはあるのですが、他の曲の演奏では素晴らしくても これは今ひとつ生彩を欠いて、という具合だったりします。
ブーレーズは現代音楽の作曲家ですから、明らかに作曲者の意図を忠実に守っているようです。指示はあくまで同じテ ンポで、と出したのでしょう。ストラヴィンスキーの春の祭典では曲の骨組みをあれほど冷静に見せてくれたという点か らも、そのことは容易に想像できます。しかしオーケストラは興奮してくると自然に速くなろうとし、抑え切れずに駆け だそうとする動きを少し見せているようです。
その後ブーレーズは新しい録音を出していますが、そちらは全集ではなく、楽器にちょっと個性的な表情をつけて歌わ せるところのある、以前のものとは趣の異なった 演奏になっています。オーケストラはベルリン・フィルです。一方ラ トル の方は現代音楽に詳しい指揮者で、やはりテンポを一定に抑えてやっています。こちらはより統率がとれているようで す。ダフニスとクロエがカップリングになっていて、それも最高の演奏です。
セルジュ・チェリビダッケは遅いテンポで最後までまったくブレずに押し通します。恐るべしチェリちゃん。ラヴェルが オーケストラ用に編曲したムソルグスキーの「展覧会の絵」がカップリングさ れています。ラヴェルのではなくフランスとロシアの作曲家集ですが、ボックス・セットの方が大幅に割安です。
ピアノ協奏曲ト長調 / 左手のためのピアノ協奏曲
両方とも脳障害が出始めた晩年の作品です。ト長調は伝統的な三楽章構成による協奏曲で、第一楽章はラヴェルの故郷 であるバスク地方の民謡やジャズの影響が指摘されます。第二楽章のアダージョは独特の歌が美しく、ラヴェルの作品の うちでも最高のメロディーであると言われることがあります。第三楽章は大変技巧的に難しいもので、やはりバスクのモ チーフが使われています。
左手のための協奏曲は、第一次大戦で右手を失ったオーストリアのピアニスト、ウィトゲンシュタインがラヴェルに自 分のための作品を書いてくれという依頼をし、その話の風変わりさと創作としての面白さにひかれたラヴェルが受諾して 出来上がったものです。一本の手だけで二本で弾いているかのように見せかけるとんでもない曲で、あまりに難しすぎ て、依頼したピアニスト本人には弾けなかったというオチもあるようです。これもジャズのモチーフを取り入れたとされ る曲ですが、ラヴェルの晩年の心境を物語る、ある意味正直な曲だと思います。前述のエレーヌは「ラヴェルの全作品の うち、これ以上にロマンティックな告白を発見することはまれだという唯一の曲(で[中略])、疑う余地なきリリスム への復帰である」と書いています。
演奏は古くはフランソワとミケランジェリが有名でした。サンソン・フランソワはこの人にしかでき ない粋な崩し方をする、非常にフランス人らしい名ピアニストで、私もショパンは彼だけでいいというほど気に入ってい るのですが、ラヴェルとなるとちょっと違うような気もします。ヴュイエルモーズが言ったという「ドビュッシーを演奏 するには多くの方法がある。ラヴェルのものにはただひとつの方法しかない」という言葉を思い出します。作品は作者の 手を離れたら一人歩きをするものですし、フランソワには彼らしい魅力があるので良いのですが、まあ、私の思い入れか もしれません。
アルトゥーロ・ベネディッティ・ミ ケランジェリは フェラーリを200キロで疾走させるイタリアのピアニストで、契約したコンサートを気分によって途中で放り出すキャ ンセル魔でした。また、次のツィマーマンと同じように完璧主義で有名な人でもありました。このラヴェルの演奏は大変 美しく、技巧も文句ないでしょう。しかし第二楽章がちょっと遅く、個人的好みからすると耽美的過ぎるかなという気も します。イタリア人の徹底的に磨かれた歌とフランス人の何気なさを好む趣味とは相容れないところもあるでしょう。技 術的に言えば、ミケラジェリは音の純度を守るために、指が鍵盤に当たる雑音(上部雑音)を嫌って手がキーに吸い付く ように弾き、それにともなってテンポも遅くする癖があったようです。完成された演奏であることには違いありません。
クリスティアン・ ツィマーマン ピエール・ブーレーズ ロンドン 交響楽団
そんなわけで、今 のところ最も気に入って いるのはクリスティアン・ツィマーマン(ツィメルマン)盤です。ルヴィエやクロスリーに録音して欲しいとか思いなが ら、リヨンから出ているマイナーなレーベルのものまでずいぶん色々買ってはみたのですが。(奏者の名誉のために一言 付け加えれば、その演奏は良かったのですが、録音が機器環境的にかちょっとキツかった。)
そのツィマーマン、完ぺきな仕上がりで毎度ながら見事です。ショパンコンクールで優勝したこのピアニストは気に 入った演奏しか出さないというので録音枚数が少なく、レコード会社泣かせなのだそうです。それもなるほどと思わせま す。そのショパンの協奏曲の演奏は自らが指揮して楽譜にまで改訂を加えた力作として話題になりましたが、極端に遅い テンポとたっぷりとした叙情的な歌わせ方で驚きました。しかしここでのラヴェルにその傾向がないというのは、作品に 対するしっかりとした見解を持っていることを窺わせます。事実、この後でもかなり期待させる盤が出たりもしたのです が、ルバートがやや残念だったりしました。文化圏の違う奏者がお国なまりの発音だったりするのを除いても、案外本国 の人ほど表情が粋過ぎたりして、ラヴェルの演奏はむつかしいものだ
と思います。超絶技巧で素早く弾き切ればよいというものでもありませんし。ちなみにこのツィマーマン盤、オーケスト ラはあのブーレーズが指揮しており、近年の録音ではちょっと疑問に思うものもあるなかで、均整のとれた完ぺきな伴奏 です。
ピアノ三重奏曲とヴァイオリン・ソナタ / カントロフ=ルヴィエ=ミュレ盤
滑らかでゆったりした歌わせ方が心地よく、繊細なセンスを持っているフランスのヴァイオリニストであるジャン・ ジャック・カントロフと、ラヴェルのピアノ演奏では最高のピアニスト、ジャック・ルヴィエにチェロのフィリップ・ ミュレが加わった室内楽のシリーズです。これが日本のレーベルから出ているのですが、よく企画してくれたと思いま す。オランダで録音されたもので、全部で三枚あります。ピアノ三重奏集と、ヴァイオリン・ソナタ集、それにコンセル ヴァトワールの学生だった頃のヴァイ オリン・ソナタ (遺作)が入ったものです。
ピアノ三重奏はトラック運転手として従軍していた戦争 中に着手されたもので、室内楽の中でも弦楽四 重奏曲とならんでロマンティックで親しみやすい曲です。ちょっ ともの悲しいような甘美な調べが心地よく響きます。
ヴァイオリンとピアノのためのソナ タは前述の通 り、不思議な緊張のなかで模倣とかけっこ遊びを繰り返す曲で、駒の近くを擦る艶のない音をわざと出させたり、難しそ うなピツィカートが含まれていたりでなんともラヴェルらしいですが、純粋な音楽としても興奮を覚え、私は魅力がある 曲だと思います。前述したヴァイオリニストであるエレーヌ・ジョルダン・モランジュがこの曲の成立に手を貸している ようで、彼女に献呈されています。「愛を弾く女」(1992) という恋愛映画ではエマニュエル・ベアールが上手に弾いてみせていたのが印象的でした。弓や指の動きと音とがほぼ合っていたので、彼女は少しヴァイオリン が弾けるのでしょうか。映像ではまるで本人が弾いているようでした。このとき裏で実際に弾いていたのがカントロフで す。
デンオンの盤は80年代半ばのデジタル録音で、7KHzあたりより上の高域にわずかに強調感があってややメタリッ クですが、きれいな録音ではあります。
他にエラートからも同じ顔合わせでパリで録音された別の盤が出ています。ヴァイオリン・ソナタ(遺 作)は入っていませんが、逆にヴァイオリンとチェロのためのソナタとツィガーヌがカップリングされています。こちら は73年のアナログ録音ですが、音は80年代に CD 化されたオリジナル盤に限ってはデンオン盤よりさらに高域に強調感のある線の細いものです。演奏はデンオン盤よりもテンポが遅めで表 情も全体に大きいようです(写真下右は分売の一枚)。
晩年のラヴェルは頭の中に曲が出来上がっても書き留めることができず、何を見ても空しく、無関心になってしまった といいます。バルコニーで肘 掛け椅子に座っているとき、「何をしているの?」と尋ねると、「待ってる」と答えたそうです。以前は控え目に感情を 隠して生きてきた男に対して、痛手を癒そうとそれはそれは多くの友情の手が 差しのべられたようです。様々な試みが行 われました。自分の別荘に迎えたり、字を書かせたり、和音を弾かせたり。彼を慰めるために訪問する者は後を絶た ず、友人のジャック・ド・ゾゲップは毎日「雨が降ろうが、風が吹こうが、雪が降ろうが」夕方になるとラヴェルの 家へ行きました。ベルを鳴らすとラヴェルは門のところまで飛んで来て、不自由になった手でかんぬきを開けようと さんざん苦闘して、無事に迎え入れられると目から大きな好意がこぼれ落ちたといいます。(2)
ラヴェルは生涯独身でした。音楽家 は何でもゲイだと考えられて いるようですが、ゲイも普通の人だと思うと同時に彼がそうだとは思いません。(3) まわりの証言によると、強度の不眠症だったラヴェルは夜な夜な遊んでいたようです。深夜に友人と会いたがり、断られると悲しそうに帰ったとか、まるでグレ ン・グールドが真夜中に電話してくるような話です。(4) 大勢のとりまきの中にあっても、こういう人は自分がつくり出した孤独に追い詰められているのです。つくり出す? どうやって。モンフォール=ラモリーの彼の自宅にはニセモノばかり山ほど蒐集した応接間があったそうです。細々とし た日本の骨董品やルノワールの絵まで様々だったようですが、今で言えば中国製のローレックスを集めるようなもので しょうか。それで誰かが素晴らしいと褒めると大喜び。
「ところがね、これ、にせ物なんですよ」
それから、だらしない恰好は絶対に嫌で、一人のときでも家ではスーツを着て絹の胸ハンカチに合ったネクタイを締 め、壁際に寄せたテーブルに壁に向かって鼻をくっつけそうなほど近づいて座って食事をしていたのだそうです。いつも 最新流行のモードに身を包み、自らの感情は決して口にしません。皮肉の名人であり、そのいかにも彼らしい語録はあち こちで紹介されていますから割愛しますが、非常に紳士的に、慎重に言い回された、相手への配慮なのか攻撃なのかわか らなくなるような巧妙な表現で、ウィットに富みながらも頑として拒否するのです。多くの人が真意を計りかね、近づけ なかったといいます。彼を愛していたエレーヌ・ジョルダン・モランジュならそういう態度ですらラヴェルの謙遜なので あって、彼一流のやさしさの現れだと言ったでしょうが、彼女は皮肉屋の奥底の輝きをありのままに見てあげていたと言 える一方で、周囲の人たちは別の意見だったに違いありません。思うに、決して人を入れない、心のドアを開けない何か があるのです。
最大公約数的に言えば怖れ、でしょう。つまり、本当の自分は受け入れられないんだという観念をどこかに持っている のです。具体的にはそれはどんなことに関係するのか。自分でそれに気がつくということが私たちにはときどき大変むつ かしい場合があります。本当は外せるのでしょうが、怖れに何重にもロックがかかっているように思えるのは、無意識と いう便利な蓋付きの箱の奥にそれを押し込んでいるからでしょう。本人が押し込んでいる以上、誰も蓋を開けてくれませ ん。本人が忘れている以上、誰も思い出してくれません。人ごとではなく胸が痛みます。
そんな孤独感が漂うのが彼がつむぎだすメロディーです。ラヴェルの音楽にはいくつもの彼らしい特徴があります。そ のうちの技術的なものを解説しようとすると、彼ほどの緻密な技法を身につけた「時計職人」についてそれを行うのは作 曲家なみの知識がないと無理でしょう。しかし心の表れに関することはすぐに思い浮かびます。情熱の中断やそらし、 うっとりした人を冷笑するようなフレーズ、期待される展開をあえて外す戯れといった、彼の生活態度とも一致する皮肉 な一面は、ある程度音楽の構造がわかれば目につくかもしれません。この一面は皮肉というものが心理的に何を目指して いるかを考えればいっそう興味深いものです。ラヴェルの置かれた状況には、一度ついた嘘がそれを本物に見せかけるた めにさらなる嘘を必要とするような複雑な隠蔽構造が見え隠れします。しかし今はそれとも関連した、孤独感のことにつ いて言いたいのです。
話を簡単にするために二つに絞りましょう。ラヴェルの楽曲に表れる心理的特徴、その中でもとくに魅力となり得る二 つのうちの一つは、このうえなく美しい、感情に訴えてくる静かなメロディーにあります。暗い部屋の中から五月の窓の 外を見るように、丘の上から輝く遠い街を眺めるように、それは美しいのに満たされていません。理解されることと愛さ れることを遠い未来の手の届かないところに置き、いつも憧れていて「ここ」にいない人の歌です。ハロー・ダークネ ス・マイ・オールド・フレンド。それがまた何という魅惑でしょう。
ト長調のピアノ協奏曲の 第二楽章の、あのピアノ の定型的な伴奏が霧のようなトレモロに変わり、突如としてフルートが哀しくも希望と諦めに彩られた風を呼び込むとこ ろ、それがオーボエに受け渡され、クラリネットに引き継がれるところのあの締めつけられるような美しさはどうでしょ うか。二小節ずつ、そ れはもう死ぬような思いをして書いたんですって? それはあなたの気の毒な脳の病気のことでしょうけど、中身の話を しているのですよ、モーリス。クープランの墓のおどけたようなフォルラーヌに顔を出す正直な展開部と、あの澄んだ水 の中のようなメヌエットに抵抗できるでしょうか。
ラヴェルは音楽の中でだけ心情を吐露できたのです。どんなに涙が流れても、五線譜の中では平気なの。だって作曲家 ですもの。ドビュッシーにも「月の光」や「小組曲」、「夢」といった大変美しいメロディーがあります。しかし双子の 兄弟とは少し色合いが違うのではないでしょうか。哲学者のジャンケレヴィッチのように長7度に対しての平行7度、平 行9度、増5度の好みの違いだなどと言うことはできませんが、こうした叙情的な旋律のなかで、ラヴェルは人恋しげに 訴えています。「絡まってしまった糸をほぐすのを手伝ってほしい」と。何もないふりをしてみせていた彼の日常の言葉 にだまされてはいけません。マジックミラーのように音楽の側からは透けて見えるものを、それとも彼は隠したつもりな のでしょうか。たとえどんなに隠す人でも、どこかに救難サインを出すものです。
二つあるラヴェルの心理的特徴の、これがひとつだと言いました。しかし見かけの二面性は内部でひとつに結ばれてい ます。ラヴェルの心の声に関するもうひとつの特徴は、よく言われるように「カタストロフィー」ではないでしょうか。 怒りの爆発のような感情の激発のことです。辞書によるとカタストロフィーとは、突然の大変動とか破局、悲劇の大詰 め、などとありますが、これについてはジャンケレヴィッチが「狼の怒り」と呼んで有名になりました。ゴダール映画の 前口上のように、フランスの知識人らしい、抽象句の言い換えを多発する難解な本でしたが (5) 、そのカタストロフィはこの 論者によると「諧謔家の野性味のいか にも独特な奥底を剥き出しにすること」であり、「だしぬけの激しさ、狼のようにいきなり現れる怒り」なのです。
有名な「ボレロ」で は、ずっと同じ旋律が繰り返 し繰り返し様々な楽器に引き継がれながら延々と続いて行き、最後に転調とともに下降旋律に変わって崩れ落ちます。こ の破局というか大詰めの狂気を聞いてラヴェルに取り憑かれる人はけっこういると思います。私もそうでした。それがラ ヴェルのカタストロフィーです。この爆発はいったい何を語っているのでしょうか。同じような例は他にいくつもあるの です。「ラ・ヴァルス」と対比して反対のように描写する意見もありますが、たとえばピアノ曲である「優雅で感傷的なワルツ」(1911) にすらその小さな萌芽はみられないでしょうか。
ボレロとよく比較されるオーケストラ曲の「ラ・ヴァルス」(ザ・ ワルツ)では、1855年頃の皇帝の宮廷の、華やかな舞踏会の会場が描かれています。「私はこの曲をウィンナ・ワル ツの大詰めのようなものとして頭に描いた。それは私の頭の中で、幻想的で宿命的な、渦巻く水流の印象と混じり合って いる」とラヴェル自身が語っています。着飾った男女がはじめ優雅にとりすまして踊っていますが、徐々にワルツのリズ ムがうねり、何度も旋回の興奮を繰り返しながら最後には狂ったような金管の咆哮をともない、なんとも破壊的な結末を 迎えます。
「ヴァイオリンとピアノのためのソナ タ」にも同じ ような破滅の音が聞こえます。この曲には本来ヴァイオリン・ソナタが持っているべき二つの楽器のハーモニーという大 前提をあえて崩すような計略があります。「(ヴァイオリンとピアノという)二つは互いに相容れない楽器であるが、こ こでは、その均衡をとるどころか、不両立性そのものを強調しているのである」と作曲者自身が語っています。いつもの ラヴェルの皮肉が顔を出しているともとれますが、第三楽章の始まりなどとくに、ピアノとヴァイオリンが同時に和音を 奏でるのではなく、交互にお互いを模倣したまま追いかけっこをして混じり合いません。うろ覚えで言ってはいけません が、評論家の吉田秀和氏が昔、フォーレは優しいけどラヴェルはこういうところが冷たくて嫌いだ、というようなことを どこかに書いておられました。お金につられて気に入らない演奏家を褒めたりはしない見識を持った人ですから、本当に 不愉快だったに 違いありません。好みというものはあります。そのとき私は、この音楽評論家がラヴェルの心を理解したくはないのだな と思い、なんだか自分が嫌われたように感じたものです。しかし自分の中にないものには反発すらできません。吉田氏は 敏感な人だったがゆえに、案外ラヴェルの苦境が見え過ぎてつらかったのかもしれません。冷たい皮肉な態度は痛みを隠 しています。そしてこの問題に向き合うには心の力が要ります。安易に近づけばこちらが傷つくのです。このときの吉田 秀和氏と同じで、今の自分もときにラヴェルを聞くことがちょっとしんどいと感じるときがあります。
そしてヴァイオリン・ソナタは皮肉な仮面をつけたままどんどんと緊張を強め、蜂の羽音のようなせわしない音を立て ながら目くるめく興奮を高めて、やはり破裂するように終わります。さらに付け加えるならば、「左手のためのピアノ協 奏曲」のフィナーレも、まったく同じカタストロフィの性質を持っています。
狼の怒り、ラヴェル的カタストロフィ、呼び名は色々とあります。狂ったような興奮の高まりと、その後の破壊 ----これは衝動が描く軌跡ではないでしょうか。緊張を解消しようとする無意識の試みなのであって、ガス抜きをし て自らが狂わないようにしている防衛装置なのです。そしてカタストロフィはカタルシスでもあります。カタルシスとい うのはアリストテレスが言ったことだそうですが、悲劇による感情浄化のことです。ラヴェルのこのカタトニック(緊張 病的)な痙攣は、美しくも孤独なメロディーと根でつながっています。受け入れられないことへの怖れと悲しみは、とき に怒りに姿を変えて蓄積され、狼となって解放されるチャンスを窺っていたのです。
衝動の爆発と緊張の解放という、このとらえ方は私の発明ではありません。しかし人を裁けば裁かれます。それは自分 が裁く相手と同じ水準の現実を生きることになるということでしょう。自分の感情を極端に他人に隠したラヴェルの若き 日々と、晩年の苦しみとの間にさも関係があるかのようにほのめかしている私は裁いているのかもしれません。ラヴェル の音楽に引きつけられる人は多数派ではないにせよ、世界中にたくさんいます。私もその一人としてそこで喚起された自分の問題を次のテーマへと 進めて行ければと思います。しかし、このように音楽を心理分析へと還元することの無意味もわかっているつもりです。 人のありのままを表すのが芸術であり、傷ついている有り様も普遍的な姿でしょう。では、傷ついたありのままをそれと 認めて楽しめるでしょうか。できると思います。それが音楽の素晴らしいところで、苦しみの表現はそこからの解放のた めのツールにもなり得ます。ただ、作曲者と同じ心になって入り込むのはつらいときもあるでしょう。少し距離をとって 自分のなかにある怖れを認めてあげるとき、自由がやってくるかもしれません。複雑な魅力のあるラヴェルの音楽、楽し みましょう。
ラヴェルのピアノ曲
「クープランの墓」 (Le tombeau de Couperin) の「墓」は Le tombeau の直訳で、この表現は「偉大な個人の栄光にささげた文学」という意味を持っているのだそうです。したがって意訳は「故クープランをたたえて」ともなるよう です。ラヴェルは第一次大戦が勃発したとき、友人たちが「芸術家はその才能を活かすことで国に奉仕すればいいのだ」 と説 得するなか、自ら志願して兵役に就きました。しかし面白いことに航空隊からは拒否され、トラック運転手になったもの の二度も体を壊して前線には赴かず、そうこうしているうちに除隊になりました。そして死んで行った戦友たちの思い出 としてこの曲を作曲することになったのです。各楽章は一人ずつ戦友に捧げられています。母の死の痛手から逃れるよう に曲作りに専念し始めた頃の作品ですから、「戦友たち」は口実に過ぎないだろうなどという発言も聞かれますが、作曲 意図がなんであれ、この曲集ではラヴェルの孤独に満ちた美しい メロディーを聞くことができます。
「クープランの墓」に限らず、ラヴェルのピアノ曲は彼の作品群のなかでも魅力のあるものです。「ソナティヌ」(ソナチネ)の 二曲目のメヌエットなどはゆっくり弾き過ぎてはいけない曲ですが、先日レストランで食事をした際、音大生をアルバイ トで雇っているのか、生演奏をしてくれている中に小田和正の曲と並んでこの曲も入っていて、なかなか抑制の効いたき れいな演奏で楽しめました。他にも、「亡 き王女のためのパヴァーヌ」など はあちこちでBGMのように取りあげられる美しいメロディです。
ラヴェル・ピアノ曲集 ジャック・ル ヴィエ盤
カリオペから出ているジャック・ルヴィエ盤はラヴェル演奏のひとつの基準だろうと思います。この人は、その演奏だ けでなく容姿と狼研究(本物の!)でも今世間を騒がせているエレーヌ・グリモーの師でもあり、フランスのピアノ界で はすでに大御所になっているようです。ラヴェルに直接習ったヴラド・ペルルミュテールにも教えを受けていますので、 作曲家本人の弾き方への見解も踏まえていると思います。たとえばショパン演奏のように極端なルバートを用いたりしな いところなどです。叙情的な部分でも耽美的に遅く弾かない節度を持っているのも素晴らしいところで、それもロマン ティック過ぎる表現を嫌がっていたラヴェルにふさわしいと思います。「おや、そんなところにフェルマータがついてい ますか?」と言われなくて済みます。こういう部分は直弟子の演奏と比較してみるのもいいかもしれません。また、分析 的にならずに音譜の構成を分解的に見せてくれるような音のずらしとテンポ設定など、この人独特のセンスが光ります。 この後ラヴェル弾きとして何人もの演奏者が出ましたが、このルヴィエの感覚と見識を超えるのはむつかしかったように 思います。75年に ADF ディスク大賞というのを取っています。カリオペの録音はしっとりとしていてあまりきらびやかさはないですが、潤いと深みを持った好録音だと思います。使用 しているピアノはおそらくスタインウェイなのでしょうが、ちょっとベヒシュタインにも似た独特の艶を持った音にとれ ていて、水晶の玉を連ねたような、他にはない味わいがあります。
ラ ヴェル・ピアノ曲集 ポール・クロス リー盤
同じくラヴェルのピアノ曲集です。ルヴィエと同様、この二枚組でラヴェルのほとんどのピアノ作品が聞けます。この 人のコンサートに行きましたが、日本の気候が合わなかったのか運悪く体調を崩しており、頭痛がひどいと言って三分の 二ほどのメニューをこなしたところで休憩してしまい、そのまま打ち切りになってしまいました。後から主催者を通じて 謝りの手紙のコピーが送られてきましたが、そんな調子の悪さにもかかわらず、スタインウェイの音色の変化は大きく、 途中までは素晴らしい演奏でした。イギリスの人ですがラヴェルは得意とするレパートリーらしく、この日は通好みな オール・ラヴェルのプログラムでした。CDも手に入れてみましたが、ルヴィエ以外のフランス勢があまり好みでなかっ た中、この人の演奏にはひかれるものがあります。経歴を見ると現代ものを得意とする人のようで、ブックレットにはラ ヴェルの楽曲に対する大変学問的な解説が本人の言葉で述べられています。ルヴィエ同様節度を持った解釈をする一方 で、左手の隠された旋律を突如として流れるように浮き上がらせたり、楽曲構造の新たな発見をさせ てくれるような独特の運びの部分もあり、感覚の喜びに従いながらも大変創造的で知的なアプローチだと思います。スタ インウェイらしい冷たい輝きを見せる優れた録音です。
ボレロ対決
ボレロという曲はご存知のとおり、最後の最後まで同じ旋律を何度も繰り返して行くという、極めて稀な曲です。最初 はバレリーナのイダ・ルビンシュテイン夫人がアルベニスの「イベリア」を編曲するようにラヴェルに頼んでいたのです が、すでにスペインの作曲家アルボスによって編曲がされていて出版社が版権を持っていることを知ったラヴェルが新た な曲として作ったものです。彼は「このテーマには強烈なものがあると思いませんか? 私はこれを全然展開せずに何度 も繰り返そうと思っています。オーケストラを精一杯大きくして行きながらね」とピアノで弾きながら言ったそうです。 出来上がった作品では実際に二小節のリズムを169 回繰り返しています。ラヴェルもさすがにこの繰り返しには聴衆もついてこれないだろうと考えたようで、これがバレエとして踊られるから舞台装置や照明の変 化も加わって我慢してもらえるだろうものの、「日曜コンサートではやらないだろう!」と言っていました。しかし実際 はバレエの方が不評で、コンサートが成功したのでした。地下鉄の中でもビアホールでも口笛で吹かれてそのメロディー は広まって行きました。しかし初演の日にはある老婦人が座席にかじりついて、「気違い! 気違い! 気違い!」とわ めき立てた場面もあったようで、それを聞いたラヴェルは、「その人だ、その人にはわかったんだ!」と言ったそうで す。
同じ旋律を繰り返すといっても毎度楽器が変わり、その組合せが変わりで、音色には変化があります。太鼓と管楽器の 小さな音で始まった後、最初の大きな変化は弦楽器群の登場です。そして最後の転調後には全金管楽器が張り裂けるので すが、そこまでの間徐々に大きなクレッシェンドを形成して行きます。----曲全体がひとつのクレッシェンドだなん て、あり得るでしょうか!----そしてただひたすらにフィナーレを目指して進んで行くのですが、最後の崩落へ向け て興奮が徐々に高まって行くという曲の構成からか、ほとんどすべての演奏がテンポを途中から速くして行きます。人間 興奮すればアドレナリも分泌され、敵から走って逃げる準備をするわけですから動きも速くなるのです。それが自然とい うものですが、そこをあえてメトロノームのようにテンポを変えずにクレッシェンドして行くとどうなるでしょうか。そ う、不気味な迫力が出てきます。ちょっと自慢話調ですが、それこそがラヴェルの狙ったものではないかと思っていたと ころ、作曲者自身がいかなるアッチェレランド(だんだん速くするすること)も許さないと発言していたことを知りまし た。しかも遅いテンポを望んでいたようで、トスカニーニが速いテンポで演奏したときに慇懃に注意したというのも有名 な話です。もちろん指揮棒を折るほどの癇癪持ちのマエストロが素直に従ったわけはありません。ラヴェル自身はこの曲 の指揮をする際、普段はよくテンポがよろめいていたにもかかわらず、このときばかりはきっちりとやったようです。皮 肉で自分の心を隠す彼のことですから、遅く一定にすると心の叫びが表せるからだとは言わなかったのですが。
しかし、終わりに向けてスピードアップしない演奏はと言えば、これがブーレーズの盤と、前記のサイモン・ラトルと、チェリビダッケぐらいなのです。厳密に はただインテンポで アッチェレランドしない(速くならない)というだけなら他にもあるはあるのですが、他の曲の演奏では素晴らしくても これは今ひとつ生彩を欠いて、という具合だったりします。
ブーレーズは現代音楽の作曲家ですから、明らかに作曲者の意図を忠実に守っているようです。指示はあくまで同じテ ンポで、と出したのでしょう。ストラヴィンスキーの春の祭典では曲の骨組みをあれほど冷静に見せてくれたという点か らも、そのことは容易に想像できます。しかしオーケストラは興奮してくると自然に速くなろうとし、抑え切れずに駆け だそうとする動きを少し見せているようです。
その後ブーレーズは新しい録音を出していますが、そちらは全集ではなく、楽器にちょっと個性的な表情をつけて歌わ せるところのある、以前のものとは趣の異なった 演奏になっています。オーケストラはベルリン・フィルです。一方ラ トル の方は現代音楽に詳しい指揮者で、やはりテンポを一定に抑えてやっています。こちらはより統率がとれているようで す。ダフニスとクロエがカップリングになっていて、それも最高の演奏です。
セルジュ・チェリビダッケは遅いテンポで最後までまったくブレずに押し通します。恐るべしチェリちゃん。ラヴェルが オーケストラ用に編曲したムソルグスキーの「展覧会の絵」がカップリングさ れています。ラヴェルのではなくフランスとロシアの作曲家集ですが、ボックス・セットの方が大幅に割安です。
ピアノ協奏曲ト長調 / 左手のためのピアノ協奏曲
両方とも脳障害が出始めた晩年の作品です。ト長調は伝統的な三楽章構成による協奏曲で、第一楽章はラヴェルの故郷 であるバスク地方の民謡やジャズの影響が指摘されます。第二楽章のアダージョは独特の歌が美しく、ラヴェルの作品の うちでも最高のメロディーであると言われることがあります。第三楽章は大変技巧的に難しいもので、やはりバスクのモ チーフが使われています。
左手のための協奏曲は、第一次大戦で右手を失ったオーストリアのピアニスト、ウィトゲンシュタインがラヴェルに自 分のための作品を書いてくれという依頼をし、その話の風変わりさと創作としての面白さにひかれたラヴェルが受諾して 出来上がったものです。一本の手だけで二本で弾いているかのように見せかけるとんでもない曲で、あまりに難しすぎ て、依頼したピアニスト本人には弾けなかったというオチもあるようです。これもジャズのモチーフを取り入れたとされ る曲ですが、ラヴェルの晩年の心境を物語る、ある意味正直な曲だと思います。前述のエレーヌは「ラヴェルの全作品の うち、これ以上にロマンティックな告白を発見することはまれだという唯一の曲(で[中略])、疑う余地なきリリスム への復帰である」と書いています。
演奏は古くはフランソワとミケランジェリが有名でした。サンソン・フランソワはこの人にしかでき ない粋な崩し方をする、非常にフランス人らしい名ピアニストで、私もショパンは彼だけでいいというほど気に入ってい るのですが、ラヴェルとなるとちょっと違うような気もします。ヴュイエルモーズが言ったという「ドビュッシーを演奏 するには多くの方法がある。ラヴェルのものにはただひとつの方法しかない」という言葉を思い出します。作品は作者の 手を離れたら一人歩きをするものですし、フランソワには彼らしい魅力があるので良いのですが、まあ、私の思い入れか もしれません。
アルトゥーロ・ベネディッティ・ミ ケランジェリは フェラーリを200キロで疾走させるイタリアのピアニストで、契約したコンサートを気分によって途中で放り出すキャ ンセル魔でした。また、次のツィマーマンと同じように完璧主義で有名な人でもありました。このラヴェルの演奏は大変 美しく、技巧も文句ないでしょう。しかし第二楽章がちょっと遅く、個人的好みからすると耽美的過ぎるかなという気も します。イタリア人の徹底的に磨かれた歌とフランス人の何気なさを好む趣味とは相容れないところもあるでしょう。技 術的に言えば、ミケラジェリは音の純度を守るために、指が鍵盤に当たる雑音(上部雑音)を嫌って手がキーに吸い付く ように弾き、それにともなってテンポも遅くする癖があったようです。完成された演奏であることには違いありません。
クリスティアン・ ツィマーマン ピエール・ブーレーズ ロンドン 交響楽団
そんなわけで、今 のところ最も気に入って いるのはクリスティアン・ツィマーマン(ツィメルマン)盤です。ルヴィエやクロスリーに録音して欲しいとか思いなが ら、リヨンから出ているマイナーなレーベルのものまでずいぶん色々買ってはみたのですが。(奏者の名誉のために一言 付け加えれば、その演奏は良かったのですが、録音が機器環境的にかちょっとキツかった。)
そのツィマーマン、完ぺきな仕上がりで毎度ながら見事です。ショパンコンクールで優勝したこのピアニストは気に 入った演奏しか出さないというので録音枚数が少なく、レコード会社泣かせなのだそうです。それもなるほどと思わせま す。そのショパンの協奏曲の演奏は自らが指揮して楽譜にまで改訂を加えた力作として話題になりましたが、極端に遅い テンポとたっぷりとした叙情的な歌わせ方で驚きました。しかしここでのラヴェルにその傾向がないというのは、作品に 対するしっかりとした見解を持っていることを窺わせます。事実、この後でもかなり期待させる盤が出たりもしたのです が、ルバートがやや残念だったりしました。文化圏の違う奏者がお国なまりの発音だったりするのを除いても、案外本国 の人ほど表情が粋過ぎたりして、ラヴェルの演奏はむつかしいものだ
と思います。超絶技巧で素早く弾き切ればよいというものでもありませんし。ちなみにこのツィマーマン盤、オーケスト ラはあのブーレーズが指揮しており、近年の録音ではちょっと疑問に思うものもあるなかで、均整のとれた完ぺきな伴奏 です。
ピアノ三重奏曲とヴァイオリン・ソナタ / カントロフ=ルヴィエ=ミュレ盤
滑らかでゆったりした歌わせ方が心地よく、繊細なセンスを持っているフランスのヴァイオリニストであるジャン・ ジャック・カントロフと、ラヴェルのピアノ演奏では最高のピアニスト、ジャック・ルヴィエにチェロのフィリップ・ ミュレが加わった室内楽のシリーズです。これが日本のレーベルから出ているのですが、よく企画してくれたと思いま す。オランダで録音されたもので、全部で三枚あります。ピアノ三重奏集と、ヴァイオリン・ソナタ集、それにコンセル ヴァトワールの学生だった頃のヴァイ オリン・ソナタ (遺作)が入ったものです。
ピアノ三重奏はトラック運転手として従軍していた戦争 中に着手されたもので、室内楽の中でも弦楽四 重奏曲とならんでロマンティックで親しみやすい曲です。ちょっ ともの悲しいような甘美な調べが心地よく響きます。
ヴァイオリンとピアノのためのソナ タは前述の通 り、不思議な緊張のなかで模倣とかけっこ遊びを繰り返す曲で、駒の近くを擦る艶のない音をわざと出させたり、難しそ うなピツィカートが含まれていたりでなんともラヴェルらしいですが、純粋な音楽としても興奮を覚え、私は魅力がある 曲だと思います。前述したヴァイオリニストであるエレーヌ・ジョルダン・モランジュがこの曲の成立に手を貸している ようで、彼女に献呈されています。「愛を弾く女」(1992) という恋愛映画ではエマニュエル・ベアールが上手に弾いてみせていたのが印象的でした。弓や指の動きと音とがほぼ合っていたので、彼女は少しヴァイオリン が弾けるのでしょうか。映像ではまるで本人が弾いているようでした。このとき裏で実際に弾いていたのがカントロフで す。
デンオンの盤は80年代半ばのデジタル録音で、7KHzあたりより上の高域にわずかに強調感があってややメタリッ クですが、きれいな録音ではあります。
他にエラートからも同じ顔合わせでパリで録音された別の盤が出ています。ヴァイオリン・ソナタ(遺 作)は入っていませんが、逆にヴァイオリンとチェロのためのソナタとツィガーヌがカップリングされています。こちら は73年のアナログ録音ですが、音は80年代に CD 化されたオリジナル盤に限ってはデンオン盤よりさらに高域に強調感のある線の細いものです。演奏はデンオン盤よりもテンポが遅めで表 情も全体に大きいようです(写真下右は分売の一枚)。