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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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ピアニストの田部京子  クラシック倶楽部6/24登場へ

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田部京子
 ピアニストの田部京子とは、昔からインタビューの合間に何度も脱線してしまう。ふとした話題からどんどん話が逸れていき、仕事モードではなく、雑談に発展していってしまう。
 今回も「intoxicate」のインタビューで、彼女が満を持して録音したブラームスの「後期ピアノ作品集」(コロムビア)について話を進めていたところ、かなり前のメンデルスゾーンの録音のときのジャケット写真の話になり、私がそのときの髪がものすごく多くてフワフワしていた写真を覚えているといったところ、彼女が実は髪で悩んでいるという話になった。
 それから話は髪の多さや質の問題に移り、美容院探しから髪型の苦労話へと発展、インタビューはまたもや仕事から遠く離れてしまった。
 それでもなんとか話題を戻し、田部京子とブラームスのつながり、この作曲家にいかに魅了されているか、後期の作品の難しさなどを話してもらい、仕事は無事に終了した。
 いや、まだ終了しなかった。彼女が引越しをした話が残っていたのだ。これもまた苦労話で、私は以前の住まいにおじゃましたことがあるため、またまた話題沸騰。長年取材を続けているアーティストとの話はとてもおもしろいが、ついつい話題が広がって脱線しっぱなし(笑)。編集担当者は、さぞ気をもんだでしょうね。
 この田部京子のブラームスは研鑽の賜物。彼女はベルリンに留学しているが、ベルリンに着いた翌日フィルハーモニーホールでクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルの演奏するブラームスの交響曲第3番を聴き、ノックアウトされたそうだ。いまでもこのベルリンの部屋に行くたびに北国特有の空気を感じ、静けさのなかでブラームスへの思いを馳せるそうだ。
 ブラームスの作品は、渋さと寂寥感と特有の深い響きを要求される。田部京子も10代のころはその内面性が理解できず、非常に苦労したそうだ。やはりブラームスは奏者が成熟することを望む音楽なのだろう。彼女も徐々にその内奥に分け入り、ようやく幾重にも重なった音の層を理解できるようになったという。
 今日の写真はインタビュー時の田部京子。すっごくきれいに撮れているでしょう。まるで女優のよう。私の自慢の1枚になりそう。彼女もとても気に入ってくれた。インタビューで思いっきりいろんな話に花を咲かせたあとに、ちょっとこんなポーズしてみてといったら、この美しい姿になったというわけ。やったね!!
 来年5月31日には浜離宮朝日ホールで「B×B Worksシリーズ」と題したリサイタルを行い、ベートーヴェンとブラームスを演奏する予定になっている。こちらも楽しみだ。



・吉松隆:「プレイアデス舞曲集」より 前奏曲の映像/線形のロマンス/真夜中のノエル
・グリーグ:組曲「ホルベアの時代から」Op.40 第4曲 アリア
・カッチーニ:アヴェ・マリア
・シベリウス:ロマンス 変二長調 Op.24-9
・ドビュッシー:月の光
・ブラームス:6つのピアノ小品 Op.118より 第2曲 間奏曲 イ長調
・佐村河内守:ピアノのためのレクイエム イ短調
・シューベルト:ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
(アンコール)
・シューベルト(吉松隆、田部京子編)/アヴェ・マリア

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 田部京子さんの日本コロムビアからのCDデビュー20周年記念特別リサイタルを浜離宮朝日ホールで聴いて来ました。不肖私めも大変微力ながらこのお祝いのお手伝いをさせて頂いたので、たとえ個人的なブログと言えど演奏会の感想を書くのは公平性という意味では良くないのかなという気もするのですが、そもそもこのコンサートのチケットは私自身は発売と同時に入手しており、ご協力の依頼があったのはそのずっと後のことですから、やっぱり思ったことは自由に書いておこうと思うので、感想を記しておきます。何より、田部さんのピアノを聴く時は、素朴なファンでいたいですし。
 
 秒刻みの慌ただしさの真っ只中にある都会のコンクリートジャングルの中で、ゆったりとした静謐な時間の流れをしみじみと味わうことのできた素晴らしいコンサートでした。曲目は、彼女の名前を天下に轟かせることになったシューベルトのピアノ・ソナタ第21番をメインとして、前半は田部さん自身の手によるパンフレットの曲目解説にあるとおり、「通常のリサイタルプログラムとは一線を画し、緩徐楽想で構成される静謐なたたずまいの小品が並びました」というように、吉松隆の「プレイアデス舞曲集」からの抜粋に始まり、グリーグの「ホルベア」からの「アリア」、カッチーニ(吉松隆編曲)の「アヴェ・マリア」、シベリウスのロマンス、ドビュッシーの「月の光」、ブラームスの間奏曲Op.118-2、そして佐村河内守の「レクイエム」と、どれもがこの20年間に彼女がCDに録音してきた名曲ばかりで、彼女のこれまでの足跡を振り返るもの。そして、何よりも、文字通り田部さんが最大の武器としているピアニッシモを、ゆったりしたテンポの中で心ゆくまで楽しめる選曲になっていました。こうしてLangsamerSatzというタイトルのブログを書いている私にはまさにうってつけのプログラム、「この世は私のためにある」と思いたくなるほどです。

 ため息が出そうになるほどに美しい音楽ばかりでした。田部さんの音は、「沁みる」音だと実感しました。これまで聴いてきたすべてもCDでもそう感じてはいたのですが、こうして実演で聴くと、ピアノの音がホールの空気にしみこみ、それが伝播して私のこころにしみこんでくるというプロセスを、まるで目で見るかのようにリアルに体験できるのです。

 冒頭の「プレイアデス舞曲集」からして、曇りのない透明なピアノの音色、しなやかな歌、そして「耳を澄ます」ことの喜びを感じさせてくれる静けさ、いずれもが「ああ、これが聴きたかった!」「田部さんのピアノはこれがあるから好きなんだ!」と思わずにはいられません。特に、グリーグのアリアのしなやかな歌、ドビュッシーの月の光の信じられないくらいのみずみずしさを保ったピアニッシモ、DVDよりも曲の推移のなめらかさや自然さが増し、曲の魅力をより豊かに引き出した佐村河内など忘れられないのですが、ブラームスの間奏曲の胸に迫る歌は絶品としか言いようがない。スコーンと響く抜けの良い高音、時折楔を打ち込むかのように強調されるバスの動きがが有機的に絡み合い、曲に込められた作曲家の思いがさまざまに姿を変えて複雑に交錯し、静かに「終わり」に向けて収斂していくさまの美しいこと。物哀しいこと。この7分間を聴けただけでも今日のコンサートを聴きに来た価値があったと思うほどでした。

 しかし、やはり今日のクライマックスは、「シューベルト弾き」田部京子さんの弾くシューベルトのD.960。全体にゆったりしたテンポで、弱音を大切に大切に扱いながら、傷ついた作曲者の魂を優しく慰撫する。先日のダルベルトの演奏会の感想で書いた「能」の話を持ち出すと、田部さんは、目前に亡霊として現れたシューベルトの魂を全部引き受け、その苦悩や悲哀、現世への未練などを鎮めてあげる能楽師のような立ち位置で音楽を奏でていたように思います。長い長い音楽が終わりに近づいてようやく、シューベルトの魂が浄化され、あの世へ「成仏」できたのではないかという気がする。勿論、さすらい人シューベルトの魂はまた憂いの装いを身につけてこの世に亡霊として現れるのですが(現れてくれなければ困る)、この魂の救済のプロセスを身をもってリアルタイムに体験できること、これこそがシューベルトの音楽を聴くことの最大の喜びなのだろうと思いました。

 素人の推測に過ぎないのですけれど、今、田部さん自身の関心はベートーヴェンの音楽に向かっているはずで、そうした彼女のうちにある「これからの展望」を指向するという「良心」と、自らの名声を決定的なものにしてくれた「昔取った杵柄」を聴衆の期待になるべく答えるために再現しようとする「良心」とのある意味での「衝突」をどういう風に解消しようかという問いが彼女の中にあったのではないでしょうか。変わらない自分と、変わっていく自分の相克。しかし、田部さんは、そこに敢えて何か確固たる答えを出そうとしてもがくのではなく、もっと長いスパンで考えて答えに近づければいいと肚をくくり、あるがままの自分の姿で音楽に向かい、私たち聴衆にも向かっていたのではないかと思います。そんな妄想を抱かせるような彼女の「誠実さ」に私はいたく感動しました。そして、このあたたかさ、やわらかさにもっともっと長く浸っていたい、終わってしまうのがもったいないという気持ちでいっぱいでした。最近聴いたいくつかのシューベルトの21番のソナタの実演の中ではダントツで心を動かされた演奏でした。

 アンコールはシューベルトの「アヴェ・マリア」を田部さんと吉松隆氏が編曲したもの。賛美歌のように厳かに、しかし柔らかに歌われる祈りが、私の心に沁みました。

 今日の演奏会は、私にとって一生忘れられない思い出になりそうです。終演後に頂いたサイン、演奏会場で配布されたディスコグラフィの冊子とともに、記憶に刻み込んだ田部さんのピアノの音、どれもずっと大切にしていたいです。そして、田部さんの演奏をずっと聴き続けていきたいと思います。

 田部さん、これからも素晴らしい演奏をたくさん聴かせて下さい。



ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の魅力配信日:2013年12月12日 | 配信テーマ:クラシック 
 クラシックの作品は、さまざまなブームによって演奏されるものが重なることがある。これまでマーラー・ブーム、古楽器ブームなどがあり、最近はシューベルトのピアノ・ソナタを演奏するピアニストが多い。

 しかし、ベートーヴェンの作品はやはり不滅である。いつの時代にもベートーヴェンの幅広い作品群は、演奏家を引き付けてやまないようだ。

 そのなかで、最近よく演奏されるのがピアノ協奏曲第5番「皇帝」である。来日アーティストも日本の演奏家も、「皇帝」をしばしば取り上げる。つい先ごろ、ウィーン・フィルを弾き振りしてこのコンチェルトを演奏したルドルフ・ブッフビンダーは、すばらしく感動的な演奏を披露してくれた。 そこで、今回は「皇帝」について記してみたい。

 ベートーヴェンの「皇帝」は、緩徐楽章(第2楽章)の美しさが際立つ。この楽章を聴くと、ベートーヴェンがいかにロマンあふれる人だったかが理解できる。彼は堅物でも、変人でも、人間嫌いでもなく、真に感情豊かな心やさしい人物だったのではないだろうか。

 こんなにも清らかで心が洗われるような音楽を生み出す人が、変人であろうはずがない。私はこの緩徐楽章を聴くと、いつもロマンティスト、ベートーヴェンの心情が映し出されたその類い稀なる美の世界に心が揺さぶられ、つい涙してしまう。

 しかし、ベートーヴェンの作品はその美しさゆえにピアニストにとって非常に難しいといわれる。この秘められたロマンを表現するためには、作曲家の魂に寄り添うよう、楽譜の奥深い部分まで迫っていかなくてはならないからである。

 あるときは威厳に満ち、またあるときは哲学的な味わいをもち、さらに神々しさも放つベートーヴェンの作品。その底にただようえもいわれぬロマンティシズム。それはベートーヴェンの生き方そのものが映し出されているといっても過言ではない。

 ベートーヴェンは生涯に5曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、とりわけ第5番は特別な輝きを発している。壮大なスケール、雄大な曲想、ピアノとオーケストラによる重厚で肉厚な音の対話は聴き手の心をとらえ、強い印象を与える。

 曲は3楽章で構成され、第1楽章は、オーケストラの輝かしい響きに次いでピアノの力強く即興的なカデンツァが登場する。カデンツァとは、自由な無伴奏の部分を指し、ここではピアニストがソロにより、華麗で壮麗な演奏を存分に発揮することになっている。

 第2楽章は自由な変奏曲で、ピアノが幻想的な美しさに彩られた旋律をゆったりと奏で、ベートーヴェン特有のロマンを表現している。

 第3楽章は巨人の舞踏を思わせるような、足を踏みならすような力動感あふれるロンド。ロンドとは、フランス語の「丸い」の意味で、輪舞またはその歌を指す。ここでは重厚なオーケストラの響きが勢いに満ちたピアノと雄弁な音の対話を繰り広げ、ダイナミックな踊りを展開し、力強く明るいクライマックスへと一気に突き進んでいく。

 ベートーヴェンは常に新たな方向を模索し、前進をモットーに力強く生きた作曲家だ。ピアノ協奏曲第5番も、雄渾な曲想とピアノとオーケストラの丁々発止の音のやりとりが聴き手に前進するエネルギーを与えてくれる。

 ブッフビンダーはウィーン・フィルを弾き振りしてベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲のライヴ録音を行っているが、ここでもとりわけ「皇帝」の第2楽章が美しく秀逸だ。


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