夢見るような甘美な主題が人気――シューマンのトロイメライ?配信日:2014年6月5日 | 配信テーマ:クラシック
ピアノのリサイタルの会場でアンケートを取ると、アンコールなどで弾いてほしいと希望する曲目のなかに、必ずといっていいほどシューマンの「トロイメライ」が入っている。
これは夢見るような甘美な主題が美しく情感豊かに奏でられる人気の高い作品で、しっとりとした味わいが聴き手の心を癒し、コンサートが終わってからも余韻に浸ることができる。
そこで今回から2回にわたって、シューマンの人生をたどり、「トロイメライ」へと目を向けたいと思う。
ロベルト・シューマンは1810年6月8日、ドイツのツヴィッカウで書店を営む父アウグストと外科医の娘である母ヨハンナのもとに、4男1女の末っ子として生まれた。7歳からピアノのレッスンを開始したが、その非凡な才能はピアノ教師をはじめ周囲の人々を驚かせるほどだった。
8歳からはさまざまな音楽の勉強を始め、9歳で作曲の勉強も開始。14歳のときにはすでにピアニストとしての腕を発揮するようになる。
父はそんなシューマンをウェーバーのもとに勉強に行かせたいと望んだが、その願いが果たせぬまま亡くなってしまった。
アウグストは文学をこよなく愛した。家業が書店だったこともあり、シューマンも幼いころから書籍に親しみ、詩を作ることも試みた。
父の死後、シューマンは母の望みに従って法律家になろうと1828年からライプツィヒ大学とハイデルベルク大学で勉強したものの、いっこうに興味がもてず、結局2年後にライブツィヒに戻ってピアノと作曲、文学に熱中することになる。このときに師事したのがピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク、のちの妻となるクララの父親だった。
シューマンは母親の同意とヴィークの保証を得て、本格的にピアニストとしての道を歩むべくヴィーク家に住み込んでレッスンを受けることになる。
シューマンは作曲家としてばかりではなく、評論の分野でも活躍した。1833年には「音楽新報」を創刊し、以後10年にわたってロマン主義音楽を啓蒙し、音楽評論の意義を高めるために努力していく。ショパンやブラームスを紹介した論文は有名で、現在それらは貴重な資料となっている。
さて、いくつかの恋を経験した後、シューマンは天才少女ピアニスト、クララと恋に陥りすぐに父ヴィークに結婚を申し入れたが、ヴィークの猛反対に遭ってしまう。シューマンは愛するクララへの一途な思いを作品に込めて、作曲に没頭していくことになる。
この時期には代表的なピアノ作品「クライスレリアーナ」「幻想小曲集」「幻想曲」「ノヴェレッテン」「ダヴィッド同盟舞曲集」「交響的練習曲」などが次々と生み出された。
「幻想曲」はシューマン自らが「自分の最高傑作」と呼んだピアノ作品である。
「ぼくがきみをあきらめかけた1836年の不幸な夏に身を置いて考えなければ、この《幻想曲》を理解するのは難しいでしょう。第1楽章はいままで作った曲のなかでもっとも激情的なもの。きみを思っての深い慟哭の調べなのです」
1839年4月、シューマンは彼女に宛てた手紙のなかでこう書いている。ここに記されているように、「幻想曲」はクララとの愛に苦悩し、一時はあきらめ、深く傷ついて嘆きの淵に沈み、また一抹の希望を抱いた、そんな揺れ動く精神状態のなかで書かれた。
これはベートーヴェンに捧げられ、第1楽章の終わりでベートーヴェンの連作歌曲「遥かなる恋人に寄す」の主題が引用されている。
ベートーベンのピアノ・ソナタ全32曲に集中して取り組んでいる若手ピアニストの小菅優が、第3弾となるソナタ集のCD(ソニー)を出した。6月には東京で大作のソナタ第29番「ハンマークラビア」を弾き、7回目となる全曲シリーズ演奏会はヤマ場を迎える。(松本良一)
「楽聖」などとあがめ奉られることが多いベートーベン。だが、その音楽は感情の起伏に富み、意外と人間くさいという。「特に若い頃のソナタは生命力にあふれ、自然の息吹を感じる。弾く時はあまり考えすぎないようにしたい」
第3集に収められたのは、第4番、第15番「田園」、第19、20番、第21番「ワルトシュタイン」、第25番、第26番「告別」。20代後半から30代の終わりにかけて書かれた一連のソナタは、聴力を失う試練に見舞われた作曲家の人生を反映している。
ただし、選んだ7曲のうち6曲は長調。「比較的穏やかな作風の曲を選び、悲劇の中でも希望を失わなかった作曲家の日常に寄り添いたかった」
第4番や「田園」ではベートーベンの上機嫌で快活な精神が、「ワルトシュタイン」や「告別」では肯定的な意志や多少センチメンタルな感情が、演奏を通じて生き生きと表現されている。
一方、演奏会で弾くのは、ソナタ第5、11、29番。特に第29番は、壮大な曲想と構成の複雑さにおいて全32曲の頂点に位置する作品だ。「あらゆる点で本当に大変な曲。音楽にのめり込み、迷路のような細部に迷い込まないよう、努めて冷静なアプローチで臨みます」
1983年、東京生まれ。30代前半になり、そろそろ「気鋭の若手」から真の「実力派」へと脱皮する時期だ。4年前にスタートしたベートーベンの全曲演奏会もいよいよ終盤。演奏会は2015年が最終回で、並行して進める録音も、15、16年にそれぞれ第4、5集を出して完結の予定だ。
来年3月の演奏会は最後のソナタ3曲、第30、31、32番で締めくくる。「どんな苦悩を背負っても、ベートーベンは最後は常に人生に肯定的。そこにあこがれる」。あとは大団円を目指して前進するのみだ。
メナヘム・プレスラーは、世界各地の国際コンクールの審査員を務め、アメリカ・バーミントンのインディアナ大学では長年にわたり、後進の指導を行っている。現在は名誉教授であり、いまなお若手音楽家の教育に熱心に取り組んでいる。
「昔はよく生徒の前で演奏しながら教えたものですが、いまはそんなに弾きません。というのは、私が弾いてしまうと、まねだけで終わってしまうことが多いからです。それでは意味がありません。演奏に対する答えは、自分自身が自然に発見するものだと思っていますから。もちろん、非常に意味のあるフレーズがあったら弾いてみることはありますよ。生徒のなかには無意味に弾いている人がいますが、そういうときは、ちょっと待って、何か感じないかと聞きます。すると、作曲家がそこで何をいいたいのかはわかるんだけど…と、必ず″だけど″がつく。その音楽が何をいおうとしているのか、自分がどうやったら答えが見出せるのか、そこから探求の道が始まるわけですから、それを指導していくようにします。いいわけは必要ありません」
プレスラーは、これまで大勢の人を教えてきた。1955年からインディアナ大学で教鞭を執り、指導したピアニストは数知れない。
「生徒のなかには、20年たってから手紙をくれる人もいます。学生のときに聞いたことは頭でわかっていても、本当には理解できていなかった。それが人生を歩んできて、ようやく先生のいいたいことがいまになってわかったと書いてあるのです。私はけっしてやさしい先生ではありませんよ。要求がとても高いです。それは生徒に対しても、自分に対しても同じです」
さて、今後の録音計画はどうなっているのだろうか。ベートーヴェンの「バガテル」の演奏がすばらしいのだが、今後もベートーヴェンは収録予定があるのだろうか。
「いまは、モーツァルトのプロジェクトが進んでいます。ベートーヴェンの話になりますが、私は最後の3つのソナタが大好きなんです。作品109と作品111は静かに終わりますよね。作品111はとりわけ美しく、哲学的で天にも昇っていくよう。作品110は、ベートーヴェンの自伝のような曲だと思います。第1楽章は理想を追う若者のよう。第2楽章は自由で奔放。のんべいの歌なんです。第3楽章のアダージョはそこまでいってしまったという後悔の念。その後フーガが続きますが、フーガというのは物が作り上げられていく様子。ですから、いまからは意味のある人生を生きようという気持ちが込められているのです。これに続くアダージョは、より深い悲しみが感じられ、そのあと2回目のフーガが勝利で終わっています。やはりベートーヴェンは、自分の人生は意味のある人生だったということをいいきっているように感じます。それに対して我々は、″アーメン″としかいえないじゃないですか。この作品を演奏するときは、いつも最後はこう祈るだけです」
プレスラーは、昔はソリストとして活動し、やがてトリオを結成して解散までピアニストを務め、もう一度ソリストとして活動するようになった。そんな彼が再びソロを始めたとき、ロンドンの批評家がパリでのリサイタルを聴き、こう評した。
「私たちは、プレスラーがトリオをやめるのをなぜこんなに長く待ったのか」と。もっと早く聴きたかったということを意味しているのだろう。この文は、世界中のファンの心を代弁しているように思える。
そんな彼に、いま健康面でのケアはどうしていますかと質問する私に、プレスラーはおおらかな声で明快にいいきった。
「遺伝子の関係としかいいようがないのですが、私は90代になってもメガネを必要としていないんですよ。両親も家内も子どももみんなメガネを使っているのに、私はいらない。ああ、ということは遺伝子じゃないですねえ。神の恵みかな(笑)。大きな病気もないし、頭も大丈夫。記憶力も問題ありません。楽譜は読めますし、全部暗譜できます。唯一、年だとわかるのは、ゆっくり歩くことでしょうかね。私は生きている1秒1秒を全部楽しんでいます。この年になって自分が大好きなこと、要するに演奏することを続けられるというのはとても光栄なことだと思っています。人生というのは意味があると思うのです。冬は暖かいところ、夏は涼しいところでテレビの前にすわってゲームをする、それが私にとって大事なことではありません。自分にとっては音楽をすること、音楽を愛すること、これが生きる意義なのです。音楽に対する飢えというものは、子どものころからまったく変わりません。常に渇望しているのです。この飢えというものは、けっして満たされることがない。音楽をしたいんです。それを生涯渇望しているわけです。これが、私の人生における意味なのだと思います」
彼は一日中、音楽と対峙しているわけだが、趣味といえば読書に限るという。
「そうそう、インディアナ大学は、バスケットが強いので、その試合結果は興味ありますね。趣味とはいえないかもしれませんが、桜が好きで、自然も大好きです。でも、自分の人生はすべて音楽のためにあります」
これまでの人生のなかで大きな影響を与えられたのは、師事した先生たち。そして、もうひとりは奥さまだそうだ。
「私の先生たちは、なぜかみんなブゾーニの弟子という共通点があります。本当にすばらしい先生に恵まれ、幸運でした。家内は私より頭がよく、6つの言語を使いこなし、本を読んでそれを全部覚えていられる。私の師のような人間です。一度、彼女が肺炎を起こしたとき、私はドイツにレコーディングにいかなくてはならなかった。私はいくのをキャンセルするといいました。でも、彼女は心配しないでと。あなたはふたりの子どものためにテレビディナー(米国の弁当型冷凍食品のこと)を買ってきてちょうだい。それさえ買ってきてくれたら、心配しないで仕事にいってというのです。そんなことをいってくれる奥さんがいるなんて、本当にラッキーなことですよ」
プレスラーのインタビューは、まさに至福のときを味わう時間だった。おだやかな笑みをたたえながらゆったりとしたテンポで話すプレスラーは、その演奏と同様、大きく温かな空気でまわりを包み込む。また、すぐにでも来日してほしいと願う。
メナヘム・プレスラーはトリオ解散後、ソリストとして多彩な活動を展開している。ソロ、コンチェルト、そして室内楽。とりわけ室内楽の分野では、さまざまな音楽家との共演を行っている。
「88歳のときに、スイスで行われているヴェルビエ音楽祭に招待されたのですが、そのときにドイツのリリックテノール、クリストフ・プレガルディエンからシューベルトの《冬の旅》のピアノ伴奏をしてくれないかといわれました。私は声楽のレパートリーは知らないんだけど、といったのですが、かなり熱心に申し込まれたため、共演することになりました。実際に演奏したら、これが大成功でした。その後、ドイツのバリトンのマティアス・ゲルネが私のベルリンでのコンサートを聴いて、電話をかけてきました。一緒にシューマンの歌曲集を演奏しないかと。そこでまた私は、声楽のレパートリーはあまり知らないといってお断りしようと思ったら、彼はこういったんですよ。″勉強すればいいんじゃない″って。これにはまいりましたね」
こういいながら、プレスラーはにこやかな笑顔を見せた。かなり年下の音楽家からずばりといわれたことで、最初は驚きを隠せなかったようだが、よく考えてみれば「なるほど」と納得したのだそうだ。ふつうは、なんと失礼なと怒るところだが、プレスラーはゲルネのことばを真摯に受け止め、共演が可能になった。もちろん、ゲルネはドイツ・リートの正統的な継承者としての実力の持ち主であり、このことばはジョークだったようだが…。
「音楽家の学びに終わりはないんですよね。それに改めて気づかされたのです。もちろんゲルネとの共演はすばらしいものでした。声楽家と共演して新たにわかったことですが、すべては音楽なんです。ジャンルは関係ありません。もちろん、人間の声は弦楽器とは異なり、呼吸が違います。ピアニストとして歌曲を演奏する場合は、その声楽家の呼吸を飲み込むことがもっとも大切になります。演奏する上での呼吸というものは、50年以上弦楽器と一緒に演奏していれば、自然に身についているものです。いい弦楽器奏者が何を表現しようとしているか、どんな音楽を目指しているのかはすべてわかっています」
現在は、オーケストラとの共演がもっとも多いそうで、さまざまなピアノ協奏曲を各地の名だたるオーケストラと演奏している。
「本当にコンチェルトが多いですね。世界中のオーケストラと共演していますが、リハーサルのときに私がここの部分はこういうふうにあるべきなんだけどというと、指揮者もオーケストラのみなさんも全員が私のいう通りに演奏してくれます。これは年をとったことのプラスでしょうか」
ここでまた、プレスラーはうれしそうに笑う。長年積み上げた熟成されたピアニズムとこの笑顔が、指揮者やオーケストラを一瞬にして説得してしまうゆえんだろう。
「もう一度いいますが、室内楽も声楽の伴奏もソロも、全部同じです。全部が音楽なんです。
50年以上続けてきたボザール・トリオとの作業は、純粋に音楽を探求していくことでした。その音楽が何を語っているのか、本当に深く探していたのです。私たち3人は、成功するためにそれをしていたのではなく、音楽のなかの″美″を見つけるためでした。演奏は仕事として行っていたのではなく、音楽に対する本当の愛があったからできたのだと思います。もともと音楽に対する愛情は十分にあったと思いますが、トリオを始めることにより、自分たちの感性というものがひたすら音楽に対する愛情に向かっていったわけです。もちろん、私の感性はいまも同じ方向を向いています。演奏は、人に見せるパフォーマンスではありません。音楽における愛情表現なのです。こういう考えで一途に演奏すると、そのパフォーマンスがよりよくなるから不思議ですよね。こういうことを、最近また強く感じるようになりました」
そんなプレスラーの新譜は、2013年5月にインディアナ大学で録音されたモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの「ピアノ作品集」。モーツァルトの「ロンド」イ短調K511は悲しみと喜びが混在した複雑な作品で、それをプレスラーは涙を隠しながらほほ笑みを見せるような微妙な表現で演奏。モーツァルトの真髄に迫っている。ベートーヴェンの「バガテル」作品126では、簡潔で明快な美しい響きを追求し、シンプルで素朴な表現に徹している。そしてシューベルトのピアノ・ソナタ第18番では、滋味豊かな心に響くピアニズムを披露し、ファンタジーあふれる繊細な歌を奏でていく。
すべてが熟成された音楽で、作品への深い洞察力が全面に現れ、心が洗われる思いだ。
今回の庄司紗矢香とのデュオ・リサイタルでは、メナヘム・プレスラーのソロによるアンコールが強い印象をもたらした。これは、事前に彼女と打ち合わせをしたのだろうか。
「いいえ、それはありません。別に話し合ったわけではないんですよ。彼女には彼女の曲があって、ヴァイオリンとピアノによるアンコールを弾いたわけです。そして私には私の曲がある。ノクターンもマズルカも、もう何回も弾いた曲で、長年の経験からこの曲は本当に人々に愛されているのだということがわかります。ですから、2曲弾いたのです。でも、けっして自分の技術を見せるためのアンコールではないんです。テクニックや表現力を必要とする作品は、すでにプログラムのなかで十分に弾いていますから。あなたのように、帰路に着くとき、この音楽の美しさというものを本当に深く感じながら帰っていただきたいと思ったわけです。日本でも過去に全国ツアーでこうしたショパンの作品は4、5回弾いていますが、聴衆の反応はみんな同じです。みなさん、私が曲に込めた愛情というものを本当に特別な拍手で表現してくれます」
それでは、今回の庄司紗矢香からの共演の申し込みに対し、プレスラーはどのように感じたのだろうか。
「本当のことをいうと、彼女のことは存じ上げていませんでした。彼女の友だちが私の非常に親しい友だちで、信頼している人間でしたので、彼からCDをもらい、それを聴いてすばらしいなと思ったのです。最初は、わざわざ日本までいってコンサートをする必要があるのかと考え、一度はお断りしたんですよ。でも、その友人から何度かアプローチがあり、紗矢香さんと直接会うことになりました。実際にお会いして話してみたら、なんて素敵な女性だろう、非常に共感がもてる人だと思ったのです。彼女は世界中の有名なオーケストラと共演するようなすぐれた演奏家で、成功したソリストです。でも、それでけっして満足することなく、本当の音楽は何なのか、それを探求していきたい、そういう考えをもっている音楽家でした」
プレスラーは共演を承諾し、ふたりはプログラムの構成に移った。
「私は、今回のプログラムは純粋な音楽、内面を追求する音楽を組みたいと考えました。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番でコンサートを終えるのは、とても勇気がいることです。でも、私は彼女に勇気というよりも意味のある終わり方なんだと話し、彼女も賛同してくれたわけです。彼女と共演する機会をもつことができ、本当によかったと思っています。紗矢香さんは日本の誇りと思える、日本人らしい日本人です。日本で最高といえば、世界の最高と同じですからね」 現在はこうしたデュオやソロ活動が多いプレスラーだが、長年ボザール・トリオの演奏に集中的に取り組んでいたのは、室内楽を演奏したいという思いがあったからだろうか。
「実は、トリオを始めたのは偶然のことなんですよ。私はもともとソリストでした。映画会社のMGMで録音していたんです。この会社は、アルトゥール・ルービンシュタインの《ソング・オブ・ラブ》というシューマンの映画の音楽などを録音していました。MGMがレコード会社まで立ち上げてしまったのです。私はルービンシュタインのレパートリーなどの再録音をしていたのですが、ある日、モーツァルトのトリオを録音したいなとディレクターに話したら、″じゃ、だれか見つけてきて録音したら″といわれました。そのとき家内と泊っていたニューヨークのホテルに、アルトゥーロ・トスカニーニとNBC交響楽団も泊っていたので、その友人にだれかいいヴァイオリニストはいないかと聞いたら、やはりコンサートマスターでしょうといわれ、ダニエル・ギレと会いました。彼を通してチェロのバーナード・グリーンハウスと出会うことができたのです。ふたりともすばらしい音楽家で、早速レコードを作ろうということになりました。ちょうどそのとき、タングルウッド音楽祭でベートーヴェン・チクルスが行われていたのですが、そのときのトリオがキャンセルしてしまったということで、急きょ私たちが出演し、初めてそこで演奏したのです。それが大成功に終わり、モーツァルトの録音をするまでに6回のコンサートが組まれていたのが、あれよあれよというまに70回まで増えてしまいました。気がついたら、ああ自分はトリオをやっているという感じでした(笑)」
それからはどんどんコンサートも入り、評判もうなぎのぼり。プレスラーはトリオで演奏するか、ソリストとしての道を歩むべきかという選択を迫られることになった。
「私はすばらしいふたりとこうした室内楽の演奏ができることに、何か特別な感情を抱いたのです。そこで、トリオの活動に専念をしようと決心しました」
近ごろ、こんなにも感動したリサイタルとインタビューがあっただろうか。
4月に来日し、ヴァイオリニストの庄司紗矢香とのデュオ・リサイタルを行ったピアニスト、メナヘム・プレスラーは、心の奥深く浸透する滋味豊かな演奏で私の涙腺をゆるめ、人間性でさらに強く魅了した。
プレスラーは1923年ドイツに生まれ、現在はアメリカを拠点に世界各地で活動を幅広く展開し、後進の指導にも意欲を示している。
庄司紗矢香との共演は、彼女がぜひ一緒に演奏したいと熱望したもので、ふたりはモーツァルト、シューマン、ブラームス、シューベルトの作品で見事に息の合ったデュオを披露し、まさに歴史的な共演を成功に導いた。
プレスラーは長年、室内楽を演奏するピアニストとして知られていた。1955年にヴァイオリンのダニエル・ギレ、チェロのバーナード・グリーンハウスとともにボザール・トリオを結成し、以後、2008年に解散するまで53年におよびトリオの分野で活躍した。
解散後は、ソリストとしての活動を開始。いまや世界各地の著名な指揮者、オーケストラからオファーが殺到、コンチェルトの演奏が多い。もちろんソロや室内楽も演奏し、90歳を過ぎてなお、精力的な演奏活動を展開している。
今回のデュオ・リサイタルでは、音量のけっして大きくないプレスラーの響きに合わせるように庄司紗矢香も音を抑制し、静けさに満ちたおだやかな演奏が聴き手の耳を開かせ、集中力を促した。
ときに幻想的でかろやかで歌心にあふれ、またあるときは両者の音の対話が非常に濃密で自由闊達な演奏となり、この上なく美しく情感豊かなデュオが披露された。
ふたりのアンコールも演奏されたが、実は、ここからが涙ものだった。プレスラーはソロのアンコールを2曲披露したのである。ショパンの「ノクターン第20番嬰ハ短調」と「マズルカ作品17-4」。馬車が行き交っていたショパンの時代をほうふつとさせるゆったりしたテンポ、あくまでも自然で適切なルバート、自分の存在ではなく、作曲家の偉大さを前面に押し出す解釈と表現法、すべてが完璧なる美を放っていた。
その演奏の余韻は翌日のインタビュー時まで残り、あまりにも深い感動を得たため、ついそれをストレートに口にしてしまった。
するとプレスラーは、柔和で温かく、ふんわりと大きく人を包み込むような笑顔を向け、うれしそうにいった。
「そうですか、うれしいですねえ。昨夜のノクターンを聴いていただき、私がいかにあの曲を愛しているかということをご理解していただけたら、演奏家冥利に尽きます」
そのノクターン第20番は、2012年に録音されたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番のアルバムの最後にひっそりと登場し、天上の響きを聴かせている。
プレスラーは、アメリカのインディアナ大学のディスティングイッシュド・プロフェッサーの地位にあり、1955年以来多くの生徒たちを教えている。彼のショパンを聴いたとき、こうしたショパンの伝統と様式にのっとった清涼で美しい演奏を生徒たちにいかなる方法で伝授しているのか、それを質問してみたかった。
なぜなら、昨今の国際コンクールやリサイタルでは、若手ピアニストのとても攻撃的でスピード感あふれる演奏が主体となっているからだ。この質問に対し、プレスラーはじっくりことばを選びながら静かに語り出した。
「本当に長い間さまざまな生徒を教えてきました。もちろん、生徒にはショパンの演奏がどうあるべきかを教えています。そこで大きな意義をもつのは、私はどうやってピアノを弾くかということを教えるのではなく、音楽のなかの何を見るべきなのか、ということを教えているということです。いまもまだ多くの生徒を抱えています。才能のある人もいればない人もいますよ。コンサートで弾くようになる人もいれば、田舎の町にいって教える仕事に就く人もいます。でも、どんな形で音楽にかかわるにしても、たとえ小さな村の音楽の先生になったとしても、大ホールで演奏する人と同じくらい音楽に対して愛情がなければいけません。私はそれを教えようとするのです。そのためには、自分が音楽に愛情を感じなければなりません。演奏会というのは、自分が楽器を弾けるのだと証明するための場ではけっしてありません。自分の音楽に対する愛情を表現する場なのです。これが、私がもっとも教えたいことなのです」
ピアノのリサイタルの会場でアンケートを取ると、アンコールなどで弾いてほしいと希望する曲目のなかに、必ずといっていいほどシューマンの「トロイメライ」が入っている。
これは夢見るような甘美な主題が美しく情感豊かに奏でられる人気の高い作品で、しっとりとした味わいが聴き手の心を癒し、コンサートが終わってからも余韻に浸ることができる。
そこで今回から2回にわたって、シューマンの人生をたどり、「トロイメライ」へと目を向けたいと思う。
ロベルト・シューマンは1810年6月8日、ドイツのツヴィッカウで書店を営む父アウグストと外科医の娘である母ヨハンナのもとに、4男1女の末っ子として生まれた。7歳からピアノのレッスンを開始したが、その非凡な才能はピアノ教師をはじめ周囲の人々を驚かせるほどだった。
8歳からはさまざまな音楽の勉強を始め、9歳で作曲の勉強も開始。14歳のときにはすでにピアニストとしての腕を発揮するようになる。
父はそんなシューマンをウェーバーのもとに勉強に行かせたいと望んだが、その願いが果たせぬまま亡くなってしまった。
アウグストは文学をこよなく愛した。家業が書店だったこともあり、シューマンも幼いころから書籍に親しみ、詩を作ることも試みた。
父の死後、シューマンは母の望みに従って法律家になろうと1828年からライプツィヒ大学とハイデルベルク大学で勉強したものの、いっこうに興味がもてず、結局2年後にライブツィヒに戻ってピアノと作曲、文学に熱中することになる。このときに師事したのがピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク、のちの妻となるクララの父親だった。
シューマンは母親の同意とヴィークの保証を得て、本格的にピアニストとしての道を歩むべくヴィーク家に住み込んでレッスンを受けることになる。
シューマンは作曲家としてばかりではなく、評論の分野でも活躍した。1833年には「音楽新報」を創刊し、以後10年にわたってロマン主義音楽を啓蒙し、音楽評論の意義を高めるために努力していく。ショパンやブラームスを紹介した論文は有名で、現在それらは貴重な資料となっている。
さて、いくつかの恋を経験した後、シューマンは天才少女ピアニスト、クララと恋に陥りすぐに父ヴィークに結婚を申し入れたが、ヴィークの猛反対に遭ってしまう。シューマンは愛するクララへの一途な思いを作品に込めて、作曲に没頭していくことになる。
この時期には代表的なピアノ作品「クライスレリアーナ」「幻想小曲集」「幻想曲」「ノヴェレッテン」「ダヴィッド同盟舞曲集」「交響的練習曲」などが次々と生み出された。
「幻想曲」はシューマン自らが「自分の最高傑作」と呼んだピアノ作品である。
「ぼくがきみをあきらめかけた1836年の不幸な夏に身を置いて考えなければ、この《幻想曲》を理解するのは難しいでしょう。第1楽章はいままで作った曲のなかでもっとも激情的なもの。きみを思っての深い慟哭の調べなのです」
1839年4月、シューマンは彼女に宛てた手紙のなかでこう書いている。ここに記されているように、「幻想曲」はクララとの愛に苦悩し、一時はあきらめ、深く傷ついて嘆きの淵に沈み、また一抹の希望を抱いた、そんな揺れ動く精神状態のなかで書かれた。
これはベートーヴェンに捧げられ、第1楽章の終わりでベートーヴェンの連作歌曲「遥かなる恋人に寄す」の主題が引用されている。
ベートーベンのピアノ・ソナタ全32曲に集中して取り組んでいる若手ピアニストの小菅優が、第3弾となるソナタ集のCD(ソニー)を出した。6月には東京で大作のソナタ第29番「ハンマークラビア」を弾き、7回目となる全曲シリーズ演奏会はヤマ場を迎える。(松本良一)
「楽聖」などとあがめ奉られることが多いベートーベン。だが、その音楽は感情の起伏に富み、意外と人間くさいという。「特に若い頃のソナタは生命力にあふれ、自然の息吹を感じる。弾く時はあまり考えすぎないようにしたい」
第3集に収められたのは、第4番、第15番「田園」、第19、20番、第21番「ワルトシュタイン」、第25番、第26番「告別」。20代後半から30代の終わりにかけて書かれた一連のソナタは、聴力を失う試練に見舞われた作曲家の人生を反映している。
ただし、選んだ7曲のうち6曲は長調。「比較的穏やかな作風の曲を選び、悲劇の中でも希望を失わなかった作曲家の日常に寄り添いたかった」
第4番や「田園」ではベートーベンの上機嫌で快活な精神が、「ワルトシュタイン」や「告別」では肯定的な意志や多少センチメンタルな感情が、演奏を通じて生き生きと表現されている。
一方、演奏会で弾くのは、ソナタ第5、11、29番。特に第29番は、壮大な曲想と構成の複雑さにおいて全32曲の頂点に位置する作品だ。「あらゆる点で本当に大変な曲。音楽にのめり込み、迷路のような細部に迷い込まないよう、努めて冷静なアプローチで臨みます」
1983年、東京生まれ。30代前半になり、そろそろ「気鋭の若手」から真の「実力派」へと脱皮する時期だ。4年前にスタートしたベートーベンの全曲演奏会もいよいよ終盤。演奏会は2015年が最終回で、並行して進める録音も、15、16年にそれぞれ第4、5集を出して完結の予定だ。
来年3月の演奏会は最後のソナタ3曲、第30、31、32番で締めくくる。「どんな苦悩を背負っても、ベートーベンは最後は常に人生に肯定的。そこにあこがれる」。あとは大団円を目指して前進するのみだ。
メナヘム・プレスラーは、世界各地の国際コンクールの審査員を務め、アメリカ・バーミントンのインディアナ大学では長年にわたり、後進の指導を行っている。現在は名誉教授であり、いまなお若手音楽家の教育に熱心に取り組んでいる。
「昔はよく生徒の前で演奏しながら教えたものですが、いまはそんなに弾きません。というのは、私が弾いてしまうと、まねだけで終わってしまうことが多いからです。それでは意味がありません。演奏に対する答えは、自分自身が自然に発見するものだと思っていますから。もちろん、非常に意味のあるフレーズがあったら弾いてみることはありますよ。生徒のなかには無意味に弾いている人がいますが、そういうときは、ちょっと待って、何か感じないかと聞きます。すると、作曲家がそこで何をいいたいのかはわかるんだけど…と、必ず″だけど″がつく。その音楽が何をいおうとしているのか、自分がどうやったら答えが見出せるのか、そこから探求の道が始まるわけですから、それを指導していくようにします。いいわけは必要ありません」
プレスラーは、これまで大勢の人を教えてきた。1955年からインディアナ大学で教鞭を執り、指導したピアニストは数知れない。
「生徒のなかには、20年たってから手紙をくれる人もいます。学生のときに聞いたことは頭でわかっていても、本当には理解できていなかった。それが人生を歩んできて、ようやく先生のいいたいことがいまになってわかったと書いてあるのです。私はけっしてやさしい先生ではありませんよ。要求がとても高いです。それは生徒に対しても、自分に対しても同じです」
さて、今後の録音計画はどうなっているのだろうか。ベートーヴェンの「バガテル」の演奏がすばらしいのだが、今後もベートーヴェンは収録予定があるのだろうか。
「いまは、モーツァルトのプロジェクトが進んでいます。ベートーヴェンの話になりますが、私は最後の3つのソナタが大好きなんです。作品109と作品111は静かに終わりますよね。作品111はとりわけ美しく、哲学的で天にも昇っていくよう。作品110は、ベートーヴェンの自伝のような曲だと思います。第1楽章は理想を追う若者のよう。第2楽章は自由で奔放。のんべいの歌なんです。第3楽章のアダージョはそこまでいってしまったという後悔の念。その後フーガが続きますが、フーガというのは物が作り上げられていく様子。ですから、いまからは意味のある人生を生きようという気持ちが込められているのです。これに続くアダージョは、より深い悲しみが感じられ、そのあと2回目のフーガが勝利で終わっています。やはりベートーヴェンは、自分の人生は意味のある人生だったということをいいきっているように感じます。それに対して我々は、″アーメン″としかいえないじゃないですか。この作品を演奏するときは、いつも最後はこう祈るだけです」
プレスラーは、昔はソリストとして活動し、やがてトリオを結成して解散までピアニストを務め、もう一度ソリストとして活動するようになった。そんな彼が再びソロを始めたとき、ロンドンの批評家がパリでのリサイタルを聴き、こう評した。
「私たちは、プレスラーがトリオをやめるのをなぜこんなに長く待ったのか」と。もっと早く聴きたかったということを意味しているのだろう。この文は、世界中のファンの心を代弁しているように思える。
そんな彼に、いま健康面でのケアはどうしていますかと質問する私に、プレスラーはおおらかな声で明快にいいきった。
「遺伝子の関係としかいいようがないのですが、私は90代になってもメガネを必要としていないんですよ。両親も家内も子どももみんなメガネを使っているのに、私はいらない。ああ、ということは遺伝子じゃないですねえ。神の恵みかな(笑)。大きな病気もないし、頭も大丈夫。記憶力も問題ありません。楽譜は読めますし、全部暗譜できます。唯一、年だとわかるのは、ゆっくり歩くことでしょうかね。私は生きている1秒1秒を全部楽しんでいます。この年になって自分が大好きなこと、要するに演奏することを続けられるというのはとても光栄なことだと思っています。人生というのは意味があると思うのです。冬は暖かいところ、夏は涼しいところでテレビの前にすわってゲームをする、それが私にとって大事なことではありません。自分にとっては音楽をすること、音楽を愛すること、これが生きる意義なのです。音楽に対する飢えというものは、子どものころからまったく変わりません。常に渇望しているのです。この飢えというものは、けっして満たされることがない。音楽をしたいんです。それを生涯渇望しているわけです。これが、私の人生における意味なのだと思います」
彼は一日中、音楽と対峙しているわけだが、趣味といえば読書に限るという。
「そうそう、インディアナ大学は、バスケットが強いので、その試合結果は興味ありますね。趣味とはいえないかもしれませんが、桜が好きで、自然も大好きです。でも、自分の人生はすべて音楽のためにあります」
これまでの人生のなかで大きな影響を与えられたのは、師事した先生たち。そして、もうひとりは奥さまだそうだ。
「私の先生たちは、なぜかみんなブゾーニの弟子という共通点があります。本当にすばらしい先生に恵まれ、幸運でした。家内は私より頭がよく、6つの言語を使いこなし、本を読んでそれを全部覚えていられる。私の師のような人間です。一度、彼女が肺炎を起こしたとき、私はドイツにレコーディングにいかなくてはならなかった。私はいくのをキャンセルするといいました。でも、彼女は心配しないでと。あなたはふたりの子どものためにテレビディナー(米国の弁当型冷凍食品のこと)を買ってきてちょうだい。それさえ買ってきてくれたら、心配しないで仕事にいってというのです。そんなことをいってくれる奥さんがいるなんて、本当にラッキーなことですよ」
プレスラーのインタビューは、まさに至福のときを味わう時間だった。おだやかな笑みをたたえながらゆったりとしたテンポで話すプレスラーは、その演奏と同様、大きく温かな空気でまわりを包み込む。また、すぐにでも来日してほしいと願う。
メナヘム・プレスラーはトリオ解散後、ソリストとして多彩な活動を展開している。ソロ、コンチェルト、そして室内楽。とりわけ室内楽の分野では、さまざまな音楽家との共演を行っている。
「88歳のときに、スイスで行われているヴェルビエ音楽祭に招待されたのですが、そのときにドイツのリリックテノール、クリストフ・プレガルディエンからシューベルトの《冬の旅》のピアノ伴奏をしてくれないかといわれました。私は声楽のレパートリーは知らないんだけど、といったのですが、かなり熱心に申し込まれたため、共演することになりました。実際に演奏したら、これが大成功でした。その後、ドイツのバリトンのマティアス・ゲルネが私のベルリンでのコンサートを聴いて、電話をかけてきました。一緒にシューマンの歌曲集を演奏しないかと。そこでまた私は、声楽のレパートリーはあまり知らないといってお断りしようと思ったら、彼はこういったんですよ。″勉強すればいいんじゃない″って。これにはまいりましたね」
こういいながら、プレスラーはにこやかな笑顔を見せた。かなり年下の音楽家からずばりといわれたことで、最初は驚きを隠せなかったようだが、よく考えてみれば「なるほど」と納得したのだそうだ。ふつうは、なんと失礼なと怒るところだが、プレスラーはゲルネのことばを真摯に受け止め、共演が可能になった。もちろん、ゲルネはドイツ・リートの正統的な継承者としての実力の持ち主であり、このことばはジョークだったようだが…。
「音楽家の学びに終わりはないんですよね。それに改めて気づかされたのです。もちろんゲルネとの共演はすばらしいものでした。声楽家と共演して新たにわかったことですが、すべては音楽なんです。ジャンルは関係ありません。もちろん、人間の声は弦楽器とは異なり、呼吸が違います。ピアニストとして歌曲を演奏する場合は、その声楽家の呼吸を飲み込むことがもっとも大切になります。演奏する上での呼吸というものは、50年以上弦楽器と一緒に演奏していれば、自然に身についているものです。いい弦楽器奏者が何を表現しようとしているか、どんな音楽を目指しているのかはすべてわかっています」
現在は、オーケストラとの共演がもっとも多いそうで、さまざまなピアノ協奏曲を各地の名だたるオーケストラと演奏している。
「本当にコンチェルトが多いですね。世界中のオーケストラと共演していますが、リハーサルのときに私がここの部分はこういうふうにあるべきなんだけどというと、指揮者もオーケストラのみなさんも全員が私のいう通りに演奏してくれます。これは年をとったことのプラスでしょうか」
ここでまた、プレスラーはうれしそうに笑う。長年積み上げた熟成されたピアニズムとこの笑顔が、指揮者やオーケストラを一瞬にして説得してしまうゆえんだろう。
「もう一度いいますが、室内楽も声楽の伴奏もソロも、全部同じです。全部が音楽なんです。
50年以上続けてきたボザール・トリオとの作業は、純粋に音楽を探求していくことでした。その音楽が何を語っているのか、本当に深く探していたのです。私たち3人は、成功するためにそれをしていたのではなく、音楽のなかの″美″を見つけるためでした。演奏は仕事として行っていたのではなく、音楽に対する本当の愛があったからできたのだと思います。もともと音楽に対する愛情は十分にあったと思いますが、トリオを始めることにより、自分たちの感性というものがひたすら音楽に対する愛情に向かっていったわけです。もちろん、私の感性はいまも同じ方向を向いています。演奏は、人に見せるパフォーマンスではありません。音楽における愛情表現なのです。こういう考えで一途に演奏すると、そのパフォーマンスがよりよくなるから不思議ですよね。こういうことを、最近また強く感じるようになりました」
そんなプレスラーの新譜は、2013年5月にインディアナ大学で録音されたモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの「ピアノ作品集」。モーツァルトの「ロンド」イ短調K511は悲しみと喜びが混在した複雑な作品で、それをプレスラーは涙を隠しながらほほ笑みを見せるような微妙な表現で演奏。モーツァルトの真髄に迫っている。ベートーヴェンの「バガテル」作品126では、簡潔で明快な美しい響きを追求し、シンプルで素朴な表現に徹している。そしてシューベルトのピアノ・ソナタ第18番では、滋味豊かな心に響くピアニズムを披露し、ファンタジーあふれる繊細な歌を奏でていく。
すべてが熟成された音楽で、作品への深い洞察力が全面に現れ、心が洗われる思いだ。
今回の庄司紗矢香とのデュオ・リサイタルでは、メナヘム・プレスラーのソロによるアンコールが強い印象をもたらした。これは、事前に彼女と打ち合わせをしたのだろうか。
「いいえ、それはありません。別に話し合ったわけではないんですよ。彼女には彼女の曲があって、ヴァイオリンとピアノによるアンコールを弾いたわけです。そして私には私の曲がある。ノクターンもマズルカも、もう何回も弾いた曲で、長年の経験からこの曲は本当に人々に愛されているのだということがわかります。ですから、2曲弾いたのです。でも、けっして自分の技術を見せるためのアンコールではないんです。テクニックや表現力を必要とする作品は、すでにプログラムのなかで十分に弾いていますから。あなたのように、帰路に着くとき、この音楽の美しさというものを本当に深く感じながら帰っていただきたいと思ったわけです。日本でも過去に全国ツアーでこうしたショパンの作品は4、5回弾いていますが、聴衆の反応はみんな同じです。みなさん、私が曲に込めた愛情というものを本当に特別な拍手で表現してくれます」
それでは、今回の庄司紗矢香からの共演の申し込みに対し、プレスラーはどのように感じたのだろうか。
「本当のことをいうと、彼女のことは存じ上げていませんでした。彼女の友だちが私の非常に親しい友だちで、信頼している人間でしたので、彼からCDをもらい、それを聴いてすばらしいなと思ったのです。最初は、わざわざ日本までいってコンサートをする必要があるのかと考え、一度はお断りしたんですよ。でも、その友人から何度かアプローチがあり、紗矢香さんと直接会うことになりました。実際にお会いして話してみたら、なんて素敵な女性だろう、非常に共感がもてる人だと思ったのです。彼女は世界中の有名なオーケストラと共演するようなすぐれた演奏家で、成功したソリストです。でも、それでけっして満足することなく、本当の音楽は何なのか、それを探求していきたい、そういう考えをもっている音楽家でした」
プレスラーは共演を承諾し、ふたりはプログラムの構成に移った。
「私は、今回のプログラムは純粋な音楽、内面を追求する音楽を組みたいと考えました。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番でコンサートを終えるのは、とても勇気がいることです。でも、私は彼女に勇気というよりも意味のある終わり方なんだと話し、彼女も賛同してくれたわけです。彼女と共演する機会をもつことができ、本当によかったと思っています。紗矢香さんは日本の誇りと思える、日本人らしい日本人です。日本で最高といえば、世界の最高と同じですからね」 現在はこうしたデュオやソロ活動が多いプレスラーだが、長年ボザール・トリオの演奏に集中的に取り組んでいたのは、室内楽を演奏したいという思いがあったからだろうか。
「実は、トリオを始めたのは偶然のことなんですよ。私はもともとソリストでした。映画会社のMGMで録音していたんです。この会社は、アルトゥール・ルービンシュタインの《ソング・オブ・ラブ》というシューマンの映画の音楽などを録音していました。MGMがレコード会社まで立ち上げてしまったのです。私はルービンシュタインのレパートリーなどの再録音をしていたのですが、ある日、モーツァルトのトリオを録音したいなとディレクターに話したら、″じゃ、だれか見つけてきて録音したら″といわれました。そのとき家内と泊っていたニューヨークのホテルに、アルトゥーロ・トスカニーニとNBC交響楽団も泊っていたので、その友人にだれかいいヴァイオリニストはいないかと聞いたら、やはりコンサートマスターでしょうといわれ、ダニエル・ギレと会いました。彼を通してチェロのバーナード・グリーンハウスと出会うことができたのです。ふたりともすばらしい音楽家で、早速レコードを作ろうということになりました。ちょうどそのとき、タングルウッド音楽祭でベートーヴェン・チクルスが行われていたのですが、そのときのトリオがキャンセルしてしまったということで、急きょ私たちが出演し、初めてそこで演奏したのです。それが大成功に終わり、モーツァルトの録音をするまでに6回のコンサートが組まれていたのが、あれよあれよというまに70回まで増えてしまいました。気がついたら、ああ自分はトリオをやっているという感じでした(笑)」
それからはどんどんコンサートも入り、評判もうなぎのぼり。プレスラーはトリオで演奏するか、ソリストとしての道を歩むべきかという選択を迫られることになった。
「私はすばらしいふたりとこうした室内楽の演奏ができることに、何か特別な感情を抱いたのです。そこで、トリオの活動に専念をしようと決心しました」
近ごろ、こんなにも感動したリサイタルとインタビューがあっただろうか。
4月に来日し、ヴァイオリニストの庄司紗矢香とのデュオ・リサイタルを行ったピアニスト、メナヘム・プレスラーは、心の奥深く浸透する滋味豊かな演奏で私の涙腺をゆるめ、人間性でさらに強く魅了した。
プレスラーは1923年ドイツに生まれ、現在はアメリカを拠点に世界各地で活動を幅広く展開し、後進の指導にも意欲を示している。
庄司紗矢香との共演は、彼女がぜひ一緒に演奏したいと熱望したもので、ふたりはモーツァルト、シューマン、ブラームス、シューベルトの作品で見事に息の合ったデュオを披露し、まさに歴史的な共演を成功に導いた。
プレスラーは長年、室内楽を演奏するピアニストとして知られていた。1955年にヴァイオリンのダニエル・ギレ、チェロのバーナード・グリーンハウスとともにボザール・トリオを結成し、以後、2008年に解散するまで53年におよびトリオの分野で活躍した。
解散後は、ソリストとしての活動を開始。いまや世界各地の著名な指揮者、オーケストラからオファーが殺到、コンチェルトの演奏が多い。もちろんソロや室内楽も演奏し、90歳を過ぎてなお、精力的な演奏活動を展開している。
今回のデュオ・リサイタルでは、音量のけっして大きくないプレスラーの響きに合わせるように庄司紗矢香も音を抑制し、静けさに満ちたおだやかな演奏が聴き手の耳を開かせ、集中力を促した。
ときに幻想的でかろやかで歌心にあふれ、またあるときは両者の音の対話が非常に濃密で自由闊達な演奏となり、この上なく美しく情感豊かなデュオが披露された。
ふたりのアンコールも演奏されたが、実は、ここからが涙ものだった。プレスラーはソロのアンコールを2曲披露したのである。ショパンの「ノクターン第20番嬰ハ短調」と「マズルカ作品17-4」。馬車が行き交っていたショパンの時代をほうふつとさせるゆったりしたテンポ、あくまでも自然で適切なルバート、自分の存在ではなく、作曲家の偉大さを前面に押し出す解釈と表現法、すべてが完璧なる美を放っていた。
その演奏の余韻は翌日のインタビュー時まで残り、あまりにも深い感動を得たため、ついそれをストレートに口にしてしまった。
するとプレスラーは、柔和で温かく、ふんわりと大きく人を包み込むような笑顔を向け、うれしそうにいった。
「そうですか、うれしいですねえ。昨夜のノクターンを聴いていただき、私がいかにあの曲を愛しているかということをご理解していただけたら、演奏家冥利に尽きます」
そのノクターン第20番は、2012年に録音されたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番のアルバムの最後にひっそりと登場し、天上の響きを聴かせている。
プレスラーは、アメリカのインディアナ大学のディスティングイッシュド・プロフェッサーの地位にあり、1955年以来多くの生徒たちを教えている。彼のショパンを聴いたとき、こうしたショパンの伝統と様式にのっとった清涼で美しい演奏を生徒たちにいかなる方法で伝授しているのか、それを質問してみたかった。
なぜなら、昨今の国際コンクールやリサイタルでは、若手ピアニストのとても攻撃的でスピード感あふれる演奏が主体となっているからだ。この質問に対し、プレスラーはじっくりことばを選びながら静かに語り出した。
「本当に長い間さまざまな生徒を教えてきました。もちろん、生徒にはショパンの演奏がどうあるべきかを教えています。そこで大きな意義をもつのは、私はどうやってピアノを弾くかということを教えるのではなく、音楽のなかの何を見るべきなのか、ということを教えているということです。いまもまだ多くの生徒を抱えています。才能のある人もいればない人もいますよ。コンサートで弾くようになる人もいれば、田舎の町にいって教える仕事に就く人もいます。でも、どんな形で音楽にかかわるにしても、たとえ小さな村の音楽の先生になったとしても、大ホールで演奏する人と同じくらい音楽に対して愛情がなければいけません。私はそれを教えようとするのです。そのためには、自分が音楽に愛情を感じなければなりません。演奏会というのは、自分が楽器を弾けるのだと証明するための場ではけっしてありません。自分の音楽に対する愛情を表現する場なのです。これが、私がもっとも教えたいことなのです」