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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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大倉バス停→橋本駅北口 全170回の軌跡 

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やはり

2006.10.21が記念すべき第一回目は記憶に残ります

だが、いきなりではなく、三ケ木まではその前に少なくとも10回以上はやっていた

余裕があったら橋本まで行ってみようと言うことで

大倉バス停9:05:19-塔ノ岳10:29:45-11:45:24蛭ケ岳11:52:17-12:27:48姫次12:32:18-焼山13:02:56-13:35:17焼山登山口バス停13:43:12-三ケ木14:17:55-橋本駅北口15:24:30( 6:19:11)   


2   10.30   6:29:14

3   11.03   6:30:10

4   11.12   6:31:25

5   11:18   6:25:33

6   11:25   6:19:13

7   12:02   6:14:00

8   12:06   6:08:25   これは、自信になりました

2007年                この年は山中湖コースを10回だったので少ない

9   11.04   6:38:12

10  11:08   6:37:51   10

11  11:11   6:36:08

2008年                故障もあって少ない

12  08.17   6:56:53

13  09:28   6:29:01

14  10:04   6:44:58

15  10:11   6:46:54

16  11:01   6:28:50

17  11:03   6:21:39

18  11:08   6:35:43

2009年

19  01.02   6:01:42

20  01.04   5:56:10   20 

21  03:15   6:09:20

22  03:28   6:15:08

23  04:19   5:45:00  初めてTTを意識させた

24  04:29   6:01:33

25  05:02   5:50:08

26  09.12   6:22:07

27  09.22   6:40:24

28  10:04   6:08:47

29  10:10   6:44:48

30  10:17   6:12:09   30

31  11:23   6:12:53

32  11:28   6:16:44

33  12:29   5:46:56  蛭ケ岳(2:14:13)TTのついでで流した

2010年

34  01.02   6:22:58

35  01.11   6:15:50

36  01.17   6:51:10

37  01.30   6:22:05  「のまさん」と初めて一緒に

38  03.22   6:47:01

39  09.26   6:29:51

40  10.16   6.29:57   40

41  10.24   5:41:13

42  10:31   6:04:03

43  11:03   6:40:08

44  11.06   6:28:28

45  11:13   5:41:42

46  11:20   6:00:03 「甘栗さん」と初めて 姫次→焼山登山口

47  11.23   6:21:26

48  11:27   6:10:01

49  12:04   6:03:40

50  12:23   6:14:12   50

2011年
 
51  01.10   7:22:30

52  01.29   7:12:30

53  04.02   7:40:10

54  04:16   6:33:34

55  04:24   9:43:47  ユーシン→檜洞丸→神ノ川→袖平山→焼山登山口廻り

56  05:04   7:04:42

57  05.08   7:10:33

58  05:21   6:36:43

59  06:04   6:44:34

60  06:18   6:43:45   60

61  06:25   7:04:50

62  07:02   7:09:37

63  08:13   7:06:43

64  08:20   6:12:26

65  08:28   6:44:15

66  09:24   6:49:34

67  10:02   6:59:20

68  10:23   6:14:54

69  11:23   6:07:01

70  12.04   6:18:50   70

71  12:11   6:59:19

72  12:25   6:40:22

73  12:29   7:34:23

74  12.31   7:07:11

2012年

75 01.02   6:53:29

76 01.07   6:53:23

77 01.09   6:08:33  「のまさん」と2回目

78 01.14   6:50:01

79 04.15   6:19:36

80 05.04   6:43:28   80

81 05.05   6:53:55

82 05.20   6:28:57

83 05.26   7:50:14  渋沢駅発

84 06.02   6:41:44

85 06.14   6:28:00

86 06.17   7:08:48

87 06.23   6:56:53

88 06.30   6:51:57

89 07.14   7:31:41

90 07.15   6:39:55   90

91 07.21   7:36:43

92 07:28   6:42:50

93 08.04   6:46:44

94 08.12   6:12:10

95 08.16   7:43:28

96 08.19   6:40:44

97 08.25   6:56:25

98 09.01   6:27:46

99 09.08   6:49:35

100 09.17   6:13:14  100

101 09.22   6:10:41

102 09.26   6:09:29  

103 09.29   6:48:11

104 10.06   6:16:13

105 10.08   5:41:16

106 10:13   5:52:29

107 10.17   5:51:23

108 10.20   5:46:51

109 10.24   6:24:19

110 10.27   5:55:43

111 11:03   5:32:26 ☆

112 11:10   6:01:46  

113 11:17   5:51:54

114 11:24   6:05:11

115 11:27   6:36:11

116 12:01   6:16:41

117  12:08   5:31:51 ☆自己ベスト



118 12:24   6:27:01

119 12.31   7:09:57

2013年               タイムより回数狙いで、蛭ケ岳1000回を意識して
 
120 01.03   7:27:16  

121 01.05   7:14:58

122 01.12   7:29:17

123 01.13   6:55:05

124 01.30   8:29:18

125 02.09   9:09:56  東野経由

126 03.01   7:53:40

127 03.03   7:30:07

128 03.12   7:39:59

129 03.16   7:20:17   

130 03.20   7:24:15

131 04.04   7:10:52

132 04.07   6:51:28

133 04.11   6:36:01

134 04.29   6:08:31

135 05.12   6:43:03

136 06.01   7:22:45

137 06.02   8:09:16 ボッカ駅伝応援経由

138 06.08   6:30:32 「大海さん」「k野さん」と初めて

139 06.15   6:55:05  

140 06.22   6:58:27

141 06:29   6:41:08

142 06:30   7:31:31

143 07.06   8:03:03

144 07.15   7:46:41

145 07.27   7:44:20

146 07.28   7:51:46

147 08.25   7:24:00   
   
148 09.07   6:36:13  「kazeさん」と初めて

149 09.14   7:43:04  

150 09.23   6:22:31

151 09.28   5:58:25  「kazuさん」と初めて

152 09.29   7:17:03

153 10.05   8:10:46

154 10.13   7:07:56

155 10.14   7:30:19

156 10.19   6:12:51

157 10.22   6:49:30

158 10.27   6:02:40

159 11.02   6:15:27  

160 11.04   7:16:40

161 11.09   7:04:55

162 11.16   7:11:05

163 11.23   6:24:47

164 11.24   6:58:02

165 11.30   6:42:28

166 12.01   7:33:03

167 12.07   6:49:56

168 12.14   6:45:42

169 12.22   8:06:11  軟らかい新雪  

170 12.28   9:59:29  東野経由  積雪多し 蛭ケ岳998回目 



(ロード編) 焼山登山口→橋本駅北口 自己ベスト
2013-12-16 06:24:14 | 橋本駅コース
2013.12になってから

山は冬季シーズンとなり、やや悪路かな

全コースを通してのタイム・トライアルはやりにくくなりました


しかし

ロードに限っては

最適ロード・シーズンとなりました

暑くも寒くもなく

途中の給水も一回くらいで


今までの枠から

少し大きな目標を掲げてやっています


ここのところ

単独走ではなく

フル・マラソンの実力者に引っ張ってもらい

無理やり突っ込んでの入りで

やっています


2013.12.14(土)実施


大倉バス停→焼山登山口バス停までは5:10:43で


焼山登山口スタート

0:00  

梶野交差点

9:40

前戸バス停

12:23( 2:43)

橋野沢バス停

14:32( 2:09)

地蔵前バス停

17:29( 2:57)

鮑子取入口バス停

18:21( 0:52) 

衛生センター前バス停

23:29( 5:08) 

青山バス停

24:51( 1:22)

三ケ木新宿バス停

25:59( 1:08)

三ケ木交差点

28:25( 2:26)

大沢交差点

35:39( 7:14)

日赤病院前バス停

42:08( 6:29)

城山高校前バス停

53:20(11:12)

久保沢交差点

1:00:24( 7:04)

原宿交差点

1:04:47( 4:23)

東原宿交差点

1:06:54( 2:07)

二本松交差点

1:09:53( 2:59)

相原台交差点

1:13:50( 3:57)

橋本駅北口

1:20:58( 7:08)


私の記録ですが

ラスト2区間が惜しまれます

2つの交差点での信号待ちと踏み切り待ちでした

これだけがロス・タイムで

二本松交差点までは、ほぼ、自分の中では完璧ペース

東原宿交差点までは

前を走る「K野さん」の後姿もありましたが

信号で引っかかってしまい

その後見失いました

「K野さん」は川尻交差点で引っかかったのみで後はスルー

信号に引っかかるのも実力のうちです


この区間での

ロード最高記録は

「K野さん」の1:18:10となっています

2010.12.25(土) 塔ノ岳5本/1日 の記録  

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大倉バス停→橋本駅北口42回目 10.10/24(日)の記録


大倉バス停7:03:00-堀山ノ家7:48:44-塔ノ岳8:21:47-9:29:06蛭ケ岳9:32:24-11:07:46焼山登山口バス停11:10:18-三ケ木11:45:55-橋本駅北口12:44:13( 5:41:13)


0:00:00-1:18:47-2:26:06-4:04:46-4:42:55-5:41:13

10.11/13(土)


大倉バス停7:06:21-堀山ノ家7:52:31-塔ノ岳8:25:06-9:28:23蛭ケ岳9:33:03-11:03:33焼山登山口バス停11:09:44-三ケ木11:45:16-橋本駅北口12:48:03( 5:41:42)


0:00:00-1:18:45-2:22:02-3:57:12-4:38:55-5:41:42

10.12/23(土)

倉バス停7:03:04-堀山ノ家7:51:46-塔ノ岳8:26:05-9:32:57蛭ケ岳9:42:01-11:32:27焼山登山口バス停11:39:00-12:15:36三ケ木12:16:24-橋本駅北口13:17:16( 6:14:12)


これを経て

12/25

大倉ロッジ峠6:16:04-7:53:25塔ノ岳7:56:01-大倉ロッジ峠9:03:21(2:47:17)


大倉ロッジ峠9:13:21-10:39:10塔ノ岳10:42:31-大倉ロッジ峠11:51:34(2:38:13)


大倉ロッジ峠12:04:17-13:36:23塔ノ岳13:42:37-大倉ロッジ峠14:52:49(2:48:32)


大倉ロッジ峠15:12:49-16:53:39塔ノ岳16:59:54-大倉ロッジ峠18:21:54(3:09:05)


大倉ロッジ峠18:56:04-20:49:59塔ノ岳21:02:54-大倉ロッジ峠22:38:32(3:42:28)


ラスト5本目の頂上はクリスマス寒波で吹雪で氷点下10度でした



登り合計8:22:56  下り合計6:24:13  計14:34:14 休憩計1:48:14


12/30


大倉ロッジ峠6:31:25-8:03:13塔ノ岳8:08:08-大倉ロッジ峠9:11:52(2:40:27)


大倉ロッジ峠9:26:30-10:50:29塔ノ岳10:54:49-大倉ロッジ峠11:51:30(2:25:00)


大倉ロッジ峠12:05:30-13:23:21塔ノ岳13:26:48-大倉ロッジ峠14:18:15(2:12:45)


大倉ロッジ峠14:31:15-16:00:05塔ノ岳16:17:50-大倉ロッジ峠17:27:17(2:56:02)





25も30も別々の格上のトレランさんと一緒の行動でした


11.1/8


大倉ロッジ峠6:16:00-7:43:51塔ノ岳7:47:26-大倉ロッジ峠8:41:53(2:25:53)


大倉ロッジ峠8:54:00-10:10:42塔ノ岳10:13:18-大倉ロッジ峠11:05:04(2:11:04)


大倉ロッジ峠11:14:00-12:30:21塔ノ岳12:33:32-大倉ロッジ峠13:29:27(2:15:27)


大倉ロッジ峠13:41:27-15:09:29塔ノ岳15:15:17-大倉ロッジ峠16:08:32(2:27:05)



今思えば下りが素晴らしかったです


これから7年の時が経ち、下りはボロボロです


車をベースにして塔ノ岳を一日複数回やっていた頃です

かつての山の思い出

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2003.8.02

折立8:32:20-10:19:55太郎平小屋10:29:26-11:43:25薬師沢小屋11:58:02-高天原小屋14:57:17(6:24:57)

8.03

高天原小屋4:45:12-温泉沢ノ頭6:40:54-8:01:06赤牛岳8:29:04-10:09:55水晶岳10:16:06-鷲羽岳11:39:11-12:22:09三俣山荘13:09:01-黒部五郎小屋15:03:14(10:18:02)

8.04

黒部五郎小屋4:30:00-5:55:56黒部五郎岳6:31:02-9:05:43太郎平小屋9:31:06-折立10:45:31(6:15:31)

9.27

猿倉5:56:14-9:17:18白馬岳9:26:52-12:43:37不帰岳避難小屋13:03:42-祖母谷温泉15:55:14(9:59:00)

9.28

祖母谷温泉7:13:35-10:56:45阿曽原温泉11:07:47-13:34:20仙人温泉13:50:08-仙人池15:04:08()
7:50:33)

9.29

仙人池6:32:54-8:49:12ハシゴ谷乗越8:56:52-黒四ダム12:29:18(5:56:24)



1993.8.14

高瀬ダム6:53-9:28烏帽子小屋10:05-三俣山荘16:01

8.15

三俣山荘5:55-11:13槍岳山荘12:36-南岳小屋14:00

8.16

南岳小屋4:55-7:43北穂小屋8:30-9:45涸沢小屋10:32-横尾12:00-河童橋13:40

2007.6.23

女神茶屋4:16:00-蓼科山5:24:31-北横岳7:13:07-麦草峠8:45:27-夏沢峠11:18:12-13:11:51赤岳13:34:06-15:35:45編笠山15:45:46-小淵沢駅17:37:18(13:21:18)




2007.3.31


大倉4:35:00-蛭ケ岳7:47:48-檜洞丸9:16:31-大室山11:14:29-菰釣山14:00:08-高指山15:38:19-旭日丘16:43:53(12:08:53)


2007.4.7

大倉3:33:00-蛭ケ岳6:56:15-檜洞丸8:31:50-大室山10:30:15-菰釣山13:20:48-高指山15:05:28-旭日丘16:16:07(12:46:07)


2007.4.13

大倉3:49:00-蛭ケ岳6:56:42-檜洞丸8:27:50-大室山10:21:35-菰釣山13:02:44-高指山14:41:33-旭日丘15:41:09(11:52:09)


2007.4.29


大倉4:22:00-蛭ケ岳7:33:06-檜洞丸9:03:30-大室山10:58:04-菰釣山13:52:21-高指山15:32:14-旭日丘16:43:53(12:08:53)

2007.5.4

大倉4:26:00-蛭ケ岳7:20:07-檜洞丸8:51:00-大室山10:48:38-菰釣山13:43:56-高指山15:31:12-旭日丘16:22:21(11:56:21)


2007.5.12

大倉4:13:40-蛭ケ岳7:17:07-檜洞丸8:53:33-大室山10:48:01-菰釣山13:47:20-高指山15:27:16-旭日丘16:43:53(12:05:39)

2007.5.20


大倉4:28:00-蛭ケ岳7:21:39-檜洞丸8:46:50-大室山10:31:19-菰釣山13:16:10-高指山14:56:07-旭日丘15:39:31(11:11:31)


2007.6.2

大倉5:28:00-蛭ケ岳8:10:03-檜洞丸9:36:22-大室山11:17:25-菰釣山14:09:14-山伏峠15:31:29-旭日丘16:19:40(10:51:40) 水切れ


2009.5.9

大倉4:02:00-蛭ケ岳6:57:27-檜洞丸8:30:25-大室山10:20:52-菰釣山13:12:54-高指山15:02:36-旭日丘15:56:38(11:54:38)



2009.5.16

大倉3:58:55-蛭ケ岳7:13:42-檜洞丸8:43:49-大室山10:34:54-菰釣山13:23:38-高指山15:03:43-旭日丘15:56:57(11:58:02)


2009.5.30

大倉4:48:11-蛭ケ岳7:54:39-檜洞丸9:25:58-大室山11:21:30-菰釣山14:13:32-高指山16:01:09-旭日丘16:53:14(12:05:03)


2009.8.19

広河原6:33:00-北岳8:48:48-大門沢下降点12:19:55-奈良田15:08:01(8:35:01)


2009.11.21

大倉7:13:34-蛭ケ岳9:51:08-檜洞丸11:19:32-ユーシン12:56:06-雨山峠13:34:45-塔ノ岳14:48:19-大倉15:45:50(8:32:16)


2009.12.29

大倉バス停7:07:11-蛭ケ岳9:21:22-焼山登山口11:06:57-橋本駅12:54:07(6:46:56)










2016 八王子ロングディスタンス  エントリーリスト  最終組は17:00出走

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2016 八王子ロングディスタンス

レースプログラム

12:45~ 男子 10000m1組(G)
13:30~ 男子 10000m2組(F)
14:15~ 男子 10000m3組(E)
15:00~ 男子 10000m4組(D)
15:40~ 男子 10000m5組(C)
16:20~ 男子 10000m6組(B)
17:00~ 男子 10000m7組(A)
2016 八王子ロングディスタンス 要項

1.主催 東日本実業団陸上競技連盟、八王子市陸上競技協会
2.主管 八王子市陸上競技協会
3.後援 公益財団法人東京陸上競技協会
4.協賛 東日本旅客鉄道(株)、(株)明治、(株)クレーマージャパン
5.協力 法政大学陸上競技部
6.運営協力 コニカミノルタ陸上競技部、各社
7.日時 2016年11月26日(土)12時45分開始予定
8.会場 法政大学多摩校地陸上競技場
〒194-0298 東京都町田市相原町4342
【JR線西八王子駅・相原駅、京王線めじろ台駅からバスで約10~20分】
※会場に駐車場はございません





男子10000m
WR:26分17秒53 K・ベケレ(エチオピア) 2005
NR:27分29秒69 村山紘太(旭化成)2015
10000m7組(A)

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目標 27分45秒 PM:182 ビタン カロキ(DeNA)
No. 氏名 所属
186 ジェームス ムワンギ NTN 三重
200 マミヨ ヌグセ 安川電機 福岡
13 ロジャース シュモ ケモイ 愛三工業 愛知
68 村山 紘太 旭化成 宮崎
141 ベナード キマニ ヤクルト 東京
76 テレッサ ニャコラ マツダ 広島
67 村山 謙太 旭化成 宮崎
14 パトリック ムエンド ムワカ 愛三工業 愛知
210 設楽 悠太 Honda 埼玉
90 カッサ マカショウ 八千代工業 埼玉
66 大六野 秀畝 旭化成 宮崎
32 アレクサンダー ムティソ NDソフト 山形
228 サムエル ムワンギ コニカミノルタ 東京
73 ダニエル キプケモイ 西鉄 福岡
65 市田 孝 旭化成 宮崎
120 パトリック マゼンゲ ワンブィ 日本大学 東京
74 アンドリュー バンバロウ バウマン・トラック・クラブ アメリカ
75 クリス デリック バウマン・トラック・クラブ アメリカ
236 ロナルド ケモイ 小森コーポレーション 茨城
206 ゲノ アルフレッド 日清食品グループ 東京
19 中村 匠吾 富士通 千葉
225 設楽 啓太 コニカミノルタ 東京
219 浅岡 満憲 日立物流 千葉
104 サイラス キンゴリ SGホールディングスグループ 京都
70 サイモン カリウキ 日本薬科大学 埼玉
106 大石 港与 トヨタ自動車 愛知
182 ビタン カロキ DeNA 東京

10000m6組(B)

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目標 27分台   PM:213 ウィリアム マレル(Honda)
No. 氏名 所属
169 竹澤 健介 住友電工 兵庫
127 ダニエル ムイバ キトニー カネボウ 東京
110 早川 翼 トヨタ自動車 愛知
88 猪浦 舜 八千代工業 埼玉
113 松本 稜 トヨタ自動車 愛知
190 堂本 尚寛 JR東日本 東京
212 山中 秀仁 Honda 埼玉
228 工藤 有生 駒澤大学 広島
224 菊地 賢人 コニカミノルタ 東京
64 服部 弾馬 東洋大学 埼玉
140 デビット ジュグナ ヤクルト 東京
24 ジョセフ ジェンガ 富士通 千葉
77 ベケレ シフェラウ マツダ 広島
38 中川 智春 トーエネック 愛知
204 矢野 圭吾 日清食品グループ 東京
51 相葉 直紀 中電工 広島
205 戸田 雅稀 日清食品グループ 東京
22 潰滝 大記 富士通 千葉
213 ウィリアム マレル Honda 埼玉

10000m5組(C)

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目標 28分15~20秒   PM:216 ジョナサン ディク(日立物流)
No. 氏名 所属
201 アッバイナ デグ 安川電機 福岡
149 ムソニ ムイル 創価大学 東京
138 小椋 裕介 ヤクルト 東京
203 ジュリアス タンキ MHPS 長崎
17 星 創太 富士通 千葉
123 青木 優 カネボウ 東京
145 藤川 拓也 中国電力 広島
111 田中 秀幸 トヨタ自動車 愛知
86 甲斐 翔太 八千代工業 埼玉
132 高宮 祐樹 ヤクルト 東京
220 栁 利幸 日立物流 千葉
48 吉元 真司 黒崎播磨 福岡
142 米澤 類 中国電力 広島
198 荻野 眞乃介 JR東日本 東京
59 上村 和生 大塚製薬 徳島
170 伊藤 和麻 住友電工 兵庫
16 堀合 修平 愛三工業 愛知
60 髙橋 裕太 大塚製薬 徳島
202 定方 俊樹 MHPS 長崎
1 シテキ スタンレイ 東京国際大学 埼玉
125 文元 慧 カネボウ 東京
108 藤本 拓 トヨタ自動車 愛知
238 大塚 祥平 駒澤大学 大分
80 川崎 友輝 サンベルクス 東京
25 丸山 竜也 専修大学 千葉
37 河合 代二 トーエネック 愛知
89 柳原 貴大 八千代工業 埼玉
216 ジョナサン ディク 日立物流 千葉

10000m4組(D)

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目標 28分30秒   PM:23 ジョン マイナ(富士通)
No. 氏名 所属
117 山本 修平 トヨタ自動車 愛知
167 タイタス ワロル コモディイイダ 東京
183 高木 登志夫 DeNA 東京
144 竹内 一輝 中国電力 広島
157 篠藤 淳 山陽特殊製鋼 兵庫
97 大池 達也 トヨタ紡織 愛知
153 渡辺 力将 NTT西日本 大阪
99 西山 凌平 トヨタ紡織 愛知
15 山口 浩勢 愛三工業 愛知
136 髙久 龍 ヤクルト 東京
95 白栁 智也 トヨタ紡織 愛知
85 北澤 健太 八千代工業 埼玉
49 小山 大介 中電工 広島
143 清谷 匠 中国電力 広島
71 篠原 義裕 西鉄 福岡
217 田口 大貴 日立物流 千葉
44 後沢 広大 YKK 富山
171 村本 一樹 住友電工 兵庫
114 宮脇 千博 トヨタ自動車 愛知
184 木津 晶夫 DeNA 東京
47 久井原 歩 黒崎播磨 福岡
185 須河 宏紀 DeNA 東京
63 伊藤 弘毅 アサヒGHD 東京
226 西池 和人 コニカミノルタ 東京
115 松本 賢太 トヨタ自動車 愛知
41 山田 直弘 YKK 富山
101 松田 佑太 SGホールディングスグループ 京都
155 馬場 翔大 NTT西日本 大阪
54 松尾 修治 中電工 広島
69 山藤 篤司 神奈川大学 愛知
237 永山 博基 早稲田大学 埼玉
23 ジョン マイナ 富士通 千葉

10000m3組(E)

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目標 28分40秒   PM:91 アビヨット アビネット(八千代工業)
No. 氏名 所属
211 服部 翔大 Honda 埼玉
56 二岡 康平 中電工 広島
122 大西 一輝 カネボウ 東京
128 加藤 徳一 ヤクルト 東京
29 鈴木 駿 NDソフト 山形
72 冨田 三貴 西鉄 福岡
121 松藤 大輔 カネボウ 東京
221 牟田 祐樹 日立物流 千葉
148 大山 憲明 創価大学 福岡
180 塩谷 桂大 SUBARU 群馬
214 市川 孝徳 日立物流 千葉
154 竹ノ内 佳樹 NTT西日本 大阪
102 橋爪 孝安 SGホールディングスグループ 京都
194 黒川 翔矢 JR東日本 東京
235 金森 寛人 小森コーポレーション 茨城
107 井上 翔太 トヨタ自動車 愛知
134 山﨑 翔太 ヤクルト 東京
105 外丸 和輝 トヨタ自動車 愛知
87 千葉 一慶 八千代工業 埼玉
5 佐藤 達也 警視庁 東京
130 池田 宗司 ヤクルト 東京
58 西山 容平 大塚製薬 徳島
94 山田 稜 八千代工業 埼玉
116 伊藤 祐哉 トヨタ自動車 愛知
173 山﨑 敦史 SUBARU 群馬
135 福士 優太朗 ヤクルト 東京
124 代田 修平 カネボウ 東京
7 安島 慎吾 警視庁 東京
62 佐久間 建 自衛隊体育学校 埼玉
146 松井 智靖 中国電力 広島
151 益田 賢太朗 NTT西日本 大阪
46 小山 直城 東京農業大学 埼玉
112 藤井 啓介 トヨタ自動車 愛知
96 塩田 好彬 トヨタ紡織 愛知
192 寺田 夏生 JR東日本 東京
223 撹上 宏光 コニカミノルタ 東京
197 大隅 裕介 JR東日本 東京
188 高谷 将弘 JR東日本 東京
119 石川 颯真 日本大学 栃木
109 松原 健太 トヨタ自動車 愛知
61 飛松 佑輔 鹿児島城西AC 鹿児島
91 アビヨット アビネット 八千代工業 埼玉

10000m2組(F)

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目標 28分50秒   PM:181 レダマ ウェズレイ(SUBARU)
No. 氏名 所属
209 前田 悠貴 Honda 埼玉
133 西村 知修 ヤクルト 東京
193 加藤 光 JR東日本 東京
208 上野 渉 Honda 埼玉
100 濵野 秀 トヨタ紡織 愛知
131 清水 和朗 ヤクルト 東京
40 末上 哲平 YKK 富山
94 山田 速人 トヨタ紡織 愛知
43 山本 拓己 YKK 富山
160 木田 貴大 コモディイイダ 東京
39 村刺 厚介 YKK 富山
207 齋藤 勇人 Honda 埼玉
126 田中 孝貴 カネボウ 東京
150 関戸 雅輝 NTT西日本 大阪
53 大﨑 翔也 中電工 広島
231 佐藤 寛才 小森コーポレーション 茨城
215 日下 佳祐 日立物流 千葉
139 勝亦 祐太 ヤクルト 東京
28 渡邉 清紘 NDソフト 山形
30 近並 郷 NDソフト 山形
156 山村 隼 NTT西日本 大阪
103 沖守 怜 SGホールディングスグループ 京都
6 佐藤 辰準 警視庁 東京
52 牧野 俊紀 中電工 広島
26 川南 友佑 大阪ガス 大阪
232 橋本 隆光 小森コーポレーション 茨城
187 長谷川 清勝 JR東日本 東京
57 松本 葵 大塚製薬 徳島
137 八木沢 元樹 ヤクルト 東京
78 山下 侑哉 サンベルクス 東京
55 西岡 喬介 中電工 広島
81 大西 淳貴 サンベルクス 東京
2 松田 憲彦 警視庁 東京
195 斉藤 翔太 JR東日本 東京
36 合田 佳功 NTT東京 東京
163 渡邊 晋史 コモディイイダ 東京
164 松枝 啓太 コモディイイダ 東京
191 横山 拓也 JR東日本 東京
162 五郎谷 俊 コモディイイダ 東京
227 長谷川 令 コニカミノルタ 東京
176 牧 良輔 SUBARU 群馬
178 小山 司 SUBARU 群馬
218 竹内 竜真 日立物流 千葉
174 吉田 憲正 SUBARU 群馬
181 レダマ ウェズレイ SUBARU 群馬

とっておきの選りすぐりの山

どうして日本が止めないかというと、日本にはいったん決めたことを途中で止める勇気がないからで、この国が途中で止める勇気がないというのは非常に怖いです。

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素人が造る原発

 原発でも、原子炉の中に針金が入っていたり、配管の中に道具や工具を入れたまま配管をつないでしまったり、いわゆる人が間違える事故、ヒューマンエラーがあまりにも多すぎます。それは現場にブロの職人が少なく、いくら設計が立派でも、設計通りには造られていないからです。机上の設計の議論は、最高の技量を持った職人が施工することが絶対条件です。しかし、原発を造る人がどんな技量を持った人であるのか、現場がどうなっているのかという議論は1度もされたことがありません。

 原発にしろ、建設現場にしろ、作業者から検査官まで総素人によって造られているのが現実ですから、原発や新幹線、高速道路がいつ大事故を起こしても、不思議ではないのです。

 日本の原発の設計も優秀で、二重、三重に多重防護されていて、どこかで故障が起きるとちゃんと止まるようになっています。しかし、これは設計の段階までです。施工、造る段階でおかしくなってしまっているのです。

 仮に、自分の家を建てる時に、立派な一級建築士に設計をしてもらっても、大工や左官屋の腕が悪かったら、雨漏りはする、建具は合わなくなったりしますが、残念ながら、これが日本の原発なのです。

例えば、東京電力の福島原発では、針金を原子炉の中に落としたまま運転していて、1歩間違えば、世界中を巻き込むような大事故になっていたところでした。本人は針金を落としたことは知っていたのに、それがどれだけの大事故につながるかの認識は全然なかったのです。そういう意味では老朽化した原発も危ないのですが、新しい原発も素人が造るという意味で危ないのは同じです。

 現場に職人が少なくなってから、素人でも造れるように、工事がマニュアル化されるようになりました。マニュアル化というのは図面を見て作るのではなく、工場である程度組み立てた物を持ってきて、現場で1番と1番、2番と2番というように、ただ積木を積み重ねるようにして合わせていくんです。そうすると、今、自分が何をしているのか、どれほど重要なことをしているのか、全く分からないままに造っていくことになるのです。こういうことも、事故や故障がひんぱんに起こるようになった原因のひとつです。

 また、原発には放射能の被曝の問題があって後継者を育てることが出来ない職場なのです。原発の作業現場は暗くて暑いし、防護マスクも付けていて、互いに話をすることも出来ないような所ですから、身振り手振りなんです。これではちゃんとした技術を教えることができません。それに、いわゆる腕のいい人ほど、年問の許容線量を先に使ってしまって、中に入れなくなります。だから、よけいに素人でもいいということになってしまうんです。

 また、例えば、溶接の職人ですと、目がやられます。30歳すぎたらもうだめで、細かい仕事が出来なくなります。そうすると、細かい仕事が多い石油プラントなどでは使いものになりませんから、だったら、まあ、日当が安くても、原発の方にでも行こうかなあということになります。

 皆さんは何か勘違いしていて、原発というのはとても技術的に高度なものだと思い込んでいるかも知れないけれど、そんな高級なものではないのです。

 ですから、素人が造る原発ということで、原発はこれから先、本当にどうしようもなくなってきます。

名ばかりの検査・検査官

 原発を造る職人がいなくなっても、検査をきっちりやればいいという人がいます。しかし、その検査体制が問題なのです。出来上がったものを見るのが日本の検査ですから、それではダメなのです。検査は施工の過程を見ることが重要なのです。

 検査官が溶接なら溶接を、「そうではない。よく見ていなさい。このようにするんだ」と自分でやって見せる技量がないと本当の検査にはなりません。そういう技量の無い検査官にまともな検査が出来るわけがないのです。メーカーや施主の説明を聞き、書類さえ整っていれば合格とする、これが今の官庁検査の実態です。

 原発の事故があまりにもひんぱんに起き出したころに、運転管理専門官を各原発に置くことが閣議で決まりました。原発の新設や定検(定期検査)のあとの運転の許可を出す役人です。私もその役人が素人だとは知っていましたが、ここまでひどいとは知らなかったです。

 というのは、水戸で講演をしていた時、会場から「実は恥ずかしいんですが、まるっきり素人です」と、科技庁(科学技術庁)の者だとはっきり名乗って発言した人がいました。その人は「自分たちの職場の職員は、被曝するから絶対に現場に出さなかった。折から行政改革で農水省の役人が余っているというので、昨日まで養蚕の指導をしていた人やハマチ養殖の指導をしていた人を、次の日には専門検査官として赴任させた。そういう何にも知らない人が原発の専門検査官として運転許可を出した。美浜原発にいた専門官は三か月前までは、お米の検査をしていた人だった」と、その人たちの実名を挙げて話してくれました。このようにまったくの素人が出す原発の運転許可を信用できますか。

 東京電力の福島原発で、緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動した大事故が起きたとき、読売新聞が「現地専門官カヤの外」と報道していましたが、その人は、自分の担当している原発で大事故が起きたことを、次の日の新聞で知ったのです。なぜ、専門官が何も知らなかったのか。それは、電力会社の人は専門官がまったくの素人であることを知っていますから、火事場のような騒ぎの中で、子どもに教えるように、いちいち説明する時間がなかったので、その人を現場にも入れないで放って置いたのです。だから何も知らなかったのです。

 そんないい加減な人の下に原子力検査協会の人がいます。この人がどんな人かというと、この協会は通産省を定年退職した人の天下り先ですから、全然畑違いの人です。この人が原発の工事のあらゆる検査の権限を持っていて、この人の0Kが出ないと仕事が進まないのですが、検査のことはなにも知りません。ですから、検査と言ってもただ見に行くだけです。けれども大変な権限を持っています。この協会の下に電力会社があり、その下に原子炉メーカーの日立・東芝・三菱の三社があります。私は日立にいましたが、このメーカーの下に工事会社があるんです。つまり、メーカーから上も素人、その下の工事会社もほとんど素人ということになります。だから、原発の事故のことも電力会社ではなく、メー力-でないと、詳しいことは分からないのです。

 私は現役のころも、辞めてからも、ずっと言っていますが、天下りや特殊法人ではなく、本当の第三者的な機関、通産省は原発を推進しているところですから、そういう所と全く関係のない機関を作って、その機関が検査をする。そして、検査官は配管のことなど経験を積んだ人、現場のたたき上げの職人が検査と指導を行えば、溶接の不具合や手抜き工事も見抜けるからと、一生懸命に言ってきましたが、いまだに何も変わっていません。このように、日本の原発行政は、余りにも無責任でお粗末なものなんです。

いいかげんな原発の耐震設計

 阪神大震災後に、慌ただしく日本中の原発の耐震設計を見直して、その結果を九月に発表しましたが、「どの原発も、どんな地震が起きても大丈夫」というあきれたものでした。私が関わった限り、初めのころの原発では、地震のことなど真面目に考えていなかったのです。それを新しいのも古いのも一緒くたにして、大丈夫だなんて、とんでもないことです。1993年に、女川原発の一号機が震度4くらいの地震で出力が急上昇して、自動停止したことがありましたが、この事故は大変な事故でした。なぜ大変だったかというと、この原発では、1984年に震度5で止まるような工事をしているのですが、それが震度5ではないのに止まったんです。わかりやすく言うと、高速道路を運転中、ブレーキを踏まないのに、突然、急ブレーキがかかって止まったと同じことなんです。これは、東北電力が言うように、止まったからよかった、というような簡単なことではありません。5で止まるように設計されているものが4で止まったということは、5では止まらない可能性もあるということなんです。つまり、いろんなことが設計通りにいかないということの現れなんです。

 こういう地震で異常な止まり方をした原発は、1987年に福島原発でも起きていますが、同じ型の原発が全国で10もあります。これは地震と原発のことを考えるとき、非常に恐ろしいことではないでしょうか。

定期点検工事も素人が

 原発は1年くらい運転すると、必ず止めて検査をすることになっていて、定期検査、定検といっています。原子炉には70気圧とか、150気圧とかいうものすごい圧力がかけられていて、配管の中には水が、水といっても300℃もある熱湯ですが、水や水蒸気がすごい勢いで通っていますから、配管の厚さが半分くらいに薄くなってしまう所もあるのです。そういう配管とかバルブとかを、定検でどうしても取り替えなくてはならないのですが、この作業に必ず被曝が伴うわけです。

 原発は一回動かすと、中は放射能、放射線でいっぱいになりますから、その中で人間が放射線を浴びながら働いているのです。そういう現場へ行くのには、自分の服を全部脱いで、防護服に着替えて入ります。防護服というと、放射能から体を守る服のように聞こえますが、そうではないんですよ。放射線の量を計るアラームメーターは防護服の中のチョッキに付けているんですから。つまり、防護服は放射能を外に持ち出さないための単なる作業着です。作業している人を放射能から守るものではないのです。だから、作業が終わって外に出る時には、パンツー枚になって、被曝していないかどうか検査をするんです。体の表面に放射能がついている、いわゆる外部被曝ですと、シャワーで洗うと大体流せますから、放射能がゼロになるまで徹底的に洗ってから、やっと出られます。

 また、安全靴といって、備付けの靴に履き替えますが、この靴もサイズが自分の足にきちっと合うものはありませんから、大事な働く足元がちゃんと定まりません。それに放射能を吸わないように全面マスクを付けたりします。そういうかっこうで現場に入り、放射能の心配をしながら働くわけですから、実際、原発の中ではいい仕事は絶対に出来ません。普通の職場とはまったく違うのです。

 そういう仕事をする人が95%以上まるっきりの素人です。お百姓や漁師の人が自分の仕事が暇な冬場などにやります。言葉は悪いのですが、いわゆる出稼ぎの人です。そういう経験のない人が、怖さを全く知らないで作業をするわけです。

 例えば、ボルトをネジで締める作業をするとき、「対角線に締めなさい、締めないと漏れるよ」と教えますが、作業する現場は放射線管理区域ですから、放射能がいっぱいあって最悪な所です。作業現場に入る時はアラームメーターをつけて入りますが、現場は場所によって放射線の量が違いますから、作業の出来る時間が違います。分刻みです。

 現場に入る前にその日の作業と時間、時間というのは、その日に浴びてよい放射能の量で時間が決まるわけですが、その現場が20分間作業ができる所だとすると、20分経つとアラ-ムメーターが鳴るようにしてある。だから、「アラームメーターが鳴ったら現場から出なさいよ」と指示します。でも現場には時計がありません。時計を持って入ると、時計が放射能で汚染されますから腹時計です。そうやって、現場に行きます。

 そこでは、ボルトをネジで締めながら、もう10分は過ぎたかな、15分は過ぎたかなと、頭はそっちの方にばかり行きます。アラームメーターが鳴るのが怖いですから。アラームメーターというのはビーッととんでもない音がしますので、初めての人はその音が鳴ると、顔から血の気が引くくらい怖いものです。これは経験した者でないと分かりません。ビーッと鳴ると、レントゲンなら何十枚もいっぺんに写したくらいの放射線の量に当たります。ですからネジを対角線に締めなさいと言っても、言われた通りには出来なくて、ただ締めればいいと、どうしてもいい加滅になってしまうのです。すると、どうなりますか。

放射能垂れ流しの海

 冬に定検工事をすることが多いのですが、定検が終わると、海に放射能を含んだ水が何十トンも流れてしまうのです。はっきり言って、今、日本列島で取れる魚で、安心して食べられる魚はほとんどありません。日本の海が放射能で汚染されてしまっているのです。

 海に放射能で汚れた水をたれ流すのは、定検の時だけではありません。原発はすごい熱を出すので、日本では海水で冷やして、その水を海に捨てていますが、これが放射能を含んだ温排水で、一分間に何十トンにもなります。

 原発の事故があっても、県などがあわてて安全宣言を出しますし、電力会社はそれ以上に隠そうとします。それに、国民もほとんど無関心ですから、日本の海は汚れっぱなしです。

 防護服には放射性物質がいっぱいついていますから、それを最初は水洗いして、全部海に流しています。排水口で放射線の量を計ると、すごい量です。こういう所で魚の養殖をしています。安全な食べ物を求めている人たちは、こういうことも知って、原発にもっと関心をもって欲しいものです。このままでは、放射能に汚染されていないものを選べなくなると思いますよ。

 数年前の石川県の志賀原発の差止め裁判の報告会で、八十歳近い行商をしているおばあさんが、こんな話をしました。「私はいままで原発のことを知らなかった。今日、昆布とわかめをお得意さんに持っていったら、そこの若奥さんに「悪いけどもう買えないよ、今日で終わりね、志賀原発が運転に入ったから」って言われた。原発のことは何も分からないけど、初めて実感として原発のことが分かった。どうしたらいいのか」って途方にくれていました。みなさんの知らないところで、日本の海が放射能で汚染され続けています。

内部被爆が一番怖い

 原発の建屋の中は、全部の物が放射性物質に変わってきます。物がすべて放射性物質になって、放射線を出すようになるのです。どんなに厚い鉄でも放射線が突き抜けるからです。体の外から浴びる外部被曝も怖いですが、一番怖いのは内部被曝です。

 ホコリ、どこにでもあるチリとかホコリ。原発の中ではこのホコリが放射能をあびて放射性物質となって飛んでいます。この放射能をおびたホコリが口や鼻から入ると、それが内部被曝になります。原発の作業では片付けや掃除で一番内部被曝をしますが、この体の中から放射線を浴びる内部被曝の方が外部被曝よりもずっと危険なのです。体の中から直接放射線を浴びるわけですから。

 体の中に入った放射能は、通常は、三日くらいで汗や小便と一緒に出てしまいますが、三日なら三日、放射能を体の中に置いたままになります。また、体から出るといっても、人間が勝手に決めた基準ですから、決してゼロにはなりません。これが非常に怖いのです。どんなに微量でも、体の中に蓄積されていきますから。

 原発を見学した人なら分かると思いますが、一般の人が見学できるところは、とてもきれいにしてあって、職員も「きれいでしょう」と自慢そうに言っていますが、それは当たり前なのです。きれいにしておかないと放射能のホコリが飛んで危険ですから。

 私はその内部被曝を百回以上もして、癌になってしまいました。癌の宣告を受けたとき、本当に死ぬのが怖くて怖くてどうしようかと考えました。でも、私の母が何時も言っていたのですが、「死ぬより大きいことはないよ」と。じゃ死ぬ前になにかやろうと。原発のことで、私が知っていることをすべて明るみに出そうと思ったのです。

普通の職場環境とは全く違う

 放射能というのは蓄積します。いくら徴量でも十年なら十年分が蓄積します。これが怖いのです。日本の放射線管理というのは、年間50ミリシーベルトを守ればいい、それを越えなければいいという姿勢です。

 例えば、定検工事ですと三ケ月くらいかかりますから、それで割ると一日分が出ます。でも、放射線量が高いところですと、一日に五分から七分間しか作業が出来ないところもあります。しかし、それでは全く仕事になりませんから、三日分とか、一週間分をいっぺんに浴びせながら作業をさせるのです。これは絶対にやってはいけない方法ですが、そうやって10分間なり20分間なりの作業ができるのです。そんなことをすると白血病とかガンになると知ってくれていると、まだいいのですが……。電力会社はこういうことを一切教えません。

 稼動中の原発で、機械に付いている大きなネジが一本緩んだことがありました。動いている原発は放射能の量が物凄いですから、その一本のネジを締めるのに働く人三十人を用意しました。一列に並んで、ヨーイドンで七メートルくらい先にあるネジまで走って行きます。行って、一、二、三と数えるくらいで、もうアラームメーターがビーッと鳴る。中には走って行って、ネジを締めるスパナはどこにあるんだ?といったら、もう終わりの人もいる。ネジをたった一山、二山、三山締めるだけで百六十人分、金額で四百万円くらいかかりました。

 なぜ、原発を止めて修理しないのかと疑問に思われるかもしれませんが、原発を一日止めると、何億円もの損になりますから、電力会社は出来るだけ止めないのです。放射能というのは非常に危険なものですが、企業というものは、人の命よりもお金なのです。

「絶対安全」だと五時間の洗脳教育

 原発など、放射能のある職場で働く人を放射線従事者といいます。日本の放射線従事者は今までに約二七万人ですが、そのほとんどが原発作業者です。今も九万人くらいの人が原発で働いています。その人たちが年一回行われる原発の定検工事などを、毎日、毎日、被曝しながら支えているのです。

 原発で初めて働く作業者に対し、放射線管理教育を約五時間かけて行います。この教育の最大の目的は、不安の解消のためです。原発が危険だとは一切教えません。国の被曝線量で管理しているので、絶対大丈夫なので安心して働きなさい、世間で原発反対の人たちが、放射能でガンや白血病に冒されると言っているが、あれは“マッカナ、オオウソ”である、国が決めたことを守っていれば絶対に大丈夫だと、五時間かけて洗脳します。  

 こういう「原発安全」の洗脳を、電力会社は地域の人にも行っています。有名人を呼んで講演会を開いたり、文化サークルで料理教室をしたり、カラー印刷の立派なチラシを新聞折り込みしたりして。だから、事故があって、ちょっと不安に思ったとしても、そういう安全宣伝にすぐに洗脳されてしまって、「原発がなくなったら、電気がなくなって困る」と思い込むようになるのです。

 私自身が二〇年近く、現場の責任者として、働く人にオウムの麻原以上のマインド・コントロール、「洗脳教育」をやって来ました。何人殺したかわかりません。みなさんから現場で働く人は不安に思っていないのかとよく聞かれますが、放射能の危険や被曝のことは一切知らされていませんから、不安だとは大半の人は思っていません。体の具合が悪くなっても、それが原発のせいだとは全然考えもしないのです。作業者全員が毎日被曝をする。それをいかに本人や外部に知られないように処理するかが責任者の仕事です。本人や外部に被曝の問題が漏れるようでは、現場責任者は失格なのです。これが原発の現場です。

 私はこのような仕事を長くやっていて、毎日がいたたまれない日も多く、夜は酒の力をかり、酒量が日毎に増していきました。そうした自分自身に、問いかけることも多くなっていました。一体なんのために、誰のために、このようなウソの毎日を過ごさねばならないのかと。気がついたら、二〇年の原発労働で、私の体も被曝でぼろぼろになっていました。

だれが助けるのか

 また、東京電力の福島原発で現場作業員がグラインダーで額(ひたい)を切って、大怪我をしたことがありました。血が吹き出ていて、一刻を争う大怪我でしたから、直ぐに救急車を呼んで運び出しました。ところが、その怪我人は放射能まみれだったのです。でも、電力会社もあわてていたので、防護服を脱がせたり、体を洗ったりする除洗をしなかった。救急隊員にも放射能汚染の知識が全くなかったので、その怪我人は放射能の除洗をしないままに、病院に運ばれてしまったんです。だから、その怪我人を触った救急隊員が汚染される、救急車も汚染される、医者も看護婦さんも、その看護婦さんが触った他の患者さんも汚染される、その患者さんが外へ出て、また汚染が広がるというふうに、町中がパニックになるほどの大変な事態になってしまいました。みんなが大怪我をして出血のひどい人を何とか助けたいと思って必死だっただけで、放射能は全く見えませんから、その人が放射能で汚染されていることなんか、だれも気が付かなかったんですよ。

 一人でもこんなに大変なんです。それが仮に大事故が起きて大勢の住民が放射能で汚染された時、一体どうなるのでしょうか。想像できますか。人ごとではないのです。この国の人、みんなの問題です。

びっくりした美浜原発細管破断事故!

 皆さんが知らないのか、無関心なのか、日本の原発はびっくりするような大事故を度々起こしています。スリーマイル島とかチェルノブイリに匹敵する大事故です。一九八九年に、東京電力の福島第二原発で再循環ポンプがバラバラになった大事故も、世界で初めての事故でした。

 そして、一九九一年二月に、関西電力の美浜原発で細管が破断した事故は、放射能を直接に大気中や海へ大量に放出した大事故でした。

 チェルノブイリの事故の時には、私はあまり驚かなかったんですよ。原発を造っていて、そういう事故が必ず起こると分かっていましたから。だから、ああ、たまたまチェルノブイリで起きたと、たまたま日本ではなかったと思ったんです。しかし、美浜の事故の時はもうびっくりして、足がガクガクふるえて椅子から立ち上がれない程でした。

 この事故はECCS(緊急炉心冷却装置)を手動で動かして原発を止めたという意味で、重大な事故だったんです。ECCSというのは、原発の安全を守るための最後の砦に当たります。これが効かなかったらお終りです。だから、ECCSを動かした美浜の事故というのは、一億数千万人の人を乗せたバスが高速道路を一〇〇キロのスピードで走っているのに、ブレーキもきかない、サイドブレーキもきかない、崖にぶつけてやっと止めたというような大事故だったんです。

 原子炉の中の放射能を含んだ水が海へ流れ出て、炉が空焚きになる寸前だったのです。日本が誇る多重防護の安全弁が次々と効かなくて、あと〇・七秒でチェルノブイリになるところだった。それも、土曜日だったのですが、たまたまベテランの職員が来ていて、自動停止するはずが停止しなくて、その人がとっさの判断で手動で止めて、世界を巻き込むような大事故に至らなかったのです。日本中の人が、いや世界中の人が本当に運がよかったのですよ。

 この事故は、二ミリくらいの細い配管についている触れ止め金具、何千本もある細管が振動で触れ合わないようにしてある金具が設計通りに入っていなかったのが原因でした。施工ミスです。そのことが二十年近い何回もの定検でも見つからなかったんですから、定検のいい加減さがばれた事故でもあった。入らなければ切って捨てる、合わなければ引っ張るという、設計者がまさかと思うようなことが、現場では当たり前に行われているということが分かった事故でもあったんです。

もんじゅの大事故

 去年(一九九五年)の十二月八日に、福井県の敦賀にある動燃(動力炉・核燃料開発事業団)のもんじゅでナトリウム漏れの大事故を起こしました。もんじゅの事故はこれが初めてではなく、それまでにも度々事故を起こしていて、私は建設中に六回も呼ばれて行きました。というのは、所長とか監督とか職人とか、元の部下だった人たちがもんじゅの担当もしているので、何か困ったことがあると私を呼ぶんですね。もう会社を辞めていましたが、原発だけは事故が起きたら取り返しがつきませんから、放っては置けないので行くのです。

 ある時、電話がかかって、「配管がどうしても合わないから来てくれ」という。行って見ますと、特別に作った配管も既製品の配管もすべて図面どおり、寸法通りになっている。でも、合わない。どうして合わないのか、いろいろ考えましたが、なかなか分からなかった。一晩考えてようやく分かりました。もんじゅは、日立、東芝、三菱、富士電機などの寄せ集めのメーカーで造ったもので、それぞれの会社の設計基準が違っていたのです。

 図面を引くときに、私が居た日立は〇・五mm切り捨て、東芝と三菱は〇・五mm切上げ、日本原研は〇・五mm切下げなんです。たった〇・五mmですが、百カ所も集まると大変な違いになるのです。だから、数字も線も合っているのに合わなかったのですね。

 これではダメだということで、みんな作り直させました。何しろ国の威信がかかっていますから、お金は掛けるんです。

 どうしてそういうことになるかというと、それぞれのノウ・ハウ、企業秘密ということがあって、全体で話し合いをして、この〇・五mmについて、切り上げるか、切り下げるか、どちらかに統一しようというような話し合いをしていなかったのです。今回のもんじゅの事故の原因となった温度センサーにしても、メーカー同士での話し合いもされていなかったんではないでしょうか。

 どんなプラントの配管にも、あのような温度計がついていますが、私はあんなに長いのは見たことがありません。おそらく施工した時に危ないと分かっていた人がいたはずなんですね。でも、よその会社のことだからほっとけばいい、自分の会社の責任ではないと。

 動燃自体が電力会社からの出向で出来た寄せ集めですが、メーカーも寄せ集めなんです。これでは事故は起こるべくして起こる、事故が起きないほうが不思議なんで、起こって当たり前なんです。

 しかし、こんな重大事故でも、国は「事故」と言いません。美浜原発の大事故の時と同じように「事象があった」と言っていました。私は事故の後、直ぐに福井県の議会から呼ばれて行きました。あそこには十五基も原発がありますが、誘致したのは自民党の議員さんなんですね。だから、私はそういう人に何時も、「事故が起きたらあなた方のせいだよ、反対していた人には責任はないよ」と言ってきました。この度、その議員さんたちに呼ばれたのです。「今回は腹を据えて動燃とケンカする、どうしたらよいか教えてほしい」と相談を受けたのです。

 それで、私がまず最初に言ったことは、「これは事故なんです、事故。事象というような言葉に誤魔化されちゃあだめだよ」と言いました。県議会で動燃が「今回の事象は……」と説明を始めたら、「事故だろ! 事故!」と議員が叫んでいたのが、テレビで写っていましたが、あれも、黙っていたら、軽い「事象」ということにされていたんです。地元の人たちだけではなく、私たちも、向こうの言う「事象」というような軽い言葉に誤魔化されてはいけないんです。

 普通の人にとって、「事故」というのと「事象」というのとでは、とらえ方がまったく違います。この国が事故を事象などと言い換えるような姑息なことをしているので、日本人には原発の事故の危機感がほとんどないのです。

日本のプルトニウムがフランスの核兵器に?

 もんじゅに使われているプルトニウムは、日本がフランスに再処理を依頼して抽出したものです。再処理というのは、原発で燃やしてしまったウラン燃料の中に出来たプルトニウムを取り出すことですが、プルトニウムはそういうふうに人工的にしか作れないものです。

 そのプルトニウムがもんじゅには約一・四トンも使われています。長崎の原爆は約八キロだったそうですが、一体、もんじゅのプルトニウムでどのくらいの原爆ができますか。それに、どんなに微量でも肺ガンを起こす猛毒物質です。半減期が二万四千年もあるので、永久に放射能を出し続けます。だから、その名前がプルートー、地獄の王という名前からつけられたように、プルトニウムはこの世で一番危険なものといわれるわけですよ。

 しかし、日本のプルトニウムが去年(一九九五年)南太平洋でフランスが行った核実験に使われた可能性が大きいことを知っている人は、余りいません。フランスの再処理工場では、プルトニウムを作るのに核兵器用も原発用も区別がないのです。だから、日本のプルトニウムが、この時の核実験に使われてしまったことはほとんど間違いありません。

 日本がこの核実験に反対をきっちり言えなかったのには、そういう理由があるからです。もし、日本政府が本気でフランスの核実験を止めさせたかったら、簡単だったのです。つまり、再処理の契約を止めればよかったんです。でも、それをしなかった。

 日本とフランスの貿易額で二番目に多いのは、この再処理のお金なんですよ。国民はそんなことも知らないで、いくら「核実験に反対、反対」といっても仕方がないんじゃないでしょうか。それに、唯一の被爆国といいながら、日本のプルトニウムがタヒチの人々を被爆させ、きれいな海を放射能で汚してしまったに違いありません。

 世界中が諦めたのに、日本だけはまだこんなもので電気を作ろうとしているんです。普通の原発で、ウランとプルトニウムを混ぜた燃料(MOX燃料)を燃やす、いわゆるプルサーマルをやろうとしています。しかし、これは非常に危険です。分かりやすくいうと、石油ストーブでガソリンを燃やすようなことなんです。原発の元々の設計がプルトニウムを燃すようになっていません。プルトニウムは核分裂の力がウランとはケタ違いに大きいんです。だから原爆の材料にしているわけですから。

 いくら資源がない国だからといっても、あまりに酷すぎるんじゃないでしょうか。早く原発を止めて、プルトニウムを使うなんてことも止めなければ、あちこちで被曝者が増えていくばかりです。

日本には途中でやめる勇気がない

 世界では原発の時代は終わりです。原発の先進国のアメリカでは、二月(一九九六年)に二〇一五年までに原発を半分にすると発表しました。それに、プルトニウムの研究も大統領命令で止めています。あんなに怖い物、研究さえ止めました。

 もんじゅのようにプルトニウムを使う原発、高速増殖炉も、アメリカはもちろんイギリスもドイツも止めました。ドイツは出来上がったのを止めて、リゾートパークにしてしまいました。世界の国がプルトニウムで発電するのは不可能だと分かって止めたんです。日本政府も今度のもんじゅの事故で「失敗した」と思っているでしょう。でも、まだ止めない。これからもやると言っています。

 どうして日本が止めないかというと、日本にはいったん決めたことを途中で止める勇気がないからで、この国が途中で止める勇気がないというのは非常に怖いです。みなさんもそんな例は山ほどご存じでしょう。

 とにかく日本の原子力政策はいい加減なのです。日本は原発を始める時から、後のことは何にも考えていなかった。その内に何とかなるだろうと。そんないい加減なことでやってきたんです。そうやって何十年もたった。でも、廃棄物一つのことさえ、どうにもできないんです。

 もう一つ、大変なことは、いままでは大学に原子力工学科があって、それなりに学生がいましたが、今は若い人たちが原子力から離れてしまい、東大をはじめほとんどの大学からなくなってしまいました。机の上で研究する大学生さえいなくなったのです。

 また、日立と東芝にある原子力部門の人も三分の一に減って、コ・ジェネレーション(電気とお湯を同時に作る効率のよい発電設備)のガス・タービンの方へ行きました。メーカーでさえ、原子力はもう終わりだと思っているのです。

 原子力局長をやっていた島村武久さんという人が退官して、『原子力談義』という本で、「日本政府がやっているのは、ただのつじつま合わせに過ぎない、電気が足りないのでも何でもない。あまりに無計画にウランとかプルトニウムを持ちすぎてしまったことが原因です。はっきりノーといわないから持たされてしまったのです。そして日本はそれらで核兵器を作るんじゃないかと世界の国々から見られる、その疑惑を否定するために核の平和利用、つまり、原発をもっともっと造ろうということになるのです」と書いていますが、これもこの国の姿なんです。

廃炉も解体も出来ない原発い

 一九六六年に、日本で初めてイギリスから輸入した十六万キロワットの営業用原子炉が茨城県の東海村で稼動しました。その後はアメリカから輸入した原発で、途中で自前で造るようになりましたが、今では、この狭い日本に一三五万キロワットというような巨大な原発を含めて五一の原発が運転されています。

 具体的な廃炉・解体や廃棄物のことなど考えないままに動かし始めた原発ですが、厚い鉄でできた原子炉も大量の放射能をあびるとボロボロになるんです。だから、最初、耐用年数は十年だと言っていて、十年で廃炉、解体する予定でいました。しかし、一九八一年に十年たった東京電力の福島原発の一号機で、当初考えていたような廃炉・解体が全然出来ないことが分かりました。このことは国会でも原子炉は核反応に耐えられないと、問題になりました。

 この時、私も加わってこの原子炉の廃炉、解体についてどうするか、毎日のように、ああでもない、こうでもないと検討をしたのですが、放射能だらけの原発を無理やりに廃炉、解体しようとしても、造るときの何倍ものお金がかかることや、どうしても大量の被曝が避けられないことなど、どうしようもないことが分かったのです。原子炉のすぐ下の方では、決められた線量を守ろうとすると、たった十数秒くらいしかいられないんですから。

 机の上では、何でもできますが、実際には人の手でやらなければならないのですから、とんでもない被曝を伴うわけです。ですから、放射能がゼロにならないと、何にもできないのです。放射能がある限り廃炉、解体は不可能なのです。人間にできなければロボットでという人もいます。でも、研究はしていますが、ロボットが放射能で狂ってしまって使えないのです。

 結局、福島の原発では、廃炉にすることができないというので、原発を売り込んだアメリカのメーカーが自分の国から作業者を送り込み、日本では到底考えられない程の大量の被曝をさせて、原子炉の修理をしたのです。今でもその原発は動いています。

 最初に耐用年数が十年といわれていた原発が、もう三〇年近く動いています。そんな原発が十一もある。くたびれてヨタヨタになっても動かし続けていて、私は心配でたまりません。

 また、神奈川県の川崎にある武蔵工大の原子炉はたった一〇〇キロワットの研究炉ですが、これも放射能漏れを起こして止まっています。机上の計算では、修理に二〇億円、廃炉にするには六〇億円もかかるそうですが、大学の年間予算に相当するお金をかけても廃炉にはできないのです。まず停止して放射能がなくなるまで管理するしかないのです。

 それが一〇〇万キロワットというような大きな原発ですと、本当にどうしようもありません。

「閉鎖」して、監視・管理

 なぜ、原発は廃炉や解体ができないのでしょうか。それは、原発は水と蒸気で運転されているものなので、運転を止めてそのままに放置しておくと、すぐサビが来てボロボロになって、穴が開いて放射能が漏れてくるからです。原発は核燃料を入れて一回でも運転すると、放射能だらけになって、止めたままにしておくことも、廃炉、解体することもできないものになってしまうのです。

 先進各国で、閉鎖した原発は数多くあります。廃炉、解体ができないので、みんな「閉鎖」なんです。閉鎖とは発電を止めて、核燃料を取り出しておくことですが、ここからが大変です。

 放射能まみれになってしまった原発は、発電している時と同じように、水を入れて動かし続けなければなりません。水の圧力で配管が薄くなったり、部品の具合が悪くなったりしますから、定検もしてそういう所の補修をし、放射能が外に漏れださないようにしなければなりません。放射能が無くなるまで、発電しているときと同じように監視し、管理をし続けなければならないのです。 

 今、運転中が五一、建設中が三、全部で五四の原発が日本列島を取り巻いています。これ以上運転を続けると、余りにも危険な原発もいくつかあります。この他に大学や会社の研究用の原子炉もありますから、日本には今、小さいのは一〇〇キロワット、大きいのは一三五万キロワット、大小合わせて七六もの原子炉があることになります。

 しかし、日本の電力会社が、電気を作らない、金儲けにならない閉鎖した原発を本気で監視し続けるか大変疑問です。それなのに、さらに、新規立地や増設を行おうとしています。その中には、東海地震のことで心配な浜岡に五機目の増設をしようとしていたり、福島ではサッカー場と引換えにした増設もあります。新設では新潟の巻町や三重の芦浜、山口の上関、石川の珠洲、青森の大間や東通などいくつもあります。それで、二〇一〇年には七〇~八〇基にしようと。実際、言葉は悪いですが、この国は狂っているとしか思えません。

 これから先、必ずやってくる原発の閉鎖、これは本当に大変深刻な問題です。近い将来、閉鎖された原発が日本国中いたるところに出現する。これは不安というより、不気味です。ゾーとするのは、私だけでしょうか。

どうしようもない放射性廃棄物

 それから、原発を運転すると必ず出る核のゴミ、毎日、出ています。低レベル放射性廃棄物、名前は低レベルですが、中にはこのドラム缶の側に五時間もいたら、致死量の被曝をするようなものもあります。そんなものが全国の原発で約八〇万本以上溜まっています。

 日本が原発を始めてから一九六九年までは、どこの原発でも核のゴミはドラム缶に詰めて、近くの海に捨てていました。その頃はそれが当たり前だったのです。私が茨城県の東海原発にいた時、業者はドラム缶をトラックで運んでから、船に乗せて、千葉の沖に捨てに行っていました。

 しかし、私が原発はちょっとおかしいぞと思ったのは、このことからでした。海に捨てたドラム缶は一年も経つと腐ってしまうのに、中の放射性のゴミはどうなるのだろうか、魚はどうなるのだろうかと思ったのがはじめでした。

 現在は原発のゴミは、青森の六ケ所村へ持って行っています。全部で三百万本のドラム缶をこれから三百年間管理すると言っていますが、一体、三百年ももつドラム缶があるのか、廃棄物業者が三百年間も続くのかどうか。どうなりますか。

 もう一つの高レベル廃棄物、これは使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出した後に残った放射性廃棄物です。日本はイギリスとフランスの会社に再処理を頼んでいます。去年(一九九五年)フランスから、二八本の高レベル廃棄物として返ってきました。これはどろどろの高レベル廃棄物をガラスと一緒に固めて、金属容器に入れたものです。この容器の側に二分間いると死んでしまうほどの放射線を出すそうですが、これを一時的に青森県の六ケ所村に置いて、三〇年から五〇年間くらい冷やし続け、その後、どこか他の場所に持って行って、地中深く埋める予定だといっていますが、予定地は全く決まっていません。余所の国でも計画だけはあっても、実際にこの高レベル廃棄物を処分した国はありません。みんな困っています。

 原発自体についても、国は止めてから五年か十年間、密閉管理してから、粉々にくだいてドラム缶に入れて、原発の敷地内に埋めるなどとのんきなことを言っていますが、それでも一基で数万トンくらいの放射能まみれの廃材が出るんですよ。生活のゴミでさえ、捨てる所がないのに、一体どうしようというんでしょうか。とにかく日本中が核のゴミだらけになる事は目に見えています。早くなんとかしないといけないんじゃないでしょうか。それには一日も早く、原発を止めるしかなんですよ。

 私が五年程前に、北海道で話をしていた時、「放射能のゴミを五〇年、三百年監視続ける」と言ったら、中学生の女の子が、手を挙げて、「お聞きしていいですか。今、廃棄物を五〇年、三百年監視するといいましたが、今の大人がするんですか? そうじゃないでしょう。次の私たちの世代、また、その次の世代がするんじゃないんですか。だけど、私たちはいやだ」と叫ぶように言いました。この子に返事の出来る大人はいますか。

 それに、五〇年とか三百年とかいうと、それだけ経てばいいんだというふうに聞こえますが、そうじゃありません。原発が動いている限り、終わりのない永遠の五〇年であり、三百年だということです。

住民の被曝と恐ろしい差別

 日本の原発は今までは放射能を一切出していませんと、何十年もウソをついてきた。でもそういうウソがつけなくなったのです。

 原発にある高い排気塔からは、放射能が出ています。出ているんではなくて、出しているんですが、二四時間放射能を出していますから、その周辺に住んでいる人たちは、一日中、放射能をあびて被曝しているのです。

ある女性から手紙が来ました。二三歳です。便箋に涙の跡がにじんでいました。「東京で就職して恋愛し、結婚が決まって、結納も交わしました。ところが突然相手から婚約を解消されてしまったのです。相手の人は、君には何にも悪い所はない、自分も一緒になりたいと思っている。でも、親たちから、あなたが福井県の敦賀で十数年間育っている。原発の周辺では白血病の子どもが生まれる確率が高いという。白血病の孫の顔はふびんで見たくない。だから結婚するのはやめてくれ、といわれたからと。私が何か悪いことしましたか」と書いてありました。この娘さんに何の罪がありますか。こういう話が方々で起きています。

 この話は原発現地の話ではない、東京で起きた話なんですよ、東京で。皆さんは、原発で働いていた男性と自分の娘とか、この女性のように、原発の近くで育った娘さんと自分の息子とかの結婚を心から喜べますか。若い人も、そういう人と恋愛するかも知れないですから、まったく人ごとではないんです。 こういう差別の話は、言えば差別になる。でも言わなければ分からないことなんです。原発に反対している人も、原発は事故や故障が怖いだけではない、こういうことが起きるから原発はいやなんだと言って欲しいと思います。原発は事故だけではなしに、人の心まで壊しているのですから。

私、子ども生んでも大丈夫ですか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ。

 最後に、私自身が大変ショックを受けた話ですが、北海道の泊原発の隣の共和町で、教職員組合主催の講演をしていた時のお話をします。どこへ行っても、必ずこのお話はしています。あとの話は全部忘れてくださっても結構ですが、この話だけはぜひ覚えておいてください。

その講演会は夜の集まりでしたが、父母と教職員が半々くらいで、およそ三百人くらいの人が来ていました。その中には中学生や高校生もいました。原発は今の大人の問題ではない、私たち子どもの問題だからと聞きに来ていたのです。

 話が一通り終わったので、私が質問はありませんかというと、中学二年の女の子が泣きながら手を挙げて、こういうことを言いました。 

 「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来ているのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」と、泣きながら三百人の大人たちに聞いているのです。でも、誰も答えてあげられない。

 「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」と。ちょうど、泊原発の二号機が試運転に入った時だったんです。

 「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」と言う。

 「二基目が出来て、今までの倍私は放射能を浴びている。でも私は北海道から逃げない」って、泣きながら訴えました。

 私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの」と聞きましたら、「この会場には先生やお母さんも来ている、でも、話したことはない」と言います。「女の子同志ではいつもその話をしている。結婚もできない、子どもも産めない」って。

 担任の先生たちも、今の生徒たちがそういう悩みを抱えていることを少しも知らなかったそうです。

 これは決して、原子力防災の八キロとか十キロの問題ではない、五十キロ、一〇〇キロ圏でそういうことがいっぱい起きているのです。そういう悩みを今の中学生、高校生が持っていることを絶えず知っていてほしいのです。

原発がある限り、安心できない

 みなさんには、ここまでのことから、原発がどんなものか分かってもらえたと思います。

 チェルノブイリで原発の大事故が起きて、原発は怖いなーと思った人も多かったと思います。でも、「原発が止まったら、電気が無くなって困る」と、特に都会の人は原発から遠いですから、少々怖くても仕方がないと、そう考えている人は多いんじゃないでしょうか。

 でも、それは国や電力会社が「原発は核の平和利用です」「日本の原発は絶対に事故を起こしません。安全だから安心しなさい」「日本には資源がないから、原発は絶対に必要なんですよ」と、大金をかけて宣伝をしている結果なんです。もんじゅの事故のように、本当のことはずーっと隠しています。

 原発は確かに電気を作っています。しかし、私が二〇年間働いて、この目で見たり、この体で経験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです。それに、原発を造るときから、地域の人達は賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。出来たら出来たで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいるんです。

 みなさんは、原発が事故を起こしたら怖いのは知っている。だったら、事故さえ起こさなければいいのか。平和利用なのかと。そうじゃないでしょう。私のような話、働く人が被曝して死んでいったり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではないんです。それに、安全なことと安心だということは違うんです。原発がある限り安心できないのですから。

 それから、今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油がいるのです。それは、今作っている以上のエネルギーになることは間違いないんですよ。それに、その核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのです。

 そんな原発が、どうして平和利用だなんて言えますか。だから、私は何度も言いますが、原発は絶対に核の平和利用ではありません。

 だから、私はお願いしたい。朝、必ず自分のお子さんの顔やお孫さんの顔をしっかりと見てほしいと。果たしてこのまま日本だけが原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまうと。これをどうしても知って欲しいのです。

 ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。そして稼働している原発も、着実に止めなければならないと思っていあす。

 原発がある限り、世界に本当の平和はこないのですから。

日本の原発の場合では沿岸部に立地させているから,海に捨てている。

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GHQが持ってきて日本人の生活に根付かせ現在に至っているもの厳選5


1. 牛乳を日本に普及させ、牛乳を飲まないとカルシウム不足になるという宣伝をした


2. 全国のお母さんが使っている母子手帳配布と予防接種の義務化でセット導入


⒊ 戦前まで鍼灸の東洋医学療法が主流だったのが、薬を主とした西洋医学療法に切り替えた


4. 小麦粉の普及に力をいれパンの文化と西洋の食文化を根付かせた


5. 日教組による偏向教育を公立学校の義務教育として導入させ日本人の思考を変えた


全部そういわれてみると、へぇ~そうなんだなぁ と思うところですが、いや。いや。ポイントはこの全てが日本人のためではなく、日本人にとって悪影響を与える政策になったいたということなわけですよー。調べれば調べるほどですが、要はGHQのミッションって日本を徹底的に弱体化させ、二度とアメリカに歯向かわないよう弱い日本人を作ることだったんですね。伊達にあんなパイプくわえてないわけですな~ 






昭和天皇はアジアへの侵略が深まれば深まるほど儲かる銀行や会社の大株主だったのである。

公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
 
大正、昭和にその1千万弱の資産が終戦時37億円に膨れ上がっていた。
国体とは実はこのゼニであった。
戦場で散って行く若者たちを盾にして支配層が守ろうとしたものはこの「神聖財閥」を頂点とするゼニの塊だったのである。

天皇家が味をしめたのは日清戦争であった。この戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。このうちの二千万円が皇室の財宝となった。天皇家はこの戦争で味をしめた。

この天皇家の財産を、アメリカによる本土侵攻を予想した内大臣の木戸が、天皇の財務顧問だった有力者の勧めに従って、「手元にある天皇の流動資産のほとんどはスイスの複数の銀行が東京に置く支店に移され、本国の口座に預金された

評価額は戦争直後の標準によったが、その後の評価では660億円以上とされている。昭和36年の物価は最初の評価の500倍以上にあたるから総計は8000億円以上に達すると思われる。

現在の価格では数兆円を軽く超えるものと言えよう。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。


だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。


1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容をみよう。

「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」
当時の財閥の住友吉左衛門は1億1738万円、三井高広は9628万円。皇室財産は、GHQの公表分であるが日本の財閥の約30倍。しかし、この数字は正確ではない。天皇も、三井も、三菱も、敗戦前にほとんどの金をスイスの秘密銀行に入れたからである。

当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的数字がクローズアップされる。
それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」木下道雄(元侍従次長)の『側近日記』が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」

この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。

天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。

天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。
それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。

010 年 3 月 07 日 16:57:48: 3bF/xW6Ehzs4I
   


(回答先: 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 投稿者 中川隆 日時 2010 年 2 月 27 日 22:54:18)



昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。
「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。
ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。
 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。
だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。
佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。
しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。
責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

昭和天皇が戦争狂になった背景

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。

だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。

すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。

天皇は昭和の大戦争に深く関与した。 いかにユダヤ金融資本から仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。


天皇家の財産が国民の前に明らかにされた時、その莫大さに国民は驚いていた。
土地 135万町歩余 3億6000万円余
木材 5億6000万石余 5億9000万円余
建物 15万坪 2億9000万円余
現金 2400万円余
有価証券 3億1000万円
合計 15億9000万円余

評価額は戦争直後の標準によったが、その後の評価では660億円以上とされている。昭和36年の物価は最初の評価の500倍以上にあたるから総計は8000億円以上に達すると思われる。

現在の価格では数兆円を軽く超えるものと言えよう。最初の評価の基礎は、土地一反が26円余という当時でも時価の十分の一、木材は一石一円で百分の一という不当に安い評価である。この評価は政府や宮内省が行ってGHQや世界の注目をまぬがれようとした小細工である。
 
土地の135万町歩は日本の面積の3%以上に当たる。5億6000万石の木材は日本全林野の8%に当たる。有価証券では配当金だけで年800万円もあった。昭和天皇は個人としては世界最大(?)の地主であった。個人としては世界最大(?)の大ブルジョワであった。
http://www.asyura.com/0411/bd38/msg/785.html

一家族で15億、、、
現金など3億3千万、、、、
昭和20年11月と言えば国民は飢餓状態、
公務員月給65円、米10キロ6円の時代。

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昭和天皇は何故戦争を起こしたのか

日本の経済発展を支えた侵略戦争

明治維新以前、江戸時代には、士農工商という厳しい階級差別がありました。大商人といえども、社会的には低い地位に押さえられていました。それが明治維新によって、封建制の束縛から解放され、企業家たちは活発な企業活動を開始します。そして日本の経済は資本主義的に急成長します。その中で三井物産などは江戸時代から中国などにある程度進出していましたが、基本的には日本国内での活動でした。

ですから明治になって二~三〇年も経つと、商品を造っても国内投資ではさばけなくなってくるし、新たな投資の場も国内だけでは限りがあって、経済成長が横這い状態になってきました。


伊藤博文と海外侵略

日本経済の発展が行き詰っているその頃、海外視察から帰ってきた伊藤博文が、全国遊説したときの原稿が国会図書館に残されています。その演題は『世界の進歩と日本国民の自覚』です。その要旨は、

「今や世界各国は商工業の競争を世界に行なっており、そして最近の戦争は、単に領土を広げたり、国の名誉のためではなく、商工業の利益を世界的に拡充したり、その拡充を妨害されるのを防ぐために起こしている。

日本も国内の団結を固め、世界の列強と争って商工業の発展をすることを、日本の基本方針としなければならない。そのためには軍備を拡張して、商工業を中国や朝鮮、或いは東南アジアにまで発展させなければならない。」という内容です。


要するに日本の経済発展のためには、戦争をして中国、朝鮮、東南アジアを植民地にし、資源と労働力を独占的な市場を獲得しなければならないという事をいっています。

この方針のとおり、日本は明治維新以後着々と軍備を増強して1894年の日清戦争以来、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦と、10年置きに戦争をしています。そしてその戦争の度に台湾、朝鮮、満州と次々に植民地を獲得し、それをバネに経済成長しています。


天皇一族の財産はこうして作られた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html


日本の天皇家は古代からただひとつの家系がつながってきた。これは世界に類を見ない。また昭和天皇は敗戦の時にマッカーサーに対して、「全ての私財と自分の命をも放棄する。国民を救って欲しい。」と言い、マッカーサーはこれに感動したと学校では習ってきた。

 ところがこれらは全くの創作のおとぎ話であった。私達は米軍の策略にまんまと騙されてきたのだ。

昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない。ひたすら私財の保全にだけ心血を注いだ。それを米軍は日本支配の道具として位置づけることで国民の洗脳に成功した。
結局、学校教育は米軍の指図による創作だ。さらに右翼などは天皇システムを保護する事で米軍の日本支配に貢献してきたのだ。見事な策略と言うほかは無い。

立ち直る見込みのない、無能そして国賊的日本政府のていたらくは、殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである。




 

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、
人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語る
のがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の
無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。
 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。

実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。 いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。

効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

 1941年にフィリップ・ペタン内閣は日本がインドシナ半島北部を占領することを認めた。近衛文麿は『交渉による平和』を望んだが裕仁の説得に失敗し、辞意を表明した。宣戦布告の決意をし、天皇は東条将軍を首相に指名した。彼は満州で組織的な略奪を行った岸の一党【原文ではclanつまり悪党集団:訳者】の手下であった。

 パールハーヴァーの『だまし討ち』(6)は、東南アジアにおける日本の好戦性を解き放つシグナルであった。日本はタイ、スマトラ、ビルマに侵攻し、グアムとホンコンをその手にした。さらにマッカーサー将軍をフィリピンの領地から追い出した。新たに付け加えられた領地は憲兵隊によって組織的に略奪された。秩父宮はシンガポールに黄金の百合の総合本部を置いた。専門家たちが目録をつくるためにそこにすべての分捕り品が集められた。

 フィリピンでは欧米の銀行が黄金の百合のエキスパートたちの第一目標であったが、彼らはフィリピンの財宝を奪い取って、筆頭株主が裕仁その人である横浜正金銀行【原文は英語Yokohama Specie Bank:訳者】、台湾銀行、そして他の国有銀行の財産にしたのである。その黄金の一部は戦争の経費に充てられた。スイス、ポルトガル、アルゼンチン、そしてチリの銀行が洗浄に使われた。

 憲兵隊と黄金の百合の実行者たちが奪った富はシンガポールの集中させられ、最終目的地である日本に輸送されるためにマニラに運ばれた。
[黄金の百合からブラックホールの資金へ]
ミッドウエイの戦いの後、東南アジアにおける軍事的な力関係は米国に有利に傾いた。日本は海上輸送の支配権を失った。裕仁と帝国の第一人者たちは帝国の敗北を予想し始めた。

 それ以来、公式には富士山麓で結核療養中であることになっていた秩父宮に率いられてきた黄金の百合作戦は、マニラで足止めを食らっている戦争の分捕り品を救うことに必死になった。秩父宮はまず病院船を使って金を輸送し、その後その金を日本の山地に作られた地下壕に溜め込んだ。

1943年には、米国が効果的な海上封鎖体制を確立したため、そのような方法は取れなくなった。財宝はマニラの波止場で山のようになりだした。秩父宮はそこで地下壕建設のための特殊な技師の集団を作り、分捕り品を地下に隠す作業を始めた。マニラではかつてスペインの町であったイントラムロスの地下が使用され、巨大な収容能力を持つ場所を提供できた。

 品物を慎重に移送できる一つの通路が波止場とイントラムロスの間を直接に結びつけた。秩父宮は歴史的な場所や教会、大学など、爆撃がほとんど無いあらゆる場所をつなぐように選んでいった。

 マニラの北で竹田宮が洞窟を使って地下壕の網の建設を監督した。専門家たちが恐ろしいほど効果的な大量のワナの兵器を仕掛けた。爆発物、毒ガスのカプセル、水や砂を使ったワナ。南京虐殺の実行者の息子であるもう一人の皇族の朝香宮孚彦【原文ではTakahitoとなっているが「たかひこ」の誤り:訳者】親王と、シンガポールのヒーローであり差し迫った米軍の攻撃に立ち向かうためにフィリピンに派遣された山下将軍が、この地下での作戦に加わった。技師たちと奴隷たちは組織的に生きながら地下に埋められた。

 マッカーサーがフィリピンを再征服し始めたとき、皇族たちは急いで未だ地下に入れることができなかった財宝を隠そうとした。黄金を積んだ船が船員を乗せたまま沈没させられた。日本の敗戦はマニラ市民の虐殺と占領を終わらせたが、その後に皇族たちは潜水艦で逃亡した。

 1945年から米国の諜報機関が黄金の百合の存在に気付いた。諜報員であるジョン・バリンジャー(John Ballinger)は、漁民に変装して黄金をいっぱいに入れた箱が病院船に積み込まれるのを観察することができた。マッカーサーは彼のライバルである山下を逮捕し、彼の腹心をこの日本の将軍のお抱え運転手である小島老人に対する尋問官とした。

そのセベリノ・ガルシア・サンタ・ロマナは山下の行動に関する膨大な情報を手に入れ、隠匿場所の正確な数をつきとめることができた。『サンティ』【サンタ・ロマナの別称と思われる:訳者】はこうして『山下の財宝』の守り手となった。彼は、OSSの元局員であり最近までウイロウビィ(Willoughby)将軍(8)の特務機関G-2と協力していた謎の男エドワード・ランドセイル(Edward Landsale)(7)が作戦の指揮をとるまでは、ずっとマッカーサーの命令の下にとどまった。

 トルーマン大統領にこの件が任されて以来、掘り出された分捕り品はブラック・ホールと呼ばれる対共産主義の戦いの資金として使用されることになった。あるロウズベルトの顧問に認知されたこの計画は、ドイツ、イタリア、日本によって盗まれた黄金を親米政権の財源として使い、次に、『危険なアカ』の脅威にさらされる多くの『民主国家』の深奥でこの資金により選挙を操作することから成り立っていた。

 ロバート・アンダーソンの助けを受けてあるスペシャリストが資金を洗浄した。サンティが探し出した黄金は42カ国の170の口座に納められた。CIAの銀行口座ネットは、東南アジアから盗まれた富を隠し、金の値段を米国の経済的利益にとって都合の良いあるレベルで維持することを可能にした。(9)
財産は日本に戻ってくる

 米国当局によって押収された分捕り品は当初3つの異なった財源を潤した。四谷資金は、マッカーサーの秘密の右腕であるG-2の長官チャールズ・ウイロウビィの活動を支えた。彼はフランコ将軍とファシスト警察の手法の賛美者である。第2の資金は、日本におけるニュルンベルグ裁判に匹敵する東京裁判の判事ジョセフ・ケーナンの名前が付けられたのだが、非常に明確な機能を持っていた。共産主義に対するマッカーサーの戦いの同盟者へと変身した帝国のメンバーを免責するために証人たちを買収することだった。

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。最も戦略的な資金は、疑いも無くM資金である。それは日本で共産主義者や社会主義者が権力を握ることを妨げる戦いのために運用された。戦後、つかの間の社会主義政権は、M資金投下のおかげで米国好みの吉田茂によって、失墜させられたようである。この資金は敗戦日本の公式な歴史に出資するためにも利用された。

 児玉誉士夫が「私は敗北した」という文章を出版したのはこれである。この本は、CIAを通してM資金をつぎ込まれたものであるが、笹川良一や岸信介などの将来の日本の大物、つまりマッカーサーによって称揚された国粋主義者たちを免責するのに役立った。
 1951年に講和条約が締結された。その第14条で、日本はその犠牲者に対して補償するための必要な手段を整える必要のないことが規定された。ブラックホールへと転換された黄金の百合は秘密のままにしておかねばならなかった。

 1952年以来、CIAと日本の特務機関に率いられた一つの組織がM資金を担当した。この資金は、満州での略奪の責任者であり東条の戦争内閣の閣僚であった岸信介の首相選出を許した。アイゼンハワー政府はこの極端な反共主義者である戦犯を好んだ。
 M資金は、田中角栄、竹下登、中曽根康弘、宮沢喜一などの多くの首相に財源を提供した。田中は、ニクソンがM資金の引出権を彼に約束したのだが、これを選挙資金と汚い工作のために頻繁に運用した。

 黄金の百合の一部は日本でこのように投資され、自由民主党の母胎から誰が将来の首相になるのかを決める者たちによって浪費させられた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html

日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、占領地の宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。

 日本はひどく痛めつけられ、戦争が終わったときには、かろうじてどうにか食っていける状態だったと、わたしたちは告げられる。事実は、驚くほど少ない工場と住宅しか破壊されておらず、それもひどい損傷を受けていなかった。そして、インフラストラクチャーの損害はわずかだった。広く世間に知られている損害のほとんどは、普通の日本人が住んでいた数百万軒の紙と木でできたマッチ箱のような家だった。彼らの苦悩は大君主たちの見解には加えられていなかった。

 日本を共産主義に対する防波堤にしようという切迫した必要性に取り憑かれていたので、ワシントンは戦時の指導者たちと皇室のメンバーと金融のエリートたちが、十二のアジアの国々を破壊し、窮乏状態に陥れたことに関して、いかなる責任からも免責した。

わずかに日本の戦争中のエリートたちがスケープゴートとして死刑に処せられた。幾人かは指導者たちの安らぎのために、責めを負って強制されたり、濡れ衣を着せられた。戦後の占領の終わりの頃には、すべての日本の戦犯は自由の身になった。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


日本の昭和天皇ヒロヒトは、敵国であった米国の兵器を日本に輸入し日本軍部に売り付け、その利益を私的に「着服」し、スイス銀行に隠し蓄財していた。そのスイス銀行の口座はヒトラーと天皇ヒロヒトの「共同名義」の口座であった。

 ヒトラーと昭和天皇ヒロヒトは、戦争を起こし兵器を密売し、共に「私腹を太らせていた」。

ディロン社の代理人として、米国製兵器の密売を行っていたのが昭和天皇ヒロヒトである。ドイツにおけるヒトラー、日本における昭和天皇ヒロヒトの役割は同一であり、従って兵器密売のスイス銀行の「決済口座」がヒトラーと昭和天皇ヒロヒトの「共同名義」になっていた。

 第二次世界大戦末期、ヒトラーは自分の資産と部下を続々とアルゼンチンに逃し始める。天皇ヒロヒトも戦争末期、長年の武器密売の利益を金塊の形で、アルゼンチンの銀行に大量に密かに輸送し隠し預け始める。

 戦争末期、中国に残された日本人の多くは、日本に帰る船が無く中国、朝鮮で殺害され、女性は強姦され殺害され続けていた。天皇はその日本人を全員「見殺し」にし、船舶を「独占」し、武器密売の利益を金塊の形でアルゼンチンへ大量輸送し続けた。
http://alternativereport1.seesaa.net/


1945年.日本の敗戦が決定的になると.天皇一族は.この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ.海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて.スイスに850万ポンド.ラテンアメリカに1004万ポンド等.広島.長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中.天皇は自分の蓄財を海外に次々と.逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5~10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。
広島.長崎に原爆が落とされ.膨大な死傷者が出.戦後.日本を.どのように再出発させるか.を考えなくてはならない時期に.天皇は.ひたすら自分の蓄財を守るため.数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは.莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され.アルゼンチンの銀行.そしてスイス銀行まで遠路.運搬されていた。中国では.日本に逃げ戻るための船舶が無く.逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数.強姦殺人され.子供が殺害されている最中.天皇は貴重な船舶を独占し.自分の金塊を遠路.アルゼンチン.スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。

 なお.天皇が.第2次大戦中.「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の.天皇の共同経営者が.CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは.何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

 天皇は戦後.このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り.CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に.港区の不動産を次々に買収し.またハイテク産業に投資し.莫大な蓄財を.さらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく.単なる金儲け主義の.金融ビジネスマンである。
そして.ここでも.「何故か」.CIAと天皇は「共同経営者」である。

 天皇は.1940年代初頭から.スイス銀行に少しづつ蓄財を「移し」始めるが.ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが.虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

 1924年.米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係は.まだ険悪ではなく.日本から.余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し.それを禁止した法律であった。

 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の.「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に.1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については日本を憤慨させるに十分なものであった。」

 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。
日本人女性を.だまし.売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した.それに憤慨.激怒し.米国と戦争を始めた.と天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は.神でも.「象徴」でも無く.人間のクズの集団である。
http://alternativereport1.seesaa.net/
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金の亡者だった昭和天皇(?)の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,ゲリラには勝てそうもないという事だった. 今のイラクやアフガニスタンと同じですね.

そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう.
そして,昭和天皇(?)が中国での大虐殺の黒幕だったことが明らかにされ,戦犯として死刑になり,その汚名は世界中で何千年も語り継がれる事になる.


そこで昭和天皇(?)が考えた起死回生の名案とは:


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。

国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。
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アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。

すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。

戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。

だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm


対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。

しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。

ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。

日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。

アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。




秘密は墓場まで____最後まで名優であり続けた昭和天皇_迫真の演技

昭和天皇の変わり身の素早さには驚かされる。

つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。

天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった







アメリカで1979年3月28日のスリーマイル島原発事故,つぎに,ソ連で1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故,そして,日本で2011年3月11日に,この種の「絶対に起こさせたくない兵器応用技術としての原発の大事故」が,3度目として日本でも起きた。

 原発には「危険がいっぱい」だというか,いざ原発に事故が発生したときは “綱渡り的な必死の対応” が要求される。2度(アメリカとソ連)あった原発事故が,3度目として日本で発生した。さらに4度目,5度目がないという絶対の保障はない。

原発事故における熔解(メルトダウン)では内部の燃料ペレットが脱落する。このときの温度は1850℃を超える。鋼鉄の融点は1600℃弱である。だから,メルトダウン(メルトスルーなど)が起こる。また原発が平常に運転できているときでも,その発電量は核燃料の発熱量の3分の1の効率しか利用できていない。残りの3分の2は冷却水を介して,日本の原発の場合では沿岸部に立地させているから,海に捨てている。

多くの日本人は、健康状態にかかわらず国保や社保の保険料を一生支払い続けなければいけない。

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中国・広東省出身の40代の中国人女性Wは、C型肝炎の治療のため日本にやってきた。中国の患者数は約4000万人以上おり、国民病だ。ほぼ完治するという特効薬・ハーボニーの存在を医者から聞いた。

 ただ、中国では承認されていない。Wは海外への医療ツアー斡旋業者に接触。欧米での治療費は滞在費を含め1000万円近くかかる。

 ある業者が日本での治療を提案。完治までに薬代だけで最低465万円かかるが、日本の国民健康保険のおかげで薬代は月1万円程度で済む。

 日本に3か月以上滞在する外国人は、国民健康保険への加入が義務付けられている。さらに診察料や各種検査費用なども、国保なので「3割負担」で済む。Wが依頼した業者は、この制度に目をつけたのだ。

 Wは「保険料はきっちり払っている」と強調するが、前年に日本で所得のない彼女の保険料は、最低額の月4000円前後だ。

 多くの日本人は、健康状態にかかわらず国保や社保の保険料を一生支払い続けなければいけない。

 治療目的で中国から来日して日本の国保に加入し、タダ同然の医療サービスを受けるというのはどう考えてもオカシイ。

 ちなみに日本での経営・管理ビザは、資本金500万円以上の会社を設立し、その代表取締役になる場合に申請できる在留資格で、1年間滞在することができる。

 500万円の“見せ金”を用意すれば、いとも簡単に許可が下りる。日本でマンションを爆買いして移住する中国人にも人気のビザだという。

 ビザ申請のための「ペーパーカンパニー」まで用意してくれる行政書士がいるというからひどい話だ。看過出来ない問題である。

「日本は愛せない国になっていく」 愛することもさせない国になっているのでは?

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国民年金・厚生年金、あまりにも高過ぎる健康保険料金

国民のお金を食いものにしている連中が確実に居る。
とてつもなく巨大な蜜に群がり、それを貪っている。

超巨大化した官僚機構と天下り王国、そして、巨大利権。
更に、そのおこぼれに政治家があずかる。

経産省は、原発政策の核となり推進してきながら、
311からなる原発事故の後始末のツケを国民に払わせようとしている。
今や、原発利権帝国は巨大化しており、日本の政治さえも支配するに到る。

まさに、やりたい放題やっているのが真相である。
全て国民のお金を使っての悪行三昧だから、まことに始末が悪い。

国民が幸せになれない最大の元凶は、官僚マフィアである事は間違いない。



国民年金の支給開始年齢は
70~75歳に引き上げられるだろう。

しかし、
国民の多くがその年金を手にする事は出来ない。

何故なら、
意図した放射能の拡散で多くの命が奪われるからだ。

これが、
官僚中枢の本音であり、現に、実行している。

無関心でいる今の若者は
将来、どえらい目に遭うだろう。

「最初から官僚がお金を取るために始めた制度
だと当時の担当課長自身が言っているのです 」



私が「国債は買ってはいけない」という本を書いたとき、日本のお金の流れを
よくよく調べたり、計算したりしました。その中でびっくりした一つに
「年金は積み立てていたら無くなる」ということでした。
当時の私の計算結果ですが、20才から年金を積み立てても、
最初の10年はわずかに全体の1.5%しか積み立てられないのです。
その原因は物価上昇とか生活程度の向上なのですが、これはすでに歴史的事実なのです。

さらにこれに加えて社会保険庁が「年金の使い込み」をしたので、
本来、払わなければならない約束は800兆円、実際にあるはずの年金が150兆円。
そしてそのうち約100兆円が消えているのです。
年金制度を始めたら膨大なお金が集まったので、それに群がった人たちが
(どうせ焦げ付くことがわかっている)公共投資にそのお金を投じたことと、
役人が天下りで他人の年金をむさぼったことでなくなりました。


このことは有名な国民年金制度の創設者で元厚生省年金課長だった
花澤武夫氏の回顧録を見れば一目瞭然です。


「この資金(年金)があれば一流の銀行だってかなわない。
厚生年金保険基金とか財団とかいうものを作って、
その理事長というのは、日銀の総裁ぐらいの力がある。
そうすると、厚生省の連中がOBになった時の勤め口に困らない。

年金を支給するのは二十年も先のことだから、今のうちに使っても構わない。
先行き困るという声もあったが、そんなことは問題ではない。
将来みんなに支払うときに金が払えなくなったら賦課式にしてしまえばいいのだから」

つまり、国民から年金といってお金を集めれば何でもできる。
そして国民に支払う段階ではお金がなくなっているから賦課方式
(今のように若い人が払って高齢者がもらう)にすれば良いというのですから、
年金を始める時に、すでに「年金を支払うことなど考えず、どんどん使え」、
「無くなったら賦課方式(その年精算方式)に変えれば良いと言っていたのです。

つまり年金は最初から官僚がお金を取るために始めた制度だということを
当時の担当課長自身が言っているのです。
でも、官僚も人間ですし、明治以来の制度で疲労し腐敗しています。
それに競争に勝ち抜いてきた「自分だけが良ければ」という人の集まりですから、


この国は、犯罪者集団が支配する偽装民主主義国家です。
○選挙は投票ごっこ。票も数えず、やってもいない出口調査を理由に当確が発表されます。(1)
○アベ自公政権の高い支持率は捏造です。ウソを吐きまくるペテン総理は、軽蔑の対象です。(2)
~ アベヤメロ! アベ政治を許さない! アベル! 不正選挙のバカ総理! などが国民の声。
○当選者名簿は、投票日前に出来上がっている。事前に発表すれば選挙費用を節約できます。

○昔から「開票不正・不正選挙は必要悪」とされ、常に既得権益集団の代理人が当選します。(3)
~ 原発ムラ・安保マフィアも安泰、消費増税とTPPで財界と官僚機構は大喜び!天下りバンザイ!

○ムサシ職員と選管の癒着・不正によって票は深夜に改竄され、腐敗議員が当選します。(4)
~ 安倍ムサシ・スターリン方式不正選挙・・・当選者は既得権益群に従順な候補者が当選!

○数多く提訴されている不正選挙裁判は審理なく却下され、マスゴミは黙殺しています。(5,6,7)
○国連も日本の選挙に疑念!選挙見守り隊の派遣を打診→アベは拒絶!国会では話題にもならない(8)
○こんな重要なことなのにニュースにもならないと言う悲惨! マスゴミ共謀・不正選挙万歳!

不正選挙、開票不正は「必要悪」である。すべて公正に選挙民の投票に任せることは危険な側面を持つ。早いはなし、「消費税ゼロ、医療費ゼロ、年金倍増」と公約する候補者に簡単に票が集まってしまうだろう。知名度があれば演歌歌手やAKBやサッカー選手やお笑い芸人ばかり当選してしまうだろう。

≪若者の嘆き≫真摯に耳を傾けなきゃいけないね!“国破れて山河在り”だが、さびしい国との事かな?
<自分の国が70年前の教訓と民主主義に別れを告げようとしている>自分の「命」は権力者の『捨て駒』か?
<何から日本を守るのか>何のために<命を差し出せ>と言われなきゃならないのか?危惧してるのかな。
敗戦後の日本は、米国に占領されてから今日まで、真の独立国家ではなかったの。アメリカの属国なので、
国民から吸い上げられた税金は、米国中心の世界戦略の戦費として、宗主国に納めなければならないのだ。
「傀儡政権」だから、独立自主の外交政策が取れるような『統治組織』は存在しない。愛着の心も生じない。

福島原発はいまだに日々、膨大な放射能を垂れ流している。全世界に対する環境犯罪を
行なっていることは否定すべくもない。だが放射能は「目に見えない」から、それに
つけ込んで、市街地やその付近に平気でたれ流してきた犯罪的な投棄なども、これまで
日常的に行なわれてきたのではないか?

首都圏には数百兆円の巨大な資産が形成されている。住民も政治家もジャーナリストも財界も投資家も、みなそのおこぼれに与かっている。
首都圏に人が住めないとう事実を認めれば、巨大な資産が霧消し、皆が損をする。

事実が明らかになることを誰も喜ばない。

ただそれだけ。

 原発事故を起こした国が原発を廃絶させず,まだ起こしていない国が廃絶するというのであれば,日本は完全に悪い実例,「他山の石」的な先例に位置づけられる。これは皮肉以外の何者でもない。しかも,ベトナムに日本の企業が原発をプラントで輸出する計画もあった。だが,こちらはベトナム国内の政情変化が影響していたものの,ベトナム人民の強い反対意志もあり,原発は導入しない結果となっていた。


日銀は25日、2016年度の役員給与を前年度比0.9%引き上げると発表した。黒田東彦総裁の年収は3512万円となる。役員給与引き上げは3年連続。2015年度は0.4%の引き上げだった

日本破壊のお駄賃です。

今、日本国民を取り囲む危機は、

○地震、台風、津波、などの自然災害
○来るべき戦争の恐怖
○経済危機

などがありますが、日本人の2人に一人が発症するガンも
個別に静かに迫り来る危機です。

2016 八王子ロングディスタンス 結果

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1 27:33.94 ロナルド ケモイ 小森コーポレーション 7組
2 27:38.24 ジェームス ムワンギ NTN 7組
3 27:38.69 クリス デリック バウマン・トラック 7組
4 27:39.25 アレクサンダー ムティソ NDソフト 7組
5 27:41.28 パトリック ムエンド ムワカ 愛三工業 7組
6 27:42.75 テレッサ ニャコラ マツダ 7組
7 27:43.55 カッサ マカショウ 八千代工業 7組
8 27:44.39 村山 紘太 旭化成 7組
9 27:45.27 サムエル ムワンギ コニカミノルタ 7組
10 27:48.56 大石 港与 トヨタ自動車 7組
11 27:49.57 デビット ジュグナ ヤクルト 6組
12 27:49.89 ダニエル ムイバ キトニー カネボウ 6組
13 27:51.67 ベナード キマニ ヤクルト 7組
14 27:52.69 マミヨ ヌグセ 安川電機 7組
15 27:53.49 ロジャース シュモ ケモイ 愛三工業 7組
16 27:53.50 サイモン カリウキ 日本薬科大学 7組
17 27:54.75 大六野 秀畝 旭化成 7組
18 27:58.32 ダニエル キプケモイ 西鉄 7組
19 28:09.35 アンドリュー バンバロウ バウマン・トラック 7組
20 28:10.54 ベケレ シフェラウ マツダ 6組
21 28:10.62 猪浦 舜 八千代工業 6組
22 28:12.70 星 創太 富士通 5組
23 28:14.10 ゲノ アルフレッド 日清食品グループ 7組
24 28:14.40 市田 孝 旭化成 7組
25 28:16.49 潰滝 大記 富士通 6組
26 28:16.95 浅岡 満憲 日立物流 7組
27 28:17.30 サイラス キンゴリ SGHグループ 7組
28 28:22.17 戸田 雅稀 日清食品グループ 6組
29 28:25.48 早川 翼 トヨタ自動車 6組
30 28:25.85 永山 博基 早稲田大学 4組
31 28:26.61 設楽 悠太 Honda 7組
32 28:27.54 矢野 圭吾 日清食品グループ 6組
33 28:28.50 大池 達也 トヨタ紡織 4組
34 28:28.92 伊藤 和麻 住友電工 5組
35 28:29.43 山藤 篤司 神奈川大学 4組
36 28:29.61 田中 秀幸 トヨタ自動車 5組
37 28:30.09 宮脇 千博 トヨタ自動車 4組
38 28:32.03 丸山 竜也 専修大学 5組
39 28:33.59 小椋 裕介 ヤクルト 5組
40 28:34.19 山口 浩勢 愛三工業 4組
41 28:35.32 柳 利幸 日立物流 5組
42 28:35.76 竹内 一輝 中国電力 4組
43 28:37.24 上村 和生 大塚製薬 5組
44 28:38.26 牟田 祐樹 日立物流 3組
45 28:39.30 大隅 裕介 JR東日本 3組
46 28:39.31 藤川 拓也 中国電力 5組
47 28:39.42 高木 登志夫 DeNA 5組
48 28:39.95 米澤 類 中国電力 5組
49 28:43.11 石川 颯真 日本大学 3組
50 28:43.36 高谷 将弘 JR東日本 3組
51 28:43.91 小山 大介 中電工 4組
52 28:44.27 河合 代二 トーエネック 5組
53 28:45.44 アッバイナ デグ 安川電機 5組
54 28:46.07 服部 翔大 Honda 3組
55 28:46.77 山崎 敦史 SUBARU 3組
56 28:47.17 定方 俊樹 MHPS 5組
57 28:48.73 千葉 一慶 八千代工業 3組
58 28:49.12 青木 優 カネボウ 5組
59 28:49.79 竹内 竜真 日立物流 2組
60 28:50.77 佐藤 達也 警視庁 3組
61 28:51.35 竹ノ内 佳樹 NTT西日本 3組
62 28:52.27 橋爪 孝安 SGHグループ 3組
63 28:52.60 松井 智靖 中国電力 3組
64 28:53.39 藤井 啓介 トヨタ自動車 3組
65 28:55.58 川崎 友輝 サンベルクス 5組
66 28:56.33 山本 修平 トヨタ自動車 4組
67 28:57.16 高宮 祐樹 ヤクルト 5組
68 28:57.35 松藤 大輔 カネボウ 3組
69 28:57.62 大山 憲明 創価大学 3組
70 28:57.67 伊藤 弘毅 アサヒGHD 4組
71 28:58.54 堂本 尚寛 JR東日本 6組
72 29:03.26 牧 良輔 SUBARU 2組
73 29:03.66 後沢 広大 YKK 4組
74 29:03.93 渡辺 力将 NTT西日本 4組
75 29:04.25 須河 宏紀 DeNA 4組
76 29:04.45 村本 一樹 住友電工 4組
77 29:04.51 清谷 匠 中国電力 4組
78 29:04.57 日下 佳祐 日立物流 2組
79 29:06.23 池田 宗司 ヤクルト 3組
80 29:06.80 山村 隼 NTT西日本 2組
81 29:07.41 飛松 佑輔 鹿児島城西AC 3組
82 29:07.68 前野 貴行 富士通 1組
83 29:08.18 松尾 修治 中電工 4組
84 29:09.16 小山 直城 東京農業大学 3組
85 29:09.68 中川 智春 トーエネック 6組
86 29:10.93 寺田 夏生 JR東日本 3組
87 29:11.59 設楽 啓太 コニカミノルタ 7組
88 29:11.67 松本 葵 大塚製薬 2組
89 29:12.21 二岡 康平 中電工 3組
90 29:12.83 松本 稜 トヨタ自動車 6組
91 29:13.53 益田 賢太朗 NTT西日本 3組
92 29:14.20 安島 慎吾 警視庁 3組
93 29:14.48 鈴木 駿 NDソフト 3組
94 29:17.74 ジュリアス タンキ MHPS 5組
95 29:18.53 工藤 有生 駒澤大学 6組
96 29:18.63 佐久間 建 自衛隊体育学校 3組
97 29:19.04 近藤 聖志 トヨタ自動車 1組
98 29:19.81 松本 賢太 トヨタ自動車 4組
99 29:20.02 吉田 憲正 SUBARU 2組
100 29:20.47 山田 直弘 YKK 4組
101 29:20.82 レダマ ウェズレイ SUBARU 2組
102 29:21.18 篠藤 淳 山陽特殊製鋼 4組
103 29:21.22 関戸 雅輝 NTT西日本 2組
104 29:21.80 山本 拓己 YKK 2組
105 29:22.00 合田 佳功 NTT東京 2組
106 29:22.30 松田 佑太 SGHグループ 4組
107 29:23.08 佐藤 辰準 警視庁 2組
108 29:27.51 橋本 隆光 小森コーポレーション 2組
109 29:28.32 タイタス ワロル コモディイイダ 4組
110 29:29.35 文元 慧 カネボウ 5組
111 29:29.80 久我 和弥 富士通 1組
112 29:30.17 前田 悠貴 Honda 2組
113 29:30.21 斉藤 翔太 JR東日本 2組
114 29:30.36 田中 孝貴 カネボウ 2組
115 29:30.99 山田 稜 八千代工業 3組
116 29:31.17 大崎 翔也 中電工 2組
117 29:31.31 濱崎 達規 小森コーポレーション 1組
118 29:31.31 松原 健太 トヨタ自動車 3組
119 29:32.07 坂口 竜成 警視庁 1組
120 29:32.28 服部 弾馬 東洋大学 6組
121 29:32.38 塩谷 桂大 SUBARU 3組
122 29:33.39 外丸 和輝 トヨタ自動車 3組
123 29:34.45 牧野 俊紀 中電工 2組
124 29:35.21 村刺 厚介 YKK 2組
125 29:37.48 高橋 裕太 大塚製薬 5組
126 29:38.52 上野 渉 Honda 2組
127 29:39.36 代田 修平 カネボウ 3組
128 29:39.43 大西 淳貴 サンベルクス 2組
129 29:39.67 香川 竜一 中電工 1組
130 29:40.25 渡邊 公志 SUBARU 1組
131 29:41.78 芝田 俊作 大阪府警 1組
132 29:41.96 沖守 怜 SGHグループ 2組
133 29:43.01 加藤 徳一 ヤクルト 3組
134 29:43.36 田村 英晃 JR東日本 1組
135 29:43.99 川南 友佑 大阪ガス 2組
136 29:45.19 末上 哲平 YKK 2組
137 29:46.73 末山 貴文 NTT西日本 1組
138 29:46.93 福士 優太朗 ヤクルト 3組
139 29:47.07 有井 渉 JR東日本 1組
140 29:48.06 鍋谷 紀之 大阪府警 1組
141 29:49.32 冨田 三貴 西鉄 3組
142 29:49.34 谷原 先嘉 大阪府警 1組
143 29:49.82 氏原 健介 警視庁 1組
144 29:50.01 齋藤 勇人 Honda 2組
145 29:50.41 松田 憲彦 警視庁 2組
146 29:50.68 今崎 俊樹 大阪ガス 1組
147 29:51.41 高久 龍 ヤクルト 4組
148 29:52.08 柱 欽也 警視庁 1組
149 29:52.61 清水 和朗 ヤクルト 2組
150 29:58.62 北澤 健太 八千代工業 4組
151 30:02.54 木田 貴大 コモディイイダ 2組
152 30:06.53 馬場 翔大 NTT西日本 4組
153 30:07.48 松枝 啓太 コモディイイダ 2組
154 30:11.37 西村 知修 ヤクルト 2組
155 30:11.77 吉元 真司 黒崎播磨 5組
156 30:15.28 西岡 喬介 中電工 2組
157 30:16.82 田代 一馬 日立物流 1組
158 30:17.93 木寺 良太 サンベルクス 1組
159 30:20.44 木津 晶夫 DeNA 4組
160 30:20.46 筒井 雅那 警視庁 1組
161 30:20.92 金子 晃裕 コモディイイダ 1組
162 30:23.18 井上 翔太 トヨタ自動車 3組
163 30:23.42 勝亦 祐太 ヤクルト 2組
164 30:24.00 佐藤 寛才 小森コーポレーション 2組
165 30:24.13 清水 弥寿允 大阪府警 1組
166 30:25.30 佐藤 晃章 コモディイイダ 1組
167 30:29.26 渡邊 晋史 コモディイイダ 2組
168 30:38.73 五郎谷 俊 コモディイイダ 2組
169 30:40.28 水戸 周平 サンベルクス 1組
170 30:43.36 八木沢 元樹 ヤクルト 2組
171 30:51.99 関口 頌悟 SUBARU 1組
172 30:53.96 山崎 翔太 ヤクルト 3組
173 30:58.54 槻澤 翔 警視庁 1組
174 31:01.78 蛯名 聡勝 小森コーポレーション 1組
175 31:12.84 松原 啓介 サンベルクス 1組
176 31:13.63 渡邉 克則 コモディイイダ 1組
177 31:19.74 小根山 泰正 警視庁 1組

高校生を目に見えない猛毒の中に行かせる原発マフィアの鬼畜な企みに怒りを覚える。

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福島県の高校生13人が18日、フクイチ(東電福島第一原発)を視察し、廃炉作業が進む原子炉建屋や免震重要棟などを見学した。放射能の線量が下がったとはいえ、危険がなくなったわけではない。成長期の子供がなぜ、そんな場所に行ったのか?

 実は1年がかりで高校生の視察を仕掛けていた男がいた。福島の内部被ばくが非常に低いことを宣伝している東大教授の早野龍吾だ。「フクイチはこんなに安全だ」とPRするために生徒たちは利用されたのではないか?

 視察したのは、福島県立福島高校スーパーサイエンス部などに所属する1、2年生13人。原発事故後の風評被害などについて学習してきた。ふるさと福島を愛する気持ちは人一倍強い子供たちだ


フクイチの安全性アピールに

高校生を広告塔に使うアイディアって

悪魔でなかったら

思いつかないように思う。

早野氏らは、

同じバスによるフクイチ見学会で

記者の場合と

女子高生の場合では

なぜ、かくも放射能防護の服装が違うのか、

その理由を説明すべきだ。

大倉バス停→橋本駅北口 全170回の軌跡 

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やはり

2006.10.21が記念すべき第一回目は記憶に残ります

だが、いきなりではなく、三ケ木まではその前に少なくとも10回以上はやっていた

余裕があったら橋本まで行ってみようと言うことで

大倉バス停9:05:19-塔ノ岳10:29:45-11:45:24蛭ケ岳11:52:17-12:27:48姫次12:32:18-焼山13:02:56-13:35:17焼山登山口バス停13:43:12-三ケ木14:17:55-橋本駅北口15:24:30( 6:19:11)   


2   10.30   6:29:14

3   11.03   6:30:10

4   11.12   6:31:25

5   11:18   6:25:33

6   11:25   6:19:13

7   12:02   6:14:00

8   12:06   6:08:25   これは、自信になりました

2007年                この年は山中湖コースを10回だったので少ない

9   11.04   6:38:12

10  11:08   6:37:51   10

11  11:11   6:36:08

2008年                故障もあって少ない

12  08.17   6:56:53

13  09:28   6:29:01

14  10:04   6:44:58

15  10:11   6:46:54

16  11:01   6:28:50

17  11:03   6:21:39

18  11:08   6:35:43

2009年

19  01.02   6:01:42

20  01.04   5:56:10   20 

21  03:15   6:09:20

22  03:28   6:15:08

23  04:19   5:45:00  初めてTTを意識させた

24  04:29   6:01:33

25  05:02   5:50:08

26  09.12   6:22:07

27  09.22   6:40:24

28  10:04   6:08:47

29  10:10   6:44:48

30  10:17   6:12:09   30

31  11:23   6:12:53

32  11:28   6:16:44

33  12:29   5:46:56  蛭ケ岳(2:14:13)TTのついでで流した

2010年

34  01.02   6:22:58

35  01.11   6:15:50

36  01.17   6:51:10

37  01.30   6:22:05  「のまさん」と初めて一緒に

38  03.22   6:47:01

39  09.26   6:29:51

40  10.16   6.29:57   40

41  10.24   5:41:13

42  10:31   6:04:03

43  11:03   6:40:08

44  11.06   6:28:28

45  11:13   5:41:42

46  11:20   6:00:03 「甘栗さん」と初めて 姫次→焼山登山口

47  11.23   6:21:26

48  11:27   6:10:01

49  12:04   6:03:40

50  12:23   6:14:12   50

2011年
 
51  01.10   7:22:30

52  01.29   7:12:30

53  04.02   7:40:10

54  04:16   6:33:34

55  04:24   9:43:47  ユーシン→檜洞丸→神ノ川→袖平山→焼山登山口廻り

56  05:04   7:04:42

57  05.08   7:10:33

58  05:21   6:36:43

59  06:04   6:44:34

60  06:18   6:43:45   60

61  06:25   7:04:50

62  07:02   7:09:37

63  08:13   7:06:43

64  08:20   6:12:26

65  08:28   6:44:15

66  09:24   6:49:34

67  10:02   6:59:20

68  10:23   6:14:54

69  11:23   6:07:01

70  12.04   6:18:50   70

71  12:11   6:59:19

72  12:25   6:40:22

73  12:29   7:34:23

74  12.31   7:07:11

2012年

75 01.02   6:53:29

76 01.07   6:53:23

77 01.09   6:08:33  「のまさん」と2回目

78 01.14   6:50:01

79 04.15   6:19:36

80 05.04   6:43:28   80

81 05.05   6:53:55

82 05.20   6:28:57

83 05.26   7:50:14  渋沢駅発

84 06.02   6:41:44

85 06.14   6:28:00

86 06.17   7:08:48

87 06.23   6:56:53

88 06.30   6:51:57

89 07.14   7:31:41

90 07.15   6:39:55   90

91 07.21   7:36:43

92 07:28   6:42:50

93 08.04   6:46:44

94 08.12   6:12:10

95 08.16   7:43:28

96 08.19   6:40:44

97 08.25   6:56:25

98 09.01   6:27:46

99 09.08   6:49:35

100 09.17   6:13:14  100

101 09.22   6:10:41

102 09.26   6:09:29  

103 09.29   6:48:11

104 10.06   6:16:13

105 10.08   5:41:16

106 10:13   5:52:29

107 10.17   5:51:23

108 10.20   5:46:51

109 10.24   6:24:19

110 10.27   5:55:43

111 11:03   5:32:26 ☆

112 11:10   6:01:46  

113 11:17   5:51:54

114 11:24   6:05:11

115 11:27   6:36:11

116 12:01   6:16:41

117  12:08   5:31:51 ☆自己ベスト



118 12:24   6:27:01

119 12.31   7:09:57

2013年               タイムより回数狙いで、蛭ケ岳1000回を意識して
 
120 01.03   7:27:16  

121 01.05   7:14:58

122 01.12   7:29:17

123 01.13   6:55:05

124 01.30   8:29:18

125 02.09   9:09:56  東野経由

126 03.01   7:53:40

127 03.03   7:30:07

128 03.12   7:39:59

129 03.16   7:20:17   

130 03.20   7:24:15

131 04.04   7:10:52

132 04.07   6:51:28

133 04.11   6:36:01

134 04.29   6:08:31

135 05.12   6:43:03

136 06.01   7:22:45

137 06.02   8:09:16 ボッカ駅伝応援経由

138 06.08   6:30:32 「大海さん」「k野さん」と初めて

139 06.15   6:55:05  

140 06.22   6:58:27

141 06:29   6:41:08

142 06:30   7:31:31

143 07.06   8:03:03

144 07.15   7:46:41

145 07.27   7:44:20

146 07.28   7:51:46

147 08.25   7:24:00   
   
148 09.07   6:36:13  「kazeさん」と初めて

149 09.14   7:43:04  

150 09.23   6:22:31

151 09.28   5:58:25  「kazuさん」と初めて

152 09.29   7:17:03

153 10.05   8:10:46

154 10.13   7:07:56

155 10.14   7:30:19

156 10.19   6:12:51

157 10.22   6:49:30

158 10.27   6:02:40

159 11.02   6:15:27  

160 11.04   7:16:40

161 11.09   7:04:55

162 11.16   7:11:05

163 11.23   6:24:47

164 11.24   6:58:02

165 11.30   6:42:28

166 12.01   7:33:03

167 12.07   6:49:56

168 12.14   6:45:42

169 12.22   8:06:11  軟らかい新雪  

170 12.28   9:59:29  東野経由  積雪多し 蛭ケ岳998回目 



(ロード編) 焼山登山口→橋本駅北口 自己ベスト
2013-12-16 06:24:14 | 橋本駅コース
2013.12になってから

山は冬季シーズンとなり、やや悪路かな

全コースを通してのタイム・トライアルはやりにくくなりました


しかし

ロードに限っては

最適ロード・シーズンとなりました

暑くも寒くもなく

途中の給水も一回くらいで


今までの枠から

少し大きな目標を掲げてやっています


ここのところ

単独走ではなく

フル・マラソンの実力者に引っ張ってもらい

無理やり突っ込んでの入りで

やっています


2013.12.14(土)実施


大倉バス停→焼山登山口バス停までは5:10:43で


焼山登山口スタート

0:00  

梶野交差点

9:40

前戸バス停

12:23( 2:43)

橋野沢バス停

14:32( 2:09)

地蔵前バス停

17:29( 2:57)

鮑子取入口バス停

18:21( 0:52) 

衛生センター前バス停

23:29( 5:08) 

青山バス停

24:51( 1:22)

三ケ木新宿バス停

25:59( 1:08)

三ケ木交差点

28:25( 2:26)

大沢交差点

35:39( 7:14)

日赤病院前バス停

42:08( 6:29)

城山高校前バス停

53:20(11:12)

久保沢交差点

1:00:24( 7:04)

原宿交差点

1:04:47( 4:23)

東原宿交差点

1:06:54( 2:07)

二本松交差点

1:09:53( 2:59)

相原台交差点

1:13:50( 3:57)

橋本駅北口

1:20:58( 7:08)


私の記録ですが

ラスト2区間が惜しまれます

2つの交差点での信号待ちと踏み切り待ちでした

これだけがロス・タイムで

二本松交差点までは、ほぼ、自分の中では完璧ペース

東原宿交差点までは

前を走る「K野さん」の後姿もありましたが

信号で引っかかってしまい

その後見失いました

「K野さん」は川尻交差点で引っかかったのみで後はスルー

信号に引っかかるのも実力のうちです


この区間での

ロード最高記録は

「K野さん」の1:18:10となっています

2010.12.25(土) 塔ノ岳5本/1日 の記録  

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大倉バス停→橋本駅北口42回目 10.10/24(日)の記録


大倉バス停7:03:00-堀山ノ家7:48:44-塔ノ岳8:21:47-9:29:06蛭ケ岳9:32:24-11:07:46焼山登山口バス停11:10:18-三ケ木11:45:55-橋本駅北口12:44:13( 5:41:13)


0:00:00-1:18:47-2:26:06-4:04:46-4:42:55-5:41:13

10.11/13(土)


大倉バス停7:06:21-堀山ノ家7:52:31-塔ノ岳8:25:06-9:28:23蛭ケ岳9:33:03-11:03:33焼山登山口バス停11:09:44-三ケ木11:45:16-橋本駅北口12:48:03( 5:41:42)


0:00:00-1:18:45-2:22:02-3:57:12-4:38:55-5:41:42

10.12/23(土)

倉バス停7:03:04-堀山ノ家7:51:46-塔ノ岳8:26:05-9:32:57蛭ケ岳9:42:01-11:32:27焼山登山口バス停11:39:00-12:15:36三ケ木12:16:24-橋本駅北口13:17:16( 6:14:12)


これを経て

12/25

大倉ロッジ峠6:16:04-7:53:25塔ノ岳7:56:01-大倉ロッジ峠9:03:21(2:47:17)


大倉ロッジ峠9:13:21-10:39:10塔ノ岳10:42:31-大倉ロッジ峠11:51:34(2:38:13)


大倉ロッジ峠12:04:17-13:36:23塔ノ岳13:42:37-大倉ロッジ峠14:52:49(2:48:32)


大倉ロッジ峠15:12:49-16:53:39塔ノ岳16:59:54-大倉ロッジ峠18:21:54(3:09:05)


大倉ロッジ峠18:56:04-20:49:59塔ノ岳21:02:54-大倉ロッジ峠22:38:32(3:42:28)


ラスト5本目の頂上はクリスマス寒波で吹雪で氷点下10度でした



登り合計8:22:56  下り合計6:24:13  計14:34:14 休憩計1:48:14


12/30


大倉ロッジ峠6:31:25-8:03:13塔ノ岳8:08:08-大倉ロッジ峠9:11:52(2:40:27)


大倉ロッジ峠9:26:30-10:50:29塔ノ岳10:54:49-大倉ロッジ峠11:51:30(2:25:00)


大倉ロッジ峠12:05:30-13:23:21塔ノ岳13:26:48-大倉ロッジ峠14:18:15(2:12:45)


大倉ロッジ峠14:31:15-16:00:05塔ノ岳16:17:50-大倉ロッジ峠17:27:17(2:56:02)





25も30も別々の格上のトレランさんと一緒の行動でした


11.1/8


大倉ロッジ峠6:16:00-7:43:51塔ノ岳7:47:26-大倉ロッジ峠8:41:53(2:25:53)


大倉ロッジ峠8:54:00-10:10:42塔ノ岳10:13:18-大倉ロッジ峠11:05:04(2:11:04)


大倉ロッジ峠11:14:00-12:30:21塔ノ岳12:33:32-大倉ロッジ峠13:29:27(2:15:27)


大倉ロッジ峠13:41:27-15:09:29塔ノ岳15:15:17-大倉ロッジ峠16:08:32(2:27:05)



今思えば下りが素晴らしかったです


これから7年の時が経ち、下りはボロボロです


車をベースにして塔ノ岳を一日複数回やっていた頃です

かつての山の思い出

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2003.8.02

折立8:32:20-10:19:55太郎平小屋10:29:26-11:43:25薬師沢小屋11:58:02-高天原小屋14:57:17(6:24:57)

8.03

高天原小屋4:45:12-温泉沢ノ頭6:40:54-8:01:06赤牛岳8:29:04-10:09:55水晶岳10:16:06-鷲羽岳11:39:11-12:22:09三俣山荘13:09:01-黒部五郎小屋15:03:14(10:18:02)

8.04

黒部五郎小屋4:30:00-5:55:56黒部五郎岳6:31:02-9:05:43太郎平小屋9:31:06-折立10:45:31(6:15:31)

9.27

猿倉5:56:14-9:17:18白馬岳9:26:52-12:43:37不帰岳避難小屋13:03:42-祖母谷温泉15:55:14(9:59:00)

9.28

祖母谷温泉7:13:35-10:56:45阿曽原温泉11:07:47-13:34:20仙人温泉13:50:08-仙人池15:04:08()
7:50:33)

9.29

仙人池6:32:54-8:49:12ハシゴ谷乗越8:56:52-黒四ダム12:29:18(5:56:24)



1993.8.14

高瀬ダム6:53-9:28烏帽子小屋10:05-三俣山荘16:01

8.15

三俣山荘5:55-11:13槍岳山荘12:36-南岳小屋14:00

8.16

南岳小屋4:55-7:43北穂小屋8:30-9:45涸沢小屋10:32-横尾12:00-河童橋13:40

2007.6.23

女神茶屋4:16:00-蓼科山5:24:31-北横岳7:13:07-麦草峠8:45:27-夏沢峠11:18:12-13:11:51赤岳13:34:06-15:35:45編笠山15:45:46-小淵沢駅17:37:18(13:21:18)




2007.3.31


大倉4:35:00-蛭ケ岳7:47:48-檜洞丸9:16:31-大室山11:14:29-菰釣山14:00:08-高指山15:38:19-旭日丘16:43:53(12:08:53)


2007.4.7

大倉3:33:00-蛭ケ岳6:56:15-檜洞丸8:31:50-大室山10:30:15-菰釣山13:20:48-高指山15:05:28-旭日丘16:16:07(12:46:07)


2007.4.13

大倉3:49:00-蛭ケ岳6:56:42-檜洞丸8:27:50-大室山10:21:35-菰釣山13:02:44-高指山14:41:33-旭日丘15:41:09(11:52:09)


2007.4.29


大倉4:22:00-蛭ケ岳7:33:06-檜洞丸9:03:30-大室山10:58:04-菰釣山13:52:21-高指山15:32:14-旭日丘16:43:53(12:08:53)

2007.5.4

大倉4:26:00-蛭ケ岳7:20:07-檜洞丸8:51:00-大室山10:48:38-菰釣山13:43:56-高指山15:31:12-旭日丘16:22:21(11:56:21)


2007.5.12

大倉4:13:40-蛭ケ岳7:17:07-檜洞丸8:53:33-大室山10:48:01-菰釣山13:47:20-高指山15:27:16-旭日丘16:43:53(12:05:39)

2007.5.20


大倉4:28:00-蛭ケ岳7:21:39-檜洞丸8:46:50-大室山10:31:19-菰釣山13:16:10-高指山14:56:07-旭日丘15:39:31(11:11:31)


2007.6.2

大倉5:28:00-蛭ケ岳8:10:03-檜洞丸9:36:22-大室山11:17:25-菰釣山14:09:14-山伏峠15:31:29-旭日丘16:19:40(10:51:40) 水切れ


2009.5.9

大倉4:02:00-蛭ケ岳6:57:27-檜洞丸8:30:25-大室山10:20:52-菰釣山13:12:54-高指山15:02:36-旭日丘15:56:38(11:54:38)



2009.5.16

大倉3:58:55-蛭ケ岳7:13:42-檜洞丸8:43:49-大室山10:34:54-菰釣山13:23:38-高指山15:03:43-旭日丘15:56:57(11:58:02)


2009.5.30

大倉4:48:11-蛭ケ岳7:54:39-檜洞丸9:25:58-大室山11:21:30-菰釣山14:13:32-高指山16:01:09-旭日丘16:53:14(12:05:03)


2009.8.19

広河原6:33:00-北岳8:48:48-大門沢下降点12:19:55-奈良田15:08:01(8:35:01)


2009.11.21

大倉7:13:34-蛭ケ岳9:51:08-檜洞丸11:19:32-ユーシン12:56:06-雨山峠13:34:45-塔ノ岳14:48:19-大倉15:45:50(8:32:16)


2009.12.29

大倉バス停7:07:11-蛭ケ岳9:21:22-焼山登山口11:06:57-橋本駅12:54:07(6:46:56)










11/20 追手の影を感じながら大倉バス停⇒橋本駅北口13:11着  

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焼山中腹がとても鮮やかに綺麗な紅葉でした

ブラームスの雨の歌が流れて行きました


2015
年末現在

 2484塔ノ岳2557

 1302丹沢山1372

 1138蛭ヶ岳1207

  558姫 次625

  364焼 山416

  361焼山登山口411

  350三ケ木398

  263橋本駅北口291





今日は

異常に暖かい陽気で

大倉尾根は脱水症状になりやすいので

いつもより抑え気味に

いつものコースなので

焼山登山口で追い着かれる予定で

ロードは暑いくらいなので

5分差なら追い着いてくるだろうと

後半型で流しながらゴール

6:22:23でした











ピアノ・トリオは、名作の宝庫。それでもシューマンにどっぷり浸かってきたのは、凄く共感するところがあるからです。

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シューマンにとって、表現媒体は詩でも文学でも良かった。たまたま音楽だった。シューマンは巨大な思想を表現したかっただけである。ショパンが天才ならシューマンは天才を超えた天才かもしれない

しかし、同時に妻・クララシューマンもヨーローッパ随一のピアニストとして、当時、脚光を浴びていました。

クララの父、ヴィークはクララとシューマンの結婚を頑なに反対します。
そして、1年以上にわたる裁判でついにシューマンが勝訴。
二人は、結婚することが出来ました。
世間ではヴィークを親のエゴと取る人も多いでしょう。
実際、文献にもヴィークは天才ピアニストだった娘を一気に世間に売り出したかった、だから反対したという説もあります。

シューマンは音楽家になる為の教育をうけていなかった。しかし、ショパンやその他の作曲家は音楽家になるしかない教育を受けていた。この違いは大きいと思っています。シューマンの型破りなメロディは時に、思想や詩をそのままメロディにあてはめただけじゃないか?というものがあります。一方ではトロイメライのような誰が聴いても名曲だなという曲をさっと書ける。シューマンの天才は少し、特殊であったように思います。

全く飽きないんですよね。私の嗜好もあるのでしょうが、シューマンの曲は飽きない。

「私が生涯愛し続けるのはロベルト、ただ一人です」
ロベルト・シューマン死後、クララがブラームスにあてた手紙である。

シューマン死後、ブラームスはクララと一緒に、シューマンの仕事を整理していきます。そして、クララとの手紙のやり取りを続けていくわけです。ブラームスがクララをずっと片思いで思っていたのは確かでしょう。しかし、クララはお姉さんのような態度で接します。そして、クララが亡くなった後、ブラームスも後を追うように死にます。

巨星がここにも堕ちたのです。

シューマンはいわゆる当時のドイツでわずかしかない国立大学の法学部に合格します。
幼い頃から音楽も、詩も、勉強も出来たエリートだったわけです。
彼は彼の母の願い通りに一般社会で、社会的な地位を目指すことになります。
ところが、大学に入っても音楽への思いを捨てきれず、大学で全く勉強しません。
そして、ついに母親に、音楽の道へ進ませて欲しいと懇願します。
母は、大変困惑しながらも、当時ピアノを教えてくれていたヴィーク(クララの父)に相談します。ヴィークは「おたくの息子は芽がある」と回答します。

これにより、シューマンは一気に、ピアノのほうへ突き進んでいくことになります。
しかし、ヴィークはシューマンのもつ躁鬱気質に気づいていました。
また、そこを気がかりに思っていたようです。
事実、シューマンはピアニストになる為に猛練習をしますが、間に合わない、と判断し、指を拡張する機械を作り、結果、指を痛めるという暴挙に出ます。異常です。
シューマンのピアニストとしての夢はここで断たれるわけです。

しかし、ヴィークも馬鹿ではありません。彼のもつ作曲才能を見抜いています。
天才かもしれない、とヴィークはこの時、感じつつ、しかし、あの性格では娘はやれないと考えるわけです。(と、私は判断、解釈をしています)

しかし、クララは違いました。シューマンは自分にない部分を全てもっていると感じたのです。だから、二人は強く愛し合います。その結果、結婚は「裁判」という泥沼になってしまいます。
裁判は1年(2年弱?)でシューマンの勝訴。二人は結婚します。


伊藤恵&ヤング・ミュージシャンズ ▽【出演】伊藤恵(ピアノ)/ エール弦楽四重奏団:山根一仁・毛利文香(バイオリン)、田原綾子(ビオラ)、上野通明(チェロ)▽【演奏曲】幻想小曲集 作品88(シューマン)、ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44(シューマン)▽【収録】2014年3月14日/NHKスタジオ

楽曲

「幻想小曲集 作品88」
(作曲)シューマン、(ピアノ)伊藤恵、(バイオリン)山根一仁、(チェロ)上野通明
(16分44秒)
~NHK102スタジオ~

「ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44」
(作曲)シューマン、(ピアノ)伊藤恵、(バイオリン)山根一仁、(バイオリン)毛利文香、(ビオラ)田原綾子、(チェロ)上野通明
(30分00秒)
~NHK102スタジオ~

竹澤恭子(ヴァイオリン)
才能教育研究会にてヴァイオリンを学び、桐朋女子高校音楽科在学中に第51回日本音楽コンクール第1位、併せてレウカディア賞、黒柳賞を受賞。1986年第2回インディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールで圧倒的な優勝を飾る。以来、“世界のKYOKO TAKEZAWA”として国際的スターダムを昇り続けている。これまで、ニューヨーク・フィル、シカゴ響、ロンドン響、ロイヤル・コンセルトヘボウ管など世界の主要オーケストラと共演。アスペン、ルツェルンといった世界的な音楽祭にも参加するなど、幅広い活躍を続けている。録音もRCAレッド・シールより多数リリース。常に活躍の場を広げ、2009年にはデビュー20周年記念リサイタルシリーズの締めくくりとしてブラームスのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会を各地で開催。2010年1月にはシカゴ響の定期演奏会でアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲を演奏し絶賛を博し、ミルウォーキー響、バンクーバー響定期演奏会にも登場。2011年にはフィルハーモニア管のスペインツアーで、2012年にはヘンゲルブロック指揮、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団の日本公演のソリストを務めた。メニューイン国際コンクール(2010年)等、国際コンクールの審査員も数多く務める。1993年『第3回出光賞』受賞。使用楽器は、NPO法人イエロー・エンジェルよりアントニオ・ストラディヴァリウス、‘ヴィオッティ’(Viotti/1704年製)を貸与されている。
オフィシャルホームページ http://www.kyokotakezawa.com/


堤 剛(チェロ)
名実ともに日本を代表するチェリスト。桐朋学園子供のための音楽教室、桐朋学園高校音楽科を通じ齋藤秀雄に師事。1961年アメリカ・インディアナ大学に留学し、ヤーノシュ・シュタルケルに師事。63年よりシュタルケル教授の助手を務める。同年ミュンヘン国際音楽コンクールで第2位、ブダペストでのカザルス国際コンクールで第1位入賞を果たし、現在に至るまで、日本、北米、ヨーロッパ各地、オーストラリア、中南米など世界各地で定期的に招かれている。これまでに、1993年度『日本芸術院賞』をはじめ、1973年『ウジェーヌ・イザイ・メダル』、1974年『芸術祭放送大賞』、1998年『中島健蔵音楽賞』などを受賞。2009年秋の紫綬褒章を受章。また同年、天皇陛下御在位二十年記念式典にて御前演奏を行った。2013年、文化功労者に選出。録音における活躍も目ざましく、2010年には演奏活動60周年記念盤「アンコール」、2013年には堤の古希を祝って日本の名だたる作曲家たちが書き下ろした新作を収録した「アニバーサリー」(ともにマイスターミュージック)がリリースされ、絶賛を浴びている。2001年より霧島国際音楽祭音楽監督。1988年秋から2006年春までインディアナ大学の教授を務め、2004年4月から2013年3月まで9年の長きにわたり桐朋学園大学学長を務めた。2007年9月、サントリーホール館長に就任。日本芸術院会員。


伊藤 恵(ピアノ)
幼少より有賀和子氏に師事。桐朋学園高校を卒業後、ザルツブルグ・モーツァルテウム音楽大学、ハノーファー音楽大学において名教師ハンス・ライグラフ氏に師事。エピナール国際コンクール、J.S.バッハ国際音楽コンクール、ロン=ティボー国際音楽コンクールと数々のコンクールに入賞。1983年第32回ミュンヘン国際音楽コンクールピアノ部門で日本人として初の優勝。サヴァリッシュ指揮バイエルン国立管と共演し、ミュンヘンでデビュー。その後もミュンヘン・シンフォニカ、フランクフルト放送響、ベルン響、チェコ・フィルの定期公演などに出演。日本では「若い芽のコンサート」でN響と共演、その他にも各オーケストラとの共演、リサイタル、室内楽など多方面で活躍を続けている。録音はシューマン・ピアノ曲全曲録音「シューマニアーナ(1~13)」、「ブラームス: ピアノ協奏曲」、「ショパン: エチュード」、最新版として「シューベルト ピアノ作品集6」がフォンテックからリリースされている。2007年秋には、シューマン・ピアノ曲全曲録音完成記念コンサートが行われ好評を博した。また、サイトウ・キネン・フェスティバル松本はじめ武生音楽祭、軽井沢音楽祭、リゾナーレ音楽祭、東京・春・音楽祭、ラ・フォルジュルネ音楽祭などに参加。2008年からの新たな8年シリーズではシューベルトを中心としたリサイタルを開催。2013年、香港にてアントニオ・メネセスと共演。1993年『日本ショパン協会賞』、1994年『横浜市文化賞奨励賞』受賞。現在、東京藝術大学教授、桐朋学園大学特任教授。

<3人のスーパースターが贈る、魔法の時間>
ピアノ・トリオは、名作の宝庫。それは3人の奏者が親密に語らいながら、各々の技を競う音楽でもあるからで、それゆえに数多くの名作曲家の好奇心を掻き立ててきました。また、スーパースター同士が演奏するジャンルとしても知られますが、今回は、世界中の指揮者から共演を熱望される竹澤恭子(ヴァイオリン)、名実ともに日本を代表する巨匠・堤剛(チェロ)、ソロのみならずその知性と豊かな表現力で魅了する室内楽の名手・伊藤恵(ピアノ)という、まさに日本が誇るスーパースターが揃いました。
プログラムは、前半にソロやデュオで各々の妙技を、後半はピアノ三重奏曲の名作チャイコフスキーの《偉大な芸術家の思い出に》を、練達が奏でる豪華版。
3人のスーパースターの出会いは、どのような化学反応を起こすのか。
必ずや、みなさまの記憶に残るコンサートとなることでしょう。

プログラム>

J.S.バッハ:
  《無伴奏チェロ組曲》第2番 ニ短調 BWV1008 より
  「プレリュード」「クーラント」「ジーグ」
チャイコフスキー:
  なつかしい土地の思い出 作品42
ベートーヴェン:
  ピアノ三重奏曲 第4番 変ロ長調 作品11 《街の歌》
チャイコフスキー:
  ピアノ三重奏曲 イ短調 作品50 《偉大な芸術家の思い出に》








ふたりのシューマンに憧れて――
トッパンホールプレスVol.75より
伊藤 恵 インタビュー
Kei Itoh
聞き手=トッパンホール
写真=藤本史昭 



人生の夏を力強く駆けるアーティストが、考え抜いたプログラムでその真価と現在を聴かせる〈おとなの直球勝負〉。3年ぶりとなるこの人気シリーズに、いよいよ伊藤恵が登場します。20年をかけて完結したプロジェクト「シューマニアーナ(ピアノ作品全曲録音)」に象徴されるように、伊藤のライフワークは“シューマンの探求”。今回は、並々ならぬ情熱を傾け続けるこの原点=シューマンに強くスポットを当てます。

 今回、シリーズ名にある“直球”の言葉が飛び込んできて、シューマンを全面的に取り上げることに決めました。《クライスレリアーナ》と《幻想曲》は、いずれも彼の最高傑作と言って言い過ぎではない2曲。どちらも大作で、一度に弾くのは大変だし思い切ったことですが、私をシューマンへと誘った人・クララの作品も並べて、ふたりへの私の想いを凝縮したプログラムに仕上げました。

 私のシューマンへの決定的な入口は、音楽好きな伯母から贈られた一冊の本「クララ・シューマン―真実なる女性(原田光子・著)」。高校を卒業してザルツブルク(モーツァルテウム音楽院)に留学する前に、ぜひ読みなさい、と渡されて。もう、クララに夢中になりました。本当にすごい人。ラヴレターのように贈られるロベルトの作品を次々に弾いて世に広め、父親の猛反対も押し切ってついには彼と結ばれ、子をたくさん生んで育て、それでも生涯ピアニストだったうえに作曲までして…“尊敬”の文字しか浮かびません。心から憧れました。

 一方で、私の人生の大切なポイントには、必ずロベルトがいました。5歳で有賀和子先生につくとき聴いていただいたのが、《子供の情景》。中学では同門の子がみんなショパンのバラード1番を習っているのに、私だけ《アベッグ変奏曲》。有賀先生はシューマンを得意になさっていたので、私に何かを見出してくださったのかも知れません。ザルツに行くきっかけになったハンス・ライグラフ先生の桐朋学園でのレッスンでも、有賀先生のすすめで《幻想小曲集》をみていただきました。ザルツに行ってからも、ライグラフ先生が次から次にくださる課題はシューマンばかり。その最初が《クライスレリアーナ》でした。そのうち先生ったら「ショパン弾きはたくさんいても、シューマン弾きはなかなかいないから、きみ、なるといいぞ」とおっしゃって(笑)。振り返ってみると、自分でシューマンを選んだというよりは、与えられたものに一生懸命取り組んできた、ということかも知れません。

 それでもシューマンにどっぷり浸かってきたのは、凄く共感するところがあるからです。彼の作品を通じて感じるのは“たったひとりの人へ伝えようとする想い”。偉大な先達ベートーヴェンという巨大な壁、幻聴など終わりのない病苦…多くの葛藤のなかで作曲し続けた人ですが、作品の根底に究極的に流れているのは“ひとりの人への愛”だと感じます。それで私も、演奏会で弾いていても、そこに何人お客さまがいらしても、作品のさまざまな感情を表現する一方でシューマンに気持ちを重ねて、どこか“たったひとりの人のために弾く”ようになっていった気がします。音楽には、ときに時間を越えて記憶やイメージを喚起、刺激する力がありますから、お客さまが聴きながら、誰かを思う気持ちを重ねてくださったら嬉しいですね。

 《クライスレリアーナ》と《幻想曲》は、シューマンのなかでも特にロマン主義志向が強く表れた2曲。階級制度が無くなって平等が謳われるようになり、個人の感情が大切にされはじめた時代を象徴する作品かも知れません。ちょうど、クララとの恋愛がピークを迎えた時期に作られました。2曲は作品番号こそ隣り合わせですが、全然違う書き方がされています。《クライスレリアーナ》は、8つの小さな曲によるひとつのツィクルス。初版はショパンに献呈されていますが、実は「笑ったり泣いたりしながら、きみのことを想って書いた」というクララ宛ての手紙が残っています。3日くらいで仕上げたという、恋人を想う強い情熱の勢いが書かせた曲ですね。《幻想曲》はベートーヴェン生誕65周年のときの、リストの呼びかけがきっかけで作曲されました。ベートーヴェンへのオマージュ的な大きなソナタ形式で、《遥かなる恋人へ寄す》の引用からは、ベートーヴェンという巨星への尊敬と挑戦を見ることもできます。そして曲頭に添えられたシュレーゲルの詩には、クララへの深い想いが潜められていると言われています。

 そんな2曲ですので、プログラムにクララ作品を合わせました。彼らはまさに相思相愛。彼女の曲からは、彼女がロベルトの内面的なものをいかに愛していたか、彼をいかに尊敬していたかが聞こえてきます。女性らしい繊細さやあたたかさ、純真な乙女心、穏やかな母性など、クララはピュアでラヴリーで、ちょっとメルヘン(笑)。女性の活躍が困難だった時代、作曲家としての才能にもリストなど当時の名だたる音楽家からの多くの賛辞が残っています。作品を弾くと、彼女がピアニストとしてもどれほど優れていたかがよくわかる。全編を通して、ふたりのシューマンの才気と、強いつながりをお聴きいただけたらと願っています。

 実は、クララの本をくれた伯母は、長いあいだ凸版印刷さんで校正の仕事をしていた人でした。伯母はもう亡くなりましたが、ご縁の深い場所での私のシューマン・プログラムを、きっと天国で喜んでくれていると思います。
〈おとなの直球勝負 14〉
伊藤 恵(ピアノ)
2015年1月24日(土) 15:00
クララ・シューマン:ロベルト・シューマンの主題による変奏曲 Op.20
ロベルト・シューマン:クライスレリアーナ Op.16
クララ・シューマン:4つの束の間の小品 Op.15
ロベルト・シューマン:幻想曲 ハ長調 Op.17
■一般 5,000円 / 学生 2,500円

2007年、シューマン・ピアノ曲全曲録音を果たした伊藤さんは、日本を代表する“シューマン弾き”としても知られている。
「有賀先生の前でも、ライグラフ先生の前でも、初めて弾いたのはシューマンでした。留学中にはライグラフ先生が次々シューマンの曲を課題にくださって。気づいたら、約20年間、シューマンと向き合っていました」
 その後、伊藤さんは、シューベルトの作品に力を入れてきた。CDとしてはすでに、「シューベルトピアノ作品集」の1~5が発表され、この5月には最新作6が発売になる。また、8年連続で開催してきたシューベルト中心のシリーズ「新・春をはこぶコンサート」が、4月29日、最終回を迎えようとしている。
 大きな区切りを迎えるいま、伊藤さんは、今度の展開をどう考えているのだろうか。
「次に私が向き合っていくのは、おそらくベートーヴェンだと思っています。もちろん、シューマンとシューベルトは“私の宝もの”なのでこれからも大切にしていきます。ときどきはブラームスに浮気しながら(笑)」
 シューマンはシューベルトを尊敬していたし、シューベルトが尊敬していたのは、ベートーヴェン。伊藤さんは、30年以上の歳月をかけて、その流れをたどっていくことになる。
今後、私たちにどんなベートーヴェンを聞かせてくれるのだろうか。
「ベートーヴェンといえば、過酷な運命と向き合う“闘う男”という印象が強いでしょう。でも、中には、彼の別の一面を見せてくれるものがあります。たとえば、ピアノソナタ第28番や30番など……そうした作品を中心に、挑戦していきたいです。私が惹かれるのは、ベートーヴェンの楽譜にたびたび現れる「Dolce」の部分です。彼のドルチェほど優しいドルチェを私は知りません。おそらく彼は、本当は誰よりも優しい人だったのではないでしょうか。そんなベートーヴェンの一面に、スポットを当てたいと思っているのです」


07.29 1856 シューマン永眠。エンデニヒにて、午後4時。享年46歳。

11.19 1828 フランツ・ペーター・シューベルト、ヴィーンにて死す。享年31歳。

シューマンは天国からクララとブラームスの友情を微笑ましく見ていた気がします。

ドイツ3大B。バッハ、ベートーベン、ブラームスと言われていますね。
ブラームス、私は交響曲の2番が今、一番好きです。

シューマンという人間はとてもメンデルスゾーンを敬愛していました。

またシューマンはショパンの音楽を絶賛し、ショパンに「クライスレリアーナ」という曲を献呈します。しかし、ショパンは困った。ショパンには理解不能の音楽だったのです。
だからお返しは「バラード2番」、ショパンが最も不出来だと思っていた曲になります。


シューマンは確かに偉大な作曲家でした。
しかし、同時に妻・クララシューマンもヨーローッパ随一のピアニストとして、当時、脚光を浴びていました。

(2016.11.24 追記)
NHKの「クラシック音楽館」の番組サイトにこの演奏会の放送予定が掲載されていました。

2017年 1/15(日) 21:00
NHK-Eテレ「クラシック音楽館」
http://www4.nhk.or.jp/ongakukan/


今週末のNHK交響楽団定期公演でオール・シューマン・プログラムの演奏会が行われます。チケットはまだ買えるようです。N響サイトで残席の確認とチケットの購入ができます。

現在のN響定期は2日公演のうちの初日がFMで生中継され、後日、Eテレの「クラシック音楽館」(日曜21:00~23:00)で放映されることになっています。FMの生中継はNHKのネットラジオ「らじる★らじる」でも聴くことができます。PCからはブラウザで、スマートフォン/タブレットからは専用アプリで簡単に聴くことができます。

※なお、初日の11月19日はシューベルトの命日です。(没後188年)

「題名のない音楽会 ~ 女性指揮者の音楽会」

司会:五嶋龍(ヴァイオリニスト)、松尾由美子(テレビ朝日アナウンサー)

(放送予定日)
テレビ朝日:2016年 12/11(日) 09:00~09:30
BS朝日:2016年 12/18(日) 23:00~23:30

「題名のない音楽会」各地のネット局(Wikipedia)


※以下、会場で配布されたプログラムから曲名の表記も含めて転記。

「春の朝に」 より抜粋
作曲:L.ブーランジェ
指揮:三ツ橋敬子
演奏:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

「ピアノ協奏曲 イ短調」第1楽章 より抜粋
作曲:C.シューマン
ピアノ:伊藤恵
指揮:三ツ橋敬子
演奏:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

「ラ・ヴァルス」 より抜粋
作曲:M.ラヴェル
指揮:三ツ橋敬子
演奏:神奈川フィルハーモニー管弦楽団


「題名のない音楽会」(テレビ朝日)
「題名のない音楽会」(BS朝日)



2017年 3/24(金) 19:00開演

ヤマハホール (東京)

珠玉のリサイタル&室内楽 伊藤 恵 ピアノ・リサイタル

シューマン / 幻想小曲集 op.12
ベートーヴェン / ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 op.109
シューベルト / ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959


2017年 4/2(日) 14:00開演

オリンパスホール八王子 (東京・八王子)

宮地楽器創業100周年記念コンサート

伊藤恵 ピアノ・リサイタル ~飛翔~

シューマン / 幻想小曲集 op.12 より
        夕べに
        飛翔
シューマン / こどもの情景 op.15 より
        トロイメライ
シューベルト / 即興曲集 op.90, D899 より
        第2番 変ホ長調
        第3番 変ト長調
プーランク / 15の即興曲 より
        第12番 シューベルトへのオマージュ
        第15番 エディットピアフへのオマージ
ショパン / 小犬のワルツ 変ニ長調 op.64-1
ショパン / 幻想即興曲 嬰ハ短調 op.66
ショパン / エチュード op.10 (全曲)
リスト / 愛の夢 第3番
ワーグナー=リスト / イゾルデの愛の死
シューマン=リスト / 献呈


NHK交響楽団 第1848回 定期公演 Aプログラム

2016年 11/19(土) 18:00開演| 11/20(日) 15:00開演
NHKホール

デーヴィッド・ジンマン(指揮)
レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)

(オール・シューマン・プログラム)
劇付随音楽「マンフレッド」 op.115 より 序曲
ピアノ協奏曲 イ短調 op.54
交響曲 第3番 変ホ長調 op.97 (ライン)

【問い合わせ】
N響ガイド 03-5793-8161

巨匠ジンマン、名手アンスネスとお贈りする、シューマン・プログラム



特集「幻想と情熱の世界へようこそ! シューマンのピアノ作品」
ピアニストが選ぶ シューマンピアノソロ曲ランキング
シューマンの生涯(高久暁)
シューマン ピアノ練習秘話 その真相は?(萩谷由喜子)
シューマンピアノ主要作品(西原稔)
「過去の音楽」に見るシューマンのピアノ室内楽曲とその魅力(高松佑介)
ピアニストが語るシューマンのピアノ協奏曲(梅村知世)
シューマンの時代のフォルテピアノ(小倉貴久子)
歴史の荒波に漕ぎ出す──文筆家シューマンの冒険(堀朋平)
シューマンを聴くならこれ! おススメCD選(道下京子)

そしてその日がもうすぐ来る可能性が高まっています!

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国家とは富を貧乏人、庶民から搾取して特権階級に配分する装置。
年金も国民から金を巻き上げる為の制度。
ネズミ講が苦しくなってきたので搾取率を上げただけ。

廃炉費用、賠償費がどんどん膨らんでいくというんだが、もう日本はオシマイです。世界一高い公務員人件費と、世界一高い電気代で、マトモな産業が成り立つわけがない。既に、日本の人口は減り始めている。長寿化の伸びもとまった。東京では、突然、心臓が止まって死ぬ人が急増している。癌も増えている。かつて、「日本」という国があった。今はない。

なぜ、税金を無尽蔵に注ぎ込んで東電を助けるのか? 株主のためです。東電の筆頭株主は東京都。天皇家も株主。政治家諸氏もみんな株主。日本の上級国民はみんな、東電の株主だ。上級国民の資産を保全するために、国民全員が犠牲となる。

20兆円で終わるわけねーだろwww
いまだ現実的な手段がないのに(笑)
1000兆円はいく。
ロシアが石棺にしてるのには理由があるんだよw



半分は 政治家・ヤクザの懐に・・・・
ぼったくり日本


福島近辺の人は賠償金もらいやすいけど
300kmも離れると農業被害だの停電被害だのあっても泣き寝入りさせられてるからな
結構恨みたまってるんだよな

東京五輪の数百億の施設の話を毎日毎日繰り返し繰り返し垂れ流し続けてる一方でこんなデタラメなレベルの損失についてろくに触れようともいないテレビのニュース・ワイドショー
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原発を推進してきて未だに続けようとしてる自民党関係者、支持者に負担させろよ
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廃炉費用も2倍
五輪費用も2倍
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そりゃベトナムだかも原発やめるよなw






レイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes) シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54

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シューマンのピアノ協奏曲は私も大好きです。シューマンでいちばん好きなのはたぶん幻想曲作品17だと思いますが、その次くらいに好きです。
演奏でいちばん好きなのは、現在は、ルービシュンタイン/ジュリーニのロマンティックな演奏だと思います。他にも、ルービンシュタインのクリップスとの旧盤、ルプー/プレヴィンや個性的なケンプ/クーベリックなど、自分の好きな演奏はいろいろあります。


多数の名作を生み出した作曲家の夫と、名ピアニストとして知られていた妻の組み合わせ。

このように最適なカップルであっても、その人生が幸せなものになるとは限りません。シューマンと妻クララの関係も、まさにそのようなものでした。二人の短い夫婦生活には、どのようなドラマがあったのでしょうか?

シューマンにとって妻クララとは?
1856年に46歳という若さで亡くなったドイツの作曲家、音楽評論家のロベルト・アレクサンダー・シューマン。ロマン派を代表する音楽家のひとりとして知られている存在です。

大学で法律を学んでいた彼は、どうしても音楽家への夢を諦めきれず、当時ピアノ教師として有名であったフリードリヒ・ヴィークへ弟子入り。そのヴィークの娘が、名手として知られていたピアニストのクララです。

父親ヴィークから激しい怒りをかいながらも、シューマンとクララは1839年に結婚。8人の子供にも恵まれ、作曲家としても作品の幅を広げたシューマンには、何も問題がないように見えました。

ところが彼も高く評価していた若きヨハネス・ブラームスと出会ってから少しした頃から、彼の精神面での問題が進行。最後はライン川に投身自殺を図る程度にまで病状が進行しました。

シューマンの晩年
投身自殺を図った後から、彼の人生は急速に終幕へ向かいます。入院から約2年経過した1856年の7月に亡くなった彼は、最後にクララが指につけたワインを飲んだそうです。

演奏家としては、指に発生した腫瘍のため一定のレベルで成長が止まってしまったシューマン。そのため音楽評論家や作曲家としての地位を確立する方向へ自分の全精力を注ぐことになったことが、現在の高い評価に結びついたのかも知れません。

評論家としてのシューマンもかなり有名な存在でした。同じ年齢であったフレデリック・ショパンのことは、特に絶賛。

その評論のなかでは「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」というように最大限の評価を与えています。単純な評論ではなく、自分の頭のなかで創りだした架空の座談会で、これまた架空の評論家が登場するという彼独自の世界。

ショパン以外にもメンデルスゾーンやブラームスなどを高く評価、また過去の音楽とされていたバッハ全集の出版を呼びかけるなどの積極的な活動で知られています。

シューマンと妻クララの人生は、それ自体がドラマ
ショパンやリストのようなピアニストにも高く評価されるピアニストであったシューマンの妻クララ。作曲家としても才能を発揮しながらも、女性の作曲した作品を正当評価できるほど成熟していなかった当時の音楽界に嫌気が差して作曲を辞めた彼女。

作曲家としての道を断念したクララにとって、夫シューマンの存在は特別のものだったでしょう。

8人もの子供を出産しながら、その合間に演奏旅行を行っていた彼女は、1896年に76歳で亡くなるまでピアニスト、そしてピアノ教師として夫シューマンの分まで活躍しました。父親であったヴィークによる英才教育によって、優れた演奏技術を身につけたクララ。

そして演奏家としてのキャリアを断念して、優れた作品を多数生み出したシューマン。この二人の関係は、どのようなドラマでもあり得ないほどの宿命を感じるものです。



今回行った演奏会のプログラム

第1848回N響定期公演2016.11.20(日)15:00〜 NHKホール

指揮:デーヴィッド・ジンマン(David Zinman)
ピアノ:レイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes)
曲目:シューマン:マンフレッド序曲
   シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54
  (アンスネス氏によるアンコール)シベリウス:ロマンス作品24-9変ニ長調
   シューマン:交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」



レイフ・オヴェ・アンスネス氏略歴




1970年ノルウェーのカルメイで生まれ、ベルゲン音楽院で有名なチェコのイルジー・フリンカに師事。現在はオスロのノルウェー音楽院の教授を務め、スウェーデン王立音楽院のメンバーでもある。彼の録音は、これまでにグラミー賞に8回ノミネートされ、6回のグラモフォン賞を含む国際的な賞を受賞している。

「威厳ある優美さ、力強さ、洞察力を有するピアニスト」とニューヨーク・タイムズに評され、強力なテクニックと綿密な解釈で国際的な名声を獲得しているアンスネスは、世界の主要なコンサートホールでリサイタルを行い、一流オーケストラと協奏曲を共演している。
2016年夏に母国ノルウェーでローゼンダール室内楽フェスティヴァルという新しい音楽祭を立ち上げるなど、ますます充実した活動ぶりを見せている。



1970年、ノルウェーのカルメイ生まれ。ベルゲン音楽院でチェコ人教授イルジ・フリンカに学び、その後ベルギー人のジャック・ド・ティエジュに指導を受ける。早くより国際的な活動を開始し、1992年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団定期公演にデビューを果たす。以来、同世代のもっとも才能豊かなピアニストのひとりとして、世界の檜(ひのき)舞台で脚光を浴びている。
 メジャーレーベルでの録音も活発で、アントニオ・パッパーノ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演によるラフマニノフ『ピアノ協奏曲集』や、グリーグ『叙情小曲集』でイギリスのグラモフォン賞を獲得するなど、数多くの受賞歴を誇る。
 近年の活動ではマーラー室内管弦楽団との「ベートーヴェンへの旅」プロジェクトが大きな話題を呼んだ。4年にわたってベートーヴェンの《ピアノ協奏曲》全5曲に取り組み、ヨーロッパ、北米、アジアでツアーを行って成功を収めた。その成果はレコーディングでも聴くことができる。
 2002年にノルウェーの最高の名誉とされるノルウェー王国聖オラフ勲章コマンダー、2007年にはペール・ギュント賞を受賞した。

そこには僕の知らない音空間が広がっていました。衝撃を受けました。まずピアノの音がクリアで非常に透明感があり、若々しくエッジが効いたリズム感が素晴らしい。瑞々しい音楽で、まるで北欧、ノルウェーのフィヨルドの渓谷にある氷でできた幻想的な洞窟の中で聴いているかのような錯覚に襲われました(そんな所行ったことないですが…)。

僕自身が山村の、冬は寒い村出身ということもあったのかもしれませんが、アンスネスの音楽に深く共感しました。

それからは、アンスネスの出す殆どのCDを買っています。そして、2007年の2月にさいたま芸術劇場で初めて実演に接して以来、来日する度に僕が聴きに行く唯一のピアニストとなりました。

(ちなみにこの時はシベリウスの小品、お得意のグリーグのバラード、シェーンベルグ、そしてベートーヴェンの最後のピアノソナタ第32番でした。とりわけこのベトソナの2楽章のピアニッシモのトリルの音が柔らかくて素晴らしく、衝撃を受けました)



アンスネスの演奏の特徴を自分なりに解釈してみる

僕は当時の実演には接していないですが、アンスネスはデビューしたての頃は結構バリバリ弾いていたように思います。「バリバリ」というのは、今よりもヴェルトオーソに近い、所謂 「力技」ですね。先程紹介したニールセンや、ヤナーチェクのCDなどを聴くとよく分かります。今では必要な時しか使わない低音のフォルテシモもよく聴こえます。

ここでその証拠に、音楽評論家の故、吉田秀和氏が、音楽会評でアンスネスについて書いている文章を抜粋で紹介したいと思います。



(前略)だが、実演をきくと、多彩な音楽をこなす能力というのは、むしろ彼の表面的な面でしかなく、本質的にはかなりはっきり自分の領域をもっている人なのではないかと思われてくる。広いレパートリーは、まだ若いし狭い枠に自分を閉じこめてはいけないという意識と意欲の結果、こうなっているのではないか。少なくとも目下のところ、彼がとりあげる曲がいろいろ違っているほどには彼の演奏から聞こえてくる音楽は変わっていない。(中略)
ラフマニノフ(『楽興の時』『練習曲集』からの抜粋五曲)は胸のすくような早業とかすごい強者の披露とか、走りまわる高音と低音の間で聞こえてくる中声の歌とかはよかったが、このピアノの大家の曲をきく人なら誰も期待している深々とした響きや濃厚な情趣とかにふれる喜びは完全には満たされないまま。むしろ力任せに叩きつけるフォルテと単調でニュアンスの乏しいピアノの連発に少々閉口して「美しい音楽」をききたくなった。(後略)
白水社 吉田秀和全集より1999年12月20日の演奏会評より一部引用



これまた随分な言われようですね(笑)。「力任せに叩きつけるフォルテ」というのは、現在のアンスネスの演奏からは到底想像できないです。「美しい音楽をききたくなった」って、アンスネスの音楽は「美しくない」ということですか?ちょっと賛同しかねますね。

しかしながら、この文章にはこの後にシューベルトの20番ソナタを評して、「この人がただのピアノひきではないことがはっきりわかる。」という文章も出てきます。
また、吉田氏は晩年(といっても僕が初めてアンスネスの実演に接した2007年2月)、アンスネスの弾くベートーヴェンの32番のソナタを絶賛していました。

以下引用の引用。

夕刊には吉田秀和の「音楽展望」を掲載。もう80才の半ばだと思うが、今日の文章はTVも新聞も遠ざけた彼の老境の香りが漂っている。今までにない味わいだ。ところが、文章の終わりに書かれたベートーベンの最後のピアノソナタ作品111についてのコメントが実にいい。少し長いが引用しておく。最近アンスネスの演奏でこの曲を聴いたということで「とくに第4変奏以降の音楽はこれ以上考えられない微妙な音で影の世界に出没する何かみたいに聞こえた。(中略)ベートーベンは「晩年に向かうにつれ、こうした諦念に満ちた霊妙の世界に入っていったのである。この音楽のあと残していった沈黙は、およそ音楽から生まれた沈黙の中でも最も深いものである。」これを言いたいために全体があるような気もするがどうだろうか。
吉田秀和の「音楽展望」 - 残照亭日常さんより引用



話を元に戻すと、
アンスネスは若い頃と今では芸風が変わったということですね。
もちろん、核になる部分、例えば曲全体の見通しの良さ、恐ろしく正確でよく回る指、テンポ感の良さ(殆どテンポを揺らさない)、エッジの効いたくっきりとした打鍵は健在ですが、
そこにまろやかで、馥郁たる柔らかい絹糸のようなピアニッシモの表現が加わります。低音の叩きつける表現は身を潜め、代わりに「音楽的であることを優先した、幾分抑えられたフォルテシモ」の表現が加わります。決して音を濁らせないペダリングも見事です。それと、去年のベートーヴェンの弾き振りで大いに関心したことですが、曲全体の見通しの良さ、にも関係してきますが、「曲の構造」を完璧に理解しています。





そして、僕が思うアンスネスの演奏の最大の特徴は、

「完璧に演奏曲を準備して、それを本番で出せる事」

だと思うのです。

しかしながら、これは裏を返せえば、

「本番中に、準備した以上の事を羽目をはずしてやらない」

という事です(勿論、会場の響きや雰囲気によって多少は弾き方を変えたりはしていますし、そういう事も十分できる能力を持ったピアニストです)。



僕が好きなピアニストの一人にクリスチャン・ツィメルマンがいますが、彼のサントリーホールでのショパン演奏は素晴らしいものでした。本番ではショパンのソナタで迷子になる部分もありましたが、3番のソナタのフィナーレはどんどんヴォルテージが上がっていき、ミスタッチも何のその、迫力満点の演奏を聴かせてくれました。これには大いに興奮しました。

こういった、スリリングな演奏とは対象的にアンスネスの演奏は一見淡白に聴こえます。ミスタッチも極端に少ないです。
それは職人気質な性格にもよると思います。多分アンスネスは予定を立ててその通りに実行する、という事がピアニストの誰よりも秀でています。

それ故に、自分自身を客観的に見ることに長けた、非常に知性的で、洞察力の鋭いピアニストといえます。客観的にステージ上の自分を見れてしまう事によって、主観的な表現は鳴りを潜めます。
アンスネスの関心事は「音楽」そのものであり、「構造」であるのです。

聴く人によっては「アンスネスの演奏はつまらない、安全運転で普通に弾いてるだけじゃん」とか、
「アンスネスのショパンは自分を出さない」という意見があることも十分理解できますが、
では「真の音楽のあり方」とはどのようなものでしょうか?「真のショパン演奏」とは?「真のシューマン演奏、ベートーヴェン演奏とは?」…。



僕が思うに、これは結局は「人それぞれの好み」の問題だと思います。

恋愛でもそうですが、スリリングな間柄のカップルもいれば、しみじみとした間柄のカップルもいるわけです。天才肌の人間が好きな人もいれば、職人気質の人間が好きだという人もいます。その時時によっても好みは変わるでしょう。



僕の個人的な意見からすると、アンスネスの演奏、とりわけ生演奏は、聴いている方からすれば十分興奮のできる、大変魅力的な演奏であることが多いです。音楽を客観的に追求した演奏が、十分に説得力を持って、「音楽」として届くからです。



前置きが長くなりましたが、今回のピアノ協奏曲の感想

さて、長々とアンスネスの演奏の特徴を書いてしまいましたが、僕は今回の演奏を聴いて、アンスネスは少しずつ、再び芸風を変えようとしているように思えました(それは、去年あたりから伸ばしているヒゲも関係しているかもしれません笑)。



シューマンのピアノ協奏曲では、ペダリングが絶妙で、すべての音に対して神経が行き届き、一つの音も疎かにしない、知性的なアプローチでした。それでいて温かく、さながら手慣れた職人さんが、アラベスク模様を丹念に紡いでいくように、音が紡ぎ出されます。

オーケストラとの掛け合いも絶妙で、ジンマンさんの音量の調整とか、歌い方もアンスネスと合っており、「この二人は馬が合うのでは?」と思いました。

芸風が少しずつ変わった、と思ったのは、いつもより荒々しい音が出ている部分が幾つかあったことです。勿論、歌謡曲専用NHKホールですから、オーケストラの音に埋もれないために大きな音を出す必要がある箇所もあるのですが、これは素晴らしいことのように思えました。「主観的な部分を表に出そうとしている」のだと解釈しました。
そして、いつもより「スイスイ」と音楽を進めない、聴かせるところは聴かせる演奏でした。過去のアンスネスのCD等(例えば、ヤンソンスとやったこのシューマンのピアノ協奏曲)を聴くとよく分かりますが、アゴーギクの変化(テンポの揺れ)があまりなく、スイスイと次のフレーズに進んでしまう面がありましたが、今回はゆったり目のテンポで、適度に構造的に合理的な「句読点」を音楽に取り入れていました。

そして3楽章は聴いていてとても幸せでした。シューマンはこんなにも良い曲を作っていたのか!と改めて認識しました。

音楽を構造的に解析しながらも、全体的に収斂されていくような工程を、それでいて自然さを失わない工程を視聴することは、耳にとって愉悦であり、快楽でありました。

僕は演奏が終わりそうになるのが、名残惜しくて仕方ありませんでした。

盛大な拍手とブラボーの後の、アンコールのシベリウスの「ロマンス」は、決して中心となる音楽ではなく、周辺に佇んでいる音楽にも関わらず、その現代的な響きと、フィンランドの大自然から生まれた響きが絶妙に表現されていました。アンスネスの多彩な音色を感じることができました。



総じて、満足のいく演奏会でした。アンスネスは僕にとってこれからも聴き続けていきたい唯一のピアニストということを再認識しました。次は23日に所沢のリサイタルに行きます。





(2016.11.21朝追記)

未だに昨日の演奏を思い浮かべるととても幸せで、満ち足りた気分になります。やはり素晴らしい演奏でした。

シューマン ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44

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シューマン ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44


この曲も、いわゆるシューマンの「室内楽の年」、つまり1842年に書かれたものだ。
シューマン32歳の秋である。彼はわずか数週間でこの曲を書き上げた。
現代でも室内楽の重要なレパートリーの1つだが、作曲当時の評価は様々だったようである。
ライプツィヒのケヴァントハウスで初演された際、聴衆の中にいたフランス・ロマン派の作曲家ベルリオーズは、ドイツ・ロマン派に批判的であったのだが、この作品を聴いて非常に感激したと伝えられている。
また、シューマンの家でこの曲を聴いた作曲家リストはちっとも気に入らなかったようで、その後2人の間が疎遠になったようだ。
当時ではまだ珍しかった、弦楽四重奏とピアノという編成は、珠玉のピアノ作品の多い彼にとっては、必然だったのかもしれない。
やや古典的な香りの中に、シューマンらしい濃厚なロマン派の色気が織り込まれているが、ロマン的な趣を担うのは主にピアノの役目である。
それはピアノ五重奏のスタンダードとも言えるが、シューマンの場合は一層、ピアノが入ると入らないとでは、その魅力に激しく差があるように思う。
シューマンの良さの1つはそこだとも言える。

NHK-BSでエール弦楽四重奏団と伊藤恵さんの共演によるシューマンのピアノ五重奏曲の放映を見ました。若手特有のバリバリ弾く感じを想像していたのですが、抑制の効いた美しい演奏だったように感じました。個人的には、シューマンのロマン性をもう少し強調してもよいのではと思いました。

力強く、活力みなぎる1楽章、葬送行進曲風の2楽章、3楽章は勢いのあるスケルツォ、それらを纏め上げるソナタ風の4楽章。
全体的にシューマンにしては自由さに欠ける、やや形式ばったような雰囲気だが、その古典的手法が、シューマンのロマン主義をより充実させている。
僕には、シューマンが鍛えたこの古典的な技法が、彼の見る大きな1つの夢に、はっきりとした輪郭を与えているように思えるのだ。
憧れのような輝かしさ、哀しみと慈しみ、青春のような快活さ、それらを色鮮やかに映し出す、シューマンのロマン主義的な精神に溶け込んだドイツ古典的な技法。
それがこの曲の魅力を引き出しているのだが、この曲の素晴らしさはそこだけに止まらない。
白眉は4楽章のクライマックス。荘厳な二重フーガで再び1楽章の第1主題が現れると、今までの夢は一体何だったのか、その答えが現れてくる。
彩られた夢に少しのノスタルジーが重なり、時間を越えた希望と豊かな響きを残して、幕を閉じる。

ある人に室内楽で初心者にわかりやすい名曲はと聞かれました。さて、そういうふうに考えたことがないものですからちょっと困った。わかりやすいというのは覚えやすいという事だろうと勝手に解釈・・・。

『そうですね、モーツァルトのクラリネット五重奏曲、ベートーベンのヴァイオリン・ソナタ「春」、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」、メンデルスゾーンの弦楽八重奏曲、ブラームスの弦楽六重奏曲第1番、ドヴォルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」・・・・・・・・』ときて、いけませんね、大事なのを忘れてた。

ロベルト・シューマンのピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44

これで決まりでしょう、覚えやすいのは。とにかく複雑難解なところがありません。元気溌剌と始まる第1楽章、いきなり出るのが第1主題です。たおやかな第2主題は楽器のかけあいで(以上が「提示部」)。ちょっと緊張感のある「展開部」が続いて、またまた元気溌剌の第1主題が再登場(これが「再現部」)。展開部と同じ出だしで「終結部」(コーダ)へ。もう絵にかいたようなソナタ形式ですね。

第2楽章はハ短調の葬送行進曲。覚えやすいメロディーです。中間部はとてもシューマンらしい(気取って「シューマネスク」なんていう人もいます)ロマン的な緩徐部が激しい楽想をはさみこむ形式になります。第3楽章はスケルツォで、音階を上がったり下がったりでこれもすぐ印象に残ると思います。そして終楽章、またまたいきなり第1主題が。解説いりませんね。最後はこの主題が第1楽章の主題と組み合わされて二重フガートになり、堂々と全曲を結びます。

どことなくモーツァルトのジュピターとベートーベンの英雄をミックスした小型版という感じのコンセプトでしょうか。弦楽四重奏にピアノを加えた編成はそれまであまりなく、この曲が有名になった第1号です。シューマンがクララと結婚して2年目の32歳の秋にわずか1か月強で一気に書かれました。彼はあるジャンルにのめりこむとそればかり集中して作る傾向のある人で、作品1から23はピアノ曲ばかり、1840年は歌曲の年、41年は交響曲の年、そしてこれを作曲した42年が室内楽の年と呼ばれます。

★苦難を乗り越えた結婚、そして数々の傑作の誕生

自分のピアノの先生の娘と恋に陥る、、、。別に悪いことをしているわけではないから問題はなさそうだが、シューマンの場合、敬愛する先生から大反対されてしまう。かつては自分の家に居候させた位シューマンを気に入っていたはずのヴィーク先生は彼のどこが気に入らなかったのだろう?
天才ピアニストの娘クララが可愛いくて仕方がなかったのはもちろんだが、きっとこう感じたからに違いない。「この男と結婚さすれば、娘は必ず不幸になる」
シューマンは生涯で何度か自殺を試みている(最初は23歳の時)。精神分裂症、躁鬱病など、彼の病名については色々な説があるのだが、才能があったにもかかわらず作曲をはじめとする活動に波があるのもそのせいかもしれない。ヴィーク先生はシューマンを居候させた時代に、今風にいえば「アブナイ男」、と予感したのかもしれない、、、。
先生の妨害はすさまじかった。両者何年もの争いの後、最後は裁判で決着をつけてシューマンとクララは1840年にめでたく結婚する。先生は床に崩れ落ち、両手で床を叩きながら悔しがったかもしれない、、。
でもふたりは幸せだった。とりわけシューマンは人生で最も至福の時を過ごしただろう。その証拠に結婚以後数年は彼の多作期が訪れる。自ら「歌の年」と命名した1840年、1841年は「管弦楽の年」、そして1842年は「室内楽の年」。
彼の室内楽曲の中で特に傑作として名高い「ピアノ五重奏曲」(作品44)はこの時期に生まれた。

★音の厚み、ピアノと弦楽四重奏の絶妙なコンビネーション

まず音の厚みに驚かされる。弦楽四重奏とピアノが奏でる音である。厚みがあるのは当たり前だ。それが半端ではないのだ。第一楽章の冒頭、全部の楽器が一斉に奏でる音楽はまるでファンファーレのよう。ピアノ、高音と低音の楽器の音色がまさにぴったりと息をあわせて高らかに歌っている。
その後すぐに、ロマンチックなメロディがピアノ先導で進む。控えめ弦の併奏も美しい。静かな曲想になった時のチェロのソロ、、、、哀愁を帯びていてシビレルのだ。もちろんその時に他の弦楽器やピアノが全く目立たないけれど、要所要所でいい音を出してくる。聞いていて耳を常に暖かくしてくれるのである。絶妙なコンビネーションとはこのこと。
音色を堪能し、躍動的な曲想に心奪われあっという間に終わる第一楽章。続く第二楽章はこれまた叙情的な楽章なのだ。解説等では葬送行進曲風と書いてあるものもあるが、そういうイメージは私の場合全く感じられれない。むしろ心の葛藤を音楽で表現しているのでは、と想像しながら聞いている。重苦しいイメージと対照的に安らぎ溢れる曲想もあるが、それは心の葛藤の中、なんとかして光を探し続けているような気がしてならない。中間部は静かな嵐のよう。
まるで音階練習か?という第一印象の第三楽章は、それこそ息をつく間もない活発で力がみなぎる曲だ。楽器が奏でるメロディは音を順に上下しているだけのようなのだが、その組み合わせで見事な和音になっているのだ。シューマンの豊穣なアイデアが光っている。後半から少し民族音楽的なメロディに転化していくのも興味深い。楽章の終わりはまさにクライマックスのよう。第三楽章を終章にしてもおかしくないくらい、充実した音楽である。(私のお気に入りであるアルバン・ベルク四重奏団のカーネギーホールでのライブでは思わずここで拍手が起こる!)
終わったかと思う第三楽章の後、唐突に現れる第四楽章。これは第三楽章の後半以上に民族色溢れている。もちろんこの作品の根底に流れるメインのメロディが骨格になって音楽は造られているけれど、民族色を添えることにより、より親しみやすくなっている。途中の弦楽器とピアノ低音部との会話も楽しい。第三楽章までで終わった後、この楽章をアンコール曲のように聞いている私は、変わり者かもしれないけれど、あの興奮もののアンコール演奏の雰囲気がこの第四楽章では味わえるのだから嬉しい。特に終盤で第一楽章のメロディをもとに全部の楽器で繰り広げられるフーガは本当に圧巻!

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この五重奏曲を聞くと「力がみなぎって」来る。この二日間こちらは大雪で、あっという間に真っ白な冬の景色となった。雪のしんしんと降る中、路面を覆う雪に足をとられながらジリジリと歩き進む。ふつうならうんざりするはずだった。でも、この美しく力強いピアノと弦楽の音楽が耳から注入されていたせいだろう気持ちが萎えることなく、ただひたすら前に進めた。雪の白さ冷たさを顔で感じた。心地よかった。美しい音楽に力をもらうなんて、ちょっと嬉しいな。

シューマンのフモレスケを河村尚子のピアノで聞く

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ショパン:ソナタ第3番&シューマン:フモレスケ
河村尚子


上品で趣味がよく「美しい」抒情をたたえた知的で洗練されたピアニズム。それがこのCDを聞いた感想です。

輝きに溢れた『夜想(ノットゥルノ)~ショパンの世界』から2年半、ついに河村尚子のRCA Red Sealからのセカンド・アルバムが登場します。ファースト・アルバムで河村が類稀な親和性を感じさせたショパンは、「ピアノ・ソナタの王様」ともいうべき大作『ピアノ・ソナタ第3番』を、河村が愛してやまないシューマンの作品からは、心情の移り変わりの細かな襞を描いた秘曲『フモレスケ』を収録。シューマン=リストの『献呈』が最後を飾ります。対象的な作風を持つ大曲2曲をメインに据えて、河村尚子のスケールの大きなピアニズムとイマジネーションが大きく飛翔します。今年後半で最も期待されるピアノ・ソロ・アルバムといえるでしょう。
1枚目同様、カラヤン/ベルリン・フィルの録音で知られ、世界的にも音響効果の優れたベルリン・イエス・キリスト教会でのレコーディング、SACDハイブリッドでの発売です。(ソニーミュージック)

【収録情報】
・ショパン:ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58
・シューマン:フモレスケ 変ロ長調 作品20
・シューマン=リスト:献呈
 河村尚子(ピアノ)
 録音時期:2011年5月23日~25日
 録音場所:ベルリン、イエス・キリスト教会
 録音方式:デジタル


上品で趣味がよく「美しい」抒情をたたえた知的で洗練されたピアニズム。それがこのCDを聞いた感想です。できる限り演奏に寄り添うような気持で2回ほど聞いたのですが、冒頭の感想以上のものは感じられませんでした。私には高評価をしている諸子のような感受性と耳がないのかもしれませんね。FMで聞いたベートーヴェン・ピアノ協奏曲のライブがすばらしく、「世界トップレベルのピアニスト」という感想を抱いていただけに、このCDから心を動かす...

とてつもなく素晴らしい超名演だ。超名演の前に超をいくつかつけてもいいのかもしれない。河村尚子による2枚目のアルバムということであるが、録音に慎重な彼女であればこその久々のアルバムの登場であり、正に満を持してと言った言葉が見事に当てはまると言っても過言ではあるまい。本盤には、ショパンの最高傑作とも称されるピアノ・ソナタ第3番と、シューマンのフモレスケ、そしてシューマン=リストの「献呈」がおさめられている

河村が類稀な親和性を感じさせているショパンの作品からは、「ピアノ・ソナタの王様」にもなぞらえられるべき大作『ピアノ・ソナタ第3番』を、河村が愛してやまないシューマンの作品からは、心情の移り変わりの細かな襞を描いた秘曲『フモレスケ』を収録。堂々たる急-急-緩-急の4楽章構成のソナタであるショパンのソナタ第3番、起伏に富んだ楽想が切れ目なく続くシューマンの『フモレスケ』という、いわば対照的な作風を持つ大曲2曲。河村は深くロマン派音楽の神髄へと分け入り、スケールの大きなピアニズムで作曲者の魂を描き出していきます。あらゆる音やフレーズが全く新しく吟味されたかのごとく新鮮な輝きを放ち、作品全体が生き生きとした躍動感を帯びていくさまを体験することは、まさに河村尚子の演奏を聴く上での醍醐味といえるでしょう。
アルバムの最後を飾るのは、シューマン=リスト編曲の『献呈』。ショパンの『レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ』と同様、河村尚子のアンコールの定番であるこの名曲。録音直前に急逝した師ウラディーミル・クライネフへの河村の深い祈りが込められた「献呈」でもあります。


河村尚子さんの演奏は、以前にもショパンか何かを聞いた記憶があるのだけれど、その時は素晴らしいセンスだと思ったけれど、あまり気に入らず、そのままになっていた。
新しいシューマンの評判が良いので、取り寄せて聞いてみたのだけれど、これはとても良いと思った。
ラドゥ・ルプーの美しい録音がデッカにある(DECCA/440 496-2)が、他にもホロヴィッツの1979年のライブ録音があった。古いイヴ・ナットの録音も良かった。他にもいくつか聞いているが、私の気に入ったものは…。人それぞれ好みがあるので、あれがないとかはご容赦。

いくつかの部分に分かれるものの、続けて演奏されるこの作品は、シューマンのこの時期を代表する傑作中の傑作。だから録音も多いかというと、そう多くはないのは不思議だ。
それでも上にあげた名演があるので、私はとりあえず不自由はしていない。が、この河村尚子さんの演奏を聞くと、また他にも聞いてみたくなった。ひょっとして聞き逃した名演があるのかもと思ってしまったのである。
それほどこの演奏は目覚ましいものがある。

深いブレスで、ゆったりと演奏される冒頭。実際はそれほど遅くもないのだが、一杯いろんなものが詰まっていて、それらがスローモーションのように饒舌に語るからそんな感想を持つのである。決して単調なのではない。
ピアニスティックな意味で見事なのは、やはりホロヴィッツの録音であるが、この河村さんの演奏は全く異なる表現方法でありながら、実にピアニスティックで美しい。華麗さや豪華さといった言葉はホロヴィッツに献上するとして、対極にある「思索的」な演奏なのだ。ホロヴィッツがただの練習曲のように弾いている等と言っているのではないので、誤解無きよう。
それにしても、この演奏のカンタービレ、歌い廻しのさりげなさと、気をつけて聞けば充分に考え、感じ、表現されている「歌」の美しさはたとえようもないほど。
シューマン好きの方には、ぜひお薦めしたい。ショパンも良い演奏だということだが、まだシューマンだけを2度ほど聞いて、今3回目に入っているところ。何とも良い演奏で、盛り上がるところでも、充分な力感がある。













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