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クラシック音楽はモーツァルト・オペラでコシ・ファン・トゥッテ K588

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モーツァルトの5大オペラ

 モーツァルトは、生涯35年10ヶ月と9日の間にオペラとジングシュピールを20曲作曲しています。そのうち2つは未完成で残されています。その中でモーツァルトの5大オペラと呼ばれているものは次の5つです。

 1.『後宮』。普通は「後宮からの誘拐」と言っておりますが、最初の大きいオペラであり、作曲・初演は1782年です。

 2.『フィガロの結婚』。1786年作曲・初演

 3.『ドン・ジョヴァンニ』。作曲開始1783年、完成・初演が1787年10月

 4.『コシ・ファン・トゥッテ』。「女はみなこうしたものだ」という意味。1790年1月初演

 5.『魔笛』。モーツァルトの死んだ最後の年、1791年の作曲・初演です。

 そのほかにも素晴らしいオペラがいっぱいあるのですけど、これら5つを中心にお話をしようと思います。

 5大オペラがどのくらい上演されたか。人気度みたいなものですけど、ザルツブルクで毎年夏に開かれる「ザルツブルク音楽祭」は、非常に歴史のある音楽祭としてモーツァルト生誕の地で行われています。1920年〜85年の65年間にどれくらい上演されているか調べてみました。最初の『後宮』が110回、次の『フィガロの結婚』が152回、『ドン・ジョヴァンニ』は108回、『コシ・ファン・トゥッテ』が137回、『魔笛』が134回でした。予想通り『フィガロ』がトップですが、第2位は意外にも『コシ』で、わりと多いわけですね。次は『魔笛』で、それから『後宮』がきて、『ドン・ジョヴァンニ』は一番少ない第5位です。ザルツブルクという「モーツァルティアンのメッカ」での65年間は、そういうランキングです。と言うと、『コシ・ファン・トゥッテ』とはどういうものなのか、と興味がわきますよね。

オペラ派と器楽派
 「モーツァルティアンは2種類に分かれる」とよく言われています。1つはオペラ派で、これは舞台大好き人間ですね。既にこちらでお話された永竹さんは、幼少のときからずっと歌舞伎大好き人間でした。それから先週の高橋先生も、オペラより歌舞伎が最初なのですね。とにかく舞台が大好きになって、オペラへ入り込むという人。河上徹太郎という人がオペラ派とされており、大岡昇平もそうだと思うのですね。もう1つの器楽派は、小林秀雄がそうだと言われています。実際に『モオツァルト』をよく読むと必ずしもそうではないのですけど、そう言われています。

 「オペラか、器楽か」などという論議になると、一般的には、日本人は器楽派のほうが多いようです。私自身は両方好きですから、オペラに興奮しますが、器楽の中にもオペラを感じます。

言葉の問題と利点
 器楽派かオペラ派かの別れ道に「言葉」があります。何を言っているのか?音楽は聞こえているのだけど、言葉がうまくわからない人もけっこう多いから、ついオペラを聴かない。器楽なら気楽に聴けるから、器楽派になっちゃう。他方で、舞台から入った人たちは、「大好きだから何でもいい」というのですけど。

 小林秀雄はこう言ったのですね。「オペラの舞台を観に行っても、私は目をつぶって聴く」と。モーツァルトのオペラには「歌劇作者よりもむしろシンフォニイ作者が立っている」と書いたので、みんなが「小林は器楽派だ」という烙印を押したわけです。しかし、小林はオペラの本質を理解していました。

 小林の『モオツァルト』をよく読むと、たとえば『コシ・ファン・トゥッテ』について、「男女の群れから何故あのような鮮明な人間の歌が響き渡るのだろうか」、音楽で男女の関係をうまく表現して、「誰のものでもない微笑、誰のものでもない涙が音楽のうちに肉体を持つ」と書いています。

 さらにモーツァルトを「音楽家中の最大のリアリストと呼びたい」とも書いています。つまり、言葉を超えて、音楽で表現しているという本質を突いた意味において、僕は、小林秀雄こそむしろオペラ派ではないかと思うのです。

詩は音楽の従僕
 モーツァルトは「オペラでは、詩は音楽の従順な娘でなくてはいけません。…… オペラでは音楽が完全に支配していて、そのためにすべてを忘れさせるからです」と言っています。音楽のほうが優位性があると書いているこのような手紙があります。これは重要なポイントです。

 最近は「演出過剰の舞台」といっていますが、芝居・演劇のほうから入った人たちがオペラの演出をすると、音楽はどこかにいってしまい、とにかく筋書きを読んで解釈して、びっくりするようなことをワッと演出するのです。観客はみんなハッとするけど、音楽が聴こえてこないわけですね。たとえば現代劇みたいな感じで、ネクタイなどを締めてワーッと登場しちゃうような舞台になると、たしかにみんなウォッとする。だけど「音楽がないオペラ」ですよね。モーツァルトが言っているように、舞台とか詩ではなくて、音楽が完全に支配している。音楽を聴かなければいけないのに、最近はそうなっていないことを私は警告申し上げたいのです。だからこそ、小林秀雄の「目をつぶって聴く」というのは、舞台に惑わされないでオペラを聴くという意味でも重要なのではないかと私は思うわけです。

 たとえば1991年でしたが、コヴェントガーデンのロイヤルオペラが『ドン・ジョヴァンニ』を上演しました。一番最後の場面に、セミ・ヌードの美女がいっぱい登場して、みんなびっくりして、「ワーッ、こりゃ凄い」と。見たことない光景だったので、ワーッと湧いたのでした。モーツァルトはもうわからない。そっちばかり気になって、音楽をやっているのに聞こえません。こういう風潮は、ちょっと違うのではないでしょうか。ある意味で「伝統的な舞台にして音楽を聴きましょう」というモーツァルトのメッセージが非常に重要であると私は思っております。


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モーツァルト・オペラを何から聴くか
 「これからオペラを聴いてみようかな」「どうしようか」と思ったとき、私の体験では、最初に『魔笛』を聴いたのですね。私は先程のご紹介にありましたように、アメリカ、スイス、ドイツにも行っており、15年ほど海外生活をしましたが、海外ではクリスマス・シーズンになると、子どもたちのために『魔笛』とか『くるみ割り人形』が上演されていました。ドイツの子供も、スイスやアメリカもそうですけど、クリスマスになると休みになり、みんなで『魔笛』を観に行くのですね。生まれて初めての舞台やオペラが『魔笛』ですよ。それは非常に素晴らしい、ほんとうにハッピーなことです。『魔笛』は、ちょっと聴いても、いろいろ教訓が散りばめられておりますし、そういう入り方が最良ですね。ヨーロッパやアメリカでの幸運な入門として、私のモーツァルト・オペラ初体験は『魔笛』でした。(愛聴盤:ベーム=ベルリンフィル、1964DG) 

 次に聴いたのが『コシ』。これは男と女が錯綜するような難しいものです。最初聴いたときに、「空気のように美しく音楽が流れるなぁ」と感じたわけですが、レコードを買って聴いてみると、なかなか難しいオペラなのですね。ほぼ1ヵ月、毎日毎日ずーっと聴いておりますと、あるとき突然音楽がパッと聴こえてきました。6人の男女がいろいろ錯綜するようなオペラですが、その心理描写が見えてきたとき、聴こえてきたときに、初めてわかったのですね。

 ある人が「モーツァルトをひたすらお聴きなさい。必ずや啓示を受ける瞬間があるだろう」と言っています。とにかく1ヵ月でもいい。聴いてみること。あるとき「こんな素晴らしいことか」と感じるわけです。オペラは全然知らないが、モーツァルトならアイネ・クライネと40番ト短調くらいよーくわかっている御仁ならば、とにかく僕の言うように『コシ』(愛聴盤:べーム=フィルハーモニア、1962EMI)を聴いているうちに、あの瞬間、突然の啓示がやってくる。

 その次に聴いたのが『ドン・ジョヴァンニ』(愛聴盤:ジュリーニ=フィルハーモニア、1960EMI)でした。モーツァルトの世界のデモーニッシュというか、ゾクッとするような暗い一面に驚かされます。「劇作家モーツァルト」と言いますが、音楽ドラマという意味合いで『ドン・ジョヴァンニ』は素晴らしい作品です。「可哀相なエルヴィラ」については後で説明します。

 僕が一生懸命この『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたのは20歳代前半でして、女性という「いいもの」をまだ知らないわけ。だけど、これをひたすら聴いていると、「あぁ、これが女性というものだろう」とか、「愛とか憎しみの体験は何もないけど、こういうことか」と、まだ幼いなりにそう思ってしまう。それから年をとるにつれて、女性のいろいろな面もわかってくる(笑)。とにかくわからないのだが、聴いているだけでリアルに体験できる。そういう意味で面白いですね。

 次は『フィガロ』です(愛聴盤:ベーム=ウィーン交響楽団、1955フィリップス)。理想的な女性像スザンナが女主人公みたいに登場します。その他の人物もみんな音楽の中で生き生きと動いている。台本がうまく出来ており、音楽が生命力を与えているのです。後で説明しますけど、スザンナは、男たちから見ると、女心をかたちにした素晴らしい女性像ですね。頭が良く、気立てが優しくて、可愛らしく、コケティッシュですね。「あぁこれだ」という感じ。世の中にこういう人は少ないが、モーツァルト・オペラを聴けばこの人に会える(笑)。感動があります。

 そして最後に『後宮』(愛聴盤:クリップス=ウィーンフィル、1965EMI)。5つのうちで一番最初につくられた、モーツァルト青春のオペラですね。瑞々しい躍動感があり、青春真っ只中の生命感が満ち溢れています。音楽が溢れ出し、流れています。時の皇帝ヨーゼフ二世が「モーツァルト君、音符が多すぎやしないかね」と言う場面が映画『アマデウス』にありますが、音楽が溢れるように止めどなく出てくる。すかさずモーツァルトは「ちょうど必要なだけでございます。陛下」と答えた。これが難しい。下手でくどいのも、足りないのもダメ。ぴったりのモーツァルトの音楽はつねに完璧なのですね。

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コシ・ファン・トゥッテ K588
 女はみなこうしたものだ。台本:ダ・ポンテ。初演:1790年1月26日

 配役:フィオルディリージ(姉)、グリエルモ(若い士官で婚約者)、ドラベルラ(妹)、フェランド(やはり若い士官で婚約者)、哲学者のドン・アルフォンソ、姉妹の侍女のデスピーナ

 婚約者の貞節を信じる若い士官と「女はそういうものではない」というアルフォンソが賭けをします。「そうじゃないよ。女というのは……」と言う哲学者(ドン・アルフォソン)が、「士官達が戦場へ行く」と偽ります。しかも、アルバニア人に変装させたフェランドには義姉(になりそうな)フィオルディリージを口説かせる。逆に他の士官にはドラベルラ(妹)へトライさせ、各々貞節を賭ける奇妙な展開となります。姉妹の侍女デスピーナは、アルフォソンと通じて、けしかけ役になります。結果は2組とも無事誘惑が成功します。ある意味、お互い別口に行ってしまった。「女は貞節がないんだ」と。賭けに負け、士官たちは怒り、姉妹は大慌て。最後には元の鞘に戻ります。「女いじめじゃないですか?」と言う人もいますね。

テーマは「女いじめ」か?
 僕が聴いていくと、どうもそうではない。女性のほうは、恋心とか愛とかの自然な感情に従って行動している。だけど男たちは「絶対貞節であるべきだ。何をするか!」という倫理に固執しているだけのようですね。最終的には「みんなこうしたものよ」と、うまくとりなされ、元の鞘に戻ることになります。ですけど、私は、フィオルディリージもドラベルラも同じように、また冒険を繰り返すのではないかという気がしますね。やはり『コシ』の場面は、どこを聴いても常に真実に聴こえるからです。モーツァルトは自然な感情に動かされ、伝統の倫理観からは自由な女性像を書いているのです。「人間というのは、どこまでいっても反省などできない愚かな者であり、その愚かさこそ素晴らしい」と、音楽で表現してくれるのです。ビジネスマンは心亡くすほど忙しい存在で、愚かしいものだが、ひたすらモーツァルト音楽を聴いていると、実は素晴らしく「上質な哀しさ」があることが、よーくわかってくる。「男性はどうも杓子定規だ」と音楽は語りかけてくる。だからモーツァルトはフェミニストであったと思います。

遊びと憂い
 この姉妹の恋の冒険談ですが、音楽も演出も非常に難しい。自分たちの許婚は戦場に行ってしまったので、生死さえどうかわからない。日本でも戦時中にはそれに近い男たちの出征があった。別の男性の話がくると、「そちらへ行こうか」と期待心の強まるようなところ、不安の底深い部分をどう表現するかで、音楽も演出の仕方もまったく違ってくるでしょう。「遊び」を基調にするのか、「憂い」を強く表現するのかで、音楽の指揮振りも変わってくると思います。

 モーツァルトは、遊びに満ちた楽しさの中で、憂いの影が射すという交錯した綱渡り人生ドラマの音楽としてこのオペラを創りました。「こっちへ行こうかな。こんなのいけないんだけど……やっちゃった」というような人間の愚かさも音楽でうまく表現してくれたのですね。純粋な人生ドラマがそこから聴こえてくるはずですが、機微がわかるのと、何となく無関心に聴くのとでは、聴き方にもずいぶん違いが出てくる気がします。人生の道場みたいなこの40年間、『コシ』がどう聴こえていたか。最初はこう聴こえてきたが、聴くたびに何か知らないけど、違うように聴こえてきた。人間いろいろな要素があるので、だんだんと見えてくる。モーツァルト世界というのは、広くて、しかも深い。いまだに続いている意味で、これを聴いて「遊び」と「憂い」の人生そのものをモーツァルト音楽から感じ取れるのですね。

 実際に舞台の『コシ』を観てみると、聴衆の受けを狙った演技過剰のドタバタ喜劇の演出が多いようです。舞台ばかり派手に、変装して登場、変な恰好をして演技するなどして、観客はみんな大喜びで、商業的にも大成功という図式になっています。これでは『コシ』の本質がわからない。音楽が聴こえなくなっているのです。やはり、人間の真実味あふれる喜劇にすべきです。僕の感じとして、ときには小林秀雄流に目をつぶって聴いてみること。「モーツァルトは音楽ですべてのことをやっていますよ」と言いたいですね。いまは映像文化時代ですから、みんな映像優位の『コシ』を観て、「喜劇も面白いかな」と言うようです。それだけに、もっと「音楽」を聴いて、『コシ』にはもっと深い世界があることを知ってほしいのです。

フィオルディリージとドラベルラ
 この2人の女性は姉妹です。劇中では、男二人がそれぞれアルバニア人に変装して、許婚であるのを偽り、誘惑すべく登場したときに、彼女たちはまったく誰だか気が付きません。姉妹で「あなたどうする?二人来たけど、こっちにする?あっちにする?」と、男性の品定めの二重唱で『私はブルネッティにするわ』と歌います。妹(ドラ)が「こっち(グリ)にするから、(フィォ)姉さんはそっち(フェラ)よ」という、いささかけしからん歌なのに、これがまた素晴らしい音楽になっています。

 不真面目な歌ですけど、僕はこれが大好きで、はずむようなリズム感と期待にあふれて歌い出されると、こちらも幸せ一杯になりますね。まさにモーツァルト独特の世界です。2人の性格は、ドラベルラ(妹)はまさにドライな現代娘でさっと惚れてしまう。フィオルディリージ(姉)はウェットで、非常に逡巡します。ドラは陽性で、グリに対しその気になって恋を楽しむ。そういう2人の女性像を音楽表現しているわけですよ。

 グリエルモがドラベルラ(妹)を陥落させる二重唱(第二幕第23曲)。ドラが爽やかなのに対して、グリエルモのアンヴィバレントな気持ちがよく出ている。どこかに親友の許嫁を口説いている、後ろめたい心理状態があります。「口説きが成功したぞ」と思う反面、自分になびいてほしくなかった思いもあるわけですね。いざトラベルラが応諾し、「いいわよ」と言われると、親友を裏切ってしまうと後ろめたく思う心理をモーツァルトは非常にうまく表現しているわけです。向こうがオーケーしたから「うまくいったな」と思いながら、心配になってくる。僕は思った。漱石の小説を読むと、そういう場面がよく出てきますね。あの小説にも、「こうしてみたいけど、こうなのだ」というアンヴィバレントな主人公の人間像が出てきます。その音楽版がこれであると、実は今日初めて言ってみたわけですけど、そう思います。

 フィオルディリージがフェランドに誘惑されて迷う葛藤があって、この曲を聴いてみると、最初は女のほうは「ダメ、ダメ」と言いながら、言い寄られて、「しょうがないわね」と吹っ切れる。緊張もぷつんと切れて、最後の「甘い愛の憧れよ……」と歌うころでは、もう晴々としている。ひたすら逃げてきたのに、最後に覚悟を決めたときの女の強さ。男のほうは、たじたじと逃げ腰になる。「困ったなぁ」となるような音楽が出てくる。音楽ってすごいですよ(笑)。オーボエがひと吹き「ポーッ」と鳴ると、女の気持ちはガラッと変わる。それで、「私はいい……」と、自分の心を預けてしまう。喜びに満ちあふれて、自由な愛を追求する女になり切れている。それを音楽で聴くと素晴らしい。

 デスピーナとドン・アルフォンソ。狂言回しの役のデスピーナは、踊るようなリズム感があります。世故に長け、頭のいい、それでいて可愛い女性です。スザンナのような。ドン・アルフォンソは男盛り、壮年の哲学者と考えてよい。初演時のこの役者たちが実際の夫婦であったのも面白い。フィオ&ドラ姉妹役も実の姉妹で初演されたとか。因みに、僕のホームページのハンドル名は「ドン・アルフォンソ」氏、家内は「デスピーナ夫人」ということで、実在の夫婦で演出しています。

 実際には、ヨーゼフ2世が死んでしまい、僅か5回で上演中止となり、モーツァルトはビジネスチャンスを逃がしたのです。ビジネスには時の運がある。


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