2006年8月1日16時50分。待ちに待ったその瞬間、東海大学K2登山隊ベースキャンプは歓喜と安堵に包まれた。東海大学K2登山隊の小松由佳隊員と青木達哉隊員というアタック隊が、世界の精鋭登山家にもっとも険しいと恐れられるK2の山頂を極めたのだ。
しかもこの登頂は記録ずくめとなった。小松由佳隊員は「日本人女性初登頂(世界でも8人目)」、21歳10か月の青木達哉隊員は「世界最年少登頂」を成し遂げたのだ。
登頂に成功したその瞬間を小松由佳隊員はこう振り返る。
「午前2時半にアタックを開始して、膝まで埋まるような雪や難度の高い岩場を超え、半日以上経った頃ようやく他の高みが見えない、ゆるやかな頂が見えてきたんです。それまでいくつかのピークを越えてきましたが、その頂が見えた瞬間、『ここがK2の山頂だ』と確信めいたものがあったんです。そのとき、先を行っていた青木が『先に行ってください』と気遣ってくれたんですが、もうそのまま行かせちゃいました」
その山頂目前のやりとりを、青木達哉隊員は克明に覚えているという。
「ちょうど山頂まであと数歩――2mくらいのところだったと思います。自分でもどうして『どうぞ』って先に行ってもらおうとしたのかよく思い出せないんです。いろんな山で指導してくれた尊敬する先輩という気持ちがそうさせたんだとは思うんですが、山頂を目の前にしての達成感や、その反面『もう終わっちゃうのか』という寂しさ……。いろんなものがこみ上げてきたんです。ただ先に行ってもらおうと思ったら、『いいよ、行きな』って……。鼻をすするような音が聞こえてきたから、もしかして泣き顔を見られたくないのかなとも思いました」
山頂に先にたどり着いた青木隊員は、最後の数歩を踏みしめるたび、脳裏にそれまでのことが次から次によぎっていた。現地スタッフや他国の登山隊の顔ぶれが浮かんでは消える。そして最後の一歩を登った瞬間、空と一体になって頭が真っ白になったという。アイスバイルをついて、無線でベースキャンプに連絡を入れた。デジカメで記録写真を撮影した。しかし、その時点で小松隊員は違うことを考えていた。
「私も登頂する瞬間は、サポートしてくれた方々への感謝の気持ちが大きくわき上がりましたね。青木と同じように、走馬燈のようにいろんなことが頭を駆けめぐりました。ただ、登頂前の本当に数秒だったと思います。登頂した実感も正直あまりなかったですね。むしろ『どう降りるか』ということに気を取られていたような気がします」
山頂にいたのは1時間足らず。既にアタック開始から15時間以上が経過している。酸素の減りは予定よりも早く、下降中に切れそうだった。下山前に頂から下を見たとき、「数千メートルも下にすっぱり切れ落ちた斜面は底のない穴のように見えた」と小松隊員は言う。
そして登頂報告の無線を最後に2人からベースキャンプへの連絡は途絶えた。
そもそも東海大学の登山隊がK2という山を目指すことになったのは、2006年が同大学の山岳部創部50年という区切りの年だったことも、その理由だった。それまでも、2001年にはクーラカンリ、2004年には中国・カラコンロンと6000~7000mクラスの山へ遠征し、実績を積んでいた。そして満を持して2006年、K2へのアタックとなったのだ。東海大学K2登山隊の出利葉義次隊長は、その経緯をこう語る。
「当初は世界最高峰のエベレストという話も出ていたんです。数字を求めるだけなら世界最高峰を目指すという選択肢もあったかもしれません。ただ、山岳の世界ではもっとも難しい山はK2だと言われている。ならば、登山家として、より高い目標を目指すべきではないかということになったんです」
だが、決定したあとも不安はよぎる。相手は、世界の精鋭登山家たちが命を落としたK2という最難峰。登頂できるのか、いやそれどころか生きて帰れるのか……。だが、より大きな困難を乗り越えたときほど、達成感や喜びは大きくなる。目標は、登山家なら誰もが憧れるK2に定められた。
「しかし、東海大の山岳部は他の大学の山岳部に比べて歴史も浅い。足りない経験を補うための万全の準備が大前提となります。例えば、登るルートひとつとっても、どんなルートを選ぶか、そのルートは登山隊や隊員のスキルに適したものか……。他にも医療スタッフや通信手段、気象情報の収集手段など、考えるべきことは無限にあります。登山というのは、自然との闘い。強大すぎるほどの相手だからこそ、十分すぎるほど情報を集めなければならない。ベースキャンプという5000mを超える高所での根幹を担うのが発電機。全幅の信頼がおけるものでなければ選ぶことはできません」(出利葉隊長)
2001年のクーラカンリ登頂以来、東海大学山岳部はHondaポータブル発電機に全幅の信頼を寄せている。文字通り、生死を賭した危険な挑戦だからこそ、Honda『EU9i』は、東海大学K2登山隊のベースキャンプにまで随行する唯一のポータブル発電機となったのだ。
東海大学山岳部のターゲットはK2に定まった。現役・OB他、登山隊員8名がK2への道を目指すこととなった。そしてK2のような高峰を目指すにあたり、まず初期段階での重要な作業はルートの策定となる。ルート次第で登山の成否は決まると言っても過言ではない。
「ルートは、単に傾斜のきつさだけで決めるのではありません。例えば、他の登山隊が多く登ったルートでは、先行した登山隊が残していったロープをあてにして登ることもあります。しかし時間が経過してゆるんでいたりすると、思わぬトラブルに巻き込まれることもある。さらに、他の登山隊がすぐ前を先行しているときには、それに伴う落石も考えられる。自分たちが先行している場合には岩を落とさないよう、気を遣わなければならない。比較的登りやすいルートは、他国の隊も集中する。それより、山と隊が真っ向から対峙できるルートを選ぼうということになったんです」(出利葉隊長)
検討に検討を重ねた結果、出利葉隊長率いる東海大学K2登山隊は南南東から登るルートを選択した。急な岩場や、氷と雪で固く締まった壁に覆われた難ルートである。
「南南東リブから入るルートは、確かに難ルートではあります。しかし、氷雪壁の登はんとなれば、日本の雪山で鍛えられた東海大学登山隊が得意とするところ。もちろんルートを決めた時点では、まだアタック隊はおろか、どんな人選で隊を組むかも決めていませんでした」(同)
だがその段階でも、やるべきことはいくらでもあった。
「『EU9i』があれば電力は確保できる。となれば、登山に必要な情報テクノロジー用の電源はすべて網羅することができるのはわかっていました。ですから、まず最大限に情報を集め、解析できる体制作りから手をつけることにしたのです。まず、大学内の情報技術センターに支援を依頼し、ヨーロッパの気象衛星METEOSAT5号の衛星画像を加工・補正してもらい、パキスタン北部地域を網羅した衛星画像が送信される体制を整えました。さらに、この衛星画像をもとに、学内の気象学の専門家に予想天気図を作成してもらうことにもなりました」(同)
すべての電気の源を司る『EU9i』については、2001年のクーラカンリ遠征と同様、オールホンダ販売に依頼し、メインジェットを高地用にチューニングした。電源を要としたハード面、そして日本からの情報支援については目算が立った。だが、出利葉隊長の目の前には問題が山積みとなっていた。
ハード面では『EU9i』含め、可能な限り最高の準備の目算が立った東海大学K2登山隊だったが、何より最大の問題が控えていた。当然ながら、登山とは人が山を登るもの。だが、肝心の隊員の編成が最大の問題だった。
「大学登山隊は、基本的に現役で山岳部に所属する学生と、OBで編成されることになります。そこで中核となるのは、やはり経験豊富なOB隊員。ただし、ほとんどのOBは企業勤めをする会社員。休みの調整なども必要ですが、家庭や仕事の事情で断念せざるを得ない隊員もいるので、中核を担うOBの存在は本当に貴重なのですが……」(出利葉隊長)
しかし、自然を相手に研鑽を積む以上、危険とは常に隣り合わせ。そんななか、出利葉隊長にとって頭を悩ませる事故が起きた。
「主力にカウントしていた中堅の隊員が2005年にヒマラヤで凍傷にかかってしまい、両手足の指を切断することになってしまった。隊の中核を担うには、回復までの時間が足りなかった。他の隊員も日程を調整し、学内からだけでなく学外からの支援も受けている一大プロジェクト。日程はどうにも動かせなかったんです」(同)
戦力ダウンを埋めるため、山で荷運びをする高所ポーターを手配することになった。だが、ポーターはあくまでも隊を補助する存在。K2の山頂を目指す隊員の質の向上が急務となった。
「コンディションがよければ、アタック隊として山頂を目指せる人材を増やすことが急務でした。時間が限られているなか、学生ならば集中的に鍛えることができ、伸びしろも期待できたんです」(同)
といっても、10名程度の学生のうち、K2にチャレンジできる力量までの伸びが期待できるのはある程度のキャリアがある上級生のみ。しかし、上級生ともなると就職活動も本格化する。そんななか、K2という最高峰に挑むための過酷なトレーニングに身を投じる者はほとんどいなかった。隊に参加した数少ない一人は、その動機をこう語る。
「いやー、僕は消防士になろうと思ってたんで。単位も間に合ってたから、『もうちょっと山に登ろうかな』と思って。K2なんて、滅多に行ける場所じゃありませんし」
K2世界最年少登頂を達成した、青木達哉隊員が隊に参加することを決意したのは、そんな気軽な動機からだった。
K2登山隊への参加を決めた青木隊員だったが、K2へ向かうためのトレーニングは過酷を極めた。標高4000m相当の低圧・低酸素室で高所順応トレーニングを行った。週に4回、1回につき6時間。プロのアスリートよりも過酷なトレーニングともいえる。
「もともと体を動かすのは好きだったんです。山岳部に入ったのは、新人勧誘で『ロッククライミングができるよ』って誘われたから。なんだか楽しそうだと思ったら、入部早々登った雪山がすごく過酷で『なんで、こんなことしてるんだろう』ともう苦しいったらありませんでした。でも、山頂まで登ったら今まで知らなかった爽快感を味わうことができた。それからすっかりハマることになっちゃいましたね」(青木隊員)
以来、山の魅力に惹かれ、国内の山を次々に登った。2年生の時にはカラコンロン山脈へと赴いた。
「そのカラコンロンで、先輩の小松さんたちと同じ宿になって、いろいろ話す機会を持つことができたんです」(同)
「小松さん」というのは、K2アタック隊でコンビを組んだ小松由佳隊員のこと。当の小松由佳隊員は当時のことをこう振り返る。
「青木君に限らずですが、彼らの代の子たちとはいろいろ話はしましたよ。詳しくは差し障りがあるので言えませんが、それこそ話し合いの過程で殴り合い寸前になったことも(笑)。私の代も彼らの代も人数は少なかったから、似たような苦労もしているんですよね」
小松隊員は、高校時代から山岳部で競技登山を行っていた。
「インターハイや国体での競技登山は、あくまでも点数を競うもの。山という雄大なフィールドの中なのに、誰が何秒早く到達するかという競い合いになる。向き合うべきは、山のはずなのに……。ルールに縛られるのではなく、純粋に山と向き合いたいと思ったんです。もっとも、根っからの冒険好きでインディージョーンズみたいな世界観を味わいたいな、考古学も学びたいな、と思っていたら、最先端の登山はパソコンや衛星通信も使っていた。驚きましたね」(小松隊員)
現代の登山シーンにおいては、『EU9i』のようなポータブル発電機は、もはや必携アイテムになっていたのだ
高校時代から数えて、もう10年山に登っているという小松隊員だが、2006年にK2に挑む直前には、登山を続けるかどうか悩んだこともあったという。
「山は基本的に男社会。もちろんどんなに鍛えても、筋力ではかなわない。女性がリーダーとして隊を統率するのは難しい面もあるんです。他にもいろいろな悩みが積み重なり、2005年頃には『もう山をやめようかな』と悩んでしまっていた。それまでは、生活の90%が“山”だっただけに、抜け殻みたいになっていたんです。そんな頃でした。出利葉さんから『K2に行かないか』と誘われたのは」(小松隊員)
険しい山になればなるほど隊は大編成となり、チームワークも必要とされる。そんなチームを率いるには、個人として山に向かうのとはまた異なる資質が必要になる。その資質は、“山男”なら誰もが持っている資質というわけではない。個人それぞれが山と向き合うことと、チームとして山と対峙することは根本的に異質なもの。その双方を兼ね備えたリーダーは決して多くはない。様々な経験を重ねたが故に、当時の小松隊員は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。そんな彼女を救ったのが、出利葉隊長からのK2への誘いだった。
「誘いを受けた後、大学に出向いて何回も話をして『この人がリーダーのチームなら、きっとまた登れる』と思えたんです。世界中に数ある登山隊には、リーダーが独善的だったり自分の考え方を押しつけるような隊もあるんですが、出利葉さんは、チームを意思統一できるリーダーとしての厳しさはありながらも、隊員ひとりひとりの考え方も受け止めてくれる。私が考える登山隊像に合っていたんです。声をかけてくれたのが出利葉さんだったから、『また登ろう』とやる気になれたんです」(同)
小松・青木両隊員だけではない。東海大学K2登山隊に参加したメンバーの数だけドラマがあった。そして、2006年6月5日、先発隊として出利葉隊長以下、小松・青木の両隊員が成田を発った。3か月前に船便で出発した『EU9i』をはじめとした、荷物が待ち受ける大陸へと向かって。
先発隊の3人がパキスタンに入った数日後には、医師や看護師なども含め、隊に参加する全員が集まり、6月14日にはキャンプ地を目指し行軍を開始した。だが、初夏のパキスタンは厳しい暑さでも知られる。地域によっては平均気温が8月よりも高くなり、最高気温が40℃を超えることもしばしば。行軍は、早朝の涼しいうちに開始され、現地のポーターたちと合わせ約20名のチームはベースキャンプ(BC)へと向かった。行軍の様子を出利葉隊長はこう語る。
「猛暑のなかで1トン以上の荷物を背負っての行軍でしたが、BCまではほぼ順調に行程をこなすことができました。途中、ポーターに一人50ルピーのチップを出すと伝えると、もの凄い勢いで進んでいったのが印象的でした(笑)」
6月20日にはBCに到着。その後、約1か月をかけて、C0、C1、C2と設営していった。昼はキャンプの設営、夜は機材の整備などに追われた。
「BCでの食事は現地のコックが作る料理と、日本から持ち込んだフリーズドライの食品が中心でしたが、現地のコックが作るのは当然パキスタン料理。何を作っても全部カレー味。補助的な食品として、現地でクッキーを買い込みましたが、さすがにカレー味のクッキーは不評でした(笑)」
出利葉隊長は、笑い話としてBCでの様子を話すが、ほとんどの日程で設営は夜にまで至った。連日、登はんが終了するまでの18時から21時までの間、Hondaポータブル発電機『EU9i』はフル稼働していた。医師として隊に参加しながら、発電機のメンテナンス担当となった小林利毅隊員はその様子をこう語る。
「BCでの1か月半、ほぼすべての電源を発電機から供給していましたね。持ち込んだガソリンには限りがあるので、1日数時間しか稼働させられない。その間にすべての電源を確保する必要がある。『EU9i』を一次電源として、車載用の大容量バッテリーや汎用電池パック、パソコン、デジタル音楽プレーヤーなどの充電まで行っていました。もちろん、夜間の照明等の電源にも使用しましたが、最後までトラブルもなく快調でした。むしろ、他国の隊が使っていた他メーカーの発電機のメンテナンスに追われることの方が多かったかもしれません(笑)」
海外のガソリンは地域によっては、高品質とは限らない。ゴミなどの不純物の混入を避けるため、給油は婦人用のストッキングをネット代わりに濾過して行われた。出利葉隊長は、そんな小林医師の様子をこう振り返る。
「二足のわらじというか、ほとんどエンジニアのようでしたね。私を始め、他の隊員から『小林モータース、今日もロシア隊に出張してるなぁ』なんてからかわれていました(笑)」
そうしてEU9iがフル稼働している間に、C0~C2までの設営は着々と進んでいった。
C0~C2までの設営が着々と進むなか、同時にアタック日の選定が慎重に行われた。ヨーロッパの気象衛星からの情報の解析結果が日本の東海大学を通じてBCに送られ、その情報をもとに、アタックの詳細が決定された。そのアタック隊に選ばれたのは、1978年生まれの蔵元学士隊員、1982年生まれの小松由佳隊員、そして現役の学生である1984年生まれの青木達哉隊員という3名。その決定理由を出利葉隊長はこう語る。
「衛星通信を介しての情報をもとに、慎重に検討した結果、8月1日頃の天候がいいと予測できた。パソコンや衛星回線を介して、あらゆる情報を検討できたからこそ、精度の高い予測ができたんです。K2では、毎年遭難者が少なからず出ていますが、やはり天候などの情報を得ずにアタックする隊は遭難の率が高い。しかし、どんなに万全の準備でのぞんでもK2という山は甘くない。比較的若い隊員を選んだのは、不測の事態が起きたとき、体力・気力の充実が欠かせないと考えたのです。他の山ならば、私も一緒に登りたいところですが、K2相手となれば、わずかな隙が命取りになりかねません。私が登るという選択肢はありませんでした」(出利葉隊長)
そして、7月29日の未明、アタック隊として選ばれた蔵元、小松、青木隊員が第一回目のアタックを目指し、BCを出発した。
ところが、アタック隊はBC出発直後にアクシデントに見舞われる。アタック隊のリーダー格でもあった蔵元隊員が激しい腹痛に見舞われ、隊からの離脱を余儀なくされたのだ。腹痛の原因は急性の虫垂炎だったという。
「BC出発から数時間後のことで、まだC1にもたどりついていない頃でした。本人は無念だったでしょうが、我々が見たのは脂汗を流しながら体を『く』の字に曲げて降りてくる蔵元の姿。本人は無念だったでしょうが、我々も『なぜこんなときに……』と無念の思いでした。それまでは、常に先頭に立ってルートを切り開き、アタックキャンプになるC3予定地にも最初に到達した。高所経験も豊富で、彼がいたからこそ小松、青木と3人でのアタック隊を編成したんですが……」(同)
予定通り、7月29日に小松、青木両隊員はC1に、翌30日にはC2に入った。そしてその夜、出利葉隊長はC2にいる2人と無線で話し合いを持った。
「アタック目前の彼らは、当然『行きたい』という。蔵元が降りていく後ろ姿に感じるものもあったのでしょう。ただし若く、高所の経験が豊富ではない彼らだけで行かせていいのかという不安もありました。迷いましたが『絶対に無理はしない』という約束をさせた上で一度だけチャンスを与えることにしたんです。とはいえ、実は勝算もあった。あの2人は、どんな山でも山をナメるということをしない。国内の山でもどんな登山者よりも早くに出発し、どんな簡単な場所でも基本に忠実に登っていく。だから後ろからの登山者にどんどん抜かれるんですが、登山とは他者との競争ではなく、『生きて帰ってくること』こそが登山だということをよくわかっている。だからこそ、行かせることにしたんです」(同)
そしてアタック日は8月1日に決定した。
8月1日午前2時30分。前日の7月31日にはC2からアタックキャンプであるC3へと入っていた小松、青木両隊員はアタックを開始した。朝食は紅茶と堅いパウンドケーキ。小松隊員の「後悔のないようやれるだけやろう。最高の一日にしよう」との問いかけに短く「はい」と答える青木隊員。初めての8000mラインへの挑戦が始まった。
「下の方を見ると、小さな光が暗闇にぽつんと浮かんでいる。BCのみんなが激励のために、たき火を焚いていてくれたんです。あぁ、登っているのは2人だけじゃない。みんなで登っているんだと胸が熱くなりました」(小松隊員)
何も聞こえない無音の世界のなか、聞こえるのは、自分たちの息づかいと雪を踏みしめる足音のみ。世界のなかで自分だけがぽっかりと浮かんでいるような不思議な感覚に2人はとらわれた。膝まで埋まるような新雪の急斜面かと思えば、ガチガチの固い氷が露出した氷壁もある。足下の変化を一歩ずつ感じ取りながら、慎重に進まなければならない。8000mという高度による疲労も容赦なく2人を襲う。
「4歩歩いて一休み、の連続でした。以前カラコンロンのときに6000mを体験し、今回7000mのC2で高度障害を起こして、高所の恐ろしさは知っていたつもりだったんですが、8000mは一気に体が重くなってくる。あのヤバさは別物でしたね」(青木隊員)
午前2時半にC3を出発し、あっという間に12時間以上が経過した。当初、午後3時になっても到達できなければ引き返そうと決めていたが、その頃にはもう山頂が目の前に見えていた。山に魅せられた者が、山頂を目の前にして引き返すことなどできるわけがない。
「8000mには7000mまでには気づかなかった“空気の匂い”がありました。単純に鼻で感じる匂いというより、頭というか体全体で匂いを感じるような感覚。太陽の光、雲、風……。すべてがダイナミックでギラギラして体にダイレクトに突き刺さるような感覚。すべての感覚がすごく鋭敏になった記憶があります」(小松隊員)
とはいえ、そうした感覚にばかり溺れるわけにはいかない。午前3時半にBCに報告の無線を入れて以来、無線を入れようとしても圏外をあらわす音が鳴るばかりでBCとの交信も途絶えていた。繰り返し交信を試みるが、いっこうにつながる様子はない。そのときのBCの様子を出利葉隊長はこう語る。
「BCで待機している我々は、まったく状況がわからない。登頂したのかもしれないし、万が一ということもあり得る。16時を回り、不安が頭をもたげ始めた16時50分、無線が入ったんです」
一瞬にしてBC内の空気が変わった。緊張で息をのむBCの隊員たちの耳に聞こえてきたのは、『BC聞こえますか! 私たちは今、ついにK2の山頂に到達しました!』という小松隊員の声だった。一瞬の静寂の後、BC内は歓声で埋め尽くされた。言葉がわからないはずの現地スタッフたちも喜びを爆発させる。無線でしかつながっていないはずのK2の山頂にもその感動は伝わっていた。
「出利葉さんの『よくやった!』と興奮する声と、BCの緊張と興奮が無線を通じても痛いほどに伝わってきました。感無量でしたが、心配かけて申し訳なかったなという思いや喜び、そして下りへ向かう緊張感。様々な気持ちがないまぜになっていました」(小松隊員)
「無線では何を話していいかわからなくて、最初に『青木です』と言った後は、ひたすら『よくやった!』『ありがとうございます』という会話を繰り返していました(笑)。K2の山頂はまるで天空にいるような不思議な感覚でした」(青木隊員)
周囲を見回しても、ここより高い場所は見えない。8068mのガッシャーブルムも8047mのブロードピークも眼下に見える。そんな世界で2番目に高い場所に2人は約1時間、たたずんでいた。
遂にK2山頂にたどり着いた2人だったが、山頂から下を見ると、数千メートル下まですっぱりと切れ落ちた底のないような穴に見えた。
「『ここを降りるのか』と改めて、今、自分たちがいかに危険な場所にいるかを再認識して『とにかく生きて帰るんだ』と気を引き締めました」(小松隊員)
登りで時間がかかった分、酸素ボンベの残量も限られていた。下りる間に、酸素ボンベの流入量を毎分2Lから1Lに、さらには0.5Lに切り替えた。「下りこそが危険」というのは、山の常識でもある。登りは2人同時に登った箇所も、下りでは片方が確保を取り、ロープでつながれたもう一人が下りるという、より安全なやり方を採用した。
「スピードが安全につながるという面もあるのですが、とにかく生きて帰ることだけを考えたら慎重に進まざるを得なかったんです。ただ時間の感覚がどうにもおかしくなっていて、21時頃かと思ったら、あっという間に翌日の午前2時半になっていました」(小松隊員)
頂上アタックを開始してから、もう丸1日行動し続けていた。興奮状態で、疲労を感じにくくなっているとはいえ、2人の体力は限界に近づいていた。
「高度障害に疲労、そして酸素不足もあって、下りは本当にしんどかったですね。ボクがロープを確保して小松さんが下りてくるのを待っているときに立ったまま、まぶたが落ちてしまったこともありました」(青木隊員)
立ったまま、寝たり起きたりを繰り返した。空の酸素ボンベやヘッドランプも手につかない。手から滑り落ちたそれらは、あっという間に視界から消えていく。
「疲労が極限に達し、ビバークを決意しました。8200mという高所でビバークするか、このまま下り続けることのどちらが危険かと考えたとき、ビバークを選択せざるを得ないような状況でした」(小松隊員)
もう酸素は残っていない。凍った斜面をアイスバイルのブレードで削り、2人がようやく腰を下ろせるだけのスペースを作った。午前3時、確保を取りながら、手持ちのものをすべて着込んだ。さらにその上からシートをかぶり、2人はつかの間の眠りについた。「寝たら、もう目が覚めないなんてことはありませんよね?」との青木隊員の問いに、小松隊員は「大丈夫」と答えたが、小松自身8000mを超える高所でのビバークは初めてだった。
朝になってもC3に姿を見せない2人に、出利葉隊長をはじめとしたBCは焦りを感じ始めていた。
「夜間ということもあり、頂上からアタックキャンプのC3まで下りてくるのに約5~6時間かかると見ていました。ところが17時50分の無線連絡以降、またも無線が不通になり消息がしれないまま夜明けを迎えてしまった。スコープで覗いてもC3に姿も見えない。無線も通じない2人を案じながらも、すべての可能性を考え、午前10時の段階で日本の大学に連絡を取りました」(出利葉隊長)
山ではどんな悲劇が起きても不思議ではない。明るくなっても無線は入らず、BCから目視できるはずのC3にも2人の姿が見えない。最悪の事態が脳裏をよぎった。
「『遭難の可能性あり』と、何時の時点で判断し、どのタイミングで発表するかも含め、大学側との協議を開始しました。単に下山が遅れている可能性も考慮しましたが、万が一の可能性もある。ただし、日本時間の夕方に発表してしまうと、夕方の報道番組や夜のニュースで流れてしまう。混乱のさなか、マスコミから家族に伝わるという最悪のケースは避けなければならない。協議を繰り返した結果、パキスタン時間の15時、つまり日本時間の19時までに2人を確認できなければ、まず大学側から家族に一報を入れようということになりました。マスコミへの発表はその後ということに。ただ、大学の広報はメディアからは『いつコメントは出せるのか』、『いつ帰国するのか』という問い合わせが殺到する裏で、こちらとのやりとりも行うという本当に大変な状況だったようです」(出利葉隊長)
「遭難の可能性あり」と判断を下すまで、残り3時間となる現地時間の12時になっても2人は戻らない。出利葉隊長は、パキスタン軍にヘリコプターの出動を要請した。午後に要請すると、手続き上ヘリコプターの現地到着が2日後になってしまうからだ。翌日にヘリコプターを現地に入れるためには、昼までに当局に出動要請を行う必要があったのだ。
午後になっても2人の姿は見えない。焦燥の色が濃くなっていくBC。そんな午後12時30分、BCの無線機が鳴った。「いまC3に戻りました。2人とも元気です!」との小松隊員の声が無線機に流れ出した。登頂時をも凌駕する歓声がBCを包んだ。誰もが声にならない声を上げ、ボロボロと歓喜の涙を流していた。
その数時間前、小松隊員はほほに強烈な光を感じて、目を開けた。時計は午前6時を指していた。眼下に雲の海が広がり、彼方から昇る太陽は見たことがないほど美しかった。
「まるで『生きなさい』と言われているかのような美しさでした」(小松隊員)
1時間ほど日の光を浴びて体を温めた後、2人は再び下降を始めた。BCが心配しているだろうことは痛いほど想像できたが、無線はつながらない。仕方なくそのまま下降を続ける2人だったが、眠気は去ったものの今度は襲い来る落石の恐怖との闘いとなった。
「ロープにぶら下がっていて避けようのない状態で、1メートルクラスの落石がすごいスピードで体のすぐ横を通過し、奈落へと落ちていく。しかも、岩肌でこすれたのか、焦げたような匂いまで漂ってくる。当たらなかったのは、本当に幸運でした」(青木隊員)
8200mという高所で無酸素状態でのビバークを経て、体力を使い切った2人がC3に戻ったのは午後12時30分。C3の緑色のテントが見えたときには、前日の未明に出発したとは思えないほど、時間が経過しているように感じたという。BCに無事を伝える無線を入れ、凍傷のチェック、水分などの栄養補給をすると2人は体を横たえた。疲労の極限にあった2人は、その日は体力回復のためC3にて一晩を過ごすことにした。そしてその日の午後と夜の2回、“訪問客”があったという。
「テントの中で休んでいると、下の方からザクッザクッという足音が近づいてきて、テントの近くで何やら話している。そのときは疲れていて外を覗く気にもなれませんでしたが、あとで外に出ても、足跡ひとつないんです。最初は自分の聞き違いかとも思ったんですが、青木に確認しても同じタイミングで同じ声を聞いている。正直ゾッとしました」(小松隊員)
東海大学K2登山隊がC3を設営した近くには、雪に埋もれたテントに過去の遭難者の遺体が何体も眠っているという。
第十一章 精霊の訪問 「ボクも男性の声と足音は、はっきり聞きました。ただ、小松さんと違って怖いという感覚はありませんでしたね。むしろ伝説のクライマーがK2の精霊となって会いに来てくれたのかもしれないと、うれしさすら感じました。後で、出利葉さんには『幻聴じゃないのか?』と笑い飛ばされましたが、確かにそこにいたんです」(青木隊員)
“精霊”に触れた2人は、その晩泥のように眠った。そして翌日早朝、登山隊のメンバーが待つBCへ向けて出発した。
8月3日の早朝にC3を出た2人がBCへ戻ることができたのは、4日の深夜0時を回った頃だった。遠くに見えるBCのテントの外にヘッドランプの光がちらちらと見えた。隊員が出迎えてくれていたのだ。「やっと帰ってきた」という思いで近づくほどに早足になる。
BCで爆発する歓喜、そして嵐のような抱擁と握手が2人を待っていた。
「BCで調理を担当してくれた現地のコックさんに至っては、2人の肩を抱きながら『ウワァーン』と声を上げての号泣とともに迎えてくれたんです。何も言わず、骨が折れそうなほど強く手をギュッと握りしめてくれた隊員もいれば、ひたすら『よかった』を繰り返す人もいた。表現は違うものの、誰もが万感の思いで出迎えてくれたのを痛感しました。同時に仲間って本当に温かい存在なんだと、ありがたさと申し訳なさで改めて胸が熱くなりました」(小松隊員)
「振り返ってみればたった数日でしたが、すごく久しぶりに小松さん以外の人の声を聞いたような気がして、『やっと生死の狭間から帰ってきたんだ』という安心感でいっぱいでした。みんなと抱き合って、握手して、笑い合った。頂上よりも素晴らしい場所があることを知った瞬間でした」(青木隊員)
それから数日間は、休養に充てられた。PCを使ってのHPの更新作業は急ピッチで進められた。食堂テントではDVDで映画を見たり、小松は持ち込んだデジタル音楽プレーヤーで好きなエンヤを愉しんだりもした。
「それらすべての電源の源はすべて『EU9i』でした。以前のクーラカンリのときもそうでしたが、現代の登山において電源はすべての根幹です。アタック日の選定ひとつとっても、学内の総力を結集して得た情報を衛星回線で手に入れられるから、風のない日を選んでアタックできた。8200mでのビバークやC3から無事帰還できたのも、天候のよさに救われたという面もある。他にも、アタック前後に彼らが口にした堅いパウンドケーキは、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん率いるミウラ・ドルフィンズから差し入れていただいた手作りのもの。ナッツ類や香辛料も豊富でカロリー補給という面からも本当に助けられました。他にも、各方面から様々なサポートをいただいたからこそ、K2登頂をなしえることができた。隊員として名を連ねた者だけでなく誰ひとり、持って行った何ひとつ欠けても、今回のK2登頂はなしえなかったはずです」(出利葉隊長)
2006年の東海大学K2登山隊の挑戦は、記録ずくめの偉業となった。そしてその偉業は、チームを中心とした、そこに関わるすべてのものの偉業でもある。