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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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シューマン四つの交響曲

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私はシューマンの交響曲を好む。しかし、何故好きなのかと云うのは説明し難い。好きとか嫌いと云う問題は、元来理屈や理論では語れない。感性の問題と言えばそれまでだが、美人で才能豊かな嫁がいるのに、娼婦から感染した梅毒で亡くなったと云う、かなりダサい末期が、何となく惹かれる一要素である事は間違いない。
ダサいと言えば、シューマンはオーケストレーションが下手だ、と云う説がある。確かに交響曲1番は、演奏不能と云う判断がなされ、メンデルスゾーンの助言で書き換えられたりもしている。
しかし、これもおかしな話で、当時の楽器の性能や、奏者の技術的な問題が主たる原因であって、シューマンの能力不足に起因する問題ではないであろう。要するに当時のオケではシューマンの頭の中にある音楽を再現出来なかっただけの事ではないか。

今回は交響曲第1番の話題であるが、この曲は当初、各楽章に標題が付けられていた。「春の初め」「たそがれ」「楽しい遊び」「春たけなわ」と云うものだが、私はこの標題こそが激しくダサいと思うのである。
この曲が作曲された1841年は、クララとの結婚の翌年であり、かなり舞い上がっている、或いは浮かれている状態だったのは想像に難くない。後に冷静になってから、これらの標題は抹消されている。つまり自分でもダサいと思ったに相違あるまい。
実は・・・私はこの曲、シューマンの中では最後まで「苦手」な曲であった。このどうしようもなく能天気な音楽に付き合うのが辛かった。
音楽っちゅうのは、幾分なりとも苦味とか渋みとか辛味が必要なのだわ、と思っていた私には、ちーとばかり軽薄過ぎた。聴くとどうしても辛くなり「2番!2番!」と、口直しに2番の渋ーいお茶が欲しくなる。茶菓子みたいな曲だった。1楽章の最後の方で、幾分落ち着いたイイ雰囲気になったと思いきや、最後は安手のバレエ曲みたいな終結で、全く以ってスッキリしない事甚だしい・・・
「だった」と言うからには過去形である。私の中で、この曲を茶菓子音楽から昇格させてくれたのが、バーンスタイン/VPOの演奏だ。
これはもう能天気を通り越して半狂乱に近い。そうか・・・そうだったか、これは狂乱の音楽、ベト7をもっと卑近にした庶民の狂乱。
そう言えば、この頃はワーグナーの交響曲もベルリオーズの「幻想」も存在していた。当然、尊敬するシューベルトの第9(ザ・グレート)の4楽章の情念の爆発も聴いていたのだから、何らかの影響無しとはならないであろう。
そんな事をハタと気付かせてくれたのが、かの「爆発物取扱い主任」バーンスタインだ。
判ってしまえばこっちのものだ。火薬が湿気って不完全燃焼の演奏をオミットしてしまえば良い。
良さに気付いたその2は、スウィトナー盤である。この盤はシューマンの初稿で演奏されている。これを聴くと「目からウロコ」である。能天気な軽さはどこへやら、シューマン独特の少し翳った渋い響きなんである!
矢張りシューマンの才能は当時の時代を超えていたのだ。この演奏で私は溜飲を下げた。

 シューマンは大作曲家であるのは間違いないが、4つの交響曲をはじめオーケストラ作品が演奏される機会は意外に少ない。同じくドイツロマン派で4つの交響曲を残したブラームスと比べればその差は歴然である。ピアノ曲や歌曲にはいわゆる名曲が多いが(中学校の音楽の授業で「流浪の民」を歌った方もおられるのではないだろうか....この感動的な曲もシューマンの作品である)、私は長年オーケストラをやっていても実はシューマンの曲を演奏するのは初めてである。ちなみに、新響40数年の歴史で定期演奏会にブラームスの作品を取り上げたのは17回、シューマンは10年前に第4交響曲を演奏した1回のみである。シューマンの交響曲がピアノ曲や歌曲ほどに演奏されないのは、よく言われるように「オーケストレーションが悪い」からなのか?
 シューマンの管弦楽曲の特徴を簡単に言うと、響きが重く、旋律が明瞭に聞こえてこないことだろうか。マーラーやリヒャルト・シュトラウスといった、いわゆるオーケストレーションの上手い曲は、オーケストラが「鳴る」し、透明感・鮮やかさがあるが、それに比べてシューマンは中間色、渋いパステル調・・・ソロはほとんどなく、いろいろな楽器の組合わせでユニゾン(同じ音を複数で演奏すること)あるいはオクターブルで演奏される箇所が多い。
 マーラーはシューマンの交響曲に入れ込んでいて、詳しく修正をして(ユニゾンを減らしたり、部分的に別の楽器に換えたりして)演奏した。現在でも「マーラー版」としてCDが出ているが、明るくクリアではあるがいかにもマーラー的になってしまっているように聞こえる。不明瞭な響きであっても、それがシューマンの個性であり魅力であるのに・・・。「指揮者のコンクールでは課題曲に必ずシューマンを入れるべきだ」と指揮者のクルト・マズーア氏が言っているが、シューマンほど指揮者・オーケストラで違ってくる曲もないように思う。誰がやってもそれなりの音が鳴る(いわゆる「オーケストレーションがいい」)曲と違い、鳴りにくい譜面を鳴らすためにリハーサルに手がかかるというのも、なかなか演奏機会がない原因の一つだろうか。


シューマン(Robert Schumann/1810~1856)はロマン派に属するドイツの作曲家です。

シューマンの書く曲はロマンティックだと思います。

ピアノ協奏曲を先に取り上げましたが、

シューマンの曲で一番最初に好きになったのはこの交響曲第4番です。

シューマンはオーケストレーションが下手だと言われます。
(従って、マーラーが手を加えた“マーラー改訂版”なんてのもあるそうです。)

そのせいか、ドイツの作曲家であるにもかかわらず、あまりドイツ系の指揮者が取り上げない印象があります。

特に、古い指揮者は。

オーケストレーションのことなんて分かりませんけどね、僕は。

さて、シューマンは4つの交響曲を書きました。

その中で、この4番は比較的ドイツ系の指揮者からも取り上げられる機会が多い気がします。

気のせいかもしれませんけど。

この曲は4楽章から成っていますが、楽章ごとの切れ目はなく、続けて最後まで演奏されます。
(一般的に演奏に用いられる改訂版では、の話です。初稿版(未聴)は違うらしいです)

そして、第1楽章の序奏で演奏されるメロディーが各楽章で少しずつ引用されるので統一感があります。

ブラームスは、よく言われるように、果たして本当にベートーヴェンの後継者たらんとしていたのだろうか?そこを疑うことからまず始めたい。むしろ意識していたのは同じく4つの交響曲を書いたシューマンかもしれない。合唱を入れたり文学的なテーマを加えたりと野放図に拡大していた当時の交響曲を、両者はともに古典性へと回帰させたことに留意したい。温故知新の姿勢で形式を追求し、節度を守りながら、その控えめな「型」の内に情念と愛を凝縮させること。これがブラームスの新しさだった。

 「内声」もブラームスを楽しむ上でのキーワード。音を重ねていくなかでの内側の音。そこにうまみがあり、立体感と奥行きが生まれる。森のように深々とした響きのなかにも、ときに明るい光が空の高みから射してくることも、ブラームスの音楽の魅力である。

 1番は暗い葛藤と闘争に始まり、穏やかな休息や明るい兆しを経て、生きる確信へとつながっていく、力強い作品。2番は輝かしさと陰影が交錯しながらも、おおらかな自然と人生への賛歌を思わせる。3番は冒頭主題にシューマンの交響曲第3番『ライン』からの引用があることからも、先輩作曲家への敬愛が秘められているようだ。第3楽章の憂いに満ちた旋律は、楽器を変えてただひたすらに歌い継がれていく。4番は厳しく堅牢な構成のなかに、秋の寂しさのような情感と、痛切なまでの悲しみが込められている。なお、1番から3番までは、クララ・シューマンへの愛が反映されているという見方(サイモン・ラトル)があることもつけ加えておこう。

 ブラームスの音楽の中には必ず、愛と憧れと、ときにリラックスして人生を楽しむ大人の余裕とがあり、それらが、あたかも大切な友に向けた手紙のように誠実に綴られている。ブラームスの交響曲に親しむことは、心をゆるすことのできる無二の友を得るに等しい喜びである。

シューマンの交響曲を、ベートーヴェンとブラームスの「中間的な存在」とみなしたり、ピアノ的書法しかできない未熟なオーケストレーションの産物とする批判がかつてはあったが、そのような見方はもはや完全に過去のものである。構成的でありながらも、そこからあふれんばかりのインスピレーションと詩情は、いまや多くの人に愛されている。そう、「あふれている」ということがシューマンの最大の魅力なのだ。それはしばしば、幻想性への逸脱をみせる。若々しくのびやかなエネルギーの向こうに、歓喜や勝利の雄叫びのなかに、苦痛の影がちらちらと垣間見えるのも、かけがえのない魅力である。
 シューマンの4つの交響曲を、四季にあてはめて考えてみるのも面白いだろう。第1番はタイトル通り「春」。だが春は明るいばかりとは限らない。第4楽章フィナーレに突如不吉なしるしが鳴り渡る。重厚壮大な第2番は冬。特に第2楽章の凍りついたような孤独は印象的である。第3番「ライン」は実りの秋。自信を取り戻し、堂々と晴れやかで愛に満ちたシューマン。第4番は夏の夕暮れ時の幻想。第3楽章から第4楽章にかけての、別の世界が開けてくるようなプロセスは偉大である。あなたはどの季節を想像されるだろうか?
 最後にもう一点。いまオーケストラのレパートリーの中心はマーラーのような巨大交響曲になってきているが、そのことによってアンサンブルの求心性が失われがちである。あまり大規模な作品を演奏しすぎると、オーケストラは散漫となる危険があるのだ。室内楽的な緊密さと一体感を取り戻すのに、もっともふさわしいサイズなのが、実はシューマンの交響曲である。だからこそ、いま若手や中堅の指揮者でシューマンの交響曲を熱心に演奏したがる人は多い。それはオーケストラの基本性能にとってプラスに働くのだ。シューマンを大事にする指揮者は「わかっている」人なのである。

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