好転反応とは?
世界の裏側ニュースさんのサイトより
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-12197554451.html
<転載開始>
デトックスやジュース断食、洗浄を始めると、すぐに症状がよくなることを期待されるかもしれません。しかし、まったく逆のことが起こる場合もあります。古くて不要な毒物が流しだされ、望ましくないバクテリアや病原菌、ウィルスなどが死ぬことにより、一時的なクレンジング・リアクション(好転反応)を経験する可能性があるのです。
その症状は軽い頭痛、吐き気、寒気、発汗、疲労感、筋肉痛、痰(たん)、体臭、湿疹、めまい、衰弱、頭がぼーっとすることなどが含まれ、1、2時間で済むこともあれば2日程度続く場合もあります。
この反応は19世紀後半のカール・ヘルクスハイマー教授の研究から知られ、ヤーリッシュ・ヘルクスハイマー反応としても呼ばれていますが、この一時的な症状は実際には治療が進行していることを示す兆候なのです。
つまり身体に過剰に溜まっていた毒物が動き始め、それに身体が素早く対応しようとしているために起こる反応で、身体が毒を排出し始めたことを示しています。
病気の原因となる作用因子を除去することにより、好転反応(cleansing reactions、healing crises)が起こる誘因となると、ブルース・ファイフ博士は著書「The Healing Crisis」の中で記しています。
「身体の自然な治療のプロセスを強化する害のない方法のほとんどは、好転反応を誘導する可能性があります。
こういった方法には、よりよい質の食べ物に切り替える、ホメオパシー医療、腸内の洗浄、断食、ジュース健康法、治療効果のあるハーブ(薬草)、マッサージによる治療、鍼治療、リフレクソロジー、ビタミン療法、運動などが含まれています。」
浄化のプロセスに入ると「苦しんでいる慢性的な症状が一時的に悪化する可能性があります。持病が関節炎であれば、関節の痛みが増すでしょう。慢性的な頭痛に苦しんでいるのであれば、頭痛が悪化するかもしれません。乾癬の症状が激化する可能性があります。痔疾、月経前症候群、アレルギーは悪化し、喘息もちの人は呼吸が困難になる場合もあります。血圧が上がるかもしれません。
症状の認識のある健康問題とは関係ないことのように思われるかもしれませんが、この期間に複数の他の症状が表面化する可能性があります。好転反応の後に、症状が改善されることもあります。被害を出している毒物を排除して治療を促進させるためには、複数の好転反応が必要になるケースもあります。
好転反応の直後に健康問題が即座に改善される可能性もありますが、それ以外の場合では健康問題は徐々に改善されるでしょう。」
クレンジング・リアクション(好転反応、cleansing reaction)
あなたの体が毒物を開放する速度が、身体が毒物を排泄する速度よりも速い場合、クレンジング・リアクションは必ず起こります。
例えば大腸に詰まっていた未消化の古い食べ物を刺激したとすると、一時的にバクテリアや毒物を血流に解放し、肝臓がこの余分な蓄積分をろ過しようとしている場合もあります。クレンジング・リアクションが起こるということは、肝臓が少しお疲れでその機能を完全に果たしていないことを示していることがよくあります。
また、あなたの体は毎年の定期的な洗浄や、また免疫力を強化するために長期的な食生活の変更を必要としているというサインでもあります。
クレンジング・リアクションを経験中の方は、身体の毒物を次のような方法でスピードアップさせることも可能です。
1.結腸の洗浄法
2.自宅で蒸留水を用いたエネマを行う(あるいはオーガニックのコーヒーを用いたエネマ)
3.ミネラルをもっと摂る。ミネラル液、グリーン・ジュース、
ウィートグラスか緑の野菜のスムージー(どの種類のデトックスをしているかによって異なる)
(画像とこの方法の詳しい情報は http://www.incrediblesmoothies.com/detox/common-detox-symptoms-and-what-they-really-mean/)
4.腎臓を洗い流すために水をもっと飲む
5.ドライスキン・ブラッシング、薬草の蒸気や赤外線サウナなどを用いてリンパ系を助ける
普通の好転反応は、最高でも数時間で終わるでしょう。私は誰にも好転反応を耐え抜き、苦しむようにアドバイスするつもりはありません。
(私のような!)デトックスの専門家に相談することで、最善で最も安全なデトックス計画を立てる手助けとなるでしょう。その場合、あなたの肝臓や皮膚、腎臓、結腸、肺という排除のプロセスにある臓器に余分なストレスをかけないようにすることができます。
ヒーリング・クライシス(Healing Crisis、治療の危機)
実際に治療の危険と呼ばれる状況になることは、好転反応よりも稀です。本物のヒーリング・クライシスは、体がより強く、そして清浄になってきている際に起こりますので、前進している本当の兆候と言えます。
ヒーリング・クライシスはあなたが過去に経験したことのある病気や疾患のいずれかを模倣して現れる可能性がありますが短縮版で、普通は数時間から数日で終わります。
著書「ヒーリング・クライシス」の中で、ファイフ博士はヒーリング・クライシスの間に自分の体の声を聴く方法を提案しています。
「クライシスの期間にどのような症状がでるかによって、対処の方法を知ることができます。
疲れているなら―休んでください。
喉が渇く場合は、飲んでください。
熱があるなら、あなたの体が熱を作り出そうとしています。体を温めて、熱が行き渡るようにしましょう。
筋肉が痛む場合、温かいお風呂で楽になることも。
腰の痛みは、背中の筋肉が痛いことが原因の場合もありますが、腎臓が水を求めて起きた場合の方が多くあります。
水を飲んでください。下痢や嘔吐のある場合は、体が自分を空っぽにしようとしていますので、食べないでください。水分を失いますから、脱水にならないように水を飲んだ方がよいでしょう。
クライシスの時期に、大量の水を飲むことはよい習慣とされています。なぜなら水(特に蒸留水)は血中の毒物を薄め、その排出の助けになるからです。」
ヒーリング・クライシスを経験中の方は、デトックスの専門家によるガイドやサポートを受けることは必ず手助けとなるでしょう。
大事なことは、穏やかさを保ち、ヒーリング癒すことに意識を集中させて、体が少しずつ健康を取り戻す手助けをすることです。
へリングの法則(Hering’s Law of Cure)
ヒーリング・クライシスを経験している場合、ホメオパシー療法の治療の法則、またへリングの法則として知られるものを思い出してください。
ヒーリングが始まる順番:
1.中から外へ(つまり内臓が最初で、それに関節や皮膚へ進むということ)
2.頭から下へ(身体の清浄から起こる症状は頭から起こり、そして胴体、臀部、そしてつま先へ)
3.その症状が起きたのと反対の順番で(最新の慢性病が一番に治る)
これが体が自然に健康な状態に戻ろうとする時に、身体が通過するプロセスです。
【免責事項】
私は医師ではなく、これは医学的サイトではありません。ここに提供されている情報は一般的な目的に限定して提供したものとします。
医療的な疾患に関する疑問や懸念は、かかりつけのお医者様にご確認ください。
東北の二の舞いにするな
長周新聞さんのサイトより
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/touhokunoninomainisuruna.html
<転載開始>
東北の二の舞いにするな
棄民状態に置かれる熊本
4カ月経ても何も進まず 2016年8月24日付
【記者座談会】
熊本大地震の発生から4カ月が経過した。商業メディアからはほとんど現地の実情は伝わらず、あたかも「復興に向かっている」かのような印象を与えているが、倒壊家屋はほとんどが手つかずで、数万人の避難者たちは置き去りにされ、いまもまだ避難所での段ボール生活や車中泊、テント生活を送っている住民も多い。町の復興どころか住民の生活再建の道筋すら立っていないのが現状で、多くの住民が難民化し「東北被災地の二の舞い」になろうとしている。本紙は、四カ月経った熊本現地に取材に入り、被災地の実際と国の救済措置や復興政策の問題点について記者座談会で論議した。
ないがしろにされる国民の生命・安全 ODAやめ被災地に資金を回せ
A まず、4カ月経った熊本被災地の実情はどうか。
B 震度7の地震を2度受けた益城町は、崩れた家屋のほとんどが手つかずのままで地震直後と風景が変わっていない。道路は車や人が通れるようにはなっていたが、ガレキは撤去というよりも道の脇にかき分けたという程度で、倒壊家屋の周辺にガレキが積み上がったままになっている。地元の人たちも4カ月経った現状を「見ての通り」と一言でいい表していたが、まさに言葉を失う状況だ。少しずつ以前の生活がとり戻されているというよりも、人がいなくなり、商店も崩れたままだ。町にはまだ生活感がない。
C 住民にとって最も切実な住居の問題が今も解決していない。学校などの避難所は徐徐に閉鎖されて、総合体育館など2カ所に集約されており、4000人以上いた避難者は600人にまで減っている。マスコミ報道では学校が再開することだけを「復興している」ととりあげるが、住む家のない人は避難所を転転とせざるを得ない。仮設住宅やアパートなどの「みなし仮設」に入れず、避難所を出ても、ほとんどが「要注意」の家に住んでいたり、ブルーシートのテントや農業用のビニールハウス、プレハブ小屋などで生活しており、車中泊という人もまだいる。民間のボランティアが建ててくれた小屋で高齢者がエアコンもなしで一人で生活していたり、とりあえず雨露をしのぐ生活で、この先どう暮らしていくかなど考えられる状況ではない。水道も復旧しておらずホースで消火栓から引いている場所も多い。
D 益城町の場合、仮設住宅は8月中盤までに1285軒建てられている。「町民のニーズに合わせて」といって徐徐に増やしているものの、5600軒以上も住めない家があることは最初から分かっている。仮設の入居条件も当初は「大規模半壊以上」であったが、全壊だろうが半壊だろうが「住めないことはどこも同じだ」とかなり批判が出て「半壊以上」に規定が変わり、ようやく仮設の建設数も見直されるという状況だ。だが、仮設に入っても、光熱費も家電なども自費負担であるため、手持ちのお金がない人は、鍵をもらっても入ることができない。
益城空港の近くの仮設住宅は、交通の便も悪く、買い物難民になるため、初めに募集をかけたときには応募数が上限に満たなかった。そこで急きょ家電製品などを完備し、送迎バスも運行するなどの条件で再度募集をかけたら今度は逆に応募が殺到した。それでも高齢者が多いのに仮設住宅がバリアフリーでないとか、車イスでは入れないトイレになっていたり、暮らしに困っている人は大勢いるのに、実際にそこで暮らす人たちのことを考えられていないことにみんなが幻滅している。国が定める基準の厳格化だけが求められるが、それが住民の実際にことごとく合致しない。対応が後手後手で、若い人ほど町内での生活をあきらめて外へ出て行く効果になっている。
B 避難所で生活している女性の一人は、「仮設の鍵をもらったが、家電も需要が上がり、手に入らない。この時期クーラーと冷蔵庫がなければ仮設に入れても生活できないから鍵を持ったまま避難所で暮らしている。だが、鍵をもらって2週間経つと避難所で食事をもらうことはできなくなった。早く避難所から出すことしか考えていないようだ」と話していた。
D 益城町では、5600軒ある全壊・半壊家屋の解体が滞っている。町が解体費を肩代わりする「公費解体」の申請を受け付けているが、受理されても「解体は最大で2年後になります」といい渡されており、みな途方に暮れている。実際に公費解体に応募した大規模半壊以上の2600軒のうち、着手したのはわずか60軒だ。「このままでは2年以上かかる」というのが町民の実感だ。
被災直後から町や県が建物の被害調査をし、罹災証明書の発行も2~3カ月かかっている。行政はどれだけの家屋が被害を受けたのか把握しているにもかかわらず、それから住民の申請を受け付け、また個別に審査をして、公費解体の条件を満たしているかを確かめたうえで解体業者が作業に入る。解体業者も当初は11班しかおらず、今も30班程度だという。解体作業は一軒あたり長くて2週間以上もかかるため、とても間尺に合わない。業者不足も含めて行政の対応の不備をみなが感じている。お金のある人は自費で独自に業者に頼んで先行解体したり、自力でやる人もいる。「もう町にいっても仕方がない」とあきらめている人も多い。
家屋の解体は2年後… 着手はわずか60軒
C 個人で解体を依頼するにもお金がかかる。崩れた家の周辺を手作業で片付けていた50代の女性は「みんなのなかでは“解体は早くて2年後。4年はかかるのではないか”といわれている。それほど進展がない。こんなに崩れているが、これまで何十年と住んできた家だ。よその家にも迷惑をかけられないから崩れかけた状態のまま他の地へ出て行って放っておくことはできない。時間を見つけては避難所から通って、家の周りの草抜きやガレキの撤去をしている。見ているだけで忍びないが、どうすることもできない。夫は他界し、200万円もの解体費など用意できないし、全額保障されるかどうかも不明だ。お金がない者は公費解体の順番が回ってくるのを待つしか選択肢はないが、少しも事態の進展が見られないから次の一歩を踏み出すめどが立たない」と話していた。
行政も「解体や片付けをしたいのなら自分でやってくれ」という姿勢で、盆を迎えるのに仏壇一つ家から取り出せない状態だ。解体するにしてもまず家の中から家具や電化製品は外へ出さないといけないが、その保管場所もない。高齢者は取り出すことすらできない。ボランティアも危険な家屋や解体現場には入ることができないため、ほとんどが放置だ。
B 益城町役場のすぐ近くにある県道沿いの家屋の倒壊状況がとくにひどい。県が管轄する県道については、勝手に個人が解体できない。そのため倒壊家屋はそのまま放置され、今にも崩れそうな建物の下にブロックを積み重ねてかろうじて支えている家もある。交通量の多い町役場前の交差点にある傾いた家屋は町民から「もっとも危険」といわれているが、対応した県が解体するのではなく、崩れたときの「支え」として、一車線を潰して1本100万円といわれる鉄骨を六本建てた。住民が200万円以上の解体費用を出せずに手も足も出ないときに、莫大な金をかけて「応急処置」をしている。「なぜ解体しないのか」とみなが怒っていた。
E 益城町で自宅が全壊になった60代の男性は今でも車中泊をしていた。「姉の家は半壊となり、いまだに水道も復旧していない。仮設住宅にも申請しているが3回も落選した。今は消火栓からホースで水を引いて半壊の家に住んでいる。母親は最近まで避難所で暮らしていたが、地震のときに頭を打っていたのと避難所暮らしの疲れもあったのか頭に血が溜まって手術をした。母だけでなくそういう人が何人も病院に運ばれている。自宅は全壊でそのままにしておくと危ないから、自分でチェーンソーを使って解体した。瓦礫は業者に運んでもらうしかないが、瓦礫を運ぶ場所も業者もおらず、そこから先はどうすることもできないのが現状だ。近所の家はみんなばらばらになってしまって、どこに行ったのかもわからない人もいる」と話していた。
しかし議会では派閥の対立でせっかく決まっていたゴミ捨て場の予定地が覆り、またゼロから検討し直すなどまったく機能していない。「こういう非常事態で田舎のもめごとをやっている場合ではない」と不満を感じている人たちがたくさんいる。
B 農業関係では、今年は水路や農機具が壊れてしまって作付けができなかった田畑も多い。農機具や農業施設は、修理に国の補助を受けることも可能だが、補助率は9割以内で、仮に数年後に耐用年数が残った状態で農業をやめる場合はその差額分を返却しなければならないという。だが、提出書類が膨大で、写真や3社以上の見積書、契約書、カタログ、図面、通帳や所得税確定申告の写し、さらには「営農継続と目的外使用防止のための確認書」など15項目に及ぶ。「農機具の修理は解体しなければならず、3社以上の見積もりなど不可能」「災害対応制度がまったく作られておらず、育成制度に毛が生えた程度。これで救済になるのか」と憤慨する人もいた。自助努力にゆだねて国や行政側のバックアップはなく、生活の再建とはほど遠い状況だ。
D 2万8000棟が全壊・半壊した熊本市内でも、住居の問題は深刻だ。避難所はほとんどなくなり、9月15日ですべて閉鎖される。解体が進まないなか、4カ月が経ち、余震も何千回と発生しているため、家屋の被害状況も進行している。
「一部損壊」だった家にはなんの補助もない。壊れた屋根にブルーシートをかけていても月日が経つなかで雨漏りを始めて屋根の断熱材が雨水を吸い、その重みに耐えられなくなり天井ごと落ちてきたり、壁のヒビがどんどん大きくなったり、詰まった側溝に雨水が溜まり30㌢も溢れたりと二次被害も拡大している。これからは学校も再開するが、通学路にもまだまだ倒壊の危険性のある建物が残ったまま。さらには台風のシーズンでもあるため、みなが二次、三次の被害を懸念しているがどうしようもないもどかしさを感じている。
C 行政対応が後手後手で、みんなが困っている足下を見て法外な契約金を要求する悪徳業者も出回っているようだ。引っ越しやリフォーム、解体費用も値上がりし、瓦やブルーシートなどの資材も値上がり、さらに地震で地価が下がったと思っていたら、住める家がなくなり、みんなが住める家を探しているため不動産価格も上昇して、ただでさえ困窮している被災者を困らせている。アパートなどの「みなし仮設」は、家賃保障は2年を限度にして家賃6万円以内と定められているが、人数の多い家族ほど住居探しが困難を極め、崩れた家に住み続けるか、町を出て行かざるをえない。行政の放置政策とあわさって災害便乗型のぼったくりがはびこっているのも東北がたどった道と重なる。
F 本震で壊滅的な被害を受けた南阿蘇村では、住民が熊本市との行き来に使っていた主要道路が通行止めになったままで開通の見通しが立っていない。阿蘇大橋の崩落の原因となった山崩れの土砂でいまだに国道が埋まっている。その土砂を除けば通行できるのだが、その工事も手つかずの状態だ。市内へ行くにはグリーンロードという広域農道を通るしかないが、通常の3倍の時間がかかる。カーブが多く、反射板も街灯もないため当初は事故も起き、住民の声で中央線が新たに引き直された。
鉄道も豊肥本線は肥後大津駅までしか通っておらず、豊肥本線立野駅からの南阿蘇鉄道も運休したまま再開のメドが立っていない。また、南阿蘇全域で現在も山崩れの危険性がある。本震後もあちこちで山崩れが発生している。
E 他の地域と同じく、南阿蘇でも屋根が壊れて住めない家が多いが、修理する業者がおらず、雨漏りし放題でこのままだと家全体がだめになる。旅館でも温泉が枯れたり、施設が壊れて閉店した施設がいくつかある。病院も、患者がいなくなって成り立たない。広い南阿蘇村で入院可能な病院が1軒もなくなり、救急時はドクターヘリで熊本へ運ぶというが、復興にはほど遠い状況だ。
全国的に共通する課題 これで先進国か?
G メディアもまるで復興しているかのように報道しているが、現地は放置状態だ。東日本大震災から五年経つが今も仮設暮らしが続いており、全国どこでも地震・津波・火山噴火など自然災害が起きる危険性がある条件にありながら、何度国民を同じ目に遭わせるのかだ。自然災害だから発生することに関してはどうすることもできないが、その後の「復興」の過程で平気で「棄民」をやる。
国民の生命・安全を守るとかいって防衛費に過去最高の5兆円とか、集団的自衛権とかを進めている。だがその実際は、いざ国民の生命や安全が脅かされる事態になったときに、自然災害一つとっても、被災地の人人の生命・安全を第一にして展望を見せて立ち上がらせていくような国、統治者としてのかかわりをやらない。東北も露骨だが、熊本も同じだ。壊滅的な打撃を受けた益城町だが、範囲としては小規模で、全国といわず九州地方の余っている重機をかき集めれば短期間で倒壊家屋も解体し、これからの生活のステップへの手助けができるはずだ。
A これほどの先進国で、なぜ被災者がいつまでもテントで難民キャンプのような生活を送らなければならないのかだ。消防退職者の男性は、「災害対応という場合、あとからなにをいわれようが、そのときの現場判断で住民の生命と安全の確保を最優先にするのがあたりまえのことだ。しかし、生きるか死ぬかという状況でも“国が定めた厳格な手続き”を求める。書類一つなければ補助一つ受けられないとか、調査に何カ月も要する。あれだけいる国会議員も県議も日頃から住民のために動いていないから非常事態に何の役にも立たない。役場職員には“助けたい”という気持ちがあっても動けないのだ」と話していた。
H 現在放置されている被災地の現状や被災者の要望は、統治者として対応できることなのか、できないことなのかだ。絶対にできることであるはずなのに、救う気がないからやらないという話だ。業者も国が呼びかけて全国から集めれば、狭い益城町の家屋などあっという間に片付くのは疑いない。解体も家賃補助も定額制で、農業施設の修理補助にしても補助率九割というが、残り一割がなぜ出せないのか。「個人の私有財産だから公費負担できない」といい、行政も石頭でこのような緊急事態への柔軟性がまるでなく、対応できていない。災害に遭ったときに、「暮らしをどうとり戻していくのか」というところから計画・設計していかなければことは動かない。東北で行政機能がマヒしたが、それがわかっているのだから教訓にして対応しなければいけないはずだ。
G 「被災地がかわいそう」という報道や風潮は直後だけで、あとは放ったらかしだ。「精神を病んで鬱になろうが自分の好きにしてくれ」という対応で、東北の被災地とそっくりだ。福島でも東電からの補償は結局誰も責任をとらないまま打ち切ったが、その金ですら国家財政で肩代わりしている。そして、東京の電気をつくるためにひどい目にあわせておきながら、今度はその悲劇を東京がオリンピックでよりもうかるためのダシにする。実際はなにもコントロールされていないし、数万人に避難生活を強いている。それで24時間テレビで思い出したように「被災地」を引っ張ってきて、ジャニーズが歌を歌ったり、オリンピック誘致のための「感動ストーリー」に使うのだからふざけている。
B 東北の被災地はかなり広範囲だが、日本全国の自治体が第2、第3の被災地になりかねない可能性がある。苦しんでいる被災民に関心がなく「棄民」を平気でやるその目線はどっちを向いているのかだ。多国籍企業が海外進出ばかりで、国民が貧乏になろうが知らん顔であるのと同じように、統治の側が国民の生命・安全に対してどう向きあうのかがまるでない。ODA(政府開発援助)で東南アジアや海外に大金をばらまき、建設会社が海外へ出て行って「バングラデシュがかわいそう」といって恩を着せるが、その前に熊本だし、タイの道路を作る前に熊本の道路ではないか。「日本の伝統・誇り」というわりには、国民がどんなひどい目に遭おうが関心がない。その姿勢が東北や熊本で露骨に体現されている。
D 商業メディアも、東北でも真実を伝えないし、熊本でも四カ月経った現状を伝え、住民の側から「復興とはいえない」という批判的な姿勢で政治と向きあっていく構えがまるでない。熊本の地元紙ですらなにも進まない現状について黙認していることへの不満は何人もの被災者が話していた。
放置していたら益城町などは廃虚だけが残って住民が減り、復興の前に自治体が崩壊する。統治や官僚の側からすれば、コンパクトシティ路線で「いっそ益城など潰して、熊本に合併させたらいい」という調子だ。福島でも住民から土地を奪いとり、原発ゴミや核廃棄物の最終処分場にする方向だ。原状回復などする気はなく、熊本に視察に行った政府閣僚がまた「創造的復興」と謳っている。結局は「放置するか、食い物にするか」だ。南相馬の住民が「熊本は東北と同じ道をたどっていると早い段階から周囲の人たちと話になっていた」と語っていた。
C 東北では、津波に浸かった地域は災害危険区域に指定されて建築規制が敷かれ、その地域には居住施設を建てることはできない。地域のみなが親戚の家や仮設、高台住宅へバラバラに移り住み、それまでの地域コミュニティをとり戻すことが難しくなっている。そんななかで、今後誰も住むことのない地域に10㍍以上の防潮堤を建てており「いったい誰を守るのか」と語られている。他にも岩手県の陸前高田では町全体をゼネコンが20㍍も盛り土をしてかさ上げしその上に街を造る計画が進んでおり、五年経っていまだ仮設暮らしだし、宮城県の牡鹿半島の雄勝では、かさ上げ計画の邪魔になるからと今いる仮設住宅から別の仮設住宅へと追いやられるなど、完全に災害便乗型で企業のもうけの種にされている。そして東京の企業が税金の恩恵を受けながら進出し、土地や経済利権を漁っていく。住民が望む「復興」と、国主導で進行している「復興」がまったく合っていない。放置することで住民をバラバラに離散させ、コミュニティを壊し、地域のまとまった声を上げさせないように弱体化させている。熊本もこのままでは同じ道をたどることは目に見えている。
G 東北の現状を踏まえ、熊本でも住民たちの強烈な世論を発信していかなければいけないし、全国にとっても「熊本だけの話」では済まない。日本列島が地震活動期にあるといわれるなかで、今後第2、第3の東北・熊本にどこでも、誰でもなりうる。国は東京オリンピックのバブルに浮き足立っているが、いざ首都直下地震でも起きたときに、地方以上の惨劇に見舞われることは明らかだ。東北被災地とともに、熊本の復興はこれからの日本社会の進路を象徴的にあらわしている。住民生活を再建し、コミュニティを守り、農漁業をはじめとする1次産業を立て直すたたかいは、全国的な課題であり、全国的な世論を巻き起こさなければいけない。
4年後待ちきれずフライング
長周新聞さんのサイトより
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/sogekihei4nengomatikirezuhuraingu.html
<転載開始>
狙撃兵 4年後待ちきれずフライング 2016年8月24日付
リオ五輪のクライマックスで、アベマリアならぬ安倍マリオが土管から出てきて、世界に向かって「僕を見て!」をやったのには絶句した。都市開催の五輪において、開催国や次期開催国の政治指導者が主人公気取りで登場するような場面など見たことがなかったからだ。前回ロンドン五輪で次期開催都市の顔として出てきたのは、ブラジルを代表するサッカー選手のペレだった。さらに思い出してみて、北京五輪やソチ五輪などで胡錦濤やプーチンが出しゃばったか? 否、みなそのような下品な行為には及ばなかった。アスリートを差し置いて政治家が目立つ場面ではないし、主人公が誰なのかをわきまえていれば当然だ。むしろおこがましいし、恥ずべき振る舞いと見なすのが常識だろう。
ところが世界基準からかけ離れて「僕を見て」の出たがりが堪えきれなかった。演出を担当した電通はじめ周囲のおべんちゃらも大概だ。おそらく気分が満たされているのは本人だけで、オバマ、プーチン、習近平、メルケル等等、各国の政治指導者も含めて世界は失笑しているのである。あの得意満面に赤いボールを抱えて出てきた顔を見て、心の中で「バカ丸出しじゃないか…」と思った人が大半なのではないだろうか。
舛添要一がどうしてもやりたかった旗振りを小池百合子がやり、それ以上に目立つ格好で安倍マリオがしゃしゃり出て五輪は幕を閉じた。アスリートでもない者が何か勘違いして、四年後の脚光を待ちきれずにフライングをやった。こうした目立ちたい一心で、およそ遠慮とか恥を知らない振る舞いを見て、彼らにとっての日本民族の美徳とはいったい何なのだろうか? と思うのだった。
例え金メダルでなくとも、努力した選手たちは脚光を浴びて賞賛されればいい。そこに横から割り込んできて、何だか自分まで人気者と思っているところが浅ましく図図しい。世界は裸の王様をどう見なしただろうか。
故郷奪った福島原発
長周新聞さんのサイトより
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/kokyouubaltutahukusimagenpatu.html
<転載開始>
故郷奪った福島原発
「原子力明るい未来のエネルギー」
標語考案者の大沼勇治氏に聞く 2016年8月31日付
東京電力福島第1原発の事故から5年半が経過したが、いまだに10万人をこえる人人が故郷を追われたまま避難生活を強いられ、とくに原発立地町である双葉町・大熊町は町の大半が帰還困難区域に指定され、帰ることもできない状況に置かれている。この双葉町に住んでいた大沼勇治氏(40歳)が先日、山口県上関町の祝島を訪問し、その際に本紙は福島事故から現在に至る双葉町の様子や住民が置かれている状況、何を体験し、どのような思いを抱いているのか取材した。大沼氏は双葉町の入口に掲げられた原発PR看板「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を子どもの頃に考案して表彰された過去を明かし、震災後は「明るい未来」どころではなくなってしまった双葉町や福島の実情を伝えるために、全国各地を訪れて講演などで思いをのべている。近年は福島がどうなっているのか、とりわけ双葉町や大熊町がどうなっているのかは、まるで報道管制でも敷かれたように表に出てこない。そして原発に翻弄された一般住民を東電と同列の「加害者」のように叩く構造もあるなかで、いいたいことをあからさまにいえない力も加わっている。その声なき声を伝えることを重視し、以下、大沼氏が撮影した写真とともにインタビュー形式で紹介する。
Q まず、福島原発の事故が起きてから現在まで、どのような生活を送ってきたのか。
A 福島第1原発から4㌔の場所に住んでいた。2011年3月11日、ものすごい揺れが10分程度続いた後に津波に襲われた。家の中は地震でぐちゃぐちゃになり電気もつかないので、妻と南相馬市の道の駅まで避難して当日は車中泊をした。そのとき妻は妊娠7カ月だった。
翌日の午前中に双葉町の自宅が気になって戻ったときに、駅にいた警察官に「すぐに川俣の方に向かって逃げなさい」「早く遠くへ」といわれたので、福島原発で大変なことが起きているのかな…と直感的に思った。そしてその日の昼に当時の菅直人首相がヘリで東電に来たと聞き、やはりこれは大変なことが起きているのではないかと思っていたら、午後に水素爆発した。
その日の夜は相馬の道の駅で野宿をしようとしていたが、妻のお腹には子どももいたので13日の夜中に親戚を頼って会津若松に避難し、27日まで約2週間を過ごした。病院を探さなくてはいけないと思っていたが、福島県内の病院は避難者やけがをした人でいっぱいになっておりたらい回しにされる不安もあった。そうこうするうちにまた原発が爆発し、上空からヘリで水をかけている様子などを見て、これはもっと深刻な事態になると思った。
そこで親戚を頼って愛知に行き、借り上げ住宅を探してもらった。3月30日から平成23年の12月5日までそこで暮らしたが、子どもが生まれたので愛知県内のマンションに引っ越し、平成26年5月26日まで暮らした。それから茨城県古河市に引っ越して現在にいたっている。
Q 原発が爆発したときに住民にはどう知らされたか。安全対策はあったのか。
A 原発事故が起きたときの避難について、サイレンが鳴ったりなにかが放送されていたが、内容がわからなかった。あれほど強い揺れが続き、イオンのガラスが崩れ落ちたり、街中で火事が起きたりしたので、ただごとではないというのは感じた。11日は自分の判断で南相馬に逃げたが、「逃げなくてはならない」というのを聞いたのは先ほどのべたように、翌日に一端自宅に戻ったときに警察にいわれたのが初めてだった。しかし、なぜ避難しなければならないのかはいわれなかった。町として避難指示は出したのかもしれない。しかし少なくとも私は聞きとれなかった。
すでに原発が危なくなっていたはずの11日の夜、私たちは南相馬にいたが、みんなは高台にある小学校の体育館などに避難していた。原発からは4㌔しか離れていない場所だ。“原発事故が起きれば東京まで住めない”ということがいわれてはいたが、まさかのときの避難訓練もなく、心構えもしていなかった。たまたま私は渋滞を避けたので通らなかったが、「川俣方面に避難しなさい」といわれて逃げる人人の車が連なり、渋滞になったところが風の影響でホットスポットになって放射性物質を浴びている。
東電は住民の安全対策をやっていると資料などに書いてはいたが、そもそも福島第一原発自体が津波を想定したつくりではなかった。電源も地下にあって、津波に襲われて冷やせなくなっている。津波対策を怠っていたうえに、あえて岩盤を削って低いところに原発を建てていた。これは、船を接岸したところから部品を運びやすくするためだ。明らかな人災であるし、これは謝って済む問題ではない。住民の安全対策などやっていなかったのが現実だが、私たちは東電に勤めているわけでもなく「安全だ」といわれればそれを信じるしかなかった。しかし頻繁にトラブルも起きていたし、それを隠蔽していたので信用はなかった。
Q 原発立地町である双葉町の人人の生活や意識はどんなものだったのか。
A 「原子力明るい未来のエネルギー」。この標語を考えて私が表彰されたのは小学6年生のときだった。当時、双葉町は7・8号機の増設に向けて動いており、そのために原発推進の標語を町民に公募した。私たちはそれが学校の宿題となり、「“原子力”という言葉を入れた標語を1人3つずつ考えてきなさい」といわれ、やらなければ怒られるので考えた。大人から子どもまで178人が応募し、281点の応募点数のなかから私の作品が選ばれたのだった。
学校から配られる鉛筆や下敷きには東京電力の名前が刻まれ、なにかの参加賞なども東京電力からで名前や写真が入ったものが配られ、それを使っていた。町は電源立地交付金で役場、駅、図書館、マリンハウス(海の家)などのハコモノを建てた。また双葉町には「原子力運送」、双葉郡の冨岡町には「寿司屋・アトム」「パチンコ・アトム」など、原発関連の名の企業や店も多く、まさに原子力に依存した町だったと思う。
学校には東電社員の転勤の関係で転校生の出入りもあったが、来て2、3年もすれば双葉町内に2階建ての立派な家を建てていた。所得があるので銀行からお金を借りやすいのだろう。人口もどんどん増え、商店街も潤った。私は電力会社の人にファミリー向けのアパートを貸していた。サラリーマンとして働いていたうえに家賃収入もあったので生活は安定していた。
原発についてはいろんな考え方をみな持っていたが、原発に反するようなことをいってはいけない空気が覆っていた。個人的には『はだしのゲン』を読んだこともあって原発=放射能=原爆というイメージも持っていたので、原発がいいものだとは思っていなかった。ただ、隣の家や同級生の親が原発に勤めているなかで、否定的なことをいうと怒られた。子どものときに釣り大会があったが、そのとき釣具屋さんに「原発近くに面した海でとれた魚は食べられないのか」と尋ねると「そんなことをいってはいけない」といわれたこともあった。
原発で働く人たちがいて町は成り立っているし、否定的なことをいえば近所の仲が悪くなる原因にもなる。双葉町自体が増設に向けて舵を切ろうとしていた時期でもあり、反対のことをいうと町に居づらくなるという空気があり、思っていても声に出していえるものではなかった。
ただ、親戚のなかにも原発に推進の立場と反対の立場の人がいて、酒を飲むと喧嘩になっていた。少数だが原発反対の看板を敷地に建てている人もいた。しかしそういう人も家賃収入を得たりしていたので「おかしい」「矛盾している」といわれていた。
原発が来る前の双葉町には雇用がなかった。出稼ぎで出ていく人も多く、新婚夫婦でも旦那が東京に単身赴任で働きに出たりしていた。しかし原発ができたことで雇用は増え、4、5人に1人は原発関連の会社に入っていた。給料も良く、「結婚するなら電力関係の人か公務員」といわれるほどだった。
原発事故起きての変化
Q 福島第1原発事故が起きてからの変化はどうだったか。
A 原発で成り立ってきた町は、事故が起きてから一変した。私も家とアパートのローンが残ったまま出ていかなければならず、その後もローンは払い続けて補償金で完済したが、無人のアパートは汚染されているので、もう貸すこともできない。自宅もおそらく解体するしかない。人口に見合わないのに電源立地交付金で建てた立派な駅や役場なども何の意味もないものになってしまった。それらのハコモノができたからといって、潤ったのは工事に携わった人ぐらいで私たち住民の生活がよくなるわけでもなかったのだが…。東電の補償金でローンは終わり、残った補償金で土地を探した。土地と建物を探すときも、福島では避難者がいっぱいで地価も上がっていたので、茨城に土地を買った。震災の年とその2年後に子どもが生まれ、幼稚園にも通わせなければならない。茨城だったら東京からも1時間半、福島には4時間ぐらいで行くことができるのでそうした。
原発事故に直面している者として、30年以上にわたって反対している人たちと交流することは大切だし、家族でデモに参加することで祝島の人たちと共感しあえたらいいと思って上関に来た。
五年半が経過した現在
Q 原発事故から五年半が経過した双葉町や町民はどんな状態に置かれているか。
A 5年半が経過した双葉町は、復興しているかのようにいわれているが、住民が逃げ散ったまま、時間が止まったようになってなにも復興していない。私はこれまで73回一時帰宅したが、そのたびに町内を見廻りして状況を撮り続けてきた。一時帰宅のさいには許可証が必要で、防護服を着て五時間の滞在しか許されない。出入りにはバーコードチェックもある。
5年が経過した町内は、今でも原発事故でみなが着の身着のまま逃げたままになっている。食べかけの寿司や湯飲み、子どもたちのカバンが転がっている保育園、乗り捨てられた車、自転車の転がった中学校、3月11日で止まった時計やカレンダー…。すべてそのままになっているが、人の姿だけが消えて草が生い茂っている。まだ線量が高く、今年の3月に自宅の庭で測ったら25マイクロシーベルトあった。線量の高低を示すのに赤、黄、緑、青と色分けがされているが、ホットスポットで線量の高いところは赤い印がずらっと並んでいる。最初のころは牛などが街中を闊歩していたが、今は駆除されて「牛に注意」の看板は「猪に注意」に変わった。またブタとイノシシが交配して「イノブタ」になり、イノブタ同士が交配して「イノイノブタ」になり、今は「イノイノイノブタ」ぐらいになって生態系も変わってきていると取材関係の人がいっていた。ネコやイヌは骨になって死んでいる。養鶏場のニワトリもそのまま死んで、鶏舎には羽と骨が残っている。人が戻らず荒廃した町内には、夜行性のはずのタヌキが真っ昼間から出てくるようになった。
双葉町民は全員が避難生活を送っている。最初は埼玉に拠点があったが、いわき市に役場機能を移転し、郡山や福島をはじめ県内外に散らばっている。避難先から自宅に帰るのは年間30回まで。双葉町は中間貯蔵施設の候補地でもあるので、除染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグがどんどん運び込まれている。30年後には更地にして返すといっているが、30年後といえば40歳の私は70歳になる。「帰れない」といっているようなものだ。
国は帰還困難区域を「五年以内を目途に解除する」といっているが、解除しても帰らないとほとんどの人はいっている。私たちのように子どもを育てている住民がそうだが、お年寄りも「あと何年かしか生きられないから双葉で死にたい」といっても病院もない。一時帰宅するときには南相馬やいわきに泊まるが、そこでも病院が十分ではなく、私がおたふく風邪になったときには数十㌔離れた病院を紹介された。病院があっても医師がいないから不便な状況だ。過疎地の双葉より避難先の方が暮らしは便利なので、よほど帰ることに価値がなければ帰らないだろうと思う。土地は汚染され、原発では燃料デブリがどこにあるかわからない。そのようなところにわざわざ被曝しに帰るだろうか。もう家を建てていれば「帰る」とはならない。お墓参りに行ったり、限られた時間のなかで状況を見ていくしかないと思っている。
今、福島原発の復旧作業のための作業員でいわきなどの宿舎やホテルもいっぱいになっている。そういう人のための宿舎をやれば2150万円くらいの補助金が下りる。コンビニなどを開いた人にも国が補助金を出して住民の帰還を促している。住民票を移して自分もいなければならないのが条件だが、そこまでして戻りたいという人はあまりいない。メディアがコンビニなどを映して復興しているかのように伝えているが、現実には人などほとんどいない。
私は福島の現状を講演しながら回っているが、私がこの地域のことを知らないように、遠くなればなるほど、五年半前のことはもう話さなくてもいいという空気も感じる。また、福井など原発を推進しているようなところへ講演に行くのは、やはりおっかないなという思いもある。ネットなどでも「原発を推進していたくせになんだ」「虫が良すぎる」という書き込みを見かけたりする。しかし逆に、このような境遇になったからこそ思いを伝えられる。福島第一原発があのような状況になって、原発を推進する人はいないと思う。双葉町民の心情もそうだと思う。ただいいづらくていえない。双葉町民で脱原発を訴えている人に出会わないのは、家族や親戚、周囲に勤めている人がいるとかが大半だからだと思う。
双葉町は、「原子力明るい未来のエネルギー」の標語とまったく反対の運命をたどってしまった。この看板は今年3月4日に「老朽化して危険だ」という理由で撤去されてしまった。双葉町の負の遺産である看板を残してほしいという署名は6500筆にのぼったが叶わなかった。看板よりも撤去されるべき倒壊家屋は無数にあり、なにより撤去してほしいのは原発だ。そして町長が「看板の老朽化」よりも心配しないといけないのは、5年半も避難生活を送っている双葉町民のことではないだろうか。そのような心配よりも真っ先に看板を撤去するのはなぜなのか。「大事に保管する」といっていた看板は今シートに包まれ、草に覆われている。双葉町が行き着いた先は「明るい未来」ではなく、人がいなくなり赤信号だけが点滅する暗い町だ。いくら看板を撤去しても過去は永遠に残る。
原発事故では2000人をこえる人が関連死と認定されている。その多くの人の無念、町が積極的に誘致した歴史を後世に伝えるためにも看板は残すべきだと思う。「復元して保存する」という町長の言葉が嘘にならないようにいい続けていく。
Q 原発事故を経験した双葉町民として、上関や全国の人人に伝えたいことは何か。
A 上関町の景色を見て、原発に30年反対してきた気持ちに共感できる。たった1回の事故で、これから先もいつ帰れるかわからないが、そのようななかで解除しようとしている。国は補償金を払いたくないので、被災者の立場ではなく「復興」を無理矢理させようとしているのを感じる。原発ができれば町が発展するという“嘘”というか、“魔法”で信じ込ませるやり方は上関も双葉も同じだ。建てれば最初の何年かは町財政も右肩上がりだが、それが次第に下がってくるとまた増設、増設になり、麻薬のように依存していく。1回建ててしまうと必ずそうなってしまう。交付金がおり続けるわけでもなく、その交付金もハコモノに化けてしまう。
仮に事故が起きれば、できるだけ遠くに逃げるしかない。風向きなどわからず発表されるのを待っていたら被曝してしまう。避難するといってもいざそうなれば大混乱で、地割れしたところを無理矢理通ろうとしてパンクしたり、その車が道をふさいで通れなくなったり、橋の上で止まって津波が来たり、電柱が倒れたりーー 。とにかく混乱しているなかを逃げなければならない。原発などわずか50年ほどの歴史だが、人類があたりまえに住んでいたところに、人類がまったくいなくなるようなことがたった1日で起きる。お金ではない。失ったものはあまりにも大きすぎた。好きなときに家に帰れないし、帰っても防護服を着て数時間しかいることができない。自分の家に帰るのに、よその県から来た警察に職質を受ける。空き巣に入られたり、銀行で被害にあったり、火事場泥棒に襲われた人もたくさんいるが、避難先ではどうすることもできない無力さがある。
人間の力ではどうにもならないのが原発事故だ。それまで先祖代代守ってきた土地が、汚染されてなんの価値もなくなって二度と元通りにはならない。そして、帰れるようになった時期に、自分が生きているのかさえわからない。
経済の発展だけを目指すべきではない。自然を守ることがいかに大事であるかを上関の美しい海を見てより強く感じている。福島ではとれた魚はいまだに出荷停止だ。放射能は環境のみならず、人間関係もぶちこわす。好きでこうなったわけではないのに、避難先の小学校で子どもがいじめられたり、「双葉郡の被災者は帰れ」という嫌がらせの手紙が届けられた話も聞いた。そういうものを見ると心が痛む。上関や祝島と同じように推進・反対でみんなが分断され、親戚や友だちも失ってしまう。
脱原発は今やらなくていつやるのか。いまだに政府は経済発展のためだけに盲目的に原発推進をやっている。お金をばらまいてアメとムチで納得させ、弱みにつけ込むのが原発だ。そこに頼らないで、地元の人が頑張らないといけないと思う。
世界の裏側ニュースさんのサイトより
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-12197554451.html
<転載開始>
デトックスやジュース断食、洗浄を始めると、すぐに症状がよくなることを期待されるかもしれません。しかし、まったく逆のことが起こる場合もあります。古くて不要な毒物が流しだされ、望ましくないバクテリアや病原菌、ウィルスなどが死ぬことにより、一時的なクレンジング・リアクション(好転反応)を経験する可能性があるのです。
その症状は軽い頭痛、吐き気、寒気、発汗、疲労感、筋肉痛、痰(たん)、体臭、湿疹、めまい、衰弱、頭がぼーっとすることなどが含まれ、1、2時間で済むこともあれば2日程度続く場合もあります。
この反応は19世紀後半のカール・ヘルクスハイマー教授の研究から知られ、ヤーリッシュ・ヘルクスハイマー反応としても呼ばれていますが、この一時的な症状は実際には治療が進行していることを示す兆候なのです。
つまり身体に過剰に溜まっていた毒物が動き始め、それに身体が素早く対応しようとしているために起こる反応で、身体が毒を排出し始めたことを示しています。
病気の原因となる作用因子を除去することにより、好転反応(cleansing reactions、healing crises)が起こる誘因となると、ブルース・ファイフ博士は著書「The Healing Crisis」の中で記しています。
「身体の自然な治療のプロセスを強化する害のない方法のほとんどは、好転反応を誘導する可能性があります。
こういった方法には、よりよい質の食べ物に切り替える、ホメオパシー医療、腸内の洗浄、断食、ジュース健康法、治療効果のあるハーブ(薬草)、マッサージによる治療、鍼治療、リフレクソロジー、ビタミン療法、運動などが含まれています。」
浄化のプロセスに入ると「苦しんでいる慢性的な症状が一時的に悪化する可能性があります。持病が関節炎であれば、関節の痛みが増すでしょう。慢性的な頭痛に苦しんでいるのであれば、頭痛が悪化するかもしれません。乾癬の症状が激化する可能性があります。痔疾、月経前症候群、アレルギーは悪化し、喘息もちの人は呼吸が困難になる場合もあります。血圧が上がるかもしれません。
症状の認識のある健康問題とは関係ないことのように思われるかもしれませんが、この期間に複数の他の症状が表面化する可能性があります。好転反応の後に、症状が改善されることもあります。被害を出している毒物を排除して治療を促進させるためには、複数の好転反応が必要になるケースもあります。
好転反応の直後に健康問題が即座に改善される可能性もありますが、それ以外の場合では健康問題は徐々に改善されるでしょう。」
クレンジング・リアクション(好転反応、cleansing reaction)
あなたの体が毒物を開放する速度が、身体が毒物を排泄する速度よりも速い場合、クレンジング・リアクションは必ず起こります。
例えば大腸に詰まっていた未消化の古い食べ物を刺激したとすると、一時的にバクテリアや毒物を血流に解放し、肝臓がこの余分な蓄積分をろ過しようとしている場合もあります。クレンジング・リアクションが起こるということは、肝臓が少しお疲れでその機能を完全に果たしていないことを示していることがよくあります。
また、あなたの体は毎年の定期的な洗浄や、また免疫力を強化するために長期的な食生活の変更を必要としているというサインでもあります。
クレンジング・リアクションを経験中の方は、身体の毒物を次のような方法でスピードアップさせることも可能です。
1.結腸の洗浄法
2.自宅で蒸留水を用いたエネマを行う(あるいはオーガニックのコーヒーを用いたエネマ)
3.ミネラルをもっと摂る。ミネラル液、グリーン・ジュース、
ウィートグラスか緑の野菜のスムージー(どの種類のデトックスをしているかによって異なる)
(画像とこの方法の詳しい情報は http://www.incrediblesmoothies.com/detox/common-detox-symptoms-and-what-they-really-mean/)
4.腎臓を洗い流すために水をもっと飲む
5.ドライスキン・ブラッシング、薬草の蒸気や赤外線サウナなどを用いてリンパ系を助ける
普通の好転反応は、最高でも数時間で終わるでしょう。私は誰にも好転反応を耐え抜き、苦しむようにアドバイスするつもりはありません。
(私のような!)デトックスの専門家に相談することで、最善で最も安全なデトックス計画を立てる手助けとなるでしょう。その場合、あなたの肝臓や皮膚、腎臓、結腸、肺という排除のプロセスにある臓器に余分なストレスをかけないようにすることができます。
ヒーリング・クライシス(Healing Crisis、治療の危機)
実際に治療の危険と呼ばれる状況になることは、好転反応よりも稀です。本物のヒーリング・クライシスは、体がより強く、そして清浄になってきている際に起こりますので、前進している本当の兆候と言えます。
ヒーリング・クライシスはあなたが過去に経験したことのある病気や疾患のいずれかを模倣して現れる可能性がありますが短縮版で、普通は数時間から数日で終わります。
著書「ヒーリング・クライシス」の中で、ファイフ博士はヒーリング・クライシスの間に自分の体の声を聴く方法を提案しています。
「クライシスの期間にどのような症状がでるかによって、対処の方法を知ることができます。
疲れているなら―休んでください。
喉が渇く場合は、飲んでください。
熱があるなら、あなたの体が熱を作り出そうとしています。体を温めて、熱が行き渡るようにしましょう。
筋肉が痛む場合、温かいお風呂で楽になることも。
腰の痛みは、背中の筋肉が痛いことが原因の場合もありますが、腎臓が水を求めて起きた場合の方が多くあります。
水を飲んでください。下痢や嘔吐のある場合は、体が自分を空っぽにしようとしていますので、食べないでください。水分を失いますから、脱水にならないように水を飲んだ方がよいでしょう。
クライシスの時期に、大量の水を飲むことはよい習慣とされています。なぜなら水(特に蒸留水)は血中の毒物を薄め、その排出の助けになるからです。」
ヒーリング・クライシスを経験中の方は、デトックスの専門家によるガイドやサポートを受けることは必ず手助けとなるでしょう。
大事なことは、穏やかさを保ち、ヒーリング癒すことに意識を集中させて、体が少しずつ健康を取り戻す手助けをすることです。
へリングの法則(Hering’s Law of Cure)
ヒーリング・クライシスを経験している場合、ホメオパシー療法の治療の法則、またへリングの法則として知られるものを思い出してください。
ヒーリングが始まる順番:
1.中から外へ(つまり内臓が最初で、それに関節や皮膚へ進むということ)
2.頭から下へ(身体の清浄から起こる症状は頭から起こり、そして胴体、臀部、そしてつま先へ)
3.その症状が起きたのと反対の順番で(最新の慢性病が一番に治る)
これが体が自然に健康な状態に戻ろうとする時に、身体が通過するプロセスです。
【免責事項】
私は医師ではなく、これは医学的サイトではありません。ここに提供されている情報は一般的な目的に限定して提供したものとします。
医療的な疾患に関する疑問や懸念は、かかりつけのお医者様にご確認ください。
東北の二の舞いにするな
長周新聞さんのサイトより
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/touhokunoninomainisuruna.html
<転載開始>
東北の二の舞いにするな
棄民状態に置かれる熊本
4カ月経ても何も進まず 2016年8月24日付
【記者座談会】
熊本大地震の発生から4カ月が経過した。商業メディアからはほとんど現地の実情は伝わらず、あたかも「復興に向かっている」かのような印象を与えているが、倒壊家屋はほとんどが手つかずで、数万人の避難者たちは置き去りにされ、いまもまだ避難所での段ボール生活や車中泊、テント生活を送っている住民も多い。町の復興どころか住民の生活再建の道筋すら立っていないのが現状で、多くの住民が難民化し「東北被災地の二の舞い」になろうとしている。本紙は、四カ月経った熊本現地に取材に入り、被災地の実際と国の救済措置や復興政策の問題点について記者座談会で論議した。
ないがしろにされる国民の生命・安全 ODAやめ被災地に資金を回せ
A まず、4カ月経った熊本被災地の実情はどうか。
B 震度7の地震を2度受けた益城町は、崩れた家屋のほとんどが手つかずのままで地震直後と風景が変わっていない。道路は車や人が通れるようにはなっていたが、ガレキは撤去というよりも道の脇にかき分けたという程度で、倒壊家屋の周辺にガレキが積み上がったままになっている。地元の人たちも4カ月経った現状を「見ての通り」と一言でいい表していたが、まさに言葉を失う状況だ。少しずつ以前の生活がとり戻されているというよりも、人がいなくなり、商店も崩れたままだ。町にはまだ生活感がない。
C 住民にとって最も切実な住居の問題が今も解決していない。学校などの避難所は徐徐に閉鎖されて、総合体育館など2カ所に集約されており、4000人以上いた避難者は600人にまで減っている。マスコミ報道では学校が再開することだけを「復興している」ととりあげるが、住む家のない人は避難所を転転とせざるを得ない。仮設住宅やアパートなどの「みなし仮設」に入れず、避難所を出ても、ほとんどが「要注意」の家に住んでいたり、ブルーシートのテントや農業用のビニールハウス、プレハブ小屋などで生活しており、車中泊という人もまだいる。民間のボランティアが建ててくれた小屋で高齢者がエアコンもなしで一人で生活していたり、とりあえず雨露をしのぐ生活で、この先どう暮らしていくかなど考えられる状況ではない。水道も復旧しておらずホースで消火栓から引いている場所も多い。
D 益城町の場合、仮設住宅は8月中盤までに1285軒建てられている。「町民のニーズに合わせて」といって徐徐に増やしているものの、5600軒以上も住めない家があることは最初から分かっている。仮設の入居条件も当初は「大規模半壊以上」であったが、全壊だろうが半壊だろうが「住めないことはどこも同じだ」とかなり批判が出て「半壊以上」に規定が変わり、ようやく仮設の建設数も見直されるという状況だ。だが、仮設に入っても、光熱費も家電なども自費負担であるため、手持ちのお金がない人は、鍵をもらっても入ることができない。
益城空港の近くの仮設住宅は、交通の便も悪く、買い物難民になるため、初めに募集をかけたときには応募数が上限に満たなかった。そこで急きょ家電製品などを完備し、送迎バスも運行するなどの条件で再度募集をかけたら今度は逆に応募が殺到した。それでも高齢者が多いのに仮設住宅がバリアフリーでないとか、車イスでは入れないトイレになっていたり、暮らしに困っている人は大勢いるのに、実際にそこで暮らす人たちのことを考えられていないことにみんなが幻滅している。国が定める基準の厳格化だけが求められるが、それが住民の実際にことごとく合致しない。対応が後手後手で、若い人ほど町内での生活をあきらめて外へ出て行く効果になっている。
B 避難所で生活している女性の一人は、「仮設の鍵をもらったが、家電も需要が上がり、手に入らない。この時期クーラーと冷蔵庫がなければ仮設に入れても生活できないから鍵を持ったまま避難所で暮らしている。だが、鍵をもらって2週間経つと避難所で食事をもらうことはできなくなった。早く避難所から出すことしか考えていないようだ」と話していた。
D 益城町では、5600軒ある全壊・半壊家屋の解体が滞っている。町が解体費を肩代わりする「公費解体」の申請を受け付けているが、受理されても「解体は最大で2年後になります」といい渡されており、みな途方に暮れている。実際に公費解体に応募した大規模半壊以上の2600軒のうち、着手したのはわずか60軒だ。「このままでは2年以上かかる」というのが町民の実感だ。
被災直後から町や県が建物の被害調査をし、罹災証明書の発行も2~3カ月かかっている。行政はどれだけの家屋が被害を受けたのか把握しているにもかかわらず、それから住民の申請を受け付け、また個別に審査をして、公費解体の条件を満たしているかを確かめたうえで解体業者が作業に入る。解体業者も当初は11班しかおらず、今も30班程度だという。解体作業は一軒あたり長くて2週間以上もかかるため、とても間尺に合わない。業者不足も含めて行政の対応の不備をみなが感じている。お金のある人は自費で独自に業者に頼んで先行解体したり、自力でやる人もいる。「もう町にいっても仕方がない」とあきらめている人も多い。
家屋の解体は2年後… 着手はわずか60軒
C 個人で解体を依頼するにもお金がかかる。崩れた家の周辺を手作業で片付けていた50代の女性は「みんなのなかでは“解体は早くて2年後。4年はかかるのではないか”といわれている。それほど進展がない。こんなに崩れているが、これまで何十年と住んできた家だ。よその家にも迷惑をかけられないから崩れかけた状態のまま他の地へ出て行って放っておくことはできない。時間を見つけては避難所から通って、家の周りの草抜きやガレキの撤去をしている。見ているだけで忍びないが、どうすることもできない。夫は他界し、200万円もの解体費など用意できないし、全額保障されるかどうかも不明だ。お金がない者は公費解体の順番が回ってくるのを待つしか選択肢はないが、少しも事態の進展が見られないから次の一歩を踏み出すめどが立たない」と話していた。
行政も「解体や片付けをしたいのなら自分でやってくれ」という姿勢で、盆を迎えるのに仏壇一つ家から取り出せない状態だ。解体するにしてもまず家の中から家具や電化製品は外へ出さないといけないが、その保管場所もない。高齢者は取り出すことすらできない。ボランティアも危険な家屋や解体現場には入ることができないため、ほとんどが放置だ。
B 益城町役場のすぐ近くにある県道沿いの家屋の倒壊状況がとくにひどい。県が管轄する県道については、勝手に個人が解体できない。そのため倒壊家屋はそのまま放置され、今にも崩れそうな建物の下にブロックを積み重ねてかろうじて支えている家もある。交通量の多い町役場前の交差点にある傾いた家屋は町民から「もっとも危険」といわれているが、対応した県が解体するのではなく、崩れたときの「支え」として、一車線を潰して1本100万円といわれる鉄骨を六本建てた。住民が200万円以上の解体費用を出せずに手も足も出ないときに、莫大な金をかけて「応急処置」をしている。「なぜ解体しないのか」とみなが怒っていた。
E 益城町で自宅が全壊になった60代の男性は今でも車中泊をしていた。「姉の家は半壊となり、いまだに水道も復旧していない。仮設住宅にも申請しているが3回も落選した。今は消火栓からホースで水を引いて半壊の家に住んでいる。母親は最近まで避難所で暮らしていたが、地震のときに頭を打っていたのと避難所暮らしの疲れもあったのか頭に血が溜まって手術をした。母だけでなくそういう人が何人も病院に運ばれている。自宅は全壊でそのままにしておくと危ないから、自分でチェーンソーを使って解体した。瓦礫は業者に運んでもらうしかないが、瓦礫を運ぶ場所も業者もおらず、そこから先はどうすることもできないのが現状だ。近所の家はみんなばらばらになってしまって、どこに行ったのかもわからない人もいる」と話していた。
しかし議会では派閥の対立でせっかく決まっていたゴミ捨て場の予定地が覆り、またゼロから検討し直すなどまったく機能していない。「こういう非常事態で田舎のもめごとをやっている場合ではない」と不満を感じている人たちがたくさんいる。
B 農業関係では、今年は水路や農機具が壊れてしまって作付けができなかった田畑も多い。農機具や農業施設は、修理に国の補助を受けることも可能だが、補助率は9割以内で、仮に数年後に耐用年数が残った状態で農業をやめる場合はその差額分を返却しなければならないという。だが、提出書類が膨大で、写真や3社以上の見積書、契約書、カタログ、図面、通帳や所得税確定申告の写し、さらには「営農継続と目的外使用防止のための確認書」など15項目に及ぶ。「農機具の修理は解体しなければならず、3社以上の見積もりなど不可能」「災害対応制度がまったく作られておらず、育成制度に毛が生えた程度。これで救済になるのか」と憤慨する人もいた。自助努力にゆだねて国や行政側のバックアップはなく、生活の再建とはほど遠い状況だ。
D 2万8000棟が全壊・半壊した熊本市内でも、住居の問題は深刻だ。避難所はほとんどなくなり、9月15日ですべて閉鎖される。解体が進まないなか、4カ月が経ち、余震も何千回と発生しているため、家屋の被害状況も進行している。
「一部損壊」だった家にはなんの補助もない。壊れた屋根にブルーシートをかけていても月日が経つなかで雨漏りを始めて屋根の断熱材が雨水を吸い、その重みに耐えられなくなり天井ごと落ちてきたり、壁のヒビがどんどん大きくなったり、詰まった側溝に雨水が溜まり30㌢も溢れたりと二次被害も拡大している。これからは学校も再開するが、通学路にもまだまだ倒壊の危険性のある建物が残ったまま。さらには台風のシーズンでもあるため、みなが二次、三次の被害を懸念しているがどうしようもないもどかしさを感じている。
C 行政対応が後手後手で、みんなが困っている足下を見て法外な契約金を要求する悪徳業者も出回っているようだ。引っ越しやリフォーム、解体費用も値上がりし、瓦やブルーシートなどの資材も値上がり、さらに地震で地価が下がったと思っていたら、住める家がなくなり、みんなが住める家を探しているため不動産価格も上昇して、ただでさえ困窮している被災者を困らせている。アパートなどの「みなし仮設」は、家賃保障は2年を限度にして家賃6万円以内と定められているが、人数の多い家族ほど住居探しが困難を極め、崩れた家に住み続けるか、町を出て行かざるをえない。行政の放置政策とあわさって災害便乗型のぼったくりがはびこっているのも東北がたどった道と重なる。
F 本震で壊滅的な被害を受けた南阿蘇村では、住民が熊本市との行き来に使っていた主要道路が通行止めになったままで開通の見通しが立っていない。阿蘇大橋の崩落の原因となった山崩れの土砂でいまだに国道が埋まっている。その土砂を除けば通行できるのだが、その工事も手つかずの状態だ。市内へ行くにはグリーンロードという広域農道を通るしかないが、通常の3倍の時間がかかる。カーブが多く、反射板も街灯もないため当初は事故も起き、住民の声で中央線が新たに引き直された。
鉄道も豊肥本線は肥後大津駅までしか通っておらず、豊肥本線立野駅からの南阿蘇鉄道も運休したまま再開のメドが立っていない。また、南阿蘇全域で現在も山崩れの危険性がある。本震後もあちこちで山崩れが発生している。
E 他の地域と同じく、南阿蘇でも屋根が壊れて住めない家が多いが、修理する業者がおらず、雨漏りし放題でこのままだと家全体がだめになる。旅館でも温泉が枯れたり、施設が壊れて閉店した施設がいくつかある。病院も、患者がいなくなって成り立たない。広い南阿蘇村で入院可能な病院が1軒もなくなり、救急時はドクターヘリで熊本へ運ぶというが、復興にはほど遠い状況だ。
全国的に共通する課題 これで先進国か?
G メディアもまるで復興しているかのように報道しているが、現地は放置状態だ。東日本大震災から五年経つが今も仮設暮らしが続いており、全国どこでも地震・津波・火山噴火など自然災害が起きる危険性がある条件にありながら、何度国民を同じ目に遭わせるのかだ。自然災害だから発生することに関してはどうすることもできないが、その後の「復興」の過程で平気で「棄民」をやる。
国民の生命・安全を守るとかいって防衛費に過去最高の5兆円とか、集団的自衛権とかを進めている。だがその実際は、いざ国民の生命や安全が脅かされる事態になったときに、自然災害一つとっても、被災地の人人の生命・安全を第一にして展望を見せて立ち上がらせていくような国、統治者としてのかかわりをやらない。東北も露骨だが、熊本も同じだ。壊滅的な打撃を受けた益城町だが、範囲としては小規模で、全国といわず九州地方の余っている重機をかき集めれば短期間で倒壊家屋も解体し、これからの生活のステップへの手助けができるはずだ。
A これほどの先進国で、なぜ被災者がいつまでもテントで難民キャンプのような生活を送らなければならないのかだ。消防退職者の男性は、「災害対応という場合、あとからなにをいわれようが、そのときの現場判断で住民の生命と安全の確保を最優先にするのがあたりまえのことだ。しかし、生きるか死ぬかという状況でも“国が定めた厳格な手続き”を求める。書類一つなければ補助一つ受けられないとか、調査に何カ月も要する。あれだけいる国会議員も県議も日頃から住民のために動いていないから非常事態に何の役にも立たない。役場職員には“助けたい”という気持ちがあっても動けないのだ」と話していた。
H 現在放置されている被災地の現状や被災者の要望は、統治者として対応できることなのか、できないことなのかだ。絶対にできることであるはずなのに、救う気がないからやらないという話だ。業者も国が呼びかけて全国から集めれば、狭い益城町の家屋などあっという間に片付くのは疑いない。解体も家賃補助も定額制で、農業施設の修理補助にしても補助率九割というが、残り一割がなぜ出せないのか。「個人の私有財産だから公費負担できない」といい、行政も石頭でこのような緊急事態への柔軟性がまるでなく、対応できていない。災害に遭ったときに、「暮らしをどうとり戻していくのか」というところから計画・設計していかなければことは動かない。東北で行政機能がマヒしたが、それがわかっているのだから教訓にして対応しなければいけないはずだ。
G 「被災地がかわいそう」という報道や風潮は直後だけで、あとは放ったらかしだ。「精神を病んで鬱になろうが自分の好きにしてくれ」という対応で、東北の被災地とそっくりだ。福島でも東電からの補償は結局誰も責任をとらないまま打ち切ったが、その金ですら国家財政で肩代わりしている。そして、東京の電気をつくるためにひどい目にあわせておきながら、今度はその悲劇を東京がオリンピックでよりもうかるためのダシにする。実際はなにもコントロールされていないし、数万人に避難生活を強いている。それで24時間テレビで思い出したように「被災地」を引っ張ってきて、ジャニーズが歌を歌ったり、オリンピック誘致のための「感動ストーリー」に使うのだからふざけている。
B 東北の被災地はかなり広範囲だが、日本全国の自治体が第2、第3の被災地になりかねない可能性がある。苦しんでいる被災民に関心がなく「棄民」を平気でやるその目線はどっちを向いているのかだ。多国籍企業が海外進出ばかりで、国民が貧乏になろうが知らん顔であるのと同じように、統治の側が国民の生命・安全に対してどう向きあうのかがまるでない。ODA(政府開発援助)で東南アジアや海外に大金をばらまき、建設会社が海外へ出て行って「バングラデシュがかわいそう」といって恩を着せるが、その前に熊本だし、タイの道路を作る前に熊本の道路ではないか。「日本の伝統・誇り」というわりには、国民がどんなひどい目に遭おうが関心がない。その姿勢が東北や熊本で露骨に体現されている。
D 商業メディアも、東北でも真実を伝えないし、熊本でも四カ月経った現状を伝え、住民の側から「復興とはいえない」という批判的な姿勢で政治と向きあっていく構えがまるでない。熊本の地元紙ですらなにも進まない現状について黙認していることへの不満は何人もの被災者が話していた。
放置していたら益城町などは廃虚だけが残って住民が減り、復興の前に自治体が崩壊する。統治や官僚の側からすれば、コンパクトシティ路線で「いっそ益城など潰して、熊本に合併させたらいい」という調子だ。福島でも住民から土地を奪いとり、原発ゴミや核廃棄物の最終処分場にする方向だ。原状回復などする気はなく、熊本に視察に行った政府閣僚がまた「創造的復興」と謳っている。結局は「放置するか、食い物にするか」だ。南相馬の住民が「熊本は東北と同じ道をたどっていると早い段階から周囲の人たちと話になっていた」と語っていた。
C 東北では、津波に浸かった地域は災害危険区域に指定されて建築規制が敷かれ、その地域には居住施設を建てることはできない。地域のみなが親戚の家や仮設、高台住宅へバラバラに移り住み、それまでの地域コミュニティをとり戻すことが難しくなっている。そんななかで、今後誰も住むことのない地域に10㍍以上の防潮堤を建てており「いったい誰を守るのか」と語られている。他にも岩手県の陸前高田では町全体をゼネコンが20㍍も盛り土をしてかさ上げしその上に街を造る計画が進んでおり、五年経っていまだ仮設暮らしだし、宮城県の牡鹿半島の雄勝では、かさ上げ計画の邪魔になるからと今いる仮設住宅から別の仮設住宅へと追いやられるなど、完全に災害便乗型で企業のもうけの種にされている。そして東京の企業が税金の恩恵を受けながら進出し、土地や経済利権を漁っていく。住民が望む「復興」と、国主導で進行している「復興」がまったく合っていない。放置することで住民をバラバラに離散させ、コミュニティを壊し、地域のまとまった声を上げさせないように弱体化させている。熊本もこのままでは同じ道をたどることは目に見えている。
G 東北の現状を踏まえ、熊本でも住民たちの強烈な世論を発信していかなければいけないし、全国にとっても「熊本だけの話」では済まない。日本列島が地震活動期にあるといわれるなかで、今後第2、第3の東北・熊本にどこでも、誰でもなりうる。国は東京オリンピックのバブルに浮き足立っているが、いざ首都直下地震でも起きたときに、地方以上の惨劇に見舞われることは明らかだ。東北被災地とともに、熊本の復興はこれからの日本社会の進路を象徴的にあらわしている。住民生活を再建し、コミュニティを守り、農漁業をはじめとする1次産業を立て直すたたかいは、全国的な課題であり、全国的な世論を巻き起こさなければいけない。
4年後待ちきれずフライング
長周新聞さんのサイトより
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/sogekihei4nengomatikirezuhuraingu.html
<転載開始>
狙撃兵 4年後待ちきれずフライング 2016年8月24日付
リオ五輪のクライマックスで、アベマリアならぬ安倍マリオが土管から出てきて、世界に向かって「僕を見て!」をやったのには絶句した。都市開催の五輪において、開催国や次期開催国の政治指導者が主人公気取りで登場するような場面など見たことがなかったからだ。前回ロンドン五輪で次期開催都市の顔として出てきたのは、ブラジルを代表するサッカー選手のペレだった。さらに思い出してみて、北京五輪やソチ五輪などで胡錦濤やプーチンが出しゃばったか? 否、みなそのような下品な行為には及ばなかった。アスリートを差し置いて政治家が目立つ場面ではないし、主人公が誰なのかをわきまえていれば当然だ。むしろおこがましいし、恥ずべき振る舞いと見なすのが常識だろう。
ところが世界基準からかけ離れて「僕を見て」の出たがりが堪えきれなかった。演出を担当した電通はじめ周囲のおべんちゃらも大概だ。おそらく気分が満たされているのは本人だけで、オバマ、プーチン、習近平、メルケル等等、各国の政治指導者も含めて世界は失笑しているのである。あの得意満面に赤いボールを抱えて出てきた顔を見て、心の中で「バカ丸出しじゃないか…」と思った人が大半なのではないだろうか。
舛添要一がどうしてもやりたかった旗振りを小池百合子がやり、それ以上に目立つ格好で安倍マリオがしゃしゃり出て五輪は幕を閉じた。アスリートでもない者が何か勘違いして、四年後の脚光を待ちきれずにフライングをやった。こうした目立ちたい一心で、およそ遠慮とか恥を知らない振る舞いを見て、彼らにとっての日本民族の美徳とはいったい何なのだろうか? と思うのだった。
例え金メダルでなくとも、努力した選手たちは脚光を浴びて賞賛されればいい。そこに横から割り込んできて、何だか自分まで人気者と思っているところが浅ましく図図しい。世界は裸の王様をどう見なしただろうか。
故郷奪った福島原発
長周新聞さんのサイトより
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/kokyouubaltutahukusimagenpatu.html
<転載開始>
故郷奪った福島原発
「原子力明るい未来のエネルギー」
標語考案者の大沼勇治氏に聞く 2016年8月31日付
東京電力福島第1原発の事故から5年半が経過したが、いまだに10万人をこえる人人が故郷を追われたまま避難生活を強いられ、とくに原発立地町である双葉町・大熊町は町の大半が帰還困難区域に指定され、帰ることもできない状況に置かれている。この双葉町に住んでいた大沼勇治氏(40歳)が先日、山口県上関町の祝島を訪問し、その際に本紙は福島事故から現在に至る双葉町の様子や住民が置かれている状況、何を体験し、どのような思いを抱いているのか取材した。大沼氏は双葉町の入口に掲げられた原発PR看板「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を子どもの頃に考案して表彰された過去を明かし、震災後は「明るい未来」どころではなくなってしまった双葉町や福島の実情を伝えるために、全国各地を訪れて講演などで思いをのべている。近年は福島がどうなっているのか、とりわけ双葉町や大熊町がどうなっているのかは、まるで報道管制でも敷かれたように表に出てこない。そして原発に翻弄された一般住民を東電と同列の「加害者」のように叩く構造もあるなかで、いいたいことをあからさまにいえない力も加わっている。その声なき声を伝えることを重視し、以下、大沼氏が撮影した写真とともにインタビュー形式で紹介する。
Q まず、福島原発の事故が起きてから現在まで、どのような生活を送ってきたのか。
A 福島第1原発から4㌔の場所に住んでいた。2011年3月11日、ものすごい揺れが10分程度続いた後に津波に襲われた。家の中は地震でぐちゃぐちゃになり電気もつかないので、妻と南相馬市の道の駅まで避難して当日は車中泊をした。そのとき妻は妊娠7カ月だった。
翌日の午前中に双葉町の自宅が気になって戻ったときに、駅にいた警察官に「すぐに川俣の方に向かって逃げなさい」「早く遠くへ」といわれたので、福島原発で大変なことが起きているのかな…と直感的に思った。そしてその日の昼に当時の菅直人首相がヘリで東電に来たと聞き、やはりこれは大変なことが起きているのではないかと思っていたら、午後に水素爆発した。
その日の夜は相馬の道の駅で野宿をしようとしていたが、妻のお腹には子どももいたので13日の夜中に親戚を頼って会津若松に避難し、27日まで約2週間を過ごした。病院を探さなくてはいけないと思っていたが、福島県内の病院は避難者やけがをした人でいっぱいになっておりたらい回しにされる不安もあった。そうこうするうちにまた原発が爆発し、上空からヘリで水をかけている様子などを見て、これはもっと深刻な事態になると思った。
そこで親戚を頼って愛知に行き、借り上げ住宅を探してもらった。3月30日から平成23年の12月5日までそこで暮らしたが、子どもが生まれたので愛知県内のマンションに引っ越し、平成26年5月26日まで暮らした。それから茨城県古河市に引っ越して現在にいたっている。
Q 原発が爆発したときに住民にはどう知らされたか。安全対策はあったのか。
A 原発事故が起きたときの避難について、サイレンが鳴ったりなにかが放送されていたが、内容がわからなかった。あれほど強い揺れが続き、イオンのガラスが崩れ落ちたり、街中で火事が起きたりしたので、ただごとではないというのは感じた。11日は自分の判断で南相馬に逃げたが、「逃げなくてはならない」というのを聞いたのは先ほどのべたように、翌日に一端自宅に戻ったときに警察にいわれたのが初めてだった。しかし、なぜ避難しなければならないのかはいわれなかった。町として避難指示は出したのかもしれない。しかし少なくとも私は聞きとれなかった。
すでに原発が危なくなっていたはずの11日の夜、私たちは南相馬にいたが、みんなは高台にある小学校の体育館などに避難していた。原発からは4㌔しか離れていない場所だ。“原発事故が起きれば東京まで住めない”ということがいわれてはいたが、まさかのときの避難訓練もなく、心構えもしていなかった。たまたま私は渋滞を避けたので通らなかったが、「川俣方面に避難しなさい」といわれて逃げる人人の車が連なり、渋滞になったところが風の影響でホットスポットになって放射性物質を浴びている。
東電は住民の安全対策をやっていると資料などに書いてはいたが、そもそも福島第一原発自体が津波を想定したつくりではなかった。電源も地下にあって、津波に襲われて冷やせなくなっている。津波対策を怠っていたうえに、あえて岩盤を削って低いところに原発を建てていた。これは、船を接岸したところから部品を運びやすくするためだ。明らかな人災であるし、これは謝って済む問題ではない。住民の安全対策などやっていなかったのが現実だが、私たちは東電に勤めているわけでもなく「安全だ」といわれればそれを信じるしかなかった。しかし頻繁にトラブルも起きていたし、それを隠蔽していたので信用はなかった。
Q 原発立地町である双葉町の人人の生活や意識はどんなものだったのか。
A 「原子力明るい未来のエネルギー」。この標語を考えて私が表彰されたのは小学6年生のときだった。当時、双葉町は7・8号機の増設に向けて動いており、そのために原発推進の標語を町民に公募した。私たちはそれが学校の宿題となり、「“原子力”という言葉を入れた標語を1人3つずつ考えてきなさい」といわれ、やらなければ怒られるので考えた。大人から子どもまで178人が応募し、281点の応募点数のなかから私の作品が選ばれたのだった。
学校から配られる鉛筆や下敷きには東京電力の名前が刻まれ、なにかの参加賞なども東京電力からで名前や写真が入ったものが配られ、それを使っていた。町は電源立地交付金で役場、駅、図書館、マリンハウス(海の家)などのハコモノを建てた。また双葉町には「原子力運送」、双葉郡の冨岡町には「寿司屋・アトム」「パチンコ・アトム」など、原発関連の名の企業や店も多く、まさに原子力に依存した町だったと思う。
学校には東電社員の転勤の関係で転校生の出入りもあったが、来て2、3年もすれば双葉町内に2階建ての立派な家を建てていた。所得があるので銀行からお金を借りやすいのだろう。人口もどんどん増え、商店街も潤った。私は電力会社の人にファミリー向けのアパートを貸していた。サラリーマンとして働いていたうえに家賃収入もあったので生活は安定していた。
原発についてはいろんな考え方をみな持っていたが、原発に反するようなことをいってはいけない空気が覆っていた。個人的には『はだしのゲン』を読んだこともあって原発=放射能=原爆というイメージも持っていたので、原発がいいものだとは思っていなかった。ただ、隣の家や同級生の親が原発に勤めているなかで、否定的なことをいうと怒られた。子どものときに釣り大会があったが、そのとき釣具屋さんに「原発近くに面した海でとれた魚は食べられないのか」と尋ねると「そんなことをいってはいけない」といわれたこともあった。
原発で働く人たちがいて町は成り立っているし、否定的なことをいえば近所の仲が悪くなる原因にもなる。双葉町自体が増設に向けて舵を切ろうとしていた時期でもあり、反対のことをいうと町に居づらくなるという空気があり、思っていても声に出していえるものではなかった。
ただ、親戚のなかにも原発に推進の立場と反対の立場の人がいて、酒を飲むと喧嘩になっていた。少数だが原発反対の看板を敷地に建てている人もいた。しかしそういう人も家賃収入を得たりしていたので「おかしい」「矛盾している」といわれていた。
原発が来る前の双葉町には雇用がなかった。出稼ぎで出ていく人も多く、新婚夫婦でも旦那が東京に単身赴任で働きに出たりしていた。しかし原発ができたことで雇用は増え、4、5人に1人は原発関連の会社に入っていた。給料も良く、「結婚するなら電力関係の人か公務員」といわれるほどだった。
原発事故起きての変化
Q 福島第1原発事故が起きてからの変化はどうだったか。
A 原発で成り立ってきた町は、事故が起きてから一変した。私も家とアパートのローンが残ったまま出ていかなければならず、その後もローンは払い続けて補償金で完済したが、無人のアパートは汚染されているので、もう貸すこともできない。自宅もおそらく解体するしかない。人口に見合わないのに電源立地交付金で建てた立派な駅や役場なども何の意味もないものになってしまった。それらのハコモノができたからといって、潤ったのは工事に携わった人ぐらいで私たち住民の生活がよくなるわけでもなかったのだが…。東電の補償金でローンは終わり、残った補償金で土地を探した。土地と建物を探すときも、福島では避難者がいっぱいで地価も上がっていたので、茨城に土地を買った。震災の年とその2年後に子どもが生まれ、幼稚園にも通わせなければならない。茨城だったら東京からも1時間半、福島には4時間ぐらいで行くことができるのでそうした。
原発事故に直面している者として、30年以上にわたって反対している人たちと交流することは大切だし、家族でデモに参加することで祝島の人たちと共感しあえたらいいと思って上関に来た。
五年半が経過した現在
Q 原発事故から五年半が経過した双葉町や町民はどんな状態に置かれているか。
A 5年半が経過した双葉町は、復興しているかのようにいわれているが、住民が逃げ散ったまま、時間が止まったようになってなにも復興していない。私はこれまで73回一時帰宅したが、そのたびに町内を見廻りして状況を撮り続けてきた。一時帰宅のさいには許可証が必要で、防護服を着て五時間の滞在しか許されない。出入りにはバーコードチェックもある。
5年が経過した町内は、今でも原発事故でみなが着の身着のまま逃げたままになっている。食べかけの寿司や湯飲み、子どもたちのカバンが転がっている保育園、乗り捨てられた車、自転車の転がった中学校、3月11日で止まった時計やカレンダー…。すべてそのままになっているが、人の姿だけが消えて草が生い茂っている。まだ線量が高く、今年の3月に自宅の庭で測ったら25マイクロシーベルトあった。線量の高低を示すのに赤、黄、緑、青と色分けがされているが、ホットスポットで線量の高いところは赤い印がずらっと並んでいる。最初のころは牛などが街中を闊歩していたが、今は駆除されて「牛に注意」の看板は「猪に注意」に変わった。またブタとイノシシが交配して「イノブタ」になり、イノブタ同士が交配して「イノイノブタ」になり、今は「イノイノイノブタ」ぐらいになって生態系も変わってきていると取材関係の人がいっていた。ネコやイヌは骨になって死んでいる。養鶏場のニワトリもそのまま死んで、鶏舎には羽と骨が残っている。人が戻らず荒廃した町内には、夜行性のはずのタヌキが真っ昼間から出てくるようになった。
双葉町民は全員が避難生活を送っている。最初は埼玉に拠点があったが、いわき市に役場機能を移転し、郡山や福島をはじめ県内外に散らばっている。避難先から自宅に帰るのは年間30回まで。双葉町は中間貯蔵施設の候補地でもあるので、除染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグがどんどん運び込まれている。30年後には更地にして返すといっているが、30年後といえば40歳の私は70歳になる。「帰れない」といっているようなものだ。
国は帰還困難区域を「五年以内を目途に解除する」といっているが、解除しても帰らないとほとんどの人はいっている。私たちのように子どもを育てている住民がそうだが、お年寄りも「あと何年かしか生きられないから双葉で死にたい」といっても病院もない。一時帰宅するときには南相馬やいわきに泊まるが、そこでも病院が十分ではなく、私がおたふく風邪になったときには数十㌔離れた病院を紹介された。病院があっても医師がいないから不便な状況だ。過疎地の双葉より避難先の方が暮らしは便利なので、よほど帰ることに価値がなければ帰らないだろうと思う。土地は汚染され、原発では燃料デブリがどこにあるかわからない。そのようなところにわざわざ被曝しに帰るだろうか。もう家を建てていれば「帰る」とはならない。お墓参りに行ったり、限られた時間のなかで状況を見ていくしかないと思っている。
今、福島原発の復旧作業のための作業員でいわきなどの宿舎やホテルもいっぱいになっている。そういう人のための宿舎をやれば2150万円くらいの補助金が下りる。コンビニなどを開いた人にも国が補助金を出して住民の帰還を促している。住民票を移して自分もいなければならないのが条件だが、そこまでして戻りたいという人はあまりいない。メディアがコンビニなどを映して復興しているかのように伝えているが、現実には人などほとんどいない。
私は福島の現状を講演しながら回っているが、私がこの地域のことを知らないように、遠くなればなるほど、五年半前のことはもう話さなくてもいいという空気も感じる。また、福井など原発を推進しているようなところへ講演に行くのは、やはりおっかないなという思いもある。ネットなどでも「原発を推進していたくせになんだ」「虫が良すぎる」という書き込みを見かけたりする。しかし逆に、このような境遇になったからこそ思いを伝えられる。福島第一原発があのような状況になって、原発を推進する人はいないと思う。双葉町民の心情もそうだと思う。ただいいづらくていえない。双葉町民で脱原発を訴えている人に出会わないのは、家族や親戚、周囲に勤めている人がいるとかが大半だからだと思う。
双葉町は、「原子力明るい未来のエネルギー」の標語とまったく反対の運命をたどってしまった。この看板は今年3月4日に「老朽化して危険だ」という理由で撤去されてしまった。双葉町の負の遺産である看板を残してほしいという署名は6500筆にのぼったが叶わなかった。看板よりも撤去されるべき倒壊家屋は無数にあり、なにより撤去してほしいのは原発だ。そして町長が「看板の老朽化」よりも心配しないといけないのは、5年半も避難生活を送っている双葉町民のことではないだろうか。そのような心配よりも真っ先に看板を撤去するのはなぜなのか。「大事に保管する」といっていた看板は今シートに包まれ、草に覆われている。双葉町が行き着いた先は「明るい未来」ではなく、人がいなくなり赤信号だけが点滅する暗い町だ。いくら看板を撤去しても過去は永遠に残る。
原発事故では2000人をこえる人が関連死と認定されている。その多くの人の無念、町が積極的に誘致した歴史を後世に伝えるためにも看板は残すべきだと思う。「復元して保存する」という町長の言葉が嘘にならないようにいい続けていく。
Q 原発事故を経験した双葉町民として、上関や全国の人人に伝えたいことは何か。
A 上関町の景色を見て、原発に30年反対してきた気持ちに共感できる。たった1回の事故で、これから先もいつ帰れるかわからないが、そのようななかで解除しようとしている。国は補償金を払いたくないので、被災者の立場ではなく「復興」を無理矢理させようとしているのを感じる。原発ができれば町が発展するという“嘘”というか、“魔法”で信じ込ませるやり方は上関も双葉も同じだ。建てれば最初の何年かは町財政も右肩上がりだが、それが次第に下がってくるとまた増設、増設になり、麻薬のように依存していく。1回建ててしまうと必ずそうなってしまう。交付金がおり続けるわけでもなく、その交付金もハコモノに化けてしまう。
仮に事故が起きれば、できるだけ遠くに逃げるしかない。風向きなどわからず発表されるのを待っていたら被曝してしまう。避難するといってもいざそうなれば大混乱で、地割れしたところを無理矢理通ろうとしてパンクしたり、その車が道をふさいで通れなくなったり、橋の上で止まって津波が来たり、電柱が倒れたりーー 。とにかく混乱しているなかを逃げなければならない。原発などわずか50年ほどの歴史だが、人類があたりまえに住んでいたところに、人類がまったくいなくなるようなことがたった1日で起きる。お金ではない。失ったものはあまりにも大きすぎた。好きなときに家に帰れないし、帰っても防護服を着て数時間しかいることができない。自分の家に帰るのに、よその県から来た警察に職質を受ける。空き巣に入られたり、銀行で被害にあったり、火事場泥棒に襲われた人もたくさんいるが、避難先ではどうすることもできない無力さがある。
人間の力ではどうにもならないのが原発事故だ。それまで先祖代代守ってきた土地が、汚染されてなんの価値もなくなって二度と元通りにはならない。そして、帰れるようになった時期に、自分が生きているのかさえわからない。
経済の発展だけを目指すべきではない。自然を守ることがいかに大事であるかを上関の美しい海を見てより強く感じている。福島ではとれた魚はいまだに出荷停止だ。放射能は環境のみならず、人間関係もぶちこわす。好きでこうなったわけではないのに、避難先の小学校で子どもがいじめられたり、「双葉郡の被災者は帰れ」という嫌がらせの手紙が届けられた話も聞いた。そういうものを見ると心が痛む。上関や祝島と同じように推進・反対でみんなが分断され、親戚や友だちも失ってしまう。
脱原発は今やらなくていつやるのか。いまだに政府は経済発展のためだけに盲目的に原発推進をやっている。お金をばらまいてアメとムチで納得させ、弱みにつけ込むのが原発だ。そこに頼らないで、地元の人が頑張らないといけないと思う。