日本は終わってます
原子力規制委が核廃棄物を電力会社が400年、国が10万年管理すると決定したそうです。実にひどい話です。狂ってます。日本は終わってます。
2016年09月06日21:39
カテゴリvelvetmorning blog
アベマリオに12億円、F35が1機350億円、エジプトの博物館へ500億円、アフリカに3兆円、でも社会保障費が無いって。。
velvetmorning blogさんのサイトより
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/09/06/8172081
<転載開始>
クリントン夫妻が2001年2月から2015年5月までの間に利益団体から受け取った講演料の総額は153億円と法外。時給にして2000万円。
だそうです。
スゴイね。
で、日本といえば。。
不正選挙偽政府は、エジプトの博物館へ500億円。2018年までにアフリカに300億ドル(約3兆円)規模の投資を行う意向を表明
アベマリオに12億円
新型戦闘機F35が1機350億円だそうですが
安倍晋三首相は4日、訪問先の中国・杭州でエジプトのシシ大統領と会談した。両首脳は中東和平問題などについて意見を交わし、中東の安定化に向け互いに努力していくことで一致した。また、首相はカイロでの考古学博物館建設を支援するため、約500億円の円借款を追加実施する方針を伝えた。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090400107&g=pol
エジプトへ約500億円。ケニアには約3兆円。2018年までにアフリカに約300億ドル(約3兆円)規模の投資を行う意向を安倍晋三は表明しました。ケニアに関しては、「573.世論調査でドナルド・トランプの支持率がヒラリー・クリントンの支持率を抜いたのはなぜか?」の「(5)約3兆円 日本→ケニア 無駄金!」で綴りました。573はこちら。
http://www.afpbb.com/articles/-/3098906
その一方で、日本の福祉予算は大幅CUT! 安倍晋三を首相の座から引きずりおろさない限り、日本の貧困問題は更に悪化する! 更に書けば、安倍晋三は政治資金で豪遊しまくりである! このような屑を支持する奴らの気が知れない!
こんなニュースが
以下引用
<厚労省概算要求>社会保障上限超す 1400億円削減必要
毎日新聞 9月4日(日)14時32分配信
厚生労働省の2017年度予算の概算要求は、過去最大規模の31兆1217億円と、30兆円台の要求は5年連続となった。高齢化が進むことによる社会保障費の自然増は6400億円と見込むが、財務省からは最終的な増加額を5000億円程度に抑えることが求められている。今後の予算編成での調整に注目が集まる。
主要分野別にみると、待機児童の解消に向けた取り組みに1169億円、介護サービスの確保に2兆9907億円、年金制度の運営に11兆4067億円、医療・介護連携の推進に3兆482億円、医療保険制度の運営に11兆5795億円などを要求した。
年末の予算編成に向けて焦点となるのが、少子高齢化の進展に伴って増加を続ける社会保障費の抑制だ。昨年6月に閣議決定した「骨太の方針」は、社会保障費の伸びを16~18年度で計1・5兆円に抑える「目安」が盛り込まれた。
以上引用 以下全文は
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160904-00000027-mai-pol
エジプトの博物館に500億円使えるのに、社会保障費は使えないって、どういう事??
まあ、厚生労働省の予算は、削減出来るところは沢山あるのは確かだが(必要無い薬出し過ぎとか、いろいろ)社会保障費は、必要です。
これが本当の防衛費だからです。
国民の生活や命を防衛しないで、何を防衛するのだ。
<転載終了>
●戦中・戦後、日本のエリート達の闇 21世紀安倍のふところ?
今夜は、例によって時間が限られている。“杭州G20”も終わった。オバマのタラップ騒動や、閉幕後の安倍・習会談など、細々とした話題はあるが、一番目立った事件は、北朝鮮が“杭州G20”を意識してかどうか別にして、日本の排他的経済水域着弾のミサイルをぶっ放したようだ。日本に向かって撃たれたのだから、日本を挑発していると受けとめても良いものだが、“杭州G20”開催を狙って撃った等との論評が多い。
ところで、日本政府及び稲田防衛大臣は、ネトウヨが糠喜びするように、「北朝鮮ミサイル、自衛隊が常時迎撃態勢」と華々しく宣言したはずだが、あの宣言は、ただのアドバルーンだったと云うことなのかな?まあ、軍事的詳細は判らないのだが、新聞の情報を読む限り、日本の排他的経済水域(領土とも言える)にミサイルを撃ち込まれても、「着弾した模様」?こんなレベルで、常時迎撃態勢?こりゃあ、だいぶ印象が違う。この辺に言及している日本のメディアは、筆者の知る限り、現時点で存在しない。以下は、その稲田大臣が勇ましく宣言した時の記事だ。
『事前にミサイル発射の情報が 得られなくても即応できるように常時、迎撃態勢をとる』けれど、今回はイージス艦がお休みで日本海上にいなかった?秋田沖に落ちるのは想定内なのだから、秋田にパトリオットを配備しなければ、その気はないという事なのだろう。軍国国民を歓ばせるだけの、リップサービスは自粛した方が良いのではないかな、稲田大臣?
≪ 北朝鮮ミサイル、自衛隊が常時迎撃態勢
稲田朋美防衛相は8日、北朝鮮の弾道ミサイル発射に備え、自衛隊にミサイル破壊措置命令を出した。北朝鮮が3日に事前通告なく撃った弾道ミサイルが日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下したのを受け、発射の兆候がなくても常にミサイルを迎撃できる態勢をつくる。
自衛隊は8日夜、都内の防衛省で、地上から迎え撃てる地対空誘導弾パトリオットミサイル(PAC3)の配備を始めた。海上配備型迎撃ミサイル(SM3)を 搭載したイージス艦も日本周辺の海域で展開する。自衛隊法ではミサイル破壊措置命令を期間を定めて発令すると規定している。当面3カ月間に区切って命令を出し、今後更新していく。
北朝鮮は3日に中距離弾道ミサイル「ノドン」とみられるミサイルを発射し、秋田県沖のEEZ内に初めて弾頭部分を落とした。移動できる発射台付きの車両から撃っており、日本政府は事前に兆候をつかめず、破壊措置命令を出していなかった。事前にミサイル発射の情報が 得られなくても即応できるように常時、迎撃態勢をとる。
ただ、弾道ミサイルに対処できるイージス艦は現在4隻だけ。日本全域をカバーするには3隻は必要になる。防衛省幹部は「整備や訓練を考えると、常に日本全体で迎撃態勢をとるのは難しい」と語る。 ≫(日経新聞)
まあ、この話を長々しても始まらないが、迎撃する気はさらさらないと云うのが、現在の日本政府の立場なのだろう。米軍が協力しなければ、正直、出来ないようにシステム化されているようなので、風呂敷を広げておいた稲田さんと云うことでケリがつきそうだ(笑)。それよりも、今夜は久しぶりで、魚住昭氏の、岸信介氏に纏わる莫大な「麻薬資金の行方」のコラムを、3本、立て続けに参考引用しておく。“昭和の妖怪”と言えば聞こえが良いのだが、“昭和の怪盗”と云う称号も通用しそうな按配なのが面白い。日本と云う国は、戦前戦中戦後と、現在の21世紀においても、市民の知らないところで、此処まで酷くはないにしても、支配層において、アングラマネーが蠢いているのだろう。岸の孫に当たる安倍首相にも、幾ばくか残されたと、ゲスの勘繰りも頭に浮かぶが?(笑)。
≪ 闇に埋もれた戦前日本の対中「アヘン政策」~岸信介の金脈を暴く
それは公然の秘密であった
■最大のタブー
・前回(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49375)の最後にほんの少しだけご披露した文書について、もう少し詳しくお話ししたい。
・この文書は、終戦翌年の1946年5月、中国の南京高等法院からGHQ(連合国軍総司令部)に送られ、東京裁判の検察側証拠の一つになったものだ。
・日中戦争の開始以来、日本が中国を占領支配するのにアヘンをどう利用したか。その実態を南京政府(汪兆銘政権。日本の傀儡だった)の元幹部である梅思平(同年9月、死刑)らの供述などに基づいて告発している。
・その核心部をこれからご紹介しよう。なお、原文の片仮名表記は、読みやすくするために平仮名に変えてあることをあらかじめお断りしておく。
・〈中国に於ける阿片取引は二つの理由によつて、日本政府の系統的政策であつた。第一に、内蒙古占領に続いて日本人により立てられたる傀儡組織であつたところの蒙疆自治政府は、罌粟の栽培を習慣としてゐる内蒙古で阿片を購ふ事に依つて財政的不足を解決せんと努力した〉
・要するに、満州につづいて日本軍が占領支配した蒙疆(現在の内モンゴル自治区)政府の財政は、アヘンの売り上げで賄われていたということだ。
・これは1980年代、江口圭一・愛知大名誉教授(故人)が発見した日本側資料によって裏付けられた客観的な事実である。
・文書は、第二に日本政府自身も〈戦争に依る経済的困難〉を切り抜ける道としてアヘンに頼ったと指摘している。
・そのうえで〈阿片購入用として指定せられたる蒙疆傀儡政府の貸附金〉はまず東京の大蔵省に送られねばならず〈そこで全額の幾分かは保留された〉と記している
・正直言って、私にはこの「貸附金」が具体的に何を指すのかわからない。
・可能性として(1)蒙疆政府→農民がケシから採取したアヘンを集める業者団体への貸付(2)蒙疆政府→南京政府への貸付(3)南京政府→蒙疆政府への貸付などが考えられるが、いずれとも判断がつかない。
・しかし〈全額の幾分かは保留された〉というくだりは、アヘン購入資金が融資される段階で東京の大蔵省に利益をピンはねされたという意味であることは想像できる。文書はつづく。
・〈他方では上海並びに中国の都市に於て売られた阿片の売上金の大部分は東条内閣の補助資金、及議員への補助金に割当てられる為東京に送られた。それは公然の秘密であり、そして幾らかの本国内の日本人も又この東条内閣の名うての政策に反対して居た事は周知の事であつた〉
・問題はこの〈東条内閣の補助資金〉や〈議員への補助金〉が何を指すかだが、簿外の内閣機密費や国会議員に配る裏金の類と考えるのが普通だろう。
・ただ、梅思平ら「傀儡南京政府」旧幹部も金の行く先を特定する資料は持っていないらしく〈(宏済善堂の会計簿を捜索すれば、略々其の痕跡を発見し得可し)〉と付け加えている。
■日本と中国との「密約」
・宏済善堂とは、上海の「阿片王」里見甫が運営していたアヘン取引のための会社である。次に登場する盛文頤は、その里見のアヘン取引の中国側パートナーだ。文書はさらに興味深い事実を明らかにしていく。
・〈盛文頤の言に依れば、利益支配の状況は極秘にして、東京と直接の来往に依つたのであると。即ち在華日本側機関も又、其の詳細を知る由が無かつた。維新政府(=汪兆銘政権ができる前の日本の傀儡政権)は税款(=税金)の極少を得るのみ〉
・つまり文書が言わんとするのは、金の行く先はすべて東京で決められ、旧南京政府がアヘンで受けた利益は〈極少〉に過ぎなかったということだ。
・こうして中国のアヘン問題は1943年冬にいたるまでまったく改善されなかった。が、同年12月、南京、上海、杭州そのほかの都市で学生たちがアヘンを売る店やアヘン窟を打ち壊す示威運動を起こした。それを契機に中国国民の日本のアヘン政策に対する反発も強まった。
・文書は、このときの日本軍の対応をこう述べている。
・〈しかし日本の軍隊は敢へて之に干渉しなかつた。結果として、日本政府は、南京政府が、“阿片の利益は蒙疆自治政府の主なる財源である”といふ事実を考慮する条件の下に於ては、もし中国が戦前の阿片禁止法案を回復する事を望むならば、中国を助けるといふ意思を表示して経済顧問を南京政府へ派した〉
・要約すると、アヘンの利益で蒙疆政府の財源分だけ確保できるなら、中国側がアヘンの取り締まりを厳しくするのをサポートするというふうに日本側の態度が変わったということだ。
・文書はこの〈急変〉について〈三つの事実らしき理由が発見された〉としてこう述べる。
・〈第一に、東条内閣は秘密の目的又は政治的目的に阿片の利益を使用した事について、日本国内外の国民に依つて攻撃された。第二に、日本政府は中国国民の嫌悪を減少せんとした。第三の最も重要なる事実は当時の日本は中国の物資統制によつて阿片取引の十倍の収入を得てゐた〉
・そのため政治的・軍事的支出の支払いのための基金に困ることはなかったというのである。
・以上のような経過をたどって上海や南京のアヘン禍は次第におさまっていくのだが、ここで留意しておかねばならないのは、主な陳述者である梅思平が置かれた立場だ。彼は当時、日本に中国を売り渡した漢奸として責任を追及されていた。
・アヘン問題で東条内閣が行った悪事を強調すればするほど彼の責任は軽くなる。そういう事情があるから、彼の陳述を何の裏づけもなく、すべて信用するわけにはいかない。
・そこで東条政権とアヘンの関係について日本側で言及した文献はないかと探してみたら、あった。近衛文麿元首相の女婿で、秘書官でもあった細川護貞(細川護煕元首相の父)の『細川日記』(中公文庫)である。
・細川は戦時中、陸海軍や政界の要人らから集めた情報をこの日記に綴っていた。その記述を追っていくと、東条はむろんのこと、彼の内閣の一員だった岸信介の金脈に関する極秘情報に遭遇することになる。 *参考:『資料 日中戦争期阿片政策』(江口圭一編著・岩波書店刊) ≫(文/魚住昭(ジャーナリスト)週刊現代掲載)
≪ 数百億のアヘンマネーが岸信介の懐に流れた!?〜戦前史「最大のタブー」その真相を辿る
鍵を握る二つの資料
■憂国からの極秘任務
・71年前まで公爵・近衛文麿の別邸だった荻外荘は、JR荻窪駅の南を流れる善福寺川のほとりにいまも残っている。
・古びた門ごしに中をのぞいてみると、砂利敷きのアプローチが30mほど先で右に折れ、奥の玄関へとつづいている。周りは鬱蒼とした林である。
・前回(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49404)ふれた細川護貞(細川護熙元首相の父)の『細川日記』(中公文庫)には、荻外荘の一室で護貞と近衛が密談する場面が何度も出てくる。護貞は近衛がかつて首相だったときの秘書官で、しかも女婿である。
・太平洋の戦局が悪化の一途をたどる1943(昭和18)年10月、護貞は近衛に秘密の任務を与えられた。その任務とは、政財界や軍の動向などについてのディープな情報を集め、高松宮(昭和天皇の弟)に報告することだ。
・近衛によれば、当時、戦争の見通しに関する正確な情報が昭和天皇にまったく届いていなかった。東条英機首相らが都合のいいことばかり上奏し、マイナスの情報を天皇の周囲からシャットアウトしていたからだ。
・このままでは国が滅びかねない。それを防ぐには高松宮の耳に誰かが正確な情報を入れ、宮の口から天皇に伝えてもらうしかない。宮も「方々駆け巡って 各方面の意見を聞いて来る者がいるといい」と希望したので、近衛は「年は若いが細川はいかがでしょう」と、当時31歳の護貞を推薦したという。
・こうして始まった護貞の情報収集活動の一部始終を記録したのが『細川日記』である。
・結局、東条内閣は翌'44(昭和19)年7月、内閣の一員だった岸信介の”叛乱”が決定打になって瓦解する。それから約2ヵ月後の9月4日の『細川日記』にこんな記述がある。
・〈伊沢多喜男(元警視総監)氏、父(細川護立)を訪問され、「岸は在任中、数千万円少し誇大に云へば億を以て数へる金を受けとりたる由、然もその参謀は皆鮎川(義介。日産財閥の総帥)にて、星野(直樹。東条内閣書記官長)も是に参画しあり。結局此の二人の利益分配がうまく行かぬことが、内閣瓦解の一つの原因でもあつた。これについてはさすが山千の藤原(銀次郎。東条内閣国務大臣)が自分の処で驚いて話した」と〉
・文中の〈此の二人〉が鮎川・星野を指すのか、岸・星野、あるいは岸・東条を指すのか、今一つ判然としない。が、いずれにせよ、岸が今の貨幣価値で数百億円相当の裏金を受け取ったという途方もない話である。
・戦後の1959(昭和34)年、衆院予算委で野党議員からこの話について追及された岸は憤然として反論している。
・「事実は全然そんなことありません。/私はいかにもそれが事実のごとく書かれておるということの良心を疑いたいと思う」
・私は岸の言を信じたい。国の存亡がかかった戦争の最中に巨額の裏金を懐にするような政治家がいるはずがない。が、『細川日記』をさらに読み進んでいくと、私の確信は揺らぎだす。護貞は、東条退陣から約3ヵ月後の10月14日の出来事を克明に記している。
■謎の多い裏金ルート
・この日、護貞は近衛、鳩山一郎(後の首相)、吉田茂(同)らとともに深川に〈海の猟〉に出かけた。風が強かったため猟はできず、地元の海産組合長の家で雑談して時を過ごし、その帰途、永田町の吉田茂邸に近衛、鳩山と3人で立ち寄った。
・そこでの雑談で鳩山が「白根宮内次官が東条を礼讃している」と言い出し、〈一体に宮内省奥向に東条礼讃者あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なり〉として具体例を挙げた。
・〈例へば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官夫々のイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈り物ある由〉
・そのうえで鳩山が〈東条の持てる金は十六億円なり〉と述べると、近衛は〈夫れは支那に於てさう云ひ居れり、主として阿片の密売による利益なり〉と言って共謀者の名まで挙げた。
・護貞は「自分も何かの会合で、東条は10億の政治資金を持つと聞いた。先日の海軍懇談会でも、ある大佐が昨今の東条の金遣いの荒さを語っていた。あるいは多少の誇張もあろうが、東条は多額の金をもっているようだ」という趣旨の感想を述べ、最後に鳩山の〈斯の如き有様なれば東条復活の危険多し〉という言葉を日記に書き留めている。
・この10月14日の記述は、かつての独裁者・東条がその権力の座を維持するために意外なほど濃やかな気配りをしていたことと、そのために湯水のように金を使ったことを物語っていると考えて差支えないだろう。
・では、その資金は、彼が自由に使えた内閣機密費ですべて賄われたのか。それとも別ルートからも調達されたのか。護貞は2日後の10月16日、さらに驚くべき情報を記す。
・〈朝、川崎豊君(帝国火災保険支配人)を訪問、談たまたま東条に及びたるに、彼は昨年中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重 役以下釈放となりたることあり、是はその金が東条のものなりしを以てなりとのことにて、以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと〉
・つまり上海の「阿片王」里見甫から東条への秘密資金輸送が中華航空により行われていたというのである。事実とすれば禍々しき事態である。
・しかし、読者に留意していただきたいのは、『細川日記』の記載の大半は、情報源が政界や財界の要路にある者とはいえ、また聞きだということだ。もしかしたら間違いや誇張がたくさんあるかもしれない。
・そこで私は例によって『細川日記』の信憑性を判断する資料を探しに出かけた。それらしきものはすぐ見つかった。歴史学者の粟屋憲太郎さんらがまとめた『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』(大月書店)だ。
・田中は元陸軍省兵務局長。戦後、多くの旧軍人たちから「裏切り者」「日本のユダ」と罵られた男である。 ≫(文/魚住昭(ジャーナリスト)週刊現代掲載)
≪ 東条英機のアヘン資金疑惑 〜GHQに「日本のユダ」が語ったこと
陸軍の巨額の機密費はどこから?
■軍の病理を突いた「日本のユダ」
・おさらいをさせてもらいたい。前回、細川護貞(もりさだ)の『細川日記』(中公文庫)をとりあげたのを覚えておいでだろうか。
・戦時中、高松宮の情報収集係をつとめた細川は、この日記に東条英機のアヘン資金疑惑を書き留めている。それを細川に伝えたのは、帝国火災保険の支配人・川崎豊である。
・川崎曰く。中華航空で〈現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放〉された。これはその金が〈東条のもの〉だったからで〈以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々(しばしば)金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと〉。
・この情報はホントだろうか。 ・信憑性を判断する材料を探すうちに田中隆吉に突き当たった。田中は日米開戦翌年まで陸軍省の兵務局長、つまり憲兵隊の総元締めだった男である。
・陸軍の謀略活動にも深くかかわり、「東洋のマタ・ハリ」といわれた川島芳子の情夫だったこともあるらしい。敗戦後は一転して陸軍の悪行を告発し、旧軍関係者らから「裏切り者」「日本のユダ」と罵られた。
・が、軍の病理に関する彼の指摘は鋭い。たとえば、こんなくだりが彼の著作『日本軍閥暗闘史』(長崎出版刊)にある。
・〈満洲事変の勃発とともに、それまで僅かに二百余万円に過ぎなかった陸軍の機密費は、 一躍一千万円に増加した。支那事変の勃発は更にこれを数倍にした。太平洋戦争への突入の前後に(略)正確な金額は全く表へ現れぬようになった。しかし当時 の陸軍の機密費が年額二億を超えていたことは確実であった〉
・2億円は今の1000億~2000億円に相当する。田中はさらに〈政治家、思想団体などにバラ撒かれた〉機密費は、彼の知る範囲だけでも相当額に上り、近衛文麿や平沼騏一郎など歴代内閣の機密費の相当額を陸軍が負担していたとしてこう綴っている。
・〈これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。それらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。(略)軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを否み得ない。東条内閣に到っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた〉
・田中は敗戦翌年から三十余回にわたってGHQ国際検察局の尋問を受けている。その時、作られた膨大な調書を日本文に訳したのが『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』(粟屋憲太郎ほか編・大月書店刊)である。
・それによると、宮中で天皇を補佐する内大臣の木戸幸一は政治活動に多額の金を使った。金の出所は日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(木戸や岸と同じ長州出身)だった。
・そして鮎川の〈事業提携者〉の岸は東条内閣の商工〈大臣在任中に、財閥との有効な取り決めによってかなりの額の金を儲けた〉。
・田中によれば、木戸は内大臣の地位にあったため、1941~'45年の間、日本の政治を支配した。木戸は東条内閣の成立に直接に力を貸したが、'44年4月、木戸と東条の関係は悪化した。木戸が、東条首相では戦争に勝てないと思い、倒閣を策謀し始めたからである。
・東条はそれを知ると、元首相ら有力者を入れて内閣を改造しようとしたが〈岸は、それらのいずれが彼の後任者となることも頑として承知しなかった〉ので、これが東条内閣倒壊の直接的原因になったという。
■沈黙する「阿片王」
・田中の見解は、木戸・岸・鮎川の長州連合の寝返りが東条内閣の致命傷になったことを示唆していて、とても興味深い。
・田中の第3回尋問のメインテーマはアヘンである。彼は華北のアヘン売買を統括していた北京の興亜院華北連絡部(=占領地の行政機関)の長官心得・塩沢清宣中将についてこう語る。
・〈彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は、里見の大の親友でもありまし た。塩沢は、北京から東条へしばしば資金を送っていました。戦争中であったため、上海地域で使用された阿片は、その量のすべてが北支から供給され、そのようにして、当然、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました〉
・田中の言う北支に、アヘンの主産地である蒙疆地区(今の内モンゴル自治区)綏遠省が含まれると解すれば、彼の言に概ね間違いはない。興亜院華北連絡部がアヘンで巨利を得たことも事実と考えていいだろう。
・田中がつづける。
・〈塩沢のもとで、専田盛寿少将という私の友人が働いていました。彼は私に、塩沢は、しばしば飛行機を使って東条のもとに金を送った、と語り、そのことでひどく腹を立てていました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞することを余儀なくされ ました。昨年九月に大阪で私が専田に会ったとき、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました〉
・GHQ国際検察局は東条のアヘン資金疑惑に強い関心を持ったらしい。それから約1年後の'47年3月21日、里見を召喚して1時間余にわたって事実関係を問いただしている。
・取調官は事前に里見が中華航空の顧問だったことや、東条の私設秘書と親密な関係にあったことを確認し、いわば外堀を埋めたうえでこう切り出した。
・「さて、ズバッと行こう。私は何らかの情報をあなたがくれるものと期待しているのだが、上海発東京行きの中華航空機で多額の金が東条に送られたことを知っているだろう?」
・里見の答えはそっけなかった。
・「知りません」
・「じゃ、中華航空による現金輸送が憲兵に摘発された件は?」
・「まったく何も知りません」
・国際検察局による東条のアヘン資金疑惑の捜査は、里見の沈黙の壁に突き当たり、思うように捗らなかった。
・私もここらで方向転換して岸と東条の不可解な関係を探ることにした。満州国首脳だった岸を日本に呼び戻して商工次官にし、その後、商工相に据えたのは東条だった。
・東条人脈の中心にいたはずの岸が、敗戦約1年前、突如東条に反旗を翻した真の理由は何だったのだろうか。 (つづく) ≫(以上3本のコラム:現代ビジネス>社会>文/魚住昭(ジャーナリスト)週刊現代掲載中)
<転載終了>
東京電力福島第1原発の事故から5年半が経過したが、いまだに10万人をこえる人人が故郷を追われたまま避難生活を強いられ、とくに原発立地町である双葉町・大熊町は町の大半が帰還困難区域に指定され、帰ることもできない状況に置かれている。この双葉町に住んでいた大沼勇治氏(40歳)が先日、山口県上関町の祝島を訪問し、その際に本紙は福島事故から現在に至る双葉町の様子や住民が置かれている状況、何を体験し、どのような思いを抱いているのか取材した。大沼氏は双葉町の入口に掲げられた原発PR看板「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を子どもの頃に考案して表彰された過去を明かし、震災後は「明るい未来」どころではなくなってしまった双葉町や福島の実情を伝えるために、全国各地を訪れて講演などで思いをのべている。近年は福島がどうなっているのか、とりわけ双葉町や大熊町がどうなっているのかは、まるで報道管制でも敷かれたように表に出てこない。そして原発に翻弄された一般住民を東電と同列の「加害者」のように叩く構造もあるなかで、いいたいことをあからさまにいえない力も加わっている。その声なき声を伝えることを重視し、以下、大沼氏が撮影した写真とともにインタビュー形式で紹介する。
Q まず、福島原発の事故が起きてから現在まで、どのような生活を送ってきたのか。
A 福島第1原発から4㌔の場所に住んでいた。2011年3月11日、ものすごい揺れが10分程度続いた後に津波に襲われた。家の中は地震でぐちゃぐちゃになり電気もつかないので、妻と南相馬市の道の駅まで避難して当日は車中泊をした。そのとき妻は妊娠7カ月だった。
翌日の午前中に双葉町の自宅が気になって戻ったときに、駅にいた警察官に「すぐに川俣の方に向かって逃げなさい」「早く遠くへ」といわれたので、福島原発で大変なことが起きているのかな…と直感的に思った。そしてその日の昼に当時の菅直人首相がヘリで東電に来たと聞き、やはりこれは大変なことが起きているのではないかと思っていたら、午後に水素爆発した。
その日の夜は相馬の道の駅で野宿をしようとしていたが、妻のお腹には子どももいたので13日の夜中に親戚を頼って会津若松に避難し、27日まで約2週間を過ごした。病院を探さなくてはいけないと思っていたが、福島県内の病院は避難者やけがをした人でいっぱいになっておりたらい回しにされる不安もあった。そうこうするうちにまた原発が爆発し、上空からヘリで水をかけている様子などを見て、これはもっと深刻な事態になると思った。
そこで親戚を頼って愛知に行き、借り上げ住宅を探してもらった。3月30日から平成23年の12月5日までそこで暮らしたが、子どもが生まれたので愛知県内のマンションに引っ越し、平成26年5月26日まで暮らした。それから茨城県古河市に引っ越して現在にいたっている。
Q 原発が爆発したときに住民にはどう知らされたか。安全対策はあったのか。
A 原発事故が起きたときの避難について、サイレンが鳴ったりなにかが放送されていたが、内容がわからなかった。あれほど強い揺れが続き、イオンのガラスが崩れ落ちたり、街中で火事が起きたりしたので、ただごとではないというのは感じた。11日は自分の判断で南相馬に逃げたが、「逃げなくてはならない」というのを聞いたのは先ほどのべたように、翌日に一端自宅に戻ったときに警察にいわれたのが初めてだった。しかし、なぜ避難しなければならないのかはいわれなかった。町として避難指示は出したのかもしれない。しかし少なくとも私は聞きとれなかった。
すでに原発が危なくなっていたはずの11日の夜、私たちは南相馬にいたが、みんなは高台にある小学校の体育館などに避難していた。原発からは4㌔しか離れていない場所だ。“原発事故が起きれば東京まで住めない”ということがいわれてはいたが、まさかのときの避難訓練もなく、心構えもしていなかった。たまたま私は渋滞を避けたので通らなかったが、「川俣方面に避難しなさい」といわれて逃げる人人の車が連なり、渋滞になったところが風の影響でホットスポットになって放射性物質を浴びている。
東電は住民の安全対策をやっていると資料などに書いてはいたが、そもそも福島第一原発自体が津波を想定したつくりではなかった。電源も地下にあって、津波に襲われて冷やせなくなっている。津波対策を怠っていたうえに、あえて岩盤を削って低いところに原発を建てていた。これは、船を接岸したところから部品を運びやすくするためだ。明らかな人災であるし、これは謝って済む問題ではない。住民の安全対策などやっていなかったのが現実だが、私たちは東電に勤めているわけでもなく「安全だ」といわれればそれを信じるしかなかった。しかし頻繁にトラブルも起きていたし、それを隠蔽していたので信用はなかった。
Q 原発立地町である双葉町の人人の生活や意識はどんなものだったのか。
A 「原子力明るい未来のエネルギー」。この標語を考えて私が表彰されたのは小学6年生のときだった。当時、双葉町は7・8号機の増設に向けて動いており、そのために原発推進の標語を町民に公募した。私たちはそれが学校の宿題となり、「“原子力”という言葉を入れた標語を1人3つずつ考えてきなさい」といわれ、やらなければ怒られるので考えた。大人から子どもまで178人が応募し、281点の応募点数のなかから私の作品が選ばれたのだった。
学校から配られる鉛筆や下敷きには東京電力の名前が刻まれ、なにかの参加賞なども東京電力からで名前や写真が入ったものが配られ、それを使っていた。町は電源立地交付金で役場、駅、図書館、マリンハウス(海の家)などのハコモノを建てた。また双葉町には「原子力運送」、双葉郡の冨岡町には「寿司屋・アトム」「パチンコ・アトム」など、原発関連の名の企業や店も多く、まさに原子力に依存した町だったと思う。
学校には東電社員の転勤の関係で転校生の出入りもあったが、来て2、3年もすれば双葉町内に2階建ての立派な家を建てていた。所得があるので銀行からお金を借りやすいのだろう。人口もどんどん増え、商店街も潤った。私は電力会社の人にファミリー向けのアパートを貸していた。サラリーマンとして働いていたうえに家賃収入もあったので生活は安定していた。
原発についてはいろんな考え方をみな持っていたが、原発に反するようなことをいってはいけない空気が覆っていた。個人的には『はだしのゲン』を読んだこともあって原発=放射能=原爆というイメージも持っていたので、原発がいいものだとは思っていなかった。ただ、隣の家や同級生の親が原発に勤めているなかで、否定的なことをいうと怒られた。子どものときに釣り大会があったが、そのとき釣具屋さんに「原発近くに面した海でとれた魚は食べられないのか」と尋ねると「そんなことをいってはいけない」といわれたこともあった。
原発で働く人たちがいて町は成り立っているし、否定的なことをいえば近所の仲が悪くなる原因にもなる。双葉町自体が増設に向けて舵を切ろうとしていた時期でもあり、反対のことをいうと町に居づらくなるという空気があり、思っていても声に出していえるものではなかった。
ただ、親戚のなかにも原発に推進の立場と反対の立場の人がいて、酒を飲むと喧嘩になっていた。少数だが原発反対の看板を敷地に建てている人もいた。しかしそういう人も家賃収入を得たりしていたので「おかしい」「矛盾している」といわれていた。
原発が来る前の双葉町には雇用がなかった。出稼ぎで出ていく人も多く、新婚夫婦でも旦那が東京に単身赴任で働きに出たりしていた。しかし原発ができたことで雇用は増え、4、5人に1人は原発関連の会社に入っていた。給料も良く、「結婚するなら電力関係の人か公務員」といわれるほどだった。
原発事故起きての変化
Q 福島第1原発事故が起きてからの変化はどうだったか。
A 原発で成り立ってきた町は、事故が起きてから一変した。私も家とアパートのローンが残ったまま出ていかなければならず、その後もローンは払い続けて補償金で完済したが、無人のアパートは汚染されているので、もう貸すこともできない。自宅もおそらく解体するしかない。人口に見合わないのに電源立地交付金で建てた立派な駅や役場なども何の意味もないものになってしまった。それらのハコモノができたからといって、潤ったのは工事に携わった人ぐらいで私たち住民の生活がよくなるわけでもなかったのだが…。東電の補償金でローンは終わり、残った補償金で土地を探した。土地と建物を探すときも、福島では避難者がいっぱいで地価も上がっていたので、茨城に土地を買った。震災の年とその2年後に子どもが生まれ、幼稚園にも通わせなければならない。茨城だったら東京からも1時間半、福島には4時間ぐらいで行くことができるのでそうした。
原発事故に直面している者として、30年以上にわたって反対している人たちと交流することは大切だし、家族でデモに参加することで祝島の人たちと共感しあえたらいいと思って上関に来た。
五年半が経過した現在
Q 原発事故から五年半が経過した双葉町や町民はどんな状態に置かれているか。
A 5年半が経過した双葉町は、復興しているかのようにいわれているが、住民が逃げ散ったまま、時間が止まったようになってなにも復興していない。私はこれまで73回一時帰宅したが、そのたびに町内を見廻りして状況を撮り続けてきた。一時帰宅のさいには許可証が必要で、防護服を着て五時間の滞在しか許されない。出入りにはバーコードチェックもある。
5年が経過した町内は、今でも原発事故でみなが着の身着のまま逃げたままになっている。食べかけの寿司や湯飲み、子どもたちのカバンが転がっている保育園、乗り捨てられた車、自転車の転がった中学校、3月11日で止まった時計やカレンダー…。すべてそのままになっているが、人の姿だけが消えて草が生い茂っている。まだ線量が高く、今年の3月に自宅の庭で測ったら25マイクロシーベルトあった。線量の高低を示すのに赤、黄、緑、青と色分けがされているが、ホットスポットで線量の高いところは赤い印がずらっと並んでいる。最初のころは牛などが街中を闊歩していたが、今は駆除されて「牛に注意」の看板は「猪に注意」に変わった。またブタとイノシシが交配して「イノブタ」になり、イノブタ同士が交配して「イノイノブタ」になり、今は「イノイノイノブタ」ぐらいになって生態系も変わってきていると取材関係の人がいっていた。ネコやイヌは骨になって死んでいる。養鶏場のニワトリもそのまま死んで、鶏舎には羽と骨が残っている。人が戻らず荒廃した町内には、夜行性のはずのタヌキが真っ昼間から出てくるようになった。
双葉町民は全員が避難生活を送っている。最初は埼玉に拠点があったが、いわき市に役場機能を移転し、郡山や福島をはじめ県内外に散らばっている。避難先から自宅に帰るのは年間30回まで。双葉町は中間貯蔵施設の候補地でもあるので、除染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグがどんどん運び込まれている。30年後には更地にして返すといっているが、30年後といえば40歳の私は70歳になる。「帰れない」といっているようなものだ。
国は帰還困難区域を「五年以内を目途に解除する」といっているが、解除しても帰らないとほとんどの人はいっている。私たちのように子どもを育てている住民がそうだが、お年寄りも「あと何年かしか生きられないから双葉で死にたい」といっても病院もない。一時帰宅するときには南相馬やいわきに泊まるが、そこでも病院が十分ではなく、私がおたふく風邪になったときには数十㌔離れた病院を紹介された。病院があっても医師がいないから不便な状況だ。過疎地の双葉より避難先の方が暮らしは便利なので、よほど帰ることに価値がなければ帰らないだろうと思う。土地は汚染され、原発では燃料デブリがどこにあるかわからない。そのようなところにわざわざ被曝しに帰るだろうか。もう家を建てていれば「帰る」とはならない。お墓参りに行ったり、限られた時間のなかで状況を見ていくしかないと思っている。
今、福島原発の復旧作業のための作業員でいわきなどの宿舎やホテルもいっぱいになっている。そういう人のための宿舎をやれば2150万円くらいの補助金が下りる。コンビニなどを開いた人にも国が補助金を出して住民の帰還を促している。住民票を移して自分もいなければならないのが条件だが、そこまでして戻りたいという人はあまりいない。メディアがコンビニなどを映して復興しているかのように伝えているが、現実には人などほとんどいない。
私は福島の現状を講演しながら回っているが、私がこの地域のことを知らないように、遠くなればなるほど、五年半前のことはもう話さなくてもいいという空気も感じる。また、福井など原発を推進しているようなところへ講演に行くのは、やはりおっかないなという思いもある。ネットなどでも「原発を推進していたくせになんだ」「虫が良すぎる」という書き込みを見かけたりする。しかし逆に、このような境遇になったからこそ思いを伝えられる。福島第一原発があのような状況になって、原発を推進する人はいないと思う。双葉町民の心情もそうだと思う。ただいいづらくていえない。双葉町民で脱原発を訴えている人に出会わないのは、家族や親戚、周囲に勤めている人がいるとかが大半だからだと思う。
双葉町は、「原子力明るい未来のエネルギー」の標語とまったく反対の運命をたどってしまった。この看板は今年3月4日に「老朽化して危険だ」という理由で撤去されてしまった。双葉町の負の遺産である看板を残してほしいという署名は6500筆にのぼったが叶わなかった。看板よりも撤去されるべき倒壊家屋は無数にあり、なにより撤去してほしいのは原発だ。そして町長が「看板の老朽化」よりも心配しないといけないのは、5年半も避難生活を送っている双葉町民のことではないだろうか。そのような心配よりも真っ先に看板を撤去するのはなぜなのか。「大事に保管する」といっていた看板は今シートに包まれ、草に覆われている。双葉町が行き着いた先は「明るい未来」ではなく、人がいなくなり赤信号だけが点滅する暗い町だ。いくら看板を撤去しても過去は永遠に残る。
原発事故では2000人をこえる人が関連死と認定されている。その多くの人の無念、町が積極的に誘致した歴史を後世に伝えるためにも看板は残すべきだと思う。「復元して保存する」という町長の言葉が嘘にならないようにいい続けていく。
Q 原発事故を経験した双葉町民として、上関や全国の人人に伝えたいことは何か。
A 上関町の景色を見て、原発に30年反対してきた気持ちに共感できる。たった1回の事故で、これから先もいつ帰れるかわからないが、そのようななかで解除しようとしている。国は補償金を払いたくないので、被災者の立場ではなく「復興」を無理矢理させようとしているのを感じる。原発ができれば町が発展するという“嘘”というか、“魔法”で信じ込ませるやり方は上関も双葉も同じだ。建てれば最初の何年かは町財政も右肩上がりだが、それが次第に下がってくるとまた増設、増設になり、麻薬のように依存していく。1回建ててしまうと必ずそうなってしまう。交付金がおり続けるわけでもなく、その交付金もハコモノに化けてしまう。
仮に事故が起きれば、できるだけ遠くに逃げるしかない。風向きなどわからず発表されるのを待っていたら被曝してしまう。避難するといってもいざそうなれば大混乱で、地割れしたところを無理矢理通ろうとしてパンクしたり、その車が道をふさいで通れなくなったり、橋の上で止まって津波が来たり、電柱が倒れたりーー 。とにかく混乱しているなかを逃げなければならない。原発などわずか50年ほどの歴史だが、人類があたりまえに住んでいたところに、人類がまったくいなくなるようなことがたった1日で起きる。お金ではない。失ったものはあまりにも大きすぎた。好きなときに家に帰れないし、帰っても防護服を着て数時間しかいることができない。自分の家に帰るのに、よその県から来た警察に職質を受ける。空き巣に入られたり、銀行で被害にあったり、火事場泥棒に襲われた人もたくさんいるが、避難先ではどうすることもできない無力さがある。
人間の力ではどうにもならないのが原発事故だ。それまで先祖代代守ってきた土地が、汚染されてなんの価値もなくなって二度と元通りにはならない。そして、帰れるようになった時期に、自分が生きているのかさえわからない。
経済の発展だけを目指すべきではない。自然を守ることがいかに大事であるかを上関の美しい海を見てより強く感じている。福島ではとれた魚はいまだに出荷停止だ。放射能は環境のみならず、人間関係もぶちこわす。好きでこうなったわけではないのに、避難先の小学校で子どもがいじめられたり、「双葉郡の被災者は帰れ」という嫌がらせの手紙が届けられた話も聞いた。そういうものを見ると心が痛む。上関や祝島と同じように推進・反対でみんなが分断され、親戚や友だちも失ってしまう。
脱原発は今やらなくていつやるのか。いまだに政府は経済発展のためだけに盲目的に原発推進をやっている。お金をばらまいてアメとムチで納得させ、弱みにつけ込むのが原発だ。そこに頼らないで、地元の人が頑張らないといけないと思う。
<転載終了>
原子力規制委が核廃棄物を電力会社が400年、国が10万年管理すると決定したそうです。実にひどい話です。狂ってます。日本は終わってます。
2016年09月06日21:39
カテゴリvelvetmorning blog
アベマリオに12億円、F35が1機350億円、エジプトの博物館へ500億円、アフリカに3兆円、でも社会保障費が無いって。。
velvetmorning blogさんのサイトより
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/09/06/8172081
<転載開始>
クリントン夫妻が2001年2月から2015年5月までの間に利益団体から受け取った講演料の総額は153億円と法外。時給にして2000万円。
だそうです。
スゴイね。
で、日本といえば。。
不正選挙偽政府は、エジプトの博物館へ500億円。2018年までにアフリカに300億ドル(約3兆円)規模の投資を行う意向を表明
アベマリオに12億円
新型戦闘機F35が1機350億円だそうですが
安倍晋三首相は4日、訪問先の中国・杭州でエジプトのシシ大統領と会談した。両首脳は中東和平問題などについて意見を交わし、中東の安定化に向け互いに努力していくことで一致した。また、首相はカイロでの考古学博物館建設を支援するため、約500億円の円借款を追加実施する方針を伝えた。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090400107&g=pol
エジプトへ約500億円。ケニアには約3兆円。2018年までにアフリカに約300億ドル(約3兆円)規模の投資を行う意向を安倍晋三は表明しました。ケニアに関しては、「573.世論調査でドナルド・トランプの支持率がヒラリー・クリントンの支持率を抜いたのはなぜか?」の「(5)約3兆円 日本→ケニア 無駄金!」で綴りました。573はこちら。
http://www.afpbb.com/articles/-/3098906
その一方で、日本の福祉予算は大幅CUT! 安倍晋三を首相の座から引きずりおろさない限り、日本の貧困問題は更に悪化する! 更に書けば、安倍晋三は政治資金で豪遊しまくりである! このような屑を支持する奴らの気が知れない!
こんなニュースが
以下引用
<厚労省概算要求>社会保障上限超す 1400億円削減必要
毎日新聞 9月4日(日)14時32分配信
厚生労働省の2017年度予算の概算要求は、過去最大規模の31兆1217億円と、30兆円台の要求は5年連続となった。高齢化が進むことによる社会保障費の自然増は6400億円と見込むが、財務省からは最終的な増加額を5000億円程度に抑えることが求められている。今後の予算編成での調整に注目が集まる。
主要分野別にみると、待機児童の解消に向けた取り組みに1169億円、介護サービスの確保に2兆9907億円、年金制度の運営に11兆4067億円、医療・介護連携の推進に3兆482億円、医療保険制度の運営に11兆5795億円などを要求した。
年末の予算編成に向けて焦点となるのが、少子高齢化の進展に伴って増加を続ける社会保障費の抑制だ。昨年6月に閣議決定した「骨太の方針」は、社会保障費の伸びを16~18年度で計1・5兆円に抑える「目安」が盛り込まれた。
以上引用 以下全文は
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160904-00000027-mai-pol
エジプトの博物館に500億円使えるのに、社会保障費は使えないって、どういう事??
まあ、厚生労働省の予算は、削減出来るところは沢山あるのは確かだが(必要無い薬出し過ぎとか、いろいろ)社会保障費は、必要です。
これが本当の防衛費だからです。
国民の生活や命を防衛しないで、何を防衛するのだ。
<転載終了>
●戦中・戦後、日本のエリート達の闇 21世紀安倍のふところ?
今夜は、例によって時間が限られている。“杭州G20”も終わった。オバマのタラップ騒動や、閉幕後の安倍・習会談など、細々とした話題はあるが、一番目立った事件は、北朝鮮が“杭州G20”を意識してかどうか別にして、日本の排他的経済水域着弾のミサイルをぶっ放したようだ。日本に向かって撃たれたのだから、日本を挑発していると受けとめても良いものだが、“杭州G20”開催を狙って撃った等との論評が多い。
ところで、日本政府及び稲田防衛大臣は、ネトウヨが糠喜びするように、「北朝鮮ミサイル、自衛隊が常時迎撃態勢」と華々しく宣言したはずだが、あの宣言は、ただのアドバルーンだったと云うことなのかな?まあ、軍事的詳細は判らないのだが、新聞の情報を読む限り、日本の排他的経済水域(領土とも言える)にミサイルを撃ち込まれても、「着弾した模様」?こんなレベルで、常時迎撃態勢?こりゃあ、だいぶ印象が違う。この辺に言及している日本のメディアは、筆者の知る限り、現時点で存在しない。以下は、その稲田大臣が勇ましく宣言した時の記事だ。
『事前にミサイル発射の情報が 得られなくても即応できるように常時、迎撃態勢をとる』けれど、今回はイージス艦がお休みで日本海上にいなかった?秋田沖に落ちるのは想定内なのだから、秋田にパトリオットを配備しなければ、その気はないという事なのだろう。軍国国民を歓ばせるだけの、リップサービスは自粛した方が良いのではないかな、稲田大臣?
≪ 北朝鮮ミサイル、自衛隊が常時迎撃態勢
稲田朋美防衛相は8日、北朝鮮の弾道ミサイル発射に備え、自衛隊にミサイル破壊措置命令を出した。北朝鮮が3日に事前通告なく撃った弾道ミサイルが日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下したのを受け、発射の兆候がなくても常にミサイルを迎撃できる態勢をつくる。
自衛隊は8日夜、都内の防衛省で、地上から迎え撃てる地対空誘導弾パトリオットミサイル(PAC3)の配備を始めた。海上配備型迎撃ミサイル(SM3)を 搭載したイージス艦も日本周辺の海域で展開する。自衛隊法ではミサイル破壊措置命令を期間を定めて発令すると規定している。当面3カ月間に区切って命令を出し、今後更新していく。
北朝鮮は3日に中距離弾道ミサイル「ノドン」とみられるミサイルを発射し、秋田県沖のEEZ内に初めて弾頭部分を落とした。移動できる発射台付きの車両から撃っており、日本政府は事前に兆候をつかめず、破壊措置命令を出していなかった。事前にミサイル発射の情報が 得られなくても即応できるように常時、迎撃態勢をとる。
ただ、弾道ミサイルに対処できるイージス艦は現在4隻だけ。日本全域をカバーするには3隻は必要になる。防衛省幹部は「整備や訓練を考えると、常に日本全体で迎撃態勢をとるのは難しい」と語る。 ≫(日経新聞)
まあ、この話を長々しても始まらないが、迎撃する気はさらさらないと云うのが、現在の日本政府の立場なのだろう。米軍が協力しなければ、正直、出来ないようにシステム化されているようなので、風呂敷を広げておいた稲田さんと云うことでケリがつきそうだ(笑)。それよりも、今夜は久しぶりで、魚住昭氏の、岸信介氏に纏わる莫大な「麻薬資金の行方」のコラムを、3本、立て続けに参考引用しておく。“昭和の妖怪”と言えば聞こえが良いのだが、“昭和の怪盗”と云う称号も通用しそうな按配なのが面白い。日本と云う国は、戦前戦中戦後と、現在の21世紀においても、市民の知らないところで、此処まで酷くはないにしても、支配層において、アングラマネーが蠢いているのだろう。岸の孫に当たる安倍首相にも、幾ばくか残されたと、ゲスの勘繰りも頭に浮かぶが?(笑)。
≪ 闇に埋もれた戦前日本の対中「アヘン政策」~岸信介の金脈を暴く
それは公然の秘密であった
■最大のタブー
・前回(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49375)の最後にほんの少しだけご披露した文書について、もう少し詳しくお話ししたい。
・この文書は、終戦翌年の1946年5月、中国の南京高等法院からGHQ(連合国軍総司令部)に送られ、東京裁判の検察側証拠の一つになったものだ。
・日中戦争の開始以来、日本が中国を占領支配するのにアヘンをどう利用したか。その実態を南京政府(汪兆銘政権。日本の傀儡だった)の元幹部である梅思平(同年9月、死刑)らの供述などに基づいて告発している。
・その核心部をこれからご紹介しよう。なお、原文の片仮名表記は、読みやすくするために平仮名に変えてあることをあらかじめお断りしておく。
・〈中国に於ける阿片取引は二つの理由によつて、日本政府の系統的政策であつた。第一に、内蒙古占領に続いて日本人により立てられたる傀儡組織であつたところの蒙疆自治政府は、罌粟の栽培を習慣としてゐる内蒙古で阿片を購ふ事に依つて財政的不足を解決せんと努力した〉
・要するに、満州につづいて日本軍が占領支配した蒙疆(現在の内モンゴル自治区)政府の財政は、アヘンの売り上げで賄われていたということだ。
・これは1980年代、江口圭一・愛知大名誉教授(故人)が発見した日本側資料によって裏付けられた客観的な事実である。
・文書は、第二に日本政府自身も〈戦争に依る経済的困難〉を切り抜ける道としてアヘンに頼ったと指摘している。
・そのうえで〈阿片購入用として指定せられたる蒙疆傀儡政府の貸附金〉はまず東京の大蔵省に送られねばならず〈そこで全額の幾分かは保留された〉と記している
・正直言って、私にはこの「貸附金」が具体的に何を指すのかわからない。
・可能性として(1)蒙疆政府→農民がケシから採取したアヘンを集める業者団体への貸付(2)蒙疆政府→南京政府への貸付(3)南京政府→蒙疆政府への貸付などが考えられるが、いずれとも判断がつかない。
・しかし〈全額の幾分かは保留された〉というくだりは、アヘン購入資金が融資される段階で東京の大蔵省に利益をピンはねされたという意味であることは想像できる。文書はつづく。
・〈他方では上海並びに中国の都市に於て売られた阿片の売上金の大部分は東条内閣の補助資金、及議員への補助金に割当てられる為東京に送られた。それは公然の秘密であり、そして幾らかの本国内の日本人も又この東条内閣の名うての政策に反対して居た事は周知の事であつた〉
・問題はこの〈東条内閣の補助資金〉や〈議員への補助金〉が何を指すかだが、簿外の内閣機密費や国会議員に配る裏金の類と考えるのが普通だろう。
・ただ、梅思平ら「傀儡南京政府」旧幹部も金の行く先を特定する資料は持っていないらしく〈(宏済善堂の会計簿を捜索すれば、略々其の痕跡を発見し得可し)〉と付け加えている。
■日本と中国との「密約」
・宏済善堂とは、上海の「阿片王」里見甫が運営していたアヘン取引のための会社である。次に登場する盛文頤は、その里見のアヘン取引の中国側パートナーだ。文書はさらに興味深い事実を明らかにしていく。
・〈盛文頤の言に依れば、利益支配の状況は極秘にして、東京と直接の来往に依つたのであると。即ち在華日本側機関も又、其の詳細を知る由が無かつた。維新政府(=汪兆銘政権ができる前の日本の傀儡政権)は税款(=税金)の極少を得るのみ〉
・つまり文書が言わんとするのは、金の行く先はすべて東京で決められ、旧南京政府がアヘンで受けた利益は〈極少〉に過ぎなかったということだ。
・こうして中国のアヘン問題は1943年冬にいたるまでまったく改善されなかった。が、同年12月、南京、上海、杭州そのほかの都市で学生たちがアヘンを売る店やアヘン窟を打ち壊す示威運動を起こした。それを契機に中国国民の日本のアヘン政策に対する反発も強まった。
・文書は、このときの日本軍の対応をこう述べている。
・〈しかし日本の軍隊は敢へて之に干渉しなかつた。結果として、日本政府は、南京政府が、“阿片の利益は蒙疆自治政府の主なる財源である”といふ事実を考慮する条件の下に於ては、もし中国が戦前の阿片禁止法案を回復する事を望むならば、中国を助けるといふ意思を表示して経済顧問を南京政府へ派した〉
・要約すると、アヘンの利益で蒙疆政府の財源分だけ確保できるなら、中国側がアヘンの取り締まりを厳しくするのをサポートするというふうに日本側の態度が変わったということだ。
・文書はこの〈急変〉について〈三つの事実らしき理由が発見された〉としてこう述べる。
・〈第一に、東条内閣は秘密の目的又は政治的目的に阿片の利益を使用した事について、日本国内外の国民に依つて攻撃された。第二に、日本政府は中国国民の嫌悪を減少せんとした。第三の最も重要なる事実は当時の日本は中国の物資統制によつて阿片取引の十倍の収入を得てゐた〉
・そのため政治的・軍事的支出の支払いのための基金に困ることはなかったというのである。
・以上のような経過をたどって上海や南京のアヘン禍は次第におさまっていくのだが、ここで留意しておかねばならないのは、主な陳述者である梅思平が置かれた立場だ。彼は当時、日本に中国を売り渡した漢奸として責任を追及されていた。
・アヘン問題で東条内閣が行った悪事を強調すればするほど彼の責任は軽くなる。そういう事情があるから、彼の陳述を何の裏づけもなく、すべて信用するわけにはいかない。
・そこで東条政権とアヘンの関係について日本側で言及した文献はないかと探してみたら、あった。近衛文麿元首相の女婿で、秘書官でもあった細川護貞(細川護煕元首相の父)の『細川日記』(中公文庫)である。
・細川は戦時中、陸海軍や政界の要人らから集めた情報をこの日記に綴っていた。その記述を追っていくと、東条はむろんのこと、彼の内閣の一員だった岸信介の金脈に関する極秘情報に遭遇することになる。 *参考:『資料 日中戦争期阿片政策』(江口圭一編著・岩波書店刊) ≫(文/魚住昭(ジャーナリスト)週刊現代掲載)
≪ 数百億のアヘンマネーが岸信介の懐に流れた!?〜戦前史「最大のタブー」その真相を辿る
鍵を握る二つの資料
■憂国からの極秘任務
・71年前まで公爵・近衛文麿の別邸だった荻外荘は、JR荻窪駅の南を流れる善福寺川のほとりにいまも残っている。
・古びた門ごしに中をのぞいてみると、砂利敷きのアプローチが30mほど先で右に折れ、奥の玄関へとつづいている。周りは鬱蒼とした林である。
・前回(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49404)ふれた細川護貞(細川護熙元首相の父)の『細川日記』(中公文庫)には、荻外荘の一室で護貞と近衛が密談する場面が何度も出てくる。護貞は近衛がかつて首相だったときの秘書官で、しかも女婿である。
・太平洋の戦局が悪化の一途をたどる1943(昭和18)年10月、護貞は近衛に秘密の任務を与えられた。その任務とは、政財界や軍の動向などについてのディープな情報を集め、高松宮(昭和天皇の弟)に報告することだ。
・近衛によれば、当時、戦争の見通しに関する正確な情報が昭和天皇にまったく届いていなかった。東条英機首相らが都合のいいことばかり上奏し、マイナスの情報を天皇の周囲からシャットアウトしていたからだ。
・このままでは国が滅びかねない。それを防ぐには高松宮の耳に誰かが正確な情報を入れ、宮の口から天皇に伝えてもらうしかない。宮も「方々駆け巡って 各方面の意見を聞いて来る者がいるといい」と希望したので、近衛は「年は若いが細川はいかがでしょう」と、当時31歳の護貞を推薦したという。
・こうして始まった護貞の情報収集活動の一部始終を記録したのが『細川日記』である。
・結局、東条内閣は翌'44(昭和19)年7月、内閣の一員だった岸信介の”叛乱”が決定打になって瓦解する。それから約2ヵ月後の9月4日の『細川日記』にこんな記述がある。
・〈伊沢多喜男(元警視総監)氏、父(細川護立)を訪問され、「岸は在任中、数千万円少し誇大に云へば億を以て数へる金を受けとりたる由、然もその参謀は皆鮎川(義介。日産財閥の総帥)にて、星野(直樹。東条内閣書記官長)も是に参画しあり。結局此の二人の利益分配がうまく行かぬことが、内閣瓦解の一つの原因でもあつた。これについてはさすが山千の藤原(銀次郎。東条内閣国務大臣)が自分の処で驚いて話した」と〉
・文中の〈此の二人〉が鮎川・星野を指すのか、岸・星野、あるいは岸・東条を指すのか、今一つ判然としない。が、いずれにせよ、岸が今の貨幣価値で数百億円相当の裏金を受け取ったという途方もない話である。
・戦後の1959(昭和34)年、衆院予算委で野党議員からこの話について追及された岸は憤然として反論している。
・「事実は全然そんなことありません。/私はいかにもそれが事実のごとく書かれておるということの良心を疑いたいと思う」
・私は岸の言を信じたい。国の存亡がかかった戦争の最中に巨額の裏金を懐にするような政治家がいるはずがない。が、『細川日記』をさらに読み進んでいくと、私の確信は揺らぎだす。護貞は、東条退陣から約3ヵ月後の10月14日の出来事を克明に記している。
■謎の多い裏金ルート
・この日、護貞は近衛、鳩山一郎(後の首相)、吉田茂(同)らとともに深川に〈海の猟〉に出かけた。風が強かったため猟はできず、地元の海産組合長の家で雑談して時を過ごし、その帰途、永田町の吉田茂邸に近衛、鳩山と3人で立ち寄った。
・そこでの雑談で鳩山が「白根宮内次官が東条を礼讃している」と言い出し、〈一体に宮内省奥向に東条礼讃者あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なり〉として具体例を挙げた。
・〈例へば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官夫々のイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈り物ある由〉
・そのうえで鳩山が〈東条の持てる金は十六億円なり〉と述べると、近衛は〈夫れは支那に於てさう云ひ居れり、主として阿片の密売による利益なり〉と言って共謀者の名まで挙げた。
・護貞は「自分も何かの会合で、東条は10億の政治資金を持つと聞いた。先日の海軍懇談会でも、ある大佐が昨今の東条の金遣いの荒さを語っていた。あるいは多少の誇張もあろうが、東条は多額の金をもっているようだ」という趣旨の感想を述べ、最後に鳩山の〈斯の如き有様なれば東条復活の危険多し〉という言葉を日記に書き留めている。
・この10月14日の記述は、かつての独裁者・東条がその権力の座を維持するために意外なほど濃やかな気配りをしていたことと、そのために湯水のように金を使ったことを物語っていると考えて差支えないだろう。
・では、その資金は、彼が自由に使えた内閣機密費ですべて賄われたのか。それとも別ルートからも調達されたのか。護貞は2日後の10月16日、さらに驚くべき情報を記す。
・〈朝、川崎豊君(帝国火災保険支配人)を訪問、談たまたま東条に及びたるに、彼は昨年中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重 役以下釈放となりたることあり、是はその金が東条のものなりしを以てなりとのことにて、以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと〉
・つまり上海の「阿片王」里見甫から東条への秘密資金輸送が中華航空により行われていたというのである。事実とすれば禍々しき事態である。
・しかし、読者に留意していただきたいのは、『細川日記』の記載の大半は、情報源が政界や財界の要路にある者とはいえ、また聞きだということだ。もしかしたら間違いや誇張がたくさんあるかもしれない。
・そこで私は例によって『細川日記』の信憑性を判断する資料を探しに出かけた。それらしきものはすぐ見つかった。歴史学者の粟屋憲太郎さんらがまとめた『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』(大月書店)だ。
・田中は元陸軍省兵務局長。戦後、多くの旧軍人たちから「裏切り者」「日本のユダ」と罵られた男である。 ≫(文/魚住昭(ジャーナリスト)週刊現代掲載)
≪ 東条英機のアヘン資金疑惑 〜GHQに「日本のユダ」が語ったこと
陸軍の巨額の機密費はどこから?
■軍の病理を突いた「日本のユダ」
・おさらいをさせてもらいたい。前回、細川護貞(もりさだ)の『細川日記』(中公文庫)をとりあげたのを覚えておいでだろうか。
・戦時中、高松宮の情報収集係をつとめた細川は、この日記に東条英機のアヘン資金疑惑を書き留めている。それを細川に伝えたのは、帝国火災保険の支配人・川崎豊である。
・川崎曰く。中華航空で〈現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放〉された。これはその金が〈東条のもの〉だったからで〈以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々(しばしば)金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと〉。
・この情報はホントだろうか。 ・信憑性を判断する材料を探すうちに田中隆吉に突き当たった。田中は日米開戦翌年まで陸軍省の兵務局長、つまり憲兵隊の総元締めだった男である。
・陸軍の謀略活動にも深くかかわり、「東洋のマタ・ハリ」といわれた川島芳子の情夫だったこともあるらしい。敗戦後は一転して陸軍の悪行を告発し、旧軍関係者らから「裏切り者」「日本のユダ」と罵られた。
・が、軍の病理に関する彼の指摘は鋭い。たとえば、こんなくだりが彼の著作『日本軍閥暗闘史』(長崎出版刊)にある。
・〈満洲事変の勃発とともに、それまで僅かに二百余万円に過ぎなかった陸軍の機密費は、 一躍一千万円に増加した。支那事変の勃発は更にこれを数倍にした。太平洋戦争への突入の前後に(略)正確な金額は全く表へ現れぬようになった。しかし当時 の陸軍の機密費が年額二億を超えていたことは確実であった〉
・2億円は今の1000億~2000億円に相当する。田中はさらに〈政治家、思想団体などにバラ撒かれた〉機密費は、彼の知る範囲だけでも相当額に上り、近衛文麿や平沼騏一郎など歴代内閣の機密費の相当額を陸軍が負担していたとしてこう綴っている。
・〈これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。それらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。(略)軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを否み得ない。東条内閣に到っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた〉
・田中は敗戦翌年から三十余回にわたってGHQ国際検察局の尋問を受けている。その時、作られた膨大な調書を日本文に訳したのが『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』(粟屋憲太郎ほか編・大月書店刊)である。
・それによると、宮中で天皇を補佐する内大臣の木戸幸一は政治活動に多額の金を使った。金の出所は日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(木戸や岸と同じ長州出身)だった。
・そして鮎川の〈事業提携者〉の岸は東条内閣の商工〈大臣在任中に、財閥との有効な取り決めによってかなりの額の金を儲けた〉。
・田中によれば、木戸は内大臣の地位にあったため、1941~'45年の間、日本の政治を支配した。木戸は東条内閣の成立に直接に力を貸したが、'44年4月、木戸と東条の関係は悪化した。木戸が、東条首相では戦争に勝てないと思い、倒閣を策謀し始めたからである。
・東条はそれを知ると、元首相ら有力者を入れて内閣を改造しようとしたが〈岸は、それらのいずれが彼の後任者となることも頑として承知しなかった〉ので、これが東条内閣倒壊の直接的原因になったという。
■沈黙する「阿片王」
・田中の見解は、木戸・岸・鮎川の長州連合の寝返りが東条内閣の致命傷になったことを示唆していて、とても興味深い。
・田中の第3回尋問のメインテーマはアヘンである。彼は華北のアヘン売買を統括していた北京の興亜院華北連絡部(=占領地の行政機関)の長官心得・塩沢清宣中将についてこう語る。
・〈彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は、里見の大の親友でもありまし た。塩沢は、北京から東条へしばしば資金を送っていました。戦争中であったため、上海地域で使用された阿片は、その量のすべてが北支から供給され、そのようにして、当然、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました〉
・田中の言う北支に、アヘンの主産地である蒙疆地区(今の内モンゴル自治区)綏遠省が含まれると解すれば、彼の言に概ね間違いはない。興亜院華北連絡部がアヘンで巨利を得たことも事実と考えていいだろう。
・田中がつづける。
・〈塩沢のもとで、専田盛寿少将という私の友人が働いていました。彼は私に、塩沢は、しばしば飛行機を使って東条のもとに金を送った、と語り、そのことでひどく腹を立てていました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞することを余儀なくされ ました。昨年九月に大阪で私が専田に会ったとき、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました〉
・GHQ国際検察局は東条のアヘン資金疑惑に強い関心を持ったらしい。それから約1年後の'47年3月21日、里見を召喚して1時間余にわたって事実関係を問いただしている。
・取調官は事前に里見が中華航空の顧問だったことや、東条の私設秘書と親密な関係にあったことを確認し、いわば外堀を埋めたうえでこう切り出した。
・「さて、ズバッと行こう。私は何らかの情報をあなたがくれるものと期待しているのだが、上海発東京行きの中華航空機で多額の金が東条に送られたことを知っているだろう?」
・里見の答えはそっけなかった。
・「知りません」
・「じゃ、中華航空による現金輸送が憲兵に摘発された件は?」
・「まったく何も知りません」
・国際検察局による東条のアヘン資金疑惑の捜査は、里見の沈黙の壁に突き当たり、思うように捗らなかった。
・私もここらで方向転換して岸と東条の不可解な関係を探ることにした。満州国首脳だった岸を日本に呼び戻して商工次官にし、その後、商工相に据えたのは東条だった。
・東条人脈の中心にいたはずの岸が、敗戦約1年前、突如東条に反旗を翻した真の理由は何だったのだろうか。 (つづく) ≫(以上3本のコラム:現代ビジネス>社会>文/魚住昭(ジャーナリスト)週刊現代掲載中)
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東京電力福島第1原発の事故から5年半が経過したが、いまだに10万人をこえる人人が故郷を追われたまま避難生活を強いられ、とくに原発立地町である双葉町・大熊町は町の大半が帰還困難区域に指定され、帰ることもできない状況に置かれている。この双葉町に住んでいた大沼勇治氏(40歳)が先日、山口県上関町の祝島を訪問し、その際に本紙は福島事故から現在に至る双葉町の様子や住民が置かれている状況、何を体験し、どのような思いを抱いているのか取材した。大沼氏は双葉町の入口に掲げられた原発PR看板「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を子どもの頃に考案して表彰された過去を明かし、震災後は「明るい未来」どころではなくなってしまった双葉町や福島の実情を伝えるために、全国各地を訪れて講演などで思いをのべている。近年は福島がどうなっているのか、とりわけ双葉町や大熊町がどうなっているのかは、まるで報道管制でも敷かれたように表に出てこない。そして原発に翻弄された一般住民を東電と同列の「加害者」のように叩く構造もあるなかで、いいたいことをあからさまにいえない力も加わっている。その声なき声を伝えることを重視し、以下、大沼氏が撮影した写真とともにインタビュー形式で紹介する。
Q まず、福島原発の事故が起きてから現在まで、どのような生活を送ってきたのか。
A 福島第1原発から4㌔の場所に住んでいた。2011年3月11日、ものすごい揺れが10分程度続いた後に津波に襲われた。家の中は地震でぐちゃぐちゃになり電気もつかないので、妻と南相馬市の道の駅まで避難して当日は車中泊をした。そのとき妻は妊娠7カ月だった。
翌日の午前中に双葉町の自宅が気になって戻ったときに、駅にいた警察官に「すぐに川俣の方に向かって逃げなさい」「早く遠くへ」といわれたので、福島原発で大変なことが起きているのかな…と直感的に思った。そしてその日の昼に当時の菅直人首相がヘリで東電に来たと聞き、やはりこれは大変なことが起きているのではないかと思っていたら、午後に水素爆発した。
その日の夜は相馬の道の駅で野宿をしようとしていたが、妻のお腹には子どももいたので13日の夜中に親戚を頼って会津若松に避難し、27日まで約2週間を過ごした。病院を探さなくてはいけないと思っていたが、福島県内の病院は避難者やけがをした人でいっぱいになっておりたらい回しにされる不安もあった。そうこうするうちにまた原発が爆発し、上空からヘリで水をかけている様子などを見て、これはもっと深刻な事態になると思った。
そこで親戚を頼って愛知に行き、借り上げ住宅を探してもらった。3月30日から平成23年の12月5日までそこで暮らしたが、子どもが生まれたので愛知県内のマンションに引っ越し、平成26年5月26日まで暮らした。それから茨城県古河市に引っ越して現在にいたっている。
Q 原発が爆発したときに住民にはどう知らされたか。安全対策はあったのか。
A 原発事故が起きたときの避難について、サイレンが鳴ったりなにかが放送されていたが、内容がわからなかった。あれほど強い揺れが続き、イオンのガラスが崩れ落ちたり、街中で火事が起きたりしたので、ただごとではないというのは感じた。11日は自分の判断で南相馬に逃げたが、「逃げなくてはならない」というのを聞いたのは先ほどのべたように、翌日に一端自宅に戻ったときに警察にいわれたのが初めてだった。しかし、なぜ避難しなければならないのかはいわれなかった。町として避難指示は出したのかもしれない。しかし少なくとも私は聞きとれなかった。
すでに原発が危なくなっていたはずの11日の夜、私たちは南相馬にいたが、みんなは高台にある小学校の体育館などに避難していた。原発からは4㌔しか離れていない場所だ。“原発事故が起きれば東京まで住めない”ということがいわれてはいたが、まさかのときの避難訓練もなく、心構えもしていなかった。たまたま私は渋滞を避けたので通らなかったが、「川俣方面に避難しなさい」といわれて逃げる人人の車が連なり、渋滞になったところが風の影響でホットスポットになって放射性物質を浴びている。
東電は住民の安全対策をやっていると資料などに書いてはいたが、そもそも福島第一原発自体が津波を想定したつくりではなかった。電源も地下にあって、津波に襲われて冷やせなくなっている。津波対策を怠っていたうえに、あえて岩盤を削って低いところに原発を建てていた。これは、船を接岸したところから部品を運びやすくするためだ。明らかな人災であるし、これは謝って済む問題ではない。住民の安全対策などやっていなかったのが現実だが、私たちは東電に勤めているわけでもなく「安全だ」といわれればそれを信じるしかなかった。しかし頻繁にトラブルも起きていたし、それを隠蔽していたので信用はなかった。
Q 原発立地町である双葉町の人人の生活や意識はどんなものだったのか。
A 「原子力明るい未来のエネルギー」。この標語を考えて私が表彰されたのは小学6年生のときだった。当時、双葉町は7・8号機の増設に向けて動いており、そのために原発推進の標語を町民に公募した。私たちはそれが学校の宿題となり、「“原子力”という言葉を入れた標語を1人3つずつ考えてきなさい」といわれ、やらなければ怒られるので考えた。大人から子どもまで178人が応募し、281点の応募点数のなかから私の作品が選ばれたのだった。
学校から配られる鉛筆や下敷きには東京電力の名前が刻まれ、なにかの参加賞なども東京電力からで名前や写真が入ったものが配られ、それを使っていた。町は電源立地交付金で役場、駅、図書館、マリンハウス(海の家)などのハコモノを建てた。また双葉町には「原子力運送」、双葉郡の冨岡町には「寿司屋・アトム」「パチンコ・アトム」など、原発関連の名の企業や店も多く、まさに原子力に依存した町だったと思う。
学校には東電社員の転勤の関係で転校生の出入りもあったが、来て2、3年もすれば双葉町内に2階建ての立派な家を建てていた。所得があるので銀行からお金を借りやすいのだろう。人口もどんどん増え、商店街も潤った。私は電力会社の人にファミリー向けのアパートを貸していた。サラリーマンとして働いていたうえに家賃収入もあったので生活は安定していた。
原発についてはいろんな考え方をみな持っていたが、原発に反するようなことをいってはいけない空気が覆っていた。個人的には『はだしのゲン』を読んだこともあって原発=放射能=原爆というイメージも持っていたので、原発がいいものだとは思っていなかった。ただ、隣の家や同級生の親が原発に勤めているなかで、否定的なことをいうと怒られた。子どものときに釣り大会があったが、そのとき釣具屋さんに「原発近くに面した海でとれた魚は食べられないのか」と尋ねると「そんなことをいってはいけない」といわれたこともあった。
原発で働く人たちがいて町は成り立っているし、否定的なことをいえば近所の仲が悪くなる原因にもなる。双葉町自体が増設に向けて舵を切ろうとしていた時期でもあり、反対のことをいうと町に居づらくなるという空気があり、思っていても声に出していえるものではなかった。
ただ、親戚のなかにも原発に推進の立場と反対の立場の人がいて、酒を飲むと喧嘩になっていた。少数だが原発反対の看板を敷地に建てている人もいた。しかしそういう人も家賃収入を得たりしていたので「おかしい」「矛盾している」といわれていた。
原発が来る前の双葉町には雇用がなかった。出稼ぎで出ていく人も多く、新婚夫婦でも旦那が東京に単身赴任で働きに出たりしていた。しかし原発ができたことで雇用は増え、4、5人に1人は原発関連の会社に入っていた。給料も良く、「結婚するなら電力関係の人か公務員」といわれるほどだった。
原発事故起きての変化
Q 福島第1原発事故が起きてからの変化はどうだったか。
A 原発で成り立ってきた町は、事故が起きてから一変した。私も家とアパートのローンが残ったまま出ていかなければならず、その後もローンは払い続けて補償金で完済したが、無人のアパートは汚染されているので、もう貸すこともできない。自宅もおそらく解体するしかない。人口に見合わないのに電源立地交付金で建てた立派な駅や役場なども何の意味もないものになってしまった。それらのハコモノができたからといって、潤ったのは工事に携わった人ぐらいで私たち住民の生活がよくなるわけでもなかったのだが…。東電の補償金でローンは終わり、残った補償金で土地を探した。土地と建物を探すときも、福島では避難者がいっぱいで地価も上がっていたので、茨城に土地を買った。震災の年とその2年後に子どもが生まれ、幼稚園にも通わせなければならない。茨城だったら東京からも1時間半、福島には4時間ぐらいで行くことができるのでそうした。
原発事故に直面している者として、30年以上にわたって反対している人たちと交流することは大切だし、家族でデモに参加することで祝島の人たちと共感しあえたらいいと思って上関に来た。
五年半が経過した現在
Q 原発事故から五年半が経過した双葉町や町民はどんな状態に置かれているか。
A 5年半が経過した双葉町は、復興しているかのようにいわれているが、住民が逃げ散ったまま、時間が止まったようになってなにも復興していない。私はこれまで73回一時帰宅したが、そのたびに町内を見廻りして状況を撮り続けてきた。一時帰宅のさいには許可証が必要で、防護服を着て五時間の滞在しか許されない。出入りにはバーコードチェックもある。
5年が経過した町内は、今でも原発事故でみなが着の身着のまま逃げたままになっている。食べかけの寿司や湯飲み、子どもたちのカバンが転がっている保育園、乗り捨てられた車、自転車の転がった中学校、3月11日で止まった時計やカレンダー…。すべてそのままになっているが、人の姿だけが消えて草が生い茂っている。まだ線量が高く、今年の3月に自宅の庭で測ったら25マイクロシーベルトあった。線量の高低を示すのに赤、黄、緑、青と色分けがされているが、ホットスポットで線量の高いところは赤い印がずらっと並んでいる。最初のころは牛などが街中を闊歩していたが、今は駆除されて「牛に注意」の看板は「猪に注意」に変わった。またブタとイノシシが交配して「イノブタ」になり、イノブタ同士が交配して「イノイノブタ」になり、今は「イノイノイノブタ」ぐらいになって生態系も変わってきていると取材関係の人がいっていた。ネコやイヌは骨になって死んでいる。養鶏場のニワトリもそのまま死んで、鶏舎には羽と骨が残っている。人が戻らず荒廃した町内には、夜行性のはずのタヌキが真っ昼間から出てくるようになった。
双葉町民は全員が避難生活を送っている。最初は埼玉に拠点があったが、いわき市に役場機能を移転し、郡山や福島をはじめ県内外に散らばっている。避難先から自宅に帰るのは年間30回まで。双葉町は中間貯蔵施設の候補地でもあるので、除染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグがどんどん運び込まれている。30年後には更地にして返すといっているが、30年後といえば40歳の私は70歳になる。「帰れない」といっているようなものだ。
国は帰還困難区域を「五年以内を目途に解除する」といっているが、解除しても帰らないとほとんどの人はいっている。私たちのように子どもを育てている住民がそうだが、お年寄りも「あと何年かしか生きられないから双葉で死にたい」といっても病院もない。一時帰宅するときには南相馬やいわきに泊まるが、そこでも病院が十分ではなく、私がおたふく風邪になったときには数十㌔離れた病院を紹介された。病院があっても医師がいないから不便な状況だ。過疎地の双葉より避難先の方が暮らしは便利なので、よほど帰ることに価値がなければ帰らないだろうと思う。土地は汚染され、原発では燃料デブリがどこにあるかわからない。そのようなところにわざわざ被曝しに帰るだろうか。もう家を建てていれば「帰る」とはならない。お墓参りに行ったり、限られた時間のなかで状況を見ていくしかないと思っている。
今、福島原発の復旧作業のための作業員でいわきなどの宿舎やホテルもいっぱいになっている。そういう人のための宿舎をやれば2150万円くらいの補助金が下りる。コンビニなどを開いた人にも国が補助金を出して住民の帰還を促している。住民票を移して自分もいなければならないのが条件だが、そこまでして戻りたいという人はあまりいない。メディアがコンビニなどを映して復興しているかのように伝えているが、現実には人などほとんどいない。
私は福島の現状を講演しながら回っているが、私がこの地域のことを知らないように、遠くなればなるほど、五年半前のことはもう話さなくてもいいという空気も感じる。また、福井など原発を推進しているようなところへ講演に行くのは、やはりおっかないなという思いもある。ネットなどでも「原発を推進していたくせになんだ」「虫が良すぎる」という書き込みを見かけたりする。しかし逆に、このような境遇になったからこそ思いを伝えられる。福島第一原発があのような状況になって、原発を推進する人はいないと思う。双葉町民の心情もそうだと思う。ただいいづらくていえない。双葉町民で脱原発を訴えている人に出会わないのは、家族や親戚、周囲に勤めている人がいるとかが大半だからだと思う。
双葉町は、「原子力明るい未来のエネルギー」の標語とまったく反対の運命をたどってしまった。この看板は今年3月4日に「老朽化して危険だ」という理由で撤去されてしまった。双葉町の負の遺産である看板を残してほしいという署名は6500筆にのぼったが叶わなかった。看板よりも撤去されるべき倒壊家屋は無数にあり、なにより撤去してほしいのは原発だ。そして町長が「看板の老朽化」よりも心配しないといけないのは、5年半も避難生活を送っている双葉町民のことではないだろうか。そのような心配よりも真っ先に看板を撤去するのはなぜなのか。「大事に保管する」といっていた看板は今シートに包まれ、草に覆われている。双葉町が行き着いた先は「明るい未来」ではなく、人がいなくなり赤信号だけが点滅する暗い町だ。いくら看板を撤去しても過去は永遠に残る。
原発事故では2000人をこえる人が関連死と認定されている。その多くの人の無念、町が積極的に誘致した歴史を後世に伝えるためにも看板は残すべきだと思う。「復元して保存する」という町長の言葉が嘘にならないようにいい続けていく。
Q 原発事故を経験した双葉町民として、上関や全国の人人に伝えたいことは何か。
A 上関町の景色を見て、原発に30年反対してきた気持ちに共感できる。たった1回の事故で、これから先もいつ帰れるかわからないが、そのようななかで解除しようとしている。国は補償金を払いたくないので、被災者の立場ではなく「復興」を無理矢理させようとしているのを感じる。原発ができれば町が発展するという“嘘”というか、“魔法”で信じ込ませるやり方は上関も双葉も同じだ。建てれば最初の何年かは町財政も右肩上がりだが、それが次第に下がってくるとまた増設、増設になり、麻薬のように依存していく。1回建ててしまうと必ずそうなってしまう。交付金がおり続けるわけでもなく、その交付金もハコモノに化けてしまう。
仮に事故が起きれば、できるだけ遠くに逃げるしかない。風向きなどわからず発表されるのを待っていたら被曝してしまう。避難するといってもいざそうなれば大混乱で、地割れしたところを無理矢理通ろうとしてパンクしたり、その車が道をふさいで通れなくなったり、橋の上で止まって津波が来たり、電柱が倒れたりーー 。とにかく混乱しているなかを逃げなければならない。原発などわずか50年ほどの歴史だが、人類があたりまえに住んでいたところに、人類がまったくいなくなるようなことがたった1日で起きる。お金ではない。失ったものはあまりにも大きすぎた。好きなときに家に帰れないし、帰っても防護服を着て数時間しかいることができない。自分の家に帰るのに、よその県から来た警察に職質を受ける。空き巣に入られたり、銀行で被害にあったり、火事場泥棒に襲われた人もたくさんいるが、避難先ではどうすることもできない無力さがある。
人間の力ではどうにもならないのが原発事故だ。それまで先祖代代守ってきた土地が、汚染されてなんの価値もなくなって二度と元通りにはならない。そして、帰れるようになった時期に、自分が生きているのかさえわからない。
経済の発展だけを目指すべきではない。自然を守ることがいかに大事であるかを上関の美しい海を見てより強く感じている。福島ではとれた魚はいまだに出荷停止だ。放射能は環境のみならず、人間関係もぶちこわす。好きでこうなったわけではないのに、避難先の小学校で子どもがいじめられたり、「双葉郡の被災者は帰れ」という嫌がらせの手紙が届けられた話も聞いた。そういうものを見ると心が痛む。上関や祝島と同じように推進・反対でみんなが分断され、親戚や友だちも失ってしまう。
脱原発は今やらなくていつやるのか。いまだに政府は経済発展のためだけに盲目的に原発推進をやっている。お金をばらまいてアメとムチで納得させ、弱みにつけ込むのが原発だ。そこに頼らないで、地元の人が頑張らないといけないと思う。
<転載終了>