近年における皇室予算は「皇室」「宮内庁」「警備」関係予算を総計するとだいたい250億円前後であるとされるが,この日本国に住むわれわれの血税を元手に暮らしている皇族は,憲法に規定されざるをえない人間集団として,どのように日常の生活をしていけばよいのか熟考・配慮の必要もあるゆえ,よほどの覚悟と慎重,緊張感などを求められて当然である。
「雅子さま,52歳」(『朝日新聞』2015年12月9日朝刊)
1) 記事本文
皇太子妃雅子さまが12月9日,52歳の誕生日を迎え,宮内庁を通じて感想を文書で発表した。長期療養が続く自身の活動について「体調に気をつけながら,公私にわたってできるかぎりの務めを果たそうと努めて参りました」と言及。
『朝日新聞』2015年12月5日朝刊 7月のトンガ,10月の福島,鹿児島両県訪問に触れ「多くの方々に温かく迎えていただきましたことは,私にとりましてとても大きな励みになりました」とつづった。
戦後70年の今年,皇太子さまや長女愛子さまと戦争関連の展示をみて,「戦争の悲惨さと平和の尊さにあらためて思いを深くいたしました」と記した。
宮内庁によると,この1年,雅子さまの東宮御所内での行事は52件で,昨〔2014〕年の30件から大幅に増えた。内訳では「赴任大使接見」が2013件(昨年4件),「御進講」が9件(同2件)など。東宮職トップ・小町恭士東宮大夫は「努力と工夫を重ねられ,ご活動の幅を広げておられます」と雅子さまの様子を紹介した。(島康彦)
2) 皇族は「身分の高い人」(?!)
ところで,赴任大使に対する接見(「身分の高い人」が公式に会見することで,引見ともいう)する政治的な行為を,皇太子(天皇の後継予定者)とその妻も担当するというのは,日本国憲法において想定されていない,その指示も規定もない「皇太子家のお仕事」といえそうである。
いつのまにか,皇太子の妻までもが「身分の高い人」となって,そのような〈お仕事〉を,皇族(身分の高い人-皇太子と結婚してそういう身分になった-)たちが適当に分担している様子は,はたして日本国憲法をどのように受けとめ解釈するにせよ,疑問の余地が大きい。この種の疑問が生まれて当然である。あとは,問題意識の構えとその程度によっては,いろいろ議論が発展していく論点にもなる。
いまのマスコミ,それも大手新聞社が皇室関連記事を宮内庁の手配にもとづきながら,天皇家一族の行動・行為をいちいち日常的に報道するのは,明治以来に『創られた天皇・天皇制』を,民主主義政治理念とは別個でありながら,同時にまた,抱きあわせにもするかっこうで,日本国民たちに対してはこれからも,その「国体」(旧式のこれでしかない実体)と「皇統の連綿性」の枠組意識を,維持・発展させよう〔=刷りこみつづけよう〕と狙っているからである。
3) 2015年天皇家主催;秋の園遊会
雅子が2015年秋の園遊会では,わずか10分だけ顔をみせ,引き下がっていた事実は,本ブログ 2015年11月14日「雅子がこの秋の園遊会に出席しえたという〈慶賀〉について」,副題「皇太子「妃」が「雌伏の12年」を克服したとでもいいたいのか」で,批判的に考察してみた。
あるテレビ局によるネット・ニュースは,その園遊会に,ごく短時間だけ出席した雅子の動向について,こう要約する報道をしていた。
天皇皇后両陛下主催の秋の園遊会が赤坂御苑で開かれ,皇太子妃雅子さまが12年ぶりに出席された。当初,式典のみ出席予定だったが,雅子さまは招待客らが並ぶ道筋を歩き,笑顔で会釈やあいさつの言葉を交わしたのち,途中で一礼して退出された。
註記)http://www.news24.jp/articles/2015/11/12/07314674.html つぎの画像もここから。(画面 クリックで 拡大・可)
0テレニュース242015年12月11月12日1624
雅子は天皇夫婦から,少しのあいだでもいいからこの園遊会に顔を出してみたらといわれ,しかたなく10分間という短時間の〈お出まし〉になったという事情があったらしい。
皇室主催の園遊会が政治的な意味あいをまったくもたないとはいえまい。なにせ,天皇という存在・地位は,日本国憲法の第1条から第8条までも条文を充てて,あれこれ規定しているほどである。
だが,皇太子とこの妻が,皇室の人間としてなにをなすべきという関連での規定は,皇太子が天皇の息子として,天皇が不在のときにこなす臨時代理代行の任務・仕事以外,とくに法律的に指示されておらず,したがって義務づけられているものは「本当はなにもない」〔はずである〕。
4) 皇太子・妃「雅子」に公務があるのか
だから,あるブログの記述中には,つぎのような〈文句〉が並べられている。
内廷皇族である天皇陛下と皇太子殿下にしかできない「公務」はあっても,宮家にしかできない「公務」や絶対にすべき「公務」は存在しません。
雅子様をバッシングするために用いられる「公務」と呼ばれているものは,その多くが「私的行為」の範疇に入るべきものであって,(とくに観劇や展覧会などの鑑賞公務や動物園や水族館を回るお楽しみ公務などは)国事行為や宮中行事,祭祀などの公務とは性質が異なります。
「皇族は国民の年金で養われているんだから,もっと公務に励め!」などのように,「公務」=皇族の仕事と考えている人が一部にみられます。どうやら収入をえる対価として「公務」をしろ,ということらしいですね。
註記)http://nikkorinikorin-rinrin.blog.jp/archives/1003260361.html 「『公務』は皇族の仕事?」『お日様ぽかぽか』(May 21, 2014 16:35)。
以上のうちで,雅子やその夫も共有できている「お楽しみ公務」は,「国事行為や宮中行事,祭祀などの公務とは性質が異なります」と断わられている。けれども,憲法で規定されている「国事行為」(天皇用の)そのものは公務でありえても,皇室内の「宮中行事,祭祀などの公務」は,実は公務ではない。
それは,天皇家(私家)の祭事であっても,国民のためのそれではないのである。国民たちのために天皇が皇室神道的に祈祷する宗教行為だとしたら,政教一致どころか,国民たちに対する「国家的な皇室神道」の,一方的かつ押しつけ,勝手な強制になる。
補注)専門的な議論については,園部逸夫『皇室制度を考える』(中央公論新社,2007年)が勉強になる。皇室・皇族・天皇家に関する公務関連の分析・解明については,もっと意識的・客体的に究明されてよい。タブー視するようであってはならない。
a) 園部逸夫『皇室制度を考える』2007年の内容説明 皇位継承制度,皇族制度など,ぜひともしっておきたい皇室制度の基本的な仕組を解説し,近年のさまざまな議論の視点や考え方を明快に整理する。
b) 主要目次
第1章 天皇の地位と行為 第2章 皇位の継承のあり方
第3章 皇族制度について 第4章 皇室の経済基盤,皇室の諸制度
陵墓とその管理をどう考えるか 皇室会議の位置づけと役割
皇室の法制度とお世話体制は十分か
c) 著者紹介 園部逸夫[ソノベ・イツオ]は1929年生まれ,岐阜県出身。1954年京都大学法学部卒業,法学博士。京都大学助教授,東京地裁・東京高裁・前橋地裁(部総括)判事,最高裁上席調査官,東京地裁(部総括)判事。
その後,筑波大学教授,成蹊大学教授を経て,1989年最高裁判所判事(1999年3月まで),1995年皇室会議議員(1999年3月まで),2001年叙勲(勲一等瑞宝章),2005年「皇室典範に関する有識者会議」座長代理。弁護士,立命館大学大学院客員教授,外務省参与。
d) 出版社内容情報 近年,さまざまな立場から活発に議論されている皇室制度。その論点を整理・検証し,皇室制度について考えるさいの基礎知識を網羅する。
園部逸夫は立場上,皇室問題を真っ向から批判できる思想は示せず,極力客観的な説明に終始していて,たいへん勉強になる著作を公刊している。だが,その体制派的な限界も明らかに併有させている。
②「雅子さま52歳に トンガ訪問『大きな励み』」(『日本経済新聞』2015年12月9日朝刊)
皇太子妃雅子さまは12月9日,52歳の誕生日を迎えられた。療養生活が続くなか,今〔2016〕年はご夫妻でトンガへの公式訪問や福島,鹿児島両県での地方公務も果たされた。宮内庁東宮職を通じて誕生日の感想を公表し,「多くの方々に温かく迎えていただきましたことは,私にとりましてとても大きな励みになりました」とつづられた。
日本経済新聞2015年12月9日朝刊雅子誕生日52歳
東宮職によると,東宮御所内での公務への出席は昨〔2014〕年より大幅に増えている。雅子さまは「今後とも,多くの方々からのお力添えをいただきながら,快復に向けての努力を続けていきたい」と述べられた。
補注)ここで「大幅に増えている」点は,① の『朝日新聞』がその回数の増加を数字に出して報道していた。また東宮職についてウィキペディアは,簡単にこう説明している。
「東宮職(とうぐうしき,とうぐうしょく)」とは,歴史的につぎの3点をもって注目すべき宮内庁(戦前・戦中・敗戦直後までは宮内省)内の地位(職位)である。
イ) 律令制においては,東宮傅・東宮学士を春宮坊と区別して呼んだ呼称。皇太子の教育・補導を担当した
ロ) 明治22〔1889〕年,従来の春宮坊(江戸時代末期まで令制の規定のまま存続してきた制度下の地位・職位)に代わって宮内省に設置された機関。
ハ) 現在の宮内庁の東宮職。
--1889年は,大日本帝国憲法が公布(2月11日)され,施行(11月29日)された年であった。この年においては同時に「皇室典範」も,その2月11日に裁定(勅定)されていた。現在の皇室典範(1947年1月16日法律第3号)は,日本国憲法第2条及び第5条にもとづき,皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。
しかし,その実質的な規定内容は,明治以来の本質的性格を払拭しきれていないままである。そもそも,皇室・皇族という特権的な階級(階層)を残した占領軍による敗戦措置(戦後処分)が,不徹底であった。この〈おかげ〉で,本日に記述しているような天皇家の話題が,いつまで経っても再生産されつづける基盤を提供している。
日本国憲法において “平等原則,貴族制度の否認及び栄典の限界” を定めている「第14条」は「すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない」し,その「2 華族その他の貴族の制度は,これを認めない」と,きっぱり断わっているものの,実際においては,いままでも一部では「それを認めている」現状:実体でありつづけてきた。
天皇・天皇制を熱烈に支持する人たちに対して,皇室や皇族の存在が「法の下に平等」であるのか,そして「……性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない」とする決まりに抵触しないかと問えば,おそらく答えに詰まる。それだけでなく,「オマエたちはなにも判っていない」「不敬意識にまみれた国賊・不逞のやからだ」と,彼らからは逆に怒鳴りかえされるのがオチである。
門地とは「人の出生によって当然に生じる社会的地位」のことで,いわゆる「家柄」とか「生れ」がこれにあたる。日本国憲法は門地による差別を明文で禁止している(14条1項,44条)」(『ブリタニカ国際大百科事典・小項目事典』参照)。だが,天皇も皇太子も,自分の「出生によって当然に生じる社会的地位」を与えられていた。それゆえ,日本国憲法内にはいまだに,『みごとなまでに矛盾する条項同士が厳然と混在する』わけである。
だいぶ横道にそれたような記述になった。記事本文に戻る( ↓ )。
〔記事本文に戻る→〕 戦後70年の今〔2015〕年は,ご一家で戦争体験者から直接話を聴かれる機会も。長女,愛子さまについて「戦争の歴史や,戦後の荒廃のなかから日本がどのように復興を遂げてきたかについて,関心をもって学び,理解を深めてくれたものと感じています」と紹介された。
補注)この種の話題,いいかえると大日本帝国の敗戦体験によって,皇室・皇族たちが実際に,どのような「戦争体験」をしてきたかも聞きたくなる。
昭和天皇の生涯に関する膨大な「キレイゴト・中心史観」の見地にもとづく『昭和天皇実録』(2015年3月から東京書籍が刊行しだしている)では,いちばん肝心でもっとも聞いてみたい核心は意図的にぼやけさせてしか記述されないか,あるいは触れられない(完黙状態)。
そのあたりに関する昭和天皇に関する議論については,すでに膨大な研究が蓄積されており,専門研究者でも骨の折れる〔やりがいのある〕仕事を,天皇裕仁という人物は提供してくれている。
明治以来,古代史的な宗教舞台を真似した祭祀様式に舞い戻されつつも,近代化したつもりの日本の政治機構は,当時において米欧がすでに到達していた近代市民主義原理にもとづく国家政治体制をひどく嫌い,あえて反封建的で非合理的な,それも国家神道と皇室神道による政教一致(口先では政教分離を唱えていたが)を国民に強いる宗教的な国家政治体制を創っていった。
戦前・戦中は「神道非宗教論」が強引に理屈として提唱されていた。だが,これほど自家撞着を充満させた定義は,ほかにはなかったと断定されてよい。
敗戦後におけるGHQ(前面にはマッカーサー,背面にはアメリカ政府)の意向(占領方針)は,天皇・天皇制を日本国民支配のための道具(ビンのふた)に使う点にあった。そして,いまもなお,自国(アメリカ合衆国内)の基地であるかのように「在日米軍基地」は,日本の国内の特定地域を占有して利用しつづけている。
アメリカは,日本の首根っこを押さえこむ国際政治関係(その代表=犠牲にさせられているのが沖縄県)を体現させながら,この日本を米国に下属させつづける属国体制を堅持してきた。これからも当分(何十年か)はつづくほかない。
そうした事実は,以下のごとき歴史の過程に現象していた。
★-1 大日本帝国は1945年8月(9月)に敗北したさい,『天皇・天皇制の皇統連綿性』だけ,つまり,天皇家の「もっとも基本的で最低限の願い=命乞い」は「聞きいれられていた」という事情・条件が生じていた。
★-2 だが国体の側,つまり,日本全体が明治維新で新たに創りだした「前述のごとき政治機構」,いいかえれば「帝国臣民=天皇の赤子たち側の事情・条件」は,もののみごとに切り捨てられていた。
★-3 天皇裕仁は戦争責任問題を追及されることがなかった。ただし,明治憲法以来の神権天皇から敗戦後の新憲法における象徴天皇に,その天皇の地位・性格を変えさせられていた。
だがそれでは,日本国憲法内に書かれている門地の問題が根本から解決・解消することはありえなかった。「人の出生によって当然に生じる特別の社会的地位」をもつ天皇・天皇家(皇族)や華族(貴族)たちのうち,後者は消滅させられたが,前者は敗戦後も生存させられていった。
〔記事本文に戻る→〕 皇后さまが心筋虚血の疑いと診断されたことにも触れ,「心からご案じ申し上げております」と体調を気遣われた。東宮職医師団は雅子さまの病状について「快復は着実に進んでいるものの,まだ快復の途上」との見解を公表した。
③「雅子さま,52歳…秋の園遊会出席の喜びつづる」(『読売新聞』2015年12月9日朝刊)
さきに断わっておくが,この『読売新聞』の雅子に対する報道内容(ウェッブ版で接したものだが)は,『朝日新聞』や『日本経済新聞』比較するに相当,字数が多い。『読売新聞』の特徴だといえばそれまでのことであるが,これは〈皇室賛美・ヨイショの報道体制〉が,ヨリめだつ記事制作面の特徴だと観ておく余地もある。
『読売新聞』2015年12月5日朝刊雅子記事画像
--皇太子妃雅子さまは12月9日,52歳の誕生日を迎え,文書で感想を公表された。12年ぶりに参加した今秋の園遊会について,「天皇皇后両陛下の温かいお心遣いをいただきながら出席できました」と喜びをつづられた。
補注)雅子がそこまでそのお心遣いに〈喜び〉の気分を抱いていて,また「秋の園遊会への出席」でもってこれに応えることができたというのであれば,この秋の園遊会にたった10分だけ居てから,すぐに「イチ抜けた」かの要領で消え去った姿勢は,第3者にはなかなか解せないものである。彼女の本心がどういうものであったかは,察しようもないことがらである。
ここでは,彼女の口先から出てくる《ことばのかたまり》と,実際にみせておこなっている行動とのあいだには,常人には理解しにくい「感情なり行動なりの魂胆・意思」が隠されていると推察しておくほかない。
療養が続くなか,今〔2015〕年7月に,皇太子さまとトンガを訪問。10月は,福島県の復興状況を視察,鹿児島市で国民文化祭の開会式にも出席し,徐々に活動の幅を広げられている。訪問先で多くの人びとに温かく迎えられ,「大きな励みになりました」と感謝された。
補注)雅子は自分のその療養を理由にうまく使いながら,これは周囲から観る判断でしかないけれども,いわばえり好み的にいわゆる「ご公務」をいくつかはこなしているようである。
彼女の健康状態に関して宮内庁が発表する中身は,一般庶民の理解力をもってしては,なんとも諒解しがたい〈病状〉(?)なのである。それにしてもわれわれが聞ける範囲内では,いったい,なんの・どのようなビョーキを彼女が発症させているのか,依然としてさっぱり判りにくい。この点だけははっきりしている。
いずれ,次代天皇の地位が予定されている人物の配偶者になる女性であるが,皇太子・妃から皇后になったら,この「雅子の立場」としては,もっと嫌なことばかりに囲まれることになるのか? それとも,いよいよ「私の時代」が来たといって大いに,昔の外務省勤めの経験を生かせる境遇が開けるのか?
雅子風刺画像
出所)http://ameblo.jp/9023410651/entry-11523618963.html
戦後70年の今年,戦争に関する展示や体験談を見聞きする機会を通じ,戦争の悲惨さ,平和の尊さにあらためて思いを深くされた。両陛下のパラオ訪問では「心をこめて戦没者を慰霊される姿に心を打たれました」と明かされた。
補注)先代の天皇裕仁は,帝国臣民の赤子だけでも3百万人以上もの戦争犠牲者を出していた。けれども,彼自身は結局,なんらその責任(罪?)は問われることも償うこともなく,1989年に他界していた。
これに対していまの天皇明仁とこの妻は,その歴史の事実を背負いながら,自分たちの人生を生きてきた面もある。いまの天皇明仁は妻の手伝いも受けながら,その後始末をいまもなお続行中なのである。
敗戦に遭遇していたものの,天皇家が「御家断絶」の目に遭わせられなかった経過に照らしていえば,天皇明仁夫婦によるその程度の巡礼の旅は,当然である債務履行の一端であるというほかない。
宮内庁によると,この1年,お住まいの東宮御所の外での活動は前年と同数だが,外国賓客との面会など東宮御所内での活動は,前年の30件から52件に増えた。ただ,治療にあたる東宮職医師団は「快復は着実に進んでいるものの,まだ途上にある」と従来と同様の見解を公表した
補注)雅子の〈病状〉(?)に関するこの表現;「快復は着実に進んでいるものの,まだ途上にあるという」ものは,不可解というか奇怪である。この表現をすなおに解釈すると,雅子は年がら年中というか,ともかく精神科に通わねばならないようなビョーキを恒常的にかかえている人だという観方が正しいことになる。
雅子がまだ子供を産めそうな時期であったが,その期待感が皇室ウォッチャーなどたちには強くあった。たしかに彼女は,まるで「女は借り腹である皇室の女性観」にはウンザリさせられたはずである。ひどい目に遭わされたし,精神的にも相当まいっていたはずである。
しかしだからといって,その後のいまの段階になってからの彼女は,そのツケを高利貸し的な感覚〔なのか〕で回収していくかのような行動を記録してきている。
宮内庁が国民側に向けて引いている「菊のカーテン」もあって,その真相は分かりにくい。だから,国民側の立場からすれば週刊誌的なのぞき見趣味での強い関心を,なおさら皇室に向けてもたざるをえない。
--以上『読売新聞』の記事をめぐる講釈的な記述であった。なお『読売新聞』のこの記事はさらに, “皇太子妃殿下お誕生日に際してのご感想” と題した項目(記事)も追加し,こちらでは3千字あまりを費やして紹介していた(ウェブ版での指摘)。
その要旨は,引用してきた記事のなかですでに言及されていたので,本日の記述はここまでとしたい。ただ,つぎの「禅問答」的な一段落のみ引用しておく。筆者の感性では理解・解釈のしようがない文句が羅列されている。
◆ 皇太子妃殿下のお誕生日に際しての
東宮職医師団見解 ◆
皇太子妃殿下におかれましては,これまで東宮職医師団として説明して参りました基本的な考え方を踏まえながら,本年も引きつづきご病気ご治療を継続していただいております。
--中略--
妃殿下には,このように,少しずつご活動の幅を広げられながら,着実に快復してこられています。同時に,妃殿下には,まだご療養中であり,行事が続いた場合にはお疲れが出ることもおありになります。
東宮職医師団(後段の補注を参照)としましては,妃殿下が公私にわたるお出ましを積み重ねられていることは望ましいことであると考えておりますが,
公的なご活動につきましては,引きつづき妃殿下のお気持やお考えをうかがいつつ,ご活動の内容,ご負担,ご体調などを専門的に勘案しながら対応をその都度考えていきたいと思います。
また,私的なご活動につきましては,拡充していっていただくことが大切だと考えております。
これまでも説明して参りましたとおり,妃殿下のご快復は着実に進んでいるものの,ご体調にはなお波がおありであり,まだ快復の途上にいらっしゃいます。こうしたなかで,過剰な期待をもたれることは,かえって逆効果となりうることを引きつづきご理解いただければと思います。
今後とも,周囲の方々の理解と支援を受けながら,ご治療を続けられることが大切です。皆さまにおかれましても,引きつづき温かい目で見守っていただきたくお願い申し上げます。 2015年12月09日 05時00分
補注)東宮職医師団とは,ある定義によれば,長くとも半年で快癒するはずの「適応障害」を,何年も引きずっている雅子について,2004年6月より治療を担当し,2005年以降彼女の病状に関する見解を発表している〈謎の集団〉のことを指す。
皇太子夫妻の健康管理について「東宮職医師団が責任をもって対応する」らしく,昭和天皇の病状発表をはじめとして,公人たる皇族の病気治療については,これまで必らず皇室医務主管が中心となり,担当医と治療方針が発表されている。
しかし,雅子夫人についてはそういったものが完全に公式には伏せられており,それを揶揄してスレ住民の間では「医師団ひとり」や「名もなき医師団」といった表現がされている。
註記)http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/東宮職医師団
ともかく,これからも引きつづき,このような雅子に関する「病状(?)」の理解が,いまさらのように延伸されていくものと,われわれの側からもあらためて,引きつづき予想しておく。
いつまで続けられていくのが,この「引きつづき」的な観察方法であるのか? 際限などつけようもないような,この「引きつづき」観である。
〈現状の様相〉は,なおもずっと,ただただ「引きつづけられていく」かのように映っている。ともかく,これからも当分は,引きつづけられていくのが「雅子の病状らしきモノ」らしいのだから,まさしく,引きつづき《皇族・天下の太平》。
『週刊朝日』2013 年3月8日号の新聞広告は「山折哲雄-『皇太子ご退位のすすめ』その現実味-」という記事が掲載していたが,前掲の画像でも分かるように,その宣伝文句を大きい白抜き活字で強調する表紙にしていた。いずれにせよ,この山折哲雄の提唱については事後しばらく,マスコミ・言論界において,賛否両論の意見が飛び交うことになるかもしれない(事後,それなりに波紋を拡げる結果になっていた)。
『週刊朝日』2013年3月8日号に掲載された記事「退位を求める声も出て……皇太子さま53歳の哀しき誕生日」は,別所において「皇太子夫妻の現場訪問の少なさは『勉強好き』が理由?」という見出しで,およそつぎのようにまとめて解説されている。
〔2013年〕2月23日,皇太子さまが53歳の誕生日を迎えた。いまの天皇陛下が,平成の御世を継いだ55歳という年齢に近づきつつある。そうしたなか,誕生日に公表された写真と動画に,ひとりぼっちの皇太子さまが写っていたことが関係者に波紋を広げている。また,公務へ積極性がみられないという指摘もある。
最近も,皇太子さまと雅子さまがそろって出かけるのは,愛子さまの学校行事や,愛子さまが所属するバスケットボール部の交流試合など,ほぼ家庭の行事に限られている。もちろん,これには雅子さまが長期療養中という事情も影響しているだろう。だが,宮内庁関係者は,現場での活動より,室内での勉強を好むというご夫妻の性格が,現場訪問の少なさにつながっているのではないかという。
皇太子さまは昨〔2012〕年1月,学習院女子大で「水災害とその歴史」 と題した特別講義をおこない,貞観地震など日本の歴史的な水災害を引用しつつ,東日本大震災を分析した。今年の誕生日会見でも,自身が名誉総裁を務める国連の 「水と衛生に関する諮問委員会」に言及し,水の研究という観点から,東日本大震災を見ていくと話している。3月6日には,ニューヨークの国連本部で開かれる「水と災害に関する特別会合」で,日本の災害の歴史について講演する予定だ。
「雅子さまも歴代天皇の祭祀にはほとんど出ませんが,事前に事跡を学ぶご進講には出ることもある。皇太子ご夫妻は,室内の勉強がお好きなタイプなのです」(宮内庁関係者)。誕生日会見で,皇太子さまは昨年春ごろから月に1回程度,秋篠宮さまと天皇陛下のもとを訪れ,象徴天皇としての体験や考えを聞いているとも明かした。「大変有意義なひととき」で「本当に参考になる」と感想を述べたが,「勉強」だけに終わらず,実際の行動につながるだろうか。
註記)http://dot.asahi.com/news/domestic/2013022500017.html 『週刊朝日』2013年3月8日号に紹介されている記事の概要から。
宮内庁も事実として説明するように,雅子は,宮中祭祀〔上述のとおり〈歴代天皇の祭祀〉〕 に出席せず,拒否している。現行における天皇・天皇制の枠組のなかでそもそも,「国家・国民の象徴であるとされる〈天皇〉」と「その一族」に関する報道が,ここに記述されているような中身となって公開・公表されることじたい,はたして適切であり,ふさわしいことなのか?
日本社会のなかで,このように考える人は,いないのか? この文章に記述されている中身は,厳密にいっても全部といっていいくらい,皇室一族の私的領域に属する問題のものではないのか? 「歴代の天皇に関する祭祀」もすべて,天皇家の私的行事である。かといって,天皇家の生活費は全部,国家の予算が充てられている。
ところが,冒頭でも触れたように宮内庁は,それを「公務など」と表現しておき,皇太子一家の毎年・毎月・毎日の行動もことこまかに情報開示している。これが日本という社会のなかに存在していないと,あたかも日本国の運営・管理すら円滑にいかない,とでもいいたげな「広報・宣伝の姿勢とその内容」である。
③『AERA』2013年3月4日号
さて『AERA』2013年3月4日号は「雅子さま,愛子さまがいない 皇太子まさ 53歳『お1人写真』の異様」と 題して,「2月23日に53歳の誕生日を迎えて皇太子さま。6月で結婚20周年。雅子さまのご病気で世間から隔絶されたご一家の報じられない日常とは」と問い,「職員にも心を閉ざして」「接するのは女官ばかり」「外国訪問が実現すれば」という3項目に分けて記事を書いていた。最後部にはこう書かれている。 「皇太子さまは,最近は秋篠宮さまと頻繁に御所を訪れ,天皇陛下と話す機会をもたれているという。皇室の今後をどのように話し合われているのだろうか」(75頁5段)。
しかし,われわれもともによく考えてみよう。ある意味では,もっとも「世間から隔絶された」世界が「東京都千代田区千代田に位置する皇居」や「港区の赤坂御用地」に実在する生活空間である。一般の世間というものが,いったいどのような実情になっているか,実は一番しらないのが皇族たちである。
小和田雅子が皇室一家に嫁入りしたものの,その内部事情=魑魅魍魎ぶり(これには姑の美智子がどのくらい苦労してきたか。→美智子のそのまた姑は「民間人(粉屋)の娘などを息子の嫁にとるなどケシカラヌ」と,その昔は息巻いていたほどである)からも分かるように,これは一般家庭でもよくある話のようでありながら,質的には相当に異なった「天皇制度の問題」が,叙上の居住地区内においては伏在しているとみてもよい。
雅子画像8
出所)1994年6月の画像,http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/43e72c6b7fe5b338cdf9994ad6ae3d7a
雅子はとくに,皇室のための「お世継ぎ問題」が世間でも騒がれていた時期〔結婚したのが1993年6月であり,ここではそれから世紀があらたまるころまでの期間とみておくが)を経てから,自分が『単なる人間製造装置である〈女性〉である事実』を,嫌というほど思いしらされた。
それ以降,彼女は「皇室アレルギー」とでも名づけたらよい『病気ならぬ病気』にかかってしまったと推察される。あくまで「病気ではない病状の発症」である。彼女が最近,皇室に対して「アンチ」の生活姿勢を一貫させているひとつの証拠は,なかでも「歴代天皇の祭祀」をおこなう宮中の行事〔これは「皇室の私的行事」である〕を,完全といっていいくらい 拒否・罷業(ボイコット)している点にみいだせる。それも多分「彼女は十分に意識して」,そう抵抗していると推測される。
雅子はこれまで,皇室に対するたった1人の抵抗運動を,内部の人間としておこなっている。その方法は,配偶者の皇太子徳仁〔いずれ次代の天皇になる予定の人物〕の,祖父以前に対して執りおこなわれている年中行事である「宮中祭祀」を拒絶するものである。この事実は,よりまともに認識されるべき余地がある。要は,彼女は 「反皇室の姿勢・旗幟」を明確に提示した。こうした「雅子理解」をおおげさというのであれば,そうではないという議論の展開と根拠の明示が要求される。
以上の理解を宮内庁側の説明に聞けば,これは「雅子の適応障害」だと答えているだけであるから,ずいぶんいいつくろっている。しかし,より正確にいえば問題の核心は,彼女の精神の「適応障害」ではなく,彼女の意思による皇室「適応拒否」にある。皇太子夫婦の妻:雅子に,こうした姿勢を構えさせるに至ってはいるものの,宮中祭祀が「公務」とはいえない「天皇家の神事:私事」であるかぎり,彼女が職務を拒否したり忌避したりしている,などと面と向って非難することはできない。このところが辛い。
とはいっても,国民の血税に裏づけられて生活が維持されている皇室一家であるから,ともかくも優雅な生活をしているように装い, 演じなければならない。それならばそれで,雅子のばあい思いきって離婚すればよいのである。
だが,そう簡単にもいかず,どこまでも・いつまでもきわめて中途半端な事態が, 牛の涎のように進行中である。この中途半端がすでに一昔は継続してきている。それでも彼女は,堅い意思をもって自分の立場を貫いている。この事実について は,彼女なりにきちんと決着を着ける時期が来ている。
ということで,山折哲雄もいいかげん,我慢ができずに「皇太子殿下,ご退位なさいませ」(『新潮45』2013年3 月号)を書いたのではないか?
いまのままでいけばいずれ,皇太子夫婦は天皇夫婦になる。歴代の天皇に対する宮中祭祀は「天皇家の私的行事」である〔→ 1947年以前はそうではなく,正式の「国家の行事」であった。それがためにいまもなお「その大きく太いシッポ」を引きずっている〕。現状では,雅子が宮中祭祀に出席しないと問題にされている。
けれども,歴史を現時点から逆方向に照射して観察すればよいのである。雅子はこの宮中祭祀の伝統を逆手にとって,もっといえば,アマテラス以下の神々を「人質みたいにりこみ」,皇族たちに対する『たった1人の反乱』を持続可能な方法で闘いつづけている。あえていってしまえば,このように解釈することもできるはずである。
山折哲雄「皇太子殿下,ご退位なさいませ」に込められた本心は,なにか? その本意は,天皇・天皇制というもの:この存在に対する基本的な疑念の表明を, 皇太子夫婦の最近における問題に藉口する格好で,表明したところにあるのではないか。ただし,日本の知識人として,表題い関する主張をそこまでを明確にいいきり,断言してしまうと,きっと 「あとが怖い」。この指摘が意味するところは,あえて説明する余地もあるまい。山折哲雄はりっぱな学術研究図書を数多く公刊している。
山折哲雄画像
出所)http://aada.at.webry.info/201202/article_24.html
たとえば『新装版 天皇の宗教的権威とは何か』(河出書房新社,1990年)は,こう論及している。
「津田左右吉の記紀神話論において」は,「今日まで一種の宗教的正統として継受されてきたところの皇祖皇宗を中心とする祖先崇拝が,実は政治的虚構の産物にすぎないものであった」ことが指摘されている。また,津田左右吉は「明治憲法の精神的中核となっている『皇室の機軸』という考え方がとりも直さず政治的虚構であるとし,また『祖宗の霊』といったような観念もけっしてオリジナルな正統性にもとづくものではないということを暴露していた」(133頁)。
「津田左右吉の歴史学的な観点からすれば,天皇家の万世一系性は,祖霊は神明には関係なく,あくまでミコト(人間)としての天皇の地位や永遠性にかかわるものであったはずだ,というのである」。「津田左右吉は,天皇の神性を否定し記紀神話の政治的虚構性を明らかにして点ではたしかに不敬不逞の学者であったかもしれないけれども,しかし天皇の地位の永遠性ということの歴史的因由を証明した点では,むしろ万世一系理念の根拠を積極的に逆証明してみせたのであ」 る(134頁)。
前段のとくに後半の記述(134頁)は, 分かりにくい。要するに,天皇家の歴史を神武天皇に求める虚構性を指摘している。が,それよりも,現在における「天皇の地位」に座しているその人物が,む しろ「地位の永遠性」を主張できると指摘している。この指摘の真意が十分に理解できる人にとってみれば,そしてその聞きようによっては,絶対に受け容れがたい主張にもなりうる。
とくに天皇崇拝に関して,紀元2673〔2016年であれば 2676〕年の悠久たる歴史を想像妊娠しつつ,皇室神道の幻影を宗教狂信的に実像化したい向きには,山折哲雄の学術研究にもとづく天皇・天皇制に対する理解は,大いに不満を抱かれる内容である。天皇・天皇制についての「山折哲雄の学問次元における主唱」は,格別むずかしい内容ではないが,天皇を無条件に崇拝する者たちにとっては,許容しがたい実質がある。
本ブログの筆者は以上のような理解をもって,今回の山折哲雄「皇太子殿下,ご退位なさいませ」『新潮45』の主張を読んでみた。とはいえ,山折の主張そのものにおいてもまた,その限界と制約と無理と困難がないわけではない。
「明治国家の過ち」(山折哲雄『天皇の宮中祭祀と日本人』日本文芸社,平成22年,270頁)は,いまなお「21世紀的に解決の困難な話題」を,日本の政治に供給しつづけているのである。換言すれば,その過ちは,現在における「日本の天皇・天皇制」にとってみれば,皇室の根幹に控えている桎梏を意味する。これに対しては非常な「危機感」を抱いている山折哲雄だからこそ,今回のような言論を披露したのではないか。
日本は日本製原爆の製造に成功と、その地上起爆に成功し、人類史上第1号の起爆によって「人体実験にも成功」した。正規兵の英国陸軍元帥だった昭和天皇は、原爆の特許の権利を得た。昭和天皇の死去後、その権利は今上天皇に継承された
「雅子さま,52歳」(『朝日新聞』2015年12月9日朝刊)
1) 記事本文
皇太子妃雅子さまが12月9日,52歳の誕生日を迎え,宮内庁を通じて感想を文書で発表した。長期療養が続く自身の活動について「体調に気をつけながら,公私にわたってできるかぎりの務めを果たそうと努めて参りました」と言及。
『朝日新聞』2015年12月5日朝刊 7月のトンガ,10月の福島,鹿児島両県訪問に触れ「多くの方々に温かく迎えていただきましたことは,私にとりましてとても大きな励みになりました」とつづった。
戦後70年の今年,皇太子さまや長女愛子さまと戦争関連の展示をみて,「戦争の悲惨さと平和の尊さにあらためて思いを深くいたしました」と記した。
宮内庁によると,この1年,雅子さまの東宮御所内での行事は52件で,昨〔2014〕年の30件から大幅に増えた。内訳では「赴任大使接見」が2013件(昨年4件),「御進講」が9件(同2件)など。東宮職トップ・小町恭士東宮大夫は「努力と工夫を重ねられ,ご活動の幅を広げておられます」と雅子さまの様子を紹介した。(島康彦)
2) 皇族は「身分の高い人」(?!)
ところで,赴任大使に対する接見(「身分の高い人」が公式に会見することで,引見ともいう)する政治的な行為を,皇太子(天皇の後継予定者)とその妻も担当するというのは,日本国憲法において想定されていない,その指示も規定もない「皇太子家のお仕事」といえそうである。
いつのまにか,皇太子の妻までもが「身分の高い人」となって,そのような〈お仕事〉を,皇族(身分の高い人-皇太子と結婚してそういう身分になった-)たちが適当に分担している様子は,はたして日本国憲法をどのように受けとめ解釈するにせよ,疑問の余地が大きい。この種の疑問が生まれて当然である。あとは,問題意識の構えとその程度によっては,いろいろ議論が発展していく論点にもなる。
いまのマスコミ,それも大手新聞社が皇室関連記事を宮内庁の手配にもとづきながら,天皇家一族の行動・行為をいちいち日常的に報道するのは,明治以来に『創られた天皇・天皇制』を,民主主義政治理念とは別個でありながら,同時にまた,抱きあわせにもするかっこうで,日本国民たちに対してはこれからも,その「国体」(旧式のこれでしかない実体)と「皇統の連綿性」の枠組意識を,維持・発展させよう〔=刷りこみつづけよう〕と狙っているからである。
3) 2015年天皇家主催;秋の園遊会
雅子が2015年秋の園遊会では,わずか10分だけ顔をみせ,引き下がっていた事実は,本ブログ 2015年11月14日「雅子がこの秋の園遊会に出席しえたという〈慶賀〉について」,副題「皇太子「妃」が「雌伏の12年」を克服したとでもいいたいのか」で,批判的に考察してみた。
あるテレビ局によるネット・ニュースは,その園遊会に,ごく短時間だけ出席した雅子の動向について,こう要約する報道をしていた。
天皇皇后両陛下主催の秋の園遊会が赤坂御苑で開かれ,皇太子妃雅子さまが12年ぶりに出席された。当初,式典のみ出席予定だったが,雅子さまは招待客らが並ぶ道筋を歩き,笑顔で会釈やあいさつの言葉を交わしたのち,途中で一礼して退出された。
註記)http://www.news24.jp/articles/2015/11/12/07314674.html つぎの画像もここから。(画面 クリックで 拡大・可)
0テレニュース242015年12月11月12日1624
雅子は天皇夫婦から,少しのあいだでもいいからこの園遊会に顔を出してみたらといわれ,しかたなく10分間という短時間の〈お出まし〉になったという事情があったらしい。
皇室主催の園遊会が政治的な意味あいをまったくもたないとはいえまい。なにせ,天皇という存在・地位は,日本国憲法の第1条から第8条までも条文を充てて,あれこれ規定しているほどである。
だが,皇太子とこの妻が,皇室の人間としてなにをなすべきという関連での規定は,皇太子が天皇の息子として,天皇が不在のときにこなす臨時代理代行の任務・仕事以外,とくに法律的に指示されておらず,したがって義務づけられているものは「本当はなにもない」〔はずである〕。
4) 皇太子・妃「雅子」に公務があるのか
だから,あるブログの記述中には,つぎのような〈文句〉が並べられている。
内廷皇族である天皇陛下と皇太子殿下にしかできない「公務」はあっても,宮家にしかできない「公務」や絶対にすべき「公務」は存在しません。
雅子様をバッシングするために用いられる「公務」と呼ばれているものは,その多くが「私的行為」の範疇に入るべきものであって,(とくに観劇や展覧会などの鑑賞公務や動物園や水族館を回るお楽しみ公務などは)国事行為や宮中行事,祭祀などの公務とは性質が異なります。
「皇族は国民の年金で養われているんだから,もっと公務に励め!」などのように,「公務」=皇族の仕事と考えている人が一部にみられます。どうやら収入をえる対価として「公務」をしろ,ということらしいですね。
註記)http://nikkorinikorin-rinrin.blog.jp/archives/1003260361.html 「『公務』は皇族の仕事?」『お日様ぽかぽか』(May 21, 2014 16:35)。
以上のうちで,雅子やその夫も共有できている「お楽しみ公務」は,「国事行為や宮中行事,祭祀などの公務とは性質が異なります」と断わられている。けれども,憲法で規定されている「国事行為」(天皇用の)そのものは公務でありえても,皇室内の「宮中行事,祭祀などの公務」は,実は公務ではない。
それは,天皇家(私家)の祭事であっても,国民のためのそれではないのである。国民たちのために天皇が皇室神道的に祈祷する宗教行為だとしたら,政教一致どころか,国民たちに対する「国家的な皇室神道」の,一方的かつ押しつけ,勝手な強制になる。
補注)専門的な議論については,園部逸夫『皇室制度を考える』(中央公論新社,2007年)が勉強になる。皇室・皇族・天皇家に関する公務関連の分析・解明については,もっと意識的・客体的に究明されてよい。タブー視するようであってはならない。
a) 園部逸夫『皇室制度を考える』2007年の内容説明 皇位継承制度,皇族制度など,ぜひともしっておきたい皇室制度の基本的な仕組を解説し,近年のさまざまな議論の視点や考え方を明快に整理する。
b) 主要目次
第1章 天皇の地位と行為 第2章 皇位の継承のあり方
第3章 皇族制度について 第4章 皇室の経済基盤,皇室の諸制度
陵墓とその管理をどう考えるか 皇室会議の位置づけと役割
皇室の法制度とお世話体制は十分か
c) 著者紹介 園部逸夫[ソノベ・イツオ]は1929年生まれ,岐阜県出身。1954年京都大学法学部卒業,法学博士。京都大学助教授,東京地裁・東京高裁・前橋地裁(部総括)判事,最高裁上席調査官,東京地裁(部総括)判事。
その後,筑波大学教授,成蹊大学教授を経て,1989年最高裁判所判事(1999年3月まで),1995年皇室会議議員(1999年3月まで),2001年叙勲(勲一等瑞宝章),2005年「皇室典範に関する有識者会議」座長代理。弁護士,立命館大学大学院客員教授,外務省参与。
d) 出版社内容情報 近年,さまざまな立場から活発に議論されている皇室制度。その論点を整理・検証し,皇室制度について考えるさいの基礎知識を網羅する。
園部逸夫は立場上,皇室問題を真っ向から批判できる思想は示せず,極力客観的な説明に終始していて,たいへん勉強になる著作を公刊している。だが,その体制派的な限界も明らかに併有させている。
②「雅子さま52歳に トンガ訪問『大きな励み』」(『日本経済新聞』2015年12月9日朝刊)
皇太子妃雅子さまは12月9日,52歳の誕生日を迎えられた。療養生活が続くなか,今〔2016〕年はご夫妻でトンガへの公式訪問や福島,鹿児島両県での地方公務も果たされた。宮内庁東宮職を通じて誕生日の感想を公表し,「多くの方々に温かく迎えていただきましたことは,私にとりましてとても大きな励みになりました」とつづられた。
日本経済新聞2015年12月9日朝刊雅子誕生日52歳
東宮職によると,東宮御所内での公務への出席は昨〔2014〕年より大幅に増えている。雅子さまは「今後とも,多くの方々からのお力添えをいただきながら,快復に向けての努力を続けていきたい」と述べられた。
補注)ここで「大幅に増えている」点は,① の『朝日新聞』がその回数の増加を数字に出して報道していた。また東宮職についてウィキペディアは,簡単にこう説明している。
「東宮職(とうぐうしき,とうぐうしょく)」とは,歴史的につぎの3点をもって注目すべき宮内庁(戦前・戦中・敗戦直後までは宮内省)内の地位(職位)である。
イ) 律令制においては,東宮傅・東宮学士を春宮坊と区別して呼んだ呼称。皇太子の教育・補導を担当した
ロ) 明治22〔1889〕年,従来の春宮坊(江戸時代末期まで令制の規定のまま存続してきた制度下の地位・職位)に代わって宮内省に設置された機関。
ハ) 現在の宮内庁の東宮職。
--1889年は,大日本帝国憲法が公布(2月11日)され,施行(11月29日)された年であった。この年においては同時に「皇室典範」も,その2月11日に裁定(勅定)されていた。現在の皇室典範(1947年1月16日法律第3号)は,日本国憲法第2条及び第5条にもとづき,皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。
しかし,その実質的な規定内容は,明治以来の本質的性格を払拭しきれていないままである。そもそも,皇室・皇族という特権的な階級(階層)を残した占領軍による敗戦措置(戦後処分)が,不徹底であった。この〈おかげ〉で,本日に記述しているような天皇家の話題が,いつまで経っても再生産されつづける基盤を提供している。
日本国憲法において “平等原則,貴族制度の否認及び栄典の限界” を定めている「第14条」は「すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない」し,その「2 華族その他の貴族の制度は,これを認めない」と,きっぱり断わっているものの,実際においては,いままでも一部では「それを認めている」現状:実体でありつづけてきた。
天皇・天皇制を熱烈に支持する人たちに対して,皇室や皇族の存在が「法の下に平等」であるのか,そして「……性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない」とする決まりに抵触しないかと問えば,おそらく答えに詰まる。それだけでなく,「オマエたちはなにも判っていない」「不敬意識にまみれた国賊・不逞のやからだ」と,彼らからは逆に怒鳴りかえされるのがオチである。
門地とは「人の出生によって当然に生じる社会的地位」のことで,いわゆる「家柄」とか「生れ」がこれにあたる。日本国憲法は門地による差別を明文で禁止している(14条1項,44条)」(『ブリタニカ国際大百科事典・小項目事典』参照)。だが,天皇も皇太子も,自分の「出生によって当然に生じる社会的地位」を与えられていた。それゆえ,日本国憲法内にはいまだに,『みごとなまでに矛盾する条項同士が厳然と混在する』わけである。
だいぶ横道にそれたような記述になった。記事本文に戻る( ↓ )。
〔記事本文に戻る→〕 戦後70年の今〔2015〕年は,ご一家で戦争体験者から直接話を聴かれる機会も。長女,愛子さまについて「戦争の歴史や,戦後の荒廃のなかから日本がどのように復興を遂げてきたかについて,関心をもって学び,理解を深めてくれたものと感じています」と紹介された。
補注)この種の話題,いいかえると大日本帝国の敗戦体験によって,皇室・皇族たちが実際に,どのような「戦争体験」をしてきたかも聞きたくなる。
昭和天皇の生涯に関する膨大な「キレイゴト・中心史観」の見地にもとづく『昭和天皇実録』(2015年3月から東京書籍が刊行しだしている)では,いちばん肝心でもっとも聞いてみたい核心は意図的にぼやけさせてしか記述されないか,あるいは触れられない(完黙状態)。
そのあたりに関する昭和天皇に関する議論については,すでに膨大な研究が蓄積されており,専門研究者でも骨の折れる〔やりがいのある〕仕事を,天皇裕仁という人物は提供してくれている。
明治以来,古代史的な宗教舞台を真似した祭祀様式に舞い戻されつつも,近代化したつもりの日本の政治機構は,当時において米欧がすでに到達していた近代市民主義原理にもとづく国家政治体制をひどく嫌い,あえて反封建的で非合理的な,それも国家神道と皇室神道による政教一致(口先では政教分離を唱えていたが)を国民に強いる宗教的な国家政治体制を創っていった。
戦前・戦中は「神道非宗教論」が強引に理屈として提唱されていた。だが,これほど自家撞着を充満させた定義は,ほかにはなかったと断定されてよい。
敗戦後におけるGHQ(前面にはマッカーサー,背面にはアメリカ政府)の意向(占領方針)は,天皇・天皇制を日本国民支配のための道具(ビンのふた)に使う点にあった。そして,いまもなお,自国(アメリカ合衆国内)の基地であるかのように「在日米軍基地」は,日本の国内の特定地域を占有して利用しつづけている。
アメリカは,日本の首根っこを押さえこむ国際政治関係(その代表=犠牲にさせられているのが沖縄県)を体現させながら,この日本を米国に下属させつづける属国体制を堅持してきた。これからも当分(何十年か)はつづくほかない。
そうした事実は,以下のごとき歴史の過程に現象していた。
★-1 大日本帝国は1945年8月(9月)に敗北したさい,『天皇・天皇制の皇統連綿性』だけ,つまり,天皇家の「もっとも基本的で最低限の願い=命乞い」は「聞きいれられていた」という事情・条件が生じていた。
★-2 だが国体の側,つまり,日本全体が明治維新で新たに創りだした「前述のごとき政治機構」,いいかえれば「帝国臣民=天皇の赤子たち側の事情・条件」は,もののみごとに切り捨てられていた。
★-3 天皇裕仁は戦争責任問題を追及されることがなかった。ただし,明治憲法以来の神権天皇から敗戦後の新憲法における象徴天皇に,その天皇の地位・性格を変えさせられていた。
だがそれでは,日本国憲法内に書かれている門地の問題が根本から解決・解消することはありえなかった。「人の出生によって当然に生じる特別の社会的地位」をもつ天皇・天皇家(皇族)や華族(貴族)たちのうち,後者は消滅させられたが,前者は敗戦後も生存させられていった。
〔記事本文に戻る→〕 皇后さまが心筋虚血の疑いと診断されたことにも触れ,「心からご案じ申し上げております」と体調を気遣われた。東宮職医師団は雅子さまの病状について「快復は着実に進んでいるものの,まだ快復の途上」との見解を公表した。
③「雅子さま,52歳…秋の園遊会出席の喜びつづる」(『読売新聞』2015年12月9日朝刊)
さきに断わっておくが,この『読売新聞』の雅子に対する報道内容(ウェッブ版で接したものだが)は,『朝日新聞』や『日本経済新聞』比較するに相当,字数が多い。『読売新聞』の特徴だといえばそれまでのことであるが,これは〈皇室賛美・ヨイショの報道体制〉が,ヨリめだつ記事制作面の特徴だと観ておく余地もある。
『読売新聞』2015年12月5日朝刊雅子記事画像
--皇太子妃雅子さまは12月9日,52歳の誕生日を迎え,文書で感想を公表された。12年ぶりに参加した今秋の園遊会について,「天皇皇后両陛下の温かいお心遣いをいただきながら出席できました」と喜びをつづられた。
補注)雅子がそこまでそのお心遣いに〈喜び〉の気分を抱いていて,また「秋の園遊会への出席」でもってこれに応えることができたというのであれば,この秋の園遊会にたった10分だけ居てから,すぐに「イチ抜けた」かの要領で消え去った姿勢は,第3者にはなかなか解せないものである。彼女の本心がどういうものであったかは,察しようもないことがらである。
ここでは,彼女の口先から出てくる《ことばのかたまり》と,実際にみせておこなっている行動とのあいだには,常人には理解しにくい「感情なり行動なりの魂胆・意思」が隠されていると推察しておくほかない。
療養が続くなか,今〔2015〕年7月に,皇太子さまとトンガを訪問。10月は,福島県の復興状況を視察,鹿児島市で国民文化祭の開会式にも出席し,徐々に活動の幅を広げられている。訪問先で多くの人びとに温かく迎えられ,「大きな励みになりました」と感謝された。
補注)雅子は自分のその療養を理由にうまく使いながら,これは周囲から観る判断でしかないけれども,いわばえり好み的にいわゆる「ご公務」をいくつかはこなしているようである。
彼女の健康状態に関して宮内庁が発表する中身は,一般庶民の理解力をもってしては,なんとも諒解しがたい〈病状〉(?)なのである。それにしてもわれわれが聞ける範囲内では,いったい,なんの・どのようなビョーキを彼女が発症させているのか,依然としてさっぱり判りにくい。この点だけははっきりしている。
いずれ,次代天皇の地位が予定されている人物の配偶者になる女性であるが,皇太子・妃から皇后になったら,この「雅子の立場」としては,もっと嫌なことばかりに囲まれることになるのか? それとも,いよいよ「私の時代」が来たといって大いに,昔の外務省勤めの経験を生かせる境遇が開けるのか?
雅子風刺画像
出所)http://ameblo.jp/9023410651/entry-11523618963.html
戦後70年の今年,戦争に関する展示や体験談を見聞きする機会を通じ,戦争の悲惨さ,平和の尊さにあらためて思いを深くされた。両陛下のパラオ訪問では「心をこめて戦没者を慰霊される姿に心を打たれました」と明かされた。
補注)先代の天皇裕仁は,帝国臣民の赤子だけでも3百万人以上もの戦争犠牲者を出していた。けれども,彼自身は結局,なんらその責任(罪?)は問われることも償うこともなく,1989年に他界していた。
これに対していまの天皇明仁とこの妻は,その歴史の事実を背負いながら,自分たちの人生を生きてきた面もある。いまの天皇明仁は妻の手伝いも受けながら,その後始末をいまもなお続行中なのである。
敗戦に遭遇していたものの,天皇家が「御家断絶」の目に遭わせられなかった経過に照らしていえば,天皇明仁夫婦によるその程度の巡礼の旅は,当然である債務履行の一端であるというほかない。
宮内庁によると,この1年,お住まいの東宮御所の外での活動は前年と同数だが,外国賓客との面会など東宮御所内での活動は,前年の30件から52件に増えた。ただ,治療にあたる東宮職医師団は「快復は着実に進んでいるものの,まだ途上にある」と従来と同様の見解を公表した
補注)雅子の〈病状〉(?)に関するこの表現;「快復は着実に進んでいるものの,まだ途上にあるという」ものは,不可解というか奇怪である。この表現をすなおに解釈すると,雅子は年がら年中というか,ともかく精神科に通わねばならないようなビョーキを恒常的にかかえている人だという観方が正しいことになる。
雅子がまだ子供を産めそうな時期であったが,その期待感が皇室ウォッチャーなどたちには強くあった。たしかに彼女は,まるで「女は借り腹である皇室の女性観」にはウンザリさせられたはずである。ひどい目に遭わされたし,精神的にも相当まいっていたはずである。
しかしだからといって,その後のいまの段階になってからの彼女は,そのツケを高利貸し的な感覚〔なのか〕で回収していくかのような行動を記録してきている。
宮内庁が国民側に向けて引いている「菊のカーテン」もあって,その真相は分かりにくい。だから,国民側の立場からすれば週刊誌的なのぞき見趣味での強い関心を,なおさら皇室に向けてもたざるをえない。
--以上『読売新聞』の記事をめぐる講釈的な記述であった。なお『読売新聞』のこの記事はさらに, “皇太子妃殿下お誕生日に際してのご感想” と題した項目(記事)も追加し,こちらでは3千字あまりを費やして紹介していた(ウェブ版での指摘)。
その要旨は,引用してきた記事のなかですでに言及されていたので,本日の記述はここまでとしたい。ただ,つぎの「禅問答」的な一段落のみ引用しておく。筆者の感性では理解・解釈のしようがない文句が羅列されている。
◆ 皇太子妃殿下のお誕生日に際しての
東宮職医師団見解 ◆
皇太子妃殿下におかれましては,これまで東宮職医師団として説明して参りました基本的な考え方を踏まえながら,本年も引きつづきご病気ご治療を継続していただいております。
--中略--
妃殿下には,このように,少しずつご活動の幅を広げられながら,着実に快復してこられています。同時に,妃殿下には,まだご療養中であり,行事が続いた場合にはお疲れが出ることもおありになります。
東宮職医師団(後段の補注を参照)としましては,妃殿下が公私にわたるお出ましを積み重ねられていることは望ましいことであると考えておりますが,
公的なご活動につきましては,引きつづき妃殿下のお気持やお考えをうかがいつつ,ご活動の内容,ご負担,ご体調などを専門的に勘案しながら対応をその都度考えていきたいと思います。
また,私的なご活動につきましては,拡充していっていただくことが大切だと考えております。
これまでも説明して参りましたとおり,妃殿下のご快復は着実に進んでいるものの,ご体調にはなお波がおありであり,まだ快復の途上にいらっしゃいます。こうしたなかで,過剰な期待をもたれることは,かえって逆効果となりうることを引きつづきご理解いただければと思います。
今後とも,周囲の方々の理解と支援を受けながら,ご治療を続けられることが大切です。皆さまにおかれましても,引きつづき温かい目で見守っていただきたくお願い申し上げます。 2015年12月09日 05時00分
補注)東宮職医師団とは,ある定義によれば,長くとも半年で快癒するはずの「適応障害」を,何年も引きずっている雅子について,2004年6月より治療を担当し,2005年以降彼女の病状に関する見解を発表している〈謎の集団〉のことを指す。
皇太子夫妻の健康管理について「東宮職医師団が責任をもって対応する」らしく,昭和天皇の病状発表をはじめとして,公人たる皇族の病気治療については,これまで必らず皇室医務主管が中心となり,担当医と治療方針が発表されている。
しかし,雅子夫人についてはそういったものが完全に公式には伏せられており,それを揶揄してスレ住民の間では「医師団ひとり」や「名もなき医師団」といった表現がされている。
註記)http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/東宮職医師団
ともかく,これからも引きつづき,このような雅子に関する「病状(?)」の理解が,いまさらのように延伸されていくものと,われわれの側からもあらためて,引きつづき予想しておく。
いつまで続けられていくのが,この「引きつづき」的な観察方法であるのか? 際限などつけようもないような,この「引きつづき」観である。
〈現状の様相〉は,なおもずっと,ただただ「引きつづけられていく」かのように映っている。ともかく,これからも当分は,引きつづけられていくのが「雅子の病状らしきモノ」らしいのだから,まさしく,引きつづき《皇族・天下の太平》。
『週刊朝日』2013 年3月8日号の新聞広告は「山折哲雄-『皇太子ご退位のすすめ』その現実味-」という記事が掲載していたが,前掲の画像でも分かるように,その宣伝文句を大きい白抜き活字で強調する表紙にしていた。いずれにせよ,この山折哲雄の提唱については事後しばらく,マスコミ・言論界において,賛否両論の意見が飛び交うことになるかもしれない(事後,それなりに波紋を拡げる結果になっていた)。
『週刊朝日』2013年3月8日号に掲載された記事「退位を求める声も出て……皇太子さま53歳の哀しき誕生日」は,別所において「皇太子夫妻の現場訪問の少なさは『勉強好き』が理由?」という見出しで,およそつぎのようにまとめて解説されている。
〔2013年〕2月23日,皇太子さまが53歳の誕生日を迎えた。いまの天皇陛下が,平成の御世を継いだ55歳という年齢に近づきつつある。そうしたなか,誕生日に公表された写真と動画に,ひとりぼっちの皇太子さまが写っていたことが関係者に波紋を広げている。また,公務へ積極性がみられないという指摘もある。
最近も,皇太子さまと雅子さまがそろって出かけるのは,愛子さまの学校行事や,愛子さまが所属するバスケットボール部の交流試合など,ほぼ家庭の行事に限られている。もちろん,これには雅子さまが長期療養中という事情も影響しているだろう。だが,宮内庁関係者は,現場での活動より,室内での勉強を好むというご夫妻の性格が,現場訪問の少なさにつながっているのではないかという。
皇太子さまは昨〔2012〕年1月,学習院女子大で「水災害とその歴史」 と題した特別講義をおこない,貞観地震など日本の歴史的な水災害を引用しつつ,東日本大震災を分析した。今年の誕生日会見でも,自身が名誉総裁を務める国連の 「水と衛生に関する諮問委員会」に言及し,水の研究という観点から,東日本大震災を見ていくと話している。3月6日には,ニューヨークの国連本部で開かれる「水と災害に関する特別会合」で,日本の災害の歴史について講演する予定だ。
「雅子さまも歴代天皇の祭祀にはほとんど出ませんが,事前に事跡を学ぶご進講には出ることもある。皇太子ご夫妻は,室内の勉強がお好きなタイプなのです」(宮内庁関係者)。誕生日会見で,皇太子さまは昨年春ごろから月に1回程度,秋篠宮さまと天皇陛下のもとを訪れ,象徴天皇としての体験や考えを聞いているとも明かした。「大変有意義なひととき」で「本当に参考になる」と感想を述べたが,「勉強」だけに終わらず,実際の行動につながるだろうか。
註記)http://dot.asahi.com/news/domestic/2013022500017.html 『週刊朝日』2013年3月8日号に紹介されている記事の概要から。
宮内庁も事実として説明するように,雅子は,宮中祭祀〔上述のとおり〈歴代天皇の祭祀〉〕 に出席せず,拒否している。現行における天皇・天皇制の枠組のなかでそもそも,「国家・国民の象徴であるとされる〈天皇〉」と「その一族」に関する報道が,ここに記述されているような中身となって公開・公表されることじたい,はたして適切であり,ふさわしいことなのか?
日本社会のなかで,このように考える人は,いないのか? この文章に記述されている中身は,厳密にいっても全部といっていいくらい,皇室一族の私的領域に属する問題のものではないのか? 「歴代の天皇に関する祭祀」もすべて,天皇家の私的行事である。かといって,天皇家の生活費は全部,国家の予算が充てられている。
ところが,冒頭でも触れたように宮内庁は,それを「公務など」と表現しておき,皇太子一家の毎年・毎月・毎日の行動もことこまかに情報開示している。これが日本という社会のなかに存在していないと,あたかも日本国の運営・管理すら円滑にいかない,とでもいいたげな「広報・宣伝の姿勢とその内容」である。
③『AERA』2013年3月4日号
さて『AERA』2013年3月4日号は「雅子さま,愛子さまがいない 皇太子まさ 53歳『お1人写真』の異様」と 題して,「2月23日に53歳の誕生日を迎えて皇太子さま。6月で結婚20周年。雅子さまのご病気で世間から隔絶されたご一家の報じられない日常とは」と問い,「職員にも心を閉ざして」「接するのは女官ばかり」「外国訪問が実現すれば」という3項目に分けて記事を書いていた。最後部にはこう書かれている。 「皇太子さまは,最近は秋篠宮さまと頻繁に御所を訪れ,天皇陛下と話す機会をもたれているという。皇室の今後をどのように話し合われているのだろうか」(75頁5段)。
しかし,われわれもともによく考えてみよう。ある意味では,もっとも「世間から隔絶された」世界が「東京都千代田区千代田に位置する皇居」や「港区の赤坂御用地」に実在する生活空間である。一般の世間というものが,いったいどのような実情になっているか,実は一番しらないのが皇族たちである。
小和田雅子が皇室一家に嫁入りしたものの,その内部事情=魑魅魍魎ぶり(これには姑の美智子がどのくらい苦労してきたか。→美智子のそのまた姑は「民間人(粉屋)の娘などを息子の嫁にとるなどケシカラヌ」と,その昔は息巻いていたほどである)からも分かるように,これは一般家庭でもよくある話のようでありながら,質的には相当に異なった「天皇制度の問題」が,叙上の居住地区内においては伏在しているとみてもよい。
雅子画像8
出所)1994年6月の画像,http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/43e72c6b7fe5b338cdf9994ad6ae3d7a
雅子はとくに,皇室のための「お世継ぎ問題」が世間でも騒がれていた時期〔結婚したのが1993年6月であり,ここではそれから世紀があらたまるころまでの期間とみておくが)を経てから,自分が『単なる人間製造装置である〈女性〉である事実』を,嫌というほど思いしらされた。
それ以降,彼女は「皇室アレルギー」とでも名づけたらよい『病気ならぬ病気』にかかってしまったと推察される。あくまで「病気ではない病状の発症」である。彼女が最近,皇室に対して「アンチ」の生活姿勢を一貫させているひとつの証拠は,なかでも「歴代天皇の祭祀」をおこなう宮中の行事〔これは「皇室の私的行事」である〕を,完全といっていいくらい 拒否・罷業(ボイコット)している点にみいだせる。それも多分「彼女は十分に意識して」,そう抵抗していると推測される。
雅子はこれまで,皇室に対するたった1人の抵抗運動を,内部の人間としておこなっている。その方法は,配偶者の皇太子徳仁〔いずれ次代の天皇になる予定の人物〕の,祖父以前に対して執りおこなわれている年中行事である「宮中祭祀」を拒絶するものである。この事実は,よりまともに認識されるべき余地がある。要は,彼女は 「反皇室の姿勢・旗幟」を明確に提示した。こうした「雅子理解」をおおげさというのであれば,そうではないという議論の展開と根拠の明示が要求される。
以上の理解を宮内庁側の説明に聞けば,これは「雅子の適応障害」だと答えているだけであるから,ずいぶんいいつくろっている。しかし,より正確にいえば問題の核心は,彼女の精神の「適応障害」ではなく,彼女の意思による皇室「適応拒否」にある。皇太子夫婦の妻:雅子に,こうした姿勢を構えさせるに至ってはいるものの,宮中祭祀が「公務」とはいえない「天皇家の神事:私事」であるかぎり,彼女が職務を拒否したり忌避したりしている,などと面と向って非難することはできない。このところが辛い。
とはいっても,国民の血税に裏づけられて生活が維持されている皇室一家であるから,ともかくも優雅な生活をしているように装い, 演じなければならない。それならばそれで,雅子のばあい思いきって離婚すればよいのである。
だが,そう簡単にもいかず,どこまでも・いつまでもきわめて中途半端な事態が, 牛の涎のように進行中である。この中途半端がすでに一昔は継続してきている。それでも彼女は,堅い意思をもって自分の立場を貫いている。この事実について は,彼女なりにきちんと決着を着ける時期が来ている。
ということで,山折哲雄もいいかげん,我慢ができずに「皇太子殿下,ご退位なさいませ」(『新潮45』2013年3 月号)を書いたのではないか?
いまのままでいけばいずれ,皇太子夫婦は天皇夫婦になる。歴代の天皇に対する宮中祭祀は「天皇家の私的行事」である〔→ 1947年以前はそうではなく,正式の「国家の行事」であった。それがためにいまもなお「その大きく太いシッポ」を引きずっている〕。現状では,雅子が宮中祭祀に出席しないと問題にされている。
けれども,歴史を現時点から逆方向に照射して観察すればよいのである。雅子はこの宮中祭祀の伝統を逆手にとって,もっといえば,アマテラス以下の神々を「人質みたいにりこみ」,皇族たちに対する『たった1人の反乱』を持続可能な方法で闘いつづけている。あえていってしまえば,このように解釈することもできるはずである。
山折哲雄「皇太子殿下,ご退位なさいませ」に込められた本心は,なにか? その本意は,天皇・天皇制というもの:この存在に対する基本的な疑念の表明を, 皇太子夫婦の最近における問題に藉口する格好で,表明したところにあるのではないか。ただし,日本の知識人として,表題い関する主張をそこまでを明確にいいきり,断言してしまうと,きっと 「あとが怖い」。この指摘が意味するところは,あえて説明する余地もあるまい。山折哲雄はりっぱな学術研究図書を数多く公刊している。
山折哲雄画像
出所)http://aada.at.webry.info/201202/article_24.html
たとえば『新装版 天皇の宗教的権威とは何か』(河出書房新社,1990年)は,こう論及している。
「津田左右吉の記紀神話論において」は,「今日まで一種の宗教的正統として継受されてきたところの皇祖皇宗を中心とする祖先崇拝が,実は政治的虚構の産物にすぎないものであった」ことが指摘されている。また,津田左右吉は「明治憲法の精神的中核となっている『皇室の機軸』という考え方がとりも直さず政治的虚構であるとし,また『祖宗の霊』といったような観念もけっしてオリジナルな正統性にもとづくものではないということを暴露していた」(133頁)。
「津田左右吉の歴史学的な観点からすれば,天皇家の万世一系性は,祖霊は神明には関係なく,あくまでミコト(人間)としての天皇の地位や永遠性にかかわるものであったはずだ,というのである」。「津田左右吉は,天皇の神性を否定し記紀神話の政治的虚構性を明らかにして点ではたしかに不敬不逞の学者であったかもしれないけれども,しかし天皇の地位の永遠性ということの歴史的因由を証明した点では,むしろ万世一系理念の根拠を積極的に逆証明してみせたのであ」 る(134頁)。
前段のとくに後半の記述(134頁)は, 分かりにくい。要するに,天皇家の歴史を神武天皇に求める虚構性を指摘している。が,それよりも,現在における「天皇の地位」に座しているその人物が,む しろ「地位の永遠性」を主張できると指摘している。この指摘の真意が十分に理解できる人にとってみれば,そしてその聞きようによっては,絶対に受け容れがたい主張にもなりうる。
とくに天皇崇拝に関して,紀元2673〔2016年であれば 2676〕年の悠久たる歴史を想像妊娠しつつ,皇室神道の幻影を宗教狂信的に実像化したい向きには,山折哲雄の学術研究にもとづく天皇・天皇制に対する理解は,大いに不満を抱かれる内容である。天皇・天皇制についての「山折哲雄の学問次元における主唱」は,格別むずかしい内容ではないが,天皇を無条件に崇拝する者たちにとっては,許容しがたい実質がある。
本ブログの筆者は以上のような理解をもって,今回の山折哲雄「皇太子殿下,ご退位なさいませ」『新潮45』の主張を読んでみた。とはいえ,山折の主張そのものにおいてもまた,その限界と制約と無理と困難がないわけではない。
「明治国家の過ち」(山折哲雄『天皇の宮中祭祀と日本人』日本文芸社,平成22年,270頁)は,いまなお「21世紀的に解決の困難な話題」を,日本の政治に供給しつづけているのである。換言すれば,その過ちは,現在における「日本の天皇・天皇制」にとってみれば,皇室の根幹に控えている桎梏を意味する。これに対しては非常な「危機感」を抱いている山折哲雄だからこそ,今回のような言論を披露したのではないか。
日本は日本製原爆の製造に成功と、その地上起爆に成功し、人類史上第1号の起爆によって「人体実験にも成功」した。正規兵の英国陸軍元帥だった昭和天皇は、原爆の特許の権利を得た。昭和天皇の死去後、その権利は今上天皇に継承された