G5の合意(プラザ合意)に基づき、欧米諸国は減税を中心とする税制改革、金融の弾力的運用などによって内需の拡大努力を実施することになった。一方日本は、住宅問題に焦点を合わせ、宅地開発の規制の緩和、地方自治体による公共投資、金利引き下げなどの
手段で、内需拡大を実施する意向を示した。
先進主要国が為替市場への積極的な協調介入に踏み切るのは、1978年11月のアメリカドル防衛以来7年ぶりのことだった。G5の合意を受け、翌23日の各国の外国為替市場はどこもドル売り一色となり、1日で4-5%と世界金融史上空前のドル急落を記録した。
東京外国為替市場の円相場は、1985年9月20日には1ドル=242円00銭であり、1987年10月19日ブラック・マンデ-には、1ドル=141円35銭であった。2年1ヵ月間で1ドル当たり100円65銭の円高・ドル安となり、変化率は71.2%にも達した。恐るべきスピ-ドで円高が進んだことになる。そして1987年12月には1ドル=130円に突入し、遂に1988年1月4日には1ドル=121円65銭まで切り上がった。
G5の直後、主要先進国の中央銀行はドル売り・円買いの協調介入に率先して踏み出した。ニューヨーク連銀の発表によると、G5以後10月末までのドル売り介入額は合計31億9900万ドルであった。この期間、日銀のドル売り・円買い介入の規模は30億ドル以上。G5のうち、その他(西ドイツ、イギリス、フランス)の介入額合計30億ドル、G10加盟国(そのうちG5加盟国を除く)の介入額はほぼ20億ドル以上。したがって、この時期合計112億ドル以上の規模のドル売り協調介入が実施されたことになる。
ところが、円相場が1ドル=180円を突破し、さらに175円を越えて円高が進んだ1986年3月18日、日銀は、今までの市場介入(ドル売り・円買い介入)を突然逆転させて、ニューヨーク市場でドル買い・円売り介入(逆介入)に踏み切った。東京市場ではじめて逆介入(ドル買い・円売り介入)を実施したのは4月1日のことであった。そして、このような日銀によるドル買い・円売り介入は、1988年1月頃まで断続的に実施された。
ドル買い・円売り介入は、国内のマネ-サプライの増加となった。これが低い金利と相まって、株式投機や土地投機を誘発した。日銀が1987年3月31日発表した「1986年資金需給実績」(速報)によると、財政資金のなかで、外国為替資金特別会計の支払い超過分が4兆3510億円に達したが、日銀の外為市場におけるドル買い介入資金がほとんどだった。この4兆3510億円の円資金の流出は、マネ-サプライを約1.4%分上昇させた勘定になる。このような激しいマネ-サプライは、もっぱら土地投機・株式投機(その一部は海外証券投資となりアメリカ市場向け株式・債券購入)に向けられた。
1987年1月21日国税庁から発表された最高路線価は、47都道府県庁所在地の平均で対前年19.6%の上昇を示した。それは前年(1986年)の引き上げ率(9.1%)の2倍に達し、『日本列島改造論』ブ-ムによって地価が高騰した1972-73年以来の高い伸びを示した。“狂乱地価”と呼ばれた地価上昇率、1971年(28%)、72年(2%)、73年(20%)に迫る暴騰となった。当時の地価上昇は全国的であったが、1986年以降のそれは、大都市の繁華街で高騰し(例えば東京・銀座では年79.2%の上昇)、他方、中小都市においては比較的安定していて、極端な二極分化現象が現れた。これは、大企業の投機熱や、地上げ屋の横行によるものであろう。最高路 線価の対前年上昇率はその後も顕著で、1988年23.7%、89年28.0%、そして90年28.7%と“狂乱地価”を超えている。
株も暴騰した。1989年12月29日の大納会で、東証一部平均株価終値が史上最高の3万8915円87銭を記録した。そしてバブルが弾けた。プラザ合意以降の日銀による大量ドル買い介入と、公定歩合の度重なる引下げなど積極的な金融緩和措置は、バブル形成にあたって資金面の条件を用意した。これはニクソン・ショック直後の政策ミスと軌を一にする重大な失敗である。当時の日銀総裁は第25代日銀総裁(昭和59年12月17日から平成元年12月16日)澄田智である。澄田は、金融制度調査会会長の就任にあたって記者会見を行い、「日銀総裁時代の金融緩和が金融不祥事の一因になった点について、『円高不況、黒字の急拡大などから金融緩和はやむをえないことだったが、金融機関に節度ある融資を強く要請しなかったことについて反省している』と率直に語っている。
公定歩合は1985年末当時の5.0%から、87年2月の2.5%へ向かって、段階的に引き下げられている。
この澄田一族はなかなか面白い経歴を持っている。日銀総裁・澄田智はベルギ-、フランスなどの大使館で一等書記官を務め、大蔵省でNo.1の事務次官まで昇進したあと、輸出入銀行の総裁になり、84年12月から日銀の総裁に就任している。澄田智の父親は、らい四郎といい、群馬県の陸軍中将だった。日本が中国大陸を侵略した時、北支那方面軍の第一軍で司令官を務め、満州の利権を終戦時まで支配した重罪戦争犯罪人であった。
らい四郎が、中国現地で最も頻繁に交流したのが、河本大作であった。河本は満鉄が設立された時からその理事に就任し、大陸にある石炭、金属などの鉱山利権を動かした男である。張作霖爆殺事件の首謀者でもある。
澄田らい四郎は、インドシナに赴任する前には、フランスの駐在武官を務めていた。そこで生まれた澄田機関が、今日の日銀総裁・澄田智(父親と同じくフランス大使館での初期キャリアを持つ)に引き継がれ、霞が関の天下り人事を支配してきた。澄田らい四郎は、インドシナ半島にいた時代から、現地の日本人将校に「あれは日本の将校ではなく、フランスの将校だ」とささやかれたばかりでなく、実際にもフランスを中心に活動する不思議な存在であったという。らい四郎の息子、澄田智は1990年に日銀総裁からラザ-ル・フレ-ルの顧問になった。
興味深いのは、澄田智の出身地(群馬県吾妻郡)が故小渕恵三元首相の出身地と同じであることだ。群馬県吾妻郡には闇のオカルト人脈が根付いているのであろうか。バブル崩壊に話を戻す。日本の株式市場は、1989年12月29日、東証一部平均株価終値が史上最高の3万8915円87銭を記録して以来、1年間に大きくみて2回、大幅の株式低落を経験している。第一回の谷は、1990年4月2日の2万8002円7銭で、89年末のピ-クから28.05%の低落であり、第二回の谷は、1990年10月1日の2万221円86銭で、7月17日のピ-ク(3万3172円28銭)より39.1%の低下である。この日、株価は2万円の大台を割り込み、1万9990円51銭と対前年末49%もの大暴落を記録し、これによって東京株式市場時価総額は実に270兆円以上も消滅した計算になる。
この株価暴落の引き金は、日本の証券業者による「大量売り」であるより、裁定取引に習熟していた外資系証券業者による大量の「現物売り」による裁定取引の解消であった。
「1990年9月中間決算」によると、日本の証券会社は、四大証券をはじめ激しい減益を示しているのに、ひとりソロモン・ブラザ-ズ・アジアは、対前期比39%増にあたる50億1000万円の経常利益を上げているのだ。株価暴落は、外資系証券業者によって仕組まれた謀略だったのである。そして外資系証券業者によるバブル崩壊を側面支援したのが、日銀・大蔵当局であった。
「この平成バブル景気が公定歩合2.5%によって作られたことは明らかであるが、日銀・大蔵当局は次にバブル崩壊を企む。
世の中が好景気に踊っている頃、早くもその仕掛けは発動されている。1989年5月31日、日銀は公定歩合をいきなり0.75%引き上げ『急速冷凍』に入る。その後も公定歩合は段階的に引き上げられ、同年10月11日には3.75%に、12月25日には4.25%、そして明けて90年3月20日に5.25%、8月30日にはついに6%へと引き上げられ、バブル崩壊の仕掛けは完成した。
これに海外からの支援が加わる。88年6月にはBIS規制合意、90年8月は湾岸戦争勃発と日本経済崩壊のシナリオは見事なまでに内外の『関係者』たちによって『国際協調』され実行された」(ヤコブ・モルガン著『続最後の強敵日本を撃て』第一企画出版)
このように公定歩合が引き上げられたのは、石油ショック後1980年3月以来実に9年2ヵ月ぶりのことであった。10月11日の引き上げ後わずか2ヵ月半の12月25日に0.5%切り上げたのは、三重野日銀総裁に代わって間もなくのことであった。
BIS(国際決済銀行)規制というのは、1988年7月11日、日本を含む加盟12ヵ国の中央銀行総裁会議において、国際業務を行う銀行を対象に、それぞれの自己資本比率を「1991年3月末以降は、7.25%、93年3月までに8%以上とする」と決定した国際統一基準のことである。BISの自己資本比率8%規制というのは、たとえば、ある銀行が新しく100億円の貸出増を計画しようとすれば、8億円の自己資本の増加を準備する必要がある、ということを意味している。バブル崩壊後、自己資本の増大強化が困難になったので、BIS規制の要請に応えて自己資本比率を維持するためには、都市銀行は民間向け貸付金の圧縮を余儀なくされるに至った。公定歩合を引き下げても、マネ-サプライが伸びないのはこのためなのだ。公定歩合の引下げは銀行にとって調達コストの低下をもたらすが、銀行が不良債権を抱えている場合には、それを償却するため貸出金利を低下させず、銀行は貸出金利と調達金利のギャップを拡大させ、業務純益の拡大を図る傾向がある。その結果、マネ-サプライは低下する。
一方の企業はエクイティ・ファイナンスのつけで設備投資を抑制せざるを得ず、個人消費はこれまた減退した。これでは、いくら金融を緩和しても景気が回復するわけがない。
そして日本企業の経営危機につけこんで行われたのが、外資による日本企業乗っ取り であった。バブルの発生もその崩壊もすべて、国際金融財閥によって予め仕組まれた謀略だったのである。この謀略に国内で手を貸したのが、日銀・大蔵当局であったのだ。
最後に石油ショック以後の日本経済の問題点を三つ指摘して、終わりとしたい。第一は為替問題である。石油ショック後、世界経済を動かす力は、財とサ-ビスの貿易ではなく、資本の移動に変わった。為替レ-トを動かす力が、モノの貿易から貨幣の流れに変わったのである。
ニューヨーク連銀(連邦準備銀行)からの呼びかけで、1986年3月現在、はじめて日・米・英の中央銀行が同時に調査した外国為替市場の一日当たりの取引高は、東京480億ドル、ニューヨーク585億ドル、ロンドン900億ドル、三市場合計で1965億ドルであって、年間49兆ドル強、モノとサ-ビスの世界貿易金額の16倍以上にものぼっている。ロンドンのユ-ロダラ-(アメリカ国外に保有されているアメリカ・ドル)市場の取扱い金額は、営業日一日当たり3000億ドルを超え、年間では75兆ドルに達している。優に世界貿易額の25倍に及ぶ巨額である。このことは、ジョ-ジ・ソロスのような通貨トレ-ダ-が、どんな国の通貨でも意のままに上下させることが出来ることを意味している。
例えば、1997年夏に始まったアジア通貨暴落は、通貨マフィアのアジア経済破壊のために引き起こされた人災であった。彼らはマレ-シアの通貨リンギットを60%下落させ、同時にインドネシアのルピアを一時的に600%も下落させた。そしてIMFは資金提供の条件として、これらの国々に金融引き締め政策を行うよう迫ったのである。この世界支配層の脅迫にアジアで、いな世界で唯一逆らったのが、マレ-シアのマハティ-ル首相であった。マハティ-ルは、厳しい通貨管理、マレ-シア株式取引の国内化、固定為替レ-トを宣言することによって、グロ-バリゼ-ションの“ゲ-ムのル-ル”をひっくり返したのだ。その代償としてマハティ-ルが支払ったのが、マレ-シアの養豚産業の潰滅的打撃だった。1998年秋から、マレ-シア国内で新型ウイルスが伝染し、百人を超える死者を出したのだ。このウイルスは豚から感染したといわれる。マレ-シアは豚を急遽大量屠殺処分しなければならなくなった。これはマレ-シアに対する、秘密の細菌兵器攻撃である。それにしてもマハティ-ルは偉大だった。何故なら世界を相手に闘っているからだ。
よって、日本企業の海外進出は拍車をかけられた。鉄鋼、自動車、半導体、民生用電子機器などの輸出依存型基幹産業が不振に見舞われ、その対策の一環として海外での現地生産が強化された。日本の製品輸入比率(輸入に占める製品輸入の割合)も年々増加している。イギリスやアメリカの轍を踏んで、将来は日本もまた金を動かすだけの輸入超過国に変貌してしまうことだろう。
第三の問題点は、財政赤字である。石油ショック以降、特に昭和50(1975)年以降の不況期には、赤字財政政策が積極的に打ち出され、巨額の赤字国債が年々継続的に発行されるようになった。50年度には5.3兆円、そしてそれ以降年々平均2兆円程度を上積みして、昭和55(1980)年度には遂に史上最高の発行高14.2兆円を示すに至った。また、国債依存度も、昭和49年度までは11.3%程度に止まっていたが、昭和50年になると一挙に25.3%に上昇し、52年度には過去最高の34.7%にも達した。
バブル景気の最中には赤字国債の発行は中断したが、バブル崩壊後は、景気対策のための歳出増加と不況による税収不足から再び赤字国債が発行されるようになった。公債残高の累積も増加し、1998年末には270兆円以上となった。日本の人口を1億人として計算すると、これは国民一人当たり270万円の負担になる。人ごとではない。借金なのである。誰が代わりに払ってくれるものでもない。日本国民全員が負担しなければならないのだ。だが、あなたは家族の分も含めて(1家族=4人とする)、1000万以上のお金を国の借金返済のために払いますか?誰もそんな奇特なことはしないだろう。では政府は支払い猶予(モラトリアム)を宣言することになるのだろうか。その答えもNOである。そんなことをすれば、日本銀行券は紙屑になってしまう。何故なら、お金の価値というものは幻想によって支えられているからである。幻想を信用と言い換えてもよい。一度信用が失われてしまえば、お金の価値は無になる。不換紙幣を銀行に持っていっても、金とは交換してくれない。日銀券が紙屑になってしまえば、国家は破綻するであろう。そんな愚かな政策を政府が採用することは決してありえない。日本はアジアや南米の開発途上国ではないのである。
それでは残された最後の選択肢は何なのであろうか。それはインフレである。ハイパ-・インフレによって国民から資産を収奪し、政府債務を帳消しにする方法しか残されていないのである。そして歴史を振り返るならば、この超インフレの向かう先は常に戦争であつた。では日本が戦争を回避する道はないのか。あることはある。例えば、政府が軍需産業ではない製造業を育成することである。国策自動車メ-カ-を設立するというのはどうだろう。工場を作り失業者を雇い安価な自動車を供給するのである。値段は1台50万円以下である。性能、デザインは市販の自動車に及ばないので、他の自動車メ-カ-と競合することにはならない。他産業への波及効果も大きいだろう。
あるいは、安価な公団住宅を多量に建設するのはどうだろう。政府資金を投入し、住宅建設はゼネコンに安く請け負わせ、作業員として失業者を雇用する。販売価格は500万円以下にする。あるいは、農地開発はどうであろうか。政府が不要の農地を買い上げ、米ではなく小麦や大豆等、輸入作物を自前で生産するようにするのである。もっともこれはアメリカの反発を招くことになるであろう。あるいは石油公団を設立し、油田の開発から精製そして配給まで自力で行うようにしたらどうだろう。もっともこんなことをした通産大臣は、メジャ-にたちどころに抹殺されてしまうに違いない。あるいは、先端技術開発のために研究開発資金を投入してはどうだろうか。ロケットやジェット機、情報産業を育成するのである。これまたアメリカが許すわけはない。
以上、徒然なるままにインフレ対策を列挙してみたが、日本政府がこのような政策を採用しないことは明らかである。 何故なら、以上のような貧民救済策では財閥が儲からないからである。財閥にとって戦争はうまみのある商売である。戦争になっても特権階級は国家権力によって生存の道が保証されているから困ることはない。苦しむのは庶民だけなのである。その庶民も、敢えてお上に逆らって戦争に反対することはないだろう。これまた我が身可愛さで、己の生活や立場を危険に晒してまで戦争に反対する者はいないだろうからだ。
従って、日本は一度ならず再三踏んだ過ちをまた繰り返すことになるのだろう。それが5年先になるのか10年先になるのか20年先になるのか、筆者には分からない。しかし一つ確かなのは、今現在の不況はやがて収束し、日本はインフレ下の加熱経済に向かうであろうということだ。景気が回復するのは、金融再編成が完了し、金融寡頭支配が確立してからになろう。金融力の集中なしには、国家的事業をファイナンスすることが出来ないからである。その行き着く先は新たなバブルの発生なのか、それとも戦争なのか。PKO活動やガイドライン法、盗聴法、国旗・国歌法、オウム二法の成立等を考えると、政府はすでに戦争準備に取り掛かっているとしか思えない。残念ながら結論としては、新たな戦争の発生は避けられそうもないのである。
手段で、内需拡大を実施する意向を示した。
先進主要国が為替市場への積極的な協調介入に踏み切るのは、1978年11月のアメリカドル防衛以来7年ぶりのことだった。G5の合意を受け、翌23日の各国の外国為替市場はどこもドル売り一色となり、1日で4-5%と世界金融史上空前のドル急落を記録した。
東京外国為替市場の円相場は、1985年9月20日には1ドル=242円00銭であり、1987年10月19日ブラック・マンデ-には、1ドル=141円35銭であった。2年1ヵ月間で1ドル当たり100円65銭の円高・ドル安となり、変化率は71.2%にも達した。恐るべきスピ-ドで円高が進んだことになる。そして1987年12月には1ドル=130円に突入し、遂に1988年1月4日には1ドル=121円65銭まで切り上がった。
G5の直後、主要先進国の中央銀行はドル売り・円買いの協調介入に率先して踏み出した。ニューヨーク連銀の発表によると、G5以後10月末までのドル売り介入額は合計31億9900万ドルであった。この期間、日銀のドル売り・円買い介入の規模は30億ドル以上。G5のうち、その他(西ドイツ、イギリス、フランス)の介入額合計30億ドル、G10加盟国(そのうちG5加盟国を除く)の介入額はほぼ20億ドル以上。したがって、この時期合計112億ドル以上の規模のドル売り協調介入が実施されたことになる。
ところが、円相場が1ドル=180円を突破し、さらに175円を越えて円高が進んだ1986年3月18日、日銀は、今までの市場介入(ドル売り・円買い介入)を突然逆転させて、ニューヨーク市場でドル買い・円売り介入(逆介入)に踏み切った。東京市場ではじめて逆介入(ドル買い・円売り介入)を実施したのは4月1日のことであった。そして、このような日銀によるドル買い・円売り介入は、1988年1月頃まで断続的に実施された。
ドル買い・円売り介入は、国内のマネ-サプライの増加となった。これが低い金利と相まって、株式投機や土地投機を誘発した。日銀が1987年3月31日発表した「1986年資金需給実績」(速報)によると、財政資金のなかで、外国為替資金特別会計の支払い超過分が4兆3510億円に達したが、日銀の外為市場におけるドル買い介入資金がほとんどだった。この4兆3510億円の円資金の流出は、マネ-サプライを約1.4%分上昇させた勘定になる。このような激しいマネ-サプライは、もっぱら土地投機・株式投機(その一部は海外証券投資となりアメリカ市場向け株式・債券購入)に向けられた。
1987年1月21日国税庁から発表された最高路線価は、47都道府県庁所在地の平均で対前年19.6%の上昇を示した。それは前年(1986年)の引き上げ率(9.1%)の2倍に達し、『日本列島改造論』ブ-ムによって地価が高騰した1972-73年以来の高い伸びを示した。“狂乱地価”と呼ばれた地価上昇率、1971年(28%)、72年(2%)、73年(20%)に迫る暴騰となった。当時の地価上昇は全国的であったが、1986年以降のそれは、大都市の繁華街で高騰し(例えば東京・銀座では年79.2%の上昇)、他方、中小都市においては比較的安定していて、極端な二極分化現象が現れた。これは、大企業の投機熱や、地上げ屋の横行によるものであろう。最高路 線価の対前年上昇率はその後も顕著で、1988年23.7%、89年28.0%、そして90年28.7%と“狂乱地価”を超えている。
株も暴騰した。1989年12月29日の大納会で、東証一部平均株価終値が史上最高の3万8915円87銭を記録した。そしてバブルが弾けた。プラザ合意以降の日銀による大量ドル買い介入と、公定歩合の度重なる引下げなど積極的な金融緩和措置は、バブル形成にあたって資金面の条件を用意した。これはニクソン・ショック直後の政策ミスと軌を一にする重大な失敗である。当時の日銀総裁は第25代日銀総裁(昭和59年12月17日から平成元年12月16日)澄田智である。澄田は、金融制度調査会会長の就任にあたって記者会見を行い、「日銀総裁時代の金融緩和が金融不祥事の一因になった点について、『円高不況、黒字の急拡大などから金融緩和はやむをえないことだったが、金融機関に節度ある融資を強く要請しなかったことについて反省している』と率直に語っている。
公定歩合は1985年末当時の5.0%から、87年2月の2.5%へ向かって、段階的に引き下げられている。
この澄田一族はなかなか面白い経歴を持っている。日銀総裁・澄田智はベルギ-、フランスなどの大使館で一等書記官を務め、大蔵省でNo.1の事務次官まで昇進したあと、輸出入銀行の総裁になり、84年12月から日銀の総裁に就任している。澄田智の父親は、らい四郎といい、群馬県の陸軍中将だった。日本が中国大陸を侵略した時、北支那方面軍の第一軍で司令官を務め、満州の利権を終戦時まで支配した重罪戦争犯罪人であった。
らい四郎が、中国現地で最も頻繁に交流したのが、河本大作であった。河本は満鉄が設立された時からその理事に就任し、大陸にある石炭、金属などの鉱山利権を動かした男である。張作霖爆殺事件の首謀者でもある。
澄田らい四郎は、インドシナに赴任する前には、フランスの駐在武官を務めていた。そこで生まれた澄田機関が、今日の日銀総裁・澄田智(父親と同じくフランス大使館での初期キャリアを持つ)に引き継がれ、霞が関の天下り人事を支配してきた。澄田らい四郎は、インドシナ半島にいた時代から、現地の日本人将校に「あれは日本の将校ではなく、フランスの将校だ」とささやかれたばかりでなく、実際にもフランスを中心に活動する不思議な存在であったという。らい四郎の息子、澄田智は1990年に日銀総裁からラザ-ル・フレ-ルの顧問になった。
興味深いのは、澄田智の出身地(群馬県吾妻郡)が故小渕恵三元首相の出身地と同じであることだ。群馬県吾妻郡には闇のオカルト人脈が根付いているのであろうか。バブル崩壊に話を戻す。日本の株式市場は、1989年12月29日、東証一部平均株価終値が史上最高の3万8915円87銭を記録して以来、1年間に大きくみて2回、大幅の株式低落を経験している。第一回の谷は、1990年4月2日の2万8002円7銭で、89年末のピ-クから28.05%の低落であり、第二回の谷は、1990年10月1日の2万221円86銭で、7月17日のピ-ク(3万3172円28銭)より39.1%の低下である。この日、株価は2万円の大台を割り込み、1万9990円51銭と対前年末49%もの大暴落を記録し、これによって東京株式市場時価総額は実に270兆円以上も消滅した計算になる。
この株価暴落の引き金は、日本の証券業者による「大量売り」であるより、裁定取引に習熟していた外資系証券業者による大量の「現物売り」による裁定取引の解消であった。
「1990年9月中間決算」によると、日本の証券会社は、四大証券をはじめ激しい減益を示しているのに、ひとりソロモン・ブラザ-ズ・アジアは、対前期比39%増にあたる50億1000万円の経常利益を上げているのだ。株価暴落は、外資系証券業者によって仕組まれた謀略だったのである。そして外資系証券業者によるバブル崩壊を側面支援したのが、日銀・大蔵当局であった。
「この平成バブル景気が公定歩合2.5%によって作られたことは明らかであるが、日銀・大蔵当局は次にバブル崩壊を企む。
世の中が好景気に踊っている頃、早くもその仕掛けは発動されている。1989年5月31日、日銀は公定歩合をいきなり0.75%引き上げ『急速冷凍』に入る。その後も公定歩合は段階的に引き上げられ、同年10月11日には3.75%に、12月25日には4.25%、そして明けて90年3月20日に5.25%、8月30日にはついに6%へと引き上げられ、バブル崩壊の仕掛けは完成した。
これに海外からの支援が加わる。88年6月にはBIS規制合意、90年8月は湾岸戦争勃発と日本経済崩壊のシナリオは見事なまでに内外の『関係者』たちによって『国際協調』され実行された」(ヤコブ・モルガン著『続最後の強敵日本を撃て』第一企画出版)
このように公定歩合が引き上げられたのは、石油ショック後1980年3月以来実に9年2ヵ月ぶりのことであった。10月11日の引き上げ後わずか2ヵ月半の12月25日に0.5%切り上げたのは、三重野日銀総裁に代わって間もなくのことであった。
BIS(国際決済銀行)規制というのは、1988年7月11日、日本を含む加盟12ヵ国の中央銀行総裁会議において、国際業務を行う銀行を対象に、それぞれの自己資本比率を「1991年3月末以降は、7.25%、93年3月までに8%以上とする」と決定した国際統一基準のことである。BISの自己資本比率8%規制というのは、たとえば、ある銀行が新しく100億円の貸出増を計画しようとすれば、8億円の自己資本の増加を準備する必要がある、ということを意味している。バブル崩壊後、自己資本の増大強化が困難になったので、BIS規制の要請に応えて自己資本比率を維持するためには、都市銀行は民間向け貸付金の圧縮を余儀なくされるに至った。公定歩合を引き下げても、マネ-サプライが伸びないのはこのためなのだ。公定歩合の引下げは銀行にとって調達コストの低下をもたらすが、銀行が不良債権を抱えている場合には、それを償却するため貸出金利を低下させず、銀行は貸出金利と調達金利のギャップを拡大させ、業務純益の拡大を図る傾向がある。その結果、マネ-サプライは低下する。
一方の企業はエクイティ・ファイナンスのつけで設備投資を抑制せざるを得ず、個人消費はこれまた減退した。これでは、いくら金融を緩和しても景気が回復するわけがない。
そして日本企業の経営危機につけこんで行われたのが、外資による日本企業乗っ取り であった。バブルの発生もその崩壊もすべて、国際金融財閥によって予め仕組まれた謀略だったのである。この謀略に国内で手を貸したのが、日銀・大蔵当局であったのだ。
最後に石油ショック以後の日本経済の問題点を三つ指摘して、終わりとしたい。第一は為替問題である。石油ショック後、世界経済を動かす力は、財とサ-ビスの貿易ではなく、資本の移動に変わった。為替レ-トを動かす力が、モノの貿易から貨幣の流れに変わったのである。
ニューヨーク連銀(連邦準備銀行)からの呼びかけで、1986年3月現在、はじめて日・米・英の中央銀行が同時に調査した外国為替市場の一日当たりの取引高は、東京480億ドル、ニューヨーク585億ドル、ロンドン900億ドル、三市場合計で1965億ドルであって、年間49兆ドル強、モノとサ-ビスの世界貿易金額の16倍以上にものぼっている。ロンドンのユ-ロダラ-(アメリカ国外に保有されているアメリカ・ドル)市場の取扱い金額は、営業日一日当たり3000億ドルを超え、年間では75兆ドルに達している。優に世界貿易額の25倍に及ぶ巨額である。このことは、ジョ-ジ・ソロスのような通貨トレ-ダ-が、どんな国の通貨でも意のままに上下させることが出来ることを意味している。
例えば、1997年夏に始まったアジア通貨暴落は、通貨マフィアのアジア経済破壊のために引き起こされた人災であった。彼らはマレ-シアの通貨リンギットを60%下落させ、同時にインドネシアのルピアを一時的に600%も下落させた。そしてIMFは資金提供の条件として、これらの国々に金融引き締め政策を行うよう迫ったのである。この世界支配層の脅迫にアジアで、いな世界で唯一逆らったのが、マレ-シアのマハティ-ル首相であった。マハティ-ルは、厳しい通貨管理、マレ-シア株式取引の国内化、固定為替レ-トを宣言することによって、グロ-バリゼ-ションの“ゲ-ムのル-ル”をひっくり返したのだ。その代償としてマハティ-ルが支払ったのが、マレ-シアの養豚産業の潰滅的打撃だった。1998年秋から、マレ-シア国内で新型ウイルスが伝染し、百人を超える死者を出したのだ。このウイルスは豚から感染したといわれる。マレ-シアは豚を急遽大量屠殺処分しなければならなくなった。これはマレ-シアに対する、秘密の細菌兵器攻撃である。それにしてもマハティ-ルは偉大だった。何故なら世界を相手に闘っているからだ。
よって、日本企業の海外進出は拍車をかけられた。鉄鋼、自動車、半導体、民生用電子機器などの輸出依存型基幹産業が不振に見舞われ、その対策の一環として海外での現地生産が強化された。日本の製品輸入比率(輸入に占める製品輸入の割合)も年々増加している。イギリスやアメリカの轍を踏んで、将来は日本もまた金を動かすだけの輸入超過国に変貌してしまうことだろう。
第三の問題点は、財政赤字である。石油ショック以降、特に昭和50(1975)年以降の不況期には、赤字財政政策が積極的に打ち出され、巨額の赤字国債が年々継続的に発行されるようになった。50年度には5.3兆円、そしてそれ以降年々平均2兆円程度を上積みして、昭和55(1980)年度には遂に史上最高の発行高14.2兆円を示すに至った。また、国債依存度も、昭和49年度までは11.3%程度に止まっていたが、昭和50年になると一挙に25.3%に上昇し、52年度には過去最高の34.7%にも達した。
バブル景気の最中には赤字国債の発行は中断したが、バブル崩壊後は、景気対策のための歳出増加と不況による税収不足から再び赤字国債が発行されるようになった。公債残高の累積も増加し、1998年末には270兆円以上となった。日本の人口を1億人として計算すると、これは国民一人当たり270万円の負担になる。人ごとではない。借金なのである。誰が代わりに払ってくれるものでもない。日本国民全員が負担しなければならないのだ。だが、あなたは家族の分も含めて(1家族=4人とする)、1000万以上のお金を国の借金返済のために払いますか?誰もそんな奇特なことはしないだろう。では政府は支払い猶予(モラトリアム)を宣言することになるのだろうか。その答えもNOである。そんなことをすれば、日本銀行券は紙屑になってしまう。何故なら、お金の価値というものは幻想によって支えられているからである。幻想を信用と言い換えてもよい。一度信用が失われてしまえば、お金の価値は無になる。不換紙幣を銀行に持っていっても、金とは交換してくれない。日銀券が紙屑になってしまえば、国家は破綻するであろう。そんな愚かな政策を政府が採用することは決してありえない。日本はアジアや南米の開発途上国ではないのである。
それでは残された最後の選択肢は何なのであろうか。それはインフレである。ハイパ-・インフレによって国民から資産を収奪し、政府債務を帳消しにする方法しか残されていないのである。そして歴史を振り返るならば、この超インフレの向かう先は常に戦争であつた。では日本が戦争を回避する道はないのか。あることはある。例えば、政府が軍需産業ではない製造業を育成することである。国策自動車メ-カ-を設立するというのはどうだろう。工場を作り失業者を雇い安価な自動車を供給するのである。値段は1台50万円以下である。性能、デザインは市販の自動車に及ばないので、他の自動車メ-カ-と競合することにはならない。他産業への波及効果も大きいだろう。
あるいは、安価な公団住宅を多量に建設するのはどうだろう。政府資金を投入し、住宅建設はゼネコンに安く請け負わせ、作業員として失業者を雇用する。販売価格は500万円以下にする。あるいは、農地開発はどうであろうか。政府が不要の農地を買い上げ、米ではなく小麦や大豆等、輸入作物を自前で生産するようにするのである。もっともこれはアメリカの反発を招くことになるであろう。あるいは石油公団を設立し、油田の開発から精製そして配給まで自力で行うようにしたらどうだろう。もっともこんなことをした通産大臣は、メジャ-にたちどころに抹殺されてしまうに違いない。あるいは、先端技術開発のために研究開発資金を投入してはどうだろうか。ロケットやジェット機、情報産業を育成するのである。これまたアメリカが許すわけはない。
以上、徒然なるままにインフレ対策を列挙してみたが、日本政府がこのような政策を採用しないことは明らかである。 何故なら、以上のような貧民救済策では財閥が儲からないからである。財閥にとって戦争はうまみのある商売である。戦争になっても特権階級は国家権力によって生存の道が保証されているから困ることはない。苦しむのは庶民だけなのである。その庶民も、敢えてお上に逆らって戦争に反対することはないだろう。これまた我が身可愛さで、己の生活や立場を危険に晒してまで戦争に反対する者はいないだろうからだ。
従って、日本は一度ならず再三踏んだ過ちをまた繰り返すことになるのだろう。それが5年先になるのか10年先になるのか20年先になるのか、筆者には分からない。しかし一つ確かなのは、今現在の不況はやがて収束し、日本はインフレ下の加熱経済に向かうであろうということだ。景気が回復するのは、金融再編成が完了し、金融寡頭支配が確立してからになろう。金融力の集中なしには、国家的事業をファイナンスすることが出来ないからである。その行き着く先は新たなバブルの発生なのか、それとも戦争なのか。PKO活動やガイドライン法、盗聴法、国旗・国歌法、オウム二法の成立等を考えると、政府はすでに戦争準備に取り掛かっているとしか思えない。残念ながら結論としては、新たな戦争の発生は避けられそうもないのである。