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日本の皇族がこの日本に存在することの意味と無意味

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015年12月26日21:57
カテゴリ勝手に拝借しましたm(__)m
日本の皇族がこの日本に存在することの意味と無意味
社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1048280667.html
<転載開始>
【明治以来に創られた皇室の存在意義はあるのか】

【皇族一家のあの人・この人】

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 本記述は2009年12月10日のものである,ここに転載・再掲することにしたが,必要と思われる補正・加筆もおこなっている。

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 ① 日本国を代表する者は誰か?

週刊文春2009年12月17日表紙 今朝〔前掲の2009年12月10日〕配達された新聞朝刊を開くと,広告欄には『週刊文春』と『週刊新潮』の発売宣伝が出ている。まず『週刊文春』2009年12月17日号には,皇室関係の記事に関するその文句が,つぎのように謳われている。

 ◆ 皇太子殿下を守って差し上げたい 深層レポート
 ◆ 雅子妃の復活 これまで書けなかった全真相 友納尚子

 ▼ お誕生日ムードを吹っ飛ばした宮内庁長官発言
 ▼ 治療回数は激減。ご進講は欠かさず出席

 ▼ 愛子さま「ご出産」の産後の肥立ちが・・・
 ▼ 「別居・離婚報道」をどう受け止められたか

 ▼ 皇太子,愛子さまに「待つといいことがたくさんありますね」
  註記)http://www.bunshun.co.jp/swf/images/shukanbunshun_091217_mag.jpg

週刊新潮2009年12月17日号表紙 『週刊新潮』の同じく,2009年12月17日号のなかに出ている皇室関係の記事は,こういうものである。

 ☆ 悠仁親王「お茶の水幼稚園」ご入園決定の波紋
 ☆ 「学習院幼稚園」の悲嘆をよそに,秋篠宮家が目指す「帝王教育」は,皇太子ご一家の胸中にもさざ波を……

 民主党政権に〈チェンジ〉したはずのこの日本国の政情に関する記事も,もちろんたくさん出ているけれども,それと並ぶように「皇族たち」の記事が面白おかしく組まれている。

 それにしても,上記に触れた週刊誌の記事は,日本国があたかも王政〔皇国〕であるかとみまごう見出しをかかげ,その説明文も書いている。天皇が憲法に定められた〈国事行為〉を担当して行動すればよい皇族一家について,あたかも彼らが政治の中枢に位置しているかのような「報道でのとりあつかい」を想像妊娠させておくのに十分過ぎる〈書きかた〉なのである。
 ② 明治になって創られた「現在の天皇の地位」および「天皇制という機構」

 前掲の週刊誌の見出しに踊っている文字=「帝王教育」(?)とは,いったいなんぞや。

 はたして,この国には王様がおり王族がいるのか。もちろん天皇とその家族がいる。もっとも,天皇は王様よりもエライ,より高位に位置づけられるべき「世界でもまれ」にみるほどの連綿性,いわゆる皇統譜(明治期に準備・作成された創作物:代物だが)をもつ高貴な一族であるゾなどと,のたまいたがる輩もこの国にはいないわけではない。

 しかしながら,今〔2009〕年で2千6百何十何年にもなるという「紀元の歴史」は,架空の,それもせいぜい神話的な世界における物語〔おとぎ話〕であって,ましてや皇室が2千年くらいでもつづいているというための歴史学的・考古学的な根拠は,なにも与えられていない。
 天照大神画像1 天照大神画像2
 出所)左側画像は,http://matome.naver.jp/odai/2138819045811035401 右側画像は,https://twitter.com/amaterasu_point 同じ写真の「左右逆の画像」にみえるが……。

 皇室の歴史はいいところで,せいぜい千3百年ほどしかない。だが,これも血統的には途中でなんどもあれこれと断絶してきたから,ほとんどあてにならない。とても嘘っぽいさに満ちた数字である。

 とくに明治天皇じたいが,孝明天皇の息子である「本当の睦仁」〔←殺されていたという説にしたがえば〕と〈すり替えられた人物〉をもって登場していたとすれば,皇統譜の連続性なるものの本体は,ごく最近からの〈想像上においてのみ許された仮定〉話でしかなくなる。
 補注)たとえば,2015年12月に発売された浅見雅男・岩井克己『皇室一五〇年史』(筑摩書房)は,明治以来の皇室・天皇史をとりあげた本であるが,まさしく「創られた天皇制」を考えたいのであれば,適切な時代区分である。この本の内容説明と主要目次はこうである。
    明治以降,皇室は常に危機にさらされてきた。なんとか男系皇位継承のメドが立ったところへ,こんどは増えつづける皇族を減らそうという外部の圧力が働く。そのせめぎ合いのなかで制度はさまざまに揺れ動き,やがて敗戦で皇室は激動の時代へと突入していく。



 近現代の皇室問題に精通する二人のジャーナリスト が,皇族制度・結婚・外遊や財産といったテーマ別に皇室一五〇年の歴史をひもとき,しられざる皇族の真実の姿を描き出す。皇室問題の全貌を明らかにする, 決定版入門書。


 第1章 皇室典範と宮家

 第2章 皇族という人々

 第3章 皇室と結婚

 第4章 皇室と外国

 第5章 皇室と財産 

 要は,明治「維新」に必要であった日本国内の統治・支配体制を国家イデオロギー的に確立し,臣民〔国民〕を政治理念的に統制・管理するために工夫・創造されたのが「明治天皇を〈玉〉に戴いての大日本帝国という政治統体」であった。国家をまとめるのに必要不可欠であった「日本神国」のイデオロギーであったからには,大日本国憲法の第3条が「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と,いきなり天から下された〈絶対の命令〉であるかのように規定していた。
明治憲法発布式画像
 出所)明治憲法(大日本帝国憲法)発布式の絵,http://blog.goo.ne.jp/selene-ze/e/3754963299da3e95a35f4f8c9ea66ea4

 本当のところをいえば,「この種の百パーセント〔以上も〕天下り的な観念操作」をくわえる工夫をほどこすことによってこそ,明治時代を牛耳ろうとした有力政治家が,自分たち都合にいい国家体制にととのえていくことも可能になっていたのである。

 明治大帝という尊称があるけれども,この帝王を影で操る人間がいた。代表的なその人物はいうまでもなく伊藤博文であった。伊藤以外にも明治天皇を使いこなした明治時代の政治家も大勢いたが,なんといってもこの伊藤が代表格であった。明治天皇が即位したときの年齢は,まだ10代であった。当時のこの天皇睦仁に「なにができていた」といえるか?
    つぎの文章が,エルウィン・フォン・ベルツ著『ベルツの日記(上)』(岩波書店,1979年,204頁)に記述されている。

一昨日,有栖川宮邸で東宮成婚に関して,またもや会議。その席上,伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて,伊藤のいわく「皇太子に生れるのは,全く不運なことだ。生れるが早いか,到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ,大きくなれば,側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は,操り人形を糸で躍らせるような身振りをして見せたのである。

 --こんな事情をなんとかしようと思えば,至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は,これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが,現代および次代の天皇に,およそありとあらゆる尊敬を払いながら,なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を,敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。この点をある時,一日本人が次のように表明した。「この国は,無形で非人格的の統治に慣れていて,これを改めることは危険でしょう」と。
 どだい,睦仁天皇といえどもただの人間であった。この人間が突如「憲法上で神聖=侵すべらかず」とされたのは,たいそうエライさんであるこの「明治天皇を侵すな!」という命令であったのではない。実は,臣民は明治国家の政治体制に全面的に無条件で服従せよ,間違えても絶対に逆らうことなどするな,という至上命題をその明治憲法を介して下命したことを意味する。

 明治時代はこのように,民主主義=共和制を採ることができず,半封建体制の政治形態=天皇を〈冠》に載せる体裁をととのえて出立させられた。そのさい,国家全体をイデオロギー的・理念的に任意・強制を問わず結束させるために,天皇思想を憲法制度の頂点に置き,国民支配のための道具にしておいたのである。

 ③ 君主天皇から象徴天皇への様がわり-天皇制は残された-

 だから,日本の敗戦後においては「天皇制」ということば〔専門用語として登場していた〕がよく使用されるようになった。ところが,敗戦後にアメリカのご指導のもと作成・発布された「日本国憲法」のなかにも,これが日本の民主主義を大きく前進させえた法律であったにもかかわらず,冒頭の第1条に「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と規定していたために,民主主義とはいっても,いまもそうでありつづけているように,どこまでもカッコ付きとなって留保されていた。

 日本国憲法の第1条〔くわえて以下第8条までが天皇関係〕の規定は,日本政府,ましてや日本の国民たちが主体的に制作した条項ではなく,アメリカの強制的な指導〔いわば命令〕によって創られていた。

 明治維新によって〈玉〉としての「明治の天皇」が置かれたのと同様に,敗戦を契機にまたもや〈玉〉としての「昭和の天皇」が,しかもこちらでは同じ天皇ヒロヒトが変身させられたかたちで,またもや置かれたのである。

 「平和と民主主義の時代」が敗戦を境にこの日本という国を覆ってきたのかといえば,まったくそうではなかった。アメリカ軍を中心とするGHQの支配・占領下にあった戦後7年間は,アメリカ政府の統治・庇護のもとで日本は,第2次大戦後における世界情勢の急激な政治変動,とくに東西対立の国際政治から隔離され保護されてきただけでなく,敗戦にともなうアジア諸国への戦争責任・戦後責任を,その後において多少は賠償をおこなってはきたものの,不完全のままに済ませることもできていた。

 そうした昭和20年代における日本の政治過程のなかで昭和天皇を家長とする皇室一家は,日本国憲法のもと「ひとまず安定した地位」を定座させえてきた。その間,昭和天皇が憲法に定められた「国事行為」の範疇など反故同然に動きまわり,ひたすら自分の地位を確実にするために,あるいは社会主義諸国がこの地球上に数多く登場した事実〔とりわけソ連〕に恐怖したあまりに,アメリカ政府との個人的な交渉までおこなうというきわめて個人的で身勝手な政治的行為=憲法違反を重ねていた。この歴史的な事実はすでに,日本の政治学者が詳細に闡明している。

 その意味では,昭和天皇が昭和20年代にみずから積極的に関与した日米安保体制の構築というものの顛末,たとえば沖縄県は日本全国に配置させている米軍基地の7割も負担させられているが,その歴史的な責任は〔ある意味では〕すべて彼にあったと断言されてもよいほど濃密・深甚である。

 これが象徴天皇としての天皇ヒロヒトが国民のために,というよりは自分の御身大事のためだけを思い,敗戦後において画策してきた結末である。関連する専門書をひもといてこの戦後史をしる者は,彼のそのみぐるしい行跡に大いに呆れるに違いない。
 補注)本ブログの他日記述ですでに言及した関連の文献として,豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』(岩波書店,2015年7月)を挙げておく。
豊下楢彦表紙画像
 ④ 皇族たちの黄昏?

 さて,本日の話題は,そうした昭和天皇を家長にしていままで長い期間にわたり生きてきた皇室一家,それも,彼の孫や甥たちに関する週刊誌の記事であった。
   プリンセス・マサコ表紙 野田峯雄表紙
 ベン・ヒルズ,藤田真利子訳『プリンセス・マサコ-菊の玉座の囚われ人-』(第三書館,2007年8月)という訳本がある。この出版社は同じときに,野田峯雄『「プリンセス・マサコ」の真実- “検閲” された雅子妃情報の謎-』(第三書館,2007年8月)も公刊している。

 ところで『日刊ベリタ』という報道媒体は,こう語っている。

 ◎-1「朝日など大手メディアが広告掲載拒否 プリンセス・マサコの邦訳本など 背景に宮内庁・外務省の圧力 野田峯雄」

 2007 年8月下旬,第三書館(東京都新宿区)がヒルズ氏の著作の日本語版『完訳プリンセス・マサコ』(藤田真利子訳)と野田峯雄著『「プリンセス・マサコ」の真実』を同時に出版した。すると,これに絡んできわめて異常な事態が発生した。

 朝日新聞や読売新聞,毎日新聞など全国紙のすべて,および地方紙のほとんどが,まさにいっせいに同2冊本の広告掲載拒否の挙に出たのである。広告代理店の関係者によると,続けて夕刊紙やスポーツ紙,さらに週刊誌もこぞって広告掲載拒否へ動いているという。(2007/09/18)

 ◎-2「原本により忠実な翻訳」とヒルズ氏 「プリンセス・マサコ」の新日本語板 9月に第三書館が刊行」

 今〔2007〕年2月に「著者との信頼関係が保てなくなった」として講談社が発売中止を決定したオーストラリア人ジャーナリスト,ベン・ヒルズ氏による「プリンセス・マサコ」の日本語版が,第三書館から9月に刊行されることになった。

 ヒルズ氏は今回の決定を受けて日刊ベリタのインタビューに答え,講談社が出版を予定していたものよりも「より原文に忠実なものになる」と語った。(聞き手は木村哲郎ティーグ)(2007/08/06)

◎-3 【関 連】 豪州での筆者の講演をめぐり日本側が圧力と著者 不可解さが依然続く「プリンセス・マサコ」騒動。

 雅子妃の鬱病,内親王の誕生の経緯など削除 「プリンセス・マサコ」出版中止の講談社 著者が内幕暴露 。

 ◎-4「豪州での筆者の講演をめぐり日本側が圧力と著者 不可解さが依然続く『プリンセス・マサコ』騒動」

 ベン・ヒルズ氏による著書『プリンセス・マサコ』に関する報道を私が始めてから9カ月が立つ。私が『プリンセス・マサコ』に関する第1報を日刊ベリタに出した翌日の〔2007年〕7月12日には,日本メディアからの問い合わせが多数来ているとの連絡がヒルズ氏から入った。

 その後一連の出版中止騒動などについて関係者に取材を申しこんだが,ヒルズ氏と対立する講談社などの見解がつねにヒルズ氏と正反対であり,誰が正しいのかの判断をすることはできなかった。

 2007年3月28日にアデレードで行われたベン・ヒルズ氏による講演では,ヒルズ氏は在メルボルン日本国総領事館が講演を中止にするよう圧力をかけたといい,日本側はこれを全面否定した。また講演を主催した日豪友好協会は「ジャーナリストに話すことはなにもない」と発言。本書をめぐる不可解さは依然続いている。(アデレード=木村哲郎ティーグ)(2007/04/13)
 出所)http://www.nikkanberita.com/index.cgi?cat=special&id=200704101622332

 以上のように,ことが皇室一家の話題になるととたんに日本の言論界・出版界・思想界は,しばしば奇妙に萎縮しがちな虚弱体質をみせる。

 イギリスのすでに故人であり,謀殺の噂も絶えないダイアナ妃の,配偶者:現イギリス女王の息子ウィリアムは,結婚以前からカミラ夫人と愛人〔という不倫の〕関係にあった。日本の皇室関係者でも海外某国に遊びにいくと必らず会いにいく女性がいるといわれて久しい既婚者もいる。

 男と女の出来事である,別にどこの誰であろうと不倫だとか自由恋愛だとかあったとして,これが道徳的には非難されるべき問題ではあっても,とくに極悪非道だとまでいって指弾する理由はみつからない。

 しかし,近年における皇室予算は「皇室」「宮内庁」「警備」関係予算を総計するとだいたい250億円前後であるとされるが,この日本国に住むわれわれの血税を元手に暮らしている皇族は,憲法に規定されざるをえない人間集団として,どのように日常の生活をしていけばよいのか熟考・配慮の必要もあるゆえ,よほどの覚悟と慎重,緊張感などを求められて当然である。

 ⑤ 特権階級の皇族関係者

 最近,本ブログの筆者の目に飛びこんできた皇族関係のニュースに,つぎのようなものがあった。ニュース記事はすべて asahi.com から引用した。最新の報道から逆順に聞いていく。

 ☆-1「三笠宮寛仁さま,アルコール依存で入院 今年4回目」(2009年12月7日19時20分)

 宮内庁は2009年12月7日,三笠宮寛仁さま(63歳)がこの日午後,アルコール依存症の治療のため,東京都千代田区の佐々木研究所付属杏雲堂病院に入院したと発表した。アルコール依存による入院は今年4回目。
 註記)http://www.asahi.com/national/update/1207/TKY200912070312.html

 ☆-2「三笠宮寛仁さまが退院」(2009年8月25日16時55分)

 宮内庁は2009年12月25日,三笠宮寛仁さま(63歳)が同日朝,皇居内の宮内庁病院を退院したと発表した。アルコール依存の治療のため断続的に入院しており,今回は12月19日から同病院に入院していた。
 註記)http://www.asahi.com/national/update/0825/TKY200908250175.html

 ☆-3「三笠宮寛仁さま再入院 アルコール依存治療で」(2009年8月20日19時24分)

 宮内庁は8月20日,三笠宮寛仁さま(63歳)が8月19日夕,アルコール依存の治療のため,東京都千代田区の宮内庁病院に再入院したと発表した。寛仁さまはアルコール依存症での入退院を繰り返している。
 註記)http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY200908200245.html
 
 ☆-4「三笠宮寛仁さま,退院」(2009年7月23日13時12分)

 宮内庁は7月23日,三笠宮寛仁さま(63歳)が東京都千代田区の佐々木研究所付属杏雲堂病院を退院した,と発表した。アルコール依存症の治療で7月3日から入院していた。
 註記)http://www.asahi.com/national/update/0723/TKY200907230202.html

 ☆-5「三笠宮寛仁さま再入院 アルコール依存の治療で」(2009年7月3日19時45分)

 宮内庁は7月3日,三笠宮寛仁さま(63歳)が東京都千代田区の佐々木研究所付属杏雲堂病院に入院したと発表した。アルコール依存の治療の一環として,ご自身で判断されたという。このため7月5日から7日までの青森県訪問は取りやめた。寛仁さまは6月24日から今月1日まで,宮内庁病院でアルコール依存による脱水や血圧低下などの治療を受けていた。
 註記)http://www.asahi.com/national/update/0703/TKY200907030490.html

 ☆-6「三笠宮寛仁さま退院」(2009年7月2日10時10分)

 宮内庁は7月1日,宮内庁病院に入院していた三笠宮寛仁さま(63歳)が退院した,と発表した。寛仁さまは先月24日からアルコール依存による脱水,血圧低下などの治療を受けていた。
 註記)http://sitesearch.asahi.com/.cgi/sitesearch/sitesearch.pl

 ☆-7「三笠宮寛仁さま入院」(2009年6月25日16時44分)

 宮内庁によると,三笠宮寛仁さまは6月24日夜,アルコール依存による脱水,血圧低下などの治療のため宮内庁病院に入院した。寛仁さまは約2年前から飲酒によるアルコール依存の症状で治療を続けている。入院は数日間の見込み。
 註記)http://www.asahi.com/national/update/0625/TKY200906250227.html
 補注)2015年12月時点で振りかえってみるに,寛仁は1990年代から癌をはじめとする疾病に悩まされつづけていたが,2012年6月6日に他界した。

 上記「☆-7~☆-1」以降における彼の疾病関連記事は,ウィキペディアにも記述されている。が,ともかく,アルコール依存症により入退院を繰り返していたのは(2010年1月8日には5度目の入院),ほかのガンなど諸病とは性質の異なる健康問題であった。

 --というわけで,ここに引照した新聞記事だけで4回(→5回)にもなる入退院を繰りかえしている。それも通常よくある重病というのでもなく,また別様の病状である「アル中」である。このように,現天皇の従弟である三笠宮寛仁の日常生活に関する病状が逐一報道されねばならないのは,日本国の象徴である平成天皇の従弟であるという事由以外に,彼らが国税を費消しつつ生活しているからである,と解釈することが妥当(?)かもしれない。

 それにしても寛仁「殿下」のひどいアル中ぶりは,本ブログの筆者は納税者の1人として,感心しない。63歳〔2009年12月時点の指摘〕にもなって自分の立場もわきまえずに,いつまでもアルコールからはなれられないのでは,日本国およびこの国民の象徴である天皇の従弟として「まことに恥ずかしい行状」である。

 この寛仁という皇族の一員の生活に充てられている国家予算は,「皇族費」(3億)の内訳のひとつに含まれており,彼に対しては最近の数値でいえば 5856万が支給されている。もちろん,無税(ノー・タックス)で手取り全額である。なお,寛仁の配偶者は,前首相麻生太郎の妹,麻生信子である。
憲仁画像1
 右側の写真をみよう。彼は既往症のために発声に障害がある。寛仁はだいぶ昔の出来事であるが,皇室の人間であることを辞めたいと騒いだけれども,結局もとの鞘に収まっていた。
出所)写真は,http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/46353584.html

 アル中という病気で「入退院を繰りかえす行為」とはだいぶ次元の異なっていたのが,彼のその「思いきって皇室離脱を願った〈発言の行為〉」(結果は失敗)であった。それは,アル中の問題とはまったく異質の問題であったから,そう簡単に比較の材料にするわけにはいかない。しかし,その両問題が根底でつながっていることは,当人に尋ねるまでもなくすぐに諒解できることがらである。

 2006年1月~2月にかけてのことであった。「皇位継承の問題」をめぐって,「天皇陛下の従弟であるこの寛仁」が相次いで発言を放っていた。これに対して『朝日新聞』2006年2月2日「社説」「寛仁さま,発言はもう控えては」という意見がなされた(清水建宇 執筆)。

 寛仁が発言した内容は主に,こういうものであった。「初代神武天皇から男系をもって連綿と続いている皇統は貴重である。敗戦後,皇籍を奪われた元皇族を復帰させてなどしても男系維持を図るべきである」。

 これは,いわゆる「万世一系」の幻想にもとづく発想でもあるが,そもそも神武天皇などという天皇〔しかも当時(?)は天皇という地位で呼称する王位などなかった〕が実在しておらず,神話の世界に登場した人物である。
 補注)皇居内には宮中三殿があり,そのうちでもいちばん高位にある神殿として《賢所》がある。そここには「天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)としての神鏡」を奉安してあるといわれる。
宮中三殿画像
 ところでまた,この天照大神は女神であるはずである。さらにいえば,神武天皇にも生んでくれた母親がいたものであるはずである。以上のように当たりまえに推測してみる。すると,寛仁のいう女系天皇否定論は,皇室神道における祖先神「天照大神」の『神としての存在』性とのあいだにおいて,まったく整合性をもたない。

 皇室にあっては「御家断絶を回避するための婚姻方法」として “婿を迎える” ことがない,という特殊な事情もあった。雲上人の世界での仕儀である。下々の連中とは「やること・なすこと」すべてが違わねば,格好がつかないとでも考えられているらしい。

 寛仁は,「男系連綿」である皇統譜は皇族男系のタネ(精子)を絶やさない連続性を維持せよと主張しているのである。だが自分のいっていたこの主張が,はたして「女性差別のための典型見本の見解」(思想・イデオロギー)である事実を,どう感じることができていたのか?
 
 当時,小泉首相に皇位継承のありかたを諮問された有識者会議は,女性天皇およびその子による女系天皇を認める報告書をまとめていたが,秋篠宮夫婦が男子を産んだのを契機にこの報告書は宙に浮いてしまった。皇室典範の改正も中断した。寛仁の発言は,当時のその報告書や首相の方針に異を唱えていたのである。

 秋篠宮の『息子のための「帝王教育」』を口にしていたのが,① における前掲『週刊新潮』の記事であった。これが冗談記事ではないとしたら,さらに主権在民の国家体制にあるはずの日本における話題なのだとしたら,いったいこの国はいまだ王国=皇国体制にあるのか疑われてもしかたあるまい。

 ⑥ 皇族の将来

 皇室の将来に関する議論であるゆえ,当事者である彼らに発言権がないとはいえない。しかし,平成天皇自身が「私は憲法を守ります」ともいっているように,国家の象徴として存在している人間とそのまわりの一族〔封建遺制的な存在そのものであるほかない彼ら〕が,「自分たちの今後について直接に利害・権利を声高に主張する」ような方途で,自由になんでもものをいわせることになったら,いったいどうなるのか。

 現行の憲法に規定されている「国事行為」(本来というかもともと天皇にしか認められていないそれであるが)という仕事に従事しているとされる〈彼ら一族〉が,主権在民というこの日本国の大原則を破壊しかねない集団になること必定である。一定の枠内で彼らに意見をいわせる機会を保証すべきではあっても,歯止めもないまま勝手になんでもいわせるのは問題である。

竹田恒泰画像 伏見宮家より分かれた北白川宮家の分家にあたる竹田宮家の血筋を引く「竹田恒泰(たけだ つねやす,1975年-)」みたく,慶應義塾大学大学院法学研究科で講師〔憲法学:「憲法特殊講義(天皇と憲法)」担当〕を務め,憲法学を研究しつつ評論家活動に従事している人間が皇室問題に対して意見をいうのは,まだ理解できる。彼に対してただちに,いちゃもんを付けるべき筋合いはない。正々堂々と相互に議論をやりとりし,徹底的に批判もしあえばよいのである。竹田はいまでは,いちおう庶民になっている元皇族の関係者である。
 補注)ただし,竹田恒泰は最近(2015年に近づく時期),突拍子もない妄論・暴説を吐くようになっており,要注意の〈知識人〉である。

 しかし,現憲法に全面的に護られながら生活じたいを維持していた,それも年間予算それも無税で6千万近くもの金子の支給(非課税)を受けていた人間として,いったい自身をどのように律しながら生きていくべきか,寛仁はもう一度真剣に再考しておくべきであった。

 もっとも「彼の姿」は「辞めたくても辞められなかった皇族」に「留まり続けている自分」が,多分辛くて,〈アル中〉患者となってしまい,入退院を繰りかえしていたと観察できる。みかたにもよるが非常に気の毒でもあり,大いに同情の余地があった。
 補注)いうまでもないが,この段落の記述も寛仁が生存中の話題であった。

 かといって,彼が「初代神武天皇から男系をもって連綿と続いている皇統は貴重である。敗戦後,皇籍を奪われた元皇族を復帰させてなどしても男系維持を図るべきである」などといって,歴史学・古代史の実証も裏づけもなにもない主張をするのは,言語道断である。

 歴史的・歴史学的になんらの根拠もない主張をもとに「男系天皇制」をとなえるのは,愚の骨頂であり,学識がないとかあるとか以前の問題次元において,彼に発言する資格はないと断ぜざるをえない。

 いま,日本の皇室という時代遅れの特権制度に対して必要な議論は,桜井大子編『雅子の氾濫-大衆天皇の〈政治学〉』(社会評論社,2004年)や板垣恭介『明仁さん,美智子さん,皇族やめませんか-元宮内庁記者から愛をこめて-』(大月書店,2006年)の方向性に即して議論していくほかない時期が到来している

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