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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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「原爆ホロコースト」の実態 と舞台裏 。

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原爆は戦争を終わらせる為でなく、人体実験、原爆の威力を試した事は数年前に真実を知りましたが、それによる奇形児の事は殆ど隠されていたのですね、本当に許しがたい事です。その後もずっと日本に原発を造らせ、基地はそのままその負担までさせている米国、それに従っている日本の官僚、政治家、今もなお属国状態の国、それが安倍総理肝入りの集団的自衛権で人まで差し出す事になる訳です。

 近頃は、日中でも、東日本の空の雲が、福島第一原発周辺の雲と同じように、ピンク色に染まっている。


拡散予報を活用して、プルームが来ないときに、マスクを着用して外出しても、呼吸器、特に気管支に、異常を感じるようになった。

これは、トリチウムによる被曝ではないかとの懸念が頭をもたげてきた。
原発稼動やら許せない
物凄くむかつく


奴らはまた爆破するのでどうせ福島の二の舞になるだけだ

3月10日は東京大空襲が行われた日。
東京は、1944年11月14日以降、106回に渡って空襲を受けた。

しかしなぜ米軍は、UN軍の敵国の国家元首の居城「皇居」を標的にしなかったのか?
戦争は、国家元首の居城を攻め落として元首を確保すれば、終わるのだ。

恐ろしいですね。この国は。
私達のルーツも、日本列島にだけ限定してはダメだと思います。過去に、
メソポタミアやエジプト辺りを荒らしまわった騎馬民族が、
極東にまで到達し、和な国に共存共栄していた様々なルーツを持つ人達を
殺害して回ったのは事実だと思います。日本国の正体だと思ってます。

部族の血や性格は、絶対に変わらないと思ってます。裏で手を結んでいる筈ですね。

とうとう、出てきましたか。
嘘も公然となりましたね。
だから、天皇は裁かれなかった、国民にとって
必要だからではなく、かれらにとっては、
功労者だったわけ。

何故皇居が爆撃されなかったのか不思議ですよね。
皇居の代わりに東京や全国の主要都市を焼き払ったと
考えたらいいでしょうか。

その後に広島、長崎がある。

天皇を生かしておくために一般市民が犠牲にされた。

東京大空襲で目標にされ殺されたのは下町の人々だ。皇居はやられなかった。そして、敗戦後天皇は責任問われるどころか、戦犯として処刑さえされなかった。それらを見れば様々な事実や正体は知れる。

裕仁という人は、特に日本人の幸せなど考えてはおらず、ご自分の
 人生について保身に回ったひとのようです。
 一般人と同じ。
 今、東電のかつてのトップ連中が蓄財したあげく日本から逃げ出して
 いますが、場合が場合なら裕仁氏だって、ほかのたくさんの国の例の
 ように逃げ出すことが有り得たわけだ。

  第二次大戦が裕仁氏も含めた権力者層の合意だったためにご自分と
 その周囲が安泰だったわけですね。

広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
 だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、
第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。

第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。
加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」

トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。 そして被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。

アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。

あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

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