ローツェは世界最高峰エベレスト(8848m)の直ぐ隣に聳えている。
世界第4位の高峰でありながらエベレストの隣にある為、あまり注目されない山だが、その山の南面である南壁は麓から3300mの高度差で頂上まで突き上げている。その壁の巨大さと8000m以上での岩壁登攀の困難さから、かつて8000m峰14座全山登頂を世界で初めて成し遂げたラインホルト・メスナーは「ヒマラヤの21世紀の課題」と言った。その壁が初めて登られたのが1990年の旧ソ連隊によってだった。その後の挑戦も続いたが、なかなか登れる壁ではなかった。同じく1990年にスロベニアの登山家 トモ・チェセンが単独登頂に成功したとの知らせもあったが、その後に事実の信憑性からこの登攀は疑惑の登攀(登っていなかった)と言われ、正式な記録として認定はされていない。
登山でその山の同じルートをコンディションのいい時期とそうでない時期に登るのとでは、困難の度合いに大きな差がある。
最大に困難なのは厳冬期(12月から1月)だ。ヒマラヤでは11月後半から高層のジェット・ストリームが降りてくる。その風速は高度8000m以上で風速50m以上、気温は-50℃以下で、
その条件下で登山をするとなると体感温度は-100℃以下になり。空気中の酸素は平地の3分の1、薄い酸素と寒気で油断をすればすぐ手・足が凍傷になってしまう。
強風の為に岩壁に付いている雪が飛ばされて、岩がむき出しになり、アイゼンを使った登攀がしにくくなる。
また寒気から身体を守る為に、ウエア等の装備も重装備になる。更に冬期により日照時間が短くなるので、昼間の行動時間が短くなる。
等、厳冬期でのヒマラヤ8000m峰登山は最大限に困難な登山となる。
日本の厳冬期8000m峰のバリエーション・ルートでの登山は群馬県山岳連盟が1987年12月にアンナプルナⅠ峰(8091m)や1993年12月に世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁での世界初の厳冬期初登頂に成功している。(バリエーション・ルート登山は一番登りやすい通常ルートではなくて、より困難な難しいルートより登頂する事。)
世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁の高度差は2200m、ローツェ(8511m)南壁は3300m。山の高さはエベレストより低いが、壁の高さは約1.5倍。
これを厳冬期に登るとすると両者で同等の困難さになると予想された。
日本の登山界にとって群馬岳連の厳冬期エベレスト南西壁以来久々の快挙だと思っていた。
田辺さんは厳冬期エベレスト南西壁にも参加して、2次隊で見事に登頂している。
ローツェ南壁と合わせて、その実力は今の日本でも最高のヒマラヤニストの1人だと私は思う。
厳冬期ローツェ南壁初登攀の快挙に対して、日本の新聞・マスコミは「頂上に登れなかったから、登山は失敗」というニュアンスで報道した。
田辺 治は、日本の登山家。元日本ヒマラヤ協会理事。元日本山岳会東海支部長。 ウィキペディア
生年月日: 1961年1月4日
生まれ: 愛知県 名古屋市
死没: 2010年9月28日
JAC東海支部でローツェ南壁を初登攀した田辺治さんがダウラギリで雪崩に遭った、との報道に驚く。これまで困難な登攀を危なげなくパスしてきたアルピニストだけになぜ?と思う。
雪崩に遭ってもしばらくは生きているものらしい。しかし高度が高いだけにわずかな呼吸困難でも窒息するかもしれない。場所が場所だけに救助活動も思うに任せないだろう。
奇跡を信じたい。いやーご心配をおかけしました、と帰ってきて欲しい。関係者のみなさんがそう思っている。何も協力できないが祈るしかない。
東京新聞からコピー
ヒマラヤ遭難、現地と捜索協議 登山家3人の家族や協会
2010年9月30日 12時55分
ネパール・ヒマラヤの高峰ダウラギリ(8167メートル)で雪崩に巻き込まれた日本人登山家3人が行方不明になった山岳遭難で、パーティーの隊長を務める名古屋市中区の田辺治さん(49)が所属する日本プロガイド協会(愛知県刈谷市)や家族は29日夜から30日にかけ、今後の捜索活動について現地と連絡を取り合うなど対応に追われた。
同協会によると、自力で脱出し無事だった兵庫県芦屋市の島田和昭さん(37)がベースキャンプに滞在。同協会は島田さんと協議し、捜索活動などについてネパール当局と検討する。
協会事務所がある登山用品店「穂高」には、行方不明になっている長野県白馬村の本田大輔さん(32)の両親らが集まり、現地からの情報を待った。島田さんから29日夜、衛星電話で「自分は無事。田辺さんたちの捜索に加わる」と連絡があったという。
厳冬期、困難なルートを選びながらも「人を死なさない隊長」として知られていたが、ダウラギリのノーマルルートの下部キャンプ移動中に雪崩の直撃を受けて遭難。 遺体は未だに発見されていない。
全14座制覇の竹内洋岳氏が薫陶を受けた先輩。
竹内さんが初めて登頂した8000m峰は1995年、マカルー北東稜西稜初登攀でしたが、当時中堅登山家だった田辺治さんもその登山隊の隊員でした。竹内さんにとって田辺さんはヒマラヤの先輩に当たる人です。
世界第4位の高峰でありながらエベレストの隣にある為、あまり注目されない山だが、その山の南面である南壁は麓から3300mの高度差で頂上まで突き上げている。その壁の巨大さと8000m以上での岩壁登攀の困難さから、かつて8000m峰14座全山登頂を世界で初めて成し遂げたラインホルト・メスナーは「ヒマラヤの21世紀の課題」と言った。その壁が初めて登られたのが1990年の旧ソ連隊によってだった。その後の挑戦も続いたが、なかなか登れる壁ではなかった。同じく1990年にスロベニアの登山家 トモ・チェセンが単独登頂に成功したとの知らせもあったが、その後に事実の信憑性からこの登攀は疑惑の登攀(登っていなかった)と言われ、正式な記録として認定はされていない。
登山でその山の同じルートをコンディションのいい時期とそうでない時期に登るのとでは、困難の度合いに大きな差がある。
最大に困難なのは厳冬期(12月から1月)だ。ヒマラヤでは11月後半から高層のジェット・ストリームが降りてくる。その風速は高度8000m以上で風速50m以上、気温は-50℃以下で、
その条件下で登山をするとなると体感温度は-100℃以下になり。空気中の酸素は平地の3分の1、薄い酸素と寒気で油断をすればすぐ手・足が凍傷になってしまう。
強風の為に岩壁に付いている雪が飛ばされて、岩がむき出しになり、アイゼンを使った登攀がしにくくなる。
また寒気から身体を守る為に、ウエア等の装備も重装備になる。更に冬期により日照時間が短くなるので、昼間の行動時間が短くなる。
等、厳冬期でのヒマラヤ8000m峰登山は最大限に困難な登山となる。
日本の厳冬期8000m峰のバリエーション・ルートでの登山は群馬県山岳連盟が1987年12月にアンナプルナⅠ峰(8091m)や1993年12月に世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁での世界初の厳冬期初登頂に成功している。(バリエーション・ルート登山は一番登りやすい通常ルートではなくて、より困難な難しいルートより登頂する事。)
世界最高峰エベレスト(8848m)南西壁の高度差は2200m、ローツェ(8511m)南壁は3300m。山の高さはエベレストより低いが、壁の高さは約1.5倍。
これを厳冬期に登るとすると両者で同等の困難さになると予想された。
日本の登山界にとって群馬岳連の厳冬期エベレスト南西壁以来久々の快挙だと思っていた。
田辺さんは厳冬期エベレスト南西壁にも参加して、2次隊で見事に登頂している。
ローツェ南壁と合わせて、その実力は今の日本でも最高のヒマラヤニストの1人だと私は思う。
厳冬期ローツェ南壁初登攀の快挙に対して、日本の新聞・マスコミは「頂上に登れなかったから、登山は失敗」というニュアンスで報道した。
田辺 治は、日本の登山家。元日本ヒマラヤ協会理事。元日本山岳会東海支部長。 ウィキペディア
生年月日: 1961年1月4日
生まれ: 愛知県 名古屋市
死没: 2010年9月28日
JAC東海支部でローツェ南壁を初登攀した田辺治さんがダウラギリで雪崩に遭った、との報道に驚く。これまで困難な登攀を危なげなくパスしてきたアルピニストだけになぜ?と思う。
雪崩に遭ってもしばらくは生きているものらしい。しかし高度が高いだけにわずかな呼吸困難でも窒息するかもしれない。場所が場所だけに救助活動も思うに任せないだろう。
奇跡を信じたい。いやーご心配をおかけしました、と帰ってきて欲しい。関係者のみなさんがそう思っている。何も協力できないが祈るしかない。
東京新聞からコピー
ヒマラヤ遭難、現地と捜索協議 登山家3人の家族や協会
2010年9月30日 12時55分
ネパール・ヒマラヤの高峰ダウラギリ(8167メートル)で雪崩に巻き込まれた日本人登山家3人が行方不明になった山岳遭難で、パーティーの隊長を務める名古屋市中区の田辺治さん(49)が所属する日本プロガイド協会(愛知県刈谷市)や家族は29日夜から30日にかけ、今後の捜索活動について現地と連絡を取り合うなど対応に追われた。
同協会によると、自力で脱出し無事だった兵庫県芦屋市の島田和昭さん(37)がベースキャンプに滞在。同協会は島田さんと協議し、捜索活動などについてネパール当局と検討する。
協会事務所がある登山用品店「穂高」には、行方不明になっている長野県白馬村の本田大輔さん(32)の両親らが集まり、現地からの情報を待った。島田さんから29日夜、衛星電話で「自分は無事。田辺さんたちの捜索に加わる」と連絡があったという。
厳冬期、困難なルートを選びながらも「人を死なさない隊長」として知られていたが、ダウラギリのノーマルルートの下部キャンプ移動中に雪崩の直撃を受けて遭難。 遺体は未だに発見されていない。
全14座制覇の竹内洋岳氏が薫陶を受けた先輩。
竹内さんが初めて登頂した8000m峰は1995年、マカルー北東稜西稜初登攀でしたが、当時中堅登山家だった田辺治さんもその登山隊の隊員でした。竹内さんにとって田辺さんはヒマラヤの先輩に当たる人です。