谷口さんが登山を始めるきっかけとなった冒険家、植村直己は1984年2月、米アラスカ州のマッキンリー山中で行方不明となったが、遭難死に至るまでの詳しい経緯は30年以上たった今も明らかになっていない。自分の限界を追求する登山家の最期は概してそのようなものである。天から授かった「享年」はともに43。人間の生涯としては悔やまれるが、登山家としては決して短かったわけではない。合掌。
内氏の登攀スタイルは、
シェルパなどに食料などの荷役をさせないで、
また、
高度8000m級の山の酸素濃度は地上の25%くらいになってしまうが、
酸素ボンベ無しで高峰に挑む。
この登攀スタイルは、
アルパインスタイルと言われ、
食料などの備蓄がとぼしいこともあって速攻、短期攻略で頂上をめざす。
竹内氏は、
14座中10座をこのアルパインスタイルで登頂した。
14座登頂には偶然とは言いがたい、不思議なジンクスがある。
10座目の登頂をめざしているときに、
多くの登山家が命を落としているのだ。
2桁直前の「9」は、
不吉なプレッシャーを与える数字なのだろう。
14座登頂を果たした竹内氏も、
2007年、10座目のガッシャーブルムⅡ峰の登攀時に、
雪崩に遭って300m転落して再起不能になりかねない大けがをしている。
日本人で8000m峰14座中最多の記録を持っている登山家は最多で9座だ。
なぜか、この9座の記録を持っている登山家が4名もいる。
山田昇、名塚秀二、田辺治、近藤和美氏で、
すでにそのうち3名は故人で全員が10座を目の前にして山で遭難死している。
山田昇は、名実ともにまさしく「山だ!昇る!」を体現した登山家だ。
くったくのない朴訥とした明るさで誰にも好かれ、
極限状況にあっても他者へのやさしさを忘れない希有な登山家だったようだ。
しかし、
登山の自慢話が嫌いで、
山行の記録をあまり残さなかったのでマスコミにはあまり出なかったので一般の知名度は低い。
山田さんはまさに「ヒマラヤを駆け抜ける男」だった。群馬県沼田市のリンゴ農家に生まれ、高校山岳部時代から登山を始めて、社会人になって上京した後も故郷の群馬県沼田市にある
沼田山岳会で活動した。やがてずば抜けた登山のセンスと誰からも慕われる人間性から、群馬県山岳連盟への入会を勧められた。
当時の群馬県山岳界は直ぐ近くに岩壁登攀のメッカである谷川岳が控えていながらヒマラヤ登山では他県に比べて遅れていた。
その群馬県でも1970年以降ヒマラヤ登山への気運が高まり、群馬県山岳連盟の中に「海外登山研究会」が作られた。
若手のホープだった山田さんもその1員となった。
山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。
1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂
この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀
現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。
ドキュメンタリー作家 故 佐瀬稔氏著 「ヒマラヤを駆け抜ける男 山田昇と青春譜」
現 群馬県山岳連盟副会長の八木原圀明氏著 「8000mの勇者たち 山田昇とその仲間の足跡」
これらには山田さんの人生、ヒマラヤ登山、そして冬のマッキンリーで消息を経つまでの事が書かれている。
山田さんがこれほどの山歴を持ちながら、日本のマスコミに注目されなかったのは、その人柄からだった。
自分の登山歴を決して人に誇る事がなく、自分のヒマラヤ登山を黙々と実践し、楽しんだ。それ故に多くの登山仲間から慕われ、
その為に、多くのヒマラヤ登山隊から誘われて参加した。
これを書いている私も含めてそうだが、人はとかく自分のした事に対して、人に話したがったり、自慢したがったりするものだ。
まして命がけのヒマラヤ登山の様な冒険なら尚更そういうものだ。
現在もたいした登山をしていないのに、それをマスコミに売ってテレビ出演している残念な登山家がいる。
日本のマスコミもそのような登山家を受け入れている。本物の登山家はまだ多くいるはずなのに。
山田さんは気が付いたら日本人初のヒマラヤ8000m峰14座全山登頂への記録に近づいていた。
全山登頂へのチャレンジを登山の先輩や仲間から後押しされ、
やっと本人もその気になった感じだった。
1988年5月5日に日本テレビがチョモランマ(エベレスト)の頂上から生中継に成功した。
その時は山田さんがチョモランマ(エベレスト)南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)に成功した時だ。頂上撮影隊に先行して山田さんたち
縦走隊が中国側から頂上を経由して、ネパール側に縦走した。テレビはその一部始終を放送していた。
私はこの生放送をテレビで見ていた。山田昇という登山家をこの時初めて知った。正直、格好いいと思った。
その時から山田さんと群馬県山岳連盟のファンになった。
しかしそれから間もなくして山田さんは冬期5大陸最高峰登頂の記録を賭けて登った冬のマッキンリーに消えた。
本気で8000m峰全山登頂に心を燃やし始めた矢先だった。
私が山田さんの多くを知ったのはそれからだった。
山の清涼な空気を感じさせると言われたその人柄も含めて、ぜひともこの不世出の登山家に会いたかったと思います。
内氏の登攀スタイルは、
シェルパなどに食料などの荷役をさせないで、
また、
高度8000m級の山の酸素濃度は地上の25%くらいになってしまうが、
酸素ボンベ無しで高峰に挑む。
この登攀スタイルは、
アルパインスタイルと言われ、
食料などの備蓄がとぼしいこともあって速攻、短期攻略で頂上をめざす。
竹内氏は、
14座中10座をこのアルパインスタイルで登頂した。
14座登頂には偶然とは言いがたい、不思議なジンクスがある。
10座目の登頂をめざしているときに、
多くの登山家が命を落としているのだ。
2桁直前の「9」は、
不吉なプレッシャーを与える数字なのだろう。
14座登頂を果たした竹内氏も、
2007年、10座目のガッシャーブルムⅡ峰の登攀時に、
雪崩に遭って300m転落して再起不能になりかねない大けがをしている。
日本人で8000m峰14座中最多の記録を持っている登山家は最多で9座だ。
なぜか、この9座の記録を持っている登山家が4名もいる。
山田昇、名塚秀二、田辺治、近藤和美氏で、
すでにそのうち3名は故人で全員が10座を目の前にして山で遭難死している。
山田昇は、名実ともにまさしく「山だ!昇る!」を体現した登山家だ。
くったくのない朴訥とした明るさで誰にも好かれ、
極限状況にあっても他者へのやさしさを忘れない希有な登山家だったようだ。
しかし、
登山の自慢話が嫌いで、
山行の記録をあまり残さなかったのでマスコミにはあまり出なかったので一般の知名度は低い。
山田さんはまさに「ヒマラヤを駆け抜ける男」だった。群馬県沼田市のリンゴ農家に生まれ、高校山岳部時代から登山を始めて、社会人になって上京した後も故郷の群馬県沼田市にある
沼田山岳会で活動した。やがてずば抜けた登山のセンスと誰からも慕われる人間性から、群馬県山岳連盟への入会を勧められた。
当時の群馬県山岳界は直ぐ近くに岩壁登攀のメッカである谷川岳が控えていながらヒマラヤ登山では他県に比べて遅れていた。
その群馬県でも1970年以降ヒマラヤ登山への気運が高まり、群馬県山岳連盟の中に「海外登山研究会」が作られた。
若手のホープだった山田さんもその1員となった。
山田さんは登山センスの他にも、ヒマラヤ登山に不可欠な高所順応力がずば抜けていた。これは8000m峰にチャレンジする上で大きな力になる。
その後、多くのヒマラヤ登山隊に参加した山田さんはヒマラヤで活躍した。
1978年秋 ダウラギリⅠ峰南東稜より初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1981年春 カンチェンジュンガ主峰登頂(日本ヒマラヤ協会)
1982年秋 ダウラギリⅠ峰北面ペアルート初登攀(カモシカ同人)・・・世界初
1983年秋 ローツェ(8511m)西壁より登頂(カモシカ同人)
1983年冬 厳冬期エベレスト(8848m)南東稜より第3登(カモシカ同人)
1985年夏 K2(8611m)南東稜より無酸素登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年秋 エベレスト無酸素登頂(映画「植村直巳物語」撮影隊)
1985年冬 厳冬期マナスル無酸素登頂(斎藤安平氏と2人でのアルパイン・スタイル)
1987年冬 厳冬期アンナプルナ南壁無酸素初登攀(群馬県山岳連盟)・・・世界初
1988年春 エベレスト南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)・・・世界初
1988年秋 シシャアンマ主峰・チョーオユーをアルパイン・スタイルで継続登頂(日本ヒマラヤ協会)
1985年と1988年にはハットトリック(1年で8000m峰を3回登る事)を記録している。
その他にも7000m峰で2座を初登頂した。
ヒマラヤ登山22回、8000m峰14座中、9座に登頂
この中で特筆すべき記録をまとめると
エベレスト三冠王(春・秋・冬) 無酸素登頂 南北縦走
K2無酸素登頂 厳冬期マナスル無酸素登頂
バリエーション・ルートでは ダウラギリⅠ峰南東稜・ペアルート、アンナプルナ南壁の無酸素登攀
現在でも日本人の登山家でこれほどの記録を持っている人はいない。日本最強の登山家と言われる由縁だ。
1980年代当時、世界の登山界では世界初の8000m峰14座全山登頂を成し遂げたオーストリアの超人ラインホルト・メスナー、それにつづくポーランドのイエジ・ククチカが人並み外れた登山記録を持っていたが
山田さんはこれに匹敵する様な登山を実践した。
ドキュメンタリー作家 故 佐瀬稔氏著 「ヒマラヤを駆け抜ける男 山田昇と青春譜」
現 群馬県山岳連盟副会長の八木原圀明氏著 「8000mの勇者たち 山田昇とその仲間の足跡」
これらには山田さんの人生、ヒマラヤ登山、そして冬のマッキンリーで消息を経つまでの事が書かれている。
山田さんがこれほどの山歴を持ちながら、日本のマスコミに注目されなかったのは、その人柄からだった。
自分の登山歴を決して人に誇る事がなく、自分のヒマラヤ登山を黙々と実践し、楽しんだ。それ故に多くの登山仲間から慕われ、
その為に、多くのヒマラヤ登山隊から誘われて参加した。
これを書いている私も含めてそうだが、人はとかく自分のした事に対して、人に話したがったり、自慢したがったりするものだ。
まして命がけのヒマラヤ登山の様な冒険なら尚更そういうものだ。
現在もたいした登山をしていないのに、それをマスコミに売ってテレビ出演している残念な登山家がいる。
日本のマスコミもそのような登山家を受け入れている。本物の登山家はまだ多くいるはずなのに。
山田さんは気が付いたら日本人初のヒマラヤ8000m峰14座全山登頂への記録に近づいていた。
全山登頂へのチャレンジを登山の先輩や仲間から後押しされ、
やっと本人もその気になった感じだった。
1988年5月5日に日本テレビがチョモランマ(エベレスト)の頂上から生中継に成功した。
その時は山田さんがチョモランマ(エベレスト)南北の初縦走(日本・中国・ネパール3国友好登山)に成功した時だ。頂上撮影隊に先行して山田さんたち
縦走隊が中国側から頂上を経由して、ネパール側に縦走した。テレビはその一部始終を放送していた。
私はこの生放送をテレビで見ていた。山田昇という登山家をこの時初めて知った。正直、格好いいと思った。
その時から山田さんと群馬県山岳連盟のファンになった。
しかしそれから間もなくして山田さんは冬期5大陸最高峰登頂の記録を賭けて登った冬のマッキンリーに消えた。
本気で8000m峰全山登頂に心を燃やし始めた矢先だった。
私が山田さんの多くを知ったのはそれからだった。
山の清涼な空気を感じさせると言われたその人柄も含めて、ぜひともこの不世出の登山家に会いたかったと思います。