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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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竹内 洋岳(たけうち ひろたか、1971年1月8日 – )は、日本の登山家で、世界で29人目

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 世界8000m峰完登者一覧
 全ての8000m峰の登頂に成功した最初の人物はラインホルト・メスナーで、1986年10月16日に達成した。その1年後、イイジ・ククチカが2人目の達成者となった。日本人では2012年5月26日、竹内洋岳が世界で29人目の日本人初の達成者となった。
名前 達成年 国籍
1 ラインホルト・メスナー 1970-1986 イタリア
2 イイジ・ククチカ 1979-1987 ポーランド
3 エアハルト・ロレタン 1982-1995 スイス
4 カルロス・カルソリオ 1985-1996 メキシコ
5 クシストフ・ヴィエリツキ 1980-1996 ポーランド
6 フアニート・オヤルサバル 1985-1999 スペイン
7 セルジオ・マルティーニ 1976-2000 イタリア
8 朴英碩(パク・ヨンソク) 1993-2001 韓国
9 厳弘吉(オム・ホンギル) 1988-2001 韓国
10 アルベルト・イニュラテギ 1991-2002 スペイン
11 韓王龍(ハン・ワンヨン) 1994-2003 韓国
12 エド・ベスターズ 1989-2005 アメリカ
13 シルビオ・モンディネッリ 1993-2007 イタリア
14 イバン・バレーホ 1997-2008 エクアドル
15 デニス・ウルブコ 2000-2009 カザフスタン
16 ラルフ・ドゥイモビッツ 1990-2009 ドイツ
17 ベイカー・グスタフソン 1993-2009 フィンランド
18 アンドリュー・ロック 1993-2009 オーストラリア
19 Jo?o Garcia 1993-2010 ポルトガル
20 Piotr Pustelnik 1990-2010 ポーランド
21 エドゥルネ・パサバン 2001-2010 スペイン
22 Abele Blanc 1992-2011 イタリア
23 Mingma Sherpa 2000-2011 ネパール
24 ゲルリンデ・カルテンブルンナー 1998-2011 オーストリア
25 Vassily Pivtsov 2001-2011 カザフスタン
26 Maxut Zhumayev 2001-2011 カザフスタン
27 Jae-Soo Kim 2000-2011 韓国
28 マリオ・パンツェリ 1988-2012 イタリア
29 竹内洋岳 1995-2012 日本
30 金昌浩(キム・チャンホ) 2005-2013 韓国
31 ラデック・ヤロス 1998-2014 チェコ
<参考>
 代表的な日本人登山家
 ・山田昇   8000m峰9座に延べ12度登頂
 ・名塚秀二 8000m峰9座登頂
 ・田辺治   8000m峰9座登頂
 ・小西浩文 8000m峰のうち6座を無酸素登頂
 ・戸高雅史 8000m峰のうち5座を無酸素登頂



14座登頂の意味

――14座完全登頂というのは、やはり大きな意味を持っていますか?
記録としては、すでに「いまさら」のものです。イタリア人のラインホルト・メスナーが14座完全登頂を初めて果たしたのは、いまから25年近く前の1986年です。世界中で30人近い登山家が達成していて、記録としての珍しさもない。私自身、14座を達成した登山家を、何人も間近で見てきました。私はすべて無酸素での登頂ではありませんし、記録としては平凡です。
1989年に亡くなられた山田昇さん※が達成していたら、年代的におそらく世界で3、4人目になっていたと思います。私の記録より、もっと大きな意味があったはずです。しかし、すでに多くの人が達成しているいまでは、日本人初という意味さえあまり感じません。すべて人間がやることなんですから、国籍をどうこう言うようなものでもない気がします。
しかし、日本人にとってはすごく、すごく特別な記録であることは確かです。世界的には「いまさら」な記録を、日本人がいまだに達成していないのはそもそも大問題で、私はそれが悔しくてしかたがなかった。マナスルを初登頂したのは日本隊なのに。14座に挑戦できる環境に身をおいているゆえに、本当に悔しかったのです。

いまとなっては、山田さんや名塚秀二さん※らの14座を目ざして命を落とした皆さんのことも、忘れられてしまうような気がしていました。命を賭けるというのは、崇高なことだと私は思います。山田さんや名塚さんの功績が忘れられ、それどころか日本人が14座を達成していないことから目を背けるような様子が、私には悔しくして腹立たしくてしかたがなかったんです。ならば私が、と思ったのは事実です。

※山田昇…1950年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に12回登頂。1989年に冬季マッキンリー登攀中に遭難死。
※名塚秀二…1956年生まれ、ヒマラヤ登山家。8000m峰9座に登頂。2004年、10座目となるアンナプルナⅠ峰に挑戦中、雪崩により死亡。
――最初から14座を目指していたわけではなかったのですね?
最初から、ではありません。違いました。ドイツ人のラルフとオーストリア人のガリンダというパートナーに出会い、「3人で14座達成しよう」と決めたときに、日本人初の14座サミッターになり、山田さん、名塚さんらの先人の功績が少しでも振り返られる状況を作りたい、と。そういうことも含めて、14座というのは、私にとってすごく大切な、特別なものです。それが、やっと、終わりました。

――2007年にガッシャブルムⅡ峰で、雪崩に巻き込まれて背骨を折る大ケガを負いました。それでも14座への挑戦を続けた原動力とは?
いや、特別な原動力はあまりないですよ。本当なら私はガッシュブルムで死んでいたわけです。たまたまそこにいた多くの人たちが助けてくれたから、いまもこうしてここにいる。私の命は、彼らに新しくもらったもの。山でもらった命です。だから、山で使い切っていいと思うんですよ。

――それにしても、再び山と立ち向かう際に、恐怖心はなかったのですか?
いやあ、ないですね。人間ですからどこかにあったかもしれませんが、それを上回るぐらいに登りたい意思があったと思います。自分で登って降りてこないと、山登りにならない。ガッシャブルムは、自分で降りてきていない。私が考える登山になっていなくて、それが気持ち悪くて腹立たしかった。
自分なりの勝手な決着のつけ方ですが、せめて事故があったところまで行って、自力で降りてこないと、どうにも納得がいかなかったんですね。それをしないで生きていくのはおかしい、と。それだけに、ガッシャブルムを登り直した際には、得も言われぬ感情が沸き起こってきました。

――どんな感情が爆発しましたか?
泣きました。涙が出た理由はひとつではなく、悲しい、痛い、悔しい、嬉しいといった感情の発露として泣いたわけでもなく、いっぱいになった頭のなかを整理するために、泣くという行為をしたのかしれません。

――ケガからほぼ1年後の登頂は、「奇跡的な回復」とメディアに伝えられました。
それは大げさです(笑)。翌年にもう一度ガッシャブルムへ行くとなると、必然的に時期は決まります。登山ができる時期は、限られていますから。リハビリが間に合わなくても、日本を出ちゃおうと思っていました。1年でパーフェクトな身体になるとは思っていなかったですし、這ってでも行くつもりでしたので。
まずはとにかく、ベースキャンプまで辿り着く。ベースキャンプへ着いたら、次はキャンプ1を、その次はキャンプ2を目ざす。山頂への過程も含めて、リハビリという理解でした。
事故のダメージがちゃんと抜けたのは、去年ぐらいでしょうか。ただ、事故前の身体とは違います。日常生活に支障はなく、山でも特別な問題はありませんが、指先まで神経が通っている感覚は、右足と左足では異なります。背骨の骨折とは別に、肋骨が変形治癒しているのもありまして……(といってシャツをめくり、右手で肋骨を示す)。

――あっ、左側の肋骨がポッコリと浮き上がっていますね。
飛び出しているような感じでしょう? 息が荒くなると痛んでくるんです。事故翌年のガッシャブルムではあまり気にならなかったんですが、09年のローツェは標高がガッシャブルムより500mほど高いので、どうしも呼吸が乱れるんです。そうすると、痛くて、痛くて。手で抑えて胸が開かないようにしたら、余計に苦しくなったり(笑)。

――苦しみという意味では、今回のダウラギリではビバークをしましたね。下山時に日が沈み、キャンプ3へ戻るルートが見つけられなかったそうで。
キャンプ3から頂上を目ざしているときから、たとえ遅くなっても今日のうちに山頂へ行き、帰りはビバークも有り得ると覚悟を決めました。ですから、登る途中でビバークできそうなところをいくつか探しておきました。山登りは想像のスポーツで、色々なことを想像して楽しむんですね。いかに他方向に、多重に想像できるかを山のなかで競い合う。いっぱい想像した者が、いっぱい楽しめる。
大きくいえば、あの山のあのルートを、あんなふうにして登りたい、という想像からすべてが始まっているのかもしれません。誰も登っていない山の、誰も登っていないルートを、誰も登っていない方法で登る。それを思い描けた者が、実際に行ける。想像力を競争している、ともいえるでしょう。

日本の登山は14座の呪縛から自由に


ダウラギリのC2、6600m付近。撮影:中島ケンロウ


――これからの目標も、すでに描いているのでしょうか?
どこまで登山を続けていけるのかに、私は挑戦しています。そのなかにきっと、14座があったんです。死なずに続けられたからこそ14座に到達したのであって、14座を登り切ったとは思っていない。地球上には無数の山があるわけで、裏返せばまだその14コしか登っていません。登り切ったとは、とてもじゃないですが言えないですよ。いままでも好きな山に登ってきたので、これからも好きな山に登るのかなあ。いずれにしても、ここから先は新しい登山のスタートです。

――と、いいますと?
14座をやり残してきたがゆえに、日本には“古い登山”が残ってしまっていたと私は考えています。古いものが混じった増築の登山ではなく、これからは新しい登山、新しい14座がスタートしていいでしょう。
たとえば、私はマカルー、エベレスト、K2で酸素を使っていますから、次はすべて無酸素の14座に挑むとか、ノーマルノートではなくバリエーションルートで14座を目ざすとか、そういうことをやってみたいと思う人が出てきたらいいですね。
私はこれで、過去の人間になっていきます。古い時代は終わりました。「竹内洋岳」ではなく、14座とかヒマラヤが、人々のなかに残っていけばいい。地図帳でしかみたことのなかったヒマラヤに行ってみたい、せめてカトマンズの街まで行ってみたい、できたら自分も登山をしてみたい、といった人が少しでも増えてくれたら、というのが私の願いです。
今回こうして取材を受けているのも、私がヒマラヤの話をすることで、8000mの山々を立体的に感じる人がいるかもしれない。私は幸運にも14座への挑戦を続けることができました。恵まれた環境にいるわけですから、これは義務でも使命でもなく、続けられた者がなすべき役割だと思っています。

――そうした啓蒙的な活動と並行して、登山も続けていくわけですよね?
組織に属していないといけない、お金がないと行けないというのが、1990年代までの古い登山でした。でも、実際には来週行くことだってできるんです。サッカーだって、国内を飛び出して世界でプレーしている選手がいるじゃないですか? あれと同じです。現代の登山は、ずっとずっと自由です。だからこそ、どんどん行ってほしいと僕は思っています。
ベースキャンプなんて、壮大な秘密基地ごっこですよ。何を持っていこう、何をして遊ぼう、テーブルクロスは何色にしようかなあ、どんな絵を飾ろうかなあ、なんて考えるのは、最高に楽しいじゃないですか!






――14座登ることはどういった意味を持つのですか?

竹内: 意味はない。

 ただ、意味がないことが積み重なって、意味を持ってきた。私は14座のうち3座は酸素ボンベを使っている。現在はこういうのは無酸素でやるのが常識になってきている。なので記録的には、あまり大した意味はない。

 もともとただの地球の出っ張りであった山に、8000メートルというカテゴリーが誕生し、14座という数字ができて、人がそこに向かっていく。いろいろな国の人達が登山し、エベレストだって世界最高峰になったから、みんながよってたかって登っている。そこにいろいろな歴史が生まれて、ドラマが生まれてくる。……そうすると、ただの地球の出っ張りが個性を持ち始める。そこに人は惹きつけられて、登山をし始める。

 例えばエベレストだと、いろいろな人がいろいろな事をやっていて、さまざまなルートで登っている。ある人が「1970年代の誰それの登山はすごかったな。同じルートで登ってみたいな」と思ったりしたとする。そうすると自然と人間が、登山というもので結びつく。

 記録という意味では今更なものだが、歴史を振り返ってみると、関わった人など、そのドラマには価値があると思う。私が14座登り切れたのは、山田さん(筆者注:山田昇。14座中9座に登頂。1989年冬期マッキンリー挑戦中に死亡)や名塚さん(筆者注:名塚秀二。14座中9座に登頂。2004年にアンナプルナで雪崩に巻き込まれ死亡)などから、ヒマラヤやエベレスト登山を受け継いできたから。そして通り過ぎていく。受け継いでいなかったら、ヒマラヤには行ってないだろうし、14座も続けていなかったと思う。

 自然と人が登山というもので結びついたがゆえに、意味がないものが私にとって意味を持ち始めた。それが登山の魅力だと思う。記録として意味はあるのかと言われると意味はない。でも、想いはある。



14座制覇の女性登山家
ゲルリンデ・カルテンブルンナー

ゲルリンデ・カルテンブルンナーは、標高8000メートルを超える14の山をすべて無酸素で登頂した史上初の女性登山家。オーストリア出身、42歳の元看護師。極めて危険な状況に直面しても、ほとんどの場合「まだまだ安全」と感じるという。

――なぜ山に登るのですか?

 最小限の装備だけ持って山に入ると、本当の自分になれます。完全に集中している瞬間に、自由を感じます。ただ登ること以外、何も存在しないんです。

――肌身離さず持っているものはありますか?

 チベットで手に入れたブレスレットです。パワーとエネルギー、成功、健康を象徴する石がついているのよ。

――これまでで最も恐ろしかった瞬間は?

 2007年のある朝、ネパールのダウラギリで雪崩に遭い、テントごとさらわれました。流れが止まった時は真っ暗で、どっちが空で、どっちが地面なのかわかりませんでした。でも思ったんです。「息をしているから、大丈夫」ってね。いつも携帯している小さなナイフでテントに穴を開け、少しずつ外に抜け出しました。近くのテントにいたはずのスペイン人登山家を探しましたが、3人のうち2人は死んでいました。その瞬間、初めて山から逃げ出したくなったんです。

――そんな体験からどうやって立ち直ったんですか?

 同じ登山家である夫と話すことで救われました。あの悲劇をなかったことにする方法はないと悟りました。自分が山に登らずにはいられないこともね。1年後、私は同じ場所に戻りました。そうしたら、見たこともないほど美しい朝日が昇ったんです。喜びと悲しみって、時にはすぐ近くにあるものなんですね。

――同じ夢をもつ若者に、何かアドバイスをお願いします。

 一番大事なのは情熱。他人の言うことが、あなたにとってベストとは限らない。自分の魂、肉体、本能の声を聞いて。本当に好きなら、夢をつかむ方法は見つかるはず。でも情熱がなければ、方法が見つかっても無意味だわ。


祝 竹内洋岳氏8000m峰14座登頂

 ヨーロッパでは登山は一流のスポーツとして認められていて、スター級の登山家は英雄的存在であり、またたくさんのスポンサーがついていて大金持ちであったりして、たとえばラインホルト・メスナーは大きな城に住んでいる。
 しかし日本では登山は趣味の延長くらいの位置にしかなく、登山で飯を食っているプロは、ガイド業を除いては竹内洋岳氏、ただ一人しかいない。

 その竹内洋岳氏は、ヒマラヤ8000m越えの山(ジャイアンツ)14座の登頂に挑戦中であったわけで、私も去年そのことについて読書評を書き、「残すはあと2座のみ。栄光の日はいつ訪れることになるのか」と結んだのだが、それを書いて1年もたたぬうち、5月26日偉業達成となった。

 登山の行為のうち、この14座登頂がいかに偉業かというと、それはあのローツェ南壁登攀の次くらいの難易度といえばその凄さが容易に分かると思う。…分からんか。

 8000mを越える高さは、「デスゾーン」と呼ばれ、酸素濃度は平地の3分の1だし、低温、気候等、とうてい人間はおろか生物の存在できるところではない。
 それでも、先鋭的登山家は自然の摂理を無視して、デスゾーンを突破して8000m級の山の登頂に立つ。
 当然に危険極まる行為であり、死の危険が高い。
 8000m級の山に挑戦したさいの死亡率は、wikipediaに詳しくのっているけど、(→ここ)、登山術が発達した1990年以後の記録では、死亡率の高い順に、カンチェジュンガ 22% アンナプルナ 19.7% K2 19.7% と5人に1人が亡くなるというハード極まる山が並ぶ。近年観光化されフィックスロープが張り巡らされたエベレストでも4.4%の死亡率だ。
 確率計算でいえば、14座登って、命を失わずに下山できる可能性は約20%。10人トライして、2人しか成功しないという低い確率。しかもここでの失敗は、すなわち死ということであり、あらゆるスポーツでも死亡率80%なんて無茶な競技はこの「ジャイアンツ14座登頂」くらいなものである。しかもそれに挑む者はトップレベルのクライマーばかりなのであり、その10人のうちの2人しか成功できないというのは、とんでもない難事業なのであって、これを達成できたことは、すなわち国家表彰レベル、国民栄誉賞を与えていいくらいの偉業なのである。
 じっさい、竹内氏のパートナーで一足先に14座登頂を達成したラルフ・ドゥイモビッツ氏は表彰を受けている。

 ところで、竹内氏は日本人初のジャイアンツ14峰登頂者である。
 マナスルの初登頂が1956年の日本隊であることから分かるように、日本の登山の歴史は古く、実力ある登山者も多いのに、竹内氏が初めてであったのは、不幸な歴史がある。
 14座を狙っていた日本のクライマーには、山田昇、田辺治といった世界に誇るモンスター級の登山家がいた。山田昇は「史上最強の登山家」が代名詞であったし、田辺治はローツェ南壁の登攀成功者である。彼らは14座登頂の十分な資格者だったはずなのだが、残念なことに9座登ったところで、遭難死を遂げてしまった。
 9座というのは、日本の山岳会にとって嫌なジンクスとなり、この二人に加え、9座を登った名塚秀二も、9座登ったところで遭難死しており、そして竹内氏も10座目に狙ったガッシャブルムII峰登山中に雪崩に会い、瀕死の目にあっている。
 しかし氏は、破裂骨折した脊椎にボルトを埋め、懸命のリハビリを行い、1年後に同峰登頂のリベンジに成功している。まさに不屈の精神の持ち主だ。

 8000mを越える山の世界では、猛威を振るう大自然の前に、人間などほんとうにちっぽけな存在である。大自然のほんの気まぐれで、あっさりと人間は死んでしまう。じつに過酷な世界だ。
 けれども、それを当然のこととし、それでも己の精神と肉体を鍛えに鍛え、その神々の領域の世界に挑み、そして神の世界に届くような難行を成し遂げる人間がいる。

 極端な登山の世界をナンセンスと思う意見もあるだろうが、人類の歴史とは、ずっと自然へ挑戦を続けてきた歴史であり、そして、こういうジャイアント14座挑戦のような険しい挑戦と成功こそ、人類の力強さ、可能性を改めて知ることができる、大いなる「人間賛歌」であろう。

 その「人間賛歌」を聞くことができた、今回のニュースはたいへん嬉しいものであった。


2007年、10座目となるガッシャーブルム2峰の7000メートル地点で雪崩に巻き込まれ300メートル落下。腰椎と片肺がつぶれ、肋骨も5本折れた。生還したのは奇跡といわれた。この当時のブログは終わったと思える事態でした…

そこからの復活!

そして

竹内洋岳の8千メートル14座完登の道のり
1 マカルー1峰(8463メートル) 1995年

エベレスト山群の南東に位置し、世界で5番目に高い山。
2 エベレスト(8848メートル) 1996年

インド測量局長官であったイギリス人のジョージ・エベレストが世界最高峰であると測量したことから英名・エベレストがつけられた。チベット名のチョモランマはチベット語で「大地の母」、ネパール名のサガルマータはサンスクリット語で「世界の頂上」の意味。
3 K2(8611メートル) 1996年

インドの測量局が1856年からカラコルムの測量をはじめた際に、無名の山にカラコルムのKをとって順にK1、K2、K3、K4、K5と測量番号を付けた。K2以外の山については名前がつけられたり、現地の名前が採用されたりしたが、K2だけは測量番号がそのまま山名に残った。
4 ナンガパルバット(8125メートル) 2001年

カシミール語で「裸の山」を意味する。初登頂までに多くの遭難者を出したことから「魔の山」と恐れられていた。無酸素登頂。
5 アンナプルナ1峰(8091メートル) 2004年

人類が初めて登頂に成功した8000メートル峰。無酸素登頂。
6 ガッシャーブルム1峰(8068メートル) 2004年

カラコルム山域にある山で、氷河をかなり登った後でないと見えないので「ヒドゥン・ピーク(Hidden Peak=隠れた峰)」とも呼ばれる。無酸素登頂。
7 シシャパンマ(8027メートル) 2005年

チベット側の呼び名「シシャパンマ」は「牧草が茂る草原にそびえる山」。長い間、ネパール語で「聖者の住居」を意味する「ゴサインタン」と呼ばれていた。中国が外国登山隊を排除していたため、初登頂が遅れた。無酸素登頂。
8 カンチェンジュンガ(8586メートル) 2006年

ネパール東部とインド国境にあるシッキム・ヒマラヤの中心をなす山群の主峰。山名はチベット語で「偉大な雪の5つの宝庫」を意味する。1954年にエベレストが最高峰とされるまで、世界一高い山とされていた。無酸素登頂。
9 マナスル(8163メートル) 2007年

山名はサンスクリット語で「精霊の山」を意味するManasaから付けられた。8000メートル級で日本隊が初登頂した唯一の山。無酸素登頂。
10 ガッシャーブルム2峰(8035メートル) 2008年

中国とパキスタンの国境のカラコルム山脈・ガッシャーブルム山塊にある山。2007年に雪崩の事故に遭うも、翌年にリベンジを果たす。無酸素登頂。
11 ブロードピーク(8051メートル) 2008年

山頂の幅が広いことから「広い頂」を意味する「ブロード・ピーク」の名前が付けられた。無酸素登頂。
12 ローツェ(8516メートル) 2009年

ヒマラヤ山脈のエベレストの南に連なる世界で4番目に高い山。西壁は「ローツェ・フェース」として知られ、鞍部を通りエベレストへと向かうには高さ1125メートルに及ぶ氷壁を登らなければならない。南壁は標高差が3300メートルあり世界屈指の大岩壁で知られ、登攀は極めて難しい。ラインホルト・メスナーら世界の名だたるアルピニスト達の挑戦を退け、イイジ・ククチカやニコラ・ジャジェールらのクライマーが、ここに眠っている。無酸素登頂。
13 チョー・オユー(8201メートル) 2011年

所在地:ネパール・中国
シェルパ語でトルコ石の女神の意味。2001年には元F1レーサーの片山右京さんが登頂。無酸素登頂。
14 ダウラギリ(8167メートル) 2012年

サンスクリット語で「白い山」という意味。1808年に初めてヨーロッパで知られるようになり、カンチェンジュンガの存在が知られるまでの約30年間、世界一高い山と考えられていた。2012年5月26日午後5時30分ごろ(日本時間同日午後8時45分ごろ)、無酸素登頂。

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