2016年08月23日21:47
カテゴリ社会科学者の随想
憲法学も国際政治学も明晰でない天皇・天皇制の議論,敗戦後「天皇制度の生き残り」に淵源していた集団的自衛権の歴史的課題
社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1060435587.html
<転載開始>
【「マッカーサーのアメリカ」と「日本の天皇裕仁」との《闇取引の影響》は,敗戦後史にいちじるしく残存していった】
【「日本国の個別的自衛権および集団的自衛権」の問題,そして,その根本的な矛盾を反映させてきた「21世紀的に〈なれの果て〉」の議論を確認する】
① 篠田英朗『集団的自衛権の思想史』(風行社,2016年7月)の「〈Amazon の レビュー〉国際政治学者だからこそ分かる集団的自衛権,深く知る第一歩になる本」(投稿者佐々木勇太 2016年8月15日,星は 5.0〔でいまのところは,この書評1点のみで満点の評価〕)
a) 今日,多くの場面で問題提起される「集団的自衛権」。この本は国際政治学者であり,平和構築や紛争解決の学問領域でご活躍されている篠田英朗先生によって書かれた本である。この本はその題名から難度の高そうな内容が予想されがちかもしれないが,必らずしもそうとはいえない。むしろ,この本は集団的自衛権につい篠田英朗画像て,その背景を多く含めながらも初歩的な箇所から丁寧に説明されている。
出所)画像は篠田英朗,http://www.tufs.ac.jp/research/people/shinoda_hideaki.html
集団的自衛権について書かれている書籍は多い。しかし,その多くは個別的自衛権との比較,集団安全保障体制との違い,自衛権という考え方を具体例に置きかえるものなど,表層的で概念的なまま説明されているにとどまっている。そのような書籍は「一般教養」としての理解をするにはこと足りるかもしれないが,「学問」として捉えてゆくときの理解としてはもの足りないばかりか,表層上のみの理解では自己による勝手な評価をしてしまうこともある。
b) この本を一言で説明するならば,「学問として集団的自衛権をしる第一歩となる本」といえるかもしれない。
本著で特徴的なのは,まずその概念形成の「歴史」から紐解くという姿勢を一貫していることである。1945年の八月革命,1951年の講和条約,1960年の安保改正,1970年代の沖縄,1991年の冷戦終了と湾岸戦争,と追っていくことでその「背景にあった議論や思篠田英朗表紙想」が丁寧に説明されている。
単なる賛成・反対では片づけることのできない,主張や考えの違いや変遷があり,現在の集団的自衛権があることをしることで,自分の認識をいま一度あらためさせられた。
本著はそもそもの立場として,集団的自衛権を云々しようというものを明示していない。概念形成の背景をしることで思考という過程を経て,あらためて読者の価値判断も可能になるだろう。
c) つぎに特徴的なのは,国際政治学者だからこそ分かりやすい法的議論の説明と,つねに寄り添う国際政治学的視点である。集団的自衛権を,国家のもつ(本著中では「国民」によって直接行使される権利であるという考えも提示されているが)「権利」として捉えるならば,法的な議論は避けられない。
しかし,本著は法学を学んだ経験がない者にとっても分かりやすいかたちで整理されており,いわゆるその領域で「前提認識」とされている事項に関しても,説明がていねいにくわえられている。そして,この明確さは国際法学者ではない篠田先生が自身でも整理する過程があったからこそできているのではないかと感じた。
そして同時に,本著は法的議論に終始するものでもない。法解釈の方法や主張の変遷の説明とともに,本著全体を通じてつねに「日本」という国家から国際政治(とくに安全保障やバランスオブパワー,外交圧力など)の観点からの補足が挟まっており,国際政治に興味のある方にとっても飽きない内容になっている。
d)「集団的自衛権」の法的理解を,国際政治学者の著作によってその第一歩を踏むというのはいささか歪ではあるが,だからこそ理解がしやすく面白い内容になっているのも事実である。また,すでに法学に詳しい方も,国際政治学者からみた分析というのは間違いなく新たな観点を読みとることになるだろう。集団的自衛権について学問としてアプローチし始めたい方にお薦めしたい一冊である。
註記)https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4862581048/ref=acr_offerlistingpage_text?ie=UTF8&showViewpoints=1
以上,販売促進的にべた褒めの要素も混融している論評であるが,この篠田英朗『集団的自衛権の思想史』の中身・内容を,手っとり早く理解するには適当な紹介文である。集団的自衛権「行使容認の問題」に対して,より異質という意味での新しい視点を提供した著作であることは,たしかである。要するに,この本の新味は「思想史的な接近方法」にもっともよく顕現されている。
② 杉田 敦(政治学者・法政大学教授)稿「〈書評〉『集団的自衛権の思想史』篠田英朗〈著〉」(『朝日新聞』2016年8月21日朝刊11面「読書」)
★ 憲法と安保の「二重構造」を検証 ★
イ) 憲法学者の宮沢俊義は,ポツダム宣言受諾で天皇主権から国民主権への「革命」が起こったとした。いわゆる「八月革命」説だ。だが,著者によればこの説は「実際の憲法制定権力者としてのアメリカの存在を消し去る」ことで,「表」の憲法と「裏」の日米安保という二重構造を正当化する役割を果たした。本書は,こうした構造を思想史的に緻密に検証しようとする。
戦後憲法学は,立憲主義を権力制限的にとらえ,自衛権を抑制的に解釈してきた。これに対して著者は,人びとが信託により安全確保の責務を政府に負わせることこそが立憲主義の根幹とし,昨〔2015〕年の安保法制をも必要な施策と評価する。
ロ) 国際法上の概念である自衛権を,内閣法制局や憲法学者が憲法の側に引き寄せ,個別的自衛権と集団的自衛権とを厳密に区別したことが,著者からすれば,そもそも問題であった。
個別的自衛権を担う合憲な自衛隊と,基地を用いて一方的に集団的自衛権を行使する米軍という整理には,「表」の憲法論が「裏」の安保に実は依存している点で〔もともと〕矛盾がある。冷戦時代は反共目的でこれを受け入れた米国だが,冷戦終結後,日本側にさらなる対応を求めたのも当然という。
ハ) 平和構築論を専攻する著者が,国際協調主義の立場で考えているのは明らかだ。国連による集団安全保障と,同盟としての集団的自衛とを峻別する憲法学を批判し,集団的自衛の意義を強調するのも,個別的自衛だけにこだわる「内向き」の姿勢では,国際的な人権確立の動きに協力できないと考えるからである。
しかし,米国の世界戦略と距離を保とうとしたぎりぎりの努力を「内向き」の一言で清算すべきなのか。欧州のような地域的な連携をもたない日本では,国際協調への意思が,一層の対米従属につながるという逆説もあるのではないか。さまざまな論争を呼びうる刺激的な一冊だ。
③ 省 察。評者たちに欠けている,あるいは避けている(?)天皇・天皇制問題の深いかかわり-歴史的にも論理的に事実であった関連するもろもろの経緯を逃しておいてよいのか-
本ブログ内では,集団的自衛権の問題が日本国憲法第9条にかかわるのであれば,その前項にデンと構えている第1条~8条の関連性が,いったい,どのように配慮され議論されるべきかを考えてきた。
篠田英朗『集団的自衛権の思想史』は,② の杉田 敦も言及している論点,つまり
「表」の憲法論 が 「裏」の安保法制
↓ ↓
「個別的自衛権の自衛隊」と「集団的自衛権の米軍」
という整理:論理構成になかに,もともと潜んでいたという矛盾について,さらに掘り下げてみる余地がある。
「表:自衛隊の個別的自衛権」に対する「裏の米軍の集団的自衛権」という組みあわせは,実は,まず「第9条の制約」を受けてきた「『軍隊らしからぬが軍隊そのもの』である自衛隊」,そしてつぎに,それに対する「第1条から8条の存在保障」をもたらしてきた在日米軍という,もとから相互に不可離である「〈対〉の関係性」を意味してきた。
いわゆる「マッカーサー・メモ(あるいは原則)」にまで立ち戻って考えてみるべきである。 日本の憲法改正に対してマッカーサーが提示した,この「守るべき三原則(マッカーサー・ノート)〔ともいう〕」は,つぎのものであった。
ⅰ)天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は,憲法にもとづき行使され,憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
ⅱ)国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決のための手段としての戦争,さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも,放棄する。
日本はその防衛と保護を,いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍をもつ権能は,将来も与えられることはなく,交戦権が日本軍に与えられることもない。
ⅲ)日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は,イギリスの制度に倣うこと。
この3原則を受けて,総司令部民政局が憲法草案を作成した。当初から並々ならぬ矛盾を包蔵させられていた日本国憲法であった。上記でⅰ)とⅲ)とは〈大という形容が付くほかない矛盾〉そのものであったけれども,マッカーサーの占領軍総司令官が屁理屈(無理じい)でもって決めていたから,出立点においては「元来,問答無用の条項」であった。
補注)1946年2月3日,マッカーサーが部下のホイットニーに宛てたメモ,いわゆる「マッカーサー・ノート」をつぎの画像資料で紹介しておく。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
マッカーサー・メモ3原則
出所)http://tamutamu2011.kuronowish.com/manoto.htm
マッカーサー・ノートの真意は「9条」を置くのは,「1条(から8条まで)」を利用するためであって,その逆ではなかった。そうした脈絡においての9条と1条の関係づけが,いうなれば歴史的かつ論理的により正確に把握されておく必要がある。
1950 年6月25日に朝鮮戦争が始まると,警察予備隊を8月には創設させられた日本国は,その時点ですでに9条は骨抜きになっていた。だが,1条のほうはそのまま放置されていた。1条は9条にささえられた憲法内の条項であったのだから,9条の実体が溶解していたのであれば,1条も無用・不要になっていた。この論点は後段でも再度触れる。
天皇・天皇制が封建遺制でないとはいえず,その尻尾を大きく引きずっている,しかも明治帝政の時代に創作された疑似古代史的なゲテモノである。この事実は,マッカーサーであっても誰であっても,絶対にいいぬけることができない「歴史的な本質」である。これは,日本の歴史内における伝統だとか文化だとかいう以前において,しかと認識されておくべきことがらである。占領軍=アメリカは,敗戦した大日本帝国の天皇制度(天皇:裕仁と天皇制:ここでは宮内庁〔当時はまだ宮内省〕)を,実用主義的に占領政策に活用しただけのことであった。
要言していえば,日本国憲法とはこれが〈押しつけられた時点〉においてからして,GHQが敗戦国日本を統治・支配するための新憲法だった。それゆえ,そうであったなりにそのなかには矛盾的な本性などが,不可避の特性として包含されていた。新憲法に関するこの程度の前提となる理解は,百も承知できるようにしたうえで,関連する議論にとりかかる余地もある。
以上の指摘は,本ブログで筆者がさんざん論じてきたつもりの問題性であった。なかでももっとも肝心な・一番大事だともいえる,いいかえれば,一方では,絶対に無視されてはならない “天皇条項” をあえて宙に浮かせたまま,他方では,GHQの「押しつけ憲法」を日本が「受けとった憲法」として,それも自衛権の問題にだけ惹きつけて論じるのであれば,この方向性から生じる必然の理は「〈画竜点睛を欠く〉議論:憲法談義」であるほかなかった。
龍の構造画像画竜点睛画像
出所)左側画像は,http://470830.at.webry.info/201201/article_1.html
出所)右側画像は,http://contest.japias.jp/tqj2004/70237/k/garyoutensei.html
④ 本ブログ内の関連する記述
1) 関連する記述
本ブログ筆者の関連する記述としては,つぎの5点(実質4点)を挙げておきたい。これらをいちいち通読してもらうのはたいへんなので,ここに摘記しておいた「主題と副題」の文句に接してもらえば,なんとはなしでもその趣旨は感じとってもらえると考えている。もちろん,実際に読んでいただければ申し分なしであるが。なお,※-5からだけは後段で直接引用する箇所がある。
※-1 2015年04月08日
主題「安倍晋三流の右折改憲か,それとも,池澤夏樹流の左折改憲か?」
副題1「日本国憲法を改正(改定)するといっても,天皇・天皇制をどうするのか?」
副題2「日本知識人に特有である知的陥穽にはまらないで,憲法を改めようとするには,どうしたらよいのか?」
副題3「安倍晋三風の傲慢・頑迷・旧守(?)・反動的な憲法改悪よりも,池澤夏樹流の開明・先取・革新(!)・民主的な憲法改正への道」
※-2 2016年04月20日
主題「『押しつけ憲法』の『改憲を押しつけない』こと,および『マッカーサー・メモの原点』に還って考える日本国憲法の『公然たる秘密』」
副題1「天皇制度に関連する条項の検討を抜きにした憲法論議の空しさ」
副題2「天皇・天皇制に触れない『護憲・改憲〈論〉』は地に足が着いていない」
※-3 2016年06月14日
主題「憲法の第9条と第1~8条の相互関係に触れてこなかった議論の不思議」
副題1「柄谷公人が言及した天皇条項と戦争放棄条項の矛盾的結合形態は,アメリカが敗戦させ占領した旧大日本帝国を日本国として支配・統治するための工夫(戦後措置)に過ぎなかった」
副題2「なぜ,それほどまでむずかしい議論に発展させねばならないのか? そこにこそ,天皇・天皇制に対する『日本的な討究方法』が生起させている,具体的な制約・無意識的な限界がある」
※-4 2016年07月11日-これは ※-1と同文-
主題「憲法を改定したいとすれば,放置されていてよいわけがない問題点があるのでは?」
副題1「本日:2016年7月11日早朝のテレビニュースに出ていた安倍晋三君の顔色は,遊説のせいか,どす黒く疲弊した表情にみえた。他党の代表たちも皆,一様に疲れた顔つきをしていたが,安倍君のそれは一番よくなかったように映っていた」
副題2「改憲に賛同する政治勢力が堅実に,参議院における議席を伸張させたが,この国はいよいよ『対米属国度をさらに深化=発展させる』ための内政・外交を展開していくのか?」
副題3「この記述は2015年4月8日に公表されていたが,ここに再録することが適当と判断し,あえてかかげてみることにした」
副題4「日本国憲法を改正(改定)するといっても,天皇・天皇制をどうするのか?」
副題5「日本知識人に特有である知的陥穽にはまらないで,憲法を改めようとするには,どうしたらよいのか?」
副題6「安倍晋三風の傲慢・頑迷・旧守(?)・反動的な憲法改悪よりも,池澤夏樹流の開明・先取・革新(!)・民主的な憲法改正への道」
※-5 2016年07月18日
主題「明仁天皇は表明していないが明白に意思表示している退位の問題,宮内庁など周囲がその希望・気持を忖度しつつ退位問題を進展させる『アウンの国:ジャポン』」
副題1「象徴である天皇がモノをいい,しかも,そのなにかを実現させようとする日本国憲法改定への動向」
副題2「対米従属国家日本の『戦後レジーム』は,安倍晋三にも変えられず,むしろその〈絆〉をオトモダチ的に強化させつつある」
副題3「アメリカにとっての『押しつけ憲法』の有価値性」
2) 天皇・天皇制の問題はどこへいったのか
前段で指摘してみたつもりである「自衛権に関連する論点」は,個別的であれ集団的であれ,また集団的安全保障の次元にかかわる問題であれ,けっして避けて通るわけにいかないところの,それぞれが基本的な論点である。
だが,篠田英朗『集団的自衛権の思想史』の場合も確実に,「天皇・天皇制」に関連する議論は稀薄である。というよりは,実質的にはほとんどない。敗戦後における日本には天皇・天皇制そのものが残され,つまり,新憲法のなかに第1条から第8条として収容されていた。しかしながら,それとの組みあわせとして,抱きあわされる関係でもって,第9条に「戦争放棄」も置かされていた。
そして,以上の全体を包みこむ格好で存在してきたのが占領軍という存在であった。その意味では間違いなく「押しつけ〔られた〕憲法」であった。と同時にここにおいては,1947年9月20日の『天皇メッセージ』を想起する必要がある。昭和天皇は新憲法に納得する姿勢を示していたが,戦後日本政治史に関するこの程度の経緯は,憲法学者はむろんのこと,国際政治学者である篠田英朗も知悉の事項である。
ともかく,篠田英朗『集団的自衛権の思想史』の考察は,天皇・天皇制の問題関連には近づかないでいる。それでいて,集団的自衛権のための通底基盤である「第9条⇔第1条から第8条」の全体的な広がりまでも,当然のごとく論及されている。憲法の問題が天皇制度の問題でもあることは,あえて申すまでもない基本の理解である。天皇・天皇制の関連問題を「とりあげていない」ことが,ただちに「こちら側の問題じたいに〈なにも問題がない〉」までも意味しているのではない。
補注)なお,前掲した本ブログのうち ※-5(2016年7月18日)から,以下の引用(#)をしておく。抽出した部分は「憲法体系と安保体系-下位法と上位法の立体関係-」と名づけられていた1節である。
矢部宏治表紙2014年 矢部宏治表紙2016年
註記)いずれも集英社インターナショナル,2014年10月と2016年5月発行。
(#) 矢部宏治による2著,『日本はなぜ,「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル,2014年10月),『日本はなぜ,「戦争ができる国」になったのか』(同,2016年5月)を,簡潔にまとめてみれば,こういう時代区分になる。
◇-1「戦前・戦時(昭和前期)」は
『天皇』+ 日本軍 + 内務官僚
◇-2「戦後1(昭和後期)」は
『天皇+米軍』+ 財務・経済・外務・法務官僚+「自民党」
◇-3「戦後2(平 成 期)」は
『米軍』+ 外務・法務官僚
戦前・戦中の宮内省,敗戦後の宮内庁がこのなかにまぎれこんでいては,宮内庁式になる数々の天皇政治をとりしきってきた。だが,平成天皇の時代になると『天皇の位置づけ』の意味あいが,そのように顕著に異質になってきた。
そして,2015年夏・秋から2016年春にしあがった「安保関連法」の成立・施行は,日本国憲法における天皇・天皇制の位置づけ=価値評価を質的にも大きく変質させた。すなわち,それをより軽少なものに変形させつつある動向が,ヨリ明白になったといえる。
平成天皇にも人間の寿命が(神ではないゆえ)いつか来る。そのときまでにはなんとか,これまでのような日本政治における皇室行政を,さらにより天皇家よりに「有利な態勢」に少しでも引っぱっていきたい。
補注の補注)2016年8月8日,平成天皇がビデオ・メッセージで全国に向けて公表した「生前退位」の希望表明があった。この行為は,彼の主意の具体的な表現である。
前掲の◇-1・2・3では,なぜか,「天皇の存在」が平成の時代になってから消えている。日本国憲法は天皇・天皇制を残すかわりに,この憲法体制の上に載せられている,いいかえれば,重しのようにもたれかかっている “米日安保体制の存在” を,基本面より全体的に許しており,いうなれば一心同体的にも機能させてきた。
在日米軍基地をなくせないかぎり,天皇・天皇制もなくせない。そうしないと敗戦のケジメはつけられない。敗戦後,アメリカが日本を軍事占領したあと,支配・統治・運営・管理をしやすくするために天皇制度を活用していた。いまもその実質=抱合関係に変わりはない。
この歴史はある意味では「ボタンのかけ違い」ならぬ「意図されたそのかけ違い」であった。昭和天皇もその息子の平成天皇も,その米日間におけて展開されてきた〈敗戦後史の事情〉をよく呑みこんできた。つまり,彼らにとってみれば,納得ずくでの敗戦後事情の推移になっていた。
もちろん,敗戦国の天皇であったという経緯があったゆえ,まともに真正面からは抗うこともできず,そのままに受けいれざるをえなかった当時の状況であった。東京裁判は,天皇を活かすためのセレモニーであった一面も有していた。
〔本論に戻る→〕 篠田英朗『集団的自衛権の思想史』は第1章「自衛権を持っているのは誰なのか-1945年8月革命と憲法学出生の秘密-」の終わり付近で,こう記述している。
憲法は誰が制定してのか?という伝統的な問いは,自衛権は誰が行使するのか?という現代的な問いと直結している。その答えは,「表」側では,「国民」である。「裏」側では,「アメリカ(とともに)」または「日米安保体制」という「戦後の日本の国体」であろう。
あるいは「表」側では「個別的自衛権」だけが行使され,「裏」側では「集団的自衛権」も行使される,と言い換えても,事情はほとんど同じだ。今や日本という国家には,歴史的事情により,「ケルゼンとシュミットの野合」が存在し,国民(人民)と天皇の共生が存在し,9条の平和主義と日米同盟が存在し,より一層包括的な国家体制を作り出している(61-62頁)。
註記)改行箇所は引用者が入れた。またここでは,ケルゼンとシュミット学説に関する学問的な説明は入れない。ウィキペディアなどでしらべてほしい。
この文章においてようやく「天皇」という語句が,わずかにではあるが登場させられていた。しかし,この天皇の問題は,日本国憲法が公布・施行されてから今日まで継続的に日本の政治(国際政治)にもかかわる,具体性のある中心的な論点でもあった。いうなれば,日本の政治においてはその《要の位置》に控えていたのが,天皇・天皇制であったわけである。こうした敗戦国側の日本国憲法史における「天皇制度に関する事実経過」が描いてきた軌跡を忘れてはならない。
日本国憲法下のとくに自衛権(個別的と集団的の双方)の問題は,いままでずっとまさにアクロバット的な解釈論をもってとりざたされてきた。そのサーカス技術的な操作を要求してきたというべきか,あるいはまたそれを可能にさせてきたのが,「天皇条項:第1~8条」という基本条件の絶対的な必要性であった。
マッカーサーは「戦後レジーム」=日本の支配・統治のために,そしてアメリカ本国は国際政治を意識した世界戦略のために,すなわち裕仁をそれぞれが必要性に応じて「ビンのフタ」に使いまわしていた。また天皇自身もその役目(蝶つがいとしての機能)を,それら内外政治の舞台の上で積極的にうまく演じてきたといえる。
⑤ 篠田英朗『集団的自衛権の思想史』が真っ向からは言及していない天皇・天皇制の論点
1) 篠田『集団的自衛権の思想史』は,長谷川正安の立論:「憲法体制と安保体制」を利用しながら,こう語ってもいた。
その際,かき消された戦勝国としての連合国の存在と,占領軍としてのアメリカ合衆国の存在は,日本の憲法体系からは隠されたままとなった。むしろアメリカの存在について語ること自体がタブー視され,憲法外の議論であるばかりか,違憲であるとさえ言われるようになった。
実態として日本の国家体制の根幹を形成するものとして確立された日米安全保障条約は,しかしそのまま憲法の枠の外に存在するものとされた。憲法体制と安保体制という2つの国家体制の柱が,お互いを十分に意識しつつ,相互に無視しあうような「表」と「裏」の関係を形成する状態がうまれた(173頁)。
註記)改行箇所は引用者が入れた。
「憲法体制と安保体制という2つの国家体制の柱」を,日本国という人体の大事な内臓に譬えれば,あたかも,これらを包摂している腹腔内の腹水の機能を,天皇・天皇制=第1~8条がになっていた。それだけではなく,この機能が「憲法の枠の外に存在するものとされた」「日米安全保障条約まで密通する」機能まで果たしていた。ここで指摘するのは『天皇メッセージ』1946年9月20日のことである。その意味でいえばその腹水は病的な水準にまで増大していたと判定するほかなかった。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
腹水画像
出所)http://medick.biz/category/select/cid/2994/pid/92080
したがってまた,「アメリカの存在について語ること自体がタブー視され,憲法外の議論であるばかりか,違憲であるとさえ言われるようになった」という点については,『天皇メッセージ』(1946年9月20日においてだけでなく,さらには1950年6月下旬にも天皇による同種の「逸脱の行為」がなされていたし,マッカーサーとの会見時ごとの発言内容も政治の行為であった)が重ねられていた事実からも,問題視されねばならない検討課題が残されていた。
しかし,天皇・天皇制に関しては,アメリカ側の問題じたい以上に,過度なくらいにタブー視されてきた。「菊のタブー」という表現があるが,篠田英朗『集団的自衛権の思想史』を実際に手にとって読む前までは,天皇・天皇制についても当然に,議論の対象にとりあげつつ全体の考察が展開されるものと思いきや,この予想には全的に反する内容であった。
2) 日本の国家体制の帰結-天皇明仁にとっての含意-
篠田『集団的自衛権の思想史』は,こうも推論している。--おそらくは「最低限の実力」組織である個別的自衛権行使者たる自衛隊は,集団的自衛権行使者たる世界最強軍隊である米軍の主導のもとに,共同作戦を遂行する。
また,日本への攻撃がない場合での米軍の行動に,日本は協議のうえで同意を与えるかもしれない。それらの状態は,法的整理をおこなわなければならない立場の者にとっては,悪夢のように複雑な事態である。だがそれが日本の国家体制の帰結といえる(117頁)。
1950年8月に創設された警察予備隊の登場によって,それまで第9条をみえない使用で「戦力面」において裏づけていた米軍は〔その後に〕,自衛隊となるこの軍隊が部分的にとって替わることになったのだから,日本国憲法の第1条から8条とその第9条との「元来奇妙な均衡状態にあって維持されていた関係性」が,より明白に歪曲される事態をもたらしていた。
2015年9月までには国会(衆参両院)で成立し,2016年3月には施行された安保関連法は,そうした憲法条項内の矛盾関係を決定的な深みにまで引きずりこんだ。米軍と同じ軍事的な次元にまで自衛隊3軍が,集団的自衛権容認行使をできる軍隊組織に変えられたとなれば,問題は一気に憲法「第1条から8条の立場にいる天皇・天皇」のところまで,より具体的にいえば,天皇とその家族たちにとっては,日本国憲法が押しつけられたときの時代状況とは完全に異なった「天皇家を囲む憲法的な時代環境」が出現したことになる。
思えば,安倍第2次政権が2012年12月に登場してからの天皇一家(具体的に指摘すれば天皇→美智子→皇太子などが誕生日ごとに発信してきた見解)は,その機会をとらえては「自分たちは日本国憲法」を守るという姿勢を,いまさらのように〈ことさら強調する〉発言を連続させてきた。
敗戦後において天皇裕仁の時代にできあがっていた「米日安保体制」が,安倍晋三によって大きく様変わりさせられているように現象している。だが,それだけではなく同時に,日本国憲法に依拠してこそ存立できている「皇室の立脚基盤」が大きく揺すぶられる事態が発生したのである。彼らが非常な危機感を抱くに至ったのは,あまりにも当然の事情経過であった。
いままで,首相の安倍晋三が皇族たちに突きつけてきた「日本の国家体制の帰結」,つまり,その後における「戦後レジーム」--実はこの否定も脱却もほとんど実現できていないことは,いまだに厳在しつづける在日米軍基地をもって明らかなのではあるが--に関しては一定限度であっても,その「変質・歪曲」をこうむってきた政治過程は,明仁ら一族にとってみれば “とうてい許容しがたい事態のなりゆき” を記録してきた。
3) 憲法第9条が「表」で日米安保が「裏」ならば,憲法第1~8条はなにか? -それは安保の「裏」に支持される「表」であり,憲法の「表」に表現されている「裏」だと表現すればよいのか?-
さて,篠田『集団的自衛権の思想史』にしたがって論を進めると,こうなるのか? 「安保体制下で高度経済成長を経験した多くの日本人は,矛盾の解消ではなく,矛盾と共存することを選びはじめた。憲法9条と安保体制という『表』と『裏』の矛盾を抱え込んだ国家体制を,そのまま受け入れることを模索しはじめた」(120頁)時期があったものの,いまではその「矛盾」そのものが「解消」も「共存」もさせにくい難局に遭遇させられている。
この点は,安倍晋三政権になってからは『安保体制:第9条』の「裏」側に,もはや『〈安住のための空間〉としての「第1から8条」を,均衡的=安定的に求めにくくなった天皇家』の苦悩を発生させている。
敗戦後における天皇・天皇制の役割でなんであったか? いまも同じにその役割は天皇家が果たしているのか? 基地問題としての在日米軍,それもとくに沖縄県への集中的な付けまわしは過重でありながらも,いまだになにも抜本の解決ができていない。
独立国の様相として観る「在日米軍基地の姿容:実態」は,特定国をのぞけば,日本が一番異様である。まるで属国か自治領を実感させる状態を呈している。いったい,あと何十年経ったら米軍が「在日する基地」の「占領」を終了させる時期が来るのか? すでに71年以上もの年月が流れてきた。悠長に構えていたら1世紀の期間にまで,すぐににでも到達しそうな雰囲気さえある。
4)「戦後レジーム」はかくして,今後にもなお継続されていくのか?
篠田『集団的自衛権の思想史』にもっと聞いてみる。「従来の日本の国家体制を,冷戦が終焉して四半世紀たった現代においてもなお,維持するということ」「については関係者は,それぞれ妥協を重ねた上で,合意し続けた」。その結果をみれば「論理は軽視された。結果が尊重された」のであり,「安保法制によって何が達成されたのか?」といえば,「今後も憲法9条 / 日米安保体制を基軸として既存の日本の国家体制の枠組みが維持される,という合意の維持が,達成されたのである」(170頁)。
安倍晋三のぶち上げてきた「戦後レジーム」の否定と破壊,すなわちこれから脱却するという大目標は,尻切れトンボに終わっている(というよりはそのトンボすら飛んでいなかった)。
安保関連法によって集団的自衛権行使容認を正式に認めた手順は,日本国自衛隊3軍のアメリカ合衆国軍隊に対する従属性(フンドシ担ぎの役目:分担機能)をより発展・深化させる効果を生んでいただけである。
安倍晋三が後生大事に抱く夢「青い鳥」は,戦前・戦中体制,あるいは幻想のなかの明治帝政時代にありそうに映っていたが,21世紀のいまどきに,そのような「神武創業」的な日本政治の再構築は不可能事である。白日夢である。日本における「対米従属の政治・経済体制」はより確固たる基盤になりえているのだから,「戦後レジーム」を本気で進めたいのであれば,まずなによりも在日米軍基地の撤去が先決問題である。
⑥「『天皇と戦争』どう考える」(『朝日新聞』2016年8月23日朝刊31面「文化・文芸」)
この本日の『朝日新聞』朝刊「文化・文芸」欄には,④ までの話題に合致し,融合する議論「『天皇と戦争』どう考えるか」が掲載されていた。篠田英朗『集団的自衛権の思想史』は「思想史」を語りながら,安保の問題に対応する憲法の問題をとりあげていながらも,第1条から第8条までの「天皇・天皇制の問題」には,まったくといいくらい具体的には立ち入らない論旨の構成であった。
篠田同書におけるその議論の方途は,本ブログ筆者の議論の枠組で考えるに,それこそ想像すらできないような「論点の設定(特定)とその排除(無視)」(意識的かそれとも無意識的かは判らないが)がなされている。この本日の『朝日新聞』「文化・文芸」欄「『天皇と戦争』どう考えるか」における議論の内容は,そうした疑問点を再考するため実質を提示していると受けとめ,最後に引照することにした。
なお,画像資料でもこの記事をかかげておくので,どちらでも読めるかたちになっている。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
『朝日新聞』2016年8月23日朝刊文化文芸欄天皇と戦争問題
a) 退位の意向をにじませるお気持ちを表明した天皇陛下はこれまで,国内外で戦死者の慰霊を重ね,反省の念を示してきた。その足跡からは戦争に向き合ってきた姿勢が浮かぶ。天皇と「戦争の歴史」の関係を,私たちは主権者としてどう考えればいいのか。昭和・平成,そして次世代について,識者と考えた。
昭和天皇が戦後,訪問を果たせなかった沖縄を,天皇陛下は皇太子時代から計10回訪ね,国内最大の地上戦の犠牲者らを慰霊してきた。
先の戦争について,1990年の韓国・盧 泰愚(ノ・テウ)大統領の来日時には「痛惜の念」と語り,1992年に歴代天皇として初めて訪中したさいは「深い反省」と述べた。
昨〔2015〕年,そして今〔2016〕年の全国戦没者追悼式のおことばでも,「深い反省」と表現。2005年にサイパン,昨年はパラオを訪れ,日本兵だけでなく米兵や現地の犠牲者を悼んだ。
b) 父の昭和天皇は戦後,戦争にどう向き合ったのか。河西秀哉・神戸女学院大学准教授(日本近現代史)は「昭和天皇は,自分が戦争を進めたという意識が薄かったのではないか。外国に向けても一歩引いた発言をしていた」と語る。
昭和天皇は戦後,国内各地を訪ねて戦死者の遺族とも対面したが,踏みこんだおことばを述べることはなかった。1971年の訪英時の晩餐会で戦争に言及しなかったことが現地で批判され,1975年の訪米時には「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という表現を使った。
戦後の東京裁判では,日本を安定統治するため天皇制を利用したい米国の意向などで,昭和天皇の戦争責任は問われなかった。だが終戦直後やサンフランシスコ講和条約発効前後には天皇の戦争責任が議論され,退位の可能性もとりざたされた。
c) 昭和天皇に戦争責任はあったのか。吉田 裕・一橋大学教授(日本近現代史)は「戦争当時,昭和天皇は常に沈黙を守ったわけではなく,様々な場で政治的意思を表明していた。天皇の決断なしには開戦はありえず,責任は否定できないと思います」と話す。
ただ,明治憲法下の天皇の「統治権」は国務大臣の補佐にもとづき行使されるため,法的な責任は国務大臣が負い,天皇は責任を負わないという考え方もある。議論はいまなお分かれる。一方,1950年代から皇太子として外遊し,当時の欧米の対日感情を肌で感じた天皇陛下は,昭和天皇の責任を肩代わりするように戦争に向き合ってきたという見方もある。
吉田教授は「冷戦で日本の戦後処理があいまいになり,決着がついていなかった責任問題を,いわば父からの遺産として相続せざるをえなかった」とみる。日本国憲法は「天皇は国政に関する権能を有しない」と規定するが,外遊に出れば,先の戦争に関してなんらかの発言を期待されることもあるのは,「国の代表とみられている」(吉田教授)からだ。
d) 天皇陛下が,やり残していることはなにか。河西准教授は「戦争で犠牲になった人びと全体を悼み,苦しみを分かち合う姿勢は海外でも受け入れられている半面,日本の責任がみえにくくなるところがある。また,韓国訪問はまだ果たせず,植民地支配の問題までは踏みこめていない」〔と述べる〕。
政治的な意味合いを帯びかねない天皇の海外慰霊は,そもそも憲法が想定していないとも指摘。「こうした公的行為の拡大は,天皇の権威性を高めることになり問題だ」とするが,慰霊はいまや象徴天皇の仕事の軸になっており,つぎの天皇となる皇太子さまも続けるとみる。「戦争を経験していない世代になり,相手国も世代交代するので,反省を示すよりも,経験を引き継ぎましょうという意味合いに変化していくのでは」。
文芸評論家の加藤典洋さんは1999年,昭和天皇の戦争責任をめぐって社会学者の橋爪大三郎さんと論争をした。加藤さんは,昭和天皇には道義的な戦争責任はあり,その死後も被侵略国への責任は消えないという立場だ。ただし,それを果たすべき責任の担い手は日本の国民だという。
年々戦争体験者が減るなか,いわば開戦責任としての「戦争責任」よりも「戦後責任」が問われていると加藤さんはいう。すなわち,被侵略国の人びとに対して自分たちの非を認め,今後繰り返さないと謝罪することが大事だというのだ。
「戦後,主権者は天皇から国民に代わっており,昭和天皇の死後,対外的な責任を継ぐのは私たち国民だ。それを現在の天皇に頼んだら,国民の責任放棄になってしまう」。
戦争に向き合い,憲法に基づく象徴天皇の姿を追い求めてきた現天皇を,改憲をめざす安倍政権に反撃する後ろ盾と捉えることにも警鐘をならす。「天皇の政治的な関与を認め,戦前とはまた別のやり方で天皇に依存するようになる可能性に注意すべきだ。それは国民主権の自己否定につながる」。
⑦ 天皇・天皇制の措置について〔事後の追論〕
いまからほぼ四半世紀前に公刊されていた著書,大嶽秀夫『二つの戦後・ドイツと日本』(日本放送出版協会,1992年)は,日米安保体制に関して,つぎのような基本的な認識を提示していた。本日の議論はある意味では,少しややこしくなっていたので,関連の説明を提供するつもりである。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
大嶽秀夫表紙
篠田英朗『集団的自衛権の思想史』は,敗戦後における日本政治史を国際政治論に関する思想史としては,新しい視座からする議論を創造的に展開してくれた。これをさらに活かせるような概念的な整理が必要である。
前段において記述した箇所であったが,これをもう一度もちだしてみる。「安保法制によって何が達成されたのか?」と問われての話題であった。
「今後も憲法9条 / 日米安保体制を基軸として既存の日本の国家体制の枠組みが維持される,という合意の維持が,達成されたのである」(170頁)ということであったが,そもそもマッカーサー・メモにおいては,その「ⅲ)日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない」という1項目が入れられていた。
--思うにこの点は,天皇・天皇制に対する「敗戦後における使用価値」を,きわめて便宜的かつ限定的に措置していた点を意味する。
大嶽秀夫はつぎのように〈敗戦後史に関する解釈〉を提示していた。--ポツダム宣言による「非軍事化」は,必ずしも日本を恒久的に非武装に留めておく趣旨ではなく,ただ「軍国主義」的な軍事組織の廃絶を狙っていた。その裏を返せば,連合国と同様の軍国主義的ではない(民主的な)軍であれば,復活を許される。日本に関していえば「天皇の軍隊」の廃絶を意味していたのである。
したがって,天皇制を廃絶すれば,独立国として軍隊をもつことは将来において許され(※A),逆には天皇制を維持したい場合は,軍隊の保有は断念せざるをえない(※B)。これが「天皇制と第9条が取引された」理由というか,あるいはまた,その事情に控えていた最低条件であった。このいずれかを選ぶことを余儀なくされるときは,マッカーサーも幣原も,天皇を選ぶに躊躇しなかった(94-95頁参照)。
ところがである,安倍晋三が以上のような「戦後レジーム」をぶちこわしにした(確認しておくが,彼のその狙い⇒「戦前・戦中への回帰」という夢想:幻想が実現できたかといえば,けっしてそうはなっていない)。
歴代の政権や首相たちが,これまでなんとかごまかしながら・騙しながら維持してきた「※A」にとどまりえない,換言すれば「日米安保体制」をさらに進展・深化させてしまう結果をもちこむような,「安保関連法」を成立・施行させたのである。いうなれば,安倍は「※B」の地平にまでわざわざ, “敗戦後史としての米日軍事同盟関係” を突進させる無茶を冒したのである。
彼はすなわち,なんとかして個別的自衛権に制限していた日米安保条約の枠組を,あえて集団的自衛権が行使できる両国関係にまで拡延させたのである。
敗戦直後におけるマッカーサー・メモは「皇族を除き」と断わってはいたのだから,21世紀における天皇家側にとっては,いささかおおげさになる表現ではあるが,「自族の存亡」をいよいよ・ますます本格的に意識せざるをえない「米日間の国際関係」が,安倍晋三の手を通して,お節介にも形成されたことになる。明仁たちが胸中密かに秘めている「皇室の危機感」は並々ならぬものがあると推量する。
それゆえここでは,既述した論及:表現を再度繰りかえす。「安倍第2次政権が2012年12月に登場してからの天皇一家(具体的に指摘すれば天皇→美智子→皇太子などが誕生日ごとに発信してきた見解)は,その機会をとらえては「自分たちは日本国憲法」を守るという姿勢を,いまさらのように〈ことさら強調する〉発言を連続させてきた」事情やその背景を,どこにみいだせばよいのかを明示していたのである。
--すでにだいぶ紙数(字数)を費やしているので,ここでは以上の議論に関して本ブログ内は,「天皇問題の解決方法」をすでに示唆してきたことのみ付記しておく。
<転載終了>
カテゴリ社会科学者の随想
憲法学も国際政治学も明晰でない天皇・天皇制の議論,敗戦後「天皇制度の生き残り」に淵源していた集団的自衛権の歴史的課題
社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1060435587.html
<転載開始>
【「マッカーサーのアメリカ」と「日本の天皇裕仁」との《闇取引の影響》は,敗戦後史にいちじるしく残存していった】
【「日本国の個別的自衛権および集団的自衛権」の問題,そして,その根本的な矛盾を反映させてきた「21世紀的に〈なれの果て〉」の議論を確認する】
① 篠田英朗『集団的自衛権の思想史』(風行社,2016年7月)の「〈Amazon の レビュー〉国際政治学者だからこそ分かる集団的自衛権,深く知る第一歩になる本」(投稿者佐々木勇太 2016年8月15日,星は 5.0〔でいまのところは,この書評1点のみで満点の評価〕)
a) 今日,多くの場面で問題提起される「集団的自衛権」。この本は国際政治学者であり,平和構築や紛争解決の学問領域でご活躍されている篠田英朗先生によって書かれた本である。この本はその題名から難度の高そうな内容が予想されがちかもしれないが,必らずしもそうとはいえない。むしろ,この本は集団的自衛権につい篠田英朗画像て,その背景を多く含めながらも初歩的な箇所から丁寧に説明されている。
出所)画像は篠田英朗,http://www.tufs.ac.jp/research/people/shinoda_hideaki.html
集団的自衛権について書かれている書籍は多い。しかし,その多くは個別的自衛権との比較,集団安全保障体制との違い,自衛権という考え方を具体例に置きかえるものなど,表層的で概念的なまま説明されているにとどまっている。そのような書籍は「一般教養」としての理解をするにはこと足りるかもしれないが,「学問」として捉えてゆくときの理解としてはもの足りないばかりか,表層上のみの理解では自己による勝手な評価をしてしまうこともある。
b) この本を一言で説明するならば,「学問として集団的自衛権をしる第一歩となる本」といえるかもしれない。
本著で特徴的なのは,まずその概念形成の「歴史」から紐解くという姿勢を一貫していることである。1945年の八月革命,1951年の講和条約,1960年の安保改正,1970年代の沖縄,1991年の冷戦終了と湾岸戦争,と追っていくことでその「背景にあった議論や思篠田英朗表紙想」が丁寧に説明されている。
単なる賛成・反対では片づけることのできない,主張や考えの違いや変遷があり,現在の集団的自衛権があることをしることで,自分の認識をいま一度あらためさせられた。
本著はそもそもの立場として,集団的自衛権を云々しようというものを明示していない。概念形成の背景をしることで思考という過程を経て,あらためて読者の価値判断も可能になるだろう。
c) つぎに特徴的なのは,国際政治学者だからこそ分かりやすい法的議論の説明と,つねに寄り添う国際政治学的視点である。集団的自衛権を,国家のもつ(本著中では「国民」によって直接行使される権利であるという考えも提示されているが)「権利」として捉えるならば,法的な議論は避けられない。
しかし,本著は法学を学んだ経験がない者にとっても分かりやすいかたちで整理されており,いわゆるその領域で「前提認識」とされている事項に関しても,説明がていねいにくわえられている。そして,この明確さは国際法学者ではない篠田先生が自身でも整理する過程があったからこそできているのではないかと感じた。
そして同時に,本著は法的議論に終始するものでもない。法解釈の方法や主張の変遷の説明とともに,本著全体を通じてつねに「日本」という国家から国際政治(とくに安全保障やバランスオブパワー,外交圧力など)の観点からの補足が挟まっており,国際政治に興味のある方にとっても飽きない内容になっている。
d)「集団的自衛権」の法的理解を,国際政治学者の著作によってその第一歩を踏むというのはいささか歪ではあるが,だからこそ理解がしやすく面白い内容になっているのも事実である。また,すでに法学に詳しい方も,国際政治学者からみた分析というのは間違いなく新たな観点を読みとることになるだろう。集団的自衛権について学問としてアプローチし始めたい方にお薦めしたい一冊である。
註記)https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4862581048/ref=acr_offerlistingpage_text?ie=UTF8&showViewpoints=1
以上,販売促進的にべた褒めの要素も混融している論評であるが,この篠田英朗『集団的自衛権の思想史』の中身・内容を,手っとり早く理解するには適当な紹介文である。集団的自衛権「行使容認の問題」に対して,より異質という意味での新しい視点を提供した著作であることは,たしかである。要するに,この本の新味は「思想史的な接近方法」にもっともよく顕現されている。
② 杉田 敦(政治学者・法政大学教授)稿「〈書評〉『集団的自衛権の思想史』篠田英朗〈著〉」(『朝日新聞』2016年8月21日朝刊11面「読書」)
★ 憲法と安保の「二重構造」を検証 ★
イ) 憲法学者の宮沢俊義は,ポツダム宣言受諾で天皇主権から国民主権への「革命」が起こったとした。いわゆる「八月革命」説だ。だが,著者によればこの説は「実際の憲法制定権力者としてのアメリカの存在を消し去る」ことで,「表」の憲法と「裏」の日米安保という二重構造を正当化する役割を果たした。本書は,こうした構造を思想史的に緻密に検証しようとする。
戦後憲法学は,立憲主義を権力制限的にとらえ,自衛権を抑制的に解釈してきた。これに対して著者は,人びとが信託により安全確保の責務を政府に負わせることこそが立憲主義の根幹とし,昨〔2015〕年の安保法制をも必要な施策と評価する。
ロ) 国際法上の概念である自衛権を,内閣法制局や憲法学者が憲法の側に引き寄せ,個別的自衛権と集団的自衛権とを厳密に区別したことが,著者からすれば,そもそも問題であった。
個別的自衛権を担う合憲な自衛隊と,基地を用いて一方的に集団的自衛権を行使する米軍という整理には,「表」の憲法論が「裏」の安保に実は依存している点で〔もともと〕矛盾がある。冷戦時代は反共目的でこれを受け入れた米国だが,冷戦終結後,日本側にさらなる対応を求めたのも当然という。
ハ) 平和構築論を専攻する著者が,国際協調主義の立場で考えているのは明らかだ。国連による集団安全保障と,同盟としての集団的自衛とを峻別する憲法学を批判し,集団的自衛の意義を強調するのも,個別的自衛だけにこだわる「内向き」の姿勢では,国際的な人権確立の動きに協力できないと考えるからである。
しかし,米国の世界戦略と距離を保とうとしたぎりぎりの努力を「内向き」の一言で清算すべきなのか。欧州のような地域的な連携をもたない日本では,国際協調への意思が,一層の対米従属につながるという逆説もあるのではないか。さまざまな論争を呼びうる刺激的な一冊だ。
③ 省 察。評者たちに欠けている,あるいは避けている(?)天皇・天皇制問題の深いかかわり-歴史的にも論理的に事実であった関連するもろもろの経緯を逃しておいてよいのか-
本ブログ内では,集団的自衛権の問題が日本国憲法第9条にかかわるのであれば,その前項にデンと構えている第1条~8条の関連性が,いったい,どのように配慮され議論されるべきかを考えてきた。
篠田英朗『集団的自衛権の思想史』は,② の杉田 敦も言及している論点,つまり
「表」の憲法論 が 「裏」の安保法制
↓ ↓
「個別的自衛権の自衛隊」と「集団的自衛権の米軍」
という整理:論理構成になかに,もともと潜んでいたという矛盾について,さらに掘り下げてみる余地がある。
「表:自衛隊の個別的自衛権」に対する「裏の米軍の集団的自衛権」という組みあわせは,実は,まず「第9条の制約」を受けてきた「『軍隊らしからぬが軍隊そのもの』である自衛隊」,そしてつぎに,それに対する「第1条から8条の存在保障」をもたらしてきた在日米軍という,もとから相互に不可離である「〈対〉の関係性」を意味してきた。
いわゆる「マッカーサー・メモ(あるいは原則)」にまで立ち戻って考えてみるべきである。 日本の憲法改正に対してマッカーサーが提示した,この「守るべき三原則(マッカーサー・ノート)〔ともいう〕」は,つぎのものであった。
ⅰ)天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は,憲法にもとづき行使され,憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
ⅱ)国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決のための手段としての戦争,さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも,放棄する。
日本はその防衛と保護を,いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍をもつ権能は,将来も与えられることはなく,交戦権が日本軍に与えられることもない。
ⅲ)日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は,イギリスの制度に倣うこと。
この3原則を受けて,総司令部民政局が憲法草案を作成した。当初から並々ならぬ矛盾を包蔵させられていた日本国憲法であった。上記でⅰ)とⅲ)とは〈大という形容が付くほかない矛盾〉そのものであったけれども,マッカーサーの占領軍総司令官が屁理屈(無理じい)でもって決めていたから,出立点においては「元来,問答無用の条項」であった。
補注)1946年2月3日,マッカーサーが部下のホイットニーに宛てたメモ,いわゆる「マッカーサー・ノート」をつぎの画像資料で紹介しておく。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
マッカーサー・メモ3原則
出所)http://tamutamu2011.kuronowish.com/manoto.htm
マッカーサー・ノートの真意は「9条」を置くのは,「1条(から8条まで)」を利用するためであって,その逆ではなかった。そうした脈絡においての9条と1条の関係づけが,いうなれば歴史的かつ論理的により正確に把握されておく必要がある。
1950 年6月25日に朝鮮戦争が始まると,警察予備隊を8月には創設させられた日本国は,その時点ですでに9条は骨抜きになっていた。だが,1条のほうはそのまま放置されていた。1条は9条にささえられた憲法内の条項であったのだから,9条の実体が溶解していたのであれば,1条も無用・不要になっていた。この論点は後段でも再度触れる。
天皇・天皇制が封建遺制でないとはいえず,その尻尾を大きく引きずっている,しかも明治帝政の時代に創作された疑似古代史的なゲテモノである。この事実は,マッカーサーであっても誰であっても,絶対にいいぬけることができない「歴史的な本質」である。これは,日本の歴史内における伝統だとか文化だとかいう以前において,しかと認識されておくべきことがらである。占領軍=アメリカは,敗戦した大日本帝国の天皇制度(天皇:裕仁と天皇制:ここでは宮内庁〔当時はまだ宮内省〕)を,実用主義的に占領政策に活用しただけのことであった。
要言していえば,日本国憲法とはこれが〈押しつけられた時点〉においてからして,GHQが敗戦国日本を統治・支配するための新憲法だった。それゆえ,そうであったなりにそのなかには矛盾的な本性などが,不可避の特性として包含されていた。新憲法に関するこの程度の前提となる理解は,百も承知できるようにしたうえで,関連する議論にとりかかる余地もある。
以上の指摘は,本ブログで筆者がさんざん論じてきたつもりの問題性であった。なかでももっとも肝心な・一番大事だともいえる,いいかえれば,一方では,絶対に無視されてはならない “天皇条項” をあえて宙に浮かせたまま,他方では,GHQの「押しつけ憲法」を日本が「受けとった憲法」として,それも自衛権の問題にだけ惹きつけて論じるのであれば,この方向性から生じる必然の理は「〈画竜点睛を欠く〉議論:憲法談義」であるほかなかった。
龍の構造画像画竜点睛画像
出所)左側画像は,http://470830.at.webry.info/201201/article_1.html
出所)右側画像は,http://contest.japias.jp/tqj2004/70237/k/garyoutensei.html
④ 本ブログ内の関連する記述
1) 関連する記述
本ブログ筆者の関連する記述としては,つぎの5点(実質4点)を挙げておきたい。これらをいちいち通読してもらうのはたいへんなので,ここに摘記しておいた「主題と副題」の文句に接してもらえば,なんとはなしでもその趣旨は感じとってもらえると考えている。もちろん,実際に読んでいただければ申し分なしであるが。なお,※-5からだけは後段で直接引用する箇所がある。
※-1 2015年04月08日
主題「安倍晋三流の右折改憲か,それとも,池澤夏樹流の左折改憲か?」
副題1「日本国憲法を改正(改定)するといっても,天皇・天皇制をどうするのか?」
副題2「日本知識人に特有である知的陥穽にはまらないで,憲法を改めようとするには,どうしたらよいのか?」
副題3「安倍晋三風の傲慢・頑迷・旧守(?)・反動的な憲法改悪よりも,池澤夏樹流の開明・先取・革新(!)・民主的な憲法改正への道」
※-2 2016年04月20日
主題「『押しつけ憲法』の『改憲を押しつけない』こと,および『マッカーサー・メモの原点』に還って考える日本国憲法の『公然たる秘密』」
副題1「天皇制度に関連する条項の検討を抜きにした憲法論議の空しさ」
副題2「天皇・天皇制に触れない『護憲・改憲〈論〉』は地に足が着いていない」
※-3 2016年06月14日
主題「憲法の第9条と第1~8条の相互関係に触れてこなかった議論の不思議」
副題1「柄谷公人が言及した天皇条項と戦争放棄条項の矛盾的結合形態は,アメリカが敗戦させ占領した旧大日本帝国を日本国として支配・統治するための工夫(戦後措置)に過ぎなかった」
副題2「なぜ,それほどまでむずかしい議論に発展させねばならないのか? そこにこそ,天皇・天皇制に対する『日本的な討究方法』が生起させている,具体的な制約・無意識的な限界がある」
※-4 2016年07月11日-これは ※-1と同文-
主題「憲法を改定したいとすれば,放置されていてよいわけがない問題点があるのでは?」
副題1「本日:2016年7月11日早朝のテレビニュースに出ていた安倍晋三君の顔色は,遊説のせいか,どす黒く疲弊した表情にみえた。他党の代表たちも皆,一様に疲れた顔つきをしていたが,安倍君のそれは一番よくなかったように映っていた」
副題2「改憲に賛同する政治勢力が堅実に,参議院における議席を伸張させたが,この国はいよいよ『対米属国度をさらに深化=発展させる』ための内政・外交を展開していくのか?」
副題3「この記述は2015年4月8日に公表されていたが,ここに再録することが適当と判断し,あえてかかげてみることにした」
副題4「日本国憲法を改正(改定)するといっても,天皇・天皇制をどうするのか?」
副題5「日本知識人に特有である知的陥穽にはまらないで,憲法を改めようとするには,どうしたらよいのか?」
副題6「安倍晋三風の傲慢・頑迷・旧守(?)・反動的な憲法改悪よりも,池澤夏樹流の開明・先取・革新(!)・民主的な憲法改正への道」
※-5 2016年07月18日
主題「明仁天皇は表明していないが明白に意思表示している退位の問題,宮内庁など周囲がその希望・気持を忖度しつつ退位問題を進展させる『アウンの国:ジャポン』」
副題1「象徴である天皇がモノをいい,しかも,そのなにかを実現させようとする日本国憲法改定への動向」
副題2「対米従属国家日本の『戦後レジーム』は,安倍晋三にも変えられず,むしろその〈絆〉をオトモダチ的に強化させつつある」
副題3「アメリカにとっての『押しつけ憲法』の有価値性」
2) 天皇・天皇制の問題はどこへいったのか
前段で指摘してみたつもりである「自衛権に関連する論点」は,個別的であれ集団的であれ,また集団的安全保障の次元にかかわる問題であれ,けっして避けて通るわけにいかないところの,それぞれが基本的な論点である。
だが,篠田英朗『集団的自衛権の思想史』の場合も確実に,「天皇・天皇制」に関連する議論は稀薄である。というよりは,実質的にはほとんどない。敗戦後における日本には天皇・天皇制そのものが残され,つまり,新憲法のなかに第1条から第8条として収容されていた。しかしながら,それとの組みあわせとして,抱きあわされる関係でもって,第9条に「戦争放棄」も置かされていた。
そして,以上の全体を包みこむ格好で存在してきたのが占領軍という存在であった。その意味では間違いなく「押しつけ〔られた〕憲法」であった。と同時にここにおいては,1947年9月20日の『天皇メッセージ』を想起する必要がある。昭和天皇は新憲法に納得する姿勢を示していたが,戦後日本政治史に関するこの程度の経緯は,憲法学者はむろんのこと,国際政治学者である篠田英朗も知悉の事項である。
ともかく,篠田英朗『集団的自衛権の思想史』の考察は,天皇・天皇制の問題関連には近づかないでいる。それでいて,集団的自衛権のための通底基盤である「第9条⇔第1条から第8条」の全体的な広がりまでも,当然のごとく論及されている。憲法の問題が天皇制度の問題でもあることは,あえて申すまでもない基本の理解である。天皇・天皇制の関連問題を「とりあげていない」ことが,ただちに「こちら側の問題じたいに〈なにも問題がない〉」までも意味しているのではない。
補注)なお,前掲した本ブログのうち ※-5(2016年7月18日)から,以下の引用(#)をしておく。抽出した部分は「憲法体系と安保体系-下位法と上位法の立体関係-」と名づけられていた1節である。
矢部宏治表紙2014年 矢部宏治表紙2016年
註記)いずれも集英社インターナショナル,2014年10月と2016年5月発行。
(#) 矢部宏治による2著,『日本はなぜ,「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル,2014年10月),『日本はなぜ,「戦争ができる国」になったのか』(同,2016年5月)を,簡潔にまとめてみれば,こういう時代区分になる。
◇-1「戦前・戦時(昭和前期)」は
『天皇』+ 日本軍 + 内務官僚
◇-2「戦後1(昭和後期)」は
『天皇+米軍』+ 財務・経済・外務・法務官僚+「自民党」
◇-3「戦後2(平 成 期)」は
『米軍』+ 外務・法務官僚
戦前・戦中の宮内省,敗戦後の宮内庁がこのなかにまぎれこんでいては,宮内庁式になる数々の天皇政治をとりしきってきた。だが,平成天皇の時代になると『天皇の位置づけ』の意味あいが,そのように顕著に異質になってきた。
そして,2015年夏・秋から2016年春にしあがった「安保関連法」の成立・施行は,日本国憲法における天皇・天皇制の位置づけ=価値評価を質的にも大きく変質させた。すなわち,それをより軽少なものに変形させつつある動向が,ヨリ明白になったといえる。
平成天皇にも人間の寿命が(神ではないゆえ)いつか来る。そのときまでにはなんとか,これまでのような日本政治における皇室行政を,さらにより天皇家よりに「有利な態勢」に少しでも引っぱっていきたい。
補注の補注)2016年8月8日,平成天皇がビデオ・メッセージで全国に向けて公表した「生前退位」の希望表明があった。この行為は,彼の主意の具体的な表現である。
前掲の◇-1・2・3では,なぜか,「天皇の存在」が平成の時代になってから消えている。日本国憲法は天皇・天皇制を残すかわりに,この憲法体制の上に載せられている,いいかえれば,重しのようにもたれかかっている “米日安保体制の存在” を,基本面より全体的に許しており,いうなれば一心同体的にも機能させてきた。
在日米軍基地をなくせないかぎり,天皇・天皇制もなくせない。そうしないと敗戦のケジメはつけられない。敗戦後,アメリカが日本を軍事占領したあと,支配・統治・運営・管理をしやすくするために天皇制度を活用していた。いまもその実質=抱合関係に変わりはない。
この歴史はある意味では「ボタンのかけ違い」ならぬ「意図されたそのかけ違い」であった。昭和天皇もその息子の平成天皇も,その米日間におけて展開されてきた〈敗戦後史の事情〉をよく呑みこんできた。つまり,彼らにとってみれば,納得ずくでの敗戦後事情の推移になっていた。
もちろん,敗戦国の天皇であったという経緯があったゆえ,まともに真正面からは抗うこともできず,そのままに受けいれざるをえなかった当時の状況であった。東京裁判は,天皇を活かすためのセレモニーであった一面も有していた。
〔本論に戻る→〕 篠田英朗『集団的自衛権の思想史』は第1章「自衛権を持っているのは誰なのか-1945年8月革命と憲法学出生の秘密-」の終わり付近で,こう記述している。
憲法は誰が制定してのか?という伝統的な問いは,自衛権は誰が行使するのか?という現代的な問いと直結している。その答えは,「表」側では,「国民」である。「裏」側では,「アメリカ(とともに)」または「日米安保体制」という「戦後の日本の国体」であろう。
あるいは「表」側では「個別的自衛権」だけが行使され,「裏」側では「集団的自衛権」も行使される,と言い換えても,事情はほとんど同じだ。今や日本という国家には,歴史的事情により,「ケルゼンとシュミットの野合」が存在し,国民(人民)と天皇の共生が存在し,9条の平和主義と日米同盟が存在し,より一層包括的な国家体制を作り出している(61-62頁)。
註記)改行箇所は引用者が入れた。またここでは,ケルゼンとシュミット学説に関する学問的な説明は入れない。ウィキペディアなどでしらべてほしい。
この文章においてようやく「天皇」という語句が,わずかにではあるが登場させられていた。しかし,この天皇の問題は,日本国憲法が公布・施行されてから今日まで継続的に日本の政治(国際政治)にもかかわる,具体性のある中心的な論点でもあった。いうなれば,日本の政治においてはその《要の位置》に控えていたのが,天皇・天皇制であったわけである。こうした敗戦国側の日本国憲法史における「天皇制度に関する事実経過」が描いてきた軌跡を忘れてはならない。
日本国憲法下のとくに自衛権(個別的と集団的の双方)の問題は,いままでずっとまさにアクロバット的な解釈論をもってとりざたされてきた。そのサーカス技術的な操作を要求してきたというべきか,あるいはまたそれを可能にさせてきたのが,「天皇条項:第1~8条」という基本条件の絶対的な必要性であった。
マッカーサーは「戦後レジーム」=日本の支配・統治のために,そしてアメリカ本国は国際政治を意識した世界戦略のために,すなわち裕仁をそれぞれが必要性に応じて「ビンのフタ」に使いまわしていた。また天皇自身もその役目(蝶つがいとしての機能)を,それら内外政治の舞台の上で積極的にうまく演じてきたといえる。
⑤ 篠田英朗『集団的自衛権の思想史』が真っ向からは言及していない天皇・天皇制の論点
1) 篠田『集団的自衛権の思想史』は,長谷川正安の立論:「憲法体制と安保体制」を利用しながら,こう語ってもいた。
その際,かき消された戦勝国としての連合国の存在と,占領軍としてのアメリカ合衆国の存在は,日本の憲法体系からは隠されたままとなった。むしろアメリカの存在について語ること自体がタブー視され,憲法外の議論であるばかりか,違憲であるとさえ言われるようになった。
実態として日本の国家体制の根幹を形成するものとして確立された日米安全保障条約は,しかしそのまま憲法の枠の外に存在するものとされた。憲法体制と安保体制という2つの国家体制の柱が,お互いを十分に意識しつつ,相互に無視しあうような「表」と「裏」の関係を形成する状態がうまれた(173頁)。
註記)改行箇所は引用者が入れた。
「憲法体制と安保体制という2つの国家体制の柱」を,日本国という人体の大事な内臓に譬えれば,あたかも,これらを包摂している腹腔内の腹水の機能を,天皇・天皇制=第1~8条がになっていた。それだけではなく,この機能が「憲法の枠の外に存在するものとされた」「日米安全保障条約まで密通する」機能まで果たしていた。ここで指摘するのは『天皇メッセージ』1946年9月20日のことである。その意味でいえばその腹水は病的な水準にまで増大していたと判定するほかなかった。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
腹水画像
出所)http://medick.biz/category/select/cid/2994/pid/92080
したがってまた,「アメリカの存在について語ること自体がタブー視され,憲法外の議論であるばかりか,違憲であるとさえ言われるようになった」という点については,『天皇メッセージ』(1946年9月20日においてだけでなく,さらには1950年6月下旬にも天皇による同種の「逸脱の行為」がなされていたし,マッカーサーとの会見時ごとの発言内容も政治の行為であった)が重ねられていた事実からも,問題視されねばならない検討課題が残されていた。
しかし,天皇・天皇制に関しては,アメリカ側の問題じたい以上に,過度なくらいにタブー視されてきた。「菊のタブー」という表現があるが,篠田英朗『集団的自衛権の思想史』を実際に手にとって読む前までは,天皇・天皇制についても当然に,議論の対象にとりあげつつ全体の考察が展開されるものと思いきや,この予想には全的に反する内容であった。
2) 日本の国家体制の帰結-天皇明仁にとっての含意-
篠田『集団的自衛権の思想史』は,こうも推論している。--おそらくは「最低限の実力」組織である個別的自衛権行使者たる自衛隊は,集団的自衛権行使者たる世界最強軍隊である米軍の主導のもとに,共同作戦を遂行する。
また,日本への攻撃がない場合での米軍の行動に,日本は協議のうえで同意を与えるかもしれない。それらの状態は,法的整理をおこなわなければならない立場の者にとっては,悪夢のように複雑な事態である。だがそれが日本の国家体制の帰結といえる(117頁)。
1950年8月に創設された警察予備隊の登場によって,それまで第9条をみえない使用で「戦力面」において裏づけていた米軍は〔その後に〕,自衛隊となるこの軍隊が部分的にとって替わることになったのだから,日本国憲法の第1条から8条とその第9条との「元来奇妙な均衡状態にあって維持されていた関係性」が,より明白に歪曲される事態をもたらしていた。
2015年9月までには国会(衆参両院)で成立し,2016年3月には施行された安保関連法は,そうした憲法条項内の矛盾関係を決定的な深みにまで引きずりこんだ。米軍と同じ軍事的な次元にまで自衛隊3軍が,集団的自衛権容認行使をできる軍隊組織に変えられたとなれば,問題は一気に憲法「第1条から8条の立場にいる天皇・天皇」のところまで,より具体的にいえば,天皇とその家族たちにとっては,日本国憲法が押しつけられたときの時代状況とは完全に異なった「天皇家を囲む憲法的な時代環境」が出現したことになる。
思えば,安倍第2次政権が2012年12月に登場してからの天皇一家(具体的に指摘すれば天皇→美智子→皇太子などが誕生日ごとに発信してきた見解)は,その機会をとらえては「自分たちは日本国憲法」を守るという姿勢を,いまさらのように〈ことさら強調する〉発言を連続させてきた。
敗戦後において天皇裕仁の時代にできあがっていた「米日安保体制」が,安倍晋三によって大きく様変わりさせられているように現象している。だが,それだけではなく同時に,日本国憲法に依拠してこそ存立できている「皇室の立脚基盤」が大きく揺すぶられる事態が発生したのである。彼らが非常な危機感を抱くに至ったのは,あまりにも当然の事情経過であった。
いままで,首相の安倍晋三が皇族たちに突きつけてきた「日本の国家体制の帰結」,つまり,その後における「戦後レジーム」--実はこの否定も脱却もほとんど実現できていないことは,いまだに厳在しつづける在日米軍基地をもって明らかなのではあるが--に関しては一定限度であっても,その「変質・歪曲」をこうむってきた政治過程は,明仁ら一族にとってみれば “とうてい許容しがたい事態のなりゆき” を記録してきた。
3) 憲法第9条が「表」で日米安保が「裏」ならば,憲法第1~8条はなにか? -それは安保の「裏」に支持される「表」であり,憲法の「表」に表現されている「裏」だと表現すればよいのか?-
さて,篠田『集団的自衛権の思想史』にしたがって論を進めると,こうなるのか? 「安保体制下で高度経済成長を経験した多くの日本人は,矛盾の解消ではなく,矛盾と共存することを選びはじめた。憲法9条と安保体制という『表』と『裏』の矛盾を抱え込んだ国家体制を,そのまま受け入れることを模索しはじめた」(120頁)時期があったものの,いまではその「矛盾」そのものが「解消」も「共存」もさせにくい難局に遭遇させられている。
この点は,安倍晋三政権になってからは『安保体制:第9条』の「裏」側に,もはや『〈安住のための空間〉としての「第1から8条」を,均衡的=安定的に求めにくくなった天皇家』の苦悩を発生させている。
敗戦後における天皇・天皇制の役割でなんであったか? いまも同じにその役割は天皇家が果たしているのか? 基地問題としての在日米軍,それもとくに沖縄県への集中的な付けまわしは過重でありながらも,いまだになにも抜本の解決ができていない。
独立国の様相として観る「在日米軍基地の姿容:実態」は,特定国をのぞけば,日本が一番異様である。まるで属国か自治領を実感させる状態を呈している。いったい,あと何十年経ったら米軍が「在日する基地」の「占領」を終了させる時期が来るのか? すでに71年以上もの年月が流れてきた。悠長に構えていたら1世紀の期間にまで,すぐににでも到達しそうな雰囲気さえある。
4)「戦後レジーム」はかくして,今後にもなお継続されていくのか?
篠田『集団的自衛権の思想史』にもっと聞いてみる。「従来の日本の国家体制を,冷戦が終焉して四半世紀たった現代においてもなお,維持するということ」「については関係者は,それぞれ妥協を重ねた上で,合意し続けた」。その結果をみれば「論理は軽視された。結果が尊重された」のであり,「安保法制によって何が達成されたのか?」といえば,「今後も憲法9条 / 日米安保体制を基軸として既存の日本の国家体制の枠組みが維持される,という合意の維持が,達成されたのである」(170頁)。
安倍晋三のぶち上げてきた「戦後レジーム」の否定と破壊,すなわちこれから脱却するという大目標は,尻切れトンボに終わっている(というよりはそのトンボすら飛んでいなかった)。
安保関連法によって集団的自衛権行使容認を正式に認めた手順は,日本国自衛隊3軍のアメリカ合衆国軍隊に対する従属性(フンドシ担ぎの役目:分担機能)をより発展・深化させる効果を生んでいただけである。
安倍晋三が後生大事に抱く夢「青い鳥」は,戦前・戦中体制,あるいは幻想のなかの明治帝政時代にありそうに映っていたが,21世紀のいまどきに,そのような「神武創業」的な日本政治の再構築は不可能事である。白日夢である。日本における「対米従属の政治・経済体制」はより確固たる基盤になりえているのだから,「戦後レジーム」を本気で進めたいのであれば,まずなによりも在日米軍基地の撤去が先決問題である。
⑥「『天皇と戦争』どう考える」(『朝日新聞』2016年8月23日朝刊31面「文化・文芸」)
この本日の『朝日新聞』朝刊「文化・文芸」欄には,④ までの話題に合致し,融合する議論「『天皇と戦争』どう考えるか」が掲載されていた。篠田英朗『集団的自衛権の思想史』は「思想史」を語りながら,安保の問題に対応する憲法の問題をとりあげていながらも,第1条から第8条までの「天皇・天皇制の問題」には,まったくといいくらい具体的には立ち入らない論旨の構成であった。
篠田同書におけるその議論の方途は,本ブログ筆者の議論の枠組で考えるに,それこそ想像すらできないような「論点の設定(特定)とその排除(無視)」(意識的かそれとも無意識的かは判らないが)がなされている。この本日の『朝日新聞』「文化・文芸」欄「『天皇と戦争』どう考えるか」における議論の内容は,そうした疑問点を再考するため実質を提示していると受けとめ,最後に引照することにした。
なお,画像資料でもこの記事をかかげておくので,どちらでも読めるかたちになっている。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
『朝日新聞』2016年8月23日朝刊文化文芸欄天皇と戦争問題
a) 退位の意向をにじませるお気持ちを表明した天皇陛下はこれまで,国内外で戦死者の慰霊を重ね,反省の念を示してきた。その足跡からは戦争に向き合ってきた姿勢が浮かぶ。天皇と「戦争の歴史」の関係を,私たちは主権者としてどう考えればいいのか。昭和・平成,そして次世代について,識者と考えた。
昭和天皇が戦後,訪問を果たせなかった沖縄を,天皇陛下は皇太子時代から計10回訪ね,国内最大の地上戦の犠牲者らを慰霊してきた。
先の戦争について,1990年の韓国・盧 泰愚(ノ・テウ)大統領の来日時には「痛惜の念」と語り,1992年に歴代天皇として初めて訪中したさいは「深い反省」と述べた。
昨〔2015〕年,そして今〔2016〕年の全国戦没者追悼式のおことばでも,「深い反省」と表現。2005年にサイパン,昨年はパラオを訪れ,日本兵だけでなく米兵や現地の犠牲者を悼んだ。
b) 父の昭和天皇は戦後,戦争にどう向き合ったのか。河西秀哉・神戸女学院大学准教授(日本近現代史)は「昭和天皇は,自分が戦争を進めたという意識が薄かったのではないか。外国に向けても一歩引いた発言をしていた」と語る。
昭和天皇は戦後,国内各地を訪ねて戦死者の遺族とも対面したが,踏みこんだおことばを述べることはなかった。1971年の訪英時の晩餐会で戦争に言及しなかったことが現地で批判され,1975年の訪米時には「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という表現を使った。
戦後の東京裁判では,日本を安定統治するため天皇制を利用したい米国の意向などで,昭和天皇の戦争責任は問われなかった。だが終戦直後やサンフランシスコ講和条約発効前後には天皇の戦争責任が議論され,退位の可能性もとりざたされた。
c) 昭和天皇に戦争責任はあったのか。吉田 裕・一橋大学教授(日本近現代史)は「戦争当時,昭和天皇は常に沈黙を守ったわけではなく,様々な場で政治的意思を表明していた。天皇の決断なしには開戦はありえず,責任は否定できないと思います」と話す。
ただ,明治憲法下の天皇の「統治権」は国務大臣の補佐にもとづき行使されるため,法的な責任は国務大臣が負い,天皇は責任を負わないという考え方もある。議論はいまなお分かれる。一方,1950年代から皇太子として外遊し,当時の欧米の対日感情を肌で感じた天皇陛下は,昭和天皇の責任を肩代わりするように戦争に向き合ってきたという見方もある。
吉田教授は「冷戦で日本の戦後処理があいまいになり,決着がついていなかった責任問題を,いわば父からの遺産として相続せざるをえなかった」とみる。日本国憲法は「天皇は国政に関する権能を有しない」と規定するが,外遊に出れば,先の戦争に関してなんらかの発言を期待されることもあるのは,「国の代表とみられている」(吉田教授)からだ。
d) 天皇陛下が,やり残していることはなにか。河西准教授は「戦争で犠牲になった人びと全体を悼み,苦しみを分かち合う姿勢は海外でも受け入れられている半面,日本の責任がみえにくくなるところがある。また,韓国訪問はまだ果たせず,植民地支配の問題までは踏みこめていない」〔と述べる〕。
政治的な意味合いを帯びかねない天皇の海外慰霊は,そもそも憲法が想定していないとも指摘。「こうした公的行為の拡大は,天皇の権威性を高めることになり問題だ」とするが,慰霊はいまや象徴天皇の仕事の軸になっており,つぎの天皇となる皇太子さまも続けるとみる。「戦争を経験していない世代になり,相手国も世代交代するので,反省を示すよりも,経験を引き継ぎましょうという意味合いに変化していくのでは」。
文芸評論家の加藤典洋さんは1999年,昭和天皇の戦争責任をめぐって社会学者の橋爪大三郎さんと論争をした。加藤さんは,昭和天皇には道義的な戦争責任はあり,その死後も被侵略国への責任は消えないという立場だ。ただし,それを果たすべき責任の担い手は日本の国民だという。
年々戦争体験者が減るなか,いわば開戦責任としての「戦争責任」よりも「戦後責任」が問われていると加藤さんはいう。すなわち,被侵略国の人びとに対して自分たちの非を認め,今後繰り返さないと謝罪することが大事だというのだ。
「戦後,主権者は天皇から国民に代わっており,昭和天皇の死後,対外的な責任を継ぐのは私たち国民だ。それを現在の天皇に頼んだら,国民の責任放棄になってしまう」。
戦争に向き合い,憲法に基づく象徴天皇の姿を追い求めてきた現天皇を,改憲をめざす安倍政権に反撃する後ろ盾と捉えることにも警鐘をならす。「天皇の政治的な関与を認め,戦前とはまた別のやり方で天皇に依存するようになる可能性に注意すべきだ。それは国民主権の自己否定につながる」。
⑦ 天皇・天皇制の措置について〔事後の追論〕
いまからほぼ四半世紀前に公刊されていた著書,大嶽秀夫『二つの戦後・ドイツと日本』(日本放送出版協会,1992年)は,日米安保体制に関して,つぎのような基本的な認識を提示していた。本日の議論はある意味では,少しややこしくなっていたので,関連の説明を提供するつもりである。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
大嶽秀夫表紙
篠田英朗『集団的自衛権の思想史』は,敗戦後における日本政治史を国際政治論に関する思想史としては,新しい視座からする議論を創造的に展開してくれた。これをさらに活かせるような概念的な整理が必要である。
前段において記述した箇所であったが,これをもう一度もちだしてみる。「安保法制によって何が達成されたのか?」と問われての話題であった。
「今後も憲法9条 / 日米安保体制を基軸として既存の日本の国家体制の枠組みが維持される,という合意の維持が,達成されたのである」(170頁)ということであったが,そもそもマッカーサー・メモにおいては,その「ⅲ)日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない」という1項目が入れられていた。
--思うにこの点は,天皇・天皇制に対する「敗戦後における使用価値」を,きわめて便宜的かつ限定的に措置していた点を意味する。
大嶽秀夫はつぎのように〈敗戦後史に関する解釈〉を提示していた。--ポツダム宣言による「非軍事化」は,必ずしも日本を恒久的に非武装に留めておく趣旨ではなく,ただ「軍国主義」的な軍事組織の廃絶を狙っていた。その裏を返せば,連合国と同様の軍国主義的ではない(民主的な)軍であれば,復活を許される。日本に関していえば「天皇の軍隊」の廃絶を意味していたのである。
したがって,天皇制を廃絶すれば,独立国として軍隊をもつことは将来において許され(※A),逆には天皇制を維持したい場合は,軍隊の保有は断念せざるをえない(※B)。これが「天皇制と第9条が取引された」理由というか,あるいはまた,その事情に控えていた最低条件であった。このいずれかを選ぶことを余儀なくされるときは,マッカーサーも幣原も,天皇を選ぶに躊躇しなかった(94-95頁参照)。
ところがである,安倍晋三が以上のような「戦後レジーム」をぶちこわしにした(確認しておくが,彼のその狙い⇒「戦前・戦中への回帰」という夢想:幻想が実現できたかといえば,けっしてそうはなっていない)。
歴代の政権や首相たちが,これまでなんとかごまかしながら・騙しながら維持してきた「※A」にとどまりえない,換言すれば「日米安保体制」をさらに進展・深化させてしまう結果をもちこむような,「安保関連法」を成立・施行させたのである。いうなれば,安倍は「※B」の地平にまでわざわざ, “敗戦後史としての米日軍事同盟関係” を突進させる無茶を冒したのである。
彼はすなわち,なんとかして個別的自衛権に制限していた日米安保条約の枠組を,あえて集団的自衛権が行使できる両国関係にまで拡延させたのである。
敗戦直後におけるマッカーサー・メモは「皇族を除き」と断わってはいたのだから,21世紀における天皇家側にとっては,いささかおおげさになる表現ではあるが,「自族の存亡」をいよいよ・ますます本格的に意識せざるをえない「米日間の国際関係」が,安倍晋三の手を通して,お節介にも形成されたことになる。明仁たちが胸中密かに秘めている「皇室の危機感」は並々ならぬものがあると推量する。
それゆえここでは,既述した論及:表現を再度繰りかえす。「安倍第2次政権が2012年12月に登場してからの天皇一家(具体的に指摘すれば天皇→美智子→皇太子などが誕生日ごとに発信してきた見解)は,その機会をとらえては「自分たちは日本国憲法」を守るという姿勢を,いまさらのように〈ことさら強調する〉発言を連続させてきた」事情やその背景を,どこにみいだせばよいのかを明示していたのである。
--すでにだいぶ紙数(字数)を費やしているので,ここでは以上の議論に関して本ブログ内は,「天皇問題の解決方法」をすでに示唆してきたことのみ付記しておく。
<転載終了>