2016年08月22日19:35
カテゴリ社会科学者の随想
森田 実が語った「日本の対米従属」観とは
社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1060393067.html
<転載開始>
【森田 実『独立国日本のために-「脱アメリカ」だけが日本を救う-』KKベストセラー,2011年12月の基本主張 】
【敗戦を契機に「属国日本の道」を選んだ昭和天皇,この天皇の一家が毎年の正月に,新年のあいさつを国民(臣民?!)に送っているが……】
【本当におめでたいのは毎年ごとに来る「新年」ではなく,日本国民という〈臣民意識〉から脱却できないワレワレの側ではないのか 】
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〔※ 断わり〕 本記述は,旧ブログ 2012年1月3日の再掲である。ここに再録することに当たっては,その後において補正・加筆が必要な段落・箇所については,適宜,手をくわえてある。
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① 森田 実が『独立国日本のために-「脱アメリカ」だけが日本を救う-』(KKベストセラー,2011年12月)を公刊していた
1) 主権在米国家:この日本を批判してきた森田 実
本書は2011年12月25日に出版されていた。クリスマスプレゼントではないが,この日に発行日を定めて発売するのは,本ブログ筆者の経験でいえば少し違和感をもった。というのは,この時期に本を出版するのは年末・年始であるから適当ではない,といわれたことがあるからである。
森田独立国日本のために表紙
ところが,森田 実〔というよりは上掲書の出版社の担当者〕は,サラリーマンたちが年末・年始の時期,かえってこのような話題提供的(センセーショナル)な題名を付けた書物を世の中に出すことによって,売行きの増大を期待したのではないか。
それはともかく,森田『独立国日本のために-「脱アメリカ」だけが日本を救う-』は,こう解説されている。つづいて目次もあげておく。
「巨大広告会社に支配された大マスコミはいまやわれわれに真実を語らない」。「東京の政治,行政,経済,メディア,学界-日本の頭脳と心臓が腐りゆくなか,真実の日本再生のために,誰かがなんとしても言わねばならぬ」。「いま,文明の大転換期に,屈辱の「主権在米」国家を卒業し,アジアと協調する「自立の道」こそがこの国の生きる道だ」。
序 章 独立国・新生日本のために
第1章 戦後日本の諸悪の根源は日米安保条約にあり-日本を従米国家に固定した二つの安保条約-
第2章 国内政治の諸悪の根源は小選挙区比例代表並立制にあり
第3章 財務省の増税路線・アメリカ流新自由主義が日本をつぶす-『ショック・ドクトリン』が宣告したフリードマン理論の破綻-
第4章 民主党的「政治主導」の愚-榊原英資氏の『公務員が日本を救う』を支持する-
第5章 公共事業が失業問題を解決し,日本の自然を再生し,日本の未来を開く
第6章 巨大マスコミの罪-マスコミ人の傲慢を叱る-
第7章 歴史的大変化期のなか,日本はどう生きるべきか-「和を以て貴しと為す」(十七条憲法)-
著者,森田 実[モリタ・ミノル]は政治評論家である。1932年静岡県伊東市生まれ。東京大学工学部卒業したあと,日本評論社出版部長,『経済セミナー』編集長などを経て,1973年に政治評論家として独立。著作・論文を著わす一方,テレビ・ラジオ・講演などで評論活動をおこなっている。
森田は,2005年5月ころを境に「かつてコメンテーターとして引っ張りだこだったが」「段々とテレビ局での私の扱いがかわってきた」。以後,森田は一時期,日本のマスコミ界からほぼ完全にいっていいほど締め出されたことがあった。その直接の理由は,こういうものであった。
2005年の5月ころから,複数の経路を通じてアメリカの巨大広告企業から電通に巨額の宣伝費が流れた。郵政民営化が絶対善であるかのような情報操作・宣伝工作をおこなうように,日本のメディア操作がおこなわれているとの情報が入ってきた。その金額は5000億円ともいわれ,アメリカ保険業界が日本市場拡大を狙って拠出したものだという話であった。森田はこの情報を発信しはじめたのである(178頁)。
この話に関していえば,当時,そのアメリカによる陰謀のお先棒担ぎをしたのが,小泉純一郎元首相やその手下の竹中平蔵などの特定政治集団であった。この事実は,いまとなっては否定のしようもない。
本ブログの筆者も,テレビ局のニュース報道番組などのなかで,頻繁に登場する森田 実の「論評(批評)(コメント)をよく聞かされたものであるが,ある時からまったく彼の姿が消えた変化には,なんとはなしに気づく程度でしかなかった。
しかし,森田のこのような回顧談を聞かされると,第3の権力集団といわれるマスコミ界をてこに利用した「隠然たる〈日本を支配する勢力〉のありか:様相」をあらためて知覚させられる。
2012年12月に安倍晋三が政権に返り咲いてからのこの日本国は,森田の前掲書「目次」に記されていた「あれこれの見通しや懸念」が,ほぼ妥当する方向性で,それも悪い次元に突きすすんでいる。この事実認識は,現状における日本社会を真正面からみすえている識者であれば,残念ながら皆が一様に同意できる基本路線である。
2) 森田 実の経歴
森田実画像 ウィキペディア「森田 実」には,こう記述されている。--テレビ・ラジオ出演では,「ニッポン放送の番組やフジテレビ系列『めざましテレビ』で政治評論のコーナーを長年担当していた。郵政解散での自民党圧勝を,みずからのウェブサイト等で『電通の力が大きい』と主張」した。「これが引き金となってか,以降テレビにはほとんど登場せず,インターネットでの言論活動や全国での講演活動に主軸を移している」。
出所)写真は,http://news.goo.ne.jp/entertainment/talent/M09-0026.html
「しかし福田康夫の総理就任後は,TBSにコメント出演したり,BS11 の INside OUT・本格闘論FACEや選挙予測特番に時折出演するようになっている」。「2007年10月からはスーパーニュースアンカー(関西テレビ)の金曜コメンテーターを担当し」「2008年7月からは『キンキンのサンデー・ラジオ』(文化放送)の『やさしすぎるニュース』にコメンテーターとして出演している(第1・第3日曜日のみ。第2・第4日曜日は二木啓孝)」。「TV出演時は,当初スーツを着用していたが,2000年ころから和服を着るようになった」。
② 昭和天皇『沖縄メッセージ』1947年9月-前論として-
1) 昭和天皇「沖縄メッセージ」に森田が触れない不思議
昭和天皇は敗戦後,自分と家族たちだけのよりよい生き残りのために「国を売った」のである。いまでは,日本の政治学を専門とする研究者であれば,しらない者がいない,有名な「昭和天皇の〈沖縄メッセージ〉」問題がある。
半年まえに『さらば日米同盟!』(講談社,2010年6月21日)を緊急出版したという「天木直人のブログ」から,その「沖縄メッセージ」の歴史的意味を簡単に説明してもらうことにする。2011年6月28日の天木の記述で,題名は「琉球処分と天皇の沖縄メッセージ」である。
a)「琉球処分」--普天間基地問題が論じるさい「琉球処分」ということばが言及されている。明治政府が琉球王国を強制的に日本の領土にした1872年に琉球王国を琉球藩とした〈第1次琉球処分〉,1879年に廃藩置県に従い琉球藩を沖縄県にした〈第2次琉球処分〉があった。この琉球処分とは「沖縄県民の意向を無視して日本政府の都合で沖縄の命運が決められた」というような意味で使われていい。そして琉球処分はさらに戦後一貫して沖縄で繰り返されてきた。
b)「沖縄メッセージの歴史的な意味」--その直近の例が,嫌がる沖縄県民の声を無視するかたちで,普天間基地代替施設を辺野古周辺に作ると決めた日米共同声明である。天木は,この琉球処分について沖縄文学を専攻する与那覇恵子東洋英和女学院教授が,東京新聞に3回に分けて連載した記事「文学は沖縄をどう描いてきたか」〔の第1回:6月23日〕に触れて,こう指摘している。
沖縄における「琉球処分」が戦後も繰り返された結果,基地は固定化され,沖縄が閉塞社会に押しこまれてしまった。「天皇がマッカーサーに伝えたといわれる『合衆国が沖縄および琉球の他の諸島を軍事的に占領しつづけることを望んでいる』という『天皇メッセージ』が明らかになるのは1979年である」。この新聞記事を読んだ一般の日本国民のはたして何人が,この文章の深刻な意味を理解したのかと,天木はあらためて問うているのである。
天木直人主張画像
出所)http://marimari00.blog105.fc2.com/blog-entry-256.html
c)「沖縄メッセージの内容」--天木は,近著『さらば日米同盟』(講談社)のなかで問題提起したひとつが,まさにこの昭和天皇の「沖縄メッセージ」であったと強調する。天木が同書で引用した豊下楢彦氏『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店〔現代文庫〕,2008年)は,こう指摘していた。
「沖縄における米軍の占領が『25年から50年,あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション』のもとで継続されることを望むという,有名な〔昭和〕天皇の『沖縄メッセージ』がマッカーサーの政治顧問シーボルトによって覚書にまとめられたのは,(第4回の天皇・マッカーサー会談が行なわれた1947年)9月20日のことであった」。
「このメッセージが〔昭和〕天皇自身の意思で出されたことは『入江相政日記』(第10巻)における,『アメリカに占領してもらふのが沖縄の安全を保つ上から一番よからうと仰有ったと思う旨の仰せ』(1979年5月7日付),との記述によって確認された」。
天木は「昭和天皇による沖縄メッセージ。これこそが琉球処分である。今日の沖縄問題の原点がここにある」と指摘する。まさしくこのとおりであって,日本国民は「あなたは昭和天皇の『沖縄メッセージ』をしってい」いれば,そして「もし,われわれ日本国民の1人1人がこの歴史的なメッセージのこと事を正しく認識しているなら,沖縄県民が日本政府と日本国民にどのような要求をおこなおうとも,それは許されることだとしるだろう」とまで,天木は断言する。
したがって「日本政府と日本国民は沖縄県民に対し,いかなる償いをしても償いきれない」。「それにもかかわらず,沖縄県民の意思よりも米国政府の要求に応えることを優先する政府」が存在する。「よりによって沖縄慰霊の日の挨拶で沖縄県民に米国と一緒になってさらなる負担を求めて感謝する政府」も存在する。「そのような政府,政権とそれを演出する政治家と官僚たちには,いかなる意味においても正統性はない」。これが天木の結論。
註記)以上,http://www.amakiblog.com/archives/2010/06/28/ 参照。
d)「本物の売国奴としての裕仁」--天木が引用した豊下楢彦氏『昭和天皇・マッカーサー会見』は「はじめに」のなかで,敗戦後になっても以前の「立憲君主天皇である立場」より「以上」に,きわめて能動的・積極的に,直接的な政治行動を記録してきた昭和天皇の姿を,いいかえれば,敗北した日本帝国の政治過程において,それも「自分自分の生き残り」のためにだけ必死になって「戦後史を切開していった彼の画策行為」を議論した結果を,こうまとめていた。
「つまりは,安保体制こそ戦後日本の新たな『国体』となった」(はじめに,ⅹ頁)。
マッカーサーと裕仁画像
註記)色彩加工がほどこされた有名な「1945年9月27日の写真」。
2) 戦後日本に新しくできた『国体』
要するに「『立憲君主』という自己規定の枠組を乗り越えて昭和天皇が,“超法規的” に『高度に政治的な行為』を展開した背景」(同所),すなわち,簡潔にいえば「アメリカに沖縄(琉球)を生贄に与える」という交換条件を差し出し,その代わりに「裕仁とその家族の命乞い」をしたのである。そのさい「日本国における自身の天皇位」の存続・維持が保障・獲得できたことは,いうまでもない。
--本ブログの読者にはぜひとも,「戦後レジーム形成に天皇がきわめて能動的に関与した衝撃の事実」を解明した本書,豊下楢彦氏『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫,2008年。定価千円+税)の一読を薦めたい。
補注)豊下楢彦はその後,つぎの画像で紹介する文献を,2015年7月に公刊していた。本書も必読文献である。専門家でなくととも通常の日本語力があれば無理なく読める著作である。
豊下楢彦表紙画像
熱心な天皇崇拝者である純日本人であっても,あるいは,なんとはなしに温和なかたちで天皇・天皇制支持の日本民族の人たちであっても,これらの本を読んだらきっと,裕仁当人および彼の一族の度はずれたエゴぶりには呆れはて,もしかしたら否応なしに,いっぺんに〈アンチ・皇室派〉になるかもしれない。
補記)「沖縄メッセージ」の存在を初めて明確に指摘したのは,進藤榮一である。進藤榮一『分割された領土-もうひとつの戦後史-』(岩波書店〔現代文庫〕,2002年)は,雑誌『世界』1979年4月号に「その事実」を解明した発表済みの「同名の論文」を投稿しており,これが,同書の第1部「分割された領土」に収録されている。
なお,同書の解説はこう書かれている。--「天皇,憲法,領土問題・・・」「さまざまな選択肢のなかでどういう力学が働き,戦後日本が形作られたのか。沖縄の分割を示唆した天皇メッセージの存在を明らかにし衝撃を与えた論文『分割された領土』を軸に,降伏への道程,占領下の政策,サンフランシスコ講和とその後に至る日本外交の “失敗” を跡づける」著作である。
なお,進藤榮一『戦後の原像-ヒロシマからオキナワへ-』(岩波書店,1999年),『敗戦の逆説-戦後日本はどうつくられたか-』(ちくま新書;筑摩書房,2014年)も挙げておく。
③ 森田 実が提供する2つの話題:その1「沖縄メッセージ」
話を,森田『独立国日本のために』に戻そう。-- ② の記述は,昭和天皇の「沖縄メッセージ」をとりあげていた。というのも,本ブログの筆者は,森田『独立国日本のために』を読み,そのなかで関心を抱いた2つの論点があったのだが,そのうちのひとつに関してはとくに,その「沖縄メッセージ」の問題も密接に関連づけての議論が,さらに要求されるはずだ,と判断した。
1) 第1次日米安保条約は「対米従属の歴史的原点」
森田はこういっていた。--敗戦後「日本は,アメリカ政府のシナリオの上で,吉田 茂首相1人しかしらなかった日米安保条約を締結させられ,アメリカに縛りつけられてしまった」。「サンフランシスコ講和条約により日本は形式的には『独立』をえたが,それはあくまで形式的なものに過ぎなかった。実質的には,日本は日米安保条約によって冷戦構下でアメリカ陣営に組みこまれ,事実上アメリカの属国にされてしまった」(50頁)。
吉田茂講和条約署名画像 そのとおりである。サンフランシスコ講和条約は,1951年9月8日に日米安全保障条約と同時に調印されていた。森田はそこに付随していた「重要な史実」も指摘する。そもそも「安保条約の条文は」その「調印〔の9月8日〕まで,ごくわずかの日米両政府関係者以外,誰にもしらされていなかった。もちろん,一般の国民はその内容をしる由もなかった。吉田首相だけが日本代表として調印したのも,残りの日本側全権使節は条約の内容をしっていなかった」(52頁)。
出所)右側画像はサンフランシスコ講和条約に署名する吉田 茂,http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sintou7.htm
「吉田以外は,調印されることになる日米安保条約の内容をしっていなかった」「つまり,条約案文を読まされていなかったのだ」。「調印式は下士官クラブの舞踏室でおこなわれ,10分間で終わった。調印したのは吉田だけだった」(53頁)。
天皇巡幸画像1例 出所)左側画像は,昭和20年代前半の天皇「行幸」の一コマを撮ったもの。本文におけるような日米間の政治過程が進行するなかで,昭和天皇はこのような仕事も精力的にこなしていた。
出所)http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sintou7.htm
その事実を「吉田氏のワンマン振りは独裁者の行きかたである」(苫米地義三)とのみ固定的にとらえて終わらせてはいけない。進藤榮一『分割された領土-もうひとつの戦後史-』2002年,および,豊下楢彦氏『昭和天皇・マッカーサー会見』2008年などをまともに読解すればただちに,その先に開けている《敗戦後史の真実》に到達することができるはずである。
吉田 茂は,敗戦後になっても,天皇に対する自分の政治的立場:距離を「臣茂」と表現するほど「尊皇」の思想・立場にあった。敗戦直後,昭和天皇が戦争責任をとろうと退位を申し出たときも,国民への謝罪の意を表明しようとしたときも,この吉田が止めたのである。1952年(昭和27年)11月の皇太子明仁の立太子礼に臨んださい,退位を考えた天皇を止めてもいた(原 彬久『吉田 茂』岩波書店,2005年,146-155頁など参照)。
2) アメリカに日本を売りわたしたのは昭和天皇であって,吉田 茂はその代理人に過ぎなかった
昭和天皇に対してそのように「臣茂」とみずから称した吉田は「時代錯誤」とマスコミに批判されても,得意のジョークで「臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。もっとも「大臣」ということばじたいが時代がかった古いものであるが・・・。
いずれにせよ「吉田にとって『天皇制護持』こそ,すべての始まりであり,すべての結着点であった」から(原『吉田 茂』121頁),「マッカーサーと吉田を “バイパス” して米国側に〔沖縄〕メッセージを送るという,政治過程への露骨な介入に〔昭和〕天皇を踏み切らせたのではなかった」かという歴史解釈が成立する(豊下『昭和天皇・マッカーサー会見』119頁)。
ところが,「沖縄の無期限の米占領を規定した対日平和条約の調印と同じ日の1951年9月8日,サンフランシスコにおいて調印された」第1次日米安保「条約は,今日もつづくアジア干渉のための米軍の軍事行動の発進拠点になったわが国の米軍基地に,占領終結の時点で条約上の根拠を与え,わが国を軍事上外交上米国への深い従属下に置いた」のである(森田『独立国日本のために』51頁)。
森田はこのように指摘していながらも,そのさい「臣茂」と自称して憚らなかった当時の吉田首相が,昭和天皇の意のままに働いていた事実まで追究していない。森田の記述は「第1次安保条約におけるアメリカ政府に対する忠実な協力者は」,まさにこの「吉田 茂首相だった」事実に触れ,「吉田 茂首相は日本の独立をアメリカに売りわたしたのだった」と指摘する(54頁)。
そうであったならば,昭和20年代における日米関係史において「日本の独立をアメリカに売りわたした」本当の「張本人」は,昭和天皇以外にはいない。この人物こそが,敗戦後史のなかに「正真正銘の《売国奴》である行為」の記録を,いまでは抹消できないかちで留めてもいたといえる。
本ブログが他日でも触れたように,1946年5月19日の「食糧メーデー」(米よこせメーデー,正式には「飯米獲得人民大会」)のとき,敗戦後まだ帝国臣民であった人民・国民の1人が
「ヒロヒト詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ
朕はタラフク食ってるぞ
ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」
とプラカードの文句に書いたために,当時まだ廃止されていなかった「不敬罪」に問われる事件が起きて,占領軍当局をびっくりさせる事件があった。
松島松太郎
註記)これは,1946年5月19日「食糧メーデー」のときみられたプラカードのひとつ。その日,皇居前広場で「食糧危機突破大会」,いわゆる「食糧メーデー」)が開催された。参加者の1人がこのプラカードをかかげていた。
出所)http://showa.mainichi.jp/news/1946/05/post-14a5.html
しかし,昭和天皇がアメリカに発信していた個人的な「沖縄メッセージ」は,目先の食い物の問題などではなかった。天皇裕仁は自分の地位・立場・家族だけを最優先して守るために,大日本帝国時代の国土のうち「沖縄(琉球)をアメリカに処分してもらった」のである。
それでは彼は,いったいなにを恐れていたのか? それは第2次大戦後における国際政治の舞台にできあがっていた「冷戦構造」:「東西間における決定的な政治イデオロギー対立」であり,その一方の陣営である社会主義(共産主義)国家体制であった。
日本がもしも「アカの諸国」(とくにソ連邦や中華人民共和国)に侵食でもされたら,自分と一族は根絶やしにされるかもしれないと,それはもう異常なほどに恐怖していたのである。この事実は,敗戦前の戦時中から日本の皇族・華族のなかでは共有されていた基本認識でもあった。
いずれにせよ,沖縄県が21世紀の現在においても基地問題で苦しむ実情を観察する森田 実が,この「沖縄メッセージ」が有する歴史的な関連問題を抜かしたまま『日米安保』論を説くのは,認識不足のそしりを逃れえない。
補注)ちょうど,昨日〔2016年8月20日(土)〕の午後 9:00~午後 9:50 (50分) に,NHK総合テレビが「報道特番」の『「沖縄 空白の1年~ “基地の島” はこうして生まれた~」』を放送していた。こういう番組であった。
NHK特番沖縄2016年8月20日午後9時画像
なぜ沖縄に基地が集中しているのか。それはどう始まったのか。NHKは,戦後の混乱のため資料が乏しく,「空白の1年」とも呼ばれる1945年から1946年の映像や未公開資料を入手。
そこからは,アメリカが日本への返還や住民による自治を模索したにもかかわらず,世界情勢の変化によって,沖縄が基地化されていく過程が浮かび上がってきた。本土が復興に向かう一方で,重い負担を背負うことになった沖縄の戦後をみつめる。
註記)http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2016-08-20&ch=21&eid=34944&f=46
敗戦後に沖縄県が追いこまれたこの方向性にダメ押しのための力添えをしたのが,アメリカへ発信・伝達された昭和天皇の「沖縄メッセージ」(1947年9月20日)のであった。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
天皇メッセージ1947年9月20日画像資料
註記)天皇メッセージ1947年9月20日画像資料,http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/images/Empero%27s%20Message.jpg
沖縄県公文書館によるこの資料の公開は,つぎのような解説を付している。
☆「米国国立公文書館から収集した “天皇メッセージ” を
公開しました。(平成20年3月25日)」☆
同文書は,1947年9月,米国による沖縄の軍事占領に関して,宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】
天皇メッセージの内容は,おおむね,以下の通りです。
(1) 米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2) 上記 (1) の占領は,日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3) 上記 (1) の手続は,米国と日本の二国間条約によるべき。
メモによると,天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し,共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同もえられるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると,象徴天皇制のもとでの昭和天皇と政治のかかわりを示す文書として注目を集めました。
天皇メッセージをめぐっては,日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や,長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり,その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。
--いまの沖縄〔県〕の現況:あの壊滅的な「沖縄戦後における71年と2ヶ月」は,「日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論」を全面的に支持するほかないのであって,「長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論」のほうは,付け足しの感を否めない。
沖縄県は敗戦した日本帝国の捨て駒・踏み台にされていた。それも,日本という国家全体の〈利益〉(交換条件?)ためというよりは,ともかく,当時において天皇裕仁が当面していた自身・家族の立場・状況のためにこそ,ぜひとも必要だった「政治局面において精神的に安定した日常的条件」をえるための,すなわち,アメリカ軍の日本に対する「具体的な軍事支援」体制を,より確実に提供してもらうための取引材料にされていた。
21世紀のいまにおいて,日本全国(もちろん沖縄県も入れて)に配置・布陣されている米軍基地を思いだしてみればいいのである。たとえば,アメリカ海軍の原子力空母の “母港” が横須賀には提供されている。このような米軍との関係を維持しているのは,日本以外にはない。つぎの画像資料をみたい。(画面 クリックで 拡大・可)
横須賀原子力空母母港関連画像
横須賀空母母港画像2
出所)http://cvn.jpn.org/ 画像中の日付はみな,2016年のものである。『原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会』から。
④ 森田 実が提供する2つの話題:その2「在日外国人政治献金問題」
1) 在日外国人献金問題
森田は,民主党国会議員の前原誠司に起きた「在日外国人政治献金問題」について,「前原氏の外国人からの政治献金疑惑が,国会論戦の中心になった」のではなく,この問題が「なんら解決していないのに前原フィーバーを煽っていた」以前に,「マスコミは臭い物に蓋をするつも〔り〕だったのか ! ? 」と追及していた(169頁)。
前原画像
この「在日外国人政治献金問題」は,ウィキペディア「前原誠司」では「在日韓国人献金問題・引責辞任」として〈編集〉されている。2011年3月4日に突如,話題にされていたのが,この事件であった。前原が誠司献金を受けとった在日韓国人女性は,前原の子どものころからのつき合いがあったという。
出所)画像は,http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-3716.html
「政治資金規正法」は,外国人から政治活動に関する寄付を受けてはならないとされ,故意にこの規定に反して寄付を受けた人には,罰則の定めがある。この刑罰に処せられたばあいは,公民権停止の対象になる。前原のばあい,その全体像を把握してから判断したほうがよいとされ,その場ではただちに結論は出されなかった。
2011年3月6日夜,外務省で記者会見した前原は,外相を辞任する意向を明らかにしたが,議員辞職については言及しなかった。また,問題となった人物が前述のように「旧知の在日外国人(韓国人)であった事実」は認めたものの,「献金をいただいているという認識はなかった」と,献金受領の故意を否定した。後任が決定するまでの外相臨時代理は,枝野幸男が務め,3月9日に外務副大臣だった松本剛明が昇格となった。
同日の記者会見で前原が公表したのは,在日韓国人の女性から受けとった献金の額は毎年5万円ずつ,5年間で計25万円である。年に5万円以下の献金は,収支報告書に寄付者の氏名などを明示しなくても良いとされている。3月8日,前原に対する政治資金規正法容疑としての告発状が,京都地検に提出された。12月21日,京都地検は,不起訴処分(嫌疑なし)とする。
2) そのほか在日外国人献金問題
ウィキペディアの当該記事は「上記以外の外国人献金問題」として,以下も記述している。
--2011年8月27日,2005年から2010年までの6年間を前原の事務所が調査した結果,新たに在日外国人3人と,在日外国人が代表取締役を務める法人からの献金,計34万円分の外国人献金が発覚した。8月27日の発表前にこの献金は返金されている。2011年9月1日,8月27日の発表分とは別に,在日韓国人が株の大半を所有する企業から1996年から2003年までの間,計約100万円の献金を受けていることが発覚した。なおこの献金問題は時効の3年を過ぎていた。
さて,政治家の汚職だとか個人献金の問題では,もっと巨額・多額の政治献金問題・事件が頻発してきた。こちらのほうはそっちのけで,前原のような事例が,あたかも大問題であるかのように事件として報道されている。本ブログは,原発問題をよくとりあげてきているが,政党に対して東電関係者が個人献金にならないように巧みに数十万円・数百万円単位の政治献金を,それも会社幹部連中が何名・何十名も揃えて旧与党政権党に都合している。
前原の政治献金問題は「特別永住権という摩訶不思議な在留資格」を保有している「在日2世・3世」からの献金に関するものであって,政治資金規制法が法人企業については,排除できるわけもない外国法人(日本国籍の会社法人であっても外国〔人〕資本の比率が大きい企業経営も多数存在する)との関連を合わせて観察してみるに,雑魚を捕えるのには熱心でも大魚ははじめから問題外である。
☆ 前原外相に献金した女性
「選挙権もなく政治資金も出せないとは」☆
前原誠司外相に献金して問題となった在日同胞のチャン・オクプンさんは,「外国人も公務員になる時代なのに外国人が献金してはいけないとは夢にも思わなかった」として,自身の献金で前原外相が辞任することになったことを悔やんだ。
慶尚北道醴泉出身で韓国籍を維持しているチャンさんは,前原外相が12歳のときに父親と死別し,15歳のときにチャンさん夫婦が経営する飲食店の近所に引っ越してきてから親しくなったという。チャンさんは韓国と日本のメディアとのインタビューを通じ,「前原外相は私の2男と同い年で,店に立ち寄ったときには私を “お母さん” と呼んだ」と話した。
その後,前原氏が政治家になるとすぐに小さな気持だが支援したいと考えていた。「5年前に前原氏の広報物のなかに寄付金を送る口座用紙が入っており,通名で送金した」と話した。また,「このお金は正直なところ政治資金とは思わなかった。家族ぐるみで親密に過ごしながら韓国人か日本人かを問うことなく慶弔時 ごとに助け合う仲だ」と強調した。さらに,「外国人の寄付だと不法資金だというが,いつまでこのように在日韓国人が差別を受けなければならないか」と反問 した。
チャンさんは京都市山科区で焼き肉店を38年前から経営している。「これまで飲食店をしながら日本人と同じように税金を払っているが,選挙権もなく政治資 金も出せないとは。こういう差別はなくならなければならない」と強調した。前原外相が辞任した3月6日にはチャンさんの店に日本の右翼勢力とみられる人たちから脅迫電話がときどきかかってきたという。7日の店は連絡が途絶えた状態だった。
註記)http://japanese.joins.com/article/013/138013.html,『中央日報』日本語版 2011年03月08日09時59分 配信。
今回のような在日外国人献金問題の問題は,特別永住権をもって日本に暮らしている旧植民地出身者およびその子孫の問題であるからには,ごくふつうの外国〔国籍〕人という概念で〈規制する〉ことじたい,根本より疑念がもたれて当然である。日本〔国籍〕人でなければ,ほかはすべて非日本〔国籍〕人=外国人,という単純な腑分け=歴史的にも論理的にも不当である排外的な判断が,結局のところ問題として浮上してくる。
在日韓国人来歴解説画像
出所)https://ja.wikipedia.org/wiki/在日韓国・朝鮮人
(画面 クリックで 拡大・可)
在日外国人に地方参政権を与えるかどうかという政治外交問題も長らく議論されるばかりで,いまだに解決していない(自民党政権に戻ってからはまったく進展なし)。「旧植民地出身者およびその子孫である在日外国人」に対して,日本国籍人でないから,政治資金規制法でとりしまる対象になるという単純思考が,まずもって再考されねばならない。
さて森田は,以上のように指摘した問題点についていえば,論外に残されたかのような「在日外国人献金問題」に対する議論しかできていない。この種の問題が発生する「日本社会の実態」は,ほとんど感知しえていないがゆえに,まともに把握できてもいない。
⑤ 敗戦後の日本に残された呪縛4項目
1)「皇 室」 昭和天皇の権威を利用してGHQは,日本の占領政策を進めることができた。
2)「大蔵省(現財務省)」 戦前からつづく省庁では,GHQによる改変を逃れたのは大蔵だけである。大蔵官僚のDNAは従米主義で,いまはアメリカ国債を買い支えるためにには「増税もやむなし」という思考になってしまっている(この段落の話は2010年当時のことである)。
3)「法務省・検察庁」 アメリカの意のままにならない人間を強制的に排除する「暴力装置」として機能している。
4)「マスコミ」 マスコミは政治家なり官僚なりの疑惑を煽り,それをもとに賢察が乗りだすというのが排除の王道パターンである。
--戦後も66〔→ 67(⇒ 71)〕年も経過すると,こうした日本への呪縛はだいぶ解けてきた。皇室はとくに,昭和から平成へと代替わりして,アメリカとの関係も希薄になった。大蔵省は借金を作りすぎて,かといって増税もできず,力を失っている(その間に消費税は5%から8%に上げられたが)。検察は元気がよかったのだが,調書捏造事件など暴走し過ぎたために民意からみはなされた。戦後アメリカ占領軍が使った日本支配のための主要な道具が変質し,もろくなってしまっている(183頁)。
もっとも,以上に森田が認識してきたように,はたして日本国が有意・顕著に変質してきたのか,本ブログの筆者は懐疑的である。アメリカはオバマ大統領が今年に予定されている大統領選の再選をめざして,TPP(環太平洋戦略的経済連携協定:Trans-Pacific Partnership)の拡大・浸透に懸命である(いま:2016年夏の段階ではその先行き不透明)。
いまや,情報・金融強盗資本主義体制の経済態勢しか採れなくなったアメリカ経済社会は,それでも老体国化しつつあるアメリカ中心の略奪経済構造の向けて,世界各国を変改・整列させようと企んでいる。
--本日も,新年の〔ここでは2012年における〕あいさつを国民に向けておこなった「天皇のことば」を紹介しておく。
☆ 天皇陛下「少しでも良い年に」
皇居で新年の一般参賀 ☆
新年恒例の一般参賀が1月2日,皇居・宮殿の東庭でおこなわれ,7万770人が訪れた。天皇陛下は皇后さまや皇太子ご夫妻,秋篠宮ご夫妻ら皇族方とともに,長和殿のベランダに立たれた。
あいさつで陛下は,東日本大震災や豪雨災害に見舞われた昨年を「心の痛む年でした」とし,被災者を案じた上で,「被災地の復興が進み,この年が国民1人ひとりにとり少しでも良い年となるよう願っています」と述べ,参賀者に笑顔で手を振って応えた。
註記)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120102-00000005-jij-soci,『時事通信』2012年1月2日 (月) 5時23分配信,最終更新:1月2日 (月) 15時17分。
2016年1月2日皇族参賀画像
出所)写真は2016年1月2日の「一般参賀」画像,http://blog.goo.ne.jp/adragonisflying12345/e/599ab2861c180a2927235f744411e493
かつての帝国臣民は,この「天皇陛下」の「父:大元帥の命令」によって,大東亜戦争では日本国民だけでも310万名もの『尊い命』を,生き神さまとされたこの裕仁のためにこそ,捧げていたの木村三浩表紙である。その時の敵国の人びとは《鬼畜米英》と蔑称されていた。
註記)これは,木村三浩『鬼畜米英―がんばれサダム・フセインふざけんなアメリカ!! (増補版)』鹿砦社,2003年4月の表紙カバー。
ところがである,戦争に敗けてしまった日本帝国の大元帥「閣下」が,占領軍の総大将様であったとはいえ「アメリカ側の格下の元帥」マッカーサーに命乞いをし,媚びを売った結果,なんとか戦後においても自分の天皇位を護ることに成功した。
おまけにその直後に彼はさらに,そのアメリカさんに対して「沖縄県」を〈ほとんどただ同然で引き渡す〉というごとき,これはどうみても本当に『売国奴』とみなすほかない,沖縄県人からみればそうとしか表現できない役目をはたしていた。より正確にいうと,自分の「天皇の地位」の安定化との「交換条件」であったかのような “お返し” として,みずから「その提案」をおこなっていた。
1872年から1879年の「琉球処分」という歴史以来,「沖縄県人」は天皇の赤子でも,むろん股肱でもなかった。靖国神社に安らかに祀られているという〈英霊〉のなかには,沖縄県人も大勢いるはずである。彼らも含めた250万柱近くにもなんなんとする〈英霊〉たちは,日本帝国大元帥であったこの裕仁氏の,以上のような「不実の精神」というよりは「全面的な裏切りの行為」を,草葉の陰からどのようににらみ返しているか?
昭和天皇死去マンガハンギョレ紙
というよりは,昭和天皇はしょせん,沖縄県を「日本固有の領土」とは思っていなかったのかもしれない。ここまで想像もしたうえで,過去の歴史に深く関与した彼の「山よりも高く,海よりも深い,とてつもなく重大な政治責任」を凝視する必要がある。
<転載終了>
5命乞いは朝鮮人の得意技だが、朝鮮人裕仁は命乞いなどしていない、する必要も無かった。開戦から原爆投下まで全てできレース。東京大空襲で皇居だけ免れたのは何故?真っ先に爆撃するのが普通でしょう。売日本した天皇が売沖縄をするのは屁でもない。日本人など何百万人死んでも関係ねえ。因みに吉田茂も朝鮮部落出身。同族だもん仲がいい。明仁が先祖は朝鮮人と言ったけど、それほど昔のことじゃない。 当然のように朝鮮族の嫁を迎え、息子の嫁も朝鮮由来。かくして日本人は朝鮮人天皇を拝みに新年皇居に行く。おめでたい国、日本。知ってて行くならかまわない。終戦直後に飛び出した、一億総懺悔。朝鮮電通 が創作した、世界で最も成功したブロパガンダ用語。最も懺悔すべき罪人裕仁が悲劇の主人公になって、悲劇の国民が罪人にさせられてしまった。今は毎年明仁が裕仁に代わって謝ってはいるが、言葉だけ。 朝鮮人どもの臭い芝居はたくさんだ。 アメリカの属国じゃ足りず朝鮮の属国にもなろうとしてる。因みにNHKはじめマスコミは朝鮮人の天下。報道は全て朝鮮寄り。次期天皇レースも。森田実、突っ込みが甘い。 残念!諦めるなネタは無尽蔵。取り敢えず電通に仕返しすべし。
カテゴリ社会科学者の随想
森田 実が語った「日本の対米従属」観とは
社会科学者の随想さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1060393067.html
<転載開始>
【森田 実『独立国日本のために-「脱アメリカ」だけが日本を救う-』KKベストセラー,2011年12月の基本主張 】
【敗戦を契機に「属国日本の道」を選んだ昭和天皇,この天皇の一家が毎年の正月に,新年のあいさつを国民(臣民?!)に送っているが……】
【本当におめでたいのは毎年ごとに来る「新年」ではなく,日本国民という〈臣民意識〉から脱却できないワレワレの側ではないのか 】
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〔※ 断わり〕 本記述は,旧ブログ 2012年1月3日の再掲である。ここに再録することに当たっては,その後において補正・加筆が必要な段落・箇所については,適宜,手をくわえてある。
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① 森田 実が『独立国日本のために-「脱アメリカ」だけが日本を救う-』(KKベストセラー,2011年12月)を公刊していた
1) 主権在米国家:この日本を批判してきた森田 実
本書は2011年12月25日に出版されていた。クリスマスプレゼントではないが,この日に発行日を定めて発売するのは,本ブログ筆者の経験でいえば少し違和感をもった。というのは,この時期に本を出版するのは年末・年始であるから適当ではない,といわれたことがあるからである。
森田独立国日本のために表紙
ところが,森田 実〔というよりは上掲書の出版社の担当者〕は,サラリーマンたちが年末・年始の時期,かえってこのような話題提供的(センセーショナル)な題名を付けた書物を世の中に出すことによって,売行きの増大を期待したのではないか。
それはともかく,森田『独立国日本のために-「脱アメリカ」だけが日本を救う-』は,こう解説されている。つづいて目次もあげておく。
「巨大広告会社に支配された大マスコミはいまやわれわれに真実を語らない」。「東京の政治,行政,経済,メディア,学界-日本の頭脳と心臓が腐りゆくなか,真実の日本再生のために,誰かがなんとしても言わねばならぬ」。「いま,文明の大転換期に,屈辱の「主権在米」国家を卒業し,アジアと協調する「自立の道」こそがこの国の生きる道だ」。
序 章 独立国・新生日本のために
第1章 戦後日本の諸悪の根源は日米安保条約にあり-日本を従米国家に固定した二つの安保条約-
第2章 国内政治の諸悪の根源は小選挙区比例代表並立制にあり
第3章 財務省の増税路線・アメリカ流新自由主義が日本をつぶす-『ショック・ドクトリン』が宣告したフリードマン理論の破綻-
第4章 民主党的「政治主導」の愚-榊原英資氏の『公務員が日本を救う』を支持する-
第5章 公共事業が失業問題を解決し,日本の自然を再生し,日本の未来を開く
第6章 巨大マスコミの罪-マスコミ人の傲慢を叱る-
第7章 歴史的大変化期のなか,日本はどう生きるべきか-「和を以て貴しと為す」(十七条憲法)-
著者,森田 実[モリタ・ミノル]は政治評論家である。1932年静岡県伊東市生まれ。東京大学工学部卒業したあと,日本評論社出版部長,『経済セミナー』編集長などを経て,1973年に政治評論家として独立。著作・論文を著わす一方,テレビ・ラジオ・講演などで評論活動をおこなっている。
森田は,2005年5月ころを境に「かつてコメンテーターとして引っ張りだこだったが」「段々とテレビ局での私の扱いがかわってきた」。以後,森田は一時期,日本のマスコミ界からほぼ完全にいっていいほど締め出されたことがあった。その直接の理由は,こういうものであった。
2005年の5月ころから,複数の経路を通じてアメリカの巨大広告企業から電通に巨額の宣伝費が流れた。郵政民営化が絶対善であるかのような情報操作・宣伝工作をおこなうように,日本のメディア操作がおこなわれているとの情報が入ってきた。その金額は5000億円ともいわれ,アメリカ保険業界が日本市場拡大を狙って拠出したものだという話であった。森田はこの情報を発信しはじめたのである(178頁)。
この話に関していえば,当時,そのアメリカによる陰謀のお先棒担ぎをしたのが,小泉純一郎元首相やその手下の竹中平蔵などの特定政治集団であった。この事実は,いまとなっては否定のしようもない。
本ブログの筆者も,テレビ局のニュース報道番組などのなかで,頻繁に登場する森田 実の「論評(批評)(コメント)をよく聞かされたものであるが,ある時からまったく彼の姿が消えた変化には,なんとはなしに気づく程度でしかなかった。
しかし,森田のこのような回顧談を聞かされると,第3の権力集団といわれるマスコミ界をてこに利用した「隠然たる〈日本を支配する勢力〉のありか:様相」をあらためて知覚させられる。
2012年12月に安倍晋三が政権に返り咲いてからのこの日本国は,森田の前掲書「目次」に記されていた「あれこれの見通しや懸念」が,ほぼ妥当する方向性で,それも悪い次元に突きすすんでいる。この事実認識は,現状における日本社会を真正面からみすえている識者であれば,残念ながら皆が一様に同意できる基本路線である。
2) 森田 実の経歴
森田実画像 ウィキペディア「森田 実」には,こう記述されている。--テレビ・ラジオ出演では,「ニッポン放送の番組やフジテレビ系列『めざましテレビ』で政治評論のコーナーを長年担当していた。郵政解散での自民党圧勝を,みずからのウェブサイト等で『電通の力が大きい』と主張」した。「これが引き金となってか,以降テレビにはほとんど登場せず,インターネットでの言論活動や全国での講演活動に主軸を移している」。
出所)写真は,http://news.goo.ne.jp/entertainment/talent/M09-0026.html
「しかし福田康夫の総理就任後は,TBSにコメント出演したり,BS11 の INside OUT・本格闘論FACEや選挙予測特番に時折出演するようになっている」。「2007年10月からはスーパーニュースアンカー(関西テレビ)の金曜コメンテーターを担当し」「2008年7月からは『キンキンのサンデー・ラジオ』(文化放送)の『やさしすぎるニュース』にコメンテーターとして出演している(第1・第3日曜日のみ。第2・第4日曜日は二木啓孝)」。「TV出演時は,当初スーツを着用していたが,2000年ころから和服を着るようになった」。
② 昭和天皇『沖縄メッセージ』1947年9月-前論として-
1) 昭和天皇「沖縄メッセージ」に森田が触れない不思議
昭和天皇は敗戦後,自分と家族たちだけのよりよい生き残りのために「国を売った」のである。いまでは,日本の政治学を専門とする研究者であれば,しらない者がいない,有名な「昭和天皇の〈沖縄メッセージ〉」問題がある。
半年まえに『さらば日米同盟!』(講談社,2010年6月21日)を緊急出版したという「天木直人のブログ」から,その「沖縄メッセージ」の歴史的意味を簡単に説明してもらうことにする。2011年6月28日の天木の記述で,題名は「琉球処分と天皇の沖縄メッセージ」である。
a)「琉球処分」--普天間基地問題が論じるさい「琉球処分」ということばが言及されている。明治政府が琉球王国を強制的に日本の領土にした1872年に琉球王国を琉球藩とした〈第1次琉球処分〉,1879年に廃藩置県に従い琉球藩を沖縄県にした〈第2次琉球処分〉があった。この琉球処分とは「沖縄県民の意向を無視して日本政府の都合で沖縄の命運が決められた」というような意味で使われていい。そして琉球処分はさらに戦後一貫して沖縄で繰り返されてきた。
b)「沖縄メッセージの歴史的な意味」--その直近の例が,嫌がる沖縄県民の声を無視するかたちで,普天間基地代替施設を辺野古周辺に作ると決めた日米共同声明である。天木は,この琉球処分について沖縄文学を専攻する与那覇恵子東洋英和女学院教授が,東京新聞に3回に分けて連載した記事「文学は沖縄をどう描いてきたか」〔の第1回:6月23日〕に触れて,こう指摘している。
沖縄における「琉球処分」が戦後も繰り返された結果,基地は固定化され,沖縄が閉塞社会に押しこまれてしまった。「天皇がマッカーサーに伝えたといわれる『合衆国が沖縄および琉球の他の諸島を軍事的に占領しつづけることを望んでいる』という『天皇メッセージ』が明らかになるのは1979年である」。この新聞記事を読んだ一般の日本国民のはたして何人が,この文章の深刻な意味を理解したのかと,天木はあらためて問うているのである。
天木直人主張画像
出所)http://marimari00.blog105.fc2.com/blog-entry-256.html
c)「沖縄メッセージの内容」--天木は,近著『さらば日米同盟』(講談社)のなかで問題提起したひとつが,まさにこの昭和天皇の「沖縄メッセージ」であったと強調する。天木が同書で引用した豊下楢彦氏『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店〔現代文庫〕,2008年)は,こう指摘していた。
「沖縄における米軍の占領が『25年から50年,あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション』のもとで継続されることを望むという,有名な〔昭和〕天皇の『沖縄メッセージ』がマッカーサーの政治顧問シーボルトによって覚書にまとめられたのは,(第4回の天皇・マッカーサー会談が行なわれた1947年)9月20日のことであった」。
「このメッセージが〔昭和〕天皇自身の意思で出されたことは『入江相政日記』(第10巻)における,『アメリカに占領してもらふのが沖縄の安全を保つ上から一番よからうと仰有ったと思う旨の仰せ』(1979年5月7日付),との記述によって確認された」。
天木は「昭和天皇による沖縄メッセージ。これこそが琉球処分である。今日の沖縄問題の原点がここにある」と指摘する。まさしくこのとおりであって,日本国民は「あなたは昭和天皇の『沖縄メッセージ』をしってい」いれば,そして「もし,われわれ日本国民の1人1人がこの歴史的なメッセージのこと事を正しく認識しているなら,沖縄県民が日本政府と日本国民にどのような要求をおこなおうとも,それは許されることだとしるだろう」とまで,天木は断言する。
したがって「日本政府と日本国民は沖縄県民に対し,いかなる償いをしても償いきれない」。「それにもかかわらず,沖縄県民の意思よりも米国政府の要求に応えることを優先する政府」が存在する。「よりによって沖縄慰霊の日の挨拶で沖縄県民に米国と一緒になってさらなる負担を求めて感謝する政府」も存在する。「そのような政府,政権とそれを演出する政治家と官僚たちには,いかなる意味においても正統性はない」。これが天木の結論。
註記)以上,http://www.amakiblog.com/archives/2010/06/28/ 参照。
d)「本物の売国奴としての裕仁」--天木が引用した豊下楢彦氏『昭和天皇・マッカーサー会見』は「はじめに」のなかで,敗戦後になっても以前の「立憲君主天皇である立場」より「以上」に,きわめて能動的・積極的に,直接的な政治行動を記録してきた昭和天皇の姿を,いいかえれば,敗北した日本帝国の政治過程において,それも「自分自分の生き残り」のためにだけ必死になって「戦後史を切開していった彼の画策行為」を議論した結果を,こうまとめていた。
「つまりは,安保体制こそ戦後日本の新たな『国体』となった」(はじめに,ⅹ頁)。
マッカーサーと裕仁画像
註記)色彩加工がほどこされた有名な「1945年9月27日の写真」。
2) 戦後日本に新しくできた『国体』
要するに「『立憲君主』という自己規定の枠組を乗り越えて昭和天皇が,“超法規的” に『高度に政治的な行為』を展開した背景」(同所),すなわち,簡潔にいえば「アメリカに沖縄(琉球)を生贄に与える」という交換条件を差し出し,その代わりに「裕仁とその家族の命乞い」をしたのである。そのさい「日本国における自身の天皇位」の存続・維持が保障・獲得できたことは,いうまでもない。
--本ブログの読者にはぜひとも,「戦後レジーム形成に天皇がきわめて能動的に関与した衝撃の事実」を解明した本書,豊下楢彦氏『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫,2008年。定価千円+税)の一読を薦めたい。
補注)豊下楢彦はその後,つぎの画像で紹介する文献を,2015年7月に公刊していた。本書も必読文献である。専門家でなくととも通常の日本語力があれば無理なく読める著作である。
豊下楢彦表紙画像
熱心な天皇崇拝者である純日本人であっても,あるいは,なんとはなしに温和なかたちで天皇・天皇制支持の日本民族の人たちであっても,これらの本を読んだらきっと,裕仁当人および彼の一族の度はずれたエゴぶりには呆れはて,もしかしたら否応なしに,いっぺんに〈アンチ・皇室派〉になるかもしれない。
補記)「沖縄メッセージ」の存在を初めて明確に指摘したのは,進藤榮一である。進藤榮一『分割された領土-もうひとつの戦後史-』(岩波書店〔現代文庫〕,2002年)は,雑誌『世界』1979年4月号に「その事実」を解明した発表済みの「同名の論文」を投稿しており,これが,同書の第1部「分割された領土」に収録されている。
なお,同書の解説はこう書かれている。--「天皇,憲法,領土問題・・・」「さまざまな選択肢のなかでどういう力学が働き,戦後日本が形作られたのか。沖縄の分割を示唆した天皇メッセージの存在を明らかにし衝撃を与えた論文『分割された領土』を軸に,降伏への道程,占領下の政策,サンフランシスコ講和とその後に至る日本外交の “失敗” を跡づける」著作である。
なお,進藤榮一『戦後の原像-ヒロシマからオキナワへ-』(岩波書店,1999年),『敗戦の逆説-戦後日本はどうつくられたか-』(ちくま新書;筑摩書房,2014年)も挙げておく。
③ 森田 実が提供する2つの話題:その1「沖縄メッセージ」
話を,森田『独立国日本のために』に戻そう。-- ② の記述は,昭和天皇の「沖縄メッセージ」をとりあげていた。というのも,本ブログの筆者は,森田『独立国日本のために』を読み,そのなかで関心を抱いた2つの論点があったのだが,そのうちのひとつに関してはとくに,その「沖縄メッセージ」の問題も密接に関連づけての議論が,さらに要求されるはずだ,と判断した。
1) 第1次日米安保条約は「対米従属の歴史的原点」
森田はこういっていた。--敗戦後「日本は,アメリカ政府のシナリオの上で,吉田 茂首相1人しかしらなかった日米安保条約を締結させられ,アメリカに縛りつけられてしまった」。「サンフランシスコ講和条約により日本は形式的には『独立』をえたが,それはあくまで形式的なものに過ぎなかった。実質的には,日本は日米安保条約によって冷戦構下でアメリカ陣営に組みこまれ,事実上アメリカの属国にされてしまった」(50頁)。
吉田茂講和条約署名画像 そのとおりである。サンフランシスコ講和条約は,1951年9月8日に日米安全保障条約と同時に調印されていた。森田はそこに付随していた「重要な史実」も指摘する。そもそも「安保条約の条文は」その「調印〔の9月8日〕まで,ごくわずかの日米両政府関係者以外,誰にもしらされていなかった。もちろん,一般の国民はその内容をしる由もなかった。吉田首相だけが日本代表として調印したのも,残りの日本側全権使節は条約の内容をしっていなかった」(52頁)。
出所)右側画像はサンフランシスコ講和条約に署名する吉田 茂,http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sintou7.htm
「吉田以外は,調印されることになる日米安保条約の内容をしっていなかった」「つまり,条約案文を読まされていなかったのだ」。「調印式は下士官クラブの舞踏室でおこなわれ,10分間で終わった。調印したのは吉田だけだった」(53頁)。
天皇巡幸画像1例 出所)左側画像は,昭和20年代前半の天皇「行幸」の一コマを撮ったもの。本文におけるような日米間の政治過程が進行するなかで,昭和天皇はこのような仕事も精力的にこなしていた。
出所)http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sintou7.htm
その事実を「吉田氏のワンマン振りは独裁者の行きかたである」(苫米地義三)とのみ固定的にとらえて終わらせてはいけない。進藤榮一『分割された領土-もうひとつの戦後史-』2002年,および,豊下楢彦氏『昭和天皇・マッカーサー会見』2008年などをまともに読解すればただちに,その先に開けている《敗戦後史の真実》に到達することができるはずである。
吉田 茂は,敗戦後になっても,天皇に対する自分の政治的立場:距離を「臣茂」と表現するほど「尊皇」の思想・立場にあった。敗戦直後,昭和天皇が戦争責任をとろうと退位を申し出たときも,国民への謝罪の意を表明しようとしたときも,この吉田が止めたのである。1952年(昭和27年)11月の皇太子明仁の立太子礼に臨んださい,退位を考えた天皇を止めてもいた(原 彬久『吉田 茂』岩波書店,2005年,146-155頁など参照)。
2) アメリカに日本を売りわたしたのは昭和天皇であって,吉田 茂はその代理人に過ぎなかった
昭和天皇に対してそのように「臣茂」とみずから称した吉田は「時代錯誤」とマスコミに批判されても,得意のジョークで「臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。もっとも「大臣」ということばじたいが時代がかった古いものであるが・・・。
いずれにせよ「吉田にとって『天皇制護持』こそ,すべての始まりであり,すべての結着点であった」から(原『吉田 茂』121頁),「マッカーサーと吉田を “バイパス” して米国側に〔沖縄〕メッセージを送るという,政治過程への露骨な介入に〔昭和〕天皇を踏み切らせたのではなかった」かという歴史解釈が成立する(豊下『昭和天皇・マッカーサー会見』119頁)。
ところが,「沖縄の無期限の米占領を規定した対日平和条約の調印と同じ日の1951年9月8日,サンフランシスコにおいて調印された」第1次日米安保「条約は,今日もつづくアジア干渉のための米軍の軍事行動の発進拠点になったわが国の米軍基地に,占領終結の時点で条約上の根拠を与え,わが国を軍事上外交上米国への深い従属下に置いた」のである(森田『独立国日本のために』51頁)。
森田はこのように指摘していながらも,そのさい「臣茂」と自称して憚らなかった当時の吉田首相が,昭和天皇の意のままに働いていた事実まで追究していない。森田の記述は「第1次安保条約におけるアメリカ政府に対する忠実な協力者は」,まさにこの「吉田 茂首相だった」事実に触れ,「吉田 茂首相は日本の独立をアメリカに売りわたしたのだった」と指摘する(54頁)。
そうであったならば,昭和20年代における日米関係史において「日本の独立をアメリカに売りわたした」本当の「張本人」は,昭和天皇以外にはいない。この人物こそが,敗戦後史のなかに「正真正銘の《売国奴》である行為」の記録を,いまでは抹消できないかちで留めてもいたといえる。
本ブログが他日でも触れたように,1946年5月19日の「食糧メーデー」(米よこせメーデー,正式には「飯米獲得人民大会」)のとき,敗戦後まだ帝国臣民であった人民・国民の1人が
「ヒロヒト詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ
朕はタラフク食ってるぞ
ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」
とプラカードの文句に書いたために,当時まだ廃止されていなかった「不敬罪」に問われる事件が起きて,占領軍当局をびっくりさせる事件があった。
松島松太郎
註記)これは,1946年5月19日「食糧メーデー」のときみられたプラカードのひとつ。その日,皇居前広場で「食糧危機突破大会」,いわゆる「食糧メーデー」)が開催された。参加者の1人がこのプラカードをかかげていた。
出所)http://showa.mainichi.jp/news/1946/05/post-14a5.html
しかし,昭和天皇がアメリカに発信していた個人的な「沖縄メッセージ」は,目先の食い物の問題などではなかった。天皇裕仁は自分の地位・立場・家族だけを最優先して守るために,大日本帝国時代の国土のうち「沖縄(琉球)をアメリカに処分してもらった」のである。
それでは彼は,いったいなにを恐れていたのか? それは第2次大戦後における国際政治の舞台にできあがっていた「冷戦構造」:「東西間における決定的な政治イデオロギー対立」であり,その一方の陣営である社会主義(共産主義)国家体制であった。
日本がもしも「アカの諸国」(とくにソ連邦や中華人民共和国)に侵食でもされたら,自分と一族は根絶やしにされるかもしれないと,それはもう異常なほどに恐怖していたのである。この事実は,敗戦前の戦時中から日本の皇族・華族のなかでは共有されていた基本認識でもあった。
いずれにせよ,沖縄県が21世紀の現在においても基地問題で苦しむ実情を観察する森田 実が,この「沖縄メッセージ」が有する歴史的な関連問題を抜かしたまま『日米安保』論を説くのは,認識不足のそしりを逃れえない。
補注)ちょうど,昨日〔2016年8月20日(土)〕の午後 9:00~午後 9:50 (50分) に,NHK総合テレビが「報道特番」の『「沖縄 空白の1年~ “基地の島” はこうして生まれた~」』を放送していた。こういう番組であった。
NHK特番沖縄2016年8月20日午後9時画像
なぜ沖縄に基地が集中しているのか。それはどう始まったのか。NHKは,戦後の混乱のため資料が乏しく,「空白の1年」とも呼ばれる1945年から1946年の映像や未公開資料を入手。
そこからは,アメリカが日本への返還や住民による自治を模索したにもかかわらず,世界情勢の変化によって,沖縄が基地化されていく過程が浮かび上がってきた。本土が復興に向かう一方で,重い負担を背負うことになった沖縄の戦後をみつめる。
註記)http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2016-08-20&ch=21&eid=34944&f=46
敗戦後に沖縄県が追いこまれたこの方向性にダメ押しのための力添えをしたのが,アメリカへ発信・伝達された昭和天皇の「沖縄メッセージ」(1947年9月20日)のであった。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
天皇メッセージ1947年9月20日画像資料
註記)天皇メッセージ1947年9月20日画像資料,http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/images/Empero%27s%20Message.jpg
沖縄県公文書館によるこの資料の公開は,つぎのような解説を付している。
☆「米国国立公文書館から収集した “天皇メッセージ” を
公開しました。(平成20年3月25日)」☆
同文書は,1947年9月,米国による沖縄の軍事占領に関して,宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】
天皇メッセージの内容は,おおむね,以下の通りです。
(1) 米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2) 上記 (1) の占領は,日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3) 上記 (1) の手続は,米国と日本の二国間条約によるべき。
メモによると,天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し,共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同もえられるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると,象徴天皇制のもとでの昭和天皇と政治のかかわりを示す文書として注目を集めました。
天皇メッセージをめぐっては,日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や,長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり,その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。
--いまの沖縄〔県〕の現況:あの壊滅的な「沖縄戦後における71年と2ヶ月」は,「日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論」を全面的に支持するほかないのであって,「長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論」のほうは,付け足しの感を否めない。
沖縄県は敗戦した日本帝国の捨て駒・踏み台にされていた。それも,日本という国家全体の〈利益〉(交換条件?)ためというよりは,ともかく,当時において天皇裕仁が当面していた自身・家族の立場・状況のためにこそ,ぜひとも必要だった「政治局面において精神的に安定した日常的条件」をえるための,すなわち,アメリカ軍の日本に対する「具体的な軍事支援」体制を,より確実に提供してもらうための取引材料にされていた。
21世紀のいまにおいて,日本全国(もちろん沖縄県も入れて)に配置・布陣されている米軍基地を思いだしてみればいいのである。たとえば,アメリカ海軍の原子力空母の “母港” が横須賀には提供されている。このような米軍との関係を維持しているのは,日本以外にはない。つぎの画像資料をみたい。(画面 クリックで 拡大・可)
横須賀原子力空母母港関連画像
横須賀空母母港画像2
出所)http://cvn.jpn.org/ 画像中の日付はみな,2016年のものである。『原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会』から。
④ 森田 実が提供する2つの話題:その2「在日外国人政治献金問題」
1) 在日外国人献金問題
森田は,民主党国会議員の前原誠司に起きた「在日外国人政治献金問題」について,「前原氏の外国人からの政治献金疑惑が,国会論戦の中心になった」のではなく,この問題が「なんら解決していないのに前原フィーバーを煽っていた」以前に,「マスコミは臭い物に蓋をするつも〔り〕だったのか ! ? 」と追及していた(169頁)。
前原画像
この「在日外国人政治献金問題」は,ウィキペディア「前原誠司」では「在日韓国人献金問題・引責辞任」として〈編集〉されている。2011年3月4日に突如,話題にされていたのが,この事件であった。前原が誠司献金を受けとった在日韓国人女性は,前原の子どものころからのつき合いがあったという。
出所)画像は,http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-3716.html
「政治資金規正法」は,外国人から政治活動に関する寄付を受けてはならないとされ,故意にこの規定に反して寄付を受けた人には,罰則の定めがある。この刑罰に処せられたばあいは,公民権停止の対象になる。前原のばあい,その全体像を把握してから判断したほうがよいとされ,その場ではただちに結論は出されなかった。
2011年3月6日夜,外務省で記者会見した前原は,外相を辞任する意向を明らかにしたが,議員辞職については言及しなかった。また,問題となった人物が前述のように「旧知の在日外国人(韓国人)であった事実」は認めたものの,「献金をいただいているという認識はなかった」と,献金受領の故意を否定した。後任が決定するまでの外相臨時代理は,枝野幸男が務め,3月9日に外務副大臣だった松本剛明が昇格となった。
同日の記者会見で前原が公表したのは,在日韓国人の女性から受けとった献金の額は毎年5万円ずつ,5年間で計25万円である。年に5万円以下の献金は,収支報告書に寄付者の氏名などを明示しなくても良いとされている。3月8日,前原に対する政治資金規正法容疑としての告発状が,京都地検に提出された。12月21日,京都地検は,不起訴処分(嫌疑なし)とする。
2) そのほか在日外国人献金問題
ウィキペディアの当該記事は「上記以外の外国人献金問題」として,以下も記述している。
--2011年8月27日,2005年から2010年までの6年間を前原の事務所が調査した結果,新たに在日外国人3人と,在日外国人が代表取締役を務める法人からの献金,計34万円分の外国人献金が発覚した。8月27日の発表前にこの献金は返金されている。2011年9月1日,8月27日の発表分とは別に,在日韓国人が株の大半を所有する企業から1996年から2003年までの間,計約100万円の献金を受けていることが発覚した。なおこの献金問題は時効の3年を過ぎていた。
さて,政治家の汚職だとか個人献金の問題では,もっと巨額・多額の政治献金問題・事件が頻発してきた。こちらのほうはそっちのけで,前原のような事例が,あたかも大問題であるかのように事件として報道されている。本ブログは,原発問題をよくとりあげてきているが,政党に対して東電関係者が個人献金にならないように巧みに数十万円・数百万円単位の政治献金を,それも会社幹部連中が何名・何十名も揃えて旧与党政権党に都合している。
前原の政治献金問題は「特別永住権という摩訶不思議な在留資格」を保有している「在日2世・3世」からの献金に関するものであって,政治資金規制法が法人企業については,排除できるわけもない外国法人(日本国籍の会社法人であっても外国〔人〕資本の比率が大きい企業経営も多数存在する)との関連を合わせて観察してみるに,雑魚を捕えるのには熱心でも大魚ははじめから問題外である。
☆ 前原外相に献金した女性
「選挙権もなく政治資金も出せないとは」☆
前原誠司外相に献金して問題となった在日同胞のチャン・オクプンさんは,「外国人も公務員になる時代なのに外国人が献金してはいけないとは夢にも思わなかった」として,自身の献金で前原外相が辞任することになったことを悔やんだ。
慶尚北道醴泉出身で韓国籍を維持しているチャンさんは,前原外相が12歳のときに父親と死別し,15歳のときにチャンさん夫婦が経営する飲食店の近所に引っ越してきてから親しくなったという。チャンさんは韓国と日本のメディアとのインタビューを通じ,「前原外相は私の2男と同い年で,店に立ち寄ったときには私を “お母さん” と呼んだ」と話した。
その後,前原氏が政治家になるとすぐに小さな気持だが支援したいと考えていた。「5年前に前原氏の広報物のなかに寄付金を送る口座用紙が入っており,通名で送金した」と話した。また,「このお金は正直なところ政治資金とは思わなかった。家族ぐるみで親密に過ごしながら韓国人か日本人かを問うことなく慶弔時 ごとに助け合う仲だ」と強調した。さらに,「外国人の寄付だと不法資金だというが,いつまでこのように在日韓国人が差別を受けなければならないか」と反問 した。
チャンさんは京都市山科区で焼き肉店を38年前から経営している。「これまで飲食店をしながら日本人と同じように税金を払っているが,選挙権もなく政治資 金も出せないとは。こういう差別はなくならなければならない」と強調した。前原外相が辞任した3月6日にはチャンさんの店に日本の右翼勢力とみられる人たちから脅迫電話がときどきかかってきたという。7日の店は連絡が途絶えた状態だった。
註記)http://japanese.joins.com/article/013/138013.html,『中央日報』日本語版 2011年03月08日09時59分 配信。
今回のような在日外国人献金問題の問題は,特別永住権をもって日本に暮らしている旧植民地出身者およびその子孫の問題であるからには,ごくふつうの外国〔国籍〕人という概念で〈規制する〉ことじたい,根本より疑念がもたれて当然である。日本〔国籍〕人でなければ,ほかはすべて非日本〔国籍〕人=外国人,という単純な腑分け=歴史的にも論理的にも不当である排外的な判断が,結局のところ問題として浮上してくる。
在日韓国人来歴解説画像
出所)https://ja.wikipedia.org/wiki/在日韓国・朝鮮人
(画面 クリックで 拡大・可)
在日外国人に地方参政権を与えるかどうかという政治外交問題も長らく議論されるばかりで,いまだに解決していない(自民党政権に戻ってからはまったく進展なし)。「旧植民地出身者およびその子孫である在日外国人」に対して,日本国籍人でないから,政治資金規制法でとりしまる対象になるという単純思考が,まずもって再考されねばならない。
さて森田は,以上のように指摘した問題点についていえば,論外に残されたかのような「在日外国人献金問題」に対する議論しかできていない。この種の問題が発生する「日本社会の実態」は,ほとんど感知しえていないがゆえに,まともに把握できてもいない。
⑤ 敗戦後の日本に残された呪縛4項目
1)「皇 室」 昭和天皇の権威を利用してGHQは,日本の占領政策を進めることができた。
2)「大蔵省(現財務省)」 戦前からつづく省庁では,GHQによる改変を逃れたのは大蔵だけである。大蔵官僚のDNAは従米主義で,いまはアメリカ国債を買い支えるためにには「増税もやむなし」という思考になってしまっている(この段落の話は2010年当時のことである)。
3)「法務省・検察庁」 アメリカの意のままにならない人間を強制的に排除する「暴力装置」として機能している。
4)「マスコミ」 マスコミは政治家なり官僚なりの疑惑を煽り,それをもとに賢察が乗りだすというのが排除の王道パターンである。
--戦後も66〔→ 67(⇒ 71)〕年も経過すると,こうした日本への呪縛はだいぶ解けてきた。皇室はとくに,昭和から平成へと代替わりして,アメリカとの関係も希薄になった。大蔵省は借金を作りすぎて,かといって増税もできず,力を失っている(その間に消費税は5%から8%に上げられたが)。検察は元気がよかったのだが,調書捏造事件など暴走し過ぎたために民意からみはなされた。戦後アメリカ占領軍が使った日本支配のための主要な道具が変質し,もろくなってしまっている(183頁)。
もっとも,以上に森田が認識してきたように,はたして日本国が有意・顕著に変質してきたのか,本ブログの筆者は懐疑的である。アメリカはオバマ大統領が今年に予定されている大統領選の再選をめざして,TPP(環太平洋戦略的経済連携協定:Trans-Pacific Partnership)の拡大・浸透に懸命である(いま:2016年夏の段階ではその先行き不透明)。
いまや,情報・金融強盗資本主義体制の経済態勢しか採れなくなったアメリカ経済社会は,それでも老体国化しつつあるアメリカ中心の略奪経済構造の向けて,世界各国を変改・整列させようと企んでいる。
--本日も,新年の〔ここでは2012年における〕あいさつを国民に向けておこなった「天皇のことば」を紹介しておく。
☆ 天皇陛下「少しでも良い年に」
皇居で新年の一般参賀 ☆
新年恒例の一般参賀が1月2日,皇居・宮殿の東庭でおこなわれ,7万770人が訪れた。天皇陛下は皇后さまや皇太子ご夫妻,秋篠宮ご夫妻ら皇族方とともに,長和殿のベランダに立たれた。
あいさつで陛下は,東日本大震災や豪雨災害に見舞われた昨年を「心の痛む年でした」とし,被災者を案じた上で,「被災地の復興が進み,この年が国民1人ひとりにとり少しでも良い年となるよう願っています」と述べ,参賀者に笑顔で手を振って応えた。
註記)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120102-00000005-jij-soci,『時事通信』2012年1月2日 (月) 5時23分配信,最終更新:1月2日 (月) 15時17分。
2016年1月2日皇族参賀画像
出所)写真は2016年1月2日の「一般参賀」画像,http://blog.goo.ne.jp/adragonisflying12345/e/599ab2861c180a2927235f744411e493
かつての帝国臣民は,この「天皇陛下」の「父:大元帥の命令」によって,大東亜戦争では日本国民だけでも310万名もの『尊い命』を,生き神さまとされたこの裕仁のためにこそ,捧げていたの木村三浩表紙である。その時の敵国の人びとは《鬼畜米英》と蔑称されていた。
註記)これは,木村三浩『鬼畜米英―がんばれサダム・フセインふざけんなアメリカ!! (増補版)』鹿砦社,2003年4月の表紙カバー。
ところがである,戦争に敗けてしまった日本帝国の大元帥「閣下」が,占領軍の総大将様であったとはいえ「アメリカ側の格下の元帥」マッカーサーに命乞いをし,媚びを売った結果,なんとか戦後においても自分の天皇位を護ることに成功した。
おまけにその直後に彼はさらに,そのアメリカさんに対して「沖縄県」を〈ほとんどただ同然で引き渡す〉というごとき,これはどうみても本当に『売国奴』とみなすほかない,沖縄県人からみればそうとしか表現できない役目をはたしていた。より正確にいうと,自分の「天皇の地位」の安定化との「交換条件」であったかのような “お返し” として,みずから「その提案」をおこなっていた。
1872年から1879年の「琉球処分」という歴史以来,「沖縄県人」は天皇の赤子でも,むろん股肱でもなかった。靖国神社に安らかに祀られているという〈英霊〉のなかには,沖縄県人も大勢いるはずである。彼らも含めた250万柱近くにもなんなんとする〈英霊〉たちは,日本帝国大元帥であったこの裕仁氏の,以上のような「不実の精神」というよりは「全面的な裏切りの行為」を,草葉の陰からどのようににらみ返しているか?
昭和天皇死去マンガハンギョレ紙
というよりは,昭和天皇はしょせん,沖縄県を「日本固有の領土」とは思っていなかったのかもしれない。ここまで想像もしたうえで,過去の歴史に深く関与した彼の「山よりも高く,海よりも深い,とてつもなく重大な政治責任」を凝視する必要がある。
<転載終了>
5命乞いは朝鮮人の得意技だが、朝鮮人裕仁は命乞いなどしていない、する必要も無かった。開戦から原爆投下まで全てできレース。東京大空襲で皇居だけ免れたのは何故?真っ先に爆撃するのが普通でしょう。売日本した天皇が売沖縄をするのは屁でもない。日本人など何百万人死んでも関係ねえ。因みに吉田茂も朝鮮部落出身。同族だもん仲がいい。明仁が先祖は朝鮮人と言ったけど、それほど昔のことじゃない。 当然のように朝鮮族の嫁を迎え、息子の嫁も朝鮮由来。かくして日本人は朝鮮人天皇を拝みに新年皇居に行く。おめでたい国、日本。知ってて行くならかまわない。終戦直後に飛び出した、一億総懺悔。朝鮮電通 が創作した、世界で最も成功したブロパガンダ用語。最も懺悔すべき罪人裕仁が悲劇の主人公になって、悲劇の国民が罪人にさせられてしまった。今は毎年明仁が裕仁に代わって謝ってはいるが、言葉だけ。 朝鮮人どもの臭い芝居はたくさんだ。 アメリカの属国じゃ足りず朝鮮の属国にもなろうとしてる。因みにNHKはじめマスコミは朝鮮人の天下。報道は全て朝鮮寄り。次期天皇レースも。森田実、突っ込みが甘い。 残念!諦めるなネタは無尽蔵。取り敢えず電通に仕返しすべし。