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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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失われた30年から亡国になるまで

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太平洋戦争は某財閥とその手先である政治家が結託して引き起こしたものであったことがお分かりになったと思う。そしてその財閥や政治家に海外から指令を下していたのが、英米ユダヤ金融財閥であった。彼らは日本の外債を引き受け、日本に金解禁を強要し、大恐慌を引き起こして日本を未曾有の不景気の中に投げ込んだ。そして愚かな軍人を煽って、日本を地獄の戦争へと駆り立てていったのだ。

物価が高くなればなるほど、労働者の資産価値は下落し、彼らに資金の不当な流出を課す。一方、地価と工業製品の価値の上昇のため、資本家はインフレによって裕福となる。労働者は相対的に貧しくなる。これが資本家がインフレを引き起こす理由である。労働者や農民などの消費者から資産を収奪するためである。

 第一次世界大戦後、アメリカは122億ドルに及ぶ対ヨ-ロッパ債権を獲得し、全世界の貨幣用の金の半ば以上を集中した。イギリスにかわって世界経済の主導権を握ったアメリカは、大戦で疲弊したヨ-ロッパ諸国の財政を整理し、通貨を安定させて、ヨ-ロッパ経済の復興をはかることを先決と考えた。

1925年イギリスが戦前の平価で金本位制に復帰(旧平価解禁) したのは、戦後の疲弊と貿易収支の赤字が続く中で自国通貨を切り上げるという、無謀な決断だった。資金はイギリスからアメリカへ逃避先を求めて動いた。しかし、イギリス、フランス、ドイツの中央銀行は、この金の移動をアメリカの高金利のなせる技と解釈し、揃ってワシントンを訪れ、アメリカの金利引下げを要請した。ニューヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン・ストロングは、公定歩合の引き下げに踏み切った。
 イギリスが金本位制に復帰した時、アメリカはイギリス経済を救おうとして低金利と金融緩和の政策を取り続けた。この政策は、一面で景気を刺激する効果を持ったが、反面で株価の上昇を招き、異常な株式投機熱を煽る結果を招いた。

1928年末から29年秋にかけて、アメリカ政府は、金利を引き上げる措置を講じた。その結果、こんどは外国資金が証券投資と高い利子率を目的に流入しはじめ、株式ブ-ムに拍車をかけることになった。
 1922年から1929年までの間に、連邦準備は通貨の供給を62%膨張させた(インフレ政策)。新しい通貨はすべて、証券取引相場を法外につり上げるために使われた。マスメディアは証券取引で急速に財を成したというセンセ-ショナルな話を一般に広めはじめた。誘惑的な新聞報道によって、一般人が投機へそそのかされた。1928年から29年秋にかけての株式ブ-ムは、実際の経済活動を反映しない極めて不健全な基礎の上に、狂乱の花を咲かせ。ホテルのボ-イやレストランのウェイトレスまでが株に手を出す始末であった。そして、バブルが弾けた。
 「すべてが済んだ時、ニューヨークの金融業者たちは相場師にコ-ル=ロ-ン(短期貸出金)の弁済を要求しはじめた。これは、相場師とその顧客が自分らの借金を解消できるようにするためには、今や株を取引所に投げ込まなければならなくなったことを意味している。これはもちろん、取引所の崩壊をもたらし、全国の銀行を片っ端から倒産させることとなった。上部の寡頭制には属していなかった銀行には、このとき相場師の弁済要求が特に強く突きつけられた。これによってこれらの銀行の弁済手段は急速につき果て、その結果、閉鎖されなければならなくなったのである。連邦準備は、弾力性のある通貨を堅持するよう法律によって義務づけられているにもかかわらず、これらの銀行には助け船を意識的に出さなかった」

1930年から、大都会の路上に靴磨きや、りんご売りの姿が目立つようになった。自動車工業都市デトロイトでは、職を失った労働者がプラカ-ドを立てて職探しにやっきになっていた。レストランの前には、残飯を求めて長蛇の列が出来た。ごみ箱をつつく姿も珍しくなかった。メロンの皮、魚の頭、腐敗した肉ですら、探索の対象となった。
 さらに大恐慌は、新しい種類の放浪者を大量に生み出した。少なくとも2万5000の家族と20万人以上の青少年が放浪の旅を続けていた。実際には、100万人を越える放浪者がいたと推定されている。おんぼろ自動車を持つことも出来ない極貧の家族の中には、綿花農場での職を求めて、ア-カンソ-からテキサスを経てリオ=グランデにいたる900マイルの道程を歩いて行く者もあった。

それにしてもこの大恐慌は正に狂気の沙汰としか言いようがなかった。
 「飢餓と余剰の並存という信じられない光景がそこかしこに展開した。失業者たちはすりきれた洋服しか着ていないというのに、農民は1932年に1300万梱の綿の売れ残りを抱えていた。子供たちは段ボ-ル底の靴をひきずって学校へ行っているというのに、マサチュ-セッツ州の靴工場は年の内六ヵ月は閉鎖しなければならなかった。食事に事欠く人間が大勢いるというのに作物は畑で腐っていた。
 カリフォルニアでは売れ残りのオレンジに石油をかけて燃やしているというのに、アパラッチ山脈のある地方では村民のすべてがタンポポその他の雑草で飢えをしのいでいた。
アイオワではとうもろこしが余りにも値が安いため、郡部の裁判所では暖炉の薪がわりに燃やされたが、干ばつに見舞われた北西部では多数の牛や羊や馬が餓死していた。酪農家が売れない牛乳を排水溝に流しているというのに、失業中の親は育ち盛りの子供に何とか一パイントの牛乳でも飲ませてやりたいと必死だった」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』
岩波新書)
 不況が長引き、有り余る豊富の中にこれほど多数の人が欠乏を感じているのは、社会経済システムが狂っているからに他ならなかった。

それでは、この大不況からの脱出はどのようにして可能になったのであろうか。戦争である。アメリカが大不況から抜け出して1929年までの長期的成長軌道上に復帰したのは、日本軍の真珠湾への奇襲が起こった1941年になってからであった。
 1939年9月1日、ヒトラ-はポ-ランド進撃を開始し、第二次世界大戦が始まった。1941年3月、三期目を始めたばかりのル-ズヴェルトに、議会は連合国に軍事物資を供給するための武器貸与法を許した。必要な資金は国債の発行によって賄われる。巨大なスケ-ルで軍事生産が開始された。その年の1月には3.3億ドルに拡大していたアメリカの輸出は、さらに4.6億ドルに増加した。12月7日(日本時間12月8日)には、日本軍の真珠湾攻撃が起こった。この卑劣な奇襲によって、アメリカ国内の参戦反対派の声は沈黙させられた。
 1942年の連邦軍事支出はGNPの14.4%に急上昇し、連邦財政赤字はGNPの13.5%となった。43年には連邦財政赤字はGNPの30%に達した。44年には連邦・地方政府を合わせた全ての政府財政支出の合計は、アメリカ経済全体の58.2%を占めるに至った。総生産は40年から45年までに59%拡大した。アメリカは、テクノロジ-と資源の許す限りの潜在的生産力を、戦争動員のためにフル稼働させた。武器貸与プログラムによって、40年から45年までの間に総額500億ドルにのぼるアメリカの軍事物資がイギリスをはじめとする連合国に供与された。これは1933年から39年までのニュ-ディ-ルの財政支出総額よりも大きかった。
 結局のところ、ル-ズヴェルトがデフレ政策を転換し、大量国 債発行によるインフレ財政を実行したのは、第二次世界大戦によってだったのである。ル-ズヴェルトは戦争が開始されるまで、たらたらと不況を長引かせたのである。アメリカの失業率は1941年の9.9%から1944年には1.2%へと下がっていった。大量失業経済は一転して労働力不足経済へと姿を変えたのである。

亡国日本の悲しみ
 1945年8月6日、西太平洋テニアン島の基地を発して広島上空に到達したB29「
エノラ・ゲイ」が原爆「リトルボ-イ」を投下、一瞬の内に、広島全市の6割が破壊しつくされ、爆心地から半径500・以内の人々はほとんどが即死した。
 1950年の広島市役所発表によると、死者は推定で24万7000人。残された原爆症患者をはじめ被害者の数はこれを大きく上回る。
 8月9日、広島に続いて、長崎にも原爆「ファットマン」が投下された。長崎では、7万3884人が死亡し、7万4909人が重軽傷を負った。
 8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日正午からのラジオ放送で、天皇自らが録音した終戦詔書の「玉音放送」が流れ、国民は戦争が終わったことを知る。
 太平洋戦争によって日本は旧植民地、属領等の領土45%を喪失し、残された国富も空襲等による直接・間接の損害を受けた。敗戦時における日本経済の被害額=損失額を経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」によって概観すると、戦死、戦病死者は陸軍114万人。海軍41万人、空襲等による死者30万人、負傷行方不明者を加えると合計253万人。在外邦人等を加えて300万人近いと推測されている。
 物的被害のうち領土は旧植民地、属領等を49%喪失し、一般物的資産は空襲による建物、生産設備、公共施設、船舶等の破壊焼失による直接被害=損失は487億円(終戦当時価格)、間接的被害=損失が156億円で、直接間接の戦争被害=損失は643億円になる。純軍事的資産の損失は艦艇、航空機等404億円。一般兵器296億円、合計700億円を喪失しているので、これを加えると物的資産の損失額は1340億円となる。
 海外引揚者と復員によって敗戦後2年間に600万人をこえる人口増、その上に軍需会社からの大量解雇が加わって、潜在失業を含めて1300万人をこえる失業者などの諸条件が重なりあい、ほとんどすべての人は竹の子生活を余儀なくされていた。

占領行政下の日本経済は二つに区分して考えることができる。一つは「傾斜生産方式とドッジ・ライン」の時期であり、もう一つは「朝鮮戦争特需と独禁政策緩和」の時期である。

 昭和20(1945)年8月の敗戦から25年はじめのドッジ・ライン実施までの時期は、戦後の混乱によるインフレ-ションと傾斜生産方式による経済運営が行われた。傾斜生産方式とは、アメリカの援助によって重油を輸入し、まず鉄鋼を増産し、炭鉱へ鋼材を重点的に配給し、それによって石炭の増産をはかり、さらに鉄鋼の生産にその石炭を特別に増配するという経路を通して、石炭と鉄鋼の生産を相互循環的に増大させ、それを起動力にしてインフレによる日本経済の縮小再生産をくいとめ、逆に拡大への道を一歩踏み出そうと意図したものであった。資金面でも、鉄鋼・石炭を中心とする基礎産業の設備復旧と補修のために、これら基礎産業へ優先的に、復興金融公庫を通じて傾斜融資された。
 このころ占領軍の対日政策の転換があり、日本を東洋の工場にし、経済面で反共の防壁にするため、日本を資本主義的に復興させるという政策が進められた。アメリカのデトロイト銀行総裁ドッジは、昭和24(1949)年2月、ロイヤル陸軍長官とともに来日した。ドッジは戦後の日本経済に徹底的な外科手術を施し、国内市場を縮小させて企業の自主的な合理化を促進し、輸出の拡大をはかろうとした。このドッジの勧告はドッジ・ラインと呼ばれている。具体的には、1949年度について超均衡予算を編成し、単一為替レ-ト制度を制定することの二つを内容としていた。このドッジ・ラインによって、昭和22年当時、1ドル当たり180円のものから600円にいたるまで、極めて広範囲に分散していた個々の輸出入品の円・ドル比率は、24年4月25日から1ドル=360円という単一為替レ-ト制度に切り換えられ、以後輸出入価格は、国際価格と正常な連携を保つこととなった。
 これは、円の国際価値を安定し、アメリカの資本導入と技術導入のための徹底的な地ならしをはかることになった。その結果、インフレ-ションは収束したが、猛烈なデフレ-ションで滞貨は増え、購買力は不足し、そのうえ戦後第一回目の世界的な景気後退期と重なりあったために、不況は深刻を極めた。24年2月から25年3月までの14ヵ月間に企業整理件数1万1000件、解雇者は51万人をこえた。そこへ25年6月、朝鮮戦争が勃発するのである。

昭和26年7月にはついに政府は『財閥解体完了』声明を出し、持株会社整理委員会の解散を命ずるにいたる。もはや独占力の強化は悪ではなくなり、日本経済は晴れてビッグ・ビジネス時代を迎える」(宮崎義一著『日本経済の構造と行動』筑摩書房)
 ここで、政府が「財閥解体完了」声明を出し、持株会社整理委員会の解散を命じた昭和26年という年に注目して欲しい。再び表 をご覧頂きたい。政府債務総額は昭和20年度末から26年度末の間に3.24倍に増加しているが、この間に進行したインフレ-ションの結果、累積債務は目減りしたから、26年度末残高の実質値は、20年度残高の11%の大きさに減少している。内国債だけについてみると6.3%に過ぎない。また、国民経済にとっての国債の実質 的な大きさを示すものとして、国債残高(内国債と外国債)を国民所得と比較してみると、昭和19年度の189%から、21年度に48%となり、以後、この期間に漸減して、26年度末には8.2%となっている。すなわち、政府は戦後インフレ-ションによって、国民から資産を収奪し、終戦直後に債務処理問題として懸念された国債の負担問題は、少なくとも国庫の観点からみるかぎり、雲散霧消したのである。
 この戦後インフレ-ションは零細な個人保有層に大きな打撃を与えた。また、国債の大量保有がインフレ下の金融機関の浮沈の一因をなしたのである。こうして政府債務が国民の犠牲のもとで無事に処理された後、いよいよ我が財閥が復活したのだ。
 ビッグ・ビジネスは、昭和28-29年の不況を契機にどっと現れる。独占禁止法の改訂および運用上の緩和によって、不況カルテル、輸出カルテルなどの結成もあり、昭和27年には、旧財閥名称が再び使用できるようになった。昭和27年12月、大阪銀行が住友銀行に改称したのを皮切りに、28年7月、千代田銀行が三菱銀行に改称、29年1月、帝国銀行が三井銀行に改称した。また、29年5月には旧三菱商事系四社の合併が認められ、30年8月には旧三井物産三社が合同に踏み切り、さらに同年9月、丸紅と高島屋飯田の合併が続く。

池田勇人は近藤家を通じて甘露寺家と姻戚関係にある。岩崎久弥の二女澄子は甘露寺家に嫁いでいる。池田勇人はまた、ブリジストンの石橋家を通じて藤山愛一郎と親族である。問題の一萬田尚登であるが、昭和29年12月第一次鳩山内閣の大蔵大臣に就任し第二次第三次鳩山内閣に留任、昭和32年7月岸内閣の大蔵大臣に認証されている。ちなみに元首相、鳩山一郎はフリーメーソンである。鳩山一郎のスポンサ-が石橋一族の石橋正二郎であった。正二郎の長女安子が、鳩山一郎の長男威一郎に嫁いでいる。

ビッグ・ビジネス時代が開幕した昭和30(1955)年という年は、戦後激動期の体制が再編成された年であった。第二次鳩山内閣が成立し、保守合同が行われて、自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結成された。これは政界と財界をつなぐ資金ル-トを、一本の太いパイプに強化して、政界への影響力を不動のものにしておきたかったビッグ・ビジネスの年来の主張であった。
 また、単独講和か全面講和かで左右に分裂していた社会党が4年ぶりに統一され、いわゆる「55年体制」が作り上げられた。労働戦線でも、民間6単産が賃上げ中心の春闘方式を始めている。この年には、国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が貨物船と衝突して沈没、修学旅行の小中学生ら168人が死亡するという悲劇が起こっている。森永砒素ミルク中毒事件が発生し、砂川闘争では労組・学生と警官隊が衝突した。街頭テレビに人が群がり、天才画家山下清は諸国を放浪していた。そんな時代だった。
 翌31年には、経済企画庁が経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表、「もはや戦後ではない」が流行語になった。昭和31(1956)年の神武景気から、「高度成長期」が幕を開く。高度成長を主導したものは、重化学工業を中心とする民間設備投資であった。日本経済は昭和31年以降、年率平均10%程度の成長を遂げ、昭和37年には、実質国民総生産は約倍増、製造工業生産に至っては三倍弱となった。この間の欧米先進国の実質国民総生産の増加は、アメリカ14.9%、イギリス15.7%、フランス25.2%に過ぎず、戦後日本と並んで世界経済の三大奇跡とまでいわれた西ドイツ、イタリアでさえ、仲良く41.6%ずつだった。日本の経済成長がいかに凄まじかった か分かるだろう。

 この高度経済成長も、昭和40(1965)年頃から翳りが見え始める。この年の不況は深刻で、山一証券など証券会社に対する不安が高まり、債権の運用預かりなどに対して大量の解約が殺到した。このため山一証券の資金繰りは極度に悪化し、倒産の危機に見舞われそうになった。日本銀行は同年5月、山一証券に対して特別融資を適用することを決定した。特別融資というのは、日銀が信用恐慌を防ぐため、日本銀行法第25条により、無担保・無制限の資金を貸し出すことで、この適用は昭和6(1931)年の金融恐慌以来のことであった。
 かくして昭和40年の不況は、ドッジ・ライン以来の均衡財政主義を崩壊させ、戦後初の赤字国債(二千億円)が発行されたのである。そしてドッジ・ラインのもう一つの柱である単一為替レ-ト制度(1ドル=360円)も、昭和46(1971)年のスミソニアン合意で崩れさった。為替レ-トが16.88%引き上げられて、1ドル=308円になったのだ。

1971年8月15日、アメリカ大統領ニクソンが、テレビを通じて全米に、ドル防衛策の一環として金・ドル交換の一時停止をはじめとする新経済政策を発表し、世界に大きなショックを与えた。

先に、ニクソン・ショック後の日本の外為市場は、ヨ-ロッパ各国の外為市場がすべて閉鎖されている中で、一人6日から27日まで、引き続き開かれ、しかも1ドル=360円レ-トでドルを買い支えたことを述べた。
 「これは明らかに日本政府の大きな政策ミスであり、なぜこのような愚行がまかりとおったかは、戦後日本経済史最大の“謎”である」(『日本経済の構造と行動』)
 このため、わずか10日間ほどの間に約46億ドルもの外貨が一挙に日本に流入し、円との交換を要求したのである。何故か。円レ-トが切り上がれば、ドル貨を一度円貨にかえて、再びドル貨に転換するだけで、ドル勘定において多額の差益を生むからである。

この時の日銀総裁だったのが、第22代日銀総裁(昭和44年12月17日から昭和49年12月16日)佐々木直である。系図13を見て欲しい。佐々木直の長男は氏家家から嫁を貰っているが、氏家家は石川家と姻戚関係にあり、石川家は鹿島建設の鹿島家と、鹿島家はベンツの梁瀬家と姻戚関係にある。ヤナセ自動車の元社長、梁瀬長太郎はフリーメーソンである。この系図にはまた、フリーメーソンの下条康麿の名も見える。するとこの日本への外資の大量流入は、やはりフリーメーソンの陰謀だったことになりはしないだろうか。

 この外資の大量流入が、土地と株式のバブルを生んだのである。昭和46(1971)年になって、日銀海外資産が3.68兆円も急増した。これは、ほぼ100億ドル以上の外貨の急増に見合うものだ。ニクソン・ショック後の日本経済は、そのマネ-・サプライを外貨増大分だけ一挙に膨張させて、国内の資金をダブつかせた。しかもこの過剰な資金は大部分日銀から直接企業の手に入ったものだ。何故なら、外貨を入手し、それを円レ-トの切上げがある前に円貨と交換すべく迫ったのが商社およびメ-カ-であり、また、商社および輸出メ-カ-は、円レ-トの引き上げを見込んで、積極的に輸出代金の先取り(リ-ズ)の形式で、大量のドルを国内に持ち込んだからである。
 昭和46年度の日本経済は不況であった。実質成長率は5.8%で、昭和40(1965)年以来の低さであった。過剰な手許現金を入手した企業と商社は、この不況下で設備投資意欲はわかない。そこで、次に銀行からの借入金の返済を考えたが、取引銀行の圧力がくて、その抵抗を押してまで返済することは出来ず、取り合えず銀行預金にした。借金の返済に向けられなかった企業や商社の預金の増加分は、ほとんど法人による土地買いおよび株式買いの資金に向けられた。
 当時、政府は不況対策のため、金利を引き下げ財政を拡大したが、企業の設備投資は増加せず、むしろ株価引き上げのきっかけを作ってしまった。

この時の日銀総裁だったのが、第22代日銀総裁(昭和44年12月17日から昭和49年12月16日)佐々木直である。系図13を見て欲しい。佐々木直の長男は氏家家から嫁を貰っているが、氏家家は石川家と姻戚関係にあり、石川家は鹿島建設の鹿島家と、鹿島家はベンツの梁瀬家と姻戚関係にある。ヤナセ自動車の元社長、梁瀬長太郎はフリーメーソンである。この系図にはまた、フリーメーソンの下条康麿の名も見える。するとこの日本への外資の大量流入は、やはりフリーメーソンの陰謀だったことになりはしないだ
ろうか。
 この外資の大量流入が、土地と株式のバブルを生んだのである。昭和46(1971)年になって、日銀海外資産が3.68兆円も急増した。これは、ほぼ100億ドル以上の外貨の急増に見合うものだ。ニクソン・ショック後の日本経済は、そのマネ-・サプライを外貨増大分だけ一挙に膨張させて、国内の資金をダブつかせた。しかもこの過剰な資金は大部分日銀から直接企業の手に入ったものだ。何故なら、外貨を入手し、それを円レ-トの切上げがある前に円貨と交換すべく迫ったのが商社およびメ-カ-であり、また、商社および輸出メ-カ-は、円レ-トの引き上げを見込んで、積極的に輸出代金の先取り(リ-ズ)の形式で、大量のドルを国内に持ち込んだからである。
 昭和46年度の日本経済は不況であった。実質成長率は5.8%で、昭和40(1965)年以来の低さであった。過剰な手許現金を入手した企業と商社は、この不況下で設備投資意欲はわかない。そこで、次に銀行からの借入金の返済を考えたが、取引銀行の圧力が強くて、その抵抗を押してまで返済することは出来ず、取り合えず銀行預金にした。借金の返済に向けられなかった企業や商社の預金の増加分は、ほとんど法人による土地買いおよび株式買いの資金に向けられた。 当時、政府は不況対策のため、金利を引き下げ財政を拡大したが、企業の設備投資は増加せず、むしろ株価引き上げのきっかけを作ってしまった。

この法人の株式買いは、不況下にもかかわらず、株式市場を活発化させた。昭和47年2月末に東証ダウ3000円突破、途中ポンド・ショックで暴落したが、8月には4000円台に上昇し、12月に5000円台の大台に乗せた。これは、ダウ式平均株価の高さそのものにおいて新記録であるばかりか、上昇幅、上昇率においても証券市場空前の画期的な大記録といわれている。
 土地も値上がりした。昭和47(1972)年6月11日、通産大臣の田中角栄が『日本列島改造論』を発表すると、この前後から地価が急騰しはじめた。昭和46年度の年間地価上昇率は12.8%であったが、47年4月から9月までの半年間だけで8.4%の上昇率を示した。同じ半年間の六大都市の地価上昇率も、10.3%を記録している。それは、46年10月から47年3月までの半年間が6%であったことから明らかなように、急騰は4月以降生じたものといえる。
 『日本列島改造論』に触発されて、土地買いに走ったのは、不動産業者、私鉄、建設会社をはじめ繊維、銀行、保険、非鉄金属などあらゆる業種の企業に及んだが、とりわけすさまじかったのは商社の土地買いであった。
 『日本列島改造論』は、昭和60(1985)年に日本のGNPの水準を304兆円(1ドル=308円レ-トで換算すると約1兆ドル)に高めることを目標として、基幹資源産業(コンビナ-ト)を北東地域(苫小牧東部、むつ小川原町、秋田湾など)と西南地域(周防灘、山口、福岡、大分、志布志湾など)に、造船重機械流通加工型コンビナートを臨海地域(橘湾、宿毛湾、金武湾など)に、そして内陸型工業を農村地帯に配置して、「過密・過疎の同時解消」を企図したものである。

その中に指定された地域の土地は、今買い占めても将来値上がりすること確実であるという安心感を企業に植え付けた。日本の会社は一丸となって、不動産業に手を着けた。田中角栄は財界の支持を受けて総理となり、『日本列島改造論』は、日本列島の土地の先物買いのバイブルとして、ベストセラ-になった。
 この土地、株式、商品等の投機利益が企業の利潤として蓄積されて、その後の日本企業の海外投資の源泉となったのである。大蔵省発表の海外直接投資許可実績は、昭和43年度が5.57億ドル、44年度が6.67億ドル、45年度が9.13億ドル、ニクソン・ショックの年の46年度には減少して8.58億ドル、47年度にいたって突然、23.38億ドルという高水準を示した。
 昭和47年に海外直接投資が急増するにいたったのは、円レ-トの大幅切上げによって日本企業の輸出価格競争力が急速に低下したことが決定的要因であった。
 「価格が安いうえに品質が良いという評判で世界市場で売りまくってきた日本の家庭電器メ-カ-も円レ-トの切上げを契機に本格的な海外直接投資に踏みきったようである。
たとえば東京芝浦電気は、従来、川崎・小向工場で生産していた白黒テレビを48年末までに打ち切り、韓国テレビ(出資比率、日本側80%、韓国側20%)に全面的に移す方針を決定した。これは、単に韓国の国内市場向けの小規模なものではなく、白黒テレビでは世界最大の能力を持ち、そこから日本を含む世界の市場へ向けて輸出する基地となるべき工場である。
 また、国際事業本部を本社機構に設置した日立製作所は、シンガポ-ルに家庭電器の大規模な輸出拠点となる『日立コンシュ-マ-・プロダクツ・シンガポ-ル』の設立を急ぎ、テレビ、ラジオ、テ-プレコ-ダ-、部品等の量産を開始する計画を進めていた。
 円切上げ後のこのあわただしい動きは、ひとり家庭電器メ-カ-にとどまらない。自動車メ-カ-も、繊維メ-カ-も、同じ情勢を反映して現地生産への動きが活発であった」
(『日本経済の構造と行動』)
 この日本企業の海外進出を側面支援したのが、公害事件であった。1960年代に始まる高度経済成長は、数多くの公害事件を引き起こした。公害は日本の法律が予定しなか った事態であり、被害者の救済、加害者の処罰、事件発生の抑止など、いずれをとっても十分な対応がなされなかった。そこで健康被害を受けた住民たちは、全国各地で続々と損害賠償請求訴訟に踏み切り、1967年6月新潟水俣病訴訟、同年9月四日市公害訴訟、1968年3月イタイイタイ病訴訟、1969年6月水俣病民事訴訟、といった大規模な民事裁判が提訴された。これらの訴訟は、四大公害裁判と呼ばれた。なお、裁判の結果は、いずれも原告勝訴に終わっている。
 日本企業は、世論の高まりを見せた公害防止の要求に応えてそのための研究開発投資を実行する途を閉ざして、そのつけを東南アジア諸国を始めとする第三世界に負わせたのである。この醜い企業エゴが東南アジアの反発を招かないわけはない。1974年1月7日、田中首相が東南アジア5ヵ国歴訪に出発したが、1月9日、田中はタイの首都バンコクで、「経済侵略反対」「タナカ、カエレ」と叫ぶ学生らの激しい反日デモに迎えられた。

 日本企業の海外進出は、日本側にとってもマイナス面が大きい。それは産業の空洞化を招くことになるからである。ところでこの日本企業のアジア侵略は、1974年から75年にかけて日本国内で奇怪なテロ事件を引き起こした。東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件である。昭和49(1974)年8月30日昼過ぎ、東京・丸の内ビル街の三菱重工本社で、予告電話の直後、強力な時限爆弾が玄関前で爆発、社員、通行人など8人が死亡、重軽傷者385人にのぼる大惨事になった。東アジア反日武装戦線はその後も次々に企業爆破を続けていく。彼らによって攻撃された企業名は以下の通りである。
 三菱重工、三井物産、帝人中央研究所、大成建設、鹿島建設、間組、間組大宮工場、韓国産業経済研究所、尼崎オリエンタルメタル、間組江戸川作業所、横河工事会社京成江戸川作業所である。これらの企業はアジア侵略に怒り狂う左翼集団の鉄槌を浴びたのだ、というのは月並みな解釈である。事実はそれとは正反対なのである。考えてみて欲しい。この一連の企業爆破によって、企業側は実質的には何の損失も被ってはいないのだ。このテロ行為によって、悪徳企業の営業活動が阻害されたわけではない。むしろ世間の同情を集め、企業批判を沈静化させる役割を果たしてしまったと考えられる。得をしたのは企業なのだ。犯罪学の法則として、当の犯罪から利益を得たものが犯人であるというものがある
。すなわちこれらの企業爆破は、攻撃された当の企業がかげで手を引いていたことになる。彼らが犯罪者を雇ったのだ。攻撃された企業の一つ、鹿島建設はフリーメーソン企業である。鹿島守之助(鹿島組会長)はフリーメーソンに十分な理解があり、『鹿島平和研究所』を創設、“パン・アジア”運動や世界連邦運動で有名である。 1971年のニクソン・ショックは、日本国内だけでなく世界的なインフレ-ションを招いた。ニクソン・ショックは単に金・ドル交換停止に止まるものではなく、その後大量のドルを散布することになったからである。先進六ヵ国政府保有の金・外貨準備高の動きを示すと、アメリカとイタリアを除く四ヵ国(西ドイツ、日本、フランス、イギリス)政府の金・外貨準備高が、ニクソン・ショック後急上昇している。これは大量のドル撒布が行われたことを意味する。
 先進工業六ヵ国の金・外貨準備高は、ニクソン・ショック後わずか2年間で391億ドルも急増し、その内約360億ドル程度が主としてドルの流出による国際流動性の激増だった。これは、マルク買い、円買い等の激しい通貨投機による部分が少なくなかった。投機筋はアメリカ系多国籍企業だった。アメリカ系多国籍企業の所有する短期資産額(1971年)は1896億ドルに及び、当時先進工業六ヵ国政府が所有していた金・外貨準備高(483.81億ドル)の3.9倍にも達していた。多国籍企業が自らの資産のごく一部を一国通貨から他国通貨に変えただけで通貨危機を引き起こした。
 このドルの大量撒布により、ロンドン金自由市場においては、金価格がニクソン・ショック以後急速に上昇した。1970年末、1オンス=37.375ドルであった金価格は、2年7ヵ月後の1973年7月現在で115.60ドルに急騰した。実に3倍強であった。
 金価格急騰の原因は、ドルの大量撒布がユ-ロ・ダラ-市場及びアジア・ダラ-市場に資金供給量の増大をもたらし、金利低下の圧力となったからである。このような状況のもとで、ドル建預金保有者の目が自由金市場へ向き、金投機を誘発したのである。
 10年以上の長期間にわたって低落ないし低迷を続けてきた国際原料品価格(第一次産品価格)も、ニクソン・ショック後急テンポに上昇を続けた。これは国際通貨の変動に伴う投機買い、ないしヘッジ買いの激化による。
 そして、ニクソン・ショックによる世界的インフレ-ションに追い打ちをかけたのが、オイル・ショックであった。1973年10月6日、スエズ・シリア両戦線で、エジプト軍とシリア軍がほぼ同時に、イスラエルに攻撃を開始、1967年6月の第三次中東戦争以来の大規模な戦闘が勃発した。
 この日は、ユダヤ教徒にとって最も重要なヨム・キプ-ル(浄めの儀式の日)にあたり、イスラエルは国をあげての休日だった。このため、イスラエル側は虚をつかれる形となった。しかし、翌7日、イスラエルは予備役を大量動員して巻き返しを図る。9日にはダマスカス、レバノンを爆撃、シリア戦線では制空権を握り、ゴラン高原の戦車戦でもシリア軍を圧倒して、攻勢に転じる。
 エジプト・シリアを支持して8ヵ国が参戦するが、アメリカの武器供与もあって戦局はイスラエル有利のまま進展。16日には、アラブ側が停戦を申し入れるが、イスラエルは拒否する。これに対し、アラブ側は17日西側諸国に対する石油戦略を発表、石油危機の引き金となった。
 10月17日、石油輸出国機構(OPEC)加盟のペルシア湾岸6ヵ国が、原油の公示価格を1バレ ル(約159リットル)あたり3ドル65セント(半月前までは3ドル1セント)に引き上げると発表した。また、同じくこの日クウェ-トで開かれたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)10ヵ国の閣僚会議では、10月の石油生産を5%削減すると発表した。
 これにともない、サウジアラビアの国営石油会社ペトロミンは、24日、日本に対して原油価格を70%引き上げると通告。同日、国際石油資本(メジャ-)のガルフ、フランス石油も、23日のエクソン、シェルに続いて積み出し価格の30%値上げを通告。25日にはメジャ-5社とペトロミン、ユニオンオイルなどが10%の供給削減を一斉に通知、第一次石油危機に突入する。
 石油ショックにより、1974年、75年と世界的に不況になった。インフレ-ションのさなかに不況が同時発生することを、「スタグフレ-ション」という。普通、インフレ-ションと不況とは、トレ-ド・オフの関係にあるといわれる。物価上昇率の高い年には経済の繁栄があり、失業率は低く、失業率の高い年には物価上昇率は低く、物価上昇率と失業率との間には互いに相反する方向への動き、すなわち「トレ-ド・オフ」の関係があることが明らかにされている。では、世界的規模において激しいインフレ-ションの中で不況が同時発生しているこの現実は、どのように説明されるのであろうか。
 それは、実質個人消費支出の急速な減退による。あまりにも激しい消費者物価の上昇によって、個人は強制的に消費削減を余儀なくされたのである。低所得者ほど生活必需品の大幅価格上昇の影響を強く受け、その購入のために貯蓄を引き出してもなお手一杯であった。かくて激しいインフレ-ションは、年金生活者、母子家庭、福祉施設、低賃金所得者等いわゆる「インフレ弱者」を容赦なく痛めつけ、無慈悲に彼らの実質消費を奪い取っていった。インフレによって収奪され、不況のため失業率は高くなり労働者の立場は弱くなる、社会的弱者にとっては正にダブル・パンチであった。
 第一次石油ショック直後(1973-74年)には、インフレ-ションと経常収支危機に対応して先進工業諸国はいずれも財政と金融を引き締めたが、75年頃から不況の深刻化に対応して金融を緩和し、公定歩合を引き下げ、西ドイツ、アメリカなどを中心に減税、公共投資計画等の財政刺激政策を採用し、そのために大幅な赤字財政をも辞さなかった。1975年以降、主要先進工業国の公定歩合がかなりの程度引き下げられ、財政赤字比率が急上昇した。
 しかし、これらの財政刺激政策は有効ではなかった。インフレを加速し、経常収支の赤字を拡大するばかりで、失業率の減少にはあまり効果を発揮しなかった。これらの財政刺激政策の帰結は、通貨危機の発生であった。赤字国債発行による財政政策は、輸入超過、国際収支の逆調を伴う。国内有効需要の増大が輸入を促進し、国内物価の上昇が輸出を抑制するからである。
 1976年6月、英ポンド救済のため日・米など9ヵ国がイングランド銀行に52億ドルを緊急融資することで合意した。1978年11月、ドル防衛の要請(1ドル=180円レ-トの堅持)。ドル防衛の要請に先立って当時のカ-タ-大統領は、78年10月24日付けでインフレ対策の強化と内需抑制策を発表している。
 この頃から次第に、トリレンマ(失業、経常収支赤字、インフレ-ションの同時発生という三重苦)のもとでは、国家による財政刺激政策は重い負担の割りには効果が薄いという認識が定着していく。やがて主要先進工業国の政権担当者自身の口から、国家財政の破綻が公言されるようになる。
 レ-ガンは、1981年大統領就任直後(2月5日午後9時)のテレビ放送の中で、「こんなことを私の口からいいたくないが、アメリカの経済状態は(1930年代の)大恐慌以来、最悪である。われわれはこの真実に直面し、事態を認めねばならない」と危機感を強調した。その上でレ-ガン大統領は、当時アメリカが直面していた経済的困難を4つ指摘した。
 ・インフレ-ション。アメリカの物価上昇率は、1960年代の初めまで1-1.5%程度であった。しかしこの2年間(79-80年)のそれは年平均13%に達している。

 ・失業。アメリカの失業者数は、1980年当時、780万人から800万人に及び、一列に並べると東海岸からカリフォルニアに達する長さである。
 ・生産性低下。アメリカの労働生産性は、1948-68年の20年間、年率3.2%で上昇を続けたが、68-73年の5年間の上昇率は、年率1.9%に鈍化し、73-78年の5年間の上昇率は、年率0.7%まで低下し、それ以降の伸び率はマイナスに転じ、1980年現在のそれはマイナス0.6%を示すに至っている。単に労働生産性の量的側面のみならず、労働意欲の低下、労働の質の低下も無視することはできない。
 ・財政欠陥。アメリカの財政赤字は1980年、800億ドルに達し、それは1957年の年間歳出額全体よりも巨額である。
 1981年2月28日発表の「アメリカの再出発-経済回復のためのプログラム」の中で、レ-ガンはいわゆる「レ-ガノミックス」を展開した。レ-ガンは何よりもアメリカ経済低迷の最大原因を政府部門の肥大化にあるとした。そして1984年までに財政の均衡を達成するために、次の4つの政策を提言した。・連邦支出伸び率の抑制、・大幅減税、・連邦政府諸規制の緩和、・適切な金融政策(マネ-・サプライの増加率を実質成長率以下に抑制する金融政策、マネタリズムの厳守)。
 
 このような酷い不況は、アメリカのみならず、西ドイツ、イギリス、フランス、イタリアそして日本も例外ではなかった。1973-82年の約10年間に、主要先進国においては、二回の景気下降局面と、一度の景気回復局面が発見できる。第一次石油ショック後の下降局面と第二次石油ショック後の下降局面の間に景気回復局面が見られ、1978-79年頃ピ-クを描き出しているが、好況感が浸透するのに必要なだけ十分な期間継続しないまま、突如イラン革命後の第二次石油ショックによって切断され、束の間の回復に止まったのだ。
 では不況対策の「レ-ガノミックス」の帰結はどうだったのだろうか。強力なインフレ対策と財政赤字を主因とする資金不足(クラウディング・アウト)は高金利をもたらし、外国資金のアメリカへの流入を誘引したが、それは外貨によるドル需要をもたらし、ドル高を必然化した。ドル高はアメリカの国際競争力を著しく低下させることを意味し、1982年から経常収 支の大幅赤字をもたらした。それがまた外国資金の流入、したがって対外債務の増大となり、1983年より対外純資産を激減させ、1985年、ついに対外純債務国に移行せざるを得なくなったのである。アメリカの財政赤字は外国、すなわち日本からの資金流入によって賄われた。
 アメリカの対外資産・負債残高は、1915年にはじめて資産が負債を超過してから、一貫して純資産残高を続け、1982年には、1470億ドルの最高額を記録している。
しかし、それ以降、経常収支の大幅赤字基調のため、急速に減少し、資産超過額は、1984年末ついにわずか282億ドルに過ぎなくなり、1985年の1177億ドルと史上最高を記録する経常収支の赤字によって、71年間持続した資産超過の状態は崩され、一挙に約1000億ドルもの純債務国に転落したのだ。
 一方、日本の1984年の対外純資産残高は743億ドルであり、282億ドルのアメリカを抜いている。日本がイギリスを抜き、世界最大の純債権国になったのは1987年末のことである。日本が世界一の金持ち国になった!「ジャパン・アズ・ナンバ-・ワン」だ。
 第二次石油ショック後、産業構造の転換が進んだ日本は輸入資源の量が伸びなくなって、輸出だけが伸びるという形になった。そのため1983年からは猛烈に貿易黒字が増えだし、1985年秋からの円高問題につながった。1983年以降の日本の輸出額の増大は、主としてアメリカ向けであったからである。
 1985年1月21日(月)、レ-ガンは二期目の大統領就任の式典を挙行した後、重要な人事を敢行した。ドナルド・リ-ガンを財務長官から大統領首席補佐官のポストに移し、財務長官の後釜には、その時まで大統領首席補佐官であったジェ-ムズ・ベ-カ-が就任した。ドナルド・リ-ガン前財務長官は、一貫してドル高、高金利をアメリカ経済の強さを示すバロメ-タ-と理解していた。彼はメリル・リンチ社の会長ポストに就いていた1971年から85年までの15年間に、メリル・リンチ社の収益を350%近く高めるのに貢献したといわれている。財務長官としての彼の判断では、株高が企業の好成績を示すように、ドル高は世界経済におけるドルへの信認の強さを示し、また高金利は、アメリカにおける予想投資収益率の高さの反映であって、いずれも、強いアメリカ経済のシンボルにほかならなかった。
 ところが新財務長官に就任したジェ-ムズ・ベ-カ-(ベ-カ-・ロヴェット・オフィス創立者の孫)は、円高・ドル安誘導を考えていた。1985年9月22日(日)、ニューヨークのプラザホテル2階「ホワイト・アンド・ゴ-ルドの間」において、米、英、仏、西ドイツそして日本の5ヵ国の蔵相と中央銀行総裁合計10名が緊急に集まり、G5が開催された。これがその後2年余り続いた円高・ドル安誘導のための協調介入の開幕となった。
 
 

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