8月15日と9月2日-「日本人だけが8月15日を『終戦日』」とする謎,各国の思惑で終戦日はこんなにも違う!」-(『東洋経済 ONLINE』2015年08月14日)
日本人だけがしらないといわれる,世界の「終戦記念日」は,こう語られている。
--われわれ日本人の一般常識では,先の戦争の終戦記念日は8月15日と決まっている。とくに今〔2015〕年は戦後70周年ということで,安倍総理の談話や中国が対日戦勝利の軍事パレードを予定しており,ことさら「終戦の日」が強調される年となっている。しかし,ロシア(旧ソ連)でも対日戦勝利は9月,アメリカでも9月となっている。中国が軍事パレードを予定しているのは9月3日。
中国はこの日を「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」としている。これを決めたのが 2014年2月に開催された全国人民代表者会議でのことで,まさに70周年を目前にして正式に決定されたものである。このように日本と敵対国であった周辺国をざっと見渡しても,終戦の日は実際には日本人の常識とは違っているのだ。
では,日本人が終戦の日と信じる8月15日とはなにか。そもそもこの日は「終戦の日」なのか,「敗戦の日」なのか。あくまでも1945年8月15日は天皇が戦争後の日本のあり方を定めたポツダム宣言の受諾を,日本国民と大日本帝国軍人に「玉音放送」というかたちで直接語りかけた日である。武器を置き,敵対行為をやめるように命じたもので,戦闘状態をいったん休止する「休戦宣言」をした日だといえる。
実際に,日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり,そのことは全世界に公表されていた。それをしらなかったのは,ごく一部を除く日本人だけだったといえよう。事実,アメリカでは8月14日に日本が降伏することが報道されていた。その日にトルーマン大統領はポツダム宣言の内容を国民に説明し,日本がそれを受け入れたことを告げ,VJデー(対日戦勝記念日)は9月2日の降伏文書調印を見届けたうえで布告するとしていたのである。
日本の降伏調印式は1945年9月2日,東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号でおこなわれ,その状況はラジオの実況中継で全世界に流された。トルーマン大統領は,ラジオの実況中継後,全国民向けのラジオ放送で演説。その中で9月2日を正式にVJデーとし,第2次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。したがってアメリカの第2次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになる。
註記)http://toyokeizai.net/articles/-/80286
第2次大戦中,日本軍は中国大陸では泥沼化していた対「中国との戦争」もおこなっていた。こちらの戦線はさておいてのつもりなのか,「大東亜戦争」と呼ぶことにした真珠湾奇襲攻撃のあとの戦争過程は,敗戦後になってからは「太平洋戦争」(アメリカ側から押しつけられた呼称だが)と呼ばれてきた。
1931年9月18日に開始された「満州事変」から,1937年7月7日に開始された日中戦争(「支那事変」)につづいて,1941年12月8日からは,日本が英米蘭など諸国も相手にする戦争にまで突入していった。開戦してから半年後には早くもすでに,この戦争の見通しは山場を超えることになっていた。
1941年12月8日における天皇裕仁は,こう描かれてもいた。
「2030,ハワイ空襲の成果につき軍令部総長奏上(B × 2撃沈,B × 4大破,C × 4大破)。本日終日海軍後軍装を召され,天機麗しく拝し奉る。夕刻より警戒警報発令さる。但し御動座なし。」
註記)徳川義寛,聞き書き・解説岩井克己『侍従長の遺言-昭和天皇との50年-』朝日新聞社,1997年,62頁。
なお,Bとは Battleship「戦艦」,Cとは CRUISER「巡洋艦」のこと。
③「負け戦が決まった日:8月15日(玉音放送の日)に靖国神社に参拝にいくという愚行」(『NEW ポストセブン』2016.06.20 11:00)
靖国神社が揺らいでいる。来る2019年に迎える創立150周年に向けて徳川康久宮司が語ったインタビュー記事の発言が,波紋を呼んでいるのだ。記事は共同通信社から配信され,加盟する一部の地方紙(静岡新聞6月9日付,中国新聞6月10日付)に掲載されたのみ徳川康久靖国神社宮司画像だった。ところが,地方でしか読まれないはずの記事が各界の識者の注目を集め,にわかに論争へと発展している。
出所)画像は徳川康久,http://blog.goo.ne.jp/eh2gt72w/e/fff9c8e107bc314d25439ae9e40b135c
徳川宮司は靖国神社が抱える課題や,神社の将来像について語ったのち,「明治維新をめぐる歴史認識について発言していますね」という質問を受けて,みずからの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。
文明開化という言葉があるが,明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということをいっている。江戸時代はハイテクで,エコでもあった。
私は賊軍,官軍ではなく,東軍,西軍といっている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ,価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗をかかげたことで,こちら(幕府軍)が賊軍になった。
一連の発言が波紋を呼んだのは,靖国神社創建の「原点」にかかわるからだ。靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社に遡る。明治維新にさいして,薩摩藩・長州藩中心のあとの「明治政府軍」と徳川家や会津藩が中心の「幕府軍」が争う「戊辰戦争」が勃発。勝利を収めた明治政府軍が “官軍” ,敗北した幕府軍は “賊軍” とされた。
このとき,明治維新を偉業として後世に伝え,近代国家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰霊顕彰するため,明治天皇が創建したのが東京招魂社だ。明治12年に社号が「靖国神社」とあらためられて現在に至る。
それゆえに,「賊軍 vs 官軍ではなく,東軍 vs 西軍」とする発言は,靖国神社の歴史観を揺るがしかねないと受けとめられたのだ。靖国神社にある遊就館に展示されている「錦の御旗」には,「戊辰戦争で官軍の象徴として使用された」との解説があるように,靖国神社の見解はあくまで「明治政府軍=官軍」だ。
発言の背景には,徳川宮司の出自が関係している。徳川宮司は徳川家の末裔であり, “賊軍” の長であった15代将軍・徳川慶喜を曾祖父にもつ。徳川家康を祀った芝東照宮に奉職したのち,靖国神社の宮司になった。「賊軍の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に立ったわけである。
原田伊織表紙 ◆「大村益次郎像を撤去せよ」 --「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。昨〔2015〕年1月に発売された原田伊織氏の『明治維新という過ち-日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト-』(毎日ワンズ刊)がベストセラーになったことを皮切りに,半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社刊,2015年8月)など,明治維新の勝者の立場に立った歴史観を見直す論考が相次いで発表されている。
その流れで徳川宮司の発言が飛び出したことで,騒動が拡大しているのだ。著書で「薩長史観」を鋭く否定した原田氏は徳川宮司に同調するかと思いきや,意外にも「発言は中途半端」と手厳しい。
「明治維新当時,東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを張ったのは明らかに薩長ですが,その責任や是非を問わず,当時ありもしなかった言葉に置きかえて流布するのはおかしい。また,靖国のもつ歴史観を見直さないのは欺瞞です。 “官も賊もない” というならば,まず靖国神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」。
そんな意見が飛び出すほど,今回の発言は衝撃だった。波紋が広がる徳川宮司の発言について靖国神社は,「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社としておこなう考えはなく,今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」と回答した。宮司は 150年間封印されていたパンドラの箱を開けてしまったのか。
註記1)「靖国神社 徳川宮司 『明治維新という過ち』発言の波紋 」『週刊ポスト』2016年7月1日号。
註記2)http://www.news-postseven.com/archives/20160620_422520.html
http://www.news-postseven.com/archives/20160620_422520.html?PAGE=2
靖国神社には,それ以外にも『パンドラの箱』がいくつもある。以上の議論の筋道には「賊軍・官軍」→「東軍・西軍」の二項関係のなかから歴史的に捏造されたといってもいい,『明治維新史からの虚像』が提示されていた。
1945年「8月15日の終戦」だと称されているこの「敗戦の日」を境に,大日本帝国が明治時代にしつらえておき,戦争(督戦)のために利用してきた靖国神社の役目は,ひとまず表層的には終了させられていた。敗戦後も「英霊」(敗戦の憂き目に遭わされていても,戦争犠牲者をそう呼びつづけられる神経は理解しにくいのだが)を,大挙「合祀」しつづけるほかなかった『敗戦も至るまでの事情』などは棚上げしたまま,まるで自然現象のように,いいかえれば台風一過の出来事であったかのように,その〈敗戦体験〉をさらりと水に流している。
賊軍の者たちをけっして合祀してこなかった靖国神社である。その地方の分社に相当するはずの神社が,その「名称を護国神社」と名のっている事実からも判るように,護国の目的がかなわなかった「大東亜・太平洋戦争」での完敗・大敗北はそっちのけにしておいたまま,無慮二百数十万名もの,昭和の戦前・戦中時代の戦没者(戦死者・戦病死者・戦場餓死者など)を合祀していた。
靖国神社という宗教施設は,本来より「戦没者を慰霊する神社」であるけれども,これには「国家が戦争に勝利する目的」を,祭壇に向かい祈祷するのだという「上位の存在理由」が予定されている。つまり,靖国神社の役目は,その本来の上位目的を果たすためにこそ「国家神道式の祈祷・儀式」を執りおこなう宗教施設である。
ところが,敗戦後すでに71年も経っているにもかかわらず,まだ平然と〈勝利のための元国営神社〉の宗教精神を,絶対捨てずに存立しつづけている。この事実をとらえていえば,敗戦後日本における政治社会の,ある意味での《奇観》である。
靖国神社境内の遊就館という戦争記念館は,あたかも大日本帝国が大東亜戦争において大勝利でもしたかとみまがうような展示方針で編成されており,その特色づけをもって脚色・演出されてもいる。だから〈奇観〉だと形容したのである。
この遊就館の〈博物館〉的な特性に対しては『しんぶん赤旗』2005年6月15日の記事,「これが靖国神社『遊就館』の実態だ,徹底ルポ “靖国史観” の現場をゆく,A級戦犯を『神』と展示」が,つぎのごときに「絶妙な把握」をしていた。いわく「血のにおいしない『戦争』- 遊就館を見学するには,想像力が必要です」。
註記)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-06-15/26_01_0.html
つぎの描写がたとえば,戦場において「血のにおいのするような」場面であった。戦艦大和の最期に起きていた艦上・艦内の様子である。遊就館を見学したかぎりでは,とうていうかがえない戦争の実相・惨状である。
吉田満表紙 第一波が去ったあとに,上から甲板をみたらまさに地獄でした。応急員がホースで甲板の血を流していました。負傷者や死体を,衛生兵が走り回って運んでいましたが,なんと,ちぎれた腕や足はぼんぼん海へ投げ捨てているのです。
各治療室は重症者でいっぱいとなった。浴室は臨時の死体収容所となった。左舷の甲板には,胴体からちぎれとんだ手足が散乱し,脚が飛びちり,首のない胴体がよこたわり,あちこちに若者たちの頭部がころがっている。
流れたおびただしい血は甲板をおおい,血液が凝固をはじめ,粘液の被膜となっている。いたるところにどこの部分かわからない肉片が飛びちっている。爆風で木の葉のようになって海上に飛ばされた兵も多かったと聞く。落ちてきた水柱の海水とともに海に流された者も多数にのぼるだろう。
註記)http://ameblo.jp/zipang-analyzing/entry-11501622430.html 参照。
④ 天皇裕仁の聖断と大日本帝国の敗北
大日本帝国は第2次大戦の結果,日本国・日本人・日本民族が望むと望まない〔認めると認めない〕とに拘らず,ともかく敗戦国になっていた。天皇裕仁が1945年8月14日に下した《聖断》というものを少し考えてみたい。つぎに紹介する文章は,中條秀夫「史料紹介―最後の御前会議における昭和天皇御発言全記録」から引用する。ひどく感傷的かつ悲劇的な記述である。
◇ 1945年8月9日 ◇ ……陛下はまず「それならば自分の意見をいおう」と仰せられて「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。その一瞬を皆様,御想像下さいませ。場所は地下10米の地下室,しかも陛下の御前。静寂と申してこれ以上の静寂はございません。
陛下のお言葉の終った瞬間,私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが,これまた書類の上に涙がにじみました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような気がしました。つぎの瞬間はすすり泣きであります。そしてつぎの瞬間は号泣であります。建国二千六百余年日本の始めて敗れた日であります。
◇ 1945年8月14日 ◇ ……14日午前11時一同はお召しによって参内,先般の御前会議の室に集まって陛下の御出席を待ちました。私も出席致しました。今度は全部で23人であります。総理より経過の概要を説明したあと,陸軍大臣,参謀総長,軍令部総長からそれぞれ先方の回答では国体護持について心配である,しかし先方にもう一度たしかめても満足な回答はえられないであろうから,このまま戦争を継続すべきであるという意見を越え涙ともに下って申し上げました。
陛下は総理の方に向かって外に発言するものはないかという意味の御合図があってのち,「皆のものに意見がなければ自分が意見をいわう」と前提せられお言葉がありました。「自分の意見は先日申したのと変りはない,先方の回答もあれで満足してよいと思う」と仰せられました。号泣の声が起りました。
註記)『チャンネルNippon』2014年4月13日,http://www.jpsn.org/report/6267/
昭和20年8月における以上の昭和天皇言行録は,大日本帝国の大元帥としてこの国家体制の敗北を認め,明治維新の時代に譬えれば「賊軍になる気持」を覚悟したと解釈しても間違いはないはずである。
もともと靖国神社は,戦争督戦用に大日本帝国陸海軍が共営する国立の神社であった。敗戦後はGHQの指導を強制されて,民間としての一宗教法人に変身させられた。ところが,この神社の中身=国家神道的な宗教精神は,いまだに敗戦以前のままに凝り固まっていて,なにも変化できていない。敗戦後になってはじめた靖国神社の行事「みたままつり」(7月13日から17日)は,衣の下から鎧がちらつくほかない,この神社による〈民俗神道のまねごと〉である。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
みたままつりポスター2016年分
「敗けた歴史の事実を認められないでいる『かつての〈戦争神社〉』」が,21世紀のいまになってもまだ,まったく根拠などない「戦勝気分」に浸っている。それにくわえて,明治維新の時代における「官軍的な感情」(いいかえれば,東京裁判史観の否定・自虐史観という倒錯した歴史意識)だけを,一方的に横溢させているのだから,これはキチガイ沙汰といっても,なんらおおげさにならない形容:指摘:批判である。
国際政治環境のなかで完全に「賊軍神社」になりかわっていたこの靖国神社の時代錯誤は,敗戦後70年以上が経ってもなお持続している。だからこそ,まったくのキチガイ沙汰だと指弾されておかねばならない。神道界では敗戦後に組織された神社本庁があるが,いまではこの神社本庁が安倍晋三政治の反動化に推進力を与える神道宗教のための統合本部の役割を担っている。そして,この神社本庁においては,その中心的で有力な宗教法人の一神社として盤踞しているのが,まさしく靖国神社なのである。
この神社本庁にとってみれば「敗戦など」という事態は,けっしてありえない出来事であったと無視しておきたいのである。また,それがあったとしても,絶対に認めたくない「歴史の事実」であるかように対面しつづけてきた。しかし,この態度には問題(大きな穴)がないわけではない。
皇室神道の立場・信念に鑑みれば,靖国神社の存在は非常に重要な「皇室関連〔のため〕の神社」とみなされているのだから,天皇家からすれば,この靖国神社に参拝できなくなっている事情が,1978年10月17日の「A級戦犯合祀」によって生じてしまった経緯については,一家を挙げていまもなお異常なこだわりを抱きつづけている。
1975年11月21日を最後の機会とした「天皇裕仁による靖国神社参拝」は,英霊に対して祭祀をおこなうという宗教的な意味に従っていえば,もちろん「慰霊の意味」そのものを否定できない。とはいえ,敗戦時まではとりわけ,この神社における固有の機能であった「戦争督戦神社」性(つまり戦争に勝利する祈願をする国家神道神社であった点)に対する反省など,彼にとっては無縁の感性でありつづけ,問題外であった( ⇒ 戦争に敗北した事実については深く後悔しているものの,その事実を心底から反省しているわけではないのが,天皇裕仁の立場・本音であった)。
靖国神社が21世紀のいまになっても,遊就館の展示方針に正直に反映されてもいるように,あたかも「大日本帝国は敗北など全然していなかった,勝っていたか」のような虚妄(ウソ)を,まかり通らせようとしてきた(もともと通すことができるようなウソではないが)。したがって,あの戦争の時代におけるもろもろの事象に対する反省の姿勢などわずかも備えていない。あるとすれば「戦争に負けてしまって悔しい」「この事実を認めたくない」という事実に関する「自己欺瞞に徹した精神構造・機能」だけである。
以上のような敗戦後史の71年間であった。「敗戦した大日本帝国」は「終戦した日本国」という観念にすり替えられたまま,いうなれば「欺瞞の20世紀後半期から21世紀のいままで」を歩んできた。これが敗戦後史としてのこの日本の姿容そのものである。
安倍第3次再改造内閣において防衛大臣に任命された稲田朋美は,毎年続けてきた終戦記念日の靖国神社参拝を,今〔2016〕年は見送ることにしたというけれども,「敗戦」を「終戦」にいいかえて使いつづけるこの国であるかぎり,なかでもアメリカへの復讐戦をまだ期しているのかもしれない。
「敗戦の日」に靖国神社に参拝にいく行為は,大日本帝国の敗北を認める行為そのものでもあるはずである。ところが,実際に参拝にいく政治家たちの歴史に対する認識は,その逆さまになっているゆえ,コッケイの度合は計りしれないほどに高度である。
しかし,現実を直視しなければなるまい。
敗戦後から今日まで日本の国土は,在日米軍基地に要衝を,つまり首根っこを抑えこまれている国である。靖国神社の合祀されている英霊たちは,かつての鬼畜米英「連合軍」であったアメリカ軍によって,実質においてはこの国がいまだに,占領・統治されている現状をしったら,きっと怒り狂うのではないか? オレたちはいまのような日本国を創るために「御国(天皇陛下)のために尊い命を捧げた」のではない,と。
敗戦した大日本帝国はGHQによる大外科手術をほどこされ,なかでも在日米軍基地という救命措置も付けくわえられて蘇生していた。いまではすっかり,アメリカさん風の占領・統治によくになじんだ「国家体質=対米従属性」を習い性にしている。
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【※ 付 記】 2016年8月15日午前11時30分,公表記事。
<転載終了>
日本人だけがしらないといわれる,世界の「終戦記念日」は,こう語られている。
--われわれ日本人の一般常識では,先の戦争の終戦記念日は8月15日と決まっている。とくに今〔2015〕年は戦後70周年ということで,安倍総理の談話や中国が対日戦勝利の軍事パレードを予定しており,ことさら「終戦の日」が強調される年となっている。しかし,ロシア(旧ソ連)でも対日戦勝利は9月,アメリカでも9月となっている。中国が軍事パレードを予定しているのは9月3日。
中国はこの日を「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」としている。これを決めたのが 2014年2月に開催された全国人民代表者会議でのことで,まさに70周年を目前にして正式に決定されたものである。このように日本と敵対国であった周辺国をざっと見渡しても,終戦の日は実際には日本人の常識とは違っているのだ。
では,日本人が終戦の日と信じる8月15日とはなにか。そもそもこの日は「終戦の日」なのか,「敗戦の日」なのか。あくまでも1945年8月15日は天皇が戦争後の日本のあり方を定めたポツダム宣言の受諾を,日本国民と大日本帝国軍人に「玉音放送」というかたちで直接語りかけた日である。武器を置き,敵対行為をやめるように命じたもので,戦闘状態をいったん休止する「休戦宣言」をした日だといえる。
実際に,日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり,そのことは全世界に公表されていた。それをしらなかったのは,ごく一部を除く日本人だけだったといえよう。事実,アメリカでは8月14日に日本が降伏することが報道されていた。その日にトルーマン大統領はポツダム宣言の内容を国民に説明し,日本がそれを受け入れたことを告げ,VJデー(対日戦勝記念日)は9月2日の降伏文書調印を見届けたうえで布告するとしていたのである。
日本の降伏調印式は1945年9月2日,東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号でおこなわれ,その状況はラジオの実況中継で全世界に流された。トルーマン大統領は,ラジオの実況中継後,全国民向けのラジオ放送で演説。その中で9月2日を正式にVJデーとし,第2次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。したがってアメリカの第2次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになる。
註記)http://toyokeizai.net/articles/-/80286
第2次大戦中,日本軍は中国大陸では泥沼化していた対「中国との戦争」もおこなっていた。こちらの戦線はさておいてのつもりなのか,「大東亜戦争」と呼ぶことにした真珠湾奇襲攻撃のあとの戦争過程は,敗戦後になってからは「太平洋戦争」(アメリカ側から押しつけられた呼称だが)と呼ばれてきた。
1931年9月18日に開始された「満州事変」から,1937年7月7日に開始された日中戦争(「支那事変」)につづいて,1941年12月8日からは,日本が英米蘭など諸国も相手にする戦争にまで突入していった。開戦してから半年後には早くもすでに,この戦争の見通しは山場を超えることになっていた。
1941年12月8日における天皇裕仁は,こう描かれてもいた。
「2030,ハワイ空襲の成果につき軍令部総長奏上(B × 2撃沈,B × 4大破,C × 4大破)。本日終日海軍後軍装を召され,天機麗しく拝し奉る。夕刻より警戒警報発令さる。但し御動座なし。」
註記)徳川義寛,聞き書き・解説岩井克己『侍従長の遺言-昭和天皇との50年-』朝日新聞社,1997年,62頁。
なお,Bとは Battleship「戦艦」,Cとは CRUISER「巡洋艦」のこと。
③「負け戦が決まった日:8月15日(玉音放送の日)に靖国神社に参拝にいくという愚行」(『NEW ポストセブン』2016.06.20 11:00)
靖国神社が揺らいでいる。来る2019年に迎える創立150周年に向けて徳川康久宮司が語ったインタビュー記事の発言が,波紋を呼んでいるのだ。記事は共同通信社から配信され,加盟する一部の地方紙(静岡新聞6月9日付,中国新聞6月10日付)に掲載されたのみ徳川康久靖国神社宮司画像だった。ところが,地方でしか読まれないはずの記事が各界の識者の注目を集め,にわかに論争へと発展している。
出所)画像は徳川康久,http://blog.goo.ne.jp/eh2gt72w/e/fff9c8e107bc314d25439ae9e40b135c
徳川宮司は靖国神社が抱える課題や,神社の将来像について語ったのち,「明治維新をめぐる歴史認識について発言していますね」という質問を受けて,みずからの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。
文明開化という言葉があるが,明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということをいっている。江戸時代はハイテクで,エコでもあった。
私は賊軍,官軍ではなく,東軍,西軍といっている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ,価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗をかかげたことで,こちら(幕府軍)が賊軍になった。
一連の発言が波紋を呼んだのは,靖国神社創建の「原点」にかかわるからだ。靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社に遡る。明治維新にさいして,薩摩藩・長州藩中心のあとの「明治政府軍」と徳川家や会津藩が中心の「幕府軍」が争う「戊辰戦争」が勃発。勝利を収めた明治政府軍が “官軍” ,敗北した幕府軍は “賊軍” とされた。
このとき,明治維新を偉業として後世に伝え,近代国家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰霊顕彰するため,明治天皇が創建したのが東京招魂社だ。明治12年に社号が「靖国神社」とあらためられて現在に至る。
それゆえに,「賊軍 vs 官軍ではなく,東軍 vs 西軍」とする発言は,靖国神社の歴史観を揺るがしかねないと受けとめられたのだ。靖国神社にある遊就館に展示されている「錦の御旗」には,「戊辰戦争で官軍の象徴として使用された」との解説があるように,靖国神社の見解はあくまで「明治政府軍=官軍」だ。
発言の背景には,徳川宮司の出自が関係している。徳川宮司は徳川家の末裔であり, “賊軍” の長であった15代将軍・徳川慶喜を曾祖父にもつ。徳川家康を祀った芝東照宮に奉職したのち,靖国神社の宮司になった。「賊軍の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に立ったわけである。
原田伊織表紙 ◆「大村益次郎像を撤去せよ」 --「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。昨〔2015〕年1月に発売された原田伊織氏の『明治維新という過ち-日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト-』(毎日ワンズ刊)がベストセラーになったことを皮切りに,半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社刊,2015年8月)など,明治維新の勝者の立場に立った歴史観を見直す論考が相次いで発表されている。
その流れで徳川宮司の発言が飛び出したことで,騒動が拡大しているのだ。著書で「薩長史観」を鋭く否定した原田氏は徳川宮司に同調するかと思いきや,意外にも「発言は中途半端」と手厳しい。
「明治維新当時,東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを張ったのは明らかに薩長ですが,その責任や是非を問わず,当時ありもしなかった言葉に置きかえて流布するのはおかしい。また,靖国のもつ歴史観を見直さないのは欺瞞です。 “官も賊もない” というならば,まず靖国神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」。
そんな意見が飛び出すほど,今回の発言は衝撃だった。波紋が広がる徳川宮司の発言について靖国神社は,「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社としておこなう考えはなく,今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」と回答した。宮司は 150年間封印されていたパンドラの箱を開けてしまったのか。
註記1)「靖国神社 徳川宮司 『明治維新という過ち』発言の波紋 」『週刊ポスト』2016年7月1日号。
註記2)http://www.news-postseven.com/archives/20160620_422520.html
http://www.news-postseven.com/archives/20160620_422520.html?PAGE=2
靖国神社には,それ以外にも『パンドラの箱』がいくつもある。以上の議論の筋道には「賊軍・官軍」→「東軍・西軍」の二項関係のなかから歴史的に捏造されたといってもいい,『明治維新史からの虚像』が提示されていた。
1945年「8月15日の終戦」だと称されているこの「敗戦の日」を境に,大日本帝国が明治時代にしつらえておき,戦争(督戦)のために利用してきた靖国神社の役目は,ひとまず表層的には終了させられていた。敗戦後も「英霊」(敗戦の憂き目に遭わされていても,戦争犠牲者をそう呼びつづけられる神経は理解しにくいのだが)を,大挙「合祀」しつづけるほかなかった『敗戦も至るまでの事情』などは棚上げしたまま,まるで自然現象のように,いいかえれば台風一過の出来事であったかのように,その〈敗戦体験〉をさらりと水に流している。
賊軍の者たちをけっして合祀してこなかった靖国神社である。その地方の分社に相当するはずの神社が,その「名称を護国神社」と名のっている事実からも判るように,護国の目的がかなわなかった「大東亜・太平洋戦争」での完敗・大敗北はそっちのけにしておいたまま,無慮二百数十万名もの,昭和の戦前・戦中時代の戦没者(戦死者・戦病死者・戦場餓死者など)を合祀していた。
靖国神社という宗教施設は,本来より「戦没者を慰霊する神社」であるけれども,これには「国家が戦争に勝利する目的」を,祭壇に向かい祈祷するのだという「上位の存在理由」が予定されている。つまり,靖国神社の役目は,その本来の上位目的を果たすためにこそ「国家神道式の祈祷・儀式」を執りおこなう宗教施設である。
ところが,敗戦後すでに71年も経っているにもかかわらず,まだ平然と〈勝利のための元国営神社〉の宗教精神を,絶対捨てずに存立しつづけている。この事実をとらえていえば,敗戦後日本における政治社会の,ある意味での《奇観》である。
靖国神社境内の遊就館という戦争記念館は,あたかも大日本帝国が大東亜戦争において大勝利でもしたかとみまがうような展示方針で編成されており,その特色づけをもって脚色・演出されてもいる。だから〈奇観〉だと形容したのである。
この遊就館の〈博物館〉的な特性に対しては『しんぶん赤旗』2005年6月15日の記事,「これが靖国神社『遊就館』の実態だ,徹底ルポ “靖国史観” の現場をゆく,A級戦犯を『神』と展示」が,つぎのごときに「絶妙な把握」をしていた。いわく「血のにおいしない『戦争』- 遊就館を見学するには,想像力が必要です」。
註記)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-06-15/26_01_0.html
つぎの描写がたとえば,戦場において「血のにおいのするような」場面であった。戦艦大和の最期に起きていた艦上・艦内の様子である。遊就館を見学したかぎりでは,とうていうかがえない戦争の実相・惨状である。
吉田満表紙 第一波が去ったあとに,上から甲板をみたらまさに地獄でした。応急員がホースで甲板の血を流していました。負傷者や死体を,衛生兵が走り回って運んでいましたが,なんと,ちぎれた腕や足はぼんぼん海へ投げ捨てているのです。
各治療室は重症者でいっぱいとなった。浴室は臨時の死体収容所となった。左舷の甲板には,胴体からちぎれとんだ手足が散乱し,脚が飛びちり,首のない胴体がよこたわり,あちこちに若者たちの頭部がころがっている。
流れたおびただしい血は甲板をおおい,血液が凝固をはじめ,粘液の被膜となっている。いたるところにどこの部分かわからない肉片が飛びちっている。爆風で木の葉のようになって海上に飛ばされた兵も多かったと聞く。落ちてきた水柱の海水とともに海に流された者も多数にのぼるだろう。
註記)http://ameblo.jp/zipang-analyzing/entry-11501622430.html 参照。
④ 天皇裕仁の聖断と大日本帝国の敗北
大日本帝国は第2次大戦の結果,日本国・日本人・日本民族が望むと望まない〔認めると認めない〕とに拘らず,ともかく敗戦国になっていた。天皇裕仁が1945年8月14日に下した《聖断》というものを少し考えてみたい。つぎに紹介する文章は,中條秀夫「史料紹介―最後の御前会議における昭和天皇御発言全記録」から引用する。ひどく感傷的かつ悲劇的な記述である。
◇ 1945年8月9日 ◇ ……陛下はまず「それならば自分の意見をいおう」と仰せられて「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。その一瞬を皆様,御想像下さいませ。場所は地下10米の地下室,しかも陛下の御前。静寂と申してこれ以上の静寂はございません。
陛下のお言葉の終った瞬間,私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが,これまた書類の上に涙がにじみました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような気がしました。つぎの瞬間はすすり泣きであります。そしてつぎの瞬間は号泣であります。建国二千六百余年日本の始めて敗れた日であります。
◇ 1945年8月14日 ◇ ……14日午前11時一同はお召しによって参内,先般の御前会議の室に集まって陛下の御出席を待ちました。私も出席致しました。今度は全部で23人であります。総理より経過の概要を説明したあと,陸軍大臣,参謀総長,軍令部総長からそれぞれ先方の回答では国体護持について心配である,しかし先方にもう一度たしかめても満足な回答はえられないであろうから,このまま戦争を継続すべきであるという意見を越え涙ともに下って申し上げました。
陛下は総理の方に向かって外に発言するものはないかという意味の御合図があってのち,「皆のものに意見がなければ自分が意見をいわう」と前提せられお言葉がありました。「自分の意見は先日申したのと変りはない,先方の回答もあれで満足してよいと思う」と仰せられました。号泣の声が起りました。
註記)『チャンネルNippon』2014年4月13日,http://www.jpsn.org/report/6267/
昭和20年8月における以上の昭和天皇言行録は,大日本帝国の大元帥としてこの国家体制の敗北を認め,明治維新の時代に譬えれば「賊軍になる気持」を覚悟したと解釈しても間違いはないはずである。
もともと靖国神社は,戦争督戦用に大日本帝国陸海軍が共営する国立の神社であった。敗戦後はGHQの指導を強制されて,民間としての一宗教法人に変身させられた。ところが,この神社の中身=国家神道的な宗教精神は,いまだに敗戦以前のままに凝り固まっていて,なにも変化できていない。敗戦後になってはじめた靖国神社の行事「みたままつり」(7月13日から17日)は,衣の下から鎧がちらつくほかない,この神社による〈民俗神道のまねごと〉である。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)
みたままつりポスター2016年分
「敗けた歴史の事実を認められないでいる『かつての〈戦争神社〉』」が,21世紀のいまになってもまだ,まったく根拠などない「戦勝気分」に浸っている。それにくわえて,明治維新の時代における「官軍的な感情」(いいかえれば,東京裁判史観の否定・自虐史観という倒錯した歴史意識)だけを,一方的に横溢させているのだから,これはキチガイ沙汰といっても,なんらおおげさにならない形容:指摘:批判である。
国際政治環境のなかで完全に「賊軍神社」になりかわっていたこの靖国神社の時代錯誤は,敗戦後70年以上が経ってもなお持続している。だからこそ,まったくのキチガイ沙汰だと指弾されておかねばならない。神道界では敗戦後に組織された神社本庁があるが,いまではこの神社本庁が安倍晋三政治の反動化に推進力を与える神道宗教のための統合本部の役割を担っている。そして,この神社本庁においては,その中心的で有力な宗教法人の一神社として盤踞しているのが,まさしく靖国神社なのである。
この神社本庁にとってみれば「敗戦など」という事態は,けっしてありえない出来事であったと無視しておきたいのである。また,それがあったとしても,絶対に認めたくない「歴史の事実」であるかように対面しつづけてきた。しかし,この態度には問題(大きな穴)がないわけではない。
皇室神道の立場・信念に鑑みれば,靖国神社の存在は非常に重要な「皇室関連〔のため〕の神社」とみなされているのだから,天皇家からすれば,この靖国神社に参拝できなくなっている事情が,1978年10月17日の「A級戦犯合祀」によって生じてしまった経緯については,一家を挙げていまもなお異常なこだわりを抱きつづけている。
1975年11月21日を最後の機会とした「天皇裕仁による靖国神社参拝」は,英霊に対して祭祀をおこなうという宗教的な意味に従っていえば,もちろん「慰霊の意味」そのものを否定できない。とはいえ,敗戦時まではとりわけ,この神社における固有の機能であった「戦争督戦神社」性(つまり戦争に勝利する祈願をする国家神道神社であった点)に対する反省など,彼にとっては無縁の感性でありつづけ,問題外であった( ⇒ 戦争に敗北した事実については深く後悔しているものの,その事実を心底から反省しているわけではないのが,天皇裕仁の立場・本音であった)。
靖国神社が21世紀のいまになっても,遊就館の展示方針に正直に反映されてもいるように,あたかも「大日本帝国は敗北など全然していなかった,勝っていたか」のような虚妄(ウソ)を,まかり通らせようとしてきた(もともと通すことができるようなウソではないが)。したがって,あの戦争の時代におけるもろもろの事象に対する反省の姿勢などわずかも備えていない。あるとすれば「戦争に負けてしまって悔しい」「この事実を認めたくない」という事実に関する「自己欺瞞に徹した精神構造・機能」だけである。
以上のような敗戦後史の71年間であった。「敗戦した大日本帝国」は「終戦した日本国」という観念にすり替えられたまま,いうなれば「欺瞞の20世紀後半期から21世紀のいままで」を歩んできた。これが敗戦後史としてのこの日本の姿容そのものである。
安倍第3次再改造内閣において防衛大臣に任命された稲田朋美は,毎年続けてきた終戦記念日の靖国神社参拝を,今〔2016〕年は見送ることにしたというけれども,「敗戦」を「終戦」にいいかえて使いつづけるこの国であるかぎり,なかでもアメリカへの復讐戦をまだ期しているのかもしれない。
「敗戦の日」に靖国神社に参拝にいく行為は,大日本帝国の敗北を認める行為そのものでもあるはずである。ところが,実際に参拝にいく政治家たちの歴史に対する認識は,その逆さまになっているゆえ,コッケイの度合は計りしれないほどに高度である。
しかし,現実を直視しなければなるまい。
敗戦後から今日まで日本の国土は,在日米軍基地に要衝を,つまり首根っこを抑えこまれている国である。靖国神社の合祀されている英霊たちは,かつての鬼畜米英「連合軍」であったアメリカ軍によって,実質においてはこの国がいまだに,占領・統治されている現状をしったら,きっと怒り狂うのではないか? オレたちはいまのような日本国を創るために「御国(天皇陛下)のために尊い命を捧げた」のではない,と。
敗戦した大日本帝国はGHQによる大外科手術をほどこされ,なかでも在日米軍基地という救命措置も付けくわえられて蘇生していた。いまではすっかり,アメリカさん風の占領・統治によくになじんだ「国家体質=対米従属性」を習い性にしている。
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【※ 付 記】 2016年8月15日午前11時30分,公表記事。
<転載終了>