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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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昭和天皇が戦争責任の訴追を免れたと同じ構図が、アメリカに協力する安倍総理にも同様に働いている

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現在の日本の政治は、筆者から見ると、民主主義の観点からは、180度正反対の官僚政治の独裁化であることは間違いない。 官僚は国民の福祉向上のために働くのではなく、今も続く密約と米国支配の中で、官僚は自分たちの権益のために狡猾に働く官僚であり、政府を自由に操っているのである。

日米安保条約 : 日本政府・官僚はアメリカの言いなり。日本国民の基本的人権は無視される。アメリカでは市民の権利によって阻止される飛行訓練やオスプレイの訓練なども、日本ではやり放題。日本はアメリカの奴隷。日本全国にある米軍基地、米空軍は日本の空域を最優先使用。オスプレイが日本全国を自由に飛び、又、米軍兵士の犯罪は現行犯でなければ治外法権。そのうち、日本国憲法を改悪して、戦争放棄を取り除き、日本はアメリカの戦争の子分として戦線に加わる日が来る。その結果、防衛費増大、経済悪化、国債の信用力低下、歳入の増加より国債の利払い費の増加が上回ることによる更なる負債の増加、国会議員の利権や官僚体制は温存され、そのため、国民の社会保障費の大幅削減、国民生活の荒廃、日本沈没への道筋は見えている。

戦後70年が経過した2015年に於いても、アメリカ軍の日本における活動によって、日本人の基本的人権が侵害・無視され、日本の司法権がその人権侵害に対して何等関与できず、最高裁は既にアメリカ政府の意向によって左右される存在であり、日本政府は日本国民の民意に基づかず、アメリカ政府の意向に準じた政策を立案するのである。 ここには、国民主権の姿は見られない。
 2015年現在、日本の真の独立は未だに確立しておらず、民主主義政治は似非民主主義政治である。 日本国民全てが、実質的には巧妙に仕組まれたアメリカの占領政策下の隷属状態と言っても過言で無い。 これの元凶は、敗戦直後に昭和天皇が自らの護身と引き換えに互いの利益のために、昭和天皇とアメリカ軍の関係者が狡猾に画策した取引を行い、日本はアメリカが望む限り半永久的な隷属関係を守り、日本全域における占領者であるアメリカ軍による自由な基地の構築及び自由な軍事活動・訓練などが実施できる権利を定めた取極めを結んだと推測されるところにある。

 アメリカ軍は、占領政策が継続する限り、天皇制の継続を希望するのであるから、日本国民が天皇に対して万歳と言って天皇を認めている間は、アメリカ軍の日本における軍事活動が保証されていることを意味するのであると容易に推察されよう。
 2014、2015年の安倍総理は明らかに犯罪者であるが、日本の警察権をコントロール下に置き、昭和天皇が戦争責任の訴追を免れたと同じ構図が、アメリカに協力する安倍総理にも同様に働いているので訴追逃れが罷り通っているのである。
 日本の政財界の面々は、この国家権力による訴追免除などそっちのけで、経済界は金儲けに徹し、政界は政治献金を支援してくれる企業の利益のための政策を制定することに徹しているのである。 また、関係する外務・防衛官僚は、アメリカの支配体制を解消する努力をするわけでもなく、戦争と武器関連、その他これに携わることに拠り得られる恩恵に溺れて、犯罪者を擁護する方向に共謀するのである。 彼らが日本を牛耳り、国民は愚か者であることを否定せずに、彼らが目論む金儲けの風潮に乗せられ、また、彼らは、政治家に都合よい政治がやり易くなるので、国民が政治から離れてアミューズメントなどに興じることを歓迎する。 これが日本の現状である。


少なくとも、やり放題の独裁的な政権が牛耳る日本は、核兵器保有国と実質同じ精神異常の病んだ状態であるから危険なのだ。
原発事故とその後の日本政府や国民の考え方より判断すると、日本の将来を望める状況ではないが、・・・

大日本帝国憲法の意味の無い天皇大権。天皇は陸海軍を統帥するが、軍の暴走を止めない。
  天皇は侵すべからずとする憲法のもと天皇に逆らえない。誰が軍の暴走を止められるのか?
  昭和天皇は連合国による戦争犯罪の訴追免除を受けた。
  これは、昭和天皇に戦争責任が無いということではない。昭和天皇には戦争責任は存在する。
  現在でも継続する日本人の人権が侵害される半永久的な日本の隷属状態を定めた取極め等を画策した昭和天皇

昭和天皇は戦後に、記者から広島や長崎への原爆投下についての感想を尋ねられて、戦争であるから仕方が無いという趣旨の返答をされている。
 天皇は側近の忠告に従い行動するのであるが、終戦間際には、政府、統帥部、天皇は、日本のためというのではなく、”三種の神器の安泰”や”天皇制の護持”について懸念してこれが聖断の判断であった。 広島に原爆が投下されて惨害が国民に及んだにも拘らず、統帥部や天皇は天皇の存続のために戦闘を継続させていたのであった。 アメリカは、日本が無条件降伏を受諾しないので更なる無差別爆撃を重ね、この結果更に多くの被害者が出ることになった。 統帥部、天皇は、ソ連が攻撃してこないことを一方的に楽観的な期待を抱いていたが、8月9日に長崎に原爆が投下された同日にソ連が対日攻撃を開始した事態に接して、楽観的な想定が覆されたことによって初めてポツダム宣言の無条件降伏を受諾したのであった。
 しかし、昭和天皇は、敗戦後は、アメリカ軍との交渉で天皇制を残存させることを巧妙に、したたかに成し遂げたのであった。 それは、無期限の日本の米軍従属体制の足がかりを築いたことになる。 これらの一連の経過こそが元首としての責任に当たると筆者は考える。

 愚かな指導者たちによって開始された無謀で戦略的勝算無き対米戦争であった。 資源が乏しく、産業力がまだ伴わなかった状態での日本の自存自衛ということに対して、戦わずともジリ貧になるのなら、戦って負けても同じだという論拠で戦争を開始して、結局敗戦に至り、日本国民を無駄死に追いやったのである。


連合国によって裁かれた裁判での戦争責任の訴追を免除された昭和天皇は、講和条約締結後のアメリカとの2国間の占領統治政策に全面的に自発的に協力し、日本全土に亘るアメリカの軍事政策を自由に行うことを承認したのであった。 その後の日本は、この政策が基本的に有効であり、そのため、日本国民の人権重視より対米従属を優先させ、アメリカの言いなりに動く政府・官僚に支配されるる国家・日本を形成させることになった。
 連合国として昭和天皇の戦争犯罪に関して訴追免除が与えられたが、日本人として、ここで、昭和天皇の敗戦に関わる責任について考えることにする。



 尚、日本は軍事面の安全保障ばかり強調するが、日本は2011年3月11日の福島第一原発事故以来、東電と政府の無責任さと怠慢のために、放射性物質の処理が全く為されていないと言っても過言でなく、被害地・被害者・避難者対策及び徹底的な放射性物質の放出・流出阻止などに全力で集中的に金を投じて当たっておらず、何等改善されずに放置されたままであり、このまま間違いなく日本は破滅に向かう道を辿っていると言えるでしょう。
 また、飛散・拡散して周辺区域に堆積している放射性物質や汚染物質による国民の被爆からの防護のために、除染により原発事故前の放射能計測値程度までの状況への原状回復作業がほとんど実施されず、原因者の責任として糾弾されないで放置されてしまっている現実が存在しており、東電と政府の許しがたい、この無責任さは犯罪に当たるといえるでしょう。


東西ベルリンの壁も崩壊し、ソ連も崩壊している現在において、21世紀においてもアメリカは強い圧力をかけて種々の分野で日本を単独支配する関係を巧妙に継続させているのです。 更に、一般的に政治に無関心な日本国民からアメリカを敵対視されないように狡猾に、巧妙に、アメリカの軍事体制に組み込まれた日本軍(自衛隊)の人的兵力規模の拡大や武器装備の配備を増加することを求めてきているのです。 アメリカの言いなりに、日本の一般国民の人的・物的なアメリカ軍への協力体制については、既に法制化されている。 その日のために。 これこそ、真に日本の危機です。 日本人が無関心でいる間に、突然振って沸いたように日本が戦争の当事国になっていたということが起こってしまう、まさにその危機にあるのです。

今では現実問題として、アメリカ軍が日本国民の基本的人権を堂々と侵害でき、日本国民が人権侵害されても、主権在民の国家?? であるはずの日本は、日本国民の人権の擁護さえやらない。 日本政府はアメリカ従属の奴隷状態といっても過言ではない。 2013年現在も、実際的に主権がすべて回復していないことは明らかです。 この責任は、自己の保身のみを目論んで、新たな日本国憲法が制定された後においても吉田総理にアメリカとの取引と協定を命じた昭和天皇にあると見ることが出来るであろう。 筆者には昭和天皇は実にしたたかに現実世界を生き抜いたように受け取れる。
 その後生じる種々のこのアメリカの特権意識は、日本の防衛・外務官僚などに浸透し、その後の日本への関与が更に強化されていくのです。 日本はアメリカからの種々の圧力を受ける。 日本の軍事予算の増加、軍事装備の強化及びアメリカの軍事装備の購入要請、自衛隊の規模の拡大、アメリカの軍事活動への協力は、日本国内にとどまらずに、日本国外にまで範囲を広げることを要求する。 日本国憲法を改正して戦争放棄を撤去し、同盟国として軍事も共同で行うことまで要求する。

国の憲法、法律、ルールが、それら本来の意図した規律の内容が、成文の語句が改められていないのに、かってに、時の政府によってなし崩し的に無力化されてしまうならば、最早民主的な政府でなくなった立派な証である。 国民が黙って従っていては、国民自身の人間としての人格を自らが葬り去ってしまっていることになるので、国民が民主的な国を希求するのであれば、必要なら、国民は政権の暴走行為を阻止しなければならないのです。 それが、民主主義の基本であると筆者は考える。

アメリカの核兵器が日本の領土・領海内に貯蔵されていると疑う。 現在も日本全国、島々までアメリカ軍の基地が存在しているから場所には不自由しない。 これまでの、日本政府・官僚の嘘と秘匿及び条約や周辺情勢などを考慮すれば容易に推測できうることであるが

 日本は思慮された戦術も無く、日本の石油の備蓄が枯渇する前にアメリカとの開戦に及んだ。 1940年代、日本は米英圏からの輸入に多くを依存しており、軍需生産を拡大するためには米英圏からの原材料の輸入が必須であったが、それらの国との摩擦が生じたことで物資の確保が困難となり、日本軍は米国と半年か1年間しか戦えないことを想定しており、戦争会議では希望的条件における見込みの作文に基づく主張によるものであって、米国との持久戦をどう戦うかの戦術検討は無かったのである。

 日清戦争及び日露戦争で日本は幸運にも勝利した。 これに気をよくして、ロシアに対峙しながら帝国日本の中央政府の統制や天皇の裁断を得ずに関東軍が満州を占領し、更に日本軍の朝鮮派遣軍も中央政府の統制外で満州に合流する。 これらは言ってみれば謀反以外の何物でもないが、帝国日本政府及び昭和天皇は、兎に角関東軍が勝利したために、統制の秩序についての面子を損なわないように、関東軍の行為を後追いで承認したのである。
 その後の日中戦争で帝国日本は更に占領地の拡大に軍を進める。 帝国日本は日中戦争に確たる目的も無く戦争を行っていたのである。 このとき、近衛内閣は東亜新秩序の建設を掲げるが、これは東南アジアに帝国日本の覇権を拡大させる以外の何ものでもない。 東南アジア諸国も日本の戦争で輸入に頼っている物資が得られなくなり困窮することが明らかであるが、何等対処せずに、帝国日本も物資がないので東南アジアの諸国から”略奪することが戦争の大儀”であったことは明白である。 帝国日本が中国に対して拡大させた戦争状況が、アメリカとの輸出・輸入に頼るアメリカの対日姿勢を悪化させ、アメリカは、日本がアメリカの提案を受け入れないことに対する更なる制裁として在米の日本資産凍結や屑鉄・石油の輸出禁止などの経済制裁を課した。 米国による鉄その他鉱物類、石油類、その他原材料などの禁輸及び米国以外の西洋列国が管理する領地からの資源の入手が困難になることで、日本の産業・経済が直ぐに困窮状態に陥ったのである。
 帝国日本は、インドシナに侵攻するとアメリカとの太平洋戦争が回避不可能になることを覚悟していた。 しかし、この南方域侵攻については、主役となる海軍が対米戦への勝算が見込めないと戦争の回避を希望する一方、中国から北方方面の対ソ連戦のみを守備範囲に捉えていた陸軍は中国からの撤兵を考えない。 そして、陸・海軍の統帥部が一致して戦争を回避する決断を行えば戦争は回避できたのであったが、陸軍の手前、海軍のみが自ら戦争回避を持ち出すことを憚り、結局戦争指導部は本意で無い戦争開始を決断し、それを昭和天皇が裁可してしまう愚かなことをやる。 帝国日本では、御前会議で決定されてしまうと自動的に天皇が裁可されたことになり、大権を有する天皇が異議を挟まない限り、抑制することができない体制であった。 そして、南方域侵攻の開戦は、単純に言ってしまえば、帝国日本の石油の備蓄量と蘭印占領による石油の獲得量によって戦争が継続できる間に、対米戦をやってしまうという決定を行ったに過ぎなかった。

アメリカが本格的に太平洋に戦力を投入すると、圧倒的な軍事力を有するアメリカに圧倒されて、日本軍は太平洋でアメリカの攻撃に撃破される一方であった。 南太平洋の占領諸島の日本軍は補給路を断たれ、食料の供給も無く、武器らしい武器を有さずに、日本兵は戦陣訓で敵に投降することは恥ずべきことで死を持って天皇に尽くせと命じられており、占領諸島で日本人の玉砕に発展した。

ハワイ攻撃を受けてアメリカは、経済援助や武器供与の支援のみ戦争協力し、あくまで中立主義を通していた政策を世論の絶対的な開戦支持のもと覆し、軍備装備の大規模生産を押し進めて対日戦へ発進するのであった。


大日本帝国においては、アメリカとの太平洋戦争突入前(1941/9)に近衛首相から対米戦に対する海軍の見通しを聞かれ、日米戦争の回避を求めていた山本五十六連合艦隊司令長官が、「是非やれと言われれば、初め半年や1年は随分と暴れてご覧に入れる。 しかし、2年、3年となれば確信は持てません。・・・」と答えていたように、

天皇は、アメリカ軍に総力を結集して最後の抵抗を行ってそれなりの打撃を与えてから、天皇にとってよい条件での停戦協定を結ばせたいと希望したと見られる。 その後アメリカ軍は沖縄に上陸し、住民を巻き込んでの戦闘となって沖縄戦でも日本は敗北(1945/6)。 長谷川海軍大将が、国内の兵器廠や部隊を視察(1945/6/12)して、武器の不足や兵員の訓練不足を天皇に報告した。 この後、天皇は一撃和平を断念したと見られる。 その後日本の終戦工作が開始された。 この時期に東大教授南原ほか5人の教授は、アメリカとの直接交渉で皇室の維持のみを条件に無条件降伏を受け終戦後天皇が退位することを提案。

昭和天皇の戦前における在位の時代には、日本の臣民は、神の末裔に崇められた万世一系の天皇の命に背くことが出来ない状況におかれていた。 現人神であって誰も裁けない絶対的な権威が存在したのです。 もし背くなら、不敬罪で処罰されたのです。 この件に関しては日本は北朝鮮などの独裁国家と同じであったと言ってもよいでしょう。

日本は日独伊の三国同盟を結んだが(1940/9)、アメリカや中国との関係でソ連の介入を抑制する目的で、日本はソ連と日ソ不可侵中立条約を締結した(1941/4)(条約は5年間有効、条約を継続しない場合は有効期間の終了する1年前に通告、通告が無い場合は自動継続)。 ドイツがソ連に侵攻したときには、日本はソ連への攻撃に対しては中立を維持させていた。 しかし、ソ連は(1945/4)に日本に中立条約を継続しないことを通告。 このとき、日本は、日ソ中立条約の残存有効期間の1年間はソ連との中立関係は維持されると楽観的に捉えていた。 日本は米英とソ連とを引き離すことを考えるが、駐露佐藤日本大使は米英ソの三巨頭がヤルタ会談を開催しようとしている折、極東のソ連の兵力増強もみられる情勢であり、中立といっても日本のかつての敵国で日本への準敵視が見られるソ連に仲裁を依頼することはもはや問題外と反対したが、これを無視して日本政府はソ連頼みに固執した。 一方、ソ連は、攻撃準備を日本に悟られないように、中立はまだ有効として日本を欺くのであった。 日本はソ連の陰謀に疑いを持たずに、天皇の護持を確保した条件でのアメリカとの和平交渉の斡旋をソ連に依頼するのであった。 

ソ連はアメリカに日本が戦争終結を模索している情報をポツダムでの会談で伝えていたが、米ソは今すぐ日本が降伏されると思惑通りにならないので、米ソは共同で日本の降伏時期を7月中に行われないように引き伸ばす作戦を取る。 アメリカはソ連に日本への回答については意図がわからない旨を回答して延ばす様に求めた。 ソ連は、佐藤大使への回答書簡に、ソ連は日本からの仲介の斡旋依頼に対して、特命近衛特使を派遣する使命が不明であるから派遣を断り、ソ連政府は如何なる回答をなす事も不可能であると回答。 佐藤大使は、ヤルタ会談後の回答であるから米英に伝わっている可能性を政府に伝えたが、廟議で決定しているとして日本政府はソ連に和平の斡旋を継続するのであった。 アメリカでは原子爆弾の作成と爆破実験を計画。 その実験の成功の報がポツダム会談直前のトルーマン大統領に伝えられた。 アメリカは原爆実験の成功後から原爆の製造に要する日数を考慮した8月初旬の完成を目指していたので、アメリカは日本が(1945/8)以前に降伏してしまわないようにする必要があった。 ソ連も当初ドイツ戦が終了してから準備が3ヶ月必要で、参戦が早くとも(1945/8/15)になると見込み、それまでに日本が降伏してしまうことを懸念していた。 アメリカは天候条件を考慮して(8/10)までに日本に投下することを目論んだ。 アメリカは、ソ連の参戦前に原爆を投下することが作戦上必定と捉えていたと推測される。

戦後の日本については、ソ連がアメリカは日本の排他的管理を行っていると非難したが、戦時中に行われた ”カイロ宣言” では領土の戦勝取得を欲せずと決議したが、その後の ”ヤルタ会談” においてアメリカ、イギリスが、ソ連に対してドイツ戦が終了した後にソ連に日本との参戦を打診した際に、このときソ連が参戦の対価として掲げた戦勝獲得条件のひとつである内容項目として、過去にソ連が日本との戦闘で失った領土の返還の他に日本の千島列島が引き渡されることが決められたが、実際の戦争の進行時及び戦後、アメリカが千島列島の獲得を拒絶しなかったこと及びソ連は日本の抵抗をほとんど受けずに極めて最小の戦闘で戦勝の獲得物を得られたことなどから反抗せず、実質アメリカの排他的管理が実現した。 

この頃日本では最高指導者会議を開催し、降伏の際の条件項目を議論していた。 連合国から日本の降伏を促し、日本向けに降伏条件を示すポツダム宣言を発表(1945/7/26)したことに対しては、日本はポツダム宣言を価値あるものと認めないとし、戦争の継続に言及。 これをロイター通信社が日本が拒否したと発表。 アメリカは日本に無条件降伏を要求。 日本は天皇護持を要求。 それに対し、アメリカは通告文章に天皇護持については含めずに、あくまでも無条件降伏を主張した。

そうすれば、日本は拒否するであろうと予見した。 その後、想定どおりにことが運び日本が拒絶した。 アメリカは、日本の拒絶を戦争貫徹の証であり、原爆投下を正当化する根拠が得られたとした。

アメリカは(1945/8/6)に広島に原爆を投下した。 ソ連はアメリカが原爆とは言及せずに新型爆弾の投入を予定していることなどを既に聞かされていたので、新型爆弾は原爆と推測される情報を探っていて、ソ連は参戦を当初の予定(1945/8/15)より急ぎ準備を早めた。 (8/8)にソ連は日本に宣戦布告した。 アメリカは(8/9)に小倉に原爆投下を予定していたが、天候の悪化により長崎に変更して投下した。 この凄まじい被害を受けても、まだ日本の最高指導者会議ではポツダム宣言を受諾せず、国民より天皇の護持に固執した。 (8/9)にソ連が満州国や樺太や北部千島列島から侵攻した。 日本は、(1945/8/9)のソ連参戦を受けて、(8/9)の夜から翌朝まで継続して最高指導者会議を開き、直ちにポツダム宣言を受諾するより道は無いとして受諾することを表明したが、条件として、「ポツダム宣言を受諾するも天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることを了解す・・・」という意味のものであった。 これをスイスやスウェーデンを通じて電報を米支、英ソに送った(「細川日記」より)。  この最高指導者会議が開かれていた最中に長崎の原爆投下の報が入った。 この時でさえも皇室の安泰が議論の中心であった。 重光はソ連が樺太、千島、北海道に侵攻する可能性があるとし、ソ連が日本を占領した場合に皇室維持に対して否定的であることを木戸に話し、天皇に拝謁した。 (8/9)夜から翌(8/10)午前2時20分まで御前会議を開き、天皇の統治大権の確認のみを条件としてポツダム宣言受諾を決定した。 この後閣議を経て、外相が、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含居らざることの了解の下に帝国政府は右宣言を受諾す。 帝国政府は右の了解に誤なく貴国政府がその旨明確なる意思を速やかに表明せられんことを切望す」と発電した。 (8/10)の朝に通信社が短波放送でポツダム宣言受諾を報じたとされる。 また、アメリカの通信社が日本からの降伏受諾の発信を傍受したことをアメリカ政府に確認したが、政府は正式な情報は届いていないと回答したとされる。 アメリカは日本からの降伏受諾の報を待っていたが回答が無いとして、(8/14)までアメリカは爆撃機による日本への集中爆撃を強めた。 結局(8/14)に再度15回目の御前会議が開催され、いわゆる”聖断”により、連合国が主張する天皇や政府の権力がアメリカに従属する条件を日本が受諾することを宣言した。 (8/15)に敗戦による天皇の終戦の詔勅の玉音放送を行った。 日本の軍部は天皇護持を求めることに支障が出ることを恐れ、アメリカやソ連との交戦を行わないように国内外の各部隊に命令したが、ソ連軍が攻撃を止めないため、日本兵は戸惑うことになり更に殺されることになった。 ソ連は、満州北部から進撃し日本人の一般入植者も殺戮し、千島列島北部から進撃し千島列島の日本兵や日本人の住人をも殺戮した。 ソ連兵による暴行、強姦なども行われたことが伝えられており、ソ連兵に捕らえられた日本人の捕虜は、終戦後に長期間日本への帰還措置がとられずに極寒のシベリアに抑留されて強制労働につかされ、また多くの命が失われた。 ソ連は、マッカーサーの指揮下には入らず、その後、ソ連が占領した領土についてはソ連軍の総司令官が決定する事項であると主張してソ連単独の占領統治を実行した。

このときイギリスは、日本については連合国としての占領統治のみ関与するという態度を示していた。 また、アメリカは、他の戦勝国に戦後に太平洋戦争の数々の諸島を信託統治する権利及びアメリカの軍事活動の権利をも認めさせ、その後、ここがアメリカの水爆実験場に使われることになった。
 日本においては、大日本帝国が戦争を始めた張本人である天皇を占領時に象徴天皇としてアメリカによって強制的に憲法に規定され、この件は国民自身による取捨選択の自由度を与えられず、日本の国会は絶対的に承認させられたのであった。 連合国による日本の占領統治が長期間に及ぶ場合には、ソ連や中国などの主張が政策に影響を与えることに繋がるため、アメリカは比較的短期間で連合国による日本の占領統治を終了させ、戦勝国との講和条約の締結に拠り日本の独立を成し遂げることにした。 そして、アメリカは日米の2国間のみの安全保障条約を締結させ、講和条約後の日本における実質的な占領政策を継続させてきているといってもよい。

( (1945/8/12)の午後、天皇は皇族会議を開く。 天皇は決断の理解を皇族に要請する。 朝香宮が国体の護持が出来なければ戦争を継続するかと問うと、天皇はもちろんであると答えざるを得なかった。)(昭和天皇独白録) 


このことを天皇の立場から捉えて考えると次のように推察する。  まず、連合国の占領が終了して連合国の占領軍が撤収すると、日本は軍隊を保有しない状況であるから、日本の国外のみならず国内の種々の勢力の動きが起きるであろう。 戦後の混乱状態はすぐに改善しない予想の中で、貧困層や戦争時に弾圧された者及び帰還兵、戦争で親族を無残に殺された遺族ら、更に新たな秩序を模索する勢力などは日本の特権階級や天皇への強い反発感情が、行動としてこれらに向けられる恐れがある。  日本社会の中で、戦前、戦後、すべての国民が天皇の無謀な判断を受け入れていたわけではない。 あるいは、世界情勢、諸外国のなかで共和制への移行などの影響を受けて同化され、今後皇室・天皇制を受け入れない観念を持つものの中から、日本にも民主化がもたらされ、皇室・天皇に対する排斥運動の大きな勢力が芽生えるであろうことが十分予見され得る。 このため天皇が恐怖を抱き、アメリカに敗戦した直後であるにも拘らず、アメリカが考える日本を太平洋諸島へ共産・社会主義的勢力の影響が波及しないようにするため防共の前線と捉え、且つ、アメリカ本土を守るための太平洋の西部の防衛前線拠点とするために日本を利用すること、その手立てを日本が、主体的に隷属して協力を申し出たことが伺える。 天皇はソ連が日本に駐留することになると、ソ連は天皇について何らかの悪影響を及ぼすと考えて、アングロサクソン族のアメリカが単独駐留を継続することを求めたのである(これについては、下記のマッカーサー元帥と昭和天皇の会見の項目に記載した)。 
 天皇は、講和条約とは別に二国間の協定とすることを提案し、アメリカ軍が日本に駐留して自由に活動が出来る便宜を図れるように、内容について両国からの専門家が協議して作成することになるとした。 これが、旧日米安全保障条約や日米行政協定に結実した。 その後、新日米安全保障条約や日米地位協定に移行したが、表に出ないところはすべて別の取極めなどとして秘密にされた可能性が伺われる。

 このような機密扱いについては、政府の勝手な判断で機密にできる。 まるで北朝鮮や中国並みである。 国家安全保障に関わる極秘事項と指定するだけですべて拒絶できるし、国民の人権など無いに等しくなる。 このような国家権力の行使が可能になってしまうと、国民の人権の扱いや憲法など政府解釈ひとつでどうにでも出来る国家日本となってしまい、民主主義といっても政府の思惑ひとつで戦争への加担も容易にできてしまう仕組みが生まれることになる。 例えば、自衛隊が海外でアメリカ軍と一緒に銃撃戦の実戦をやっていても事実は公表されないし、自衛隊が犯罪をやろうが公表されず隠蔽できてしまう。 本当に恐ろしいことだが大日本帝国時代に後退するかのような平和主義を唱える勢力が支配する国、日本が見えてくる。


旧日米安全保障条約には、”講和条約は日本が集団的安全保障の取極めを結ぶ権利を有することを承認していること、また、国連憲章はすべての国が個別、集団的自衛の権利を有することを承認していること、この権利として、日本が暫定的 【(注意)沖縄メッセージでは、米軍基地と駐留は期間が限定されていない、無期限】 にアメリカが日本国内、周辺に軍隊を維持することを希望する”という趣旨の文章が明記されている。  更に、 ”これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望するとし、米軍は極東の有事に対応できること、米軍による日本の内乱及び騒乱を鎮圧を含めて日本国の安全に寄与するために使用することができること”などを表現し、仮に日本国内での米軍の軍事行動をとる場合でも内政干渉にあたらない正当性を主張しているのです。 尚、日本の再軍備と憲法改正、軍の総指揮は米国の最高指揮官に委ねることを謳うことなど要求するが、条約から除外することになった。
 1951年9月にサンフランシスコで講和会議が開かれ、同時に日米安全保障条約を締結したのであるが、その際に、マッカーサーと天皇の会談の覚書、その他取極めなども一緒に取り交わされていたであろうと筆者は憶測する。 例によって、表に出ない取極めというものである。

 しかし、昭和天皇ひとりの”男子の一言の約束”で済まされる問題ではないのです。 天皇の護身と引き換えに象徴天皇に納まった後も権力を行使して策謀した政策内容によって、その後の日本国民の利益を損ね、国民の人権を蹂躙する特権をアメリカに与えることになったのであるから責任を詫びることが必要であったと、筆者は人間天皇としての人柄に尊敬の念を抱くことは出来ない。

 旧日米安全保障条約は、その後改定されるが、基本は何も変わらず、新たな表現が表面に出るものがあっても、旧の安全保障条約に意図する要の内容は別途の交換文章として引き続き効力を有する形が推測できうる。


 先の戦争、中国・インドシナ・南方戦線においての戦没者は約310万人、そのうちの軍人軍属などの戦没者230万人で換算した餓死者(栄養失調による死)・病死者数は140万人以上推測され(「餓死の実態」よりの数値)、また、荷役のために1941年に動員された馬の頭数は約39万頭という数値があり、1945年までの補給頭数は不明であるがこれを考慮すると更に上回る馬の犠牲があった。

 昭和天皇は自らが開戦を拒否したと仮定したら、これよりも悲惨な内戦が生じていたであろうと回想しているが、このような無駄死に以上の悲惨さは回避できたであろうと筆者は思う。 筆者には到底信じられないことである。 ここでも単純には昭和天皇に従順でない勢力の実態が明らかになって、天皇の絶対的権威が失墜するだけであったと考える。
 そのときに必要なのは、天皇の拒否権云々ではなく、御前会議前の奏上及び御前会議において、上奏内容について、軍部の思慮不足に疑問に感じていたなら、再検討や研究の追加要求を徹底させることではなかっただろうか。 戦争という国民の命を考えるとき、最早、閣議による開戦の決定に対しては天皇の手続き上、天皇の裁決において拒否権が無いとする、手続き面のことを、無謀な戦争に突き進ませて無意味な人為的な惨害を蒙った言い逃れの理由にすることはできないと言及したい。

1945年8月9日に長崎への米軍による原爆投下が実行された数日後に連合国に降伏するのであるが、その際にも、日本は、「ポツダム宣言を受諾するも天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることを了解す・・・」と第三国を経由して連合国に電信文を送っているように、8月14日にそれを受諾するまで、あくまで国体護持を固執し、その受諾を拒否し続けたのであった。
 本来、天皇は国民の人命救済を考えなければならない立場であるが、国民の人命を重んじるのであれば、自らの護持に固執するのではなく、戦況その他諸状況から判断して日本が米国に対戦不可能な状況に陥っていた実態は明らかになっており、ほぼ確定的に敗戦の事実が拒否できないと理解できたこの時点で早急に連合国からの通告の受諾を表明し、連合国と停戦に向けた手続きを進めるべきであった。

 大日本帝国憲法施行の下、敗戦までの昭和天皇は絶対的な権威を有しており、国民は厳格に天皇に従順でなければならないと命令され、天皇を尊敬しない言動を発すること、あるいはそのように受け取られる等だけで、国民は有無を言わされずに処罰されたのであった。 誰も逆らえない、政府閣僚や軍部でさえも逆らえない地位にあったのである。 国民は強制的に天皇を神として崇めるように洗脳され、天皇から見れば、国民は天皇のために命を捧げるべき単なる ”物” のような存在と扱われていたのであろう。 即ち、歴史的な特権階級としての天皇に驕り以上の精神構造の何かが構築されていることは否定できないであろう。
 天皇が8月まで敗戦の受諾を拒み続けることをしなければ、米軍による日本への原爆の投下が可能でなく、原爆による惨害が回避されたのみならず、ソ連による極東地域での日本との対戦への参加ができずに、北方四島の択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島がソ連に占領されることが回避されたであろう。 この結果、大多数の日本兵士がソ連に捕虜にされてシベリアに抑留され、過酷な労役で死亡することが発生しないことになる。 また、8月の敗戦間際の無駄死になど回避できたのである。
 これらを回避できなかったのは、全て天皇の日本国民の命の救済に対する配慮が欠けた結果によるものであり、国民の人命救済の観点より見て天皇の責任が問われることになると筆者は考える。

日本が敗戦を迎えるに及んで、昭和天皇を取り巻く人物たちは、国民よりも天皇護持を掲げた終戦工作を行ったのである。 広島に原爆が投下された報を受けても、昭和天皇は国民についての心配より、取り巻きが国体護持に固執してポツダム宣言を受諾しないとする決定に口出ししない。 ソ連が参戦した事実を知って、この時にやっと終戦のポツダム宣言を受諾することを決断し、終戦を迎えることになった。
 その後、日本は連合国の占領下に置かれ、マッカーサー元帥は真っ先に戦争犯罪者の選出と裁判を実施すること及び日本軍の解体と新たな憲法の制定を命じ、憲法での天皇の位置づけを”天皇大権を剥奪して象徴とする”指示を与えて極東委員会が機能する前に草案の骨格及び原案内容を策定させ、日本の国会で審議させ成立させた。 日本政府は、”象徴天皇制”及び”戦争放棄”・”国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する”との内容の成分憲法を1946年11月3日に公布した。
 終戦直後においては、憲法改正前の元首の昭和天皇とアメリカが占領統治の政策などについて協議していたことは理解できる。 しかし、既に新たな日本国憲法が機能した時点からは、この時点で昭和天皇は国政に携わらないことになっているのであるから、連合国の占領国のひとつであるアメリカは、日本国政府と協議すべきである。 しかし、これを両者が無視をしているのである。 そして、昭和天皇は、もし連合国の占領統治が終焉するときが来れば、日本国の天皇に反対する勢力によって天皇制や皇族の存続が危ぶまれる事態が起きることを懸念していたと推測される中で、アメリカからイギリスやソ連が天皇について厳しい評価をしている情報が日本に与えられていたので、天皇自身を日本国民から守ってもらって天皇の存続を確立させるために昭和天皇が選択した方法は、アングロサクソン族のアメリカに無期限に日本全国に基地を設けて駐留を自主的に願い出ることであったという結論が導かれる。 そして、この巧妙なカラクリは講和条約とは別の日米2国間の協定とし、国連の集団的自衛権に基づくアメリカが日本が要請する駐留を受諾する形式をとった。 そして、この集団的自衛権の下、アメリカ軍が日本国内で軍事活動を行っても内政干渉には当たらないという根拠作りを行い正当化したのであった。 (旧日米安全保障条約 参照)
 天皇の全権の委任状を持って日米安全保障条約に調印したのは吉田総理であるが、この後、行政協定に詳細を定めたのは官僚である。 そして、日本の無期限のアメリカへの隷属化が開始されるようになったのです。 これらの大元の責任は昭和天皇であることはまず間違いないでしょう。




日中戦争時に中国での中国兵の捕虜についての資料が整理されていない現状から想像できることは、日本軍は、本来捕虜として人道的に対応すべきことを行わず、中国捕虜を殺戮てきたのであろう。 日本軍は中国兵を捕虜にする必要を認めていなかった。 仮に存在していたとしても、中国での捕虜収容所は非公式であって、赤十字との関連かどうか不明だが、極わずかに収容された程度と見られる。 日本の赤十字関係については軍の関与が大きく支配し、中国兵の負傷者などの救済は見捨てられていたようだ。 また、戦いながら現地での物資調達を余儀なくされているために、一般住民からの略奪など横行したことが伺え、日本兵による暴行、強姦、殺戮などが常習的に行われていたことも伺える。

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