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Channel: 丹沢最高峰 蛭ケ岳1673回超えを目指して 
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天皇自身、戦争経済でボロ儲けするために、東條たちに命じて太平洋戦争を勃発させたのです。

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昭和天皇が戦争責任から逃れるために企てた工作が存在していた事実に触れた。1946年3月6日、GHQのボナ・フェラーズ准将は米内光正に対して、戦争の全責任を東条英機に負わせるべきだと進言、東京裁判ではまさにそのとおりとなり、天皇が責任追及されることは全くなかった。
これは昭和天皇が戦犯を免れるためのGHQをも巻き込んだ裏工作なのだが、なぜGHQさえも天皇無罪の裏工作に協力的だったのか。

以下、るいネット「対立する天皇家とロックフェラー家【その1】」より引用

天皇家がどれほど巨大な財閥になっていったかについては余り世間に知られてはいませんが、実際のところはロックフェラーに匹敵、もしくはそれ以上の財産を持つに至ったのです。

天皇家が蓄財に味をしめたのは日清戦争のときのことで、清国からの賠償金は3億6525万円であり、そのうち2000万円が皇室の財宝になったとのこと。天皇はこれでさらに図に乗って、その後も次々と戦争を仕掛けていきました。

1945年の終戦時にGHQが皇室財産を発表したときには、「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は、37億2000万円」もあったとのこと。

当時の財閥の、住友吉左衛門が1億1738万円、三井高広は9628万円だったとのことですので、天皇家の財産は「表向き」だけで、財閥トップの資産より30倍も多かったということになります。「表向き」というのは、天皇が敗戦前にほとんどの財産をスイスやアルゼンチンの秘密銀行に隠してしまったからです。

つまり天皇は、ロスチャイルドとグルになって日清、日露、大東亜戦争、太平洋戦争を起こして蓄財の限りを尽くしていたというわけです。

かの太平洋戦争は、天皇が東条英機たちに説得されて戦争をやむなく許可したと学校では教えられますが、それは真実ではありません。天皇自身、戦争経済でボロ儲けするために、東條たちに命じて太平洋戦争を勃発させたのです。東条英機はただ天皇の命令に従ったに過ぎないのです。

(中略)

しかし、そうすると、ここで一つの疑問が出てきます。天皇はなぜロスチャイルドとグルになって戦争を起こしておきながら、敗戦の際、GHQにその財産を没収されそうになったのか、と。

私はこの事実を見て、実は天皇とロックフェラーとが水面下でバチバチと火花を散らし合っているのではないか、と考えるようになりました。



つまり、ロスチャイルドと組んで戦争を起こし、金儲けを企んでいたが、圧倒的軍事力の前にロックフェラーに屈してしまった。明治以降、戦争や奴隷密売(参考)で莫大な財築いた天皇家は、この敗戦で対外的に窮地に立たされた。

敗戦という事実は免れない。しかし天皇への責任追及は何としても回避しなければならない。すでに莫大な資産を有している天皇家の存在は、当然ロックフェラーも知っている。敗戦が色濃くなっていた1945年の6月、昭和天皇はすでに原爆が広島に投下されることをアメリカから知らされていた。

終戦直後の昭和天皇とマッカーサーとの会見は単なるセレモニーで、実は終戦の前に連合国側は天皇家の存続と昭和天皇の生命、財産の保全を決めていたのです。天皇制をうまく利用する方が日本統治上好都合と判断したからです。
1945年(昭和20年)8月15日の正午、昭和天皇自らがラジオで終戦の詔書を奏上(いわゆる玉音放送)、日本の敗戦が確定。無条件降伏し敗戦国となった日本は、連合国により東京裁判で裁かれ、東条英機らA級戦犯が刑死した。



東京裁判では旧帝国軍人らが戦犯として裁かれたが、実はこの戦争の最大の戦犯として連合国側から挙がっていたのは、他ならぬ昭和天皇だった。 「統帥権」が示すように戦時中における天皇の存在が絶大なのは明らかだったからだ。しかし、東京裁判では天皇についての追及は全くなかった。ここには巧みな裏工作が存在していた。今回はそれを紹介したい。





1990年11月7日、各紙は昭和天皇の「独白録」ともいうべき記録がのこされていた事実を一斉に報道し、各テレビ局もこのニュースを大々的に取り上げた。 この記録は、昭和天皇が敗戦直後の1946年3月から4月にかけての時期に、寺崎英成をはじめとした五人の側近らの前で語った内容をそのまま記録した重要史料で「昭和史の超一級資料」と評された。



しかし、事実はそうではない。 この「独白録」が作成された1946年の初頭は、天皇制の存続や天皇の在位そのものが危ぶまれるという、天皇にとっては危機的な状況にあった。つまり天皇の戦犯指名問題である。



当時、国内はともかくとして連合国側には天皇の戦争責任を問う声が強かった。そのため、この「独白録」は「天皇無罪論」を補強するために昭和天皇自身が、その主旨に沿って語ったものと考えられる。 実は、東京裁判では、多くの日本人容疑者が尋問に対して極めて協力的だっただけでなく、日本が戦ったあの戦争をいささかも弁護することく、逆に日本を敗北に導いた戦争責任者として、特定の人物を名指ししていた。そこには明らかに集団としての隠された意図のようなものがあったのだ。



特定の人物とは、東条英機に他ならない。

これは天皇と側近たちの水面下での政治工作と言ってよいだろう。昭和天皇は当初より東条英機を信任していたし、その内閣を強く支持していた。つまり日本が戦争を起こし継続することを支持していたのである。その天皇が裁かれずに東条だけがA級戦犯として刑死したのは、客観的に観ても違和感がある。



ドイツが降伏した直後のこと、昭和天皇は終戦工作の着手を示唆し、ソ連を仲介に和平交渉を開始することが1945年6月22日の御前会議で決定され、近衛文麿が特使として派遣された。その「和平交渉の要綱」には基本方針として「国体の護持」を絶対条件にすること、やむをえない場合には領土は「固有本土をもって満足す」ること、「若干法規の改正、教育の革新」に同意すること、「一時完全なる武装解除に同意する」ことなどが記されていた。



そして日本はポツダム宣言を「国体護持」の一条件付で受諾することになる。 無条件降伏と語られているが、事実はそうではない。 これは「国体護持」のための終戦だったのである。



その裏工作のひとつが米内光正とGHQボナ・フェラーズとのやりとりだ。 1946年3月6日、ボナ・フェラーズ准将は、重臣の米内光政と会見して次のように語った。長文ではあるが、重要な史料であるのでそのまま引用する。



自分は天皇崇拝者ではない。したがって15年20年さき日本に天皇制があろうがあるまいが、また天皇個人としてどうなっておられようが関心は持たない。しかし連合軍の占領について天皇が最善の協力者であることを認めている。現状において占領が継続する間は天皇制も引き続き存続すべきであると思う。 ところが困った事に、連合側の或る国においては天皇でも戦犯者として処罰すべしとの主張が非常に強く、こと「ソ」は其の国策たる全世界の共産主義化の完遂を企図している。したがって日本の天皇制とマッカーサーの存在とが大きな邪魔者になっている。加うるに米においても非アメリカ式思想が当局の相当上の方にも勢力を持つに至って、天皇を戦犯者として挙ぐべきとの主張が相当強い。 右に対する対策としては、天皇が何等罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合である。そのためには近々開始される裁判(東京裁判)が最善の機会と思う。ことに、その裁判において東条(英機)に全責任を負担せしめるようにすることだ。 即ち東条に、次のことを云わせて貰いたい。 「開戦前の御前会議において、たとい陛下が対米戦争に反対せられても、自分は強引に戦争まで持っていく腹を既に決めていた」と。 (新史料からみた『昭和天皇独白録』)



これはGHQも東条らに責任を負わせ、天皇を無罪にするために動いていたことを示す証拠のひとつである。 では、なぜGHQがこの工作に協力的だったのか。 ここに、天皇の本来の姿が見え隠れしている。




米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !?より引用

この時点で天皇の身の保全は確保されていたと言って良い。一方で戦争が終わるや否や、敗戦国のトップである天皇への責任を追及する連合国側の関係者や世論は根強かった。それを強引にねじ伏せる必要があったのだ。それが天皇の「独白録」であり、GHQとの裏工作であり、その結果、日本の戦犯容疑者たちが口裏を合わせたように「東条英機」の名を言ったのだ。



敗戦が確定的になるにつれ、天皇の最大の関心事は、自分が金主として君臨し続けるという一点にあった。「国体護持」はそのためであり、ポツダム宣言の受諾は、それを前提としたものだったことが明らかになってくる。



そして、有名な玉音放送においては、驚くべきことに、その詔書の中に天皇が国民に詫びる言葉はなく、天皇自身の責任について何の言及もなかった。

しかし多くの国民は、難解な詔書の内容を正確には理解できずむしろ、一般国民がはっきりとその内容をつかむことが出来たのは、その後のアナウンサーのニュース解説であった。

この解説では「大御心に副い奉る事もなし得ず、自ら矛を納むるの止むなきに至らしめた民草を御叱りもあらせられず、かえって「朕の一身はいかがあろうとも、これ以上国民が戦火に斃れるを見るに忍びない」と宣わせられ、国民への大慈大愛を垂れさせ給う大御心の有難さ、忝なさに、誰が事故の不忠を省みないものがありましょうか」というかたちで、天皇の「聖断」よる平和の回復という点が、居丈高とも思えるような口調で強調されていたのである。



参考:昭和天皇の終戦史 吉田裕

<転載終了>

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