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深まる秋にはブラームスの音楽がよく似合う。

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秋にはエレーヌ・グリモーのブラームスがよく似合う配信日:2013年10月24日

配信テーマ:クラシック 

©Mat Hennek / DG

 ようやく今年の猛暑が去り、秋色が濃くなってきた。こうした季節、深まる秋にはブラームスの音楽がよく似合う。

 ヨハネス・ブラームスは1833年5月7日、ドイツのハンブルクに生まれた。ブラームス家の住まいはこの港町の場末にある6階建ての貧しいアパートで、狭い部屋に家族全員が寄り添うように暮らしていた。これは1943年の空襲で焼失したため、現存していない。

 ブラームスの父は、町の小さなオーケストラのホルン奏者だった。最終的にはハンブルク・フィルのコントラバス奏者の地位を得るまでになったが、家計は苦しく、ブラームスは子どものころからダンスホールでピアノを弾くアルバイトをしなければならなかった。

 10代のころから作曲を始めたブラームスは、ハンガリーから亡命してきたロマ風の演奏をするヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと知り合い、一緒に演奏旅行に出てハンガリーの民族舞曲の様式を吸収し、それがのちに「ハンガリー舞曲集」となって開花する。

 このころシューマンと出会ったブラームスは、彼の妻クララに密かな思いを抱き、生涯にわたって彼女を愛し続けていく。シューマンが精神病院で悲惨な死を遂げたときはクララの心の支えとなり、6人の子どもを抱えた彼女に援助の手をさしのべた。

 しかし、自由に結婚できる立場になったとき、ブラームスは生来の慎重さと内向さが頭をもたげ、クララと距離を置くようになる。その慎重さは交響曲第1番の作曲にも表れている。ベートーヴェンを深く敬愛していたブラームスは、偉大なベートーヴェンの交響曲を強く意識したため、なかなか交響曲の作曲に踏み切れずにいた。20年という長い歳月をかけて練り上げ、ようやく交響曲第1番を完成させたのは43歳になってからである。

 ピアノ協奏曲もじっくりと練られた作品である。2曲作曲され、第1番は1854年から58年にかけて、第2番は20年後の1878年から81年にかけて書かれている。この2曲は20代なかばのブラームスのロマンあふれる若い情熱を込めた作品、40代の成熟したブラームスが交響曲的な手法を駆使して書き上げた作品と、大きな相違と変遷が感じられる。

 それらをエレーヌ・グリモーがブラームスその人の人生を対比させるように演奏。いま大きな注目を集めているアンドリス・ネルソンの指揮、バイエルン放送交響楽団(第1番)、ウィーン・フィル(第2番)との共演でじっくりと聴かせる。

 グリモーは昔からブラームスがとても心に近いと語っていた。彼女は第1番は以前録音したことがあるが、第2番は初めてである。

 ブラームスは北国育ちゆえか、イタリアに強いあこがれを抱いていた。多くの作品がイタリア旅行から得た印象が色濃く映し出されているが、ピアノ協奏曲第2番も1881年にイタリアを再訪し、大きな心の充足を得たことで完成にこぎつけた。ドイツ的様式とイタリア的感性の混合された美しい曲想を堪能したい。特に第2楽章は、ブラームスが「愛らしいスケルツォ」と呼んだ楽章。4楽章形式の交響曲的な壮大なコンチェルトのなかで、限りない美しさを放っている。グリモーの繊細かつ重厚な響きをたっぷりと味わいたい

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